夜中の会合b

 スリーブカットソーにジーンズ姿の乃愛先生は、剣を向けているレンにまったく動じてない。
「これは、ユリア姫様」乃愛先生が、口元に挟んでいたタバコをプッと地面に捨てた。そして、軽くお辞儀をする。「お初にお目にかかります」
 何が何だか分からなかった。乃愛先生が異世界の人だって言うのか? 待ってくれ、この人はまるで普通にこの世界に溶け込んでいるじゃないか。教育実習生という身分まであるんだぞ?
「レン・ロバイン。あなたのこともレティーラ国から聞いています」
 レンは剣を下ろすことはしなかった。俺は完全に固まったまま、思考停止していた。
「私はレティーラ国から姫を補助しろという命令を受け、ここに来ました。ノア・アメスタシアです」
「そんな馬鹿な! 空間移動魔法が扱えるのは姫様だけのはずだ!」
「私はその理論を解明することに成功しました。その結果がこれであると信じてもらうしかありません」
「待てよ、ノア・アメスタシア……そうか、確か有名な金属細工師だ!」
 その言葉で乃愛先生の顔色が少し変わった。
「ええ、その金属細工師です。それよりも、姫とレン・ロバインに出会えたことは幸運でした」
「この世界で精霊の力を使えば私たちが気づく、という読みか」
 乃愛先生は少し笑って、ベンチを指差した。
「座りましょう。立っての雑談は疲れるだけです。それと、いつまでも剣を向けられるのはあまりいい気分じゃない」
 レンが剣を下ろした。ベンチに行く際のその横顔はまだ猜疑心を持っているようだった。
 乃愛先生が右の端っこ、ユリアが左の端っこ、挟まれるように俺が真ん中、レンだけは座らずに立っている。乃愛先生が俺を見て、またニコッと笑った。俺は笑えないんですが。
「私としては、ヒロトくんが何故ここにいるのかの方が興味ありますが、まぁ後でにしましょう。さて、何から話しましょうか。……そう、これが重要ですね。私がこの世界に来た理由の一つ目からお話しましょう。精霊の力がこの世界に来る原因が分かりました」
 ユリアもレンも顔が強張る。俺はどういう反応していいのか分からなかったので、無表情のままでいることにした。
「ミマエ・ソキウ……つまり、私たちの世界に存在するトリアデント・ドールという組織を知っていますか? この事件の黒幕は彼らです。彼らがこの世界に精霊を送り込んでいる」
 ユリアの顔がさっと青くなった。レンはまだ猜疑心を持っているようだ。
「何故、そんなことを……?」
「この世界が欲しいからですよ、姫。彼らの目的は、この世界ルイレ・ソキウと私たちの世界ミマエ・ソキウの融合です」
「融合?」俺は思わず口を挟んだ。
「ヒロトくんはこの世界の人間だな?」頷いてみせる。「精霊の力は私たちの世界を構成するすべてだ。ゆえに、精霊の力をこちらに送れば次第にこちらと向こうはリンクする。境界が曖昧になる。それがさらに進行すれば、やがて世界は一つになる」
「精霊の力とは――」
「この世界が欲しいだと? 何が目的で? どういう理由で!?」
 俺の言葉を遮って、レンがまくし立てた。
「そこまでは分かりませんね。ただ、世界が一つになった時、間違いなくこの世界も私たちの世界も無事では済まないでしょう。その時は、理解する前に世界が終わりを迎えてるかもしれません。しかし、それに関しては国がすでに対策と練り、行動に移している頃だと思います。さて、そこで私がこの世界に来た理由の二つ目をお話します。これが一番重要だと思っています。そのトリアデント・ドールはこの世界に姫が来たことを警戒して、あるモノを送り込むことに成功しているんです。自分たちが行くことは出来ないが、その代替となるモノを……ホムンクルスです」
「政帝の人工生命体か」
「ええ。ですが、この世界は精霊の力が酷く弱い。そのため、ホムンクルスも凄く弱いのです。この公園でもさきほど二体倒しました」
 俺はすでに疲弊していた。ああ、ついていけないなぁ。
 それでも、ホムンクルスという固有名詞くらいは分かる。錬金術の時代にあった、完全な人間を作るために研究をしていたやつだ。フラスコの中でしか生きられないとかなんとか。名称に意外なほどの接点が存在するな。
「足が速いのが厄介ですが、知能は低く逃げることしかしない。それでも、万が一ということもあります。放っておけば、どんどん増えてしまうでしょう。ああ、でも安心してください。本当に弱いです。この世界にいる巷の中学生でも倒せますよ。問題なのはやはり、その中で知能の高いホムンクルスが出る可能性があるということです。攻撃を学習すれば、それこそ危険だ。だから、出始めを叩く。これしかありません」
 混乱しかけの頭をようやく整理させた俺は、完全に観客気分で三人を見ていた。どういう位置に立てばいいのか益々分からなくなったので、さじを投げたのだ。
 こういう時はしょうがないだろう?
「精霊の力を送り返すのは……」
「国はトリアデント・ドールを追い詰めているはずです。時間はあります。ホムンクルスを叩くことだけに集中しましょう」
 そう言ったあとで、何故か気になるのか俺のネックレスにまた視線を向けた。
「ちょっと失礼」
 ネックレスを軽く持ち上げる。ほぼ同時に乃愛先生が笑った。
「やっぱり、これはアーティファクトだ。間違いない。しかも、特一級レベルの」
「アーティファクト?」
「私たちの世界に存在する金属細工師……まぁ私のことだ。金属細工師が生業としているのは、物体にその一つの道筋を作ることなんだ。もっと簡単に言うとアーティファクトを媒体にして魔法を使うこと。安定していて、多少力は強くなるが、画一的な能力の使用法になる。だが、これはそんなもんじゃない。姫……いや、レン触ってみてくれ」
 レンは眉をひそめてから、恐る恐るといった具合に手を伸ばしてきた。触った瞬間、顔色が変わり、すぐに手を引っ込める。
「何だこれは……」
 姫も気になったのか、手を伸ばしてくる。反応はレンと同じだった。初めてユリアとレンに出会った頃を思い出した。茶番だ。
「凄いだろう? オーバーテクノロジーと言っていいな、これは。ヒロトくんにはよく分からない話だろうな……どこで手に入れた?」
「これは……親父の形見です。随分昔からあったようで」
 このアクセサリーは俺から見る分にも変なところがあった。どこかに置き忘れた時もいつの間にか戻っていたし、落とした時もすぐに見つかる。そして、錆びない。普段、特別意識したことはなかったが……これに一体何の力が?
「君には分からないかもしれないが、それは精霊と直接繋がっている。しかも、自分の能力を問わずに好きなだけ力が引き出せる。考えられないほどの巨大な力がね。やろうと思えば、この世界の……そうだな、三分の一を崩壊させることぐらい――もっとかもしれない。とにかく、途方もない力が引き出せる。間違いなく最強のアーティファクトだ」
 核爆弾背負ってるようなものか?
「これ、凄く怖いです。あんまり触りたくない……」
「姫、そこまで怖がる必要はありませんよ。それに仮説ですが、これを使えるのは主人である……ヒロトくん、君だけだろう」
「世界の三分の一を崩壊に導きたくはありませんね」
 それで乃愛先生が声に出して笑った。
「重大な話だと気づいていておどけてるのか、丸っきり信じてないのか、君はよく分からないな。では、ちょっとやってみせよう」
 また、ネックレス――乃愛先生はヘルメスの杖と呼んでいた――に手を伸ばし、ちょっと目を閉じた。ほんの数秒程度ですぐに離す。
「やはりな。私では魔法効果が現れない。今度はヒロトくんが持って見てくれ」
 言われた通りに持ってみる。途端にイメージが頭の中になだれ込んできた。まるで目の前で見ているような錯覚に陥る。このイメージが現実に現れるとでも? まさか、冗談だろう?
 どうやって発動させるか、すぐに理解した。目の前にたった一つしかないボタンが置かれていたら、誰だってわかる。それが感覚での理解に変わっているというだけの話だった。
 なるべく広いところを見定めると、その感覚のボタンを押した。
 十メートルほどの場所で始めは小さな光の点が空中に浮いていた。だが、本当に一瞬のうちに膨大に広がり、公園を明るく照らす。それは火の玉だった。半径が大人一人分の大きさのソレは、強烈な熱風を回りに発生させていた。公園内に数人がいることも確認できるほど、光輝き、燃え盛り、熱で周りの景色がゆがむ。
 自分が燃えているような気分になっても、あっけに取られたまま、俺は火の玉を見ていた。神々しさすら感じる。レンがユリアに覆いかぶさるのが見えた。乃愛先生は楽しそうにそれを見ていた。やがて、それは急速に縮まり、消えた。
 初めてユリアの台風を見せられた時を思い出したが、あれよりもよほど強烈だった。
 これが、魔法か。
「どうだ? 全体の一パーセントの力も出していないのにこれだぞ? 悪魔的な力だ。この国を一瞬で地獄絵図に変えることだって出来るぞ」
 そんなことを言いながら笑う乃愛先生は狂気にしか見えなかった。
 レンはユリアを庇うようにしてそのまま長いこと動かなかった。俺が肩を叩いたことでようやくユリアから離れる。
「ありえない……この世界に存在する精霊の力を遥かに超えているのに。しかも、あの安定力を数秒で発動……本当に信じられない」
「だから、精霊と直接繋がっているんだよ。ルイレもミマエも関係ない。使いたい時に使いたいだけ使うことが出来る。ただし、ヒロトくんが積極的に使うことは出来ないよ。この世界の人間は精霊の力を感じることが出来ないからな。つまり、私たちのような異界の人間の補助を得て、初めて使えるんだ」
 しかし、何故こんなものがこの世界で、しかも何で俺が持っているんだ。俺の立ち位置は観客じゃなかったのか?
「それなら、速攻には向かないな」レンが少し興奮気味で言った。
「私もそう思う。弾を補充するようにセットしなきゃいけない。二段階必要な上に二人いないとヘルメスの杖は発動しない。しかも、どんな魔法を弾として込めるかは魔法使い次第。発動させるかさせないかは、本人次第だ。少し面倒だが、まぁ幸運なことにいい人が主人なようだし、上手く使えば問題ないだろう」
 俺がいい人に見えますか。嘲るように笑ってみせた。
「さて、そろそろ私の問いにも答えてもらおうか。本来なら場違いであろうヒロトくんと姫とレンの関係は?」
 俺は要点だけを話し始めた。朝、光と共に玄関前に来たこと、客間をめちゃくちゃにすることで俺の信用を取ったこと、それから居候させることにしたこと。話しちまえば簡単だ。
「なるほど、それで今は一緒に暮らしているわけか」乃愛先生が何か考え込むように手で顎を支える。「いい人に拾われたな」
 はい、とユリアがはっきりした声で言った。
「考えうる限りで一番最高の展開だろう」そう言ったあとで、ほとんど聞こえないくらいの声で「私もお前に拾われたかったな」と呟いた。
 それで俺も逆に質問してみることにした。
「そう、それですよ。乃愛先生は異世界の住人なんでしょう? 何故、身分があるんですか。というか、どこに住んでるんですか」
「ああ、調べようと思えば私の戸籍も何もありはしないよ。この国の素人探偵だってちょっと調べれば私が身分詐称していることに気づけるさ。住んでるところはこの先のエリーゼというマンションだ。夜中にふらふらしているところを男に拾われた。馬鹿過ぎて利用するのには事欠かない」
「答えになってないですけど……」
 乃愛先生はちょっと笑うとタバコを一本引き抜いて口にくわえた。火はつけない。
「世間一般で言われる――私たちの世界の話だが――誘導や錯覚というものがある。相手を操るために使う初歩の魔法だな。この世界でなら催眠術と言っていいかもしれない」
 俺はユリアとレンを見た。反応を見る限り、本当にあるらしい。
「それを使って、あの学園の校長やらに嘘の情報を信じ込ませた。この世界の学問には少し疎いが……心理学でプラシーボ効果があるだろう? つまり、思い込みだ。私はそれで相手に強烈な思い込みをさせることが出来る。この能力を錯覚と呼んでる。しかし、この世界の住人はお人よしが多いな。私たちの世界ではこうはいかない。所詮、初歩の魔法だ。無能で単細胞な人間にしか通用しない。その点、お前は安心だな、ヒロトくん」
 それはどうかな……。
 しかし、魔法というのが益々良く分からなくなってきた。
 次々とおかしな話が続くと、どこから考えればいいのか分からなくなって混乱する。俺の脳にゃそれを処理するようなキャパはねぇよ、とよっぽど言ってやりたかった。
 黒幕のトリアデント・ドール。この世界に召還されるホムンクルス。異世界の住人にとっては悪魔的な力を持つが、この世界の住人にはほとんど意味のないヘルメスの杖。オーケイ、今日は眠れそうにない。
「それにしても、乃愛先生はこの世界に溶け込みすぎていませんか? そういえば、向こうの世界にも化学はあるんですか? ちょっと待ってください……何故学校に来ることにしたんですか?」
「いっぺんに質問しないでくれ。私は頭が悪い」
 嘘つけ。
「まず、私がこの世界に溶け込んでいるように見えるのだな? それは最高の褒め言葉だ。一週間ばかりこの世界の図書館に篭って色々勉強したからな。次の質問だ。化学があるか、という話だがそんなものはない。私が勉強しながら生徒たちに教えている。結構毎日辛いんだぞ?」
 ああ、だからあんなに授業中欠伸とかするのか。疲れが後を引いてるんだろう。
「最後に、何故学校に来ることにしたか。それは実験室のある場所が欲しかったからだ。色々遊ぶには事欠かないだろう? 単純に化学が、好きなんだ」
 乃愛先生が火のついてないタバコをくわえながら、悪戯っぽい本日二度目の満面の笑みを見せてきた。思わず俺も笑みを返してしまうくらいに、それは魅力的に見えた。

「脱線しすぎてしまったな。悪かった。話をホムンクルスに戻そう。私としては、君たちにホムンクルス退治をして欲しいと思っているんだ」
「ホムンクルス退治?」
「こう見えても私は学園のことで色々大変なんだ。さすがにすべてを対処しきれない。歳だから身体も元気じゃないしな」
 そこでクスクス笑った。
「ヘルメスの杖もある。それほど大した作業にはならないだろう。どこに出現するかは分からないが、おおよその時間帯だけは見当がついた。夜中の十一時から三時頃にかけてだ。大体二匹から三匹ってところか。昼間じゃないのは不幸中の幸いか」
「それはほぼ確実か?」
 レンが腕を組みながら問う。
「今までの出現パターンからはじき出した結果だ。いつまで経っても『おおよそ』の域は出ないよ。昼間の時間帯に出現しているのを見逃しているだけかもしれないからな。それはそうと、出現場所が分からないと言ってもそう遠くで召還されるとは思えない。トリアデント・ドールは姫を殺したいのに、イギリス辺りで召還したら意味がない。ある程度の把握は出来てるのだろう。向こうがホムンクルスが弱体化していることに気づいているかは微妙な問題だが、レティーラ国がトリアデント・ドールを攻撃すれば奴らもホムンクルスどころじゃないだろう。そんなに長くなるとは思えない。そして、晴れてすべてが終わったら、意気揚々と元の世界に帰りましょう」
「帰れるんですか!」
 ユリアが身を乗り出すように乃愛先生に詰め寄った。
「ええ、帰れますとも。正直、最初は帰れないことを覚悟してましたが、ここにはヘルメスの杖がある。いくらでも引き出せるのだから、三人帰るくらい問題ないですよ」
 そうか、という顔をユリアもレンもした。帰れる可能性が……いや、ほぼ確定なほどにある。
「ヒロトくんが意地悪じゃなければ」
「女の子を泣かせる趣味はありませんよ」
 ほら、というように乃愛先生が手を泳がせた。
「帰れる……帰れるんですね。良かった」
 レンだけは何の感想も漏らさなかった。ただ、無表情に乃愛先生を見続けている。
「それで、そのホムンクルスとやらはどんな感じなんですか?」
「どんな感じか? そうだな……変態っぽいな」
 変態と聞いて、何故かおっさんが裸でダンスする映像が頭の中に流れた。
「見れば一発で分かると思う。人間の形をした猿かな。いや、蜘蛛っぽいというべきかな。まぁこの世界じゃ絶対にありえない種類の生き物であることは間違いない。とにかく四脚で動いてる」
 どんなホムンクルスなんだろうか。
「人工生命体は精霊の力の寄せ集めだ。我々と違う点は一つ。寄せ集めで出来たまがい物ということだけ。不安定だから、核を壊せば霧散する。処理には困らない。まぁちょっとしたゲーム感覚でいいんじゃないか? ただし、絶対に壊してくれ。知能は虫とどっこいどっこいだろうが、それがいつまで続くかは分からない。猿並みの知能を持つ可能性も否定できないからな」
 そこまで言ってから、ようやく口にくわえたタバコにライターで火をつけた。紫煙がゆらゆらと上空に向かって伸びる。
「お話はこれで大体終わったと思うのだが、どうだろう?」
 俺はしばらく色々と考えをめぐらせていた。
 物事には色々な要素が絡まっている。その中で、俺はどんな要素としてここにいるのだろうか。嫌な気持ち悪さだけが残る。特にヘルメスの杖の存在がそれを助長させている。
 いいじゃないか。居候を匿う主人として、ピンとこない世界の崩壊を止めるという二人の異世界人を片手間で手助けする役回りとして、達観してりゃいい。流れにまかせりゃいいんだ。自分の知的満足のために疑問を口にしていればいいんだ。ちょっと非日常を楽しめばいいんだ。本来なら、それでいいだろう?
「一つだけ質問していいですか」
「何だ? ヒロトくん」
「俺がこうしているのは、偶然なんですかね」
 初め、乃愛先生は俺の発言の意図が読めないようだった。ぽかんとした顔で俺を見ていた。ユリアもレンも、同じように俺の発言が意味不明に感じられたみたいだ。
 どうせ、大した答えが得られるとは思っていない。
 タバコが半分くらい無くなるまで思案した後で、乃愛先生がようやく口を開く。
「まぁ、偶然――だろうね。きっと、ほとんど」
 そんなわけないだろう。乃愛先生、あなたが教えてくれたんですよ?
 俺は今すぐ大声で笑いたい気分だった。
 これだけの事が起きて、これだけの話が挙がっていて、物凄い力を持ったヘルメスの杖というものを俺が持っている時点で、そんな単純な話に出来るはずがない。こんなにも早く、自分が当事者であることを知るとは思わなかった。しかも、多分、もう無視できない場所にいる。
 ユリアとレンがここにいるのも、乃愛先生がこの学園に来ることになったのも、ホムンクルスがこの周辺に召還されるのも、一つとして偶然なんかない。確定とまでは言えないが俺の考えでは、そうなる。
 しかし、それを完璧に推理するには材料が足りなすぎる。どうも乃愛先生は俺が知りたいことを多少は知っているような気がした。
 それにしてもヘルメスの杖というのは、一体何なのだろうか。


 その日、乃愛先生と別れてから、俺はユリアにもレンにも一言も口を聞かずに自分の考えに没頭していた。帰ってからの美羽と美優による質問攻撃も上の空で返答していたため、すぐにその矛先はユリアやレンに向かう。色々決まったら、俺の口から話してやろうとは思っている。
 さっきまでは単なる銀のアクセサリーだと思っていたネックレス。今は酷く別の物に感じられる。考えてる間中、ずっと胸元で弄っていたが、どこかで受け入れている自分に気づいて夜中の三時ごろには意識的に手を離していた。
 最初は自分の部屋に閉じこもったが、四人が寝静まったのを見計らって、リビングに降りていた。明かりはつけない。冷蔵庫から500ミリペットボトルの水を取り出すと半分ぐらいまで一気に飲み干した。その後、ソファにどかっと座り、ゆっくりと長い長い息を吐いた。
 眠くはない。それ以上に、答えの出ない疑問が頭を占めていたから。特に二人に始めて会った時のことを考えていた。
 俺はユリアとレンが来た時は自分がただの観客だと思っていた。実際は、あの瞬間から俺は知らず知らずのうちに舞台に上がっていたんだ。ヘルメスの杖を持っているせいで。
 魔法だ。魔法。ここまで来ても、まだ異世界の存在を疑っている自分がいる。
 薄っすら暗いリビングは、今の気分に合っているような気がした。猫の鳴き声が時折聞こえ、ぼんやりとした時間の流れなのに気がつくと何十分も経っている。まるでそこだけ切り取られたように。そして、夜明けを待つ。
 それにしても腑に落ちないことがある。昨晩いきなり出てきた乃愛先生は、いきなりユリアの不安を取っ払ってしまった。もう大丈夫ですよ、心配いりませんよ、すぐに元の世界に帰れますよ、という具合に。これが本当なら、確かに歓迎するべき話なんだろうな。だが、どう考えても出来すぎている気がする。先が見えない俺にはこのまま流れに任せるしかないのだろうか。
 堂々巡りを繰り返す俺は、頭がグツグツと煮詰まっている気分になった。窓の外の空が明るくなり始め、小鳥の囀りと共に朝がやってくる。しばらくすると、いつも朝の早い美優が眠そうにリビングにやって来た。俺を見つけると心底驚いたような顔をした。
「お、おはようございます……」
「うん、おはよう。……悪い、美優、コーヒー淹れてくれないか?」
 ソファ前のテーブルに淹れてきたコーヒーを置くときも美優は何も言わないでいてくれた。俺は礼を言い、「もうちょっと待ってくれな」と言った。
「俺も結構いっぱいいっぱいなんだ」
 美優がうん、という風に頷いて笑う。
 それから、レン、美羽、ユリアの順で起きてきては俺を見て驚く。
 朝早い俺に対する美羽の皮肉も、「ピンクのカッパに追いかけられた夢を見たせいだな」と返したが、正直、全然面白くない返しだった。普段なら、もう少し上手い返しを――うん、上手いはず。
 朝食を食べ終え、美羽や美優よりも先に家を出る。ドアの前では、すでに陽菜が朝っぱらからリンボーダンスを踊るようなテンションで待っていた。
「おっす! あと十五分くらいは待たされると思ってたよー。ピンクのカッパに追いかけられる夢でも見た?」
「言っとくけど、それ面白くないぞ」
 陽菜はテンションガタ落ち状態の俺の腕を掴み、引っ張った。
「いやぁ、久しぶりだね、一緒に登校なんて。……と、目の下にクマがあるよ。今日が楽しみで眠れなかった?」
 遠足前にしたガキじゃないんだから……。
「そんな感じ。そのせいで今はテンション低いですわ」
「いっつも、テンション低いと思うよ? ヒロ君がテンション高い時は、凄く饒舌になるから分かるもん。特にキレた時はクロ君に負けないほど演説を始めるよ」
「そうだっけ?」
 全然気づかなかった。
「小学生の時に佐々木先生が陽菜に暴言を吐いた時とか、中学生の時に陽菜がケンカに巻き込まれた時とか、駅で陽菜が集団の酔っ払いにからまれた時とか」
「全部お前だな」
 そういえば、そんな事もあったような。
「そりゃー、美羽ちゃんや美優ちゃんの話も知らないわけじゃないけど。ヒロ君あんまり喋りたがらないから。そんで自分が厄介なことに巻き込まれても、誰にも言わないもんね。平然としてるように見えるけど、陽菜には分かるよ」
 陽菜が真剣な表情で俺をじっと見て、それから八重歯を見せる笑顔を作った。俺はどう返せばいいのか分からず視線をそらすことしか出来なかった。
 俺の周りには頭が上がらない奴が多すぎる。陽菜に貴俊に美優に、それに美羽もだ。自分のへたれっぷりに腹が立つ。結局、一人じゃ足元もおぼつかないじゃないか。
「ほらぁ! また考え込む! あんまり悩みすぎると足が動かなくなるよ。背中を押して欲しいなら、いつでも押してあげよう。ほらっ」
 そう言って、歩きながらポンと俺の背中を押してみせた。
 俺はそこでようやく笑ってみせた。
「そうだな。いい加減、俺も抵抗するのは止めるよ。でも、何も考えないのは考えモンだと思うんだが?」
 そういって笑顔を作って見せた。少しは楽しまないと割に合わない。これから何が起きようがそろそろ驚くのも止めだ。俺がどっかの王様だって言われたって受け入れられる気がしてきたぐらいだから。
「ちっと元気出たかね。そりゃあよかった。そろそろピエロの格好で大玉の上でダンスしなきゃいけないかな? って思ってたとこだから、安心した」
「それじゃあ、それは今度俺がやってやろう。きっと面白すぎてポップコーンを口に運ぶ手が止まるぜ」
 にゃはは、と笑った陽菜は俺の肩に腕を回してきた。まるで男友達と接する気安さを陽菜は持っていて、社交性は抜群で男女共に人気がある。
 しかし、そういえば陽菜が誰かと付き合うというような話は聞いたことがない。結構モテるというのは貴俊から聞いたことがあるが……もしかしたら、誰か好きな奴がいるけど手を出せないのかもしれない。こいつは社交的なくせにそういうところは奥手だからなぁ。
 学園では、俺が猛烈な眠気と戦っている以外には、大したことはなかった。
 貴俊はいつも通りのテンションでくだらない話をふっかけてくるし、誘われた賭けトランプじゃ五百円ほど勝ってやった。トータルで二百円ほどプラスだ。乃愛先生は相変わらず眠そうにダルそうに授業してたし、他の授業も政経でくだらない論述をさせられた事以外は退屈なだけですんだ。
 補習の時間になって、途端に眠気が覚めたのはきっと俺が現金だからだ。
 乃愛先生は教室に入ってくるなり俺の顔を見て、「授業にならなそう」と笑った。
「二人だから出来る芸当ね。補習食らって良かったじゃない」
「そうですね。アリに感謝しましょう」
 教壇に立つと、パンと手を叩いた。
「じゃあ、質問を受け付けます」
「まず、どうしても理解できないのは、精霊の存在です。それは力と言っていいんですか?」
 ふむ、というように乃愛先生が腕を組んで考える。俺は急かさず待った。
「ある意味では間違いではない。精霊の力と言うし、それを借りて魔法を扱うのだから」
「ミマエ・ソキウは精霊の力で出来ていると言ってましたね? ということは、そこは魔法の塊みたいなものですか?」
「じゃあ、逆に聞こう。この世界にいるヒロトくんは何で出来ている?」
「細胞……いや、遺伝子?」
「聞き方を変えよう。この世界は何で出来ている?」
「物質かな」
 乃愛先生が首を振って見せた。
「ある意味では正解だ。でも、本質的な正解とは言えない。なぜなら、それ自体には本来何もないはずだからだ。本来ならば」
 俺は乃愛先生の考えていることが分からず、次の言葉を待った。
「法則だよ。万有引力の法則、質量保存の法則、色々ある。その法則が寄り集まった結果が君らであり、私でもある。たとえばだ、指先一本動かすことにも何かしらの法則の中だ。法則の外で我々は動くことが出来ない」
「ということは、精霊というのは法則?」
「まったくもってその通り。精霊の力はその世界の法則だ。この世界の物理法則を「精霊」と呼んでるようなもの。意思を持つ精霊がいるわけじゃない。ただ、この世界の物理法則と違う点は、個人での接触が容易であること。物理法則で支配されたこの世界は、その法則を見つけることで何らかの力を手に入れる。精霊法則で支配されている私たちの世界は、その精霊の扱い方を理解することで好きなように力を引き出せる」
 乃愛先生が一旦切って俺の反応を見た。その時、俺がどういう顔をしていたかは分からない。
 同時に、前にユリアが言っていたことを思い出した。――あんな人数で移動できるバスは凄いと。
「そのせいで、精霊法則では個々の能力に依存する……」
「そうだ。物理法則では、その法則に則った『道具』を使う。精霊法則では、その法則に則って『魔法』を使う。精霊法則では、その力は本来自分自身のために使うもので、不特定多数に対して効果を得られるものは少ない。ただし、即効性もあり応用範囲が広い。反面、物理法則は応用範囲が狭いが一定の力があり、不特定多数の人間でも扱える『道具』を作ることが出来る。どちらが優れているとかは言えないな。便利さで言えばこの世界だと個人的には思ってるが」
「俺にも魔法は使えますか?」
 前々から思っていた疑問を口にしてみた。
「無理だ。たとえ私たちの世界、ミマエ・ソキウに来たとしても使えるとは思えない。精霊を感じることが出来ないから。まぁそこらへんは実験して見ないと完全には分からないがね。私たちの世界では、恋人と抱き合う気安さで精霊を感じることが出来る。もちろん、自分の周りだけで、大雑把なものだがな。城の精霊観測班くらいになるとかなり広く、精度高く知ることも出来る」
「……アーティファクトは?」
「ヘルメスの杖のような溜め込み型は結構稀なんだ。大体は即時反映型だからね。使えるものもあると言っておこう」
 眠気は完全にぶっ飛んでいた。俺は焦点が合わないまま、どこかを見続けていた。
 自分でも気づかないうちに、「法則、法則か」と呟いていたらしい。乃愛先生がまた口を開いた。
「法則とは……この世界の定義だと一定の条件下における事物の間に成立する普遍的、必然的関係だな。この世界に宇宙が存在するように、私たちの世界にも宇宙は存在する。もちろん、本質は違う。私たちの世界は精霊が作り上げているからだ。精霊の力は法則のこと。意思を持つ精霊がいるわけではない。魔法はその法則を拝借しているに過ぎない。質量は見せかけ、実体は見せかけ、私たちも見せかけ。この世界も私たちの世界も法則に支配された見せかけの世界。すべては法則であり、法則こそがそのすべてといえる」
 俺はほとんど圧倒されるように聞いていた。
 乃愛先生が教壇をバンと叩く。まるでその言葉がこの世のすべてを語っているとでもいうような表情で俺を見る。
「世界は法則を中心に回っている」
最終更新:2007年11月05日 00:54
ツールボックス

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