Ver1.00 その2


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ノア先生ルート 途中まで

「ん……?」
ノア先生は、公園のベンチにゆったりともたれかけて夜空を見上げていた。
「大翔か、まだ30分は経っていないぞ?」
「いえ、ノア先生と話がしたくて」
「話ならさっきもしていたじゃないか」
「……そういうお話じゃなくて……えーと」
やっぱり、微妙にずれた人に説明するのは難しいな。
「…………ふう」
ノア先生はいつの間にか懐から煙草を取り出し、百円ライターで火をつけていた。
「煙草、吸うんですか?」
「ん? ああ、まあ……最近、吸い始めたんだ」
とんとんと地面に灰が落とされる。
マナーとして決して良いとは言えないことだけれど、今は咎める法も機能していない。
俺も、今更そんなことで咎める気はなかった。
「君は注意しないのかい?」
「え?」
「……いや、悪い。私は今君を試したのだよ」
ノア先生は視線だけを伏せて自嘲するように呟いて、懐から携帯灰皿を取り出した。
「試したって……?」
「煙草を吸い始めた頃、私が灰を地面に落としていると美羽に良く怒られたのさ」
「美羽が……?」
「ああ、美羽は人間を愛していたからな。……いつか人間が街に戻ってくるかもしれないのに、そんなことをしたら駄目だと言われた」
吸血鬼と人間、立場は違っても、正義感の強い美羽らしい言葉ではあるなと俺は思った。
「だけれど、君は注意しなかったな」
「あ……別に、誰かに気を遣う必要もないかなって思って」
「いや、責めているわけではないよ、それが普通さ。だかえど美羽は違った。……美羽はな、異常に未来の存在を信じていた。
 もう仲間は自分を含めて四人しかいないのに、それでも絶対に勝利があることを頑なに願っていたんだ」
「ノア先生は、願っていないんですか?」
俺の言葉に、ノア先生はくつくつと喉を鳴らした。
「私はさっき言っただろ? 魔王を何とかするしかないとな。戦う意思はちゃんとある。安心してくれ」
「………………」
なんだか今のノア先生からは、何故か「どうでもいい」ような雰囲気が漂っているような気がするのだ。
戦いはする。だけれどその結果はどうなってもいい。そんな、消極的なのか積極的なのか良く分からない雰囲気が。
「……ノアさん……」
「ああ、君が言いたいことはわかる」
ちょっと待ったと手をかざし、
「私にやる気がない……とか思っているんだろう?」
「え、ああ、いやそんなことは」
「いや、事実だからいいのさ」
「事実って……」
この人は、一体何を考えているんだ?
「実は、今日の分の血を吸っていなくてな」
「え?」
「腹が減ってイライラしているのだよ」
「…………」
ようは、お腹が空いてるだけってことですか。
子どもみたいな人だ。いやまあ、吸血鬼でも人でもお腹が空けば考えがまとまらないものだし仕方ないかもしれないが。
「……と、いうわけで」
べろり、と音がしそうな舌舐めずりをして、ノア先生がねっとりした視線を俺に向ける。
「大翔、君の血を……」
「全力でお断りします!!」
俺は自分の持てる運動能力を全て出しつくしてダッシュ!
今、俺は限界を超える! 人間は本能的に追い詰められたた時にこそ最大限の力を出せるんだぁぁぁぁぁぁ!
「まあ、待て」
あっという間に捕まったああああぁぁぁぁぁぁぁ……。
……まあ、人間の全力なんて吸血鬼にとっちゃあ蚊程も意味がないなんてことわかってましたよ。
でも、それでも。
「い、痛いのは嫌なんですよっ!」
「大丈夫、痛くない」
平然と嘘をつかないでいただきたい。
「前向きになれ!」
「意味がわかりませんよ! そもそも血以外の物じゃダメなんですか!?」
「駄目なんだよ。吸血鬼だけに血(ブラッド)が大好きなんでな……くくく……」
何を笑ってるんだこの人は……?
「あ、今のは血のブラッドと吸血鬼のヴラドをかけた洒落なのだが」
「…………」
物凄くどうでもいい。
どうでもよすぎて涙が出るくらいどうでもいい、他人のペット自慢だとかそんなことくらいどうでもいい。
「逆らってもいいがね、その方が燃えるし、萌える」
「も、モエ……」
「これから先、君が無事に生きていくことが出来るかどうかも、私の胸先三寸なのだがなあ……」
「……うう」
権力者はこれだから卑怯だ……。
「なんだ、マグロになってしまってはつまらないじゃないか……。まあ、君の血はとんでもなく美味なのでいいのだけれど……」
「……!」
ノア先生が俺の首に噛みつこうとしたその時――。
「ノア様」
――ノア先生の影からずぶずぶと美優が生えてくる。
いや、生えるというのはおかしいけれどどう表現していいかわからないので仕方ない。
「なんだ美優、いいところなのに……」
興をそがれたかのようにノア先生が振り向くと、美優は手に輸血パックを持っていた。
「血液の摂取ならばこちらをどうぞ。……そこの人間を心配するわけではありませんが、ノア様の吸血時の痛みには耐えかねるものがありますので……」
「それは心配以外の何でもないだろう」
「え……?」
美優が、俺を心配してくれている?
と、美優の方に目を向けたらにらみ返された。怖い。
「ふむ、まあ鞭の次には飴が必要か。……よし、美優が大翔から血を貰え、それなら飴となろう」
「は……? ノア様、何を……」
「ちょ、ちょっと!? ノアさん!」
結局俺は血を吸われるのか!?
「いーぞ大翔の血は。力の通った人間の血はうまい! それに、血液型は美優の大好きなB型のRH-だ……」
「…………」
「最近、お前は血の摂取を怠りがちだからな、空いた腹には最高に染み入るだろうなあ……」
ゴクリ。

おい。
今、美優が喉を鳴らしたぞ。
「我慢は良くないぞ。大翔もお前になら快く血をわけてくれるだろう」
「だ、誰が――!?」
ノア先生がピッと指を振ると、見えない力が口を塞ぎ一切の発言が禁じられる!
「こ、この人間は嫌いですが……。血に罪はありませんから……」
「……! ……!!!!」
すっかり洗脳され、にじり寄ってくる美優から必死に逃げようとする俺であったが、後ろに回っていたノア先生にがっちりと抑え込まれ、今度こそ諦めざるを得なくなる。
「安心しろ、美優の吸血は気持ちイイんだ。……これは本当だぞ? クセになるというものだ」
その言葉を合図にしたかのように、美優が俺の首筋に噛みつく!
「っ!」
痛……くない?
むしろ、体中に心地よさが広がっていく。
温かい海の中にいるような
干したての布団にくるまっているような
母の腕の中に抱かれているような
そんな全てがどうでも良くなるような気持ちよさに身を任せながら……俺は昇天した。


「……おい、美優。吸いすぎだぞ」
「はっ!」
「うわっ、青白い顔なんてレベルじゃないぞこれは……。あーあ、美優のせいだ」
「わ、私のせいでは……! ノア様がそそのかしたから……!」
「おいおい、上司のせいにするのか?」

……あなた達、大事な話の途中だったってこと、すっかり、忘れて、ますよ、ね。




「ぐ……げほっ……」
起きてすぐに感じたのは、胸を締め付けるような痛み。
心臓を直接握られているかのような気色悪さに思わず吐きそうになり、トイレに駆け込む……が、一向に何も出ることはなく、楽にもなれない。
「なんだ……!?」
酔っ払いよりもおぼつか無い足取りで部屋に戻ろうとするも、途中で無様にも転んでしまう。
手で胸を押さえつけていたせいで、受け身もロクにとることが出来なかった。
「ぐっ!」
昨日は、美優に血を吸われてそのまま気を失ったけれど……まさか、あれが原因なのか?
「げほっ、げほっ……がっ……!」
何かが体の中から競り上がってくるのを感じて、ここで吐くのはまずいと今度は口を抑えるが。
「……!?」
手にかかったのは吐瀉物ではなく――赤く毒々しい色合いの、血液。
「ひ……あ……ぁぁぁ!」
気付けば、俺の体は血の溜まった沼にに浮かんでいて、無数に生えてくる青白い手に足を掴まれ引きずり込まれていく。
「や……やめろ! 離せっ!」
必死にもがきはするけれどまるで意味はなく、ゆっくりと、俺をわざと絶望させるかのようにゆっくりと沈んでいく。
「がっ……げぼっ……」
酷い臭気が鼻を突く。口内に血が入り込んで満足に呼吸もできなくなる。
死ぬ。
このままでは、死んでしまう。
「誰か、助けてくれ……!」

意味もなく伸ばした手の先に、誰かがいた。

「美、美優! 美羽……!」

それは二人の妹で、だけれど俺の方は決して見ることはなく。
互いの首に食らいついて恍惚の表情を浮かべている。
「お、おい! 助けてくれ……!」
美羽と美優はそれでも何も反応を見せず、その場の快楽に身を任せ続けて――
「あああぁぁぁぁあああっ!」
――俺は、血の沼に飲み込まれた。


「はぁっ……!!」
目覚めてみたのは、部屋の天井。
くすんだコンクリートの灰色っだけがあって、俺は自分がいつものベッドに寝ていることを理解する。
「夢……か」
とんでもない悪夢だった。
体中脂汗でびっしょりだ。……今まで着替えたりはしていなかったけれど、これはノア先生に陳情しないとな。
「夢? 夢ってどんな?」
「血の中に飲み込まれる、悪夢だよ……」
「うっわ、凄く羨ましいよそれ」
「……ん?」
そういえば、俺は誰と会話しているんだ?
「あ、ひょっとして寝ぼけてる? おーい、やっほやっほ」
「陽菜?」
「そうですよー。ノア様に何故か一晩ぢゅー大翔君の看病を任された陽菜ですよー」
「看病って……」
首だけを横に動かしてみれば、陽菜はパイプベッドの横に椅子を置いて座りって俺の顔を覗き込んでいた。
「んー、まあ大翔君も災難だったよね。あれだけ血を吸われたら気を失いもするよ」
どうやらあの後、美優とノア先生は責任の押し付け合いに必死だったらしく。
主従関係なのにマジ喧嘩に発展していたようだ。
そんな時、三人が戻るのがあまりにも遅いので、心配してやってきた陽菜が放置されていた俺を保護した。
という顛末が語られて俺は溜息をついた。
「輸血はしたから多分大丈夫だと思うけどね、まだ気分悪かったりする?」
陽菜の親切は素直にありがたかったけれど、今はもう大丈夫だ。
特に動かない所や痛い箇所はない。
「そっか。あー、でも着替えた方が良さそうだねえ……」
「……確かに」
俺の服はもう着ていられる状態ではない。
「あ、そうだ……」
陽菜はいいこと思いついたと言わんがごとく、いやらしい笑みを浮かべてぽんと手を叩いた。
「ちょっと待って、着替え持ってくるから!」
「え……あ、おい……」
静止の声など届く筈もなく、陽菜は部屋から出ていってしまう。


そして、数十分後に俺が着ていたのは。
「…………おい、これはやっぱりないだろ」
「そんなことないよー、ごすろり似合ってる!」
ゴスロリ服だった。
ちなみに俺の趣味ではない、当然だ。
陽菜が言うにはもうここには自分の女物の服しか残っていないらしい。
まあそれは仕方ないにしてもゴスロリはないだろジーンズにTシャツとかあるだろうと文句を言えば、ないなら素っ裸じゃー! と逆切れされ。
こっちもじゃあ素っ裸でいいわー! と逆切れでで返したら、結局陽菜に力づくで抑え込まれ暴漢もさながらにひんむかれそうになった。
陽菜に脱がされるくらいなら自分で着るしかない……! ということで今に到る。
「なんだよこのひらひらは……! こんな所ノア先生や美優には見せられねぇ~」
「だいじょぶだって! 凄く可愛いし! 元の服は適当に洗っといてあげるから!」
「……そうですか」
しかし何を思ってこれを着せようと思ったのか、陽菜の趣味がわからない。
「んー、大翔くん可愛い顔してるし、後はカツラつけてあげれば凄いことになると思うんだけどなあ」
「流石にそれは勘弁してくれ……」
「まあいいけどねえ。しかし、可愛いなあ」
その後10分程視姦され続けた。
早く服洗い終わらないかな……。


今日は外に出るわけにもいかず、ゴスロリ服で引きこもりだ。
鏡がこの部屋になくてよかった、こんな姿を見ていたら俺は今すぐ発狂していただろう。
「はあ……」
何もすることが無くベッドの上で丸まっていたのだけれど。

ドドドドドドド……。

「……?」

地の底から轟くような響きが部屋をがたがたと揺らす。

ドドドドドド……。

いや、違う。
これは、足音?
サバンナを移動するヌーの群れのごとき足音が、近付いて来る……!?

「大翔っ!!」
「ノア先生っ!?」

足音が俺の部屋まで迫ってきたかと思えばドアがぶち破られてノア先生がごろごろと転がりこんできて壁にぶつかりそうになって
「はっ!」と腕だけで飛び上がって床→壁→天井と見事な三角飛びで着地した。

「…………」

一瞬どころか、刹那の出来事だと言ってもいい。

「そ、そんな息を荒くして……どうかしたんですか?」
「はあ……はあ……」
いや、ノア先生は疲労で息を荒くしているわけではない。
興奮して獣のように荒い呼吸となっているのだ。
「ひ、大翔ぉ……。それは、いいじゃないか……」
「な、何がですか?」
本能的な恐怖を感じて部屋の隅まで後退する。
だけれどそれが良くなかった。『逃げる』という行為がノア先生の本能と加虐趣味に火をつけてしまうことになる。
「ふふ……ふははははははははっ! るぱんるぱーん!」
ノア先生が壊れたあああああっ!
「う、うあああああっ!」
理性を失ったノア先生はまさに獣! 獣に飛びかかられては俺に成すすべはなく、あっという間にベッドに組み伏せられる。
「その格好は、私にいじめてほしいという合図だろう?」
「違います!!! こ、これは汗をかいてしまって仕方なく……!」
「いいぞその言い訳も私を刺激する一要素なのだよなんとなく!」
「に、日本語でお願いしますよノアさん!!」
必死に抵抗するも、陽菜の用意したゴスロリ服はびりびりと裂かれていく。
こ、これじゃあまるっきりレ……レイ……。

「いい加減にしてください」

――冷ややかな声が降り注いで、ノア先生が無理やりに引き離される。

「なんだ……美優、邪魔をするな」
ノア先生が不機嫌そうに振り向いた先には、美優がいつの間にか仁王立ちしていた。
「ノア様、いい加減にしてください。それ以上その人間から血を吸うと大変なことになります」
確実に干からびるでしょうね。
「何、後数回くらいなら許容範囲だ」
「自重してください」
「……しつこいな」
ノア先生はゆらりと立ち上がって美優を見返す。……その視線には、えもいわせぬ殺気が籠っていて、とても穏やかな雰囲気とはいえない。
「邪魔をするな。殺すぞ!」
「……の、ノアさん?」
え、マジ喧嘩って、殺し合いに発展しそうなくらいなの?
「っ、ノア様。落ち着いてください……!」
「……私は落ち着いているよ」
傍目から見てもそうは思えない。
「の、ノアさん! 喧嘩はいけませんよ!」
今のノア先生は、怖い。
だけれどこんな雰囲気の中二人を放っておけるほど俺は馬鹿な人間じゃない!
「……………………………悪かった。ここは引こう」
すっと、部屋全体を威圧していたプレッシャーが引いていく。
「頭に血が昇っていたようだ。……ふふ、吸血鬼の頭に血が昇るとは、笑えない」
とは言いつつも、ノア先生はくつくつと喉を鳴らしながら部屋を出て行った。

「ふぅ~」
何とか嵐は去った。
美優も珍しく安堵しているようであったが、すぐに俺を見て冷めた視線を送ってきた。
「その格好は、一体何なんですか?」
「その、格好……?」
はっ……そ、そういえば今の格好は……!

ゴスロリ風ドレスがビリビリに引き裂かれ、まるで男がアッーなことになったような後みたいじゃないか!
「み、みないでくれえええぇぇぇぇ……!」
「…………」
「うう、いっそ笑ってくれ……」
陽菜みたいな反応をしてくれたほうがまだいくらかましだ。
「面白くなければ笑えませんよ」
「うう……」
当たり前のことだけれど、至言だった。



――そして、俺は抜けるような青空の下に立っていた。
「え?」
何故俺はここにいる?
いろんな理由や過程をぶっ飛ばしてしまっている気がする。
考えれば理由に思い当たりそうになるが、何故か靄がかかっていてはっきりと思い出せない。
言いたいことが喉に引っかかって言えないような気持ち悪さが、妙に気になる。
「あれ、この服……」
いつの間にか、俺は元の服に着替えていた。
「……ああ、そうか」
陽菜に許可をもらって、この服を着たまま乾かしに来たんだ。
そうだ。
……そうだった、はずだ。

でも、魔族の襲撃があるかもしれないのに、良く許可が出たもんだよな。
まあ許可が出たからというには大丈夫なんだろうけど。
「……しかし、久しぶりの太陽って、結構きついな……」
ずっと地下に籠っていたせいか、夏の日差しは俺にはやたらときつく感じた。
人間が地上にいようといまいと、やはり太陽には関係ないようだ。……いや、むしろ人がいないほうが生き生きしていられるのかもしれない。
「………………」
でも、この調子ならすぐに乾きそうだな。
アスファルトから発せられる熱を孕んだ風が少し気持ち悪いけれど、それくらい我慢しよう。

ああ……気持ち悪い。
太陽の下にいるってのに、なんでこんなに苦しいんだろう。

「……ん?」

そんな時、遠くから何かが聞こえた気がした。
この街には誰もいないはずなのに、声が届いた。

無邪気な子どもの、笑い声が――。

「あっちは、公園か?」

――俺の中にあった危機意識は、太陽の光の前に溶けて消え去っていた。

そして俺は、公園で信じられない事実を目にする。
「子供!?」
そう、十数人の子供達が無邪気にも公園で遊んでいるのだ。
人間の去った地上で、子供達が遊んでいる。
ブランコを立ち漕ぎし、サッカーボールの取り合いをし、かくれんぼの鬼は必死に数字を数えて、残りは必死に隠れまわる。
そんな、平和でありえない光景が、広がっていた。
もしこんな時期でなければ普通だった。……だけど、その普通の行為が簡単に出来ない今となっては、これは異常なことと言えるのではないだろうか。
「どういうことなんだ……?」
俺がしばらく公園の入り口でぼーっとしていると。
「あ! だれかいる!」
「え? 見つかっちゃったの!?」
「ううん、なんかちがうっぽいよー」

俺の姿を見つけた3人――男の子1人に女の子2人――は、とてとてと俺の方に近寄って来る。
「おにいちゃんだれー?」
「ぐんのひと?」
「もうちょっとあそんでたいよー!」
「え……ああいや……」
俺が子供にせっつかれてどう反応したものかと考えあぐねていると。
「いや、私たちと同じだ。気がねなく遊ぶがいい」

――何故か隣にユリア姫が立っていた。

「え、そうなの?」
「なんだー、よかったー!
「おねえちゃん、おにいちゃん、またね!」
「ああ、また」
俺はまたどう反応すればよいのかわからず、子供達をにこやかに見送るユリア姫を見ていた。
だがそんなことはわかっているとでも言うかのように、ユリア姫はこちらを見てふっと笑い。
「そこのベンチに座ろう」
と、俺に後についてくるように促した。
「…………」
何だか、嫌な予感がしないでもない。
だけれど、せっかくユリア姫に出会えたのだ。この偶然……いや、必然なのかもしれないけれど、それに乗らないという手はないだろう。

俺は、覚悟決めてユリア姫の後を追った。

ユリア姫は、この間ノア先生が座っていたのと同じベンチに優雅に腰掛けた。
やはり、この世界でも気品がある人だ。
「どうした? 隣に座るがいい」
「あ、はい……」
でも、俺のいた世界の姫様とはまるで口調が違う。
あっちの姫はぽやぽやとした頭の中が温かい人だったけれど、こちらの姫は明らかに上から物を見た感じ。
やはり世界が違うと、性格にも違いが出るものなのか。それは美優のことでもわかってたけど。
「さて、結城大翔。私は君に話があってきたのだよ」
「……!? 何で名前を知って……あの、初対面、ですよね?」
この世界では、そうなっている筈だ。
「さあどうかな? 初対面と言えば初対面だし。そうじゃないと言えば変わるかもしれない」
「…………」
何が言いたいのかわからない。
この人は、何かの目的があって俺に接触してきたわけじゃ、ない……?
「あの、あなたの名前は……ユリア……さんで、いいんですか?」
姫は、愛しむような視線を子供達に向けたまま、
「いいや、違う」
はっきりと言いきった。
「名前は、刹那・F・セイエイ」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
真面目な顔をしてくだらないことを言わないで欲しい。
「実は光速の異名を持ち重力を自在に操る高貴なる女性騎士なんだ」
「いろんなとこを敵に回す発言はしない」
「得意技は反復横とび」
「いい加減にしてください。……あなたはユリア姫なんでしょう? 違うんですか?」
「確かにユリアではあるが、姫ではないのだよ。結城大翔」
「……姫じゃ、ない」
「だったら何だという顔をしているな。……意味は無い。意味は無いんだ。この世界での君の存在くらいに、意味がない」
「…………」
「私はな、物語の途中で適当なアドバイスをして去っていく老人みたいなものだ」
ふぉふぉふぉ、なんて冗談めかした笑いと共に美しい微笑みをこちらに向ける。
「君は、子供は好きか?」
「……え?」
「子供は好きかと訊いている」
姫がまた視線を戻した先には、無邪気な子供達が遊んでいる。
この不自然な世界で、あまりにもおかしい状況であったことをふと忘れてしまっていた。
「……子供は、好きですけど。……あの子達は、外に出てきてしまっていいんでしょうか?」
「あの子達はシェルターから勝手に抜け出してきたのさ」
「抜け出す?」
「いまや人間がシェルターに引き込もって半年近くが経とうとしている。皆不満がたまっているのさ。子供達は特に……な」
確かに、あの歳くらいの子供達は遊びたくて遊びたくて仕方がないのだろう。
俺だって、あのくらいあ小さかった頃は妹と朝から晩まで遊んでいたことがある。すり傷を作り、泥だらけになりながら……。
「だが、彼らは外は危険だとあの子達はわかっているのだろうか?」
「……わかって、ないんでしょうね」
ここは、いつ戦いの場になるかわからない。
あの子達は、いつ死んでもおかしくないような場所で笑っているんだ。
知っていればそんなことはできない。
無知故の幸せ……ということか。
「そうだ、わかっていない。子どもはほとんど理由の説明もされていない。……まあ話しても理解出来ないと思われているのだろうな。
 彼らがいつも言われているのは『外には悪い吸血鬼がいるから、出たら食べられちゃうぞ』だ」
姫の言葉を聞いて、俺は驚愕に固まる。
ガツンと横合いから殴られたかのように心が揺さぶられ、思考が停止する。
「悪い吸血鬼って、どういうことですか!?」
考えるよりも先に出た言葉に、姫は落ち着けと短く言って溜息をつく。
「敵の敵は味方にはならない――ということさ」
「意味がわかりませんよ! 吸血鬼は人間を守っているんですよ!?」
「大きな声を出すな。子供達に聞こえるぞ」
「あ……」
忘れかけていた子供達の存在を再び認識し、俺は声をひそめて続けた。
「なんで、そんなことになっているんですか?」
「人は、愚かな生き物だからな。手を差し伸べてくれた存在さえ、信用できないのさ」
「そんな……!」
ノア先生達は、そのことをわかって闘っているのか?
「だから――」
……それは、姫には似合わないシニカルな笑み。
「そんな愚かな奴らは、私が滅ぼしてやる――」
「……!?」
「と、考えている者もいるんだよ」
一瞬のプレッシャーに気圧される。
「ま、魔族……ですよね」
「さあ……どうかな。もしかしたら君の身近にいるかもしれないな」
美優、陽菜、ノア先生。
大事な仲間達の顔が脳裏を過るけれど、俺はその想像をすぐに頭を振って打ち消した。
「あなたは、一体何なんですか? なんで俺にそんなことを話すんですか!」

姫の姿をしたこの女は、一体何者なんだ!
やたらと俺の不安を煽って、何をしようとしているんだ!?

「ただの意味の無い部品さ。『今の』君と同じでね」
「俺と、同じ……?」
意味の無い、部品。
ちょっと前にも、言われたけれど……。
「だけれどそれは、あくまで現時点での話さ。少なくともこの世界には、君を利用としている者は二人いる」
「利用する?」
俺なんかを利用してどうしようと言うのだろう。
かすり傷程度を治すくらいしか出来ない俺に、何をさせようというんだ?
「今はまだ準備期間なのだよ。君は最後の最後、仕上げなのさ」
「意味がわかりませんよ」
「当然だ、わからないように言うものだからな。こういうことは」
「………………」
「すまない。別にいじめてるわけじゃないんだ。そう睨まないでくれ」
別にそんな風に見ていたつもりはなかったけれど、無意識の内に多少恨めしい視線を向けていたのかもしれない。
「仕方無い。ならば最後に予言をしてやろう」
「予言?」
「君はまだ、この世界の絶望を知らない。この異常な世界の本質をまだ見たことがない。
 多少は知ったつもりになっているかもしれないが、今はまだ温室でぬくぬくと過ごしていることにすぎなかったということを、もうすぐ思い知らされる」
「不吉なことばかり言わないでくださいよ」
「心構えはあったほうがいいだろう?」
「知らない方が幸せってことも、あります」
俺は子供達の方を見ながら言った。
姫は「それもそうだな」と頷いて続けた。
「……君はそろそろ戻った方がいいのではないかな?」
「え?」
「もうすぐ日が暮れるぞ」
「……あ……!」
既に、宵の口と言っても良い時間帯になってしまっている。
橙に青を混ぜ合わせたかのような淡い色は、もうすぐ夜がやってくることを告げている。
吸血鬼の時間が、やってくる。
「急いだ方がいいぞ。吸血鬼は自制を知らない」
「あ、あの。あなたは……!」
「私を求めるのならばいつでも呼ぶといい。私はどこにでも現れる」
「……失礼しますっ!」
ああ、きっとノア先生とか怒ってるんだろうな……。
怒られるのは嫌だけれど、俺には今あそこ以外に戻る場所はない。

俺は『姫ではない』ユリアに背を向けて、未だに子供達の笑い声が消えない公園を後にした。

……また話せるのなら、今度は思わせぶりな部分を問い質したいものだ。



「ねー、もうそろそろかえろー?」
「えぇ~、もうちょっとあそんでたいよ……」
「でも、ままが、よるはこわいきゅうけつきっていうひとがでるんだって!」
「ばっかだなあ、そんなのいるわけないじゃん!」
「じゃあ、なんでそとにでちゃだめっていわれてるの?」
「……なんでだろう?」

顔をつきあわせて話し合う子供達に、迫る影が一つ。

「そろそろ帰った方がいい」

もうほとんど沈みかけた夕日を背負い、鈍い輝きを讃えた女性が、妖艶な微笑みを浮かべて立っていた。
「あ……さっきから、おにちゃんとはなしてたひと?」
「ああ。……夜は恐ろしい吸血鬼が出るというぞ? 帰ったほうがいい」
「ほら! やっぱり出るんだよ!」
「えー、いないってー!」
……夕日が、沈む。
「そうか。君達は吸血鬼を信じてはいないのか」

――だとしたら、魔王ならば信じるのかな?

そして、夜の公園が小さな命の死で染まる。





部屋に戻ると。
なんだか俺のベッドに見慣れない影が……と思えばそれはノア先生だった。
……何で俺のベッドで寝てるんだこの人は……?

「……あの」
恐る恐るノア先生の体を揺すると、「ん……」と艶めかしい声が吐息と共に漏れ出てくる。
正直言って、エロい。
大人の色気というものがそこら中から出まくっているせいで、俺の方もそれに当てられるというか、ムラムラ来るというか、悶々するというか。
「寝かしておこう……」
そうだ、そうしよう。
何か間違いを起こして、吸血鬼の圧倒的な力の前に惨殺されたりはしたくない。
とりあえず陽菜や美優に帰って来たことを報告しに行こう、それがいい。
「…………」
ノア先生を――いや、このエロい王様を刺激しないようにそろりそろりと部屋から出て行こうとした――が。
「ひーろーとぉ」
「ノ……ノアさん……?」
背後から捕獲された。
ぬるりと長い両腕を肩から回され、胸のあたりで結び俺は完璧に固められる。
「お、起きてたんですか?」
「今起きたんだよぉ~」
何かおかしいぞこの人……。
「どーこ行ってたんだ? 大翔」
「ちょ、ちょっと外に……ってかノア先生酔ってます? 酔ってますよね?」
「いーや酔ってない。酔ってないぞぉ」
酔っ払いは確実にそう言う。
つーかさっきから胸が当たってます。
「あててんのよ?」
「疑問形で言われても……というか離れてください……」
「何だ、大翔は私のことが嫌いになったのかぁ?」
「いえ、嫌いとかそういうんじゃありませんけど」
「じゃあなんだ~?」
さらに腕に力が入り、む、胸が更に強く……! 乳圧がっ……!
「い、いい加減にしてくださいっ!」
「ぉっ……とぉ。酷いじゃないか」
無理やりにノア先生を振り払う。
よろけながらもすとんとベッドに腰をおろした先生は、全く素の表情をしている。
顔には出ない体質なのか、表に出ないだけ余計にタチが悪そうだ。
「しっかりしてくださいよ、ノア先生……。魔族が攻めてきたらどうするんですか?」
「…………うるさいよ」
「ノア先生?」
突然に腕を掴まれ、すがるような目で見つめられる。
「私だってな、考えるのが嫌になった時くらい、酒を飲みたくなる」
「考える……」
「私はいつも考えている、最善の道を。私が、私達が幸せになるにはどうしたらいいか」
「幸せ、ですか」
ノア先生は、一度そこで天を仰ぐかのように上を見た。
そこには、息が詰まりそうなコンクリートの天井しかない。
「なあ、大翔。……美羽は私が殺したって言ったら、どうする?」
「え……?」
「お前は、私を裏切らずにいられるか?」
くつくつくつと、自嘲するかのようにノア先生は笑う。
「ノア先生! 何を言ってるんですか!?」
詰め寄るように肩を揺すると、ノア先生は途端はっとした表情を見せて、言った。
「すまない。悪酔いしすぎた……」
「……大丈夫ですか?」
「………………ああ」
今、あれほど不遜で不適な態度が似合うノア先生が、何故だかとても儚く見える。
「なあ、大翔……」
二度目の呼びかけに、俺はなるべくやわらかく答えた。
「何です?」
「私はさ……」

――自分程恐ろしい存在は、いないと思うよ

呟くように、だけれど俺に向けてはっきりとそう残して。
ノア先生は暗闇をまとって俺の部屋から消え去った。

「……ノア先生……」

さっきまで腰かけられていたベッドを触る。
……まだ温かい。ちゃんと存在しているのに、ちゃんと生きているのに、心があるのに。
何で、人間とは違うんだろう。

「おいっす」
無機質な音と共に部屋に入って来たのは、いつもより少々テンションが抑えめな陽菜だった。
「あ、陽菜……」
「おう、ご飯だよ~」
陽菜はいつも通りにパンと水を持ってきてくれた。
……早く、勝手な外出のことを謝らないといけない。
「あの……陽菜……ごめん……!」
「? なんで謝るの?」
渾身の謝罪に対して陽菜は、頭にいくつかのクエスチョンマークを浮かべる。
「え、なんでって……服が乾くまでの間だった約束を、破ったから……」
おかげで服は奇麗に乾いて、またしばらく着ることができるのだけれど。
「あぁ、あぁ~……そのことね。ごめん、忘れてたよ」
「忘れてたって……」
がくっと力が抜ける。
気負ってた俺がバカみたいじゃないか。
「いや、こっちも忙しくてさ~。もぅ、大翔くん、外は危ないんだぞっ! めっ!」
……いや、忘れてた人にめっされても説得力はまるでない。
「まあ、気付いてても私は外に出られないから、意味ないんだけどね……」
それはそうか。
外に出たら灰になってしまうのに、俺がいる公園にまで辿り着くことなど出来るわけがない。
……公園か。
『敵の敵は味方にはならない』
そんな、姫の言葉が思い返される。
「あの、陽菜にちょっと訊きたいことがあるんだけど……」
「ん、なーに?」
どーんときなさい!
と、胸を張る陽菜に、無い胸を張るなという突っ込みを封印しつつ俺は言った。
「吸血鬼と人間の関係について、教えてくれないか?」
「――――どこで聞いたの?」
「……わからない」
これは事実だ。
こちらの世界の陽菜にユリア姫に聞いたと話してもわからないだろうし……。
「それを聞いて、どうするの?」
陽菜は持っていたパンと水を適当にベッドの上に投げて、俺を見つめてくる。
いつもとは違う、地獄を讃えるかのようなその瞳で。
「どうするって……。ただ、隠してることがあるなら知りたいだけで……」
「そう……そっか」
座りなよ、と陽菜が首でくいとベッドを示す。
少し躊躇いながら数歩さがって腰を下ろそうとした途端、俺の体が宙に浮いた。
「――!?」
足を払われたことにはすぐに気付いたけれど、自分が尻もちをつく前に首を掴まれ流れるような動作で壁に叩きつけられる。
「ぐぅっ……!」
「例えば、私は人間をこうやって殺すことにも躊躇いを覚えない」
「っ!?」
「なんて言うのは、流石に冗談だけどね……。別にどうってことでもないんだよ、ただ人間は私たちを受け入れなかった。それだけ」
首にかけられた力が緩められて、俺はげほげほとむせ返りながらベッドにすとんと腰を落とす。
「例えば、今君の傍にあるそのパン。それはノア様が人間を『脅して』手に入れてきたの」
「……え?」
「私たちの食事用に取ってある輸血パックだって同じこと」
「お、脅すって……頼めばいいじゃないか……!」
「話してもわからない相手っていうのがいるってこと、理解できる?」
――人間って、本当に馬鹿なんだよね。
陽菜は本当に可笑しそうに、何が可笑しいのか、まるで全く理解出来ないけれど、笑っている。
「せっかく『助けてあげる』って言ってるのに。手を差し伸べてあげてるのに、そのお礼に鉛玉を返してくれるんだから……」
「そんな……」
「魔族が攻めてくるかもしれないのに。そんな無駄な戦いをしている場合じゃないのに。
 ……でも、私たちだって犬死にするわけにはいかないから、とりあえず人間を攻撃するしかなかったんだよね」
……ああ。
人間は怯えから、吸血鬼は自衛の為に、戦うしかなかったんだ。
だけれど、戦えば戦う程、溝は深まっていく。
「当然私たちが勝って停戦になったけど、人間は私たちに対して揺るがない敵意を持ってしまった」
「…………」
「でも、問題はここからだった」
「問題?」
「実はね、戦いの最中に人間に捕らえられた仲間がいたの。私達は当然その仲間の返還を要求したんだけど、決して帰ってくることはなかった」
「……まさか」
「そう、とっくの昔に人間に解剖されてたの。その強靭な肉体と能力を調べる為に……ってね」
「う……!」
吐き気がする。
ノア先生が言っていた。吸血鬼はほぼ不死身、だけれど傷つければ痛いしすぐに治るわけじゃない。
――だとしたら、解剖されたというその吸血鬼はどれだけの痛みと苦しみを与えられたのだろう?
自分の腹が開かれて、脳髄をいじられて、それでもまだ……死ねない。
ぞわぞわと寒気が背筋を這い上がり、俺は絶望に顔を伏せる。
「その事実を知って吸血鬼側には二つの意見が生まれた。『仲間の恨みを晴らす。人間など殺してしまえ』っていう過激派と、『ここは抑えて魔族との戦いに備えるべき』という穏健派」
やはり、ノア先生というカリスマがいたとしても、全ての意見を一致させることは出来るわけないよな。
「結局は穏健派の意見をノア様が採用してその場は何とか治まった。……だけれど、穏健派も口には出さないだけで、ほとんどは腹の底が煮えくり返る程の怒りを抱えていたと思う」
どちらにせよ、もうみんな死んじゃったけど。と陽菜はおどけるかのような口調で付け足す。
陽菜は少しでも場の空気を明るくするつもりだったのかもしれないが、今の話題で明るくなれと言われても無理な話だ。
「ま、どうなっても私たちは戦うしかない。魔族に人間が皆殺しにされてしまったら、私たちは飢え死にするしかないんだから」
陽菜は人差し指を虚空でくるくると回し、空中に奇麗な丸を描く。
「でもね、私たちは結局、魔族と戦って負けても死ぬ。勝っても、恐らく人間に追われて死ぬ。
 例えうまく隠れることができても、いつか寿命で死ぬ。……本当に、ぐるぐるぐるぐる、未来がないんだ」
「そんな……」
ノア先生や美優は、今までそんな素振りはほとんど見せなかったのに。
どういう心境で、人間の俺を保護しようという気になったのだろうか?
「……美優はさ、美羽も影響もあるし。人間を憎んでいても殺そうとは思わなかったんじゃないかな」
「美羽の?」
……ああ、そういえばノア先生が言っていたな。
美羽は人間を愛していたって。
今までの陽菜の話からして、美羽が人間を愛する理由が見つからないのだけれど。
「なんつーか、あれで美羽は悟りきった感じしてたからね……。人間は愚かなだけじゃないって、いつも言ってたし」
「…………」
美羽と初めて会った時を思い出せば、あの時美羽は俺を本気で心配していたな。
『人間がこんな所で何してるの!』と、必死になって助けてくれようとしていた。
それがどれだけ凄いことなのかを、今思い知る。
「美優の方はあまり理解できてなかったみたいだけど……ね。でも、美羽は絶対に進んで人間を殺したりはしないし。
 美優もそれに倣うんじゃないかな」
「……そっか」
「でも、ノア様は……ちょっとわからないかな」
「わからないのか?」
「うん……。あの人だけは、吸血鬼が二分して別れていた時も、いっつも何か考えているみたいだった。
 何を考えていたのかはまるでわかんなかったけど、とにかく思考してた。
 もしかしたら、人間への復讐の手段を考えていたのかもしれないし、和解の方法を考えていたのかもしれない。
 まあ、ただ単に二択についてぐだぐだと悩んでいただけって可能せいもあるえけどさ」
「…………」
俺はしばらく沈黙し、頭の中で今までの会話についてまとめていたのだけれど。
一つ意見が足りないことに気がついた。
「陽菜、お前はどうなんだ?」
「え、私?」
教えて欲しい? と少しいじわるな笑みを浮かべる陽菜。
まあこいつの思考は単純そうだよななんて失礼な考えが脳裏をよぎった時。

――俺の部屋が……いや、地下全体が静かに揺れた。
まるで鳴動するかのように、響くかのように、静かに。
「……今、揺れたか?」
人間からすれば、ただの震度2くらいの地震のように感じたが、陽菜はやけに真剣な表情となっている。
「敵が来たかもしれない……。私は外に出るから、絶対にここから出ないで」
「あ、ああ」
いざ戦いとなれば、俺に出来ることは何もない……か。
つくづく、俺がこの世界にいる意味がわからなくなってくるな。
「二時間以内には絶対戻ってくるから!」
乱暴に戸を開いて陽菜が戦場へと駆け出していく。
俺はその後姿を見ているだけで、ああ、戦地へ向かう家族やらを見送る人ってのはこういう心境なんだなあみたいなことを少しだけ理解した。


――二時間後

「…………」
結局やることもなく、食事もとりおえた俺は誰かが帰ってくるのを待ってエレベーターの前で待機していた。
だけれど、ランプは最上階で固定されたまま動き出すことはない。
あれ以降揺れも何もないし、こうやって情報を遮断された地下であるということが、やけにもどかしい。
「ふぁ……」
睡眠欲を抑えきれずに漏れ出た欠伸を噛み殺す。
緊張ばかりでは疲れてしまうが、今は寝るわけにはいかない。
「……あ!」
エレベーターが、動いた。
地下1階、2階……そして3階、そして止まって開くと同時に飛び出してきた陽菜にぶつかった。
「うぉっ!」
「ぎゃんっ!」
意図せずにぱちきをかましてしまう。
頭の固さは吸血鬼と人間でも変わらないらしいなんて?気なことを考える間もなく、体制を立て直した陽菜に胸倉を掴まれる。
「美優がっ……美優が大変だよっ!」
「美優が……!?」


美優は、血の海の中に倒れ伏せていた。
「美優っ!」
血で濡れることも厭わずに、美優の体を抱える。
腹部には、食いちぎられたかのように貫通し、向こう側まで見えてしまうかのような空洞。
喉は切り裂かれて声も出せず、ひゅーひゅーとよわよわしく空気が漏れ出ている。
「待ってろ美優! すぐ治してやる!」
今は夜だ。
少しずつでも治していけば美優はまだ助かるはずだ!
「……無理だ」
すっと、闇に溶けていたものが顕在化する――ノア先生だ。
「無理って……無理なんかじゃないでしょう!? 吸血鬼は、夜の間は……っ!」
「だからと言って、君の治癒能力ではいくらやっても朝までには治せない」
ノア先生の冷静な口調に、俺は血を沸騰させて怒鳴り返す。
「ノアさんが諦めてどうするんですか! 美優が死んでもいいって言うんですか!? 仲間でしょう!」
「だから、確実な方法で治せばいい」
先生が、「陽菜、来い」と隣の闇に向かって呟くと、俺を誘導してくれていたはずの陽菜が突然にノア先生の横に現れる。
「ノア様、どうぞ」
そして、その手に持っていたワイングラスをノア先生に渡す。
……何をしようと言うんだ?
「大翔、お前が吸血鬼になるんだ」
「……!?」
俺が、吸血鬼に?
「吸血鬼になれば、お前の能力もかなり増強されるだろう。美優の傷も治せるはずだ」
「美優が、助かる……」

だけれど、人間でなくなる。
光を浴びることが出来なくなる。

――元の世界に戻ったとしても、皆と一緒にいられなくなる。

「……っ!」
馬鹿か、俺は!
今死にかけている妹がいるっていうのに、躊躇ってどうする!?
「大翔、どうするんだ?」
「……わかり……」
わかりました、やります。
そう言おうとして、途中で言葉を止めてしまう。
それは躊躇しているからではない、決して怖気づいたわけではない。
――美優が、よわよわしい力で服の裾を引っ張ったのだ。
「……ぁ……ぇ……」
「美優……? 何か言おうとしてるのか?」
「……ぁ……ひゅ……げっ……」
「っ! 美優、もういい喋るな! 今……吸血鬼になって、お前を治すから!」
そう美優に向かって叫ぶと、裾を掴む力が更に少しだけ強くなった気がした。
「……? 美優?」
何かを伝えようとしているのか……?
「っ、大翔。早くしないと手遅れになるぞ!」
焦っているのか、ノア先生が少し早口になって俺に言う。
「……はい」
そうだ、時間が無い。
助けるには、これしかないんだ。
「ごめんな、美優」
裾を掴む手を外し、抱きかかえていた体をそっと地面に寝かせて立ち上がる。
「英断だ」
ノア先生は自分の右手の爪で左の手首をすっと横に切り裂く。
「な、なにを……?」
ぱっくりと裂けた傷からだくだくと血が流れ出し、あっという間にワイングラスを満たす。
人間だったら、貧血どころか輸血しなければ死ぬほどの出血量だ。
「この傷は後で治してくれればいい」と言ってから、ノア先生は続ける。
「この儀式にはまず、本人の『成りたい』と思う意思が大切だ。美優を救いたいと願え、吸血鬼となって美優を救いたいと」
「……はい」

こちらの美優とは、あまり会話をしなかったな。
お前のせいでって言われて、胸倉を掴まれて。
血を吸われて。
……仲良くしたかったけれど、壁を作られてる気がして近づけなかった。
機会がなかっただけだ、なんて言い訳はしない。俺が何もしなかったんだ。
だから、『これから』の為に、俺は――!

「願ったか……? ならば、これから大翔の血液をすべて吸い尽くす」
「え?」
「安心しろ、その後すぐにこのグラスに注いだ血を大翔に与える。空になった体が吸血鬼の血で満たされ、肉体と魂は変容していく」
「…………」
「躊躇うなよ、大翔。少しでも意思が揺るぐと儀式は失敗する」
「…………はい!」
そうだ。
今まで助けてくれてきたノア先生を、信じない理由なんてないじゃないか。
俺は美優の体を跨がないようにして回り、ノア先生と陽菜の前に立つ。
「始めるぞ」
ノア先生の腕が、俺の肩にかけられる。
「――――」
それは、ごめんなさいだったのか、ありがとうだったのかわからない。
ノア先生は読み取れない程に小さく口を開いて……。

「待て」

凛とした声と共に、光の柱が舞い降りた。

「ぐうっ……!」
「なっ!?」
「っ――」

俺、ノア先生、陽菜。
三人が共に腕で目を覆い隠しながら、驚きの声を上げる。

天を二分する光の柱、そこから現れたのは――。

「ユリアさん!?」
「助けに来たぞ、大翔」
助けに……って。
「どういう、ことですか?」
「大翔は壮大な自作自演に巻き込まれようとしていた、それだけだ。さあ、我が手を取れ、一旦ここを離脱する」
姫の掴めば折れてしまいそうな細い腕が差し出され、俺は混乱するしかない。

どうなっている?

俺は美優を助けようとして、ノア先生は俺を吸血鬼にしようとして、姫は俺を助けに来た?
助けに来るようなことが、あったか?
自作自演とは、どういうことなんだ!?

「大翔、早くせんか!」
「させないっ!」
姫が痺れを切らして俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしたところで、目くらましから立ち直った陽菜がインターセプトに入る。
「去れ」
手刀で姫の喉を狙って一突き。
「ちっ……」
姫はそれを少し後ろに下がるだけで避ける。最低限――後1ミリ腕が伸びれば突き刺さるほどの最低限の動きで。
「貴様、何故いまここに現れたっ!?」
ノア先生が、姫の後ろに回っていた。
その顔は完璧に取り乱していて、いつもの冷静さは微塵も感じられない。
「何故? 哀れな王よ、理由を一番に悟らねばならないのは、貴様だろう?」
後ろに目がついているかのように、ノア先生の攻撃を手のひらで受け。
「でぇぃ!」
そのままに腕を掴み、一本背負いのそれで気合と共にノア先生を空中に投げ飛ばす。
「ノア様っ!」
それに一瞬――だけれども、それは決定的な時間――気を逸らした陽菜も、姫の前蹴り……要はヤクザキックで、数m後退して蹲った。
「うぐぅっ……!」
「大翔、理由は後で話してやる。今は我と来い」
「…………っ!」
俺だって姫に納得の行く理由を聞き出したいけれど――。
「でも、美優を置いて行くわけには――!」
「その娘ならば、既に逃げ出している」
「っ!?」
美優が倒れていた所に目を向ければ、そこには血だまりがあるだけで美優はいない。
「恐らく、我が来た時と同時に逃げたのだろう」
あいつ、動けるような体じゃないだろう……!?
「生きて再会したいのならば、今は我と来い!」
「っ……! わか……り、ましたっ!」
未だに混乱している、整理なんてついていない。
だけれど、今はそれ以外に選択肢はないように思えて……。
……いや俺はただ目の前に都合よく用意された道に、従っているだけだ。
結局何も、選んではいない。

俺は、半ばやけくそになりながら、全く体温が感じられない姫の手をとった。


次の瞬間に目を開くと、俺は自分の部屋の天井を見上げていた。
「っ!」
何故だか寝かされていたベッドから起き上がると、姫は手持無沙汰な様子でぼーっと横に立っていた。
「ん……ああ、起きたか」
「え、あ……はい」
なんで俺は、こんな所に?
「大翔が一番帰りたいと願った所に、飛んだんだ」
「……なるほど」
やっぱり、ホームシックは抜けきっていなかったみたいだ。
「…………」
部屋の中は、多少家具の種類などは違っても、ほぼ元の世界と変わりはないようだった。
カーテンの隙間から見える窓の外は、未だに暗闇が空を覆っている。
「夜が、長いな」
姫がぽつりと呟き、俺も心の中で同意した。
だけど、それは多分いろいろな出来事がおこりすぎたせいだ。短い時間の中であれだけ目まぐるしくことが動いたのだから、そう感じるのも仕方ない。
「あの、それで……ユリアさん」
「ああ、時が来たようだからな。話してやる」
我としては、もう少し猶予があるやもしれんと思っていたのだけどな。姫はそうごちてから続けた。
「まず大翔を利用しようとしていたのは、あの吸血鬼二人組だ」
「な……っ!」

『少なくともこの世界には、君を利用としている者は二人いる』

あれは、そういうことだったのか――!?

「そもそも、我らは今日戦いを仕掛けたりはしていない」
「え、そ……それじゃあ……」
「暇つぶしに大翔をまた誘い出そうと来てみれば、あの哀れな王が自分の仲間の腹を貫いていたよ」
「そん、な…………」
意味がわからない。
姫の言葉が、頭の中でぐるぐると回って鳴りやまない。
ノア先生の言葉が、脳裏を過って忘れられない。
「なんで、そんなことを……!」
「大翔を、どうしても吸血鬼にしたかったのだろうな」
「俺を……」
「理由は容易に推測できるが…………。…………っ」
しかし、いつまでたってもその推測が姫の口から出ることはなかった。
「あの、ユリアさん……?」
「早いな、もう気取られたようだ」
「気取られたって――」
まさか、ノア先生達にか……?
「続きは本人に訊くといい。外に出るぞ」
「……はい」
皮肉な言葉を吐く姫につき従い、玄関から外に出た。


「大翔、無事かっ!」
ノア先生と陽菜が、息を荒くしながら必死な表情でこちらを見つめていた。
それが演技のように見えてきてしまうのは、さっきの話の影響だろうか。
「……白々しい」
姫が嘲るかのように笑った。
「大翔くん、そいつから離れて。そいつは――」
「……あの」
陽菜の言葉を遮って、俺はノア先生に向けて言った。
信じたくない、嘘に決まっている、否定してくれ。そう心の中で願いながら。
「美優をやったのは、ノアさんなんですか?」
「…………っ」
だけれど、ノア先生は。
嘘をつくには、動揺が表に出すぎてしまっていて――。
「そ、そんなわけがないだろう! 私が、そんなことを……!」
逆に、肯定しているも同然の態度だった。
「……なんで……!」
「だから、違うと言っているだろう! 大翔っ!」
「なんで、美優を……!」

「大翔くんを騙す為に決まってるよ」

「……え?」
以外な方向から、最も聞きたくなかった答えが返ってくる。
陽菜が、無機質な心の読めない表情で冷徹な視線をこちらに向けていた。
「陽菜っ! 何を……!」
「ノア様、もうばれているも同然のことをいつまでも隠しても仕方がありません。まだ美優で脅しをかければ可能性は十分にあります」
「…………っ」
ノア先生は唇を噛んで俯いたと思えば、すぐに顔を上げた。
その表情には、諦観の念がありありと出ている。少し前に公園で「どうでもいいと思っている」と話した時にも、こんな表情をしていた気がする。
「吸血鬼とは、真に哀れだな……」
姫の嘲りは止むことを知らず、夜の闇に不快な笑いが溶けて消える。
「そうだよ、大翔。私が美優をやった。そこの魔王の言う通りだ」
――ああ。
この時俺は、正直に言わせてもらうと嘘をついて欲しかったのだと思う。
信じていた人に裏切られるという絶望を、味わいたくなかったのだと思う。
……俺は……。
「我が魔王だということは、気にしないのだな……」
姫の残念そうな呟きに、俺は適当に返事をする。
「…………魔王とか、どうでもいいです」
内心少し驚いていたけれど、虚脱感の方が大きく勝っていて、何のリアクションも出来なかった。
「なんで……」
その虚脱感は、段々と怒りへとすり替わって行く。そしてそれは憎しみへと膨れ上がって、俺はその憎悪を叫びと共に吐きだした。
「なんで、美優をあんな目に合せたんですか! 仲間なんじゃないんですか!? 吸血鬼の結束なんて、上っ面だけのものだったんですか!!」
「……………」
ノア先生は、俺から目を逸らして何も言わない。貝のように口を紡いでいる。
姫も同じように黙って傍観していた。
「何とか言ったらどうなんですか! ノア先生っ!」
「――黙れ」
「え?」
それを言ったのは、ノア先生ではない。
――陽菜だ。

「聞こえなかったのか? 低能な人間が。お前なんて黙って吸血鬼になって私達の種馬になっていればいいんだよ!」
「なっ……!」
陽菜の突然の激昂に気圧され、罵倒に閉口する。
「なんで? はん、そんなもの、シスコンのお前を釣る為に決まってるだろうが! 結束? 笑わせるな、私達には最初から種として生き残ることだけしか考えていない!」
「何、を……」
種としての、生存……?
「ようはこう言うことだよ、大翔」
姫が、言葉の足らない陽菜の補足をするかのように口を開く。
「吸血鬼が増える方法は二つある。それは本人の同意付きの儀式による変異と、単純な生殖行為による出産だ」
「……それが、どう関係があるんですか?」
わからないか? と俺の理解力の無さを責めるような言い草で、姫は続ける。
「この島国には今女の吸血鬼しか残っていない。種としての滅亡を防ぐには、儀式を行うしかない。……だけれど、その儀式を行うことはここでは不可能なんだよ」
「…………あ」
「気付いたな。そう、ここの人間は吸血鬼を親の仇のように憎んでいる。誰が説得しても吸血鬼になろうだなんて思う筈もない。……だけれど、そんな未来の無い吸血鬼の前にぽっと希望が浮いて出た」
「希望?」
姫がすっと白魚のような指を上げ、指した先は俺の顔。
「……俺が?」
「そう、結城大翔は異世界から来てこの世界のことを何も知らなかった。吸血鬼達にとっては非常に都合のいい存在だったのだ」
「そんな……それじゃあ……」

「ああ、そうだよ大翔。お前を今まで保護してきてやったのは、お前を吸血鬼にする為だけだ。他には何もない」

ノア先生が、姫の言葉を継いで、そう言った。

――信頼が、崩壊する。

「我々の本当の目的は、人間を家畜として吸血鬼を未来永劫繁栄させること。その為にはお前をどうしても吸血鬼にする必要があった」

――積み上げられた思い出が、瓦解する。

「じゃあ……俺は、仲間でもなんでも……なかったんですか?」
「…………さあ、な。自分で考えてみたらどうだ?」

――悲しみが、心を包む。

「……っ」
俺には、何の価値もない。
ノア先生達から見れば、俺もただの家畜のようなものだったんだ。

俺は、一方的に仲間だと思い込んで馬鹿を見ただけ。

――今すぐ、この場から消えてしまいたい。

「全部……芝居だったんですか……」
「……………………そうだ。だが大翔は結局美優を救う為に吸血鬼になるしかない、選択肢なんて最初からないんだよ。理解できるな?」
「う……うぅ……」
膝をついて、絶望に打ちひしがれる。

俺は、こんな世界で自分が出来ることなんて何もないと思っていた。
戦う力なんてない。かすり傷を治す程度の力しかない。
そんな俺でも、仲間と言ってもらえて嬉しかったのに。
この

「人間の結城大翔には価値が無い。吸血鬼の結城大翔には価値がある。これからも仲間でいたいのなら、美優を助けたいなら、私の元に戻って来い」
陽菜が冷たい声色で囁くように言う。
それは、絶対的なまでの強制。
結局俺には美優を助けることなど出来ない……選択肢なんてないじゃないか。
自分の非力さに、愚かさに、涙が溢れそうになる。

「大翔。わざわざ自分を裏切った者の場所に戻る必要はあるまい」
姫が、蛇のように俺の体に腕を絡ませ、俯く俺を抱きよせる。
まるで体温が感じられず、柔らかさも感じないのは何故だろう。そんな疑問も思い浮かんだけれど、すぐにどうでも良くなった。
「我と共に来い、魔族として覇道を歩め。我らはお前を純粋な戦力として、戦友として迎えよう」
「…………ユリア……さん」
心が、揺らぐ。
支えを失った脆い心に、付け込まれる。


……だけれど、次の瞬間にはそんなしがらみが全て吹っ飛んだ。

「魔族風情が、薄汚い手でその男に触れるな」

美優の登場が、俺の中で全てを吹っ飛ばす程の衝撃を与えてくれた!

「ちっ……!」
流石の姫も感知しきれなかったのか、美優の上空からの不意打ちを転げながら避ける。
美優の動きに、先ほどまでの怪我を感じさせる鈍さは無い。
「美優! お前……大丈夫なのか!?」
「見ての通りです」
美優が、膝をつく俺の両腕を掴んで「しっかり立ってください」と持ち上げる。

「……飛んだ邪魔が入ったな」
姫が舌打ちし、陽菜とノアは驚愕の表情でこちらを見ている。
「美優、お前……何故動ける……!?」
陽菜が驚愕に目を見開いて叫ぶ。
「…………さあ、姉さんが生き返るよりは不思議なことでは無いと思いますが?」
「っ……! 美優、口を慎め!」
「姉を殺し、自分まで殺そうとした主に振る尻尾などあるわけがないっ! 私はこの人を守る。この人の中の姉さんを守る!」
「俺の中の、美羽? どういうことだ……?」
「後で話します。それよりも、まずここを一旦離脱します」
美優の手が差し伸べられる。
「……あ、ああ!」
俺は、その手をしっかりと握った。
とても暖かくて小さいけれど力強いその手は、何よりも俺の心を支えてくれる。
「行きます、絶対に手を離さないでください」
「行きますって……、うおあっ!!」
――飛んだ。
単純に、ジャンプした。
足に力を入れているようには見えないが、軽やかな踏切りで軽々と民家の屋根に着地する。

「逃がすかっ!」
「陽菜、追うな」
俺達を追うべく飛び上ろうとした陽菜を、ノア先生が諌める。
「っ! 何故ですか!」
「まもなく朝がやってくる。力の無駄遣いは避けたい」
「……それも、そうですね。捕まえようと思えばいつでも……」



「追って、こないのか?」
「だとしたら、それはそれで好都合です」
――姫の方を見る。
姫は最初から追う気は無いらしく、シニカルな笑みでこちらを見上げていた。
「大翔、今は逃がしてやろう。だが覚悟を決めておくのだな、次の夜お前に会うその時が、人間をやめる決定的な瞬間になるのだ」
そんな、予言めいた言葉を残して、姫は何の前触れもなくその場から消滅する。
捨て台詞とも取れなくもないが……魔王の言葉だからか、何故か重々しい響きを持って心の中に残った。

「……追撃は予想していましたが……どちらも追って来ないとは……」
美優は、逆に不気味だと言いたげに顔を曇らせる。
だが気にしすぎて逃げる機会を失っては意味がない。
俺達は、残ったノア先生達を気にしながらも逃走を続けた。





――どんなことがあっても、明けない夜は無い。
いつだって東から太陽は昇る、まるで俺達をあざ笑うかのように。
吸血鬼の命を容赦なく奪う日光は、燦々と街を照らし続ける。

「……美優、大丈夫か?」
「大丈夫です」

俺達はゴーストタウンとなった街の都市部、今は機能していない駅の周辺にある、ビジネスホテルの一室に潜んでいた。
半年以上放置してあるので埃は溜まっていたが、今更気にする程でもない。
「……ふぅ」
売店に一つだけ転がっていたミネラルウォーター(消費期限については確認済み)を一口飲み、溜息をつく。
当然部屋のカーテンは閉め切ってあり、美優は隅のベッドで布団に入り丸まっている。
どうやら体力の消耗を防ぐ為に昼間は出来るだけ眠るのが良いらしい。
「美優……」
「だから、大丈夫だと言っているでしょう」
しかし、どうも心配で声をかけすぎてしまう。
美優は平気な素振りを見せて傷を見せてくれないが、あれ程重傷だったのに簡単に治るわけがないのだ。
だが美優は理由も話してくれずに鬱陶しそうに返事をするだけ。正直、少し寂しい。
まあ、俺のせいで眠れないからなのかもしれないが。
「じゃあ、俺も少し休むか……」
「それがいいです」

―― 一時間後。


隣のベッドで仮眠を取り、目覚めてからまた水を口に含む。
なにせこれが最後の水だ。
食糧を取りに戻るわけにもいかないし、これが尽きるまでに決着をつけなければならない。
……何を持って決着とするのか、未だにわからないけれど。

「……なあ、美優。起きてるか?」
「起きました」
「…………反応早いな」
「寝ていても神経を張っていますから、何かあればすぐに起きます」
「そっか。……あのさ、じゃあ少しだけ、話いいかな?」
「…………いいですよ」
多少間があったが、肯定の返事に安心する。
俺は天井を仰向けになって見上げながら、慎重に訊いた。
「これから、どうするんだ?」
「……貴方を元の世界に戻し……そして、復讐します」
飽くまで淡々と、感情の色を滲ませないように美優は言う。
「復讐って、美羽のことだよな」
また少しの間があって、「はい」と小さな返事。
確か、昨晩に美優がそう言っていたんだ。あの時は逃げるのに必死で訊けなかったけれど……。

「ノア様……いえ、もう様をつける必要もありませんね」
こほんと一旦言葉を区切る。
「吸血鬼の王であるノアは、この大陸における吸血鬼の血脈を滅亡させない為に、貴方を取り入れようとした」
「……ああ」
そこまでは、知っている。
知りたくなかったけれど、知っている。
「それは、私も殺されそうになる直前になって知ったことです。……今まで、そんな計画が動いていただなんて私は全く知らなかった」
……だから美優は、喉を潰されながらも必死に俺を止めようとしたんだ。
「その時に、ノアが言ったんですよ。どうせ貴方を吸血鬼にしたらすぐにトドメを刺すつもりだったんでしょう。冥土の土産とでも言わんばかりに白状しました」

『美羽は私が殺した。真に友好派である美羽は邪魔になるだろうから、早めにその芽を摘み取っておくに越したことはなかった』

「そう、言ったんです」

……信じてたのに。

美優がぽつりと呟いた言葉が、俺の心に反響する。
それは、俺もずっと心の中で叫び続けていた言葉。決して届かない、叫び。

「許せなかったんです。種として生き残ることを優先するのは理解出来る、だからと言ってまるで保険をかけるかのように姉さんを切り捨てたことが、許せなかった……!」

美優のくるまっている布団が、小刻みに震えている。
それが怒りによるものなのか、姉を思う悲しみから来るものなのか、俺にはわからない。
「……そうだったのか」
俺は、それ以上美羽のことについては踏み込むことが出来ずに、話題を逸らす。
「あのさ……じゃあ、俺を守る意味って、なんだ? 復讐するだけなら……必要、ないじゃないか」
先ほどの会話から派生して生まれた疑問を、そのままぶつける。
美優から返ってきた答えは、至極単純な物だった。
「姉さんを、守る為です」
「……え?」
すぐにはその言葉が理解できない。
……いや、頭の中で何度噛み砕いて考えてみても、わからない。
「私は、貴方の血を吸いました。その時に、貴方の記憶の中が見えたんです」
ああ。ノア先生が、血識とか言ってたアレか……。
「驚きました。……姉さんも、貴方も、私も、ノアも、何故か魔王でさえも、皆楽しそうに幸せそうに暮らしているのだから」
「…………」
それは、俺にとって数日前までは普通だったこと。
だけれど、この世界では望むべくもない尊い日常。
失ってから初めて大切だったと気づくことというのは、正しくこれだと思う。
「だけれど、その中から貴方だけが消えたらどうなる? 皆が……きっと姉さんも、悲しむでしょう」
だから、と一泊置いて。
「私は、姉さんを守れなかったから。……だから、せめて別の世界の姉さんだけでも悲しみから守ってあげたかった」

――それが、貴方を守る理由です。

そこで、理解する。
ああそうかと、胸の中ですとんと何かが落ちるかのように、納得する。

飽くまでも俺の為ではなく、美羽の為なんだ。
別にがっかりしたわけじゃない、そんなおこがましい考えは抱いていない。
自分の身の上は弁えているつもりだし、美優にそんなことを言ってもしょうがない。
しょうがないのに……。

「駄目だな……俺……」
「? 何が駄目なんですか?」
不思議そうに訊き返してくる美優に、俺は自嘲するかのように言った。
「守られてばっかりで、何もできなくて、結局俺が美羽を殺したようなものじゃないか。……本当に、何してるんだろう」
俺がこの世界にやってこなければ、ノア先生は美羽を殺さなかっただろう。
「本当、人間の俺には何の価値もない……。ノアさんの言うとおりじゃないか」
「…………」
こんなのはただの愚痴だ。
話す方も話される方も両方嫌な気分になってしまう。
そんなことは、わかってる……わかってる……のか……?
……俺に、何がわかってるって言うんだろう。
今までこの世界に来て何度も良くわからない目にあって、俺はその度に何をしてきた?

うじうじと悩んでいただけじゃないか。
吸血鬼になると一度決断した時も、すぐに姫の言葉に流されてしまった。
俺には、何も選ぶことは出来ない。
自分の愚鈍さに反吐が出て、悔しさから涙があふれそうになる。

「…………」

やっぱり、こんな愚痴に返事してくれるわけないよな。
美優だって、呆れてるに違いない。
「……貴方は、生きていくのに価値が必要なんですか?」
「え?」
突然返ってきた返事、まるで予想外なその言葉に俺は動揺する。
「誰かから必要とされなければ、何かを役に立つことをしなければ、生きていけないというんですか?」
「…………」
「生きていくのに必要な理由なんて、私には二つくらいしか思い浮かびません」
「……二つ?」
「死にたくないから、やりたいことがあるから」
それは、気持ちの良い程に簡潔な答えだった。
「生きていくのに理由が必要だというのなら、それだけで十分です。
 さっき貴方が言っていたようなくだらないことは、余裕のある人だけが暇な時に考えていればいいんですよ」
「…………」
「それに、姉さんが死んだのは貴方の責任じゃありません。ノアが犯した罪を貴方が背負う必要があるんですか?」
あなたは、深く考えすぎです。もっと単純に生きてもいいと思います。
最後にそう締めて、美優はそれ以降何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
ビジネスホテルの一室に沈黙が降りて、そのまま時間が流れていく。

――単純でいい、か。

そう簡単に割り切れることではないけれど、美優は真剣に考えてこの言葉を送ってくれたんだと思う。
だったら、俺も真剣に受け止めて、前向きに考えてみよう。
……美優だって、いろいろと悩んでいるに違いないから。

「私は夜まで眠ります……大きな音をたてないでくださいね」
「……ん、じゃあ俺も寝るよ」
夜になれば、また過酷な出来事が待ち受けているに違いない。
休める時に休んでおかないとな。
「そうですか、おやすみなさい」
「…………え?」
「? なんですか?」
「あ、ああいや……。おやすみ」
美優に聞き返されて、焦りが声に出てしまう。
……ただ、美優に、妹におやすみと言ってもらえたのが何だか懐かしくて、嬉しかった。
それだけのことだったのだけれど、とてもかけがえのない物のように感じたんだ。



そして。
――気がつけば、俺はホテルのロビーにいた。

「……え?」

あれ……前にもこんなことがあったような……。
あの時は確か、そうだ。服を乾かしに外に出たんだっけか……?
その辺りの記憶を探ろうとすると、靄がかかってるみたいにあやふやな記憶しか掘り出すことができない。

「……どうして……」

…………ああ、そうだ。
確か、腹が減って食料が残ってないか探しに来た……筈だ。
どうにも何かが喉に引っかかるかのような違和感が拭えないが、悩んでも仕方ない。
俺は目的の厨房を探すべく周りを見渡す。
ここはそれほど大きなホテルじゃない。
小さなシャンデリアが飾ってあって、喫煙所のソファーやテレビは埃をかぶっている。
当たり前だが、フロントには唯一の客である俺達を出迎える人間は一人としていない。まあ、金は払ってないわけだが。

道路沿いはほぼ全面ガラス張りで、普段なら賑わっていたであろう駅前がはっきりと見て取れた。
「…………」
元の世界の風景と重ね合わせようとして、やめた。
そんなことをしても意味は無い、意味の無いのことはやめよう。
今の俺に、そんな余裕はないのだから。

「……余裕は大切だよ。心にゆとりを持て」

――いきなり、いた。
この人の登場はいつだって唐突で、俺はいつだって驚かされて、動揺して、惑わされる。
だけれど、いつまでもそうやって驚いて主導権を握られるのは癪だ。
俺は驚きを胸の内に閉じ込めて平然とした態度で、ソファに悠然と座る姫に言葉を返す。

「残念ながら、俺はゆとり教育の影響でゆとりって言葉が大嫌いなんですよ」
「ふむ? ゆとり教育というのが何だかわからないが。なかなかに素敵そうな教育方針だな」
まあ、その言葉の奇麗さにだまされて子供はどんどんとダメになっていったわけですが。
「それにしても……魔王って、意外と暇なんですね……。俺みたいな人間に会いに来て楽しいですか?」
「……ああ。何故かな、最初は大翔が能力を持つ人間だからという理由だったが……ここまで執着する理由というのは自分にもわからないのだよ」
「わからないんですか?」
「ああ、わからないな。……ただ、何故か惹かれてしまう」
「……惚れましたか?」
ふざけてそう言うと、姫は「そうかもな」と調子を合せてくる。
「ただ……我の魔王になる前の記憶が、君を知っているのかもしれない」
くだらん話だな、魔王はそう言って肩を揺らした。
まるで自分の過去を否定するかのような態度に、少し興味が湧く。
「…………」
いや、待て。相手は魔王なんだぞ?
今度は俺を魔族にするとか言ってたし、悠長に会話している場合じゃないだろう。
……でも、今の姫からは夜と違い威圧感がまるで感じられない。
「そう警戒するな。昼間の我に夜のような残虐さや狡猾さ、敵意は存在しない」
というよりも、無理やりに抑えられてしまうのだが……。という姫の言葉を、多少の疑念を持ちながら受け止める。
「…………」
確か、姫と会うのはこれで昼間に二回、夜に一回だ。
夜の時は恐ろしい威圧感を与えられたが、今の姫は極めて穏やかで、今すぐ何をどうこうしようという意志は感じ取れない。
少なくとも敵意は無い。それははっきりと確認できる。
俺は安心して、湧いた興味を質問にして姫にぶつけた。
「魔王になる前って……どういうことですか?」
「さあな。記憶はないが、我は多分人間だった……それだけだ。今は生存本能の塊、ただの魔王だよ」
どこか遠い場所を見る目つき。夢を見ることを諦めた大人のような姫の憂い顔に見入ってしまう。
「惚れたか?」
俺の視線に気づいた姫にからかわれ、俺は顔を赤くしながら反論した。
「そ、そんなことないです、誰が魔王なんかに……」
そう、そんなことより気になることを言っていた。
「それよりも、生存本能の塊って……どういうことですか?」
「そのままさ……。我は死にたくいだから生き続ける、それだけだ。ほとんど死んでいるも同然なのだがね」
姫が足を組み直そうとして、長い脚がテーブルにぶつかりそうになり――すり抜けた。
「!?」
「……ああ、大翔は知らなかったか。私はほぼ魂だけの存在だから、普通はこうしてすり抜けてしまうのさ」
「で、でも。この間は普通に蹴ったり投げたり……」
「引力と斥力を利用し、いかにもそこにいるように調整している」
「…………そうなんですか」
だからあの時。姫からは体温も何も感じなかったんだ。
魂には、熱も何もないのだから。
「しかしこんな体でも私は死にたくない、そう感じている。見苦しいかもしれないがね……。死ぬとはどういうことなんだ?
 何も無いということなのか? いきなり魔王になって、本能のままに人間を狩り歩いていた私には天国も地獄もあるとは思えない。
 無は……怖いよ。私が唯一恐れるものだ。だからこそ私は魔族という軍団を結成した。効率良く魂を集める為に」
「効率良く……魂を」
言葉を繰り返す俺に、姫は頷いた。
「実を言うとな、今世界中に散らばる魔族というのは、我の力の一部が顕現化した物に過ぎない。意思のある存在など、一人としていないのさ」
――全ては、姫一人だけが生き続ける為だけに。
その為だけに、姫は五百憶もの人間を殺し続けてきたというのか。
「ああ……だけれどなぜかな、こうして存在し続けていると、いろいろと余計な感情も湧き出てくる。
 戦いが楽しく感じたり……大翔を仲間にしようとしているのもそうだな……」
「それって、余計って言えるんでしょうか……」
感情があるということは、ただそれだけで素晴らしいことなのではないか。
「無駄かどうかは、我が判断することだ。……余計なことに目を向けすぎると、人の魂を狩るのを忘れてしまうからな」
「……やっぱり、殺さなきゃダメなんですよね」
「言っただろう? 死にたくないと。人間の魂を奪わねば私は消えてしまう。吸血鬼だって同じことだ。
 ……ふん。ただ、あの哀れな王は個体としてより、この島国での種を残すことを優先したようだがな。
 私はただ自分の為だけに、人間を殺す。老人でも、女でも、子供でも……」
「子供……」
その言葉に、俺は姫と最初に出会った公園のことを思い出す。
あの時遊んでいた子供達は、無事なんだろうか?
「…………おい」
姫が突然声のオクターブを下げ、声にドスを利かせてくる。
「何故我が自分語りをしなければいけないのだ」
「そんなこと……」
俺はきっかけを作っただけで、ほとんど自分で話してたじゃないか。
そう言おうとして、やめた。別にいたずらに煽ることもない。
「ああ、やはり昼は駄目だ。思うようにことが運ばない……」
額に手を当て思い悩む姫に、俺はどう反応をしたものか困ってしまう。
「せっかく誘導してここまで連れてきたのには、理由があるんだよ」
「……誘導?」
「なんだ、気づいてなかったのか」
「気付いなかったって……まさか!」
平然と嘯く姫の態度で、ようやく記憶の謎がつながった。
「そう、大翔を地下から外に出したのも、今ここに連れ出したのも、私が大翔を僅かな間操ったからだ。いや、操るというより乗っ取りか」
「だから記憶が飛んでたのか……」
思い出せないわけだ……。
乗っ取るというからには、体は自分の物でも発言や行動は姫が行ったものとなるのだろう。
だとしたら、姫が抜け出た後にはその結果と記憶だけが残るのだから、脳は覚えていても魂が覚えていない……ということでいいのか?
……ちょっと待てよ?
「だったら、その力を使って戦えば楽に勝てたりするんじゃないですか?」
何せ相手の体を乗っ取ることが出来るのだ、うまく使えば誰にでも無傷で勝利できるじゃないか。
「この力は力の消費量が膨大だからな、私でも一分持たせたらすっからかんとなってしまう……って、だから、いつになったら我の話題に戻れるんだ!」
横道に逸れてしまいそうな気になることばかり言うからだ。
というのは言い掛かりだろうか……。
「大翔、これはお前にとっても重要な……。いや、お前にこそ聴かせなければならない話なんだぞ?」
「俺にこそ?」
何を言われるのだろうかと、少し身構える。

「理由はわからんが……大翔がいた世界は、後一年で滅び去る」

「――え?」
姫の言葉が一瞬宇宙人語のように感じられて、すぐには理解できなかった。
身構えた所で何の意味も無い、横合いから思いっきり殴られたかのような衝撃を受け、俺の思考が停止する。
「大翔の力に似た反応を調べれば、その世界を見つけ出すことは簡単だった。
 ……こういう結果がついてきてしまったのは、お前にとっては残念なことだったがね……」
「ほ、本当なんですか!?」
「本当だ」
真実を告げる姫の声はあくまで冷静で、とても皮肉や冗談を言いだしそうには見えない。
……俺は、その事実に打ちひしがれる。
「そんな……」
「まあ待て、まだ誰も救うことができないとは言っていないだろう」
「出来るんですか!?」
「ああ、我が全力を出せば……な。だがそれには条件がある」
「条件……」
やはり、ボランティアをするような性格ではないとわかっていたが……。
どんな条件を出されるものか、俺は身を固めてそれを待つ。
「大翔が我と同一の存在になることだ」
「…………!」
それは、あまりにも残酷な提案だった。
「大翔、これは我にとっても最大限の譲歩と言っても良い。夜の我ならば有無を言わさずお前を連れて行ったとしても不思議ではないのだ」
「…………」
なんで、揃いも揃って俺に人間をやめさせようとするのだろうか。
俺は、人間のままでいいのに。
普通に生きていられるだけでいいのに……。
「我は、お前の能力についても知りたい。そして、何故大翔に惹かれてしまうのか……その理由も知りたい」
――例えそれが、余計な感情だとわかっていたとしても。
「……………………」
姫の言葉を、俺は押し黙って受け止める。
余程顔に出てしまっていたのだろうか、姫がフォローのような科白を加える。
「……まあ、我が助けずとも助かる道は無いとは言えない。ただ、一番確実だというだけでな……」
「……俺は……」
元の世界のみんなのことを思い浮かべる。


異世界からやってきた姫様達のことを。
元気一杯な幼馴染のことを。
くだらない冗談ばかりを吐く悪友のことを。
頼りになる先生達のことを。

――いつも一緒にいた、妹達のことを。

美羽……美優……。

――――――――迷惑かけることになるけど、許してくれるか?

「ごめんなさい。俺は……魔族にはなりません」
「……そうか」
姫は、まるで最初からその答えを予測していたかのような表情で、言った。
あくまで穏やかで、どこか諦めの混ざったような顔。
「一応、理由を聞かせてもらってもいいか?」
「……確かに、みんなを守りたいとは思う……だけれど、俺は人間でありたい。人として生きていたい。
 そんな単純で……自己中心的な、理由です」
「なるほどな。確かにそれは、単純でいいな。人間でありたい……か……。実に単純でいい答えじゃないか」
心の底からおかしそうに笑う姫に、少し奇妙な印象を受ける。
何故、誘いを断られて笑っているんだ……?
「ならば、こちらもシンプルに行かせてもらうだけさ」
最初から、そうすれば良かったのかもしれないな。
姫は笑いを堪えながらそう呟いてソファーから立ち上がり、すっとした指先で俺を指差しその手を広げて上に向けた。
「真正面から戦い、全てをねじ伏せる」
そして、ぐっと拳を力強く握り込む。
「…………」
その力強さに、圧倒される。
豪胆さと美しさを兼ね備えた魔王に、魅了される。
「あの……美優、だったか? せいぜい気をつけるように伝えておけ。お前を説得するには、奴を追い込むのが最も有効な手段なのだからな」
「俺が守ります」
「さてね、大言壮語を吐いた所で今の大翔にできることなどあるのかどうか……」
姫が、握り込んだ拳からピッと指を一本立てる。
「お前が我との取引に応じなかったのは、まだ世界を救えるかもしれないという未来への希望があるからだろう?
 ……だけれど、目の前で助けを求める者がいた時、今すぐにでも治療しなければならない程の傷を負った者がいた時、お前はどうするのかな?」
「…………」
「私はお前を手に入れる……必ずな。それでは、また夜に会おう」
あまりにも的確に、あまりにも冷徹に、心の隙間を突くような言葉を残し――やはり何の前触れもなく、目の前から消えた。




――吸血鬼の本拠に舞台は移る。

暗く重苦しい空気の地下の一室に、申し訳程度の光が灯される。
その明りの元は小さな裸電球であり、そのスイッチを入れたのは吸血鬼の王であるノアだった。
「……空気が淀んでいるな」
通風口は当然存在するが、地下深くともなれば多少そうなってしまうのも仕方がないものだ。
ノアもそれは理解しているようで、そのことについては特に言及しない。
「……大翔……」
数日前までここにいた人間――結城大翔――が使っていたベッドに腰掛け、過去に思いを馳せる。
「私は、どうしたらいい……?」

「ノア様、どうかされましたか?」
そこに、様子を見にやってきた陽菜が声をかける。
その表情に、大翔がいた頃のような明るさはない。
それはそうだ、あれはそもそもが演技だった。こちらが陽菜の素の姿なのだから。
陽菜という名にはあまり似合わいそうもない、陰鬱になりそうな声と顔で彼女は言った。
「また悩んでいらっしゃるのですか?」

「……なあ、陽菜。この計画は本当に正しかったのかな……?」

確かに大翔と親しく接するのは計画の一部だ。……だが、ノアは決して大翔のことが嫌いではなかった。

……しかし、仲間を傷つけてきた上に先ほどの出来事も重なり、大翔と美優を二人とも失ったのだ。
今となっては、何とか目標に向けて保ってきた心が折れかかってしまっている。

「何を言うんですか、正しくないわけがないでしょう? 吸血鬼の未来を作る為なのですから。そして、それにはあの男が必要なんです!」
「……だが、こんな結果になってしまっているじゃないか」
「い、今はこうなっているだけです! 美優さえ人質にとれば……!」
「……魔王はどうするんだ?」
「私達二人が力を合わせれば倒せます!」
「…………いつも、都合良く魔王が一人でいるわけじゃない」
人の言葉を否定してばかりいるノアの言葉に、拳を握りこんで打ち震える陽菜。
「っ……なんですか。それがどうだって言うんですか! 私はただ、吸血鬼が! 仲間がまた増えればいいと思って提案したのに!
 ノア様だってそれに賛成したのに! いまさら、何を言うんですか!!」
そして激昂。
だが陽菜は気付いていないのだ、自分の論理が破綻していることに。
ノアも少し前までは気付いていなかった。陽菜が正しいと信じ込んでしまっていて、人間への復讐に進む自分に酔っていた。
だけれど今はすっかり夢から醒めて、陽菜の話が心に届くことはない。
「それは、そうだ。確かに私は美羽を殺した時、一種の興奮状態に陥っていたよ。
 これで人間への復讐に一歩近づいたって……。でも、あの時私は多分おかしくなってたんだよ。
 人と魔族への憎しみで狂っていたんだ! 敵に向けるべき殺意をよりにもよって仲間に向けるだなんて……!
 私にはやはり人を騙すだなんて無理だ! 大翔と普通に接しているだけでも胸がずっと苦しかった!
 自分でも自分の弱さに反吐が出る、情緒不安定どころじゃない。私はなんなんだ? 一体何をしているんだ?
 これ以上、仲間を殺してまで何をしようとしているんだ!?」
つらつらと続く、自分への非難。
「……もう……殺したくない……戦いたく、ないよ…………大翔……美優……」
それが、吸血鬼の王の本音だった。
「ノア様……」
陽菜の目から涙が零れ、頬を伝って落ちていきコンクリートの床に弾けて消える。
怒っているのか悲しんでいるのか、二つの感情を同時に表したその表情で、陽菜はノアを睨みつけていた。
「どうせ魔族には勝てないんだ。……どうしてそんな簡単なことにも気付けなかったんだろう? 
 度重なる戦いで疲れ果てて、美羽と美優と陽菜しかいなくて、それでも憎しみで何とか戦ってきた。 
 憎悪は麻薬だよ、感情を麻痺させて自分が何をしているのかわからなくさせる。
 だけれど大翔の血を吸って私は目を覚ました。覚ましてしまったんだ……」
大翔が現れないまま、憎悪に染まって戦って死ぬのも一つの運命だっただろう。
だけれどもしもの話はありえない、神がサイコロ遊びをしないのと同じように。
「私は、大翔の世界が羨ましい。大翔の血を吸って私は目を覚ましたんだ。あの世界の私に私は憧れるよ、凄いんだ……優しく強く頼りになる、私とは全然違う。
 私は、皆を救うノアにはなれない。方舟には、なれない……なれないんだ……ぐっ……うっ……!?」
いつまで続くのかわからなかった自虐の終わりは、突然に訪れた。
「! ノア様!?」
ノアが胸を押さえて苦しみ出したのだ。
陽菜は気が動転しそうになるのを抑えて駆け寄り、「大丈夫ですか!?」と声をかけながら、ベッドに座るノアの肩を揺する。
「ぐっ……ああぁぅ……がっ!」
びくんびくんと体が大きく痙攣し、ノアは苦痛に操られるかのようにベッドの上で暴れる。
「の、ノア様っ! お、落ち着いて!」
陽菜がなんとかベッドに押さえつけるも、ノアの体は自らの意思とは関係なく暴れ続ける。
まるで麻酔も無く手術されている患者とそれを拘束する医者の様相だ。
白く剥いた目、、だらしなく開いた口、その顔は今は正視に堪えないほどだ。
陽菜にはそんなことを気にする余裕はまるでないのだが。

「はいって……くるっ……がぁぁっ!」
「入ってくるって……どういうことですか!? ノア様っ!」

カシャン。

その時、ノアの懐からライターと煙草の箱が零れおちた。
それは、彼女唯一の趣味とも言える代物であり。

王であるノアが憧れた「ノア」との、共通点でもあった。

「っ!?」
陽菜はライターがコンクリートに落ちた音に多少気を逸らしてしまい。
「ああぁぁぁぁぁっ!」
「きゃっ……!?」
ノアが力任せに振り抜いた拳に腹部を殴り抜かれ、コンクリートを突き破りそうな勢いで壁に衝突し。
「………………!!」
悲鳴を発することも出来ずに、気絶する。

いくら吸血鬼の強靭な肉体とはいえ、同種の中でも最大級の力を持つノアに全力で殴られたのだ。
しかも狭い部屋の中で、その力が緩まることもないまま壁に叩きつけられて平気でいられるはずがなかった。
むしろ気絶だけで済んで僥倖だった、というのは言いすぎかもしれないが。

「…………」


一方ノアは、陽菜を殴り飛ばした後にむくりと起き上がり、先ほどまでの苦しみが嘘だったかのように静かに俯いて――いたのだけれど。
「……ふむ」
やがて緩慢とした動きで煙草とライターを手に取り、手慣れた手つきで火をつけて一息をつく。
「知らない銘柄だな、味も独特だ。体の感覚も、違う。…………この体に蓄積された記憶は…………なるほどな。
 随分と大変な状況に陥っているようじゃないか、この世界は」
ぐっと膝を曲げ、体の具合を確かめるかのように簡単なストレッチを行う。
その姿に先ほどまでの弱気さはまるでない。
……そう。今のノアは、凛々しく立ち、優しく頼りになる救いの方舟。
「美羽くんに美優くんに沢井くん、3人の力を借りて30分持つか持たないか……か。急がねばな」
薄暗い部屋の中に立っているのは吸血鬼の王ではない。
「大翔、今助ける」
王が憧れた『私』。
ノア・アメスタシアが、この世界に降臨した。

――皮肉にも、王は自分が憧れた存在になることができたのだ。



音をたてないよう、ドアをそっと開く。
ベッドにはまだ美優が寝ているようだ。良かった、気付かれてはいないらしい。
まあ気付かれていたら止められていただろうけど(しかし、外に出た時は中身は魔王だったわけだから、どうなるかはわからないが……)。
「そっと……そっとな……」
あくまでサイレントに、そしてエレガントな足運びを心がける。
そう、俺は忍や、プロゴルファー忍者や……!

ガッ

「あ」
椅子の足を蹴飛ばしてしまった。
不注意にも程がある……というか何で気付かないんだよ俺。
「何かありましたか?」
案の定美優を起こしてしまい、俺は申し訳ない気持ちで一杯になりながらも答える。
「ああいや、何でもないんだ。ただ椅子の足を間違えて蹴っちゃってさ、だからまだ寝ててくれても……」
美優は俺の言葉を聞きながらのそりと上半身を起こし、カーテンが閉められた窓に目をやる。
そこからはまだほんの少しだけ、夕日の赤い光が射しこんできていた。
「いえ、もうすぐ夜がやってくるのはわかっていました。もうそろそろ起きておいた方が体にいいです」
「そうか……」
俺としては夜になるまで出来るだけ休ませておいてあげたいという気持ちだったのだけれど、美優がそう言うのならばその方がいいのだろう。
「ん……?」
ベッドから出て背伸びをしていた美優が、突然に真剣な表情となってドアの方に目を向ける。
「どうした?」
「ドアの外に誰かいます。……貴方は下がってください」
「……わかった」
ここは逆らわない方がいいだろう。
俺はドアから少し距離を取って構える美優の後ろに下がる。
「…………っ」
美優がごくりと喉を鳴らしたのがわかる。
……俺にも感じられるのだ、ドアの向こうから感じられるこのプレッシャーを。
この、プレッシャーは……。……? 俺は、この感覚を、知っている?
「やはり、ここで間違いはなかったか。王の察知能力とは使いやすいものだな」

ノア先生、だった。

……ノア先生が、まるで友達の家に遊びに来たかのような気楽さでドアを開いて現れたのだ。

「ノア……!」
美優が、ノア先生の顔を見た途端に声と態度を硬化させる。
だけれど、対するノア先生の方は向けられた殺気を飄々と受け流し、美優ではなくその後ろにいる俺を見て言った。
「探したよ、大翔。君のせいで世界が上へ下への大パニックだ」
「え……」
その口調は、吸血鬼の王であるノアさんとは微妙に違う。
そう、真に「ノア先生」のそれだった。
「何を言っている! 貴様は私達を狙ってきたのだろう!」
美優の激昂を、ノア先生は落ち着けといなして答える。
「私は……ノア・アメスタシアだ。この世界の吸血鬼の王では無い」
「あめ、すたしあ?」
「……ノア・アメスタシア」
そうだ。
ここの世界の吸血鬼に、苗字やセカンドネームは存在しないと、初めに美羽に聞いた。
美優は美優で、陽菜は陽菜。結城や沢井なんて苗字は存在しないのだ。
だけど、今この人はアメスタシアと名乗った。こちらの吸血鬼であるノア先生には知る由もないはずのセカンドネームを。
つまり、それは。
「ノア先生っ!」
この人は、本当にノア先生ということだ!
「良く無事だったな、大翔――って、どさくさに紛れて抱きつこうとするのは良くないぞ」
どさくさに紛れようとしたら長い腕で頭を掴まれて止められた。
「むが……いえ、本当に、嬉しかったんで……」
下心なんて、少ししかありませんでしたよ?
「ああ、わかっているさ……わかってはいるが、今は時間がないのだよ」
ノア先生は、顔を掴んでいた腕をとんと突き出して俺をよろけさせる。
「っと……ありがと、美優」
そこを、美優が後ろから支えてくれる。
しかしその表情は硬く、ノア先生に対し警戒を解いてはいないようだ。
「私には、貴方が異世界から来た人物だとは信じられません」
「美優、何を……」
「信じられないのはわかる。だが信じてもらわねば……いや、この際信じなくてもいい。私と大翔に話す時間をくれないか?」
「………………」
美優は疑り深い視線をノア先生に向けたまま、窓には近づかないよう壁際に下がって置物みたいに動かなくなる。
どうやら、一応は引き下がってくれたらしい。
「ふう、こちらの世界の美優くんは中々気難しいな」
ノア先生はため息をついてベッドに腰掛け、懐からライターと煙草を取り出して火をつける。
……しかし、先生はどうやってここに来たんだ?
俺達の世界には、まだ異世界へと移動する術は見つかっていない筈だ。
姫様達は、別世界から来たのだから例外だが。
「私はな、いわゆる幽体離脱のように魂だけを移動し、この体を一時的に借りているのだよ」
「幽体離脱、って……」
「かなり高度な能力だ。知らないのも無理はない」
「……いえ、知ってますよ」
「ほう?」
何せ、それは自分が魔王にやられたことと同じなのだ。
直々に説明を受けたのだからほぼ間違いないだろう。
「知っているのなら話が早いな。まあ高度な能力な上に異世界まで魂を飛ばすともなれば危険も伴う上に莫大な力を消費する」
「ノア先生が、一人で力を負担してるんですか?」
「いや、美羽や美優、沢井くんの力を借りているのだよ。皆、君を助けようと必死になってね」
「美羽達が……」
俺の、俺なんかの為に……。
「だがそれでも30分が限度だ。ここまで来るのに5分使ったからな、残りは25分ほどしかない。そうなれば、私の魂は強制的に排除され。この体は元の持ち主の元に戻る」
そうだとしても凄い。確か美羽や美優に陽菜の力を合わせたとしてもノア先生には届かなかった筈だ。
つまりこの人の力は魔王に匹敵するということじゃないか。
俺は内心少し戦慄しながら話の続きを促した。
「……それで、先生」
「ああ、そうまでしてここまで来たのだ。元の世界に戻ろう、大翔」
「……!」
元の世界に、戻れる。
平和な日常に、幸せな日々に、戻ることができる。
だけどそれは――。
「…………何ですか、その目は?」
俺の視線を感じ取った美優がきっとこちらを見て言った。
「元々私は貴方を元の世界に戻すつもりでした。この話は都合のいいことじゃないですか。私にとっても貴方にとっても」
だから、そんな哀れむような目で見るなとでも言いたげな顔だ。
「そう、だな」
もうすぐ去ろうとしているものからの同情なんて、鬱陶しいだけだろう。
「別に無責任だとかは思いません。姉さんだってそれを望むでしょうし」
美優のその言葉を聞いて、ノア先生は少し呆れるかのように、
「……しかし、な。吸血鬼というのは……」
と呟きかけ、「おっと、話が先だな」と首を横に振る。
美優は何か言いたげな視線を先生に向けたけれど、口をつぐんだままでいてくれた。
「まあ、元の世界に戻るのも今すぐというわけにもいかない。問題も山積みだ」
「……問題といえば、魂だけならまだしも肉体まで転移させる力って、まだ俺達の世界にはない筈じゃあ……」
「そこは、私達の世界の人間じゃない者に頼むしかないだろう」
「…………ユリア姫に、レンさんですか」
「Exactry(その通りでございます)。彼女達は転移のゲートを開くことが出来る……が、ことはそう簡単には運ばない。これから注意点を上げるので心して聞くように。『もう一度』は受け付けないぞ」
「はい」
気合を入れて、しっかりと話を聞く姿勢を取る。
「実はな、姫は私達の世界と姫の世界が接近しすぎているのを察知してこの世界にやってきたのだよ。互いの世界が衝突して消滅するのを防ぐ糸口を探る為に、な」
「世界が、衝突……ですか」
『後一年で、大翔の世界は滅びる』
魔王である姫が言っていたことは、嘘じゃなかったんだなと思った。
「言葉だけではわかりにくいだろうが、今は適当に脳内で補完しておいてくれ。元の世界に戻ったらじっくりと講義してやる。とにかく今は必要なことだけを説明させてもらおう」
ノア先生は吸っていた煙草をダッシュボードの上の灰皿に置いて、ふうと煙を噴き出す。
俺もミネラルウォーターを一口飲んで喉を潤しておいた。
「世界が接近しいずれ衝突して全てが滅ぶ、恐ろしいことだ。民衆に知られるわけにもいかずに一般には伏せてあったのだがな、そうも言ってられない事件が起き始めた」
「事件?」
「世界が接近しすぎたことにより、互いの世界に時空のひずみが発生し始めたのだよ。そしてそれに飲み込まれた行方不明者まで出てしまった。――まあ、君のことなのだが」
「…………俺が」
そんなの、本当に運が悪かったとしか言いようがないじゃないか。
誰を責めるわけにもいかない、突発的な事故。
だとしたら、俺は……。
「覚えていないかもしれないが、君は朝の登校中にひずみに飲み込まれそうになった。ひずみを抑えるべく私が向かっていなければ完全に飲み込まれていただろう」
「完全に、って……」
「実はな……君を助けようと無理をしてひずみを閉じたせいで、結城大翔という人間が二人に別れてしまったのだよ」
全く、いつも君は私を驚かせてくれる。とノア先生は言ったけれど、そんなの俺が一番驚いている。
だとしたら、元の世界にはもう一人俺がいるということか。
「しかし、元の世界に戻れば融合する手立てはあるから安心したまえ。だがまあ、ドッペルゲンガーなぞ君には今さらだろうがな。何せこの世界には魔王だなんて人外も存在しているのだから」
元に戻れるということに安心しつつ、ノア先生の言葉に一つの疑問を覚える。
「魔王を知っているんですか?」
「だから、この体は元々この世界の私の者だと言っただろう。記憶を読み取っているのでこの世界の事情はほぼ理解している」
ああ、そういえばそうだったか……。
見た目は変わらないから、ついつい忘れそうになってしまう。
「しかしな……君が分裂したせいで良いことと悪いことが一つずつ起こってしまった」
ピッと、指を二本たてる。
相変わらず細くて奇麗な指だな、なんてどうでもいいことに目がいった。
「まず良いことは、二つに分かれた魂がシルバーコードで繋がっていて、君がこの世界にいることが割と早くわかったこと」
「なるほど……じゃあ、悪いことは?」
「二つに分かれた魂が引き合う力が予想以上に強く。新たにこの世界を引き寄せてしまっているということだ」
「え……そ、それじゃあつまり……」
「私達の世界は、二つの世界から熱烈なアプローチを受けているということさ」
「そんな……」
それだと、とどのつまり俺は害悪でしかないんじゃないか……!
意味がないだけならまだしも、この世界にも混乱を招き、自分の世界にも災厄を引き寄せている。
例えそれが事故だとしても、俺の中の罪の意識は消えない。
「そう、だから人は自分がいるべき場所に戻らなければいかない。私はこの世界から戻れば姫に君のことを報告する。
 幸いこの世界の時間軸は私達の世界と同じだから。時間は……今は6時19分か、ならば私が戻るまでの時間を含め7時にしよう。7時に姫が君の家の前に1分の間だけゲートを開く」
「1分だけ、ですか?」
「ゲート開くには今の幽体離脱の数倍の力を消費する。限界まで持って一分だ。しかも一度行えば一か月は力が回復しなくなってしまうのだよ。……そうなると言うまでもなく、ゲームオーバーだ」
「一ヶ月も……って、後一ヶ月で衝突するくらいに近づいてるんですか? この世界は!」
「いいやそうじゃない。この世界の状況が大翔に余裕を与えないということだ。今この世界はどうだ? 君はこの私にも魔王にも狙われている。
 7時へゲートにたどりつくことさえ難しいかもしれないというのに、君は一ヶ月も生き抜くことが出来るというのか?
 そこにいる美優くんは君を守るなどと言ったらしいが、実際に力量から言えばそれは不可能に近いだろう」
「っ……」
美優が不快そうに舌打ちをする。
それもそうだろう、いきなり初対面の人間に「お前は弱い」と同然のことを言われたら誰だってそうなる。
――だけれど、美優は反論できなかった。それはつまり先生の言葉を肯定しているということだ。
「実際には本人がそれを一番わかっていたのだろうが、君に言うことはできなかったようだな。
 しかしゲートまでの護送は君に頼むしか無いのだが……。それに当たって大翔、君に一つ言っておくことがある」
「……なんですか?」
「この先誰が死にそうになろうとも、脅されようとも、吸血鬼になってはいけない。魔族になってはいけない。
 もし君がそのような状態になれば、魂の向こうで繋がっている君でさえも同一の存在に変容してしまう。
 いいか? 私が求めているのは人間の君だ。私達の世界にいていいのは人間の君だ。
 世界に異端が入り込めば因果が狂ってしまう。歯車に歯止めがかかってまともに世界が回らなくなってしまう。
 ……いや、そんな大仰なことは考えなくてもいい。家族を悲しませたくないのならば人間のままでいろ。
 もし君が人外になって戻ってくれば、私は君を涅槃に送る。容赦なくな」
「……!」
畳みかけるようなノア先生の言葉に圧倒される。
人間しか認めない。
人間でなければならない。
人間でなければ、生きていけはいけない。
ノア先生は更にダメ押しするかのようにこう言った。
「以降この世界で同情してはいけない。誰にもな」
そういうわけで、気をつけてやってくれるか?
先生が美優に向けて少々嘘くさい笑顔を向けると、美優はふんと鼻を鳴らして言った。
「何でしょうね……。いい気はしませんが、わかりました。引き受けましょう」
「英断だ。感謝する」
「……。皮肉ですか?」
『英断だ』。それは、こちらのノア先生が度々使っていた台詞だ。
美優はそれを思い出したのだろうか、般若みたいに顔をしかめるてノア先生を睨みつける。
「そんなつもりはなかったのだけれどな……」
先生は、「怖い顔をしないでくれ」、と嘆息しながら壁にかけてある時計を見る。
「あと、10分……か。そろそろこの体を始末して、元の世界に戻るとしようか」
「……え?」
俺と美優が、同時に疑問の言葉を発した。
「何だ?」
不思議そうな顔で先生に見返されて、こちらとしては混乱するしかない。
「この体を始末するとは、どういう意味ですか?」
美優がそう聞き返して、返ってきた答えに俺達は驚愕することになる。

「この世界の私は大翔を吸血鬼にしようとしている。既に寿命が近いとは言え邪魔されては構わないからな、まだ太陽が沈まぬ内に消えてもらう」

「っ、ノア先生、それは……!」
「私は君を助ける為に出来るだけのことをしようと言うのだよ。何か文句があるのか?」
「……! で、でも。だからって……」
「それは、でも、だから。その続きは無いのだな。論理的じゃないよ、大翔。頼むからわかってくれ」
「……っ」
ノア先生に何か言おうとするけれど、具体的な言葉が浮かばなくて口から出る前に頭の中で消えていく。
……俺には反論することなんて出来ない。
ノア先生はいつだって自分が正しいと思うことをやり通す。そして、その行動は大衆的に見てもほとんど正しい。あくまで、ほとんどだが。
だけど俺はノア先生みたいに自分に自信を持てない。覚悟を決めているこの人の言葉に、言い返せるはずもないのだ。
「私はすべてを救うことなど出来やしない。自分の世界を守るので精いっぱいなんだよ」
「…………でも…………」

「……だからといって、私はそれを許容できません」

今までノア先生の受け入れて来た美優が、ここに来て拒否の態度を示した。
「え……」
しかし、それは俺にとってはとても意外としか言えない。
あれだけ復讐すると言っていた美優が、ノア先生が自ら消えるのに反対するだなんて……。
いや……、だからこそ、なのか?
「あの人は私が自分の手で倒します。だから自殺などされては困るんです」
美優のその言葉に、ノア先生は心底呆れ果てるかのような反応を見せる。
「……君は、えらくこちらの私を恨んでいるな。まあそれも当然と言えば当然だが……。それはこちらの私に寿命の傾向が出ていると知ってのことか?」
「寿命、だと?」
先生は、ああと何かに気付いたかのように手を打って続ける。
「まだ君は吸血鬼の寿命については知らないのだな。年をと重ねれば自然と悟るようなものだから口伝はされていないということか……」
ノア先生の喋り方は、本人は意図していないかもしれないがどうにも人を見下した感じがすることがある。
美優は大分いらついた様子で言った。
「吸血鬼に寿命など無いはずだ……!」
「ああ、肉体的には、な。だが吸血鬼の寿命とは心の寿命を指すのだよ」
「心の……?」
理解出来ない、それが美優が思い浮かべたことだろう。
それは、俺にも同じことだ。
確か、陽菜から寿命という単語が出てきたことがある。だけどその時俺は、その言葉を額面通りにしか受け取っていなかった。
「吸血鬼は生きていくのに血液を必要とする。そしてその血を吸う度に血識としてその血を吸った人間の記憶や感情などを『読み取ってしまう』。ここまでは合っているかな?」
「……その通りだ」
「吸血鬼は大体は人間よりもかなり強い精神力や記憶力を持っているとされる。
 だがそれでも他人の感情や記憶が全て蓄積されていくと、それが吸血鬼の許容量を超えるということが起きてしまうのだよ」
「許容量を、超える?」
「君たちも不必要な情報は排除しようとするのだろうが、しかしそれでも完全に忘れ去ることなど出来はしない。
 海底に堆積していく砂のように、積もりに積もっていつかはキャパを超えてあぶれ出す」
――するとどうなる?
ノア先生は物わかりの悪い生徒に説明するように大仰な身振りをつけて説明を続けた。
……ああ、確かにこういう授業をたまにしてたよな、この人は。
「そうするとな、自分の記憶や感情と血識のそれが混濁してしまう。
 最初はちょっとした記憶の混乱や情緒不安定のような傾向が頻出し、段階が進行するとボーダーに近い症状が表れ、最終的には発狂して心が壊れ――死に到る」
君はまだ吸血鬼としては若い方だから、まだ大丈夫だろうがな。
ノア先生は言い聞かせるように話していたけれど、美優は一向に納得が出来ない様子だ。
「私は、発狂した吸血鬼など見たことがない!」
「自らの発狂した姿を見られることを良しとしないのだろう。ほぼ全ての吸血鬼は完全に発狂する前に姿を消して自ら命を絶つようだ。
 たまにそうしない者もいるが、その場合は他の者の目につかないよう処理される」
「……っ、そん、な……。私は、認めない……!」
「認めようと認めまいとこれは確かなことだ。こちらのノアは既に躁鬱に近い症状に加えて軽い記憶障害を発症している。このまま血を吸っていけば末期まであっという間だろう。
 これは絶望的にどしようもない精神疾患でもあると言って良い。特にここ一年の記憶は特に混濁していてな、読み取るにも大分苦労した」
そう言われて考えてみれば、こちらのノアさんは、急に怒ったり、不自然に興奮して俺を襲ってきたり、酔っ払って俺に絡んできたりしたことがあった。
あれも、その兆候だったというのか? だけれど生きていればそういうことがあっても不自然じゃない。
一概には、そう言い切れないじゃないか。
美優も、大体は俺と同じことを考えているのだろう。ありありと悔しそうな感情が顔に出ている。
「加えて魔族との闘争、親しい仲間の死によって精神を摩耗していたのだ。こちらの沢井君が持ちかけた計画に乗ってしまったのも仕方のないことだろう」
「沢井……とは、陽菜のこと……だった、か? 陽菜が……あいつが……!」
俺を吸血鬼にするのは、陽菜の提案だったのか……。
そういえば、あの夜にも陽菜が一番に怒気を示して興奮していた。
それを少し疑問に思ったこともあったけれど、それはこういった理由があったんだ。
「大翔を吸血鬼にする為に邪魔な美羽君を殺す。そして君を餌にして儀式を執り行う。魔族との闘争中だというのにあまりにも愚かなことだ。合理的では無い。
 最近の様子から言ってこちらの沢井君にも寿命が近かったのかもしれないな。
 だがそんな愚かな計画でも壊れかけていたノアの心には救いの鐘のごとく響き、私は正しい判断も出来ずに、そのまま美羽くんを殺してしまった」
針を刺すかのような鋭い目つきで美優を睨みつける。
「ぼろぼろに追い込まれた人間……いや、吸血鬼が犯した罪とは言うにはあまりにも哀れな事故なんだよ。
 こうして自殺させようとしている私が言うのもおかしいが、許してやってはくれないか?」
ノア先生の目は、『~~してくれないか?』 という人間がする懇願の目つきでは無い。
明らかに、『納得しろ』という強制の意思が込められている。
「……でも、……それでも、駄目だ。殺すくらいなら、そうだ。説得をしてみてくれ! まだまともな精神も少しは残っているのだろう?
 もし慙愧の念を少しでも感じているのならば、ゲートまでの護送を手伝ってくれる筈だ!」
「その必要はない。今こちらの沢井君は気絶している。後はこちらの私を消し、君が魔王を数分足止めすればそれでゲートまで辿りつくことは可能だろう。助けが必要だとは思えない」
「…………でも…………」
「また、『でも』か。 君はまだ傾向は出ていないというのに、感情に任せすぎて合理的な思考が取れないことが多いようだな」
「…………っ」
ノア先生にやり込められて、美優はついに俯いて反論できなくなる。
だから。
だとしたら、妹がダメなら兄の出番じゃないか。
「ノア先生、こちらのノア先生と会話できるのならばどうか説得をしてみてください。残りの……5分、それだけでいいんです」
今も刻一刻と時計の針は時間を刻んでいく。
日は傾いて地平線の影へと沈もうとしている。
――時間がないのもわかっている。
例え合理的じゃなかろうと、感情がある以上それだけでは割り切れないということを、ノア先生もわかっているはずだ……!
「君もか。こちらの私について君にどんな思い入れがあるのかは知らないが……。……いや、これ以上の話は無駄だな」
「そんな……!」

「残り4分の内3分間だけ話してやる。それで説得出来なければ先ほどまでの宣言通りにする。それで問題ないな?」

「あ……は、はい! ありがとうございます!」
「礼を言われる筋合いはないよ。これも愛する生徒の為だ」
「……あ……」
美優が目尻に涙を溜めたままの顔を上げ、驚きと共にこちらを見る。
俺はそんな美優に笑顔を返したが、すぐに照れたように目を逸らされてしまった。

……そうだ。美優だって、本当は殺したくなんてなかったのかもしれない。
例え寿命のことを知らなくても、美優はノア先生を止めたんじゃないだろうか。
淡い自分勝手な想像だけど、そう思う。

「では私は心の中に潜るとしようか。その間は無防備になるからと言って、いやらしいことをしてはいけないぞ?」
「しませんよ!」
ノア先生らしさが溢れたジョークの後、「それではな」と言い残し、ガクリと項垂れて動かなくなってしまう。
もう一人の自分に会いに言ったのだろう。
……表面上はそう違いのある二人には見えないが、恐らくその中身は対局に近い。
「どんな話し合いになるんだろうな」
「……想像もできませんね、というかあまり想像したくありません。……ここは、ただ待つべきです」
それには同意せざるを得ない。

――3分、か。
待つだけの時間だけれど、長い3分になりそうだな……。





3分の間、美優と俺の間にまるで会話はなかった。
話すことがないのかもしれないし、話したくないのかもしれない。
……いや、どちらもノア先生のことで頭が一杯なんだろうな。

今、ノア先生はベッドの上で静かに眠っている。
眠っているという表現が合っているのかはわからないけれど、とにかくベッドに横になっている。
胸の前で手なんか組ませて(美優が)、まるで白雪姫だ。

しかし、本当にこの人が寝ていると埃っぽいベッドも花のベッドに変わりそうな気がするな。
それほどまでに、この人は奇麗で……そして、儚い存在なんだ。
「ノア先生……」
ベッドの脇に椅子を持ってきて座り、ノア先生の顔を覗き込む。
美優はもうひとつのベッドに腰かけてその様子を黙って見ていた。
「ん~~」
限界まで顔近付けちゃったりして……「やめろ!」という美優の静止の声と共に鼻っ柱に某エドモンドも顔負けの張り手がぶち当てられた。
「ぽぅっ!」
マイケルみたいな声が出て椅子ごと無様に倒れてしまう。
「…………」
一瞬の出来事で、しばらく何があったのか理解出来ずに出来そこないの開脚後転みたいなポーズで固まる。
その内段々とぶつけた背中と頭に鼻がずきずきと痛くなって来て、ようやっと来た怒りと共に立ちあがって美優に向って文句をつける。
「美優、そこまですることないだろ……いて……」
鼻の骨は折れやすいんだぞ……。
軟骨をこきこき鳴らしながらそう言うと、美優はふるふると首を振ってベッドの方を指差した。
「え」
腕が、ノア先生の腕が天井に向かって伸びていた。
その手は奇麗に開かれ、まるでここからでは見えない空を掴もうとしているみたいに真っ直ぐと上を目指している。
「大翔、寝込みを襲うのは……良くないよ」
その手をぐっと閉じて、軽い台詞と共にノア先生が起き上った。
「ノア……」
「ノア、先生?」
だけれど、俺も美優もすぐに駆け寄れなかった。
まだ、『どちらの』ノアなのかがわからないからだ。
俺の世界の『ノア先生』なのか、吸血鬼の王の『ノアさん』なのか。
説得に成功していてほしいという期待と、失敗していたらという不安が足に絡み付いて、動けない。

先生は、しばらく自分の手を虚ろな目で眺めてぼーっとしていて、少ししてから、
「……ああ……、私は、まだノアでいられる……」
と呟き、その両手で自分の顔を覆い隠す。
そして、その手の隙間から涙が数滴零れおちた。

その時点で、理解する。
……本当にありがとう、ノア先生。

「……あの」
美優が不安そうに近づいて、肩に手を置くと同時に、ノアさんがすがり付くように美優を抱きしめた。

「美優……ご、めん……な……! 本当に、ごめん……。ごめんなさい……う……うぅ……」
「…………」

子供みたいに泣きじゃくって謝り続けるノアさんを受け入れ、美優は無言で抱擁を返す。
その表情は優しかったけれど、
「謝っても、全てを許してもらえるとは思わないことです」
その言葉は、優しくはなかった。

「美優……!」
つい咎めるような声を出してしまった俺に、美優は黙っててくれという視線を向けてくる。
「……謝るくらいなら、全てを行動で示してください。私は後回しでいいですから、まずはそこの人に誠意を示してあげてください」
そうして、ぐっとノアさんの肩を掴んで引き離す。
涙は、もう止まっていた。

「ああ……そう……そうだな……」

ノアさんの表情に、生気が戻っていく。
始めて会った時のような不遜さが……いや、ノア先生と寸分違わぬ程の自信が、今のノアさんにはあった。
「無駄な言葉は、いらないな。……さあ、元の世界へ送って行こう、大翔」
ノア先生はしっかりと足に力を入れて立ち。すっと俺に向かって手を伸ばす。
まるで、姫をエスコートする王子のように。
「……ありがとうございます。ノアさん」
俺は少し悪乗りするかのように恭しく礼をして、ノアさんの手を取った。




現在時刻、6時46分。
約束の時まで残りわずか、ぐずぐずしている時間は俺には残されていない。

「では、作戦……と言える程のことではないが、危機的状況に陥った際の対応の確認をしておこう」
「……確認するまでもないでしょう」
美優がノアさんの話の腰を折る。
まあそりゃあ普通なら失礼なことかもしれないけれど、本当に確認するまでもないことなのだ。

魔王が来たら、ノアさんが足止めして俺と美優で逃げる。
以上。

魔王が魔族を連れて来ていても同じ。

その他のトラブルには各自その場の判断で対応すること。
ただ、これだけだ。
というより、これ以上何が出来るというのだろう。


もうこの段階で、細かい理屈は通用しない。
魔王も今夜は全力で来ると言っていた。だったら、私も全力でぶつかるだけさと、ノアさんは言った。

そして俺は、ノアさんと美優を信頼するしかない。
自分を責めるのは意味が無いからやめたけれど、それでも少しは悔しさが残った。


「さて、それでは出発前に……この辺りを夜にするとしようか」
精神を集中するかのような深呼吸をして、ノア先生が目を閉じる。

そう、今は夏。
7時前ではまだ日が暮れてはいない。日が暮れていなければ吸血鬼は外に出られない。
そこでノアさんの出番と相成ったわけだ。

「さて……」
集中は10秒程で終わり、ノア先生がこちらを見てから右手の親指と中指を合わせる。
「大翔の前でこの力を使うのは、初めてだな」

パチン。

シニカルな笑みと共にノア先生が指を鳴らす。
その音はロビーに反響するほどの大きさで、はっきりと耳に残る心地の良い音だった。。


そして、それだけだ。
たったそれだけで。周囲の世界に暗幕がかけられた。

「……!」
ロビーのガラス張りの外が、本当に夜になっている。
多少の違いを挙げるとすれば、星や月が浮かんでいないというだけのことだ。
「今このホテルから半径5kmはドーム状の闇に覆われている。ここから君の家は3km程というのはわかっているが、この能力は細かい調整が効かないからな……」
「3kmならば、5分でつきますね」
行きましょう、と美優が俺の腕を取る。
相変わらずの人間離れした力に引きずられそうになりながら、「ちょ、ちょっと待った!」となんとか踏みとどまる。
「……なんですか、時間がないんでしょう」
「いや、まあ。一つ気になってさ……」
俺は首だけ振り向いて後ろについてきているノア先生の方を見る。
「あの、この力って……ノア先生に負担はどれくらいかかるんですか?」
「なんだ、心配してくれているのか?」
ノア先生は、ガラス越しの夜空をじっと見上げたまま視線を動かさずに言った。
……自分の作った空間の出来を確かめているのだろうか?
「私に心配される資格など無いし、必要もないよ。この状態なら一週間でも持つ……が」
ノア先生は真剣な顔つきで、いつの間にか持っていた煙草の灰をぽとりと床に落とす。
カーペットが焦げ付き、ほんの少しだけ煙が上がる。

そして、それが戦いの始まりを告げる狼煙となった。

目を覆う隙も無く飛び込んできたのは、光。
闇を突き破り、夜を打ち破る暴力的なまでの煌きを放つ光の柱がゴーストタウンの中心に突き立った。

「魔王が、来た……か」

ノア先生は、全く取り乱す様子もなくぽつりと呟いた。
「うぅ……」
俺は先ほどの光に目が眩み、今はまともに歩くこともできない、と思ったら勝手に足が浮いて――って、引きずられてる!?
ようやくぼやけて見えるくらいにまで回復した目が捉えたのは、俺の服の襟首を掴んで走る美優の後姿。
「私達は裏から出てゲートに向かいます!」
美優が後ろを見ないままそう言って、ノアさんは後ろ手に軽く手を振ってそれに答える。
「死なないで」、「さよなら」、「いつかまた」。
どんな言葉をかけようか迷っている内に、美優はロビーとは反対側の入り口にさっさと辿りついてしまい結局何も言うことは出来なかった。

……ノアさん……。
…………俺は、貴女と同じように『ノア先生』に憧れていました。
いつかあの人と並んで立っても恥しくない男になってみせます。

――さようなら。





一年前、魔族が来る前には人で賑わっていたであろう駅前だが。今は人間は一人としていない。
いるのは吸血鬼と魔王だけ。
交差点のど真ん中で、10m程の距離を置いて向かい合っている。
……そして、どちらも対になった石像のように動かなかった。

そのまま、3分程が過ぎる。
闇に包まれた空間は不気味な程静かだったが、その静けさを破ったのは吸血鬼の方からだった。
「人がいないと、いいな」
先ほど煙草をホテルの床に落としてしまっていたので、また新たに火を点けなおす。
「いつもここらはネオンや車でゴミゴミしていて、月や星を委縮させてしまう。私達としてはいつも悲しく思っていた。
 今は、表通りに裏通り、路地に四つ辻どぶの底。どこまでも闇一色の染まっている」
まあ、この夜は私が作ったものなのだから、月も星も無いがな。とノアが付け足す。
「……まあ……」
「なあ、何故私が見え見えの時間稼ぎに付き合ってやっていると思う?」
ノアの言葉を遮り、魔王が言った。
「理由は二つある。大翔達がどこに逃げようが結局は意味がないとわかっているから。もう一つは……」
魔王の指は、一直線にノアの顔を示している。
「貴様と最後の決着をつけるためだ。数ある大陸の吸血鬼と戦って来たが、貴様が一番やりがいがあったのでな、ついつい長くの間遊んでしまった」
全てお見通しだ、何をしようが無駄だ。
魔王の目がそう告げている。そして、遊びは終わりだとも。
「だが今日でそれも終了だ。これまで中々楽しかったが……大翔が別世界へ逃げるというのならば、追わねばいけないのでな」
ノアは、魔王の言葉をつまらなそうに聞き流している。
意味が無いことには反応しない、無関心を貫き通し、耳から入って右から左。
魔王はその吸血鬼の態度に多少眉を顰めたが、こんなことで怒るのも馬鹿らしいと言うかのように悠々と話を続けた。
「そういえば、疑問に思っていたことがある。貴様は――いや、正確に言えば貴様の部下か。貴様はただの傀儡にすぎなかったわけだしな。
 あの陽菜とかいう吸血鬼は……やたらと種としての生存などと口にしていたが。……別に吸血鬼がいるのはこの国だけではなかろう?
 種としての存続を目指すのならば我を倒すべく一丸となった方が効率的だったのではないか?」
揶揄するのではなく、心底疑問に思っているかのような口調だ。
ノアはその問いに、まるで1+1の答えを訊かれた大学教授のように言った。
「それはあまりにも簡単なことだよ。簡単すぎてくだらない。……いや、簡単すぎて重要なことだ。だが魔王にはわからないだろうな」
「…………」
「結局、精神が錯乱していようがなんだろうが……関係なかったのかもしれないな。
 私達はただ、寂しかっただけなのさ。同じ体をもち、同じ苦しみを分かち合ってくれる仲間が欲しかっただけなのさ。永遠に孤独な魔王には、わからないだろ?」
魔王の目がくっと細くなり、侮蔑するかのような視線がノアに向けられる。
「我はこれから一人ではなくなる。……大翔を魔族とし、共に生きるのだからな」
「ではこちらからも質問だ。何故大翔にこだわる必要がある? 私達の場合は人間の男ならそれで良かったが、魔王がこだわる理由とは一体なんだ?」
「知りたいか?」
「いや別に」
「…………ふふ、中々面白いな。夜の私がこうも会話に乗るのは珍しいぞ」
そうは言いながらも魔王の額には青筋がいくつか浮かんでいるように見える。
魂だけの存在にはありえないことなのだが、気迫でそう錯覚させているだけなのかもしれないが。
「まあここまで話したのなら自ら語ってやるさ。最近思い出したことなのだが、大翔はな……」

――私が魔王になって食した、最初の人間だ。

「おかしいものだよな、世界というのは。同じ人間が存在する場合としない場合がある。大体に時系列は並んでいるが、限りなく似た世界もあれば全くの別世界もありうる。
 私は最初の世界で大翔に出会った。……本能的に魂を食らうことだけはわかっていたから、目が合った瞬間に殺したよ。
 美味かったな。初めて食べた人間の魂というものは人間が食するどんな料理よりも、吸血鬼が吸うどんな血よりも美味だろうな。
 あの味を知ることの出来ない生物のどれだけ哀れなことか。生きる為に必要な物が娯楽も兼ね備えているのは嬉しい限りだ」
そこまではとても上機嫌に、とても饒舌に語っていた魔王だったが。突然気落ちし、
「だが……それからのいくつかの世界。運が悪いことに大翔に出会うことはなかった……。
 そして、何百億もの魂を食らう内に大翔のことは記憶の片隅に追いやられていった」
魔王が両手を作り物の夜空にかざす。
「だから再び出会えたことを神に感謝しよう。この魔王という存在を作り出した、大翔という存在を作った神に感謝しよう!
 私は最高の感覚を教えてくれた大翔を愛してさえいるね。あいつならば私の仲間にしてやっても良いというのは、それが理由だよ」
ノアはその話を魔王から顔をそらして聞いていた。
……いや、また聞き流しているのかと思えばちゃんと聞いてはいたようだが、……笑っている。
くつくつと喉を鳴らして笑っている。それは、魔王にでなくとも、話し手に対する最大級の侮辱であることに間違いなかった。
「何だ、魔王というのは美食家だったのだな。いや、それともただ食い意地が張っているだけか?」
「…………」
「あははは……。……ん? 楽しいはずなのに、涙が出るな。……くふふ、あははははははは…………!」
魔王は心に異常をきたしたかのように笑うノアを見て溜息をつく。
「もう会話は必要無いようだな」と告げる。
「……涙が……止まらないよ……あはははははは。何もかも、うまくいきすぎてさ……」
「何?」
そこで初めて、魔王が他の存在をいぶかしむような態度を見せる。
「魔王が世界を渡り歩くことを知っているのに、何の対策もとらないわけがないだろう?
 もう一人の私はな、この世界を完全に隔離するつもりなのだよ。
 自らの力の全てを使い果たしてな。この世界は外から出ることも入ることも出来なくなる、……魔王ですらも」
「――っ!!」
魔王が即座に動作を開始する。
大翔を逃がしてなるものかと姿を消して飛びたたんとした所を、「逃がすものかよ」ノアに両腕をとらえられる。
「離せ! 私はこんな所で死ぬわけには……!」
「いいや、死ぬべきだ。私も冥土への連れが欲しかったところでな」
地獄の底から湧きあがる笑みを顔に貼り付けながら、ノアは言った。
「ただな、私は世界が隔離されるのをあまり好しと思ってはいない。
 だって、寂しいことだろう? 地球は今まで通りに回るけれども、異世界からの訪問者は二度といなくなってしまうのだから。
 ……だから、これが私の出来る、大翔への――人間への最後の贖罪だ。勘違いばかりの吸血鬼と、自分勝手な魔王の、何の意味も無かった話はこれで終わりさ」
「貴様ごときに殺される我では――!」
魔王は必死に身を捩らせるが、ノアはピラニアのように、二度と話さない覚悟で腕を掴んでいる。
基本力というのは腕を経由して発言するものであり、そこが抑えられている今、単純な力の勝負としてノアが優っているのだ。
「美優……お前が何故まだ生きているのか少し前にやっとわかったよ。
 お前は、生きる為の血液を、自分の体の中に流れる血液をすべて体の組成に使ったのだろう?
 ……必ず死ぬことになるとわかっていても、大翔を助けたのだろう?」
「何を……!」
「美優は生きる為に使った。私は吸血鬼の血液に流れるエネルギーを全て――殺すために、使おう」

大翔。

君が来てからのわずかな間のことは、正直に言えば朧気にしか覚えていない。
欲望に目が眩み、何をしていたのかわからなかった。

だけれど、これだけははっきりと言える。

「君と話していた時間は、楽しかった」

もしも普通に出会えていたなら、愛し合えたかもしれないな。

そして、ノアの世界が砕け散る。




現在、時刻は6時57分。
今は二人で家の前に立ち、ただただゲートを開くのを、別れの時が来るのを待っている。
ノアさんはいま俺達の為に戦ってくれているんだろうか。……このまま帰っていいのだろうか。
そんなことを悶々と考えているうちに沈黙に耐えきれなくなり、俺はつい美優に話しかけた。
「……あー、体……大丈夫か」
そんな当たり障りのない(?)話題から入る。
というよりも、今この時に何を話せばいいのかわからなくて、口を突いて出たのが体の心配だった。
そう、だけれど間違ってもないと思う。美優の怪我が治ったというのはあくまで自己申告なわけだし……今は平気そうにしているが、妙に気になるのだ。
「大丈夫です」最後の最後につまらないことをきかないでください、と美優。
だけれど俺は美優の否定的な返事に委縮しながら、今度は話題を変えてそのまま話を続けた。

「でも……結局、俺ってこの世界で何もしてないよな」
「…………また、意味だとかそういう話ですか?」
今度は呆れられている。
「いや……そうじゃなくて……。ん……そうかもしれないけど、だけど……異世界に放り出されて戦いに巻き込まれるなんて、いかにもマンガなんかだと主人公な感じじゃないか。
 だけれど俺は、最後まで何もせずにこうして帰ろうとしている。それが、何となく悔しくてさ……」
「この世界は漫画じゃありません」
一刀両断された。
そりゃまあ、馬鹿な話だってのはわかってたから。特に気分を悪くしたりはしなかったけれど。
「こんな、やまなしおちなしいみなし。三拍子揃った物語がマンガになるわけもないですしね」
そして美優は、最後だから言って置きますけれど、と前置きしてから言葉を紡ぐ。
――時間まで後1分。きっとこれが最後の言葉。

「この世界は、貴方がいるべき世界じゃないのだから……何も出来ないのは当たり前だったのかもしれません。
 貴方が為すべきことは、貴方がいるべき世界にある。貴方は自分の世界で主人公になってください」

そして。

「……姉さんを、守ってください」

真剣な眼差しを受け止め、俺が「ああ」と頷こうとしたその時。

ぶぉん。

何か重い物が空気を切り裂くような音がして振り向けば、ブラックホールのような穴が、全てを飲み込もうとする闇を携えて俺を待っていた。
空中にふわふわと浮かぶそれはいかにも不安定で、長くは持たないことは素人目に見ても明白だ。

「……さようなら。二度と会うことは無いでしょう」
「わかっていても……そういう寂しいことは、言わないでくれよ」

最後まで、淡泊なままだったな。
こちらの美羽が生きていれば、また違ったのかもしれないのに。
この世界はこれからどうなるのだろう? 魔王はどうなるのだろう?

気になることばかりだけれど、どうにかする力は俺には無い。
俺は普通の人間だから、いろんなことに折り合いをつけて生きるしかないんだ……。

涙が出るほど、悔しいけれど。

「じゃあな……」
「はい。これからは貴方が姉さんを守ってください」

――もう、涙で前が見えない。
俺は、しゃくりあげながら、「うん」だか「ああ」だか良くわからない発音で肯定した。

今鏡を見たらきっとひどい顔なんだろうな。鏡が無いからわからないけれど、そんな顔を美優には見せたくない。

そのまま背を向けて、ゲートに手から入っていく。
ずぶずぶ、ずぶずぶと、ゆっくりと体が埋まるように入っていく。まるで底なし沼に飲み込まれようとしてるみたいだ。

もう、振り向かない。
そう決めていたのに。

「――ぐあぁっ!」

美優の悲痛な叫びに、何事かと振り向いてしまう。

――手だ。
手が、美優の腹から生えていた。真っ赤に染まった花のような手が。

「陽菜っ!!」

それは、陽菜の手だった。
これほどまでに無い笑顔を顔に浮かべたまま、陽菜が、美優を――!

「美優ーーーーーーーっ!」
くそっ! 腕が抜けない! 引き込まれる!
美優が大変なのに! 死んじゃうのに! 妹が……妹が死んじゃうんだよ! 俺は……!

「間に合った! 間に合った間に合った間に合った!! 大翔ぉっ! 別の世界になんて行かせないよっ! こいつを殺したくなかったらこの世界にのこれっ!」
百年追い求めた夢が叶ったかのような狂乱ぶりで、陽菜が腕を引き抜いて叫んだ。
「あっははははははははっはははははははははっははははは!」

そして哄笑。

だけれど俺はそんな耳障りな笑い声なんて意に介さずに、何とか右手だけを引き抜いて美優へと伸ばす。

「美優!」
「……っ……」
美優も、腹部を右手で抑えたまま、左手を伸ばしたけれど……。

その手が、握られることは決してなかった。

「――兄さんは、私が守ります」

とん。

手のひらを合わせるかのようにして、軽く押される。

「なっ……」
理解が、できなかった。
なんで、なんでなんでなんでなんで――!!
「美優!」

踏ん張っていた足が、押されたことによりバランスを崩してどんどん吸い込まれていく。
いやだ、俺の目の前で、こんなことが起きているのに、帰るわけに行かない。
美優――!

「み……」

絶望の叫びが世界に響くよりも前に、俺は闇に飲み込まれ――意識は深淵へと落ちて行った。






「あっはははははははははははは、あっはははははは……は?」
哄笑をやめ、ようやく冷静になって周りを見回した時。
結城大翔は既にこの世界から消え去っていた。最早吸血鬼に手を出すことなど出来ない、遠い世界へと。

そして、地に倒れ伏していたのは虫の息の美優だけ。

「……はっ……あは……」
だけれど、その口元だけは笑っている。
全て本望だと言わんばかりに、口元を歪めている。

「な、なんで……!」
少し目を離した隙に希望を絶望にすり替えられ、陽菜は膝を折った。
「なんで邪魔するんだよぉぉぉおおおおおおおおっ! 仲間が欲しかっただけなのにいいいいっ!」
「…………はっ……かは……あのひとは…………このせかいの……にんげんじゃない……。ただ、もとにもどった……それだけ……」
「ああああああああああああああああああっ!!」
涙どころか、鼻も垂らしながら顔を怒りと悲しみでぐしゃぐしゃにして、陽菜は美優を殴った。
馬乗りになり、コンクリートさえも砕きそうな勢いの拳を、ただぶつけた。
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
美優の体は、一撃目の時点で一度びくんと反応しただけで。
後は死んだ魚みたいに無反応になって殴られ続けている。

だけれど陽菜はそんなことを気にせず殴り続け――られなかった。

「陽菜、もうやめろ」
振り上げた腕の手首が誰かに掴まれて、止まった。

やってきたのは、吸血鬼の王。

「あ、ノアさ」
陽菜がその姿を捉えて一瞬で嬉しそうな顔になったけれど、……その嬉しそうな顔を見せた瞬間。
「ま」
首と胴が、離れて転がった。
ボールが落ちたみたいに、ころころと。

「……陽菜。全部私のせいだから。恨んでくれても構わないから。だからもう、一緒に逝こう」

かすれた声でぽつぽつと呟いて、ノアは美優の倒れている傍に寄って行く。

「……あ」

色を失った瞳、既に殆ど視力を失った目で、美優がノアを見た。

そして。

「――しななければ、いきていられたのに」

そんな言葉を残して、動かなくなる。

「美優……」
ノアは、冷たくなったその手を握る。

大翔の元へ駆けつけたあの時から、死ぬことが決まっていた美優。
それが、早くなったか遅くなったかの違いだけれど……。

「……哀れな末路に……巻き込んで……済まなかった……。大翔も……ごめ……」

ぱりん。

どこかで硝子が割れた音がした。

……いや、それは違う。
ノアに作られた闇が、割れたのだ。
星空の無い夜が、砕け散っただけなのだ。


こうして魔王と吸血鬼の闘争は、結局何一つ進展させることもなく終わりを告げた。


そして、作られた夜の向こうにあった月だけが。
人間も吸血鬼も魔王もいない街を見下ろしていた。煌々と輝きながら、見下ろしていた。






頭が、ずきずきする。
俺は今どこにいる?
真っ暗で、何も見えない。浮いているのか立っているのか、寝ているのか……生きているのかすらも、わからない。

「……きろ……」
そんな闇の中、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
優しく、慈しむような囁きに誘われ、俺の意識は段々と覚醒していく――。


「起きろ。ヒロトくん」
「ん……」
俺は、何をしていた……?
薄く眼を明けると、少しぼやけたノア先生の顔と、その向こうに見える丸い月が見えた。
「いい加減、足が痺れてきたのだけれどな」
「え?」
そういえば、頭に何か柔らかいものが当たって……って、そういえば、少し前にもこんなシチュエーションがあったような。
そうだ、これは……。
「膝枕!?」
「ああ、そうだな。膝枕だ」
慌てて起きて、「がっ!」周りを見渡すと、そこは夜の公園だった。どうやらベンチに寝かされていたらしい。
なんで俺はこんなところに……って、「がっ」てなんだ?

「~~~~~~~っ!」
ノア先生が顎を押さえて悶えていた。
……そういえば、頭に何か当たったような気がする。少し痛い。
「あ、あの。もしかして頭当たりました?」
「もしかしてじゃなく当たった。全く、恩を仇で返されるとは思わなかったよ」
いや、そんな恨みをこめた眼で見られても、困る。
そりゃ悪いとは思うけれど、俺にはまだ何がどうなっているのかわからないんだ。
「すいません……。でも、何で膝枕なんか……じゃなくて、何で俺、こんな所にいるんです?」
「…………そうか、まだ記憶に混乱があるのだな」
ノア先生は、顎をさすっていた手を止めてこちらを見る。
その視線にただならぬものを感じ、俺もしっかりと姿勢を正してベンチに座りなおした。
「本当なら思い出さない方が良い記憶なのかもしれない。……だけれど、それではあまりにも……な」
ノア先生がピンと伸ばした人差し指を俺の額に当てる。
秘孔でも突かれるのかな、なんてふざけた考えも真剣な目を見ているとすぐに消え去った。
そして、トンと眉間を突かれた瞬間。
「ぎゃっ……!」
頭にハンマーで殴られたかのような激痛が走る。
その痛みに耐えかね、本当に自分の口から出たのかと疑いたくなる程の聞き苦しい声を出してしまった。
「ぐっ……うう……!!」
何だ、記憶が、映像が流れ込んでくる。
目で見ているわけじゃない、脳に直接刷り込まれるように……いや、この表現は間違っている。
掘り起こされているんだ。心の奥深くから、俺の記憶が。

異世界のこと、吸血鬼のこと、魔王のこと、ノアさんのこと、美優のこと、陽菜のこと……そして。

「美優……!」

ようやく全てを、理解した。
周囲を見れば、辺りの住宅街にはきちんと明かりがついている。
人がいるんだ。そうわかっただけで少し安心できた、けれど……。

「ノア先生っ! 俺をあの世界に戻してください! 美優が、美優が死んでしまうんですっ!!」

そうだ。
俺は美優を助けなきゃいけないんだ! 最後の最後まで、情けない兄のままでいられないから――!

「無理だよ」
「なんでですか!」
「言っただろう? ユリア姫やレンさんがゲートを開くには一ヶ月以上の期間が必要だ」
「ノア先生ならできるでしょう! 凄い力を持っているんですから!」
「不可能だよ」
何で最初から、諦めているんだよ――!
「ノアせんせ……」
「いい加減にしろ!!」

ノア先生の一喝が、大気を震わせ、木々や草木を揺らした。
俺は腰を抜かしてしまいそうな程驚いて言葉を止める。。
あまりにも大きな声だったというのもそうだけれど、この人がここまで大きな声を出すところを見たのは初めてだったのだ。

「今さら戻ってどうする。君は君の為に力を尽した者達の努力を全て無にするつもりか?
 魔王を倒した王を、君をこの世界まで送り届けた美優くんを、限界まで力を尽した姫とレンさんを、侮辱するつもりか君はっ!
 君はあの世界に戻って何と言うんだ? のうのうと『吸血鬼にしてください』とでも言うのか? ふざけるな。そんなことは私が許さない!
 この世界には君のことを思って夜の眠れず心配している人間がいてくれるというのに、君はそれをすべて振り払ってでも戻るというのか!」
ノア先生の言の葉が、俺を責め立てる。
「う……うう……!」
わかっている。わかっているけれど……!
「どんな人間にもすべてを救う力なんてない! 私だって身近な者を、自分の世界を守ることで精一杯なんだ!
 今も、無数の世界の内の一つが滅びているだろう。だけれど私達にはそれはどうしようもない。手を差し伸べている余裕なんてない!」
「……っ……!」
それは、あちらの世界のホテルでも聞いた言葉。
二度目の今、改めてその言葉の重みを思い知らされた。
「悔しいか? 悔しいのならば、この世界で強くなれ! 自分が世界の中心になれる程に、強くなれ!
 穴があればとび越えろ、足をかけられても逆に蹴り倒せ! 真っすぐに自分の道を進み、この世界を――自分の大切な人達を守れ!」

それが、君の役割だ。

ノア先生は、最後に語調を弱めて言った。

「う……ああ……あぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああっ!」

後悔を、悔しさを、悲しみを爆発させて、叫んだ。
近所迷惑なんて関係ない、自分の喉がどうなろうと知ったことか。
今はただ、滝のように流れ出る涙と共に感情を爆発させるんだ。

「……う……ぁぁ……」

もう、声が出ない。
まだ胸の中には、美優のむすっとした表情や、ノアさんの後姿が残っていて、俺の心を刺激する。

「……大翔」
そんな時、柔らかいものが俺の体を包みこむ。
それがノア先生だと気づくまでに、数秒かかる。

――だって、この人がこんなことをしてくれるだなんて、思わなかったから。
ノア先生は俺の頭を胸に寄せるようにして、猫を愛でるように優しく撫でてながら言った。

「厳しいことばかりを言って、すまない。だがこの世界はまだ救われたわけではない、君にも頑張ってもらわねばいけないんだ」

だけれど、と言葉を区切り。

「だけれど今日だけは……泣いていい」
さらに強く、俺を抱きよせてくれる。
涙はまだ止まらず、ノア先生の服をびしょびしょにしているのに、そんなことは気にせずに抱きしめてくれる。
俺は、かすれていつでなくなってもおかしくない声で、言った。

「……俺、強くなります……。みんなを、守れるくらい。どんな世界でも、自分の存在を無視できなくなるくらいに、強くなります……!」
「ああ、君なら出来る」

いつか、どんな世界でも救える程に……!


そう、決意を固めようとしていた時。

――おーい、兄貴ー!

どこかから、俺を呼ぶ皆の声が聞こえた。
「ようやく来たか、遅かったな。……大翔、もう離れないと、見られてしまうぞ?」
「いいです。今、俺凄くひどい顔してるから……」
「……そうか」

……嘘だ。
本当は、まだ泣いていたいから。

強くなるって決めたけれど、まだ涙は止まらないから。

だから、今だけはこうし続けることを、許してほしい。









弱い俺は、何も出来ない俺は、もう終わり。

明日から、別の自分が始まる。




ノアさん  美優  さようなら   ごめんなさい   ありがとう
ツールボックス

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