Ver1.0


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二○○六年 七月七日。

太平洋のど真ん中に巨大な球体が現れた。

どれくらい巨大なのかと問えば、日本の北海道と同じくらいの大きさだといえばわかってもらえるだろうか。

いや、大きすぎて逆に実感が掴めないだろうな。

その球体はこの地球上に存在しないはずの物で作られていて――。

って、問題はそこじゃない。

問題なのは、そこから『魔族』を名乗る連中が溢れ出して来て、世界中を襲い始めたことだ。

人類は突然の出来事に混乱し、蹂躙され、虐殺された。

抵抗すらもできなかった。

しかし、体制を整えていても無駄だっただろう。

何せ奴らには、刃物や鈍器どころか、銃やミサイルでさえ通用しないのだから。

人類は組織的な抵抗を諦め、各地に作られたシェルターごとに残された人間を集めた。

それが七月二十七日。

既に地球上の人口は三分の二まで減っていた。

だが、何故かそこから魔族の侵攻が遅くなり、人類は多少の時間を得る。

しかし、結局魔族を倒す術など何もないのだから、ただ滅亡を待つだけしかない。

……そう思われた。

だがその時だ。

人類の前に吸血鬼を名乗る存在が現れたのは――。

吸血鬼の王は言った。

「奴らは人類を食糧としか考えていない。人類を全員食い殺したら悠々と別の世界に移動する。
 だが私達にとってそれは非常に都合が悪い! 何故ならば、古来より我々吸血鬼は、闇に隠れながらその存在を知られることなく。
 『人間を殺さないように』血液を頂いて生きてきたからだ! このまま人類が滅ぼされては我々の命すらも危うい!
 だから、私達が人間を守る! その代わりに君達は我々に血液を提供する。どうだ、悪い取引じゃないだろう?」

そして、それから一年。
戦いは続いている。

「……なるほど、そういう経緯があったわけか」
「そうよ。記憶喪失のあんたにも、わかり易い説明だったでしょ?」
俺は今、地下の吸血鬼の前線基地(のような場所の)とある一室で、妹の美羽と向かいあって話し合っていた。
……いや、美羽ではない。
名前は美羽だが、俺の妹の美羽ではなく、吸血鬼の中でもエリート中のエリートであって兄などいないらしい。
「ったく、最初は私が妹だのなんだのわけのわからないこと言ってたけど、やっと大人しくなったわね」
「悪かったよ……」
――俺は学校への登校中にいきなり、『ここ』にいた。
風景は変わらないのに、人の気配が全くしないゴーストタウンになっていた街を歩き回り、ようやく見つけた妹は吸血鬼だという。
最初はわけがわからなかったが、しばらくしてここが別の世界なのではないかと考えられてきた。
対の世界の姫様から、いくつも世界があることは聴いていた。
……何が原因かはわからないが、俺は元いた世界とは並行している世界に移動してしまったのだろう。
それが辿り着いた結論。
というか、それ以外考えられない。
そういうわけで、俺は都合のいい記憶喪失論を展開し、美羽を丸め込み(こちらの世界でも単純な奴だ)この世界の話を聴いていた、というわけだ。
「思った以上に、大変みたいだな……」
俺はどこか他人事のように言う。
……実際、他人事だと感じているのだからそんな風に取られても仕方ないだろうな。
下手に異世界という知識だけはあり、そして戦いに関する経験はない。
それが原因なのか。ここをどこか仮想の世界。漫画やゲームの中の出来事のように俺は捉えてしまっている。

「大変なんてもんじゃないから……。実際、世界中で私達は戦い続けているけれど、どんどんと劣勢になってきてるし……」
「ん? 美羽、吸血鬼ってのはそんなにも数が多いものなのか?」
「気安く呼ぶなって言ったでしょ。……まあ、全員で大体10万ってとこかな」

「結構多いな」
もっと少数精鋭な感じかと思っていた。
俺の中での吸血鬼のイメージなんてのは、古城に住んでいて黒いマント羽織ってシニカルに笑ってる伝説上の存在。そんな感じのもんだったから。
「でも、数ではあっちのが圧倒的に上……それにさ……」
「それに?」
「ううん、何でもない。こんなことあんたにいっても仕方ないし」
ま、個体差で言えば私達のほうが圧倒的に勝ってるんだから、大丈夫よ。などと偉そうに言う美羽だった。
「そうなのか」
そこに、強がって見栄を張る美羽の癖が見えてしまって、素直に同意してやることが出来なかった。
……みんな、どうしてるだろう。
「……何か暗いわね。……まあいっか、もう話はいいでしょ? 今からシェルターに送ってあげるから、そこで身元の照合でもしてもらいなさい」
「あ、いや俺は……」
身元なんて見つかるわけがない。
それより、元の世界に戻る手がかりを見つけないといけないんだ。
「俺は、何?」
「…………いや、何でも……ない」
でも、まずは何をしたらいいのかわからない。
何の意味もなくこの世界に放り出された俺に目的なんてなく、初めは人間が多くいる所に行くのもいいんじゃないかと思えてきた。
「わかった。連れてってくれ」
美羽は俺の表情の変化を訝しみながらも、怪しんでも仕方ないと考えたらしい。
「じゃ、こっちよ」
二人して立ち上がる。
「ん?」
そこで、美羽の手にちょっとした擦り傷があるのに気がついた。
「おい、手に怪我してるぞ?」
「……? ああ、いつ怪我したんだろ。……ま、こんなのつばつけときゃ治るでしょ」
俺の世界の美羽でもそんなことはしなかったぞ……。
「俺が治してやるよ」
魔法の成績はそれほど良くないけれど、この程度の傷ならば余裕だろう。
「治すって、どうやって……あっ?」
美羽の手を取る。
人間と同じように体温もあって、脈も感じる。本当に吸血鬼なのかな。
なんて、そんなことを考えながら手を重ねて精神を集中する。
「…………!」
柔らかい光が手の辺りを包み、手をどかせば傷は綺麗さっぱりなくなっていた。
「ま、こんなもんか」
結構疲れるんだけど、まあちょっとしたお礼という奴だ。
「じゃ、行こう……ぜっ!?」
途端に、胸倉を強い力で掴まれ、勢い良く壁にたたきつけられる。
「あんた、なんでこんな力持ってるわけ!?」
「な……なんでって……げほ」
背中を強くぶつけたせいで呼吸がうまくできない……!
美羽の顔は、さっきまでとうってかわって、今まで見たことがないような恐ろしい形相となっている。
何をそんなに驚いてるんだ……!?
「べ、別に人間なら……誰でも……」
「人間なら!? 誰でも!? 馬鹿かあんたは! こんな力持ってるの、吸血鬼か魔族くらいしかいないっての!」
「……え?」
そうか、ここは別の世界なんだ。
魔法なんて安易に使うべきではなかったのか……!
「あんた、やっぱり怪しすぎる。このまま取り調べするわ」
「え、ちょ、ちょっとま……おわ!?」
さっきの薄暗い部屋に乱暴に投げ込まれる。
「あんたはそこで大人しくしてなさい。上に報告してくるから」
「っつ……おい、ざけんな……!」
俺が起き上がって文句を言おうとしたその時には、既に扉は閉められていて、部屋の中には俺一人だけが残された。
「なんだよ……くそ……」
頭をぶつけたせいで、ずきずきと痛む。
別の世界に来て何をしていいかもわからず、ただでさえ不安だというのに……何故こんなことになってしまったのだろう。
……扉を開けようとしたら、案の定鍵がかけられていた。。
「…………」
結局、俺には何も出来ない――。
「美羽……美優……」


あれから、何時間経っただろうか。
「…………」
ここには窓も時計も無い、時間を把握する術がないのだ。
ただ、この空腹と喉の渇きから、5時間近く経っているのはわかった。
「何で誰も来ないんだよ…………」
もしかして、このまま放置されて死んでしまうのだろうか。
こんな世界に飛ばされて、何もない部屋で何の意味も無く死亡……。
そんなの嫌過ぎる。
「誰か……助けて……」
祈るようにそうつぶやいた時、誰かがその声を聞きつけたかのようにタイミング良く扉が開いた。
「……すまなかったな。放っておいて」
「あ……」
顔を上げると、そこに立っていたのは……。
「ノア先生!?」
ノア先生も、吸血鬼なのか……!?
「何だ、私を知っているのか?」
まずい、一応俺は記憶喪失ということになっているんだ。
ボロを出すわけにはいかない。
「あ、い、いえ……顔だけは、その……何故か覚えていたんです」
「……………………まあいいだろう。ついてきてくれ」
「は、はい」
踵を返して歩き出す先生の後に、力の入らない足で何とかついていく。
しかし、俺が知ってる人間にこうして連続で出会うだなんて、あまりにも都合が良すぎる気がした。
だけれど……気にしても仕方がない、か。
「……あ、そういえば、美羽はどうしたんですか?」
本来ならあいつが迎えに来るのが筋ってもんじゃないだろうか。
「美羽は死んだ」
「……え?」
先生は、足も止めず、こちらを見もせずに平然と言う。
対して俺は、その言葉を一瞬で理解することが出来ずに呆然と立ち尽くす。
「君を迎えに行くのが遅れた原因は、魔族が久しぶりに急襲をかけてきたせいだ。当然我らは迎撃にでた。
 だが、そこで美羽はへまを踏んで死んだ」
「な、なんで……!」
「なんで? ……戦いなのだから仕方ないだろう」
そういう話をしているんじゃない……!
「き、吸血鬼は不死身なんじゃないんですか!?」
そうだ、美羽は説明を始める前にそんなことを言っていた気が……。
「ああ、『夜の間』は、『ほぼ』不死身だ。だが美羽は敵に捕らわれて、太陽の光に晒されて灰となった。
 吸血鬼の弱点を効率良く突いた敵の作戦だ。……何とか追い払いはしたがね」
「そん、な……」
美羽が、死んだ?
この世界と元いた世界の美羽は、違う。
それは、わかっているけれど……!
「なんであなたはそんなに冷静なんですか! 仲間が死んだんでしょう!?」
「一々悲しんでも仕方の無いことだからな」
「………………」
そうか。
ここは、誰かが殺されたりするのが『当たり前』の世界なんだ。
俺がいた世界とは、倫理観も、ルールも、命の価値も、まるで違う。
やっと、俺は自分が異世界にいることを実感する。

……俺は、こんな世界で生きていくことができるのだろうか?



「……さて、話を聞こうか」
ノア先生に通されて来た部屋は、あまりにも殺風景な場所だった。
今ノア先生が膝を組んで悠々と腰かけている革張りの椅子以外の物は、この広い空間には存在しない。
「話を聞こうかって、言われても……」
「まだ元気がない? そんなに美羽がお気に入りだったのかな?」
その言葉に少し嘲笑うような気配が感じられて、俺は少しむっとしながら答える。
「別に、そんなことはないです。……ただ、どうすればいいのかわからないだけで」
「記憶喪失」
「は?」
「記憶喪失なんだろう?」
「え、あ、ああ、はい」
やばい。虚を突かれて思いっきり顔に出てしまった。
「本来なら人間を保護した場合、シェルターに送り届けるのが我々の義務となっている……が、君は何故か力が使えるらしいね?」
「い、いや……そんなことは」
ありませんよ。と言おうとした所で。
「私は意味の無い話は嫌いなんだよ」
一瞬で、目の前に立っていた。
まばたきをしていたわけでもないのに、まるで最初から目の前にいたかのようだ。
「ん? それとも頬を舐めて『嘘をついてる味だな』とでも言えば満足なのかな、君は?」
「…………つ、使えます」
ゼロ距離から威圧されて、つい屈してしまう。
「……ふうむ。でも、血の匂いは本当に人間だし……」
顎に手を当て考えるような仕草を取るノア先生。
……本当に見た目は先生なんだよな、美羽の時も驚いたけど。
「少し、君のことを調べさせてもらうことになるが、いいかな?」
え。
「し、調べるって、どうやってですか」
「何、血を少しもらうだけさ。体には何の害も無いよ」
笑顔で肩に手を置かれる。
……怖い、笑顔がかなり怖い。
元いた世界の先生もこちらの世界の先生も、やはりシニカルに笑うのが似合う大人の女性だ。
こんな風に満面の笑みで言われても怖いだけだ。
「とはいっても、今日は君は長時間放置されて疲労が溜まっているだろうしな……」
「……」
「溜まってないか?」
「…………あ、いえ、その、疲れてます」
というか、お腹が減ってます。喉も渇いてます。
だけれど、委縮してしまって疲れてるとだけしか言えなかった。
「そうか、ならば仕方無い。血を吸うのは明日に回そう」
とりあえず吸血は免れたらしい。
「…………ふむ、じゃあ君にはここに泊まってもらおうか」
「え?」
何でそーなるんですか?
「どうせ君は記憶喪失なんだろう? 何もわからないならここにいればいい、ある程度の自由は保障しよう。ただし、血を頂くという条件でね」
「え、あの、その」
ノア先生はぽんぽんと勝手に話を進めている。
俺は口を挟む間もなくうろたえるだけだ。
「不安はわかる。だけれど君には他に選択肢はない。違うかい?」
「…………はい」
悔しいけれど、その通りだった。
元の世界に戻りたいけれど、今はなんの手がかりもない。
安全を保障してくれるというのであれば、ここは従っておこう。
「良く頷いてくれた。私はその賢明な判断に敬意を評するよ。……美優!」
ノア先生が虚空に向かって一喝すると、椅子の後ろから一人の女の子が立ちあがった。
……女の子? って、あれ……。
「み……!?」
ゆ。と続けそうになるところで何とか口を抑える。
記憶喪失という設定なんだ。知っている素振りを見せたらまずい。
「お呼びでしょうか、ノア様」
「彼を客室まで案内してやってくれ、それと簡単でいいからこの場所の説明を。後は……彼から質問があれば出来る限り答えてやってくれ」
「……わかりました」
美優がノア先生に恭しく礼をする。
普段見慣れない光景だけに、生気の無い美優の顔に少し違和感を覚えた。


コツコツ、コツコツ、コツコツ。
薄暗い廊下に、二人分の足音が響く、
「ここは貴方が見つかった街の地下に広がっている前線基地です。貴方が入ってきた場所の他にも幾つか入口はありますが、ここではその説明は省きます。
 このフロアは地下3階です。最下層は地下10階です。貴方はある程度の自由を許可されているようですが、明日の朝には検査がありますのでその時には部屋にいてください。
 尚、貴方が入れるのは地下5階までです。6階から下に侵入した場合警告無しで即刻末梢となりますので注意してください」
美優は、歩き始めに早口でそれだけ言って。後はずっと無言だった。
やっぱり、こっちの世界でも人見知りだったりするのだろうか。
「…………」
というか、何で俺の知り合いは皆吸血鬼なのだろう。
この調子じゃあ俺の周りの人は全員そうなっているのかもしれないな。
「おゎっ!」
前を歩く美優が突然止まるので、ついぶつかってしまった。
いや、俺がぼーっとしていたのがいけなかったんだ。
「わ、悪い」
俺が謝りながら立ち上がると。美優は右手で簡素なドアを指さした。
「ここが客室です」
どうやら着いたらしい。
「これを渡しておきます」
美優は懐から紙を取り出して、ぽいと俺に投げ渡す。
「これは?」
「地下五階までの見取り図です。ここは広い上にわかりにくい構造になっているので、絶対にそれをなくさないでください」
それでは。と美優は踵を返そうとしたので。俺は「ちょっと待った!」と呼びとめる。
「なんですか」
随分と無愛想だな……。
「……あ、あのさ。えーと……」
いろいろと質問したいことがあるのだけれど、まずは当たり障りのなさそうなところから訊いて行こう。
「あ、あの。ノアさんは、君の上司か何かなの?」
「ノア様は吸血鬼の王です」
「王!?」
あのノア先生が!?
「ほ、本当に!?」
「本当です」
「…………ふはぁ……」
まじかよ……あのノア先生が王様ね……。まあ、SMの女王みたいな雰囲気のある人ではあったけど……。
「…………」
「…………」
「…………」
「……あ、あの。もっと説明は?」
「そこまでは求められていません」
本当に言われたこと以外はやらない主義なんだな。
まだ俺に心を開いてないだけか……。
「あー、えっと、じゃあ、今何年の何月何日何時かわかる?」
「2007年7月23日22時31分36秒です」
「……ありがと」
俺が元いた世界と、同じ……か。
「もういいですか? それでは私はもう……」
「ちょ、ちょっと、最後に!」
ぴくりと眉が動く。
やっと美優の中に感情の動きが見えた。「鬱陶しい」って感じだけど。
「…………あのさ、美羽と君は、姉妹な――」
俺の言葉は、最後まで吐くことなく中断された。
「ぐ、ぐぅ……!」
美優に胸倉を掴まれて、締め上げられてる……!?
あ、あしが、浮いて……! 息が……!
「お前が姉さんのことを口にするな! 殺すぞ!」
「な……なん……」
鬱陶しいなんてものじゃない、はっきりとした憎悪と殺意が、俺にぶつけられている。
「お前のようなクズ人間のせいで……!」
美優はそこまで言って、何かに気づいたかのように力を緩めた。
「……けほっ」
俺は壁にもたれかかって、何とか息を整える。
「失礼。早くお休みください」
美優は、俺の顔を見ないようにして、今度はさっさと走り去っていく。
声をかけようとしても、先ほどまで締め上げられていたせいですぐには声が出なかった。
(…………なんなんだよ…………)
俺のせいって、どういうことだ……!?




「……腹減った」
真夜中に目が覚める。

そういえば、何も食べてなかったんだよな……。
喉も乾いてるし、このままじゃ眠れるわけがない。
眠れたところで起きるまでに餓死してしまうかもしれない。

まあ、考えることが多すぎたうえに、不安ばかりが頭の中に渦巻いてとても眠れるとは思えなかったのだが。

裸電球のスイッチを入れて、明かりをつける。
「……この建物の部屋は、みんな殺風景なつくりなのかな」
客室には、ベッドが一つ、タオルケットが一つ……後家具が少々。
「つか、電気はどこから通ってるんだろ……」
そんなどうでもいいことをぼやきながら見取り図を開く。
えーと、食い物にありつけそうな所は……。
「お、地下二階に食糧庫が……」
吸血鬼の本拠地だし、人間の食料があるかどうかは疑問だけれど、行ってみるしかない。

勝手に行くと怒られそうだが、これは緊急事態というやつだ。

俺は静かに廊下に出て、見取り図を見ながらエレベーターに向かう……が。
「!」
廊下の途中でノア先生の後姿を発見してしまった。
カツカツと心地よい音を立てながら廊下を歩くノア先生の姿は、やはりいつ見てもかっこいいモノがある。
女性が憧れる女性というのは、やはりああいう人なんだろうな。
「……って、そんなこと考えてる場合じゃないな……」
別に見つかってもまずいところはないのだが、なんとなく足音を潜めてしまった。
……ノア先生はエレベーターに乗って地上に向かったらしい。

「…………どうしよ」
今は夜。
吸血鬼も外で活動できる時間帯なのだろう。
「ノア先生に訊いてみるか……」
人間様の食料が置いてあるのか、質問してみることにしよう。
なにせ王なのだから、知らないことなどないはずである。


夜の住宅街は、音一つない世界。
当たり前だ、人間は全員シェルターというところに行っているのだから。
「…………」
何となく、今この地上に俺一人しかいないということを考えると、いつもなら出来ないようなことをやってみたくなってくるな……。

「慎みたまえ諸君! 私は今楽太郎になろうとしているのだよ!」

夜空に向かってそんなことを叫んでみた。
「…………?」
しかし、何で俺はこんな意味のわからないことを叫んだんだ?
何か得体のしれない強制力が働いたとしか思えない。
「ま、考えても仕方ないか……」
一つ溜息をついて、改めて周りを見渡す。
ここの住宅街を歩くのは二度目だ。
一度目の時は曇天で、いきなり美羽に詰問されたっけな。

一瞬、美羽の笑顔が脳裏をよぎったが、すぐに頭を横に振って忘れようと努める。
……悲しんでも、俺には何も出来ないんだ。

しかし戦場になっているという割には、全然街は破壊されていないんだな。
何故だろう?
いくらミサイルなどの兵器を使う戦いではないとはいえ、ここまで奇麗だと逆に不気味だ。
「そこらも、ノア先生に訊けばわかるか……」

「少年、君は何をしている?」
「うおああああっ!!」
某蛇のスパイもびっくりな後ろの取り方のせいで、つい腰を抜かしてしまう。
あまりにも情けなかったが、誰だろうと後ろからには弱いのだ。いろんな意味で。
「……そんなに驚くことはないだろう」
「驚きますよ……。足音一つしないんですから……」
「吸血鬼は闇に紛れるからな、まず人間にはわからないだろう。……それより、あまり関心しない。
 ある程度の自由を許可するとは言ったが、外に出ていいとは言った覚えはないぞ」
ノア先生は咎めるような口調で言う。
先生はあまり怒っているようにはみえないが、真面目に考えなければならない『忠告』だと俺は受け取った。
たぶん、二度目を破ったらこの人は物凄く怒るだろう。
「……すいません、あの……お腹が減って、喉が渇いたもので、ノアさんに何か食糧はないか訊きにきたんです」」
素直に頭を下げる。
するとノア先生はふっと笑って。「まあいいか」と言った後。
ぽいと、俺に向かって何かを投げ渡す。
「あ……」
それは乾パンの缶詰と、500mlのペットボトルに詰められた水だった。
「少しシェルターに行ってわけてきてもらっていたんだ。……我々の住処には、人間用の食糧などないからな」
「……ありがとうございます。でも、何でノアさんがそんなこと……王様なんじゃないんですか?」
「何だ。美優から聞いたのか? 確かに私は王だが、それとこれとは関係がないな。ただやるべきことがあった時に、ついでの用事を思い出した。それだけさ」
「……はあ」
吸血鬼社会は上下関係があまり厳しくないらしい。
「まあ、今はその缶詰と水しかないが我慢してくれ。明日になればシェルターに要求してもう少しましな食事をとれるようにしよう」
「あ、ありがとうございます」
何だか、元の世界のノア先生よりいい人っぽいな……。
あの人はいろいろとサディスティックな感じだし(まあ頼りになるには違いないけれど……)。
俺は久々に優しさというものに触れて感激する。
「私はまだここに残るが、君はもう戻るか?」
「……あ、本来の用事って、なんだったんですか?」
そうだ、ノア先生はついでだと言っていた。
だとしたらついでではないメインの用事があるってことだ。
ノア先生は「……まあ、言ってもいいか」と頷いて。
「夜を貯め込んでいるんだよ」
と、短く続けた。
「夜を……貯め込む?」
何かの比喩だろうか。
言葉通りに受け取る、ということが出来ない。
そもそも夜を貯め込むなんて、日本語としておかしいのだから当たり前だ。
「まあ、そこらはおいおい説明して行こう……おいおいな」
ノア先生はそう言って、んー! と勢いよく背伸びをする。
「……?」
その時、ノア先生の手の甲から血が少しだけ流れているのが見えてしまった。
「ノアさん、その怪我どうしたんですか?」
俺が指摘すると、ノア先生ははっとして手の甲を覆い隠す。
「い……いや。これは、ちょっとぶつけてしまってな」
「そうですか……?」
……何をそんなにうろたえることがあるのだろう?
まあ、しかし。それはそれでいいにしても、そのくらいの傷なら、前と同じように治してあげられると思う。
「ノアさん、その傷俺が治してあげますよ」
「ん……。ああそうか、君は美羽の傷も治したことがあったのだったな」
「こんな軽い傷しか、治せませんけどね。死ぬほど力を込めればわかりませんけど」
俺は、ノア先生の手の甲に自分の手のひらを重ね、意識を集中。
……そして、光が溢れ出す。
「おお……」
ノア先生が感嘆の声を漏らし、俺はそろそろかなというところで手をどける。
すると、血はしっかりと止まり、傷は奇麗に消え失せていた。
「素晴らしいな」
「そうですか? 大したことないですよ」」
「……君は、今自分がどれだけの偉業を成し遂げているのかわかっていない」
少し呆れるかのような口調に、俺はどう反応を返したものか迷ってしまう。
「しかし、記憶を失っても能力の使い方はわかるのだな」
「あ、い、いやそれは。この。本能みたいなもので……」
「……まあ、我々も似たようなものだ。追及はすまい」
…………何か、この人には全部見透かされてるような気がする。
どこの世界でも、不思議な魅力を持つ人だ。
「ほら、今日はもうそれを食べてゆっくり眠れ。明日は血液を頂くんだからな」
最後の一言で台無しになった気がした。

……でも、一日の終わりにゆっくりと話ができたおかげで、異世界での最初の夜は落ち着いて眠ることが出来そうだ。


「…………ふぁ…………」
トイレからでて欠伸を一つ。
吸血鬼にもトイレは必要なんだな……まあ、俺としてもありがたいんだけど。
「部屋に戻って待機、か」
美優の言葉を思い出す。
確か朝から俺の血を調査するんだったよな。。
正直血を調べて何がわかるのだろうかとも考えたけれど、俺はここに保護してもらっている以上従わないわけにはいかない。
「…………んー」
しかし、何で誰とも会わないんだろう。
ここが吸血鬼の前線基地だというのなら、美優やノア先生以外の吸血鬼にも出会ってもいいはずなのに。
ただこのフロアにはいないだけなのか、それとも夜行性なのか。
いや、美羽やらは昼でも平気で活動してたし、そんなことはないのか……。
「まあ、俺が考えてもわかることじゃないか……」
部屋に戻ってベッドに腰掛ける。
朝飯はまだ食べてないけれど、別に食べなくても俺は平気だ。
昨日の残りの水を飲み干して、空のペットボトルを床に置き、何の娯楽も無い部屋で迎えをじっと待つ。
部屋のオブジェの一つになるかのように意識を集中してみたけれど、結局その集中は10分も持たなかった。
「……寝ててもいいか……」
誰か来たら起こしてくれるだろう。
俺の心に緊迫感なんてそれほどなくて、それでもいいのかなとも考えたけれど、まあいいかなんて一人で合点をつけてしまった。


………
……


「ん……」

一時間くらい寝ただろうか。
やはり時計もなくて外の見えない地下では時間の感覚が狂ってしまう。
このままずっとここにいたら、発狂とかしそうだな……。
中々ぞっとしない想像だった。
「…………まだ、誰も来ないのか」
朝といってたのに、意外と時間にルーズなんだなあ。
「俺から会いにいってみるか」
昨日ノア先生がいた部屋まで早足で向かってみるが、そこには誰もいない。
「あれ?」
ここはノア先生の部屋というわけではないのか。
見取り図を確かめてみる。

『空き部屋』

「空き部屋なのかよっ」
どうやらノア先生の部屋は地下10階、つまり最下層にあるらしい。
だが俺が立ち入りを許可されているのは5階までであり、その約束を破ると警告なしで即抹消という恐ろしいお達しを受けている。
全く、美優も怖くなっちゃったよなあ……。

「ん?」
しかし、美優の部屋は地下5階にあることに気付く。
こちらならば俺でも行ける範囲だ。
「ちょっと行ってみるか」
思い立ったと同時に歩き始め、エレベーターまで辿り着く。
すると、丁度上からエレベーターが降りて来る所だった。

B1 B2 B3 ……B4とは行かず、この地下3階で止まる。

「ん……? ああ、君か」
「…………」

上から降りてきたのは、ノア先生と美優の二人だった。
「お、おはようございます」
出会い頭で少し驚いた俺が、適当にそんな挨拶をすると。
「……ふふ、吸血鬼に『おはよう』ほど似合わない挨拶はないな」
なんて軽く笑われてしまった。
美優は相変わらず無表情のままだ。
「まあいい。少し君に伝えなければいけないことがあってね」
「……? なんですか?」
「君の血を調査するのは、また後日に回してもいいかな?」
ノア先生は、眉間に指を当て、疲労を吐き出すかのようにため息をつく。
「悪いが、今日はもう疲れたんだ」
「……いいですけど」
俺としてはまだ少し怖いので、遅れてくれた方が安心できるというものだ。
「良かったと安心しているな。……すぐにわかるぞそういう顔は」
「え」
「ふふ……まあいい、まあいいさ。君の今日の分の食事は後で美優に運ばせよう。……今日も適当に過ごしてくれればいい」
「あ……はい。わかりました」
ノア先生はかっこよくピッっと指を振ってエレベーターの中に戻っていき、美優もその後に続く。
エレベーターのランプが地下10階まで移動するのを見届けた後、俺は部屋に戻った。

「……ふう」
朝から疲れるようなことって、一体何をしていたんだろうか。
俺が考えた所で結局わかるはずもなく、ベッドに座ってぼーっとしていると。

「…………」

ノックもなく、それどころかドアを開ける音すらたてずに美優が入ってくる。
「お……よ、よう」
美優からの返事はなく。
淡々と、あくまでこれは言われたからやるのだと言う空気を全身から醸し出しながら、右手に持ったビニール袋を俺に手渡す。
中に入っていたのは、パンと水のペットボトルが3つずつ。
健康な男子としては、流石にこれだけだと辛いものがあるんだけどな……。
「なあ。もう少しだけ、多くもらえないかな……?」
さっさと出て行こうとする美優の背中に声をかける。
「……あなたは私達に血を与えられるのですか?」
「は……血……って言われても」
調査の話か?
「吸血鬼の食事は血液。あなたは我々に定期的に血液を分け与えてくれるのですか?」
……どうやら違うらしい。
美優が突然饒舌に語りだすものだから、たぶん無視されるだろうなとか考えていた俺としては少し戸惑ってしまう。
「あなたはそのパンと水にどれだけの価値があるのかわかっていない」
「価値って……」
……そうか。
今は人間だって大変な時で、その中でこれだけの食料を確保することさえ大変なのかもしれない。
「……ごめん。そだよな、シェルターにいる人たちも」
「違います」
「え?」
何が違うんだ?
「あなたは今誰の庇護を受けているのか、良く考えることです」
「え、ちょ、おい……!」
バタン。
ドアが閉められて、俺は一人取り残された。

「……美優」

俺は呆然として、ただ美優の言葉を頭の中で繰り返しながら思考する。
「…………わかんねえ」
この閉塞された空間と同じように、俺の思考も滞ってうまく頭が回転しない。
「俺って、一体なんなんだろうな……」
こんな薄暗い部屋で、一体何をうじうじと考えているのだろう。
そんなネガティブな方向にばかり、考えが向いてしまう。
「誰の庇護を受けているのか……か」

やっぱり、ノア先生かな?
でも、俺は当然食糧を分けてもらっていることに対して感謝している。
そりゃあ、もっとくれなんて言ったのは図々しかったのかもしれないけれど。
それでも、美優があそこまで言う理由は無いように思えるのだが……。

「ああもう……俺は寝る……!」

一度に考えすぎてもだめだ。一度ガス抜きしなければいけない。
俺は適当にそう見切りをつけ、ベッドに寝転がった。


「お兄ちゃん……起きて……」
ゆさゆさと、誰かが俺の体を揺すっている。
「誰……だ……」
お兄ちゃんなんて呼ぶ人が、この世界にいるわけが……。
「お兄ちゃん、遅刻するよ?」
「!?」
え!?
なんで、俺は俺の部屋にいるんだ!?
「お、お兄ちゃん……?」
ベッドの脇には美優が立っていて、跳ねるように起き上がった俺にびっくりしている。
俺が俺の部屋にいる。
それはその文だけ見れば当たり前のことでなんらおかしくない。
だけど俺はさっきまであの異世界にいたわけで……。
「美優」
「え、な、何……?」
美優の両肩に手を置いて、まっすぐに目を見据える。
「恥ずかしいよ……」
「あのな……美優」
「う、うん」
「お前……吸血鬼とかじゃ……ないよな?」
「え、何、言ってるの?」
きょとんとした無垢な瞳で見つめ返され、俺は安堵する。
「そうか……」
良かった。
俺は、戻ってこられたんだ。
理由はわからないけれど、戻ってこられたんだ……!
「私は当然、吸血鬼だよ?」
「え?」

そこで、目が覚める。

目が覚めたら、いきなりノア先生の顔が目の前にあった。

「………………………」
「起きたか、少年」」
「…………? …………っ!!」
「何を驚いている?」
い、いや。そんなこと疑問に思われてもこちらが困る。
起き抜けにこんな美人の顔が目の前にあったんじゃ、そりゃ驚きたくもなる。
「な……何をしてるんですかっ!」
「膝枕というやつだよ」
あ、そういえばなんか頭にやけに柔らかいものが当たると……って膝枕!?
ばばっと素早い動きで起き上がりむき直れば、ノア先生はベッドに腰掛けていて、確かに俺が膝枕をされていたらしいことがわかる。
「何でそんなことを……」
「いや何、美優の様子がおかしいので何かあったのかなと訪ねてみれば、君は人間なのに昼間っからぐうぐうと寝ているではないか。
 しかし枕は用意してやれなかったせいか少し寝付きが悪そうだ。仕方ない、ここは私が膝枕をしてやろう……というわけなのだよ」
説明口調なのが気になったが、そこで膝枕をする理由も良くわからなかった。
シニカルに笑ったり、皮肉っぽいことを言う部分で被るところはないでもない。
だけれど、あちらの世界にいたノア先生の心の奥底からは少しダークな感じを受けるが、こちらのノア先生からは感じないのだ。
それが何に起因するのかまでは、わからないけれど。
「それで少年、君が昼間っから不貞寝をしていた理由はなんだい?」
「あ……それが……」
俺は、寝る前に美優と交わした会話のことをノア先生に話した。
ノア先生は、最初こそふんふんと物わかりの良いお姉さんのように頷いていたが、途中から何だか真面目な顔になって黙ってしまう。
「……ということんなんですけど」
「なるほどな。……美優め、余計なことを言う」
非難するのではなく、ただ呟くかのようにノア先生は言った。
「少年、君はそう言われてどう思った?」
「え……」
突然の質問に少し動揺したが、俺は少し委縮しながらも、自分の考えを述べていく。
「当然、ここに置いてもらってることとか食事をもらっていることについては、感謝しています。
 ……でも、美優の言ってることはなんだかそういうのとは違う気がして……」
「いや、それでいいのさ少年。その感謝の気持ちさえ忘れなければそれでいい」
諭すように肯定して、ノア先生は俺の頭をぽんぽんと撫でるようにした。
「ノアさん、でも……」
「実はな、今朝魔族の襲撃があった」
「え?」
「とはいっても、何故か敵は積極的な攻撃をせずに距離を取るばかりだったのだがな。
 ……まあそれでも戦闘は戦闘だ。体力は使う」
「あ、だから今朝……」

『悪いが、今日はもう疲れたんだ』

あれはそういうことだったんだ。
そう、ここは戦いがいつ起きてもおかしくない世界だということを愚かにも失念していた。
まだ、美羽が死んだばっかりだって言うのに……俺は忘れていたっていうのか……?
気を抜いていてどうする、馬鹿なのか俺は!

「君が悩む必要など何もないといっただろう。人間を守るのは我々の義務だ」
「……義務」
「いや、義務というのも違うな……。もっと簡単なことだ、我々には人間を守るしかないのさ」
「守るしか、ない?」
「そう。そうだな……うまく例えが出ないけれど、公務員に似たようなものだ。
 民から払われる税金で給料を賄われるのだから、民の為に尽くすのが当たり前。
 吸血鬼も人間から血をわけてもらっているのだから、人間を守らなければいけない。
 君は少し事情が違うけれど、人間は人間さ。その対象から外れてはいない」
「なるほど」
「…………そう、戦うしかない」
一瞬だけ、ノア先生の表情が変わった気がした。
眉を顰めて何かを睨みつけるような、何かを憎むような、何かを悲しんでいるかのような……その、何かがどういうものかはわからないけれど。
とにかくそんな気がした。


「それに、人間は君が考える程食糧には困っていないようだよ。クローン技術とやらが随分と発達しているらしいからね」
「クローン技術ですか?」
俺のいた世界では、それほど注目されていなかったような気がするな。
まあ、こちらの人は魔法が使えない分、科学などに力を入れているのかもしれない。
「しかし、ここで君が美優にぶつけた質問に答えるが。……食事を増やしてくれと言われて増やせるのかと言えば、
 それはNOだ。悪いけれど、我慢してくれないか?」
本当に申し訳なさそうに謝るノア先生に、俺は慌てて取り繕う。
「あ、い、いえ! いいんですよ! ノア先生が謝る必要なんてこれっぽっちもありませんって!」
「……ありがとう。それじゃあ、私は戻る。何か会った時は大声で叫べば誰かが気づくだろう」
「あれ? あの、血は調べなくていいんですか?」
「今日はもう血液の摂取は終わらせてしまったのだよ。どんな形であれ、私は血を吸うのは一日一回と決めている」
「そうなんですか……」
「わかったならいいさ、ただし明日の朝までに覚悟をしておいてくれればね」
ノア先生はかっこよく身を翻し、朝と同じようにピッと指を振る。
覚悟をしとけというのが気になったが、今度は俺も同じようなモーションを取って返す。
「息災を」
短い言葉を残し、ノア先生は出ていった。
やっぱり凄い人だ。話していると不思議と心が落ち着いていく。
人間には計り知れないような大きな器、大きな胸の内に抱かれているような感じがする。
「やっぱり、王様というだけあって違うのかな」
まあ、実際胸も大きいけど。

そんな風に考えて、少しだけ自分が嫌になった。

 
翌朝。

「さあ、君の血を頂こうか」
「……あの」
「なんだい、少年」
何で俺はノア先生に押し倒されているのでしょうか?

昨日の夜、パンと水で何とか空腹を満たし、今元の世界ではどうしているだろうな……なんてちょっとしたホームシックになったりした。
しかし、今はただ眠るしかなかった。
戦時中なんだし甘ったれたことを言っても仕方ないからだ。
郷愁とか哀愁だとか、良くわからない感情が胸から湧き上がってくるのを抑えながら、ただ眠るだけ。

そして夢を見た。
俺はそこでは自分の部屋に寝ていて、美羽が起こしに来てくれていた。
最初は優しく俺の体を揺すり、俺はそれを拒否しながら「あと五分」なんて呟く。
そうしたら段々と揺する力は強くなっていって、次第にはベッドから引きずりおろされる。
天地がひっくり返ったような感覚に驚きながら起きると、美羽は憎悪に歪んだ顔でのしかかってきて、首を絞めてくる。
「お前のせいだ」とつぶやきながら……。

そんな悪夢で目が覚めて体を起こそうとすれば、妙に重い物が俺の上に乗っていて体が動かない。
視線を動かしてみれば、何故かノア先生が俺の上に乗っていて、「おはよう」などと嘯いていた。
「さあ、君の血を頂こうか」
「……あの」
「なんだい、少年」
「何で俺の部屋にいて何で俺の上に乗っていらっしゃるのでしょうか」
もしかして悪夢を見たのはこの人が上に乗っていたせいではないのだろうか。
「実を言うとな」
「実を言うと?」
「もう我慢が出来なくて、昨日からこうして馬乗りして待機していた」
少しだけ子どもっぽい笑みを漏らす先生。
ああ、やっぱりこんなところはあちらと同じだ……。
「だったら、昨日遠慮なんかせずに吸えばいいじゃないですか……」
「それはダメなんだよ、それは私が私にかけた戒めだからね」
「……じゃあ、寝ている間に吸うとか」
「それでは面白くないじゃないか」
「面白いとか面白くないとかそういう問題ですか?」
俺としては、起きたらもう終わってましたよ。ってなことになってたら良かったのだが。
「ああ、なんというか……こういうと私の嗜好が明らかになってしまうのであまり言いたくはないのだが、
 私としては何らかの反応があったほうが意欲が増すのでね」
ああ、やっぱりSなんだこの人。
諦観みたいな気持ちで胸が一杯になる。
「……でも、血をもらうってどうやって……」
「ん? 当然、直に吸うのだが」
「直って言うと、俺に牙を突き立てて吸うってことですか?」
「その通りだ」
「い、痛いですか?」
というか、吸われた人も吸血鬼になるってのは良く漫画や映画である話だけれど実際はどうなんだろう。
「痛くはないよ。それに吸われたからといって君の体に何か変調があるわけではない、安心したまえ」
あまり安心できないけれど、どうせ俺には拒否権はないのだろう。
無駄だとは思いつつ訊いてみる。
「これ、やっぱり嫌だっていっても」
「駄目だな」
間髪入れずに返事が返ってきた。
……まあ、痛くないって言うのなら、いいか……。
「わ、わかりました。早くしてください」
「英断だ」
ノア先生は俺に覆いかぶさるように倒れてきて、両腕を動かないように強い力で抑えつけられる。
「ちょ、ちょっと……?」
万力で締め付けられてるみたいに、痛いんですけど……?
「ごめん、実はものすごく痛いから、暴れないようにな」
「な――!」
俺が非難の言葉を吐こうとした時にはもう遅い。
ノア先生の口の中に鋭い牙が見えて、それが俺の首筋に突き立てられる。
「―――――――――!!」
い、痛い! 痛いイタイいたい痛イいたイ遺体!
全身の肉が首に惹きつけられるかのようにびくびくと震えて、どくどくと血液が流れ出しているのがはっきりとわかる。
「あ、ああ――!」
脳は痛覚だけに支配され、やがて体の感覚さえなくなっていく。
そしてそのまま意識さえ、何か真っ黒な物に侵食されていき――。
「……む、間違えたかな……?」
そんな無責任そうなノア先生の言葉を最後に、俺の意識は闇に堕ちた。



ああ、なんだここ。
外、か?
俺はなんでこんな所を歩いてるんだ……?

(……!?)

体が、動かせない。
いや、体の感覚がないんだ。
だけれど歩いているってのは、どういうことなんだ?

「……はぁ」
(!?)
今発せられた声は、明らかに俺のものじゃない。
(ノア先生の声だ……)
じゃあ、俺はノア先生の体に……乗り移っているのか?

「…………」

なんでこんなことになっているのだろうか。
血を吸われたことに何か関係しているのかもしれない……。
(もしかしたら、ただの夢かもしれないしな……)
だったら、この場は文字通り身を任せるしかないか。

俺……いや、ノア先生は無言で夜の街を歩いて行き、一つのビルに辿り着く。
そのビルの前には、銃を持った軍人らしき人間が二人立っている。

見張り……ってことは、ここがシェルターの入口なのだろうか?

「!!」

そして、その二人がこちらの存在に気付き。

――銃口を向けて、「近付くな!」と叫ぶ。

(……え?)

だけどノア先生は歩みを止めず。

銃声が一つ、轟いた。


「……ろ……」
……え?
「……きろ」
なんだ?
「おきろーーーー!」
「ぁぁぁぁああああっ!」
耳元で爆音が轟いて、俺は文字通り飛び起きた。っつーか飛んだ。
ついでに覚醒しかけた意識すらまた飛ばされそうになった……。

「もう、やっと起きた」
「え……」
大声出させないでよね、とベッドの横でぶーたれていたのは――。
――陽菜だ。
幼馴染まで吸血鬼だってのか……。
俺は新たな事実にまた少し眩暈を覚える。

いや、眩暈がするのはそれだけが原因ではない、血をあれだけ吸われたからだ。
今では痛みは全然残ってないけど、恨むよノア先生……。……?

――あれ?
俺、何か忘れてないか?
さっきまで、俺は何かしていたと思うのだけれど……それが何なのか、全く思い出せない。
残っているのは少しの頭痛だけだ。

「あのね、ご飯持ってきてあげたから」
陽菜は袋詰めされたコッペパン一つに、やはり昨日と同じ水をベッドの上に投げた。
……ま、覚えてないのなら考えても仕方ない。今は朝食をとることに集中しよう。
「それじゃ、それ食べ終わったら会議室まで来てね? 大翔くん」
「え、あ、ああ……」
……?
今、何か変なこと言わなかったか?
…………しばらく思考して、パンを食べ終わることにようやく気がついた。
「そうだ、名前だ」
そういえば、俺はここに来てから一度も名乗ったことがなかった。
ノア先生は少年って呼ぶし、美優はお前とかあなたとか呼ぶ。
完璧に名乗るのを忘れていたのだけれど……。

なのに何故、陽菜は俺の名を知っていたんだ?




ここは全体的に打ち捨てられて廃墟のような作りかとおもえば、それは違った。
会議室はどこぞの会社で使うかのような奇麗な場所で、そこにノア先生しかいないということ以外、変なところはなかった。
「……遅いよ」
「すいません」
とりあえず頭を下げておく、が。
ノア先生はそれ以降黙って俺を睨み、何を言おうともしない。
「……あの?」
「血識」
「え?」
「吸血鬼は血を吸うことによって、その人間の記憶、細かい身体的特徴、能力まで何でも知ることが出来る」
「…………それで?」
「君は、この世界の人間ではないのだな」
……!
少なからず、動揺が顔に出てしまう。
しかし、ノア先生の言うことが本当なら隠しても意味はない、素直に答えることにしよう。
「はい、嘘をついてすいませんでした。ただ、この世界の事情が知りたくて……」
「美羽がいた。美優がいた。陽菜も、私も君の記憶の中にいた」
「全員、俺の家族と知り合いです」
「…………そして、魔法をあたりまえのように使える」
「はい……」
「君は、何だ? 何が目的でこの世界に来た?」
「俺にはわかりません。何が何だかわからない内にこの世界にいたんです! それは血を吸ったらわかることでしょう?」
「君がこの世界に来る直前のことは、読めなかったからな」
「覚えていないことは、読めないというわけですか」
「……まあ、君に害はなさそうだし問題ないか。ただ、シェルターにはこの世界の君がいるのかもしれないし、帰すわけにもいかないな」
確かに、そうだ。
美優がいて、美羽がいて、陽菜がいて、ノア先生がいて、俺がこの世界のどこかにいない保障なんてない。
「というわけで、君には精々我々の役に立ってもらうとしよう」
「……はあ?」
「君は、傷を治す力が使えるのだろう? それは我々には無い力だ。とても貴重なのだよ」
わかるだろう? なんて甘い声で言われても、俺にはさっぱりだ。
「あの、傷を治すっていっても、ちょっとした物で……。それに、吸血鬼って、勝手に治ったりするんじゃ……」
「確かに、夜はほぼ死なない。だが傷を負えば、死なないだけで痛みはある……すぐに治ったりはしない」
「それは……」
ある意味、死ぬよりも辛いかもしれない。
痛みはあるけれど、死ねないだなんて……。
「だから、少しでも傷を治す手助けがあれば非常に助かる。引き受けてくれるかな?」
この問いに対する答えは、もうわかっている。
ノア先生の瞳は、相手を魅惑しながらも委縮させる。
「断れるわけがない」という確信が、視線に籠っている。
「……あの、一つだけ、条件があります」
「なんだい?」
「俺を元の世界に戻す手がかりを探してください。……その条件をのんでくれるのなら、俺はノアさんに協力します」
「………………いいだろう」
かなり長い溜めがあったが、何とか頷いてくれたことにほっとする。
「しかし君は、落ち着いているのだな」
「そうですか?」
「ああ、普通こんないつもの日常とは何もかも違う異常な空間に放り出されれば、もっと喚いて暴れたって不思議じゃない」
あんな、平和で素晴らしい世界から……とノア先生は付け足す。
「……それは……」
俺としても、うまく説明できないかもしれない。
「ただ、異世界があるって知識はあったんです。……そして、異世界から来た人達にも会ったことがある。
 だからいつか戻れるかもしれないとも思って……何より」
いつも一番近くにいて、いつも一緒に暮らしている家族が。
「ここには美優が……妹がいて、ノアさんみたいな知り合いがいたから……」
見た目が同じだけで、それ以外の全てが違うってことはわかっている。
だけれど、姿形が同じというだけでも他人に対する抵抗は薄れていくものだ。
「なるほど、な。確かに家族が身近にいる安心感は重要だ」
重要だな……とノア先生は繰り返し。
「重要ついでに、こいつを美優の所に届けてやってくれないか?」
ノア先生は懐から血の入った袋を取り出し、机の上に置いた。
何がついでなのかわからないんだけど……。
「これ、輸血パックですか?」
「ああそうだ。ここ最近、美優は血液の補給を怠りがちだからな……」
「最近……」
……俺が来てから、とか?
「ああ、君の責任ではない。君が来る前からそうだったんだ」
「なぜですか? 吸血鬼は、血を摂取しないと大変なことになるんじゃ……」
「理由はわからない。……私はそこまで干渉する主義ではないからな。訊きたいのならばついでに自分で訊いてみるといい」
――それじゃあ頼んだよ。
ノア先生は、それだけ言うとくるりと椅子を回転させて俺に背を向ける。
「……あの」
「美優の部屋は地下5階だよ」
訊いてもないのに的外れな答えが返ってきた。
「知ってます。……俺が言いたいのは、何で俺に頼むのかってことです。美優が俺を嫌っているって、わかってますよね?」
「だけど、君は美優を嫌ってはいない」
「それは、そうですけど」
どんなことを言われても、俺に妹を嫌うことなんて出来ない。
「だったら大丈夫さ。それに美優は君を嫌ってはいないからな」
「……いや……嫌ってるでしょう」
「………………」
ノア先生は、もう返事をするつもりはないらしい。
こちらを見ないまま黙ってしまった。
「……わかりました。とりあえず、これは美優の所に持っていきます」
「英断だ」
先生は手だけを振って、俺を送り出した。

久しぶりに見取り図を開いて美優の部屋の位置を確認する、そこは地下5階の一番奥の部屋であり。
ついでに言えば何故か扉が超でかかった。

幅は両手を横に広げた俺二人分、高さは単純に俺二人分。
「何でここだけ特別な作りなんだろうな……」
そんなどうでもいいことを呟きながら扉をノックすると。

「何の用ですか」

後ろに、いた。
「…………」
俺は一瞬の出来事に言葉を失って固まり、ぎぎぎと首が軋む音がしそうなくらいゆっくりと振り向いた。
「よ、よう」
「何の用なんですか?」
美優は相変わらず無表情で、同じ言葉を繰り返した。
「の、ノアさんからこれを渡してくれって頼まれてたんだよ」
俺は手に持っていた輸血パックを美優に差し出す。
「…………っ」
美優は少し逡巡したようだが、結局はゆっくりとした動作でそれを受け取った。
「ありがとうございます。それでは」
美優が俺の横を通り抜けて部屋に戻ろうとしたところで。
「あのさ、中に入れてもらってもいい?」
なんて提案してみる。
「――絶対にダメです」
うあ、なんかいつもより威圧かかってる。
「絶対に絶対に絶対に駄目です」
なんか、顔赤くないか?
「な、なんで?」
「あなたこそなんでですか。なんで私の部屋に入ろうとするんです」
「いや……親交を深めたいから……かな」
その言葉にショックを受けたようで、美優は絶句している。
「………………」
「お、おい。どうした?」
「あなたは……どうしてそんな……!」
「何を……うわっ!?」
美優は何かを呟いたかと思えば、今度は急に俺を強く押し飛ばして部屋の中へ入っていってしまう。
俺はなんとかバランスを取って倒れずに済んだが、心の中には消化不良な点がいくつも残った。


「よっすよっすよっすっす!」
「……は?」
美優の部屋からエレベーターに向かう途中、いきなり能天気な挨拶をかまされて思わず面喰ってしまった。
その挨拶の発信源は廊下の向こうからやってきた陽菜だ。
「久しぶりだねー、大翔くん!」
「ちょっと前に会ったばかりでしょう……その、陽菜さん」
「陽菜でいいよ。ノア様に聴いたけど、私と君って幼馴染だったんだよね! うっわ、いいねそういうの。朝に部屋まで起こしに行っちゃったりしたわけ?」
「いや、そういうイベントはなかったです」
「なんだなかったのかー、つまんないね。そっちの世界の私に喝いれてやらないと!」
「はは……」
陽菜はなんというか、元いた世界と微妙にノリが似てるし、明るいから……何と言うか、いいな。
ノア先生はなんとなく対等に話が出来るタイプじゃないし、美優はあんな調子だし。
「陽菜さんは、何でここに?」
「いや、それはこっちが訊きたいんだけどねえ。ここって私の部屋もあるわけだし」
「……え」
見取り図を広げてみる、が。膨大な部屋の数からすぐには見つけられない。
美優の場合はその部屋のでかさから簡単に発見できたのだ。
「ほら、ここ」
「あ……なるほど」
確かに
地下5階の一室に陽菜の部屋と書いてある。
「でも、ほとんどが空き部屋なんですね」
それに、出会った吸血鬼は陽菜でやっと三人目だ。
「前線基地っていうなら、もっと他の人とも出会ってもおかしくないのに……」
「あー、そのなんつーか……」
陽菜は少し困ったかのように頬をぽりぽりと掻いて、「ご、ごめん! もう行くね!」とあからさまなごまかしをしてから去っていってしまう。
「…………何隠してるんだろ」
気になりはしたが、部屋まで追って訊くってのも何か嫌だしな……。
今日はもう、部屋に戻って寝てしまおう。





翌朝。

目が覚めると、ダッシュボードの上にはいつものパンと水が2つずつに一枚のメモが置いてあった。
内容は『今日の夜7時、会議室にGO! GO! GO! マッハ豪!』とのこと。
「陽菜か……」
こんなフランクな文を書くのは陽菜しかいないだろう。
心を開いてくれるのは嬉しいけれど、どうせなら幼馴染っぽく起こしてくれてもいい気がする。
昨日自分でそんなこと言ってたじゃあないですか。
「しかし、7時っても時計がない……」
これじゃ片手落ちじゃないか。
陽菜はやはりこの世界でもどこか抜けている……と思いきや。
「あ」
パンなどの入っていたビニール袋の底に、薄型の置時計があった。
「…………わかりにくいって」
俺はその時計をダッシュボードの上に配置してから、パンを千切って咀嚼した。

今日は一日誰とも出会うことがなかった。
……もしかしたら外では戦闘が行われているのかもしれなかったけれど、俺には確かめる術がない。
ただ自分の部屋で、誰かが死なないことを祈るだけしか俺にはできないんだ。

そして、何の娯楽の無い部屋での時間潰しも慣れてきたもので、既に午後7時。

「失礼します」
多少の身だしなみを整えて会議室に入ると、そこにはやはりノア先生が一人だけがいた。
「おはよう」
「……おはようございます」
自分で吸血鬼におはようは似合わないとか言ってた癖に……。
「ん? なんだいその目は?」
「いえ、何でも。それで、今日の要件は?」
ノア先生にそんなことで一々つっかかっても仕方がない。
「いや、昨日話し忘れたことがあってね」
「話し忘れたこと?」
「そうだ。仲間となるうえで知っておかなければいけないことだ」
「仲間……」
あまりあちらの世界では聞かなかった響きに、少し感銘を覚える。
「………………ああ、仲間……か……」
「どうかしたんですか?」
急につぶやくような声になるノア先生に問いただす。
すると先生は、何か悪いものを振り払うかのように頭を振って答えた。
「いや、何でもない……何でもないさ。それよりも、続きは外で話そう。丁度夜を貯め込む時間だからな……美優!」
パンパンとノア先生が手を叩くと、先生の影の中から美優がずぶずぶと出てくる。
……いつかの時もああやって影に隠れてたのか。
「外に行く。大翔の護衛としてついてきてくれ」
「はい」
すたすたと歩き出す二人の背中を目で追っていると。
「何をしている? ついて来るんだ」
なんて言われてしまった。
俺はただ、名前を呼んでもらったのが少し嬉しかっただけだ。


夜の住宅街、昨日と同じ場所でノア先生が話し出すのを待つ。
ただし、横には美優がいて何故かプレッシャーをかけてくるので、あまり力を抜くことはできないが。
「……君は、我々と魔族、どちらがこの戦いに勝つと思う?」
「え」
いきなりそう言われても……。
ただ、美羽は魔族にどんどん押されていると言っていた。
だけれど心情的に魔族が勝つとは言いにくい。
「ノアさん達、勝って欲しい……です」
「勝って欲しい、希望だなそれは。……だが、我々が勝つ可能性は限りなく低いというのが実際の答えだ」
「……そんな」
「夜を貯め込むというのはな」
「?」
「こうしてこの身に闇を取りこんで、昼間にも戦えるようにしていることなのだよ」
「……昼間は、太陽が出ていて外に出られないんじゃ……」
「だが、敵は昼間だろうとなんだろうと関係なく襲ってくる。ならば外に出られない我々は押しつぶされるのを待つだけか?
 それではあまりにも愚かだ。美羽と君が出会った時のように曇天ならば問題はないが、敵もそれほど馬鹿ではない。
 大抵快晴の日を狙ってくる」
「それじゃあ……どうやって」
「私が、この身に取りこんだ闇を開放し、一定の空間だけを夜にするのさ」
「…………」
言っていることは何となくわかるが、そういったことは実際に見てみないとなんとも言えない。
「だが、夜を取りこむという行為はこうしてリラックスしているときでないと出来ない。だが昼にも夜にも敵が襲撃してきたらどうなるか?」
「夜を貯め込む暇もなく、ジリ貧ですね」
「頭の回転が早いな。その通りだ。……一か月前、敵が一週間連続で休みなく攻めてきたことがあってな、何とか防ぎはしたものの、我々は多くの仲間とこの身に取りこんだ闇を消費した」
「数では、圧倒的に負けているんでしたよね」
「そうだ。……そこで大幅な戦力を消費したのか、魔族も最近は襲撃を控えている……が。今この基地に残っている吸血鬼は、私 美優 陽菜の、3人だけだ」
「!?」
「…………少し前の襲撃で、美羽が死んだからな」
「っ……」
美優が舌打ちをして俯いた。
「じゃ、じゃあ、どこかに援軍を頼めばいいじゃないですか! この世界に10万はいるんでしょう!?」
3人だなんて、どうやっても勝てるわけがないじゃないか!
「…………それは無理だな」
「なんで!」
「吸血鬼は、海を越えられないからだよ」
「あ……」 
そういえば、それも吸血鬼の逸話には良くある話だ。
でも、それだといろいろおかしいことにならないか?
「でも、ノアさんは吸血鬼の王なんでしょう? 他の吸血鬼を統制する王が、何でこんな隔離された島国に……」
「王というのはな、各地の吸血鬼を統べる者という意味なのだよ。何も私が10万の吸血鬼を束ねているわけじゃない」

私が束ねていた日本の吸血鬼は、この間までの戦いでほぼ死んだ。……ノア先生は遠くを見ながら悟ったように言うけれど、俺の中には混乱しか生まれない。

「そして、闇を取りこむことが出来るのは各地の王だけにしか出来ない」
「それじゃあ、世界中で同じような戦況になっているってことですか!?」
「欧米の方は、まだそれほど被害が出ていないがな」
そういえば、敵の本拠地は太平洋にあるんだったな。
……だとしたら、最初に狙われるのは太平洋に面している大陸ということだ。
「だが、我々がここで倒れれば魔族はあっという間にアジア圏になだれ込むだろう。そうすれば、もう我々の負けが確定してしまう。我々3人、いや君を加えた4人で「何とか」するしかないのだよ」
「何とかって……!」
俺は、大した力もないただの人間なのに……。
「そこで、君が元の世界に戻れるかどうかの話にもかかわってくる」
「え?」
「魔族は、異世界から攻めて来た者どもだ。ここに来るまでに七つの世界を滅ぼしていることがわかっている」
「七つも……!?」
「殺された人間の数は、500億にも達するだろうな」
「ごひゃく……」
俺がいた世界でも、人口は60億ちょっと。
それだけでも圧倒的すぎて想像できないのに、その8倍以上だなんて……!
「だが魔族とて馬鹿ではない。我々の抵抗によって数を削られれば、別の世界を狙うために移動していくだろう。我々はそれまで持ちこたえればいいのだ」
「それが、どう繋がるんですか?」
「魔族は、世界を渡り歩いている。つまり、その力を調べることができれば、君が元いた世界に戻る希望も出てくるだろう?」
「……なるほど」
でも、それは簡単なことではないと思う。
「その為に、我々は魔王を捕らえる」
「ま、おう?」
その単語からは、何だかゲームに出てくるようなチープな想像しか生まれなかった。
「雑魚は何度もとらえたことがあるが、何も知らないようだったからな。……だが魔王ならば知っているだろう」
「でも、魔王っていうからには、本拠地にいるんじゃ……」
つまり、海のど真ん中。
海を越えられない吸血鬼には無理な話で、陽炎稲妻水の月だ。
「いや……けほっ。ん……少し疲れたな。一時休憩にしよう」
ノア先生は懐からまたパンと水を取り出して、俺に放った。
「大翔もこれを食べるといい」
「あ、ありがとうございます」
正直、これだけじゃ全然足りないんだけどな……。
「30分後にまた話を始めよう。それまで、私か美優のどちらかの傍にいるならば、自由に行動してもらって構わないぞ」
「……それじゃあ、俺は……」


最初は美優ルートしかない 
二週目から選択肢追加「ノアルート」


 美優ルート

「ちょっとついて来てもらっても、いいか?」
「………………」
美優は明らかに嫌そうな表情をしたが、ノア先生の「行ってやれ」という鶴の一声で渋々頷いた。
「……こっち」
俺は美優に後ろについてくるように促し、ある所に向かった。
そこは、俺にとって一番大事な場所、かけがえのない場所。
――皆が住んでいた、家。
「……表札が、違うな」
家のデザインは同じなのに……。
やはり、こういうズレは出てくるもんなんだな。
「ここに、姉さんもいたんですか」
「…………え?」
美優から話しかけてきてくれたことに少し驚きながら振り向くと、美優は「はあ」と溜息をついて塀にもたれかけていた。
「ノア様から話は聴きました。……あなたと私と姉さんが兄妹だったことや、あなたが別の世界から来たこと全てを」
「あなたはいい。もし元の世界に戻れたら自分にはまだ家族がいるんですから。……でも、私にはもういない」
唇を噛みしめて毒づく美優に、俺はあの時の言葉を問い質すべく言った。
「俺のせいって、どういうことなんだ……?」
「…………実は、直接見たわけではありません。ノア様が言うには、貴方のことを嗅ぎつけた敵が地下に侵入しようとするのを防ごうとして、不意を突かれたということらしいです」
「…………………」
「会って間もない人間を、自分の命を犠牲にしてまで救う価値がどこにあるのでしょうか。
 人間なんてまだ腐るほどいるのに、自分が死んだら守れるものも守れなくなるのに」
――人間なんかの為に。
「…………ごめん」
俺には、そんな気の利かない台詞しか、言うことができない。
そんな自分を吐き気がするほど嫌悪した。
「謝ってもらう必要なんてありません……これはただの愚痴なんですから。本当は理解しています、姉さんが死んだのは姉さん自身のの責任です」
……だけれど、美羽が死んだ時の怒りと悲しみを、どこにぶつければいいのかわからなかったのだろう。
「戦いの中で死んだのだから、仕方のないこと……なんですよ……」
美優の目からは、言葉と裏腹にぼろぼろと涙が零れていく。
「……なあ、美優は覚悟を決めているのか? ノア先生が言っていた通り、戦力差は絶望的なのに。それでも戦うことに恐れはないのか?」
「私は、ノア様の命に従って戦い、死ぬだけです。……とでも言えば、いいんですか?」
「え?」
……違うのか?
俺は、この世界の美優は忠義に厚い存在なのだなと考えていたのだけれど。
「私だって、出来るのならば戦いたくなんてない……傷ついたりなんかしたくない……!
 何回も死にそうになって、無様に生き残ってきた。そんな辛い生き方でも、それでも姉さんがいれば……私は良かったのに……!」
段々と建前は本音に移り変わっていく。
「美優……」
泣き叫ぶ姿が元いた世界の美優と重なり、俺はそんな姿を見ていられずに細い体を抱き寄せた。
「……あ……」
「俺には、戦う力はない……。だから美羽だって死んでしまったし、美優も守れないかもしれない。
 ……だけれど、美優が傷ついたら俺が治してやる。力を限界まで使って、死にそうになっても絶対に治してやるから。だから――」
「…………わたしは」

「――――――!!」

……ん?
今、何か聞こえたか?
「ノア様!?」
美優が俺の体を突き飛ばして、一目散にノア先生のいた方向に駆けだしていく。
「お、おい! どうしたんだよ!?」
つかあいつ足速っ!
やっぱり吸血鬼と人間では身体的能力に差があるということを身を持って思い知らされる。

「……はあっ……はあ……!」
息を切らしながら追い付けば、美優は目を限界まで見開いて立ち尽くしている。
「どうした……!?」
息を整えて顔をあげ、美優の視線を追って。


――そこで、ノア先生が殺されていた。


殺されていた。とすぐに言えたのは、ノア先生の体を、見たこともない少女の腕が貫通していたからだ。
「貴様ああああああぁぁぁぁっ!」
美優が、右手に赤い光を灯しながら少女に襲いかかる。
だが美優の攻撃は、片手で流れるようにいなされ、そしてその勢いのまま反対側に投げ飛ばされる。
……いや、投げ飛ばすというには生温い。美優の体は住宅街の道を100m程ぶっ飛んでようやく止まった。
「……っぐ……!」
腕を貫かれたノア先生が、呻き声を漏らしながら身をよじる。
「っ……の、ノア先生っ!!」
そこで、ようやく呆然としていた状況から目を覚ますことができた。
そうだ、吸血鬼は夜の間は死なないって言ってたじゃないか! 俺がすぐに傷を治せば……!
「……哀れなる吸血鬼の王よ」
そうやって動き出そうとしたところで、少女が初めて口を開いた。
「その甘美なる魂の絶望を我に差し出すが良い」
「っぐ……! が……がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少女はただ呟いただけで、ノア先生をめがけて光の柱が天から降り注ぐ!
「ノアせんせええええええええええええええっ!!」
そして、全てが光に包まれて――。

――光の中から現れたのは、少女一人。

「ノア、せんせ、い……?」
……なんで、いないんだ?
なんで、なんでなんでなんでなんでなんで……!
俺はまだ、ここにきて二日しか経ってないのに、なんで二人も俺の周りから消えてしまうんだっ!!

「泣くでない」
「っ!!」
少女が、目の前にいた。
「……!?」
いや、少女ではない。
俺は、こいつを、知っている。
……こいつは、姫だ。
「ユリア、姫……!?」
「ほう、やはり我を知っていたか。ただの人間ではないようだな」
顔を隠していた髪をかきあげて顔を晒せば、その姿はある日俺の家に突然やってきた異世界の姫そのままだった。
「……っ!」
何だ……!?
何故だか姫の顔を見ていると、後頭部に頭痛が走る。
心の底に閉じ込めたどす黒い物がせり上がってくるような気持ち悪さを感じる……!
「だが、我は姫ではない」
姫……いや、ユリアは、俺のいた世界とはまるで違う口調で話し出す。
「我は王、魔族を統べる魔王ユリアだ」
「魔王……!?」
何で、魔族の親玉がこんな前線に……!
「ん? 我がここにいるのがそれ程までに不思議か。……我は戦場の空気が好きでな、こうして普段から最前線で指揮をとっておるのだ」
「……っ」
ノア先生が言いかけたのは、このことだったのか……!
「……ノア先生を殺す為に来たってのか?」
「そんなつまらぬことの為だけにこんな所までは来ぬよ」
ユリアは笑いながらそう言って、右腕を俺の方に差し出してくる。
「私は、お前を連れにきたのだ」
「……え?」
何故、俺を連れて行こうとする?
「我はお前に興味がある」
「興味って……」
「話を聴くなっ! 魔王に惑わされる!」
俺とユリアの会話を中断し、再び美優が――今度は背後から――襲いかかる。
が、ユリアは後ろの美優を見ないままに首を掴み、その動きを容易く止めてしまった。
「ぐぅ……!」
「うるさい蠅だな」
ユリアが、首をねじ切らんがごとく力をこめていく!
「美、美優を離せ!」
必死にそう叫ぶと、ユリアはいいことを思いついたといいたげに口の端を歪め、何もない空間から無骨なナイフを取り出した。
「人間、お前がこの哀れな吸血鬼を刺せ」
「…………え?」
「さすれば、我らは貴様を仲間と認めてやる」
「ぐ……ひろ……と……」
ずしりと重いナイフを手渡され、俺はどうすればいいのかわからなくなる。
なんだ……なんだこの状況は。
魔王の仲間になる?
魔王は世界を渡り歩いていて、協力すれば自分の世界に戻ることが出来るかもしれない。
だけれど、その為に、美優を殺す?
……ユリア姫も、美優も、元いた世界とは、違う。
別の存在。
姫じゃない、姫じゃない、姫じゃない、姫じゃない。
お前は、姫じゃないっ!!

「うああああああああああああああっ!」

俺は、そのナイフを、『魔王』の体に突き立てた。

「え……?」
けれど、まるで感触がない。
魔王は、そこにいるのに『そこにいないかった』。
「……!」
ナイフどころか、俺の腕さえすり抜けている。
触ることすらできないのか……!?
「愚かな……。ここの吸血鬼から聴いてはいなかったのか? 我々には、貴様らの攻撃など通用しないということを」
「っ!」
「……ああ、人間というのは愚かな生き物だったな」
魔王は溜息をひとつつくと、腕から力を抜いて美優を解放した。
「げほっ! げはっ……!」
美優が苦しむ姿に、俺が恐れる姿を見下しながら魔王は言い放った。
「3日やる、3日で我らについてくるかどうかを決めろ。その時まで、そこの薄汚い吸血鬼は生かしておいてやる」
考えるべくもないことだろう? 自分のことを思うのならばな。魔王はそう嘯いて、何のモーションもなくその場から消えた。
「………………」
ノア先生の死を悲しむ間もなく、状況だけが進んでいく。
俺は、この世界に来て何をした?

――何もしていない。

この世界にとって、何の価値もない筈の俺に、何を選択させようと言うんだ!?

「ああああああああああああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああっ!」

……美優の悲痛な叫びが、ゴーストタウンに響いて消えた。



「ご飯だよー」
「……ありがとうございます」
あれから半日、俺は結局人間として睡眠欲には勝てずに部屋で眠ることにした。
魔王が去ってから美優は放心状態になってしまい、俺の言葉など右から左にスルーされてしまう。
恐らく自分の部屋に戻ったのだろうけれど……大丈夫かな……。
「陽菜……は……平気そうですね」
俺は、前と同じようにパンと水を運んでくれた陽菜にそう質問する。。
「んー?」
陽菜は輸血用の血液パックにストローを挿してちゅーちゅー吸っていたところを中断し、笑顔で言う。
「……悩んでも、仕方ないよ」
「自分が死ぬかもしれないのに、ですか?」
「まあ、皆いなくなったわけだしね……。今更自分が死ぬのが怖いとか、そんなことは全くないんだ」
この状況でも笑顔を崩さずにそう言っていられる陽菜に、一種の尊敬のようなものを覚える。
だけど、それは……。
「嘘だよ」
「え?」
「死ぬのが怖くないだなんて、思うわけないでしょ? 生きているんだから」
「…………」
「死ぬんだよ? 何にも感じないんだよ? 良くさ、思い出は残る、胸の中で生き続ける、忘れ去られた時が本当の死だなんて奇麗事を言う人がいるけどね。
 あまりにも意味がなさすぎて笑うよ、自分が生きてないと意味がないんだよ。生きてなきゃ、自分がしたいことは何も出来ないんだから」
「陽菜……」
「だから私は生きる。絶対に生きる。生き続けて……死なない」
陽菜の異様なまでの生への執着に、気圧されて何も言えない。
……いや、今まで戦いの中に生きる存在ならば、死と隣り合いの世界に生きていたのならば。こう考えるのが当たり前なのかもしれない。
「だから、君がどんな選択をしようとも、私は魔族と闘う。それだけ」
ヂュロロロロと、最後の一滴まで残すものかという勢いで輸血パックを空にした陽菜は、「バイビ」と腕を振って部屋を出ていこうとする。
「……あ……」
俺は呼び止めようとしたのだけれど、陽菜はそうするまでもなく勝手に振り向いた。
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」
「は?」
「ちょっとした助言、チャンドラーだよ。……強くなれとまでは言わないけど、せめて優しさの方はカバーできるよね。美優のとこにいってやりなよ。三日は猶予があるんだから、さ」
今度こそ、陽菜は部屋を出て行く。
……そうだ、考えてばかりいても仕方ない。
魔王は三日は猶予をくれるといった、きっとその間は攻めてこないでいてくれるのだろう。

俺がこの世界での価値を見出す為に、美優とこの世界を救う為に何をすればいいのかなんて、わからない。
だったらせめて、最後の選択の時までは美優と一緒にいてやりたい。
――そう、思った。


ここには一度来たけれど、相変わらずでかい扉という事実は変わらなかった。
ここだけは何だかお金持ちの家のような荘厳さがあるんだよな。
「ま、そんなことどうでもいいか」
そう呟いて、扉を何度かノックする。

「……誰? 陽菜?」
すると、蚊の鳴くような声が部屋の中から届いた。
「俺だけど、オレオレ」
「……詐欺師?」
「今は振り込め詐欺っていうんだよ。しかもそういうこと言いたいんじゃないし。……大翔だよ、入っていいか?」
「帰ってください」
即答か……。
「話がしたいんだ……!」
「私は、あなたと話たくありません」
美優の心には、きっと深い傷が出来てしまっている。
それは俺にも同じことだ。
だけれど俺は、兄として美優を支えてやらなければいけないんだ。
「……美優、頼む。直接顔を見て話をしたいんだ」
「………………」
それから、しばらくの沈黙が続く。
俺も無言で立って、その場を動かない。動くつもりはない。
こうなったら、根気の勝負だな……。
そう覚悟を決めようとした時。

「勝手にどうぞ」

意外とあっさりと許しが出た。
「……入るぞ?」
俺は、消極的肯定に少し躊躇いながらも扉を開く。
「……うわ」
美優の部屋を見渡しての第一印象は「少女の部屋」。
まず広さからいって俺の客室の約四倍。
天蓋ベッド付きで、壁紙も床も天井もピンクで統一されていて、少し目がいたい。
部屋の隅には大小様々なぬいぐるみが積まれていて、美優も今べっどで小さなクマのぬいぐるみを抱いて寝ていた。
……こっちの美優は、また随分なぬいぐるみ好きなんだな……。
「広い部屋だな」
「……別に、空いていたスペースを利用しただけ」
赤ちゃんみたいに丸まった姿勢を取る美優は、まるで子どもに戻ったかのような受け答えしかしない。
「ベッドの端、座っていいか?」
「駄目、私の聖域だから」
「……聖域って」
「座るなら床にでも」
「じゃあ、立ってるからいいけどさ……」
「…………」
「……あのさ、俺はこういう時に何を言ったらいいのかわからない。
 今までこんな事態に陥ることなんてなかったんだから、当たり前といえば当たり前なんだけど……」
一人語り始める俺の言葉を、美優が聞いているのか聞いていないのかわからないけれど、そのまま話し続ける。
「ノア先生に、新しい仲間だって言われた時。俺は少し浮かれてた。このちょっとした力で、誰かの手助けになるのならって……」
……でも、俺は何もする間もなく、ノア先生は死んだ。
「でも、結局何も出来なくて、凄く悔しかった。……今でも、泣きたいくらいだ」
ぴくりと、美優の体が震える。
「でも、泣いてる暇なんてないんだ。……俺は、もう三日しか時が残されていないから」
「…………だから、何ですか?」
「え?」
「そんな演説を私に延々と聞かせて、楽しいですか!? 弱っている私を見て面白いですか!?
 三日しかない? 知りませんよそんなこと! 私には、もう何もないんですから……!」
「陽菜がいるじゃないか」
「……姉や、親の代わりなんていません」
「俺がいる」
「あなたのことなんて知ったことじゃありません」
「だから、俺は……!」
「もう、黙れっ!!」
ベッドからぬっと伸びてきた腕に首を掴まれ、引力に引き込まれるかのようにベッドに倒される。
「ぐっ……!」
気付けば、俺はあっという間に美優に押し倒され、首を両手で締め付けられそうになる。
「死ねっ……! 死ね! 死んでしまえ! お前さえいなければ、お前さえいなければーーーーーっ!!」
「美優……」
美優の目から零れた涙が、俺の顔に落ちる。
悲しみが、美優の悲痛な叫びが、全て伝わってくる。
「……ぐ……」
「お前さえ……お前が……ぅぅ……何で……お前みたいな人間が……いるんだぁ……!」
首にかけられた両手に、力が籠ることはなかった。
「……ぐ……ひっく……っぅ……ぁぁぁぁぁああああ!」
ただ、悲しみの滴だけがとめどなく流れる。
美優は俺の胸に顔を埋めてひたすら泣いて、俺はそんな美優の細い体を抱きしめた。

それから、どれだけの時がたっただろう。
美優の涙も大分おさまってきて、今はただ俺の抱擁を受け入れている。
「……私は……もう……ひっく……戦い、ません……」
「え……?」
嗚咽混じりの声で、美優は言った。
「あんな奴に勝てるわけない……。もう……ここから逃げたい……こんな何もない所に、いたくない!」
「…………」
「ねえ、あなたも……陽菜も一緒に、逃げよう……? 私、誰かが……一緒にいてくれないと……!

――あなたのこと、許してあげますから……一緒にいてください……。

「……美優」

美優は、弱い。
仲間を失って、姉を失って、それでもまだ気丈に振るまえていたことさえ奇跡に近かったんだ。
そして自分の進むべき道を示してくれる存在さえ失ってしまえば、脆い心はもう崩れるしかない。

「なんとか……いってくださいよ……!」
「美優が、本当にそうしたいのなら……そうしよう」
「…………ほんと、ですか?」
「ああ」
「あ……ぁぅ……ぁ……りが……と……」
「だけど、陽菜は逃げないだろうな」
「え……?」
……すがりつく美優を突き放すかのように、俺は言った。
「陽菜は言ったんだ。……自分が死ぬのが怖いだとか、そういうのはもうないって……」
「私は……陽菜ほど強くない……!」
美優は、俺の腕を強く掴んで覆いかぶさるようにして、言った。
「仲間が死んでいって……私も、いつか死んでしまうのかと恐れ続けてきた。弱い自分を隠す為に……強い姉さんに、ノア様に憧れた……!」
――でも。
「でも、もう二人ともいないんですよ! 憧れてただけで……私は弱いまま……弱いままなんです!」 
「変わろうと思わなきゃ、何も出来ないよ」
「私が何か変えられるとでも、思っているんですか?」
「……変えられないのなら、俺が変えてあげるから」
「…………?」
俺は、精一杯の笑顔で美優の顔を見上げながら、言った。
「なあ、美優」
「はい……」

「俺の、妹にならないか?」

「い、もう……と?」
「そうだよ。俺は美羽みたいに強くない、美優の憧れにはなれないかもしれない。
 ……だけど、美優を支えてあげたいんだ。少しでも、美優の苦しみを軽くしてやりたいんだ!」
「なんで、ですか?」
「ただ、美優と一緒にいたいから。……美優に、俺のせいで後悔してほしく、ないから」
「…………っ」
「どうかな?」
「…………」
「……美優?」
少し不安になる。
美優には鬱陶しいだけの提案だっただろうか?
後数日で皆死んでしまうのかもしれないのに、とでも考えているのかもしれない。
「……さん」
「え?」
だけれど、それは違った。
「……兄さんって、呼んでもいい?」
「ああ」

――美優は、俺を受け入れてくれたんだ。


数時間後。
「ふははははは、ずっと俺のターン!」
「ううううううぅぅ、兄さん卑怯です! イカサマしてるに決まってます!」
何故か、俺と美優はオセロ対決で白熱していた。
「いーや、俺はいかさまなんかしてないぞ? 美優が弱すぎるんだよ」
「ぬぅ……! 兄さんの癖に……!」
「兄より優れた妹などいないっ! ンッンー、至言だなこれは」
「殴りますよ。本気で殴ったら兄さんの首が吹っ飛びますよ、それでバスケットボールでもしたら楽しそう……」
「ぼ、暴力はダメだぞ暴力はっ!」
俺は額に青筋を浮かべる美優を何とか宥める。
吸血鬼だけに発想がグロテスクなんだよ。

つーか、何でオセロをしているのかと言えば……。

………
……

「兄妹になったところで、一体何をしたらいいんでしょう」
美優が根本的な問いをぶつけてきた。
俺は「何もしなくていいんじゃない?」と言ったのだがそれでは納得がいかないらしい。
兄妹ってのは意識してどうにかするものではないと思ったのだけれど、美優が納得しないのなら仕方ない。
「じゃあ、一緒に遊ぼうか」
そう提案したのだ。


「んー、今は昼だからな、何か屋内で出来ることないか?」
「……オセロなら」
美優は枕の下から緑の盤面のそれを取り出した。
「おお、久しぶりにやるのもいいな。……でも、ぬいぐるみといいオセロといい、そんなもんどこから持ってきたんだ?」
「デパートの中に残っていたのを持ってきたんです」
「泥棒かよ!」
「食糧と生活に必要な道具以外は放置されていましたから、いいんです」
まあ、今の人間に必要な物ではないのかもしれないけど。
「ぬいぐるみ、好きなのか?」
俺は盤の中心に黒と白を配置しながら言った。
「………………べ、別に」
美優が顔を赤くしながら俯くので、俺としてはその珍しい反応にどうしてもいじめたくなってくる。
「いや、あっちの世界の美優もぬいぐるみが好きで……」
「そ、そうなんですか? やっぱりぬいぐるみは……」
「……なんていうのは嘘なんだけど」
「…………!!」
「いたたたっ! いたっ! ごめんっ!お前のの力で駒投げられるとマジでいたいって!」

そんな感じで、今に到る。

「…………」

しかし、初めて会った時と違って、今では兄妹となって仲良くオセロをする仲だ。
随分とわからないもんだよな……。

「むぅ……」
次に打つ場所を考えている美優の真剣な顔を見つめる。

……このオセロは一種の現実逃避だ。
本当はもっとやらなくちゃいけないことがあるのに、俺は美優と遊ぶことでそれを忘れようとして、美優も俺の用意した逃げ口に駆け込もうとしている。
いつかは……いや、三日後にはちゃんと事実と向き合わなければいけないのに。
だけれど、俺は美優の味方しか出来ない、美優のしたいようにさせてあげられる兄になりたい。
――やっぱり、甘やかしちゃうんだろうな。


「なあ、美優」
俺は白を黒に返しながら口を開く。
「なんですか」
「……今日のパンツの色は?」
「何故そんな話になるんですかっ!!」
「いたたたたたたたたたっ! ほわたたたたたたたぁぁぁぁぁっ!」
アイアンクロー痛すぎてなんか某ラーメン超人みたいになっちゃうって!
や、やばいやばいマジやばい吸血鬼の握力やばい!

ミシッ……!

「みぎゃあああああああ!」
今頭蓋骨が軋んだ音しましたよおおおおっ!
「自業自得です」
「ううっ……」
「兄さんはもう少しムードを大切にすべきです。前々から思ってたんですが、空気を読めない発言が多すぎます」
「つつ……ムード、ねえ」
「そうです。ムードを大切にすべきなんです! それなのに、兄さんってばオセロは手加減しないし、えっちな質問してくるしっ!」
関係あるのか?
「なんですか、新米の妹が生意気な口利きやがってとか考えてるんですか!」
「いや、新米の妹ってなんだよ。……というか、何かテンションおかしいぞ?」
俺が不意にそう言うと、美優は沈んだ表情を見せて。
「……今くらい、はしゃがせてくれてもいいじゃないですか」
と呟く。
「…………ごめん」
空元気。
たぶん、陽菜も美優も明るくしてられるのもそれのおかげ。
だったら俺は、その空元気が本当になるようにしてやるだけだ。

「なあ、美優」
「はい?」
「散歩に行かないか?」
美優は少しだけきょとんとしたけれど、すぐにふっと笑顔になって。
「いいですよ」
と言った。
「……あ、でも……」
「ん?」
「少しにおいます。体を拭いてきてください」
……そういえば、ずっと風呂に入ってなかったな。


吸血鬼に風呂は必要ないらしく、濡れタオルで体を丹念に拭き終わった頃には既に夜になっていた。
美優は先に外に出ているというので、俺も後を追うべくエレベーターに乗り込む。
「美優、どこだ?」
「ここです」
上から声がして空を見上げれば、民家の屋根の上に美優は立っていた。
「危ないぞ」
「……人間と一緒にしないでください」
ぴょんととび上がり、重力に逆らうかのようにふわりと回って俺の目の前に着地する。
「じゃあ、行きましょうか」
「どこか行きたいところとか、あるか?」
「……そうですね……」
美優は腕を組んで考えるような仕草を取って。
「あなたの家に、また行きたいです」
花のような笑顔を、俺に向けた。


「……やっぱり、なんとなく懐かしいな」
まだここに来て数日しか経っていない。
だけれど、俺にとっては一年経ったかのように目まぐるしい日々だった。
「ここに、私も暮していたんですよね」
「ん? あ、ああ……」
「でも、私は義理の妹で、内気でおどおどしていたと」
「そうだなー。まあ誰かの後ろに隠れたりすることが多かったかも」
「……いいですね、そういうの」
「そうか?」
あんまり弱気すぎるのもどうかと思ってたのだけど。
「だって、守ってくれる人が傍にいてくれるってことなんですから」
「…………なるほどね」
「私は、あなたの世界の私とは違う。自分の身は自分で守るしかない……」
本当は、今でも泣きたいほど辛いのだろう。
それはわかっている。
だからこそ、俺はこうして『ここ』にいる。
「美優」
「……はい」
「この戦いが終わったら、俺の世界に一緒に行こう」
「え?」
「辛い思い出はここに置いて……俺のいた世界で、ひっそりと暮らすんだ……」
「……」
「だからこそ、今は戦うしかない。……俺も、美優を支える。どんな傷を負っても、絶対に治してみせる」
「…………」
「絶対に、俺は一緒にいるから! だから……!」
「………………」
美優は胸のあたりで手を組み、こちらから顔が見えないように俯いてしまう。
「……美優?」
少し不安になる。
美優には鬱陶しいだけの提案だったのだろうか?
あんな魔王との戦いが無事に終わるわけがない、とでも考えているのかもしれない。
「……ごめん、やっぱり――!?」
沈黙に耐えかねて謝ろうとした時。
何か柔らかいものが頬に触れた。
「え?」
それが美優の唇の感触だと理解したのは、美優の真赤になった顔が目の前にあるのに気付いてから。
「……ありがと、兄さん」
夜の闇にあまりなれない目でも、照れているのが良くわかった。
美優はしばらく俺と向かい合っていたけれど、耐えられなくなったのか踵を返して走り去ってしまう。
「美優……」
「先に戻ってるから!」
遠くから手を振る美優に手を振り返して、俺は頬に残る温もりの余韻に浸っていた。

――いたのだけれど。

「いや、なんとも生温いものだな」
「!?」

この声は、まさか……!?

考えたくもない可能性が脳裏を過る。

全身を締め付けるかのようなプレッシャーが俺を襲い、指一本動かせなくなってしまう。
蛇に睨まれた蛙、ライオンに狙われたガゼル。……狩猟者に搾取されるだけの圧倒的弱者に、俺は成り下がる。

上空から、闇を縦に切り裂く光の柱と共にふわりふわりと降りてくる最悪の存在。

「――魔王!?」
「そう身構えるものではない、今日は別に戦いに来たわけではないのだから」

相変わらず、温厚な顔をしながら底の見えない恐怖を見せ付けてくる。

「なあ、そうだろう? 結城大翔よ」
「なんで、俺の名前を知ってるんだ!」
「お前のことならなんでも知っているよ」
ふっと全てを見透かすかのような笑みを俺に見せつけてくる。
「っ……!」
怖気がする。
こいつが言うと、本当に全てを知られているのではないかという恐れが体を震えさせてしまう。
「我はな、吸血鬼とは違い魂を食事とする。我自身は自らの魂を高次の次元まで高めた存在なのだよ、理解できるか?」
「魂、だけ……?」
「まあ、大翔には少々難しい話だったかもな」
「……」
どこまでも人を見下した奴だ。
「だから睨むな。私はお前を助けたも同然なのだぞ?」
「助けた? ふ、ふざけるなっ!」
「……まあ、わからんよな。……ククク」
魔王は喉を鳴らすようにして不気味に笑った後、こちらを見据える。
「しかし、能力を行使できる人間は初めて見たよ。さぞかしその魂も甘美なのであろうな……」
「知るか」
吐き捨てるように毒を吐けば、魔王はくつくつと笑いながら答えた。
「そんな態度をとっていいのか? 我らは既に、大翔が元いた世界も突き止めているのだぞ?」
「…………え?」
「人間が当たり前のように能力を使える世界など、そう多くはないからな……。探すのは簡単だった」
「ほ、本当なのか!?」
「ああ、本当だ。……こんな世界など捨て置いて、あちらに行くほうがいいのかもしれない」
……何?
俺のいた世界に、こんな恐ろしくおぞましい奴らが、やってくる?
「や……やめろ! やめてくれ!」
それだけは、絶対に!
「必死だな? 安心しろ、我等がその世界に行くことは絶対にない」
「そんなこと、信用できるか!」
「大翔のいた世界は、後一年で滅び去るからな」


…………?

魔王の言った言葉が、まるで異国の言語のように聞こえて、すぐに理解出来ない。

「俺のいた世界が、滅びる……!?」
「ああそうだ。今日はそのことを伝えに来たのだよ」

魔王の顔には、先ほどまでのいやらしい笑みは浮かんでいない。
……嘘をついているようには、感じない。
「な、なんでだよ! なんでそうなっちまうんだ!?」
「原因はわからない、今はな」
今はということは、いずれわかる可能性があるということか……?
「だが、我々にそこまで調査する理由は無い」
「あ……」
確かに、そうだ。
魔王達は、ただ崩壊に巻き込まれないようにすればいい。
世界の一つや二つ滅びようが、こいつらにとってはどうでもいいのだ。
「しかし、お前が我らと来るというのならば話は別だ。……原因の調査どころか、解決すらしてやってもいいぞ?」
「……!」
「今、お前の心の揺れをしかと感じたぞ。……フフ……ハハ……そうだよなあ、吸血鬼などに異世界まで救う力などないのだから!
 我らが捨てるのは愚かさだけと決めている、大翔もくだらん仲間意識や恋愛感情のような愚かなものは全て捨て去れ!
 一緒に来い! 共に魔族としての道を歩もうじゃないか! 人間の頃から優秀な能力を持つお前なら、素晴らしい力を持つ魔族に生まれ変われる!
 ……まあそれだけではなく、例外的な要素も関係しているのだがね」
「………………」
魔王の演説に、俺は膝をついて顔をあげることすらできない。
頭の中では、ぐるぐると同じ言葉ばかりが回って、思考がうまく働かない。

滅びる。
だけど、救われる?
でもそれは、この世界の美優や陽菜を見捨てること。

俺は、俺は、オレは……!

「俺は……!」
「何だその目は、つまらない。……少し、いじめてやろうか?」
「な、や、やめ……!」
魔王の掌が、俺の額にかざされる。
「お前の知らない事実を、見せてやろう」
「っ……ぐぁっ……ぎゃ……あ……ああああぁぁぁっ!!」
俺の意識に、心に、脳髄に……何かドス黒い力が、流れ込んでくる……!
オレガ、ヌリツブサレテイク。

オレハ……。


「大翔くん!」
「!?」

聞き覚えのある声に顔を上げれば、月に重なるように飛び上った陽菜が今にも魔王に攻撃を仕掛けようとしていた。
「……ふん、邪魔がはいったか。だが、決断の材料は十分に与えたぞ?」
魔王は俺に囁くようにそう言って、以前のようにノーモーションで消え去る。
「って、消えた……?」
攻撃を空ぶった陽菜は、力を持て余したように腕をぷらぷらとさせた後、その腕を俺の方に向けた。
「ほら、立てる?」
「ぅ……ぁぁ……」
「大翔くん!?」
「美、美羽が、死んでた」
「え?」
「美羽が、太陽の光に焼かれて……!」

聴くに堪えない悲鳴と、焼けただれた肌。
崩れていく体――吸血鬼の死。
美羽が最後に見た人物は……あの人は……。

――ノア先生?

「大翔くん、ごめん」
「――え?」
パンッ!
絶望に堕ちそうになる俺の頬を、陽菜の平手が強く打ち付ける。
「あ……」
強いショックと共に、現実に引き戻される。

「目が覚めた? ほら、立てる?」
陽菜に支えてもらって、よろよろしながらも何とか立ち上がる。
「あれ、魔王でしょ。三日は待つっていったのに、せっかちな奴なんだねえ」
「危害は加えられてないよ……」
「……そう」
「………………いや、それよりどうしてここに?」
「ああ、今日の晩御飯を届けようとしたら部屋にいないからさ。美優に居場所聞いたら、顔真っ赤にして『外にいるんじゃない?』なんて言うもんだから、ね……」
そこで偶然にも、というわけか。
「もう、本当に大丈夫? 何かされてたんじゃ……」
「……大丈夫。部屋に戻るよ」
本当は、全然大丈夫じゃなかったけれど。
「あ、食事は部屋に置いといたから……」」
「………………ありがと」
何も言えなかった。

美優も、あんな風に死ぬのか?
俺の世界は、滅びるのか?
戻る所さえ、なくなってしまうのか?

ネガティブな考えが、浮かんでは消えてぐるぐる回る。

……俺は、美優を裏切るかもしれない。



「どうすればいいんだよ……!」
俺が魔族になれば、元いた世界は救われるかもしれない。
だけれど、それはこちらの世界の美優を裏切ることになる。
俺が、殺してしまうことに、なる。


しかし、美優ととも魔王と戦えば、元の世界に戻れる可能性も、崩壊を止められる可能性も限りなく低くなる。
……そもそも、俺達は魔王に勝てるのか?


俺は、最初から戦力外。
美優は、昨夜を見る限りまるで相手にされていない。
陽菜の実力はまだわからないけれど……。

「っ……!」

情けない。
一緒にいると美優に言った時の俺はどこに言った!?

自分の言葉にさえ責任を持てない自分が、泣きたくなるほど、情けない……!

俺は、一体どうすればいい!

俺は……!

A 魔王に従う
B 美優と共に戦う



翌日の朝、俺は二人に黙って勝手に外に出ていた。
太陽はしっかりと顔を出していて、今なら美優にも陽菜にも見つかる心配はない。

……俺は、これから彼女達を裏切る。

美優の兄になるなどとのたまいながら、結局は実の家族が大切だと逃げるんだ。

……虫がいいけれど、そんな姿を二人に見られたくはない。

「魔王ーーーーーーっ!」

虚空に向かって全力で叫ぶと、魔王はいつも通り光の柱と共に目の前に現れる。
「……決心がついたようだな」
魔王は晴れやかな表情で、俺を祝福しているようだった。
「俺は、お前らの仲間になる。……だけれど、条件を三つ呑んでもらう」
「ほう、言ってみろ」
「ひとつめは、俺のいた世界の崩壊を止めること」
「造作もないことだ。我らが全力を尽くせばな」
「ふたつめは、崩壊を止めた後も俺達の世界には手を出さないこと」
「良かろう、能力を持つ人間の魂は惜しいが」
「みっつめは……この世界から手を引くことだ」
魔王は、そこできょとんとした顔をして。
途端、大きな声で腹を抱えて笑いだす。
「はははははははははははははははははっ! いいなそれは! 最高じゃないか、腹がよじれる、へそが茶をわかすぞ! ははははははははははっ!」
「…………」
わかっている。
結局、魔族にとって人間の魂が食糧となる以上、結局はほかの世界の人間を犠牲にすることになる。
こんなのはただの偽善で、自己満足でしかない。
「はーぁ、良く笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうな……。まあいいだろう、その条件も呑もうじゃないか。それに、後一か月も抵抗が続くようなら諦めようかとも思っていたしな」
「…………一応、礼を言う」
「礼などいらん。そもそも、我らが手を引こうが引くまいが、人間にも吸血鬼にみ未来は無い」

そして、魔王の手が俺の胸に伸びて――

――結城大翔という、『人間』は消えた。




あれから一年が経った。
俺に原因は知らされなかったけれど、無事に世界の崩壊は止まったようだった。
……あちらの世界の美羽達は、俺が行方不明のままでどう思っているのかな。
そんなことをふと思ったのだけれど、今更考えても詮無いこと。

吸血鬼の美優はどうしているだろう。
俺を恨んでいるだろうな。
……今でも、闇に隠れて生きているのだろうか。
生きていてほしいけれど、俺に彼女を心配する権利などない。

俺は今、ただ人間を殺すだけの獣に過ぎないのだから。

「はは、やはり素晴らしいな大翔。今日だけで1万人もの人間を狩るとは……。これでゆっくりと謎を解き明かせるというものだ」
魔王が俺の活躍を褒めたたえる。
人を殺すことへの抵抗など、魔族になった時には消え去っていた。

今では、人を殺し魂を集めることが快楽にさえなりつつある。

「……ん?」

今日殺した人間を積み上げた山が、ふとした調子に崩れた。

「…………!」

そして、そこから現れたもの、それは――。

――最愛の、妹の死体。

「うああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁっ!」

俺は結局。

どんな世界に行っても、妹を裏切るのだ……。




「裏切るだなんて、出来るわけないだろ……!」

頬を赤らめる美優の顔が、ぬいぐるみを抱く美優の姿が、温もりが、俺を踏み留める。

「兄さん?」
暗い部屋でうずくまる俺に、救いの声が降り注いだ。
「美優……」
「何か、悩んでるの?」
「え……なんで……」
「陽菜から聴いたの。兄さんの様子が変だったって」
すたすたと部屋に入ってきた美優は、俺の前で屈んで視線を合わせてくれる。
「魔王に、あいつに何を言われたの?」
「…………ごめん……言えない……」
「……そう、私はやっと家族になれたって思ったのに。それでも認めてくれないんだ……?」
「ちが……」
「ごめん、冗談だよ。いじめてごめんなさい、兄さん。……だけど、私は兄さんを支えてあげたい」
――そして、兄さんにも私を支えてほしい。

美優は優しく、愛しむように、俺を抱きしめた。
子どもを抱く母親のように、背中をぽんぽんと叩きながら。
「……っ」
涙が自然と流れ出して、止まらない。
「っぐ……ひっく……。俺は、美優と一緒に戦うって、決めた……決めたんだよ……決めたのに……!」
それでもずっと心は揺れて、体の震えが止まらない。

「兄さん。私は兄さんがどんな選択をしてもいいと思ってる」
子どもを諭すように、穏やかの口調で美優は続ける。
「だって兄さんは、ただ巻き込まれただけの存在なんだもの。兄さんには、何の罪もないんだから……」
「美優……」
「でも、絶対に自分が後悔する選択だけはしてほしくない。……ただそれだけだよ」
「美優……!」
俺も、美優を抱き締め返す。
互いの体と体温がひとつになって心まで溶け合うような感触に、俺は安堵を覚えた。

――ぐぅ~

「…………」
「…………」
腹の虫が、鳴った……?
俺はさっきパンを食べたし、としたらあとはもう一人しかいない。
「み、美優、お前……はは……くくく……」
雰囲気を一気に崩されて。ついつい笑い声が漏れてしまう。
「わ、笑わないでください! もう2日は血を吸ってなかったんですから……!」
「ああ、そういや輸血用の血液を飲んでるんだよな」
「……ええ、本当は人から直接吸ったほうが新鮮で美味しいんですけど」
吸血鬼にも食の嗜好というものはあるらしい。
「ちなみに私はB型の酸味のRH-は好きです。酸味が効いて美味しいんです」
「いや……聞いてないけど」
「教えてほしそうな顔をしてたじゃないですか!」
「誰がだよ」
「兄さんがです」
「いやいやいやいや」
「…………」
「…………」
「…………」
「それで?」
「……輸血パックを取りに行くの、面倒なんですよ……」
「面倒でも取りにいかないと……」
「…………鈍い人ですね」
さっきまで優しく抱きしめてくれた美優が、今度はじりじりと距離を詰めてくる。
「な、なんだ? 美優」
「兄さんの血液型が、B型のRH-ということはわかっているんですよ?」
「お、おいまさか……」
あの時の痛みをもう一度味わえっていうのか?
「そのまさかです」
「やめ――」
ろ。と最後まで言う前に、美優がかぷりと俺の首筋に噛みついた。
「ぅ……ぁぁ……」
また痛みにのたうちまわるのかと思えば、今度はむしろふわふわと宙に浮くような快感が俺の体を包む。
「……ん……にいはん……おいひいれす……」
「お、おいしいのはいいけど……くらくらしてきた……」
気持ちイイんだけど、貧血で倒れるなんてもうしたくない……。
「ぷは……ごちそうさまでした、兄さん」
「…………ごちそうされました」
流石に吸う量には節度を持ってくれているらしい。
ノア先生の時のように気を失わずには済んだ。
「やっぱり、新鮮な血はおいしいです……」
「……前みたいに、痛くないから良かったよ。ノア先生の時はのたうちまわるくらい痛かったし」
「吸血鬼によって、対象に与える吸血時の感覚は違うんです」
「へえ」
そんな逸話は聞いたことがないな。
やはり伝説上の吸血鬼と実物の吸血鬼には多少の差があるということか、大分かぶってる所も多いけど。
「ノア先生は、血を吸われる者に痛みと苦しみを与え。姉さんも、私と同じように軽い快楽を与える特性を持っていました」
「陽菜は?」
「くすぐったくなります」
……一回吸われてみたいかも。
「……兄さん、今吸われてみたいとか考えたでしょう」
「い、いや別にそんなことはないぞ?」
美優は両手でがっちりと俺の顔を掴んで、そのまま自分の顔を近づけてくる。
「もう、他の吸血鬼に兄さんの血を吸わせたりはしませんから。兄さんは、私だけのものです」
「……お前、三日でキャラ変わりすぎだよ……」
こんなに独占欲が強い奴だとは思わなかった。
「兄さんが私の心の隙につけこんだんじゃないですか」
「ええ?」
「……姉さんがいなくなって傷心の私。そこにタイミング良く現れた兄を名乗る男。
 ガードが甘くなっていた私は、ついその男を兄と呼んで慕い始めてしまう」
「そんなストーリーだったっけ?」
……でも、考えたら否定しきれないのも痛いところだ。
「冗談です。今、私は幸せだから、それでいいんですよ」
「…………」
優しく微笑む美優を、もう一度力強く抱きしめた。
そうだ、美羽のように殺させはしない。
俺が守る。
――絶対に、離さない。


「…………いいね、兄妹って」
「!?」
二人して部屋の入口の方に目を向けると、そこには陽菜が戸にもたれかかりながらこちらを見つめていた。
「ひ、陽菜! あなたいつから見ていたの!?」
「別に、私はほとんど何も見てないって」
「……ほっ」
美優が安堵の溜息をつく。
美優にとって、二人で抱き合ってる姿なんて見られたらそれは憤死物の出来事なのかもしれない。
「美優のお腹の虫はいい声で鳴くね~」
「しっかりほとんど見てるじゃないっ!!」

「いたっ、いたい、痛いって! 叩かないでよ美優!」
「ばかばかばかばかばか……!」
「…………ぷっ」
「あ、兄さんも今笑ったでしょ!?」
……やぶへびだ。
「あ、あのさ、お二人さん。別に私は馬鹿になんてしてないんだよ? ただ羨ましいなってだけで」
「羨ましい?」
「……兄妹仲睦まじいのは、いいことだと私は思うよ」
陽菜の眼に映るのは、羨望ではなく寂寥のように思えたけれど、俺はそれを口には出そうとしなかった。
「陽菜……」
美優が、一転気を遣うかのように陽菜に声をかける。
だけれど陽菜は「いやいや、別に大丈夫だから」と軽く反応を返し、表情をきっと真面目に切り替えて続けた。

「あのさ、私が話に来たのはそういうことじゃないの。ちゃんと本題があるのよ」
「……本題?」
「二人とも、魔王を倒す方法って……考えてる?」

「…………」
「…………」
耳が痛くなる質問に、俺達二人は揃って閉口してしまう。
「……ごめんね、いい雰囲気だったのにこんな話しして。でも、時間がないから仕方ないの」
「いや、陽菜、続けてくれ」
俺達も表情を切り替えて、陽菜と向き合い話し合いの体制に移行する。
「ありがと。……あのさ、美優は魔王と一回直接戦ったらしいけど、実際力の差はどのくらい感じた?」
美優は、自分の力のなさを嘆くかのように唇を噛みしめる。
「……具体的には言えないけど、猫とライオンくらい……差はあると思う」
ライオンもネコ科ではあるけれど、当然実力でいえば計り知れない格差がある。
「そっか。美優が猫なら、私は犬くらいはあるかな?」
強さで考えれば――種類にもよるが――犬の方が強そうな感じがする。
「陽菜は、美優より強いのか?」
俺がそう質問すると。
「単純な戦闘能力だったら私が上だね、でも吸血鬼の価値は強さだけじゃないから」
美優も同意するかのようにうんうんと頷く。
「でも、犬と猫じゃ勝てないよな……」
不意でもついて一瞬で急所をつけば、違ってくるのかもしれないが。
「うん……。やっぱり不意を突くしかないと私も思う。だからね、作戦を考えてきたんだ」

「作戦?」
「……たとえば、美優が影に潜んで背後から一撃とか?」
ノア先生の影からぬるぬると出てきた美優を思い出してそう提案するが、
「確実にばれると思う」
と美優に一刀両断された。

……まあ、魔王は背後からの攻撃も完璧に受け止めていたしな。

「この作戦の鍵はね、美優でも私でもない、大翔君だよ」

「……え?」
「俺?」
美優の視線が俺に向けられる。
俺も美優の方ときょとんとしながら見つめて、また陽菜の方に向き直り。
「どういうことだ?」
と尋ねる。

陽菜は、「本当に大翔君には、辛い選択なんだけど……」と前置きをしてから。

「――――――」

最後の作戦を、語り始めた。




――約束の夜。

魔王は相変わらず、揺るがない自信を持ってそこに存在していた。

「さあ、返事を聞こうじゃないか」

向い合う俺と魔王。
俺の後ろには、美優と陽菜が控えて立っている。

「…………俺は」

……俺がこの世界に来てから、俺は何度選択を迫られて来ただろう。
力もなく、強い意志もなく、どうしようもなく下らない俺に、世界は何を選ばせようとしているのだろう。
そんな風に考えていた時期もあった。

そして、俺はその都度明確な答えを出さないまま先に進んだ。
……いや、俺が選択する前に物語だけが進んでいって、俺はただ流されていただけだ。

元の世界に戻りたい。
最初はそれだけ。

でも今は、俺の周りのもの全てを守りたいと考えている。
とんでもない傲慢だ。
何も知らぬ餓鬼の欺瞞だ。
そうやって、俺は馬鹿にされるだろう。
だけれど、俺は決めたんだ。
――どれだけ馬鹿にされようと、出来ることを、ただやるだけだと。

「俺は、魔族に――」

ゆっくりと、魔王に向けて右手を差し出そうとする。
魔王は口の端を歪め、その手を取ろうとして――。

「魔族には、『なれない』」
「――なっ!?」

魔王の手をパンと一払いし、左足を一歩前に出して懐まで飛び込み。

「俺はもう、吸血鬼だからだ!」

力を込めた一撃を、魔王の魂に叩き込んだ!

……大地を揺るがすほどの音が轟き、俺の腕は確かに魔王の体を貫いていた。
魂だけの存在だからか、返り血などはつかなかった。
だけれども、魔王の表情から、確実に致命傷を与えたということは読み取れる。

「……ひ、大翔……。貴様……元いた世界を救えずとも、良いというのか?」
魔王が、息も絶え絶えにそう呟く。
「……お前に心配してもらう必要なんて、無い」
「ふふ……そうであったな……。だが、しかし……吸血鬼に……なるとは、思わなんだわ……。
 愚かで、未来への道が閉ざされた吸血鬼に……」
「…………お前に、要求がある」
「……ははは、要求ときたか。……まあ、敗者は勝者の要求を聞かねば……ならんな……」
「世界と世界を移動する術を、俺に教えてくれ」
「…………いいだろう」
魔王がふっと笑い、それを期に、体がどんどんと透けて薄くなっていく。
「お……おい!」
「安心しろ。……我が消えたら、移動の術は大翔の中に刻み込まれる」
「…………」
俺は、魔王のこの悟りきったかのような態度に、少し違和感を覚える。
不意打ちを受けた後、抵抗を続けるものかと思い、美優と陽菜には続きの策があったのだけれど、それは必要ないようだった。
「なんで、そこまで落ち着いていられるんだ?」
最後にそう問いかけると、
「」

――お前たちの、勝利だよ。

そう残して、魔王はこの世から消え去った。

虚空には、ただ光の粒子が踊るように舞っているだけ。
それ以外には、何もない。

「……兄さん」
「大翔君」

後ろで備えていた二人が、俺の傍に寄ってくる。

「…………勝ったな」

俺は二人の方を振り返り、満面の笑みでそう言った。

「……でも、兄さんはもう……」

人間には、戻れない。

それは当り前だ。
俺はそれを理解したうえで、陽菜の作戦を受け入れたんだ。

俺が吸血鬼になり、正面から一撃を加えるしかないという作戦を。

当然、美優は反対した。
兄さんには人間でいてほしい。
必死に叫んで、俺にすがり付いた。

……だけれど、俺は吸血鬼になることを選んだ。

確実に、この三人が死なずに勝つには、それしかないと思ったから。

吸血鬼になる為の手順には丸一日かかり、この世のものとは思えない苦痛に俺は耐えた。

そして、俺は今美優や陽菜と同じ存在として、ここに立っている。

「気にするな。……この世界も救われた、異世界に移動する方法も、ちゃんと手に入れた」

……魔王は、約束を破りはしなかった。

「美優が生きてる。陽菜も生きてる。……俺も生きてる。これ以上いい未来なんて、ないだろう?」

「そう、ですね。私も……兄さんが生きていてくれて、良かったと思います……」
――私は、兄さんを愛していますから。

美優が、ゆっくりと俺を抱きしめる。
「……美優」
……俺も、美優を力強く抱きしめる。

そして俺達は、自然に互いの唇を重ね合わせた――。




「これからが、本当の戦い……か」

そんな陽菜のつぶやきを、聞くこともなく。




エピローグ


――夏。

蝉の鳴き声は五月蠅く、照りつける太陽は暑く、青すぎる空は恨めしい。

結城美羽は、まるで夏全体を恨むかのような表情で通学路を歩いていた。
「……お姉ちゃん、そんな顔してたら、余計に暑くなっちゃうよ?」
その隣を歩く、義理の妹である結城美優は、そんな姉の様子におどおどしながら言った。
「あーもうっ! 何でこんなに暑いのよ! 最近嫌なことばっかり続くじゃない! 年金問題だとか、年金問題だとか、年金問題だとか!」
「…………そんなに国の未来を憂いてるんだ……」
「兄貴は、帰ってこないしっ!」
「…………」
そう、二人の兄である結城大翔は行方不明となっている。
ある日、通学中にふと眼を離した隙に消えていて、それっきりだ。

当然警察には届けを出したが、見つかる気配はまるでない。
 
「……もうすぐ、一週間だもんね。お兄ちゃん、どうしてるんだろ……」
不安げな美優の問いかけに、いらだったままの姉は、何かの気配を感じ取ったかのごとく急に立ち止まる。
「ど、どうしたの? お姉ちゃん」
「……今、そこの高架下に誰かいた」
「え、だ、誰かって」
「兄貴だ」
「えっ?」
「兄貴がそこにいるっ……!」
「お、おねえちゃん……!」
突然全力疾走する美羽の後を、美優は転びそうになりながらも何とか追いかける。

そして二人は出会った。

……行方不明となっていた、兄――結城大翔――に出会った。

「……っ、この馬鹿兄貴っ!」
美羽は、ようやく出会えた兄に駆け寄ろうとしたけれど。
「来るな! 美羽!」
その兄自身に一喝され、踏みとどまってしまう。
「…………美羽、美優。この高架の、影からこちらが俺の領域。そちら側がお前たちの領域だ。その領域を超えてはいけない」
「お兄ちゃん、何言ってるの……?」
「そうだよ! 全然意味不明だっての!」
「……俺はもう、お前たちと一緒にいられないんだ」

大翔は表情を二人に見せないように伏せて、そう言い放つ。

「はあ? 私たち家族じゃない! どんな理由があったって、一緒にいられないなんてことあるわけがないでしょ!?」
「…………そうだよ。お兄ちゃん」

妹達の必死の問いかけも、だけど兄には意味がなく。

「……最後に伝えなきゃいけないことがある」
「さ、最後って……!」
「この世界は、後一年で滅びてしまうかもしれない。……このことを姫様やノア先生に話して、この世界を守る手段を模索してほしい」

力を合わせたみんなに、出来ないことなんてないからな。

……大翔は言ったけれど、美羽も美優も、妹二人はまるで理解が追いついていないようだった。
「兄貴……! もう、いい加減に悪ふざけはやめてよ! 私たちにめちゃくちゃ心配させておいて、今度はなに!」

「……本当のことなんだ。絶対に、皆に伝えてくれ」

――元気でな。

呟くように小さい声でそう残し、結城大翔は影に溶け込むようにしてその場か消え去る。

「兄貴!?」
「お兄ちゃんっ!!」

二人ははっとして走り寄ったが、そこには兄はいなかった。
それどころか、人がそこにいたという痕跡すら、何も残っていない。

「……兄貴……。わけわかんないよ……兄貴ぃ……!」
「………………お兄ちゃん」

二人の妹は、わけもわからいままに涙を流す。

ただ、兄とは二度と会えない。
そんな気がして、ひたすらに二人は泣き続けた。


「…………あれでいいの? 兄さん」
「あれ以外に、どうしろって言うんだ?」
「別に、家に戻って平和に暮らすのも、いいんじゃない?」
「馬鹿言うなよ。この世界を救ったら、また陽菜の所に戻らなくちゃいけないんだから」
「……うん、約束だもんね」

陽菜は、あちらの世界に残った。
ノア様の遺志を継ぐ吸血鬼としてここで生き、貴女達を待つ。
――だから、そちらの世界を救ったら絶対に戻って来て。

俺達は、しっかりと頷いて約束を交わしたんだ。

……そして、今から俺達は行動を開始する。
世界を救う為に。

悲観的な考えはない、胸にあるのは小さな希望。
希望が、あった。


『それ』と出会うまでは。
「……っ!?」
「兄さん……!?」

もう一人の俺と出会うまでは。

全てうまくいくと思っていたのに――。

おわり
ツールボックス

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