世界が見えた世界・2話 B

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世界が見えた世界・2話 B」(2007/12/08 (土) 21:12:35) の最新版変更点

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 学園の案内といってもどうしたものかというのが正直な感想だったが、ユリア様が「全体をゆっくり見たい」ということだったので、もう1階から屋上まで全部回ってしまうことにした。  うちの学園はそれなりに広いので、それだけでも結構な時間がかかると思うけど。 「それで、こっちのほうには特別教室が多いですね。さすがに今日はどこも開いてないと思いますけど」 「色々あるのですね。ヒロト様の教室はどちらに?」 「俺の教室はもっと上のほうですよ」  大体の学校ではそうだと思うが、うちの学園では学年が上がるほど教室の階も上になる。体育のときに外に出なきゃいけないときなんかは地味に面倒だったりする。 「それで、あー……」  一階にある最後の教室の前に立つ。  プレートに無機質な文字で『保健室』と書かれたその部屋はしかし、扉が明らかに他の部屋とは違っていた。 「ここが、保健室です……ハイ」 「保健……室?」  レンさんが怪訝な顔をする。そりゃそうだろう。ユリア様たちがどの国から来たのかは知らないが、保健室というのはおそらくどの国でもそう変わるではないと思う。  ていうか、少なくともこの扉みたいにファンシー大爆発ではないと思う。  扉の見た目だけなら保健室の入り口というよりも夢の国の入り口といったほうが納得してしまうかもしれない。中も似たようなもんだし。 「まあ、なんといいますか……保険医の趣味でこうなっているといいますか……」  他に説明のしようがない。 「かわいらしいじゃないですか!」  だが、ユリア様は大歓迎状態だった。  そういえば美優も好きだったな、保健室……。女の子はかわいければ全部許せるのかもしれない。 「どんな方が保険医をなさっているんですか? ぜひとも会ってみたいです!」 「とりあえずあまりお勧めはしません」  即忠告する。  今でも脳裏にこびりついて離れないあの忌まわしい記憶。  入学したての頃、何も知らなかった俺はうかつにも何の心構えもなくこの部屋の扉を開き、その主と出会ってしまった。  当時の俺に会ったのなら、俺は殴ってでも止める。あの日の自分の行いを、脳髄を抉り出してでも止めてみせる!! 「ヒロト様? なんだか猛烈に視線が遠くをさまよいだしましたけど、脳は無事ですか?」 「なんか俺いま地味に酷いこと言われませんでした!?」 「いや、特に問題はなかったぞ」 「そうですか……」  どうやら気のせいだったらしい。その後もレンさんは「現実を端的に表すことは正しい」とか「事実は本人にはわかり難い物」とか何か深いようなそうでもないようなことを言っていた。 「えーっと、確か学園長には会ったんですよね?」 「はい。こちらに来てから困っていたのですが、突然の来訪にもかかわらず快く受け入れてくださいました」 「あのお方とは直接の面識はないものの話にはよく聞いていたのでな。頼りにさせていただいたのだ」 「直接の面識のない知り合いって……ユリアさんかレンさんの知り合いの知り合い、とかいう感じですか?」 「おお、鋭いなヒロト殿。実は、姫様のお父上とこの学園の学園長が旧知の仲でな。そのつながりでミウ殿やノア殿を紹介していただいたのだ」 「へえ、そうだったんですか」  人の繋がりってすごいな。っつーか何者だ、学園長。  そんな話をしながら学園中を回っていく。  三階の廊下を案内していると、見慣れた後姿が目に入った。本人はなにやら忙しそうな様子で掲示板に向かっている。ポスターの張替えか何かなんだろう。 「よう、美羽」 「あ、兄貴。それにユリア様とレンさんも。どうですか、うちの学校は?」 「ええ、今色々見て回らせていただいているところですけれども、色々と興味深い場所がありました」 「そう、ですか……すみません、本当ならアタシが案内してあげたかったんですけど……」  一瞬、美羽の表情にかげりが見える。  ユリア様を案内してあげられないことに対しての負い目……とも少し違うか?  けど、その表情はすぐに消えてしまった。 「そんな、お仕事なんですからお気になさらないでください。それに、ヒロト様と色々話ができてとても楽しいです」 「あ、そうですか? それはよかったです」 「うむ。ヒロト殿の話は実に軽快で聞いていて飽きないからな。話のまとめ方がうまいということだろう」 「まあ普段から口先だけで生きてるような生命体ですから」 「お前はもう少し素直に兄をほめることはできないのか!?」 「はぁ……あのねぇ兄貴、そう思うのならもっと成長してよね。せめて人間レベルにまで」 「美羽の中で俺は人間以下の扱いだったのか!?」 「え、あ、ごめんつい本音が出ちゃった!」 「そこで本気でうろたえるな! 心が締め付けられるから!!」  美羽の言葉攻めに容赦がない。俺がM全開なら喜びに打ち震えるのだろうが、残念ながらというべきなのか、俺はM全開ではない。微Mだ。ゆえにこのやり取りも実はちょっと楽しかったりする。  ……何を考えてるんだ俺は……。 「ヒロト様は先ほどからよくこうやって、自動的に遠くを見たり落ち込んだりなさるのですが、癖か何かなのですか?」 「えーっと……まあその、癖みたいなものといえば癖みたいなものです。自分の失敗とか間抜けとか、そういうこと思い出して恥ずかしがったり落ち込んだりしてるだけなので放っておいてください。そのうち勝手に帰ってきますから」 「ふむ、感情が豊かなのだな。いいことだ」 「いいことなのかなぁ……」 「とりあえず悪意のない追い討ちはやめてくれませんか、お二人とも」  三対一は勝ち目がありません。しかもそのうち2人は悪気とかぜんぜんないから怒りようがありません。僕はこの気持ちをどこにぶつければいいんですか。 「あっれー? 大翔じゃん。土曜日に学校で何してんだ?」 「おぉぉまぁぁえぇぇだぁぁぁぁッ!!」 「ごぶぁっ!?」  目の前にサンドバッグ兼悪友が現れたので思わずぐーを入れてしまった。 「ヒ、ヒロト様!? 今誰か現れて消えていったような……」 「ああ、今のやつなら大丈夫です。頑丈ですから」 「頑丈でも現れた瞬間に殴られたら驚くだろうが……」 「驚くだけで済むんですかっ!?」  済むんですよ、こいつそういう生命体だから。 「いや、悪い。なんか見たら反射的に体が動いてた」 「うん、まあそれがお前の愛だって言うのなら俺は何も言わずに受け止めるけどな」 「じゃあもうそれでいいから今すぐにそこの窓から飛び降りてくれ。今すぐ。ほら、すぐ」 「お、おいちょっとタンマ! 何ほんとに落とすの!? さすがの俺でもここから落ちるのはちょっと勘弁させていただきたいんだが!!」  わりかし精一杯の力を込めてぐいぐいと貴俊を窓の外へ押し出す。  あ、くそ、こいつガタイがいいから窓枠に引っかかってうまく押し出せないぞ! 「あ~……とりあえず長くなりそうですし、生徒会室にでも行きませんか?」 「え……でもあの、ヒロト様とあの方は放っておいてよろしいのですか?」 「このままだとヒロト殿が罪人にでもなりそうだが……」 「大丈夫ですよ、いつものことですし。それになんだかんだで大きな怪我ならしないように気をつけてるんですから」 「あれで……か?」 「あれで、です。兄貴~、アタシたち生徒会室にいるから、満足したら後でちゃんと来てよ!」 「おう、了解! ほら、もういい加減に諦めろって!」 「そう簡単に諦めてたまるか!」  俺たちがもみ合っているうちに美羽はユリア様たちを連れて廊下の向こうへと消えていった。 「なあ……もう、戻っていいか……?」  体の3分の2が窓の外にある状態でかなり苦しそうな貴俊。  じっくりと観察、ちょっと考えてみる。結論。 「もうそのまま落ちてもいいんじゃないか?」 「いや、よくねーから!!」  仕方がないので手を貸してやることにする。ちっ。 「ったく……なんで俺がこんな目に……」 「俺への愛ゆえじゃないのか?」 「ふっ……それならば仕方ない……とでもいうと思ったのかまったく。で、どうしたんだ大翔。今日は妙にテンションたけーじゃん」 「あー……ほら、さっきつれてる人たちがいただろ」 「あの美人さんたちか? なんかスゲーなあの人たち。雰囲気が現実離れしてるっつーか。それで、あの人たちがどうかしたのか?」 「ちょっと学園の案内してたんだけどな……正直、どう接していいのかわからなくて」  正直なところ、緊張していた。  何しろどれだけ控えめに見積もったところで美人としか形容できない女の子達を相手にしているのだ。そもそも、悲しいことに普段は女の子としゃべる機会なんてないし。 「正直、どうしたらいいのかよくわからないな」 「なんつーか、お前にしては随分と青春真っ只中な悩みだな。大翔はそういう場面になっても冷静に対処するイメージがあったんだけどなぁ、いつもの美羽ちゃんや美優ちゃんへの態度とか見てっと」 「妹と客を同じように扱えるわけないだろ」  しかもお姫様相手に。という言葉は飲み込んでおいた。貴俊のことだからいつかはかぎつけるかもしれないが、だからといってほいほい言って回っていいことだとも思えないしな。 「まあ俺から言えるのは一つだけだな。……大翔、俺は何があってもお前への愛は変わらないつもりだぜ」 「本当に落としてしまいたくなるようなことを言うなっ」 「ん、まあなんだ。別にそんなに気にすることもねーだろうさ。なんだかんだで大翔は他人と打ち解けるのがうまいからな。俺は心配してないぜ?」 「貴俊に保証をもらってもな……」  盛大にため息をついてみせる。  そもそも俺のことを過大評価しすぎだと思うんだ、お前は。 「おいおい、この世界に俺ほどお前のことを理解してる人間はいねーぞ?」 「世界とはまたでっかく出たな……さて、そろそろ迎えにいってくる。あんまりノロノロしてると美羽にぶっ飛ばされかねん」 「おう。あ、そうそう。時間があれば乃愛先生のところに顔出していったらどうだ? 暇そうにしてたぜ」 「乃愛先生来てるのか? じゃあ、後で行ってみるよ」  その場で貴俊と別れる。  そういえば、何で貴俊が学校にいたのか聞いてないな……まあいいか、どうせ放浪癖か何かだろう。あるいは乃愛先生に呼び出されたのか。 「さて、お姫様たちを迎えに行かないとな」  さっきよりは幾分肩の力が抜けたのを自覚しながら一人呟いた。 「遅いっ! お客さんをいったいどれだけ待たせるつもり!?」  生徒会室の扉を開いた途端にこれだった。 「思いのほか貴俊の抵抗が激しかったんだよ」  冗談交じりに椅子に座っていたユリア様、レンさんに軽く会釈をする。  部屋の中にはどうやら3人だけしかいなかったらしい。他の役員は別の仕事をしているようだ。うちの学園の生徒会は働き者だなぁ。 「ヒロト殿、学友はどうしたのだ?」 「あいつはもう帰りましたよ。連れてきたほうがよかったですか?」 「ミウさんの話を聞いたらとても面白い方だと思ったので、もしご一緒だったらお話をしたいと思ったのですけど……」 「う。すみません、気が利かなくて。まあ、あいつは基本的に暇人ですから、そのうち都合がつきそうなときにでもうちに呼びますよ」 「本当ですか! ありがとうございます」 「かたじけないな、ヒロト殿」  ユリア様とレンさんが深々と頭を下げる。本気で感謝してくれているらしいのだが、あんなののことでここまで頭を下げられると逆に心苦しい。  まあ、過去にあいつを呼んだ事なんか一度もないんだけど。ていうか誘ってもこない気がする。 「いや、そんな対したことじゃないですから。友達を家に呼ぶだけですし」  のだが、そう答えておいた。まあ、どうにかなるだろう。 「そうですよ! ユリアさんもレンさんも、兄貴にそんな頭なんて下げる必要はないですから!」  何で今日の美羽の言葉にはいちいち棘があるんだろう……。ちょっと悲しくなってきた。  ていうか、ちょい待て。 「ユリア“さん”?」 「ん? 気づいた?」  美羽が得意げに無い胸をそらす。 「まあなんていうか、ホームステイとして一緒に暮らすわけだしお互いにもう少し遠慮を無くそうってことで、まずは呼び方から変えていこうってことになったの。ほら、どうしても緊張しちゃうでしょ、お互いに」 「美羽でも緊張することがあるんだな」 「アタシは兄貴と違って繊細なの! 大体……」  ぐいっと襟元をつかまれて、耳を美羽の口元にまで引き寄せられる。 「緊張してたのはどっちの方よ!」 「う……気づいてたのか……」 「当然でしょ。アタシは兄貴の妹なんだから」  情けないことに、どうやら美羽にはバレバレだったらしい。  その『してやったり』という顔が実に腹立たしいのだが返す言葉が無いのでもごもごと口の中で言葉にならない言葉をこねくり回す。  そんな俺の背中を押して、ユリア様たちの前に押し出す美羽。 「そんなわけでユリアさんレンさん、残りの学校案内も兄貴と一緒に楽しんできてください」 「ええ、ありがとう、ミウさん。よろしくお願いしますね、ヒロト様」 「それではよろしく頼む、ヒロト殿」 「あ……俺は呼び方を変える対象には入ってないんだ……」 「そういうことは自分で言わないとダメでしょ。今からたくさん時間あるんだから自力でどうにかしてよ。……もし、家に帰るまでに何も進展していないようだったら……」  美羽の視線の温度がぐんぐん下がっていく。この温度ならホッキョクグマも凍死させられる。 「ど、努力はするから……それじゃあ、いきましょうか」 「ええ、よろしくお願いしますね」  古くなった金属がきしむ音とともに、重い扉が開かれる。  差し込む暖かな日差しと吹き込む心地よい風が髪を揺らす。今の季節、屋上は最高のロケーションになる。 「さて……これで最後の場所ですね。ここが屋上になっています」 「わあ……風が気持ちいい……。ほら、レン! 周りが一望できるわ!」 「姫様、急に走り出しては危険です!」  駆け出すユリア様とそれを追いかけるレンさん。屋上を駆けるユリア様からは、今までの印象よりも随分幼く――いや、歳相応の女の子の印象を受けた。  屋上は景色もいいし、少し肌寒いもののこの時間なら十分すごしやすいから、一気に開放的な気分になったからかもしれない。  だとすると、今のユリア様のほうが素の状態なんだろうか。それとも、単にちょっとはしゃいでしまっているだけなんだろうか。 「……色々考えすぎだな。もっと気楽に行こう」  このままでは家に帰ったときに美羽に何をされたもんだかわからない。  俺は2人の後についていく。ユリア様は珍しそうに屋上からの景色を眺めている。時折レンさんと何か話しながら、景色のあちこちを指差す。屋上からは町の景色がよく見える。 「そういえば、俺も昔はあんな感じだったけな」  入学した手の頃、行くことのできない町を眺めてはそこに何があるのかを想像して空想していた。そこで暮らしている人たちのことを考えていた。  いつの間にか当たり前の景色になっていて、それでもやっぱりそこには行けないのに、そこでの暮らしに昔ほど夢にあふれた想像を働かせることはなくなっていた。  去年俺も、さっきのユリア様みたいな顔をしてこの町を眺めていたんだろうな。  そう思うと、急に目の前のお姫様に親近感が沸いた。  うん。  よし。  気合十分。根性一発。 「ユリア“さん”、レン“さん”」 「え……。あ! は、はいっ!」  意識的に“さん”を強調して言ってみたけど、その意思を汲み取ってくれたらしい。察しの良い人たちでよかった。正直に口に出して説明するのは、恥ずかしい。まったく、情けないなあ。  ユリアさんはこっちを振り向いて、まっすぐに向かい合ってくれた。 「2人は、美羽から町のことについて聞たりした?」 「はい、町の人たちの様子や、町がどんなものかを少しだけ。あそこに暮らす人たちはみんな魔法使いだったり、その家族だったりするんですよね」 「うん、そう。っていっても、俺も町にはいったことはないんだけどね」 「ヒロト殿は、こちらの町に移ろうと考えたことはないのか?」  ああ、なるほど。そこまで知っているのか。  町で生まれたのならともかく、そうでないのなら基本的に町に入れるようになるのは学園を卒業してからだ。  ただし、その例外はいくつかある。  両親、あるいは保護者が何らかの理由によりいない場合、後見人の了承さえもらえれば町に住めるのだ。  俺たちの後見人は、乃愛さんになっている。あの人も一度といわず、何度かこちらに住むことを薦めてはくれた。 「うーん、まあ確かに、あるかないかっていったらないわけじゃないよ。でも、あの家は両親が遺してくれたものだから、できれば離れたくないって思ってる」 「そう、ですか……ううん、そうですよね。……ヒロトさん」 「うん?」 「この度は、私達を受け入れてくれて本当にありがとうございました。突然のことだった上、色々と訊ねたいことがあると思います。それを深くは問わず、それでも流されるのではなく確たる意思の元で受け入れてくれたこと、本当に感謝しています」  その真摯な姿に何もいえなくなる。普段ならもっと適当な誤魔化しを入れたり、それとなくはぐらかしたりするんだけど……。 「うん、まあ……そこまで感謝してもらえるなら、こっちも嬉しいよ」  っていっても、さっきも言ったようにあの家は両親が遺してくれたものだから俺が威張るものでもないんだけど。  となると……そうだな、昨日の夜はまともにおもてなしできなかったしな。 「2人は何か好きな食べ物とかある?」 「好きな食べ物……ですか? そうですね、甘いものは大好きです」 「私は薄味なものが好きですね」  となると、今夜の食事の味付けは薄めにして、何かデザートでも作ろうか。  そうやってやることを決めると、なんだか体に力がみなぎってくる。自分がすること、したいことをはっきりと意識したせいだろう。 「それじゃあ、今日はこのくらいにしてそろそろ帰ろうか。今日の夜は俺が腕を振るうよ」 「ほう、ヒロト殿の手料理か。それは楽しみですね、姫様」 「そうね、レン。楽しみにさせてもらいますよ、ヒロトさん」 「それじゃ、全力でご期待に応えさせていただきましょう」  まだお互いに、どこかぎこちないところはあるけれど。  それは今だから。  これからがあるのだから、焦らなくてもいい。ゆっくり、でも確実に変わっていけばいいと、そう思いながら、俺達は屋上を後にした。 「ほら、レン、ヒロトさん! 早く行きましょう」 「おわ! ち、ちょっとユリアさん! 急に袖を引っ張ったりしたりなんかしたら危ないですよ!」 「だいじょうぶです……きゃぁっ!!」 「っ、ぶない!!」  くるりと回る途中でバランスを崩し、ユリアさんの体が階段のほうへと大きく傾く。  ただがむしゃらだった。  ユリアさんが俺の袖を離してしまう前に、俺がその腕をつかんで力の限り引っ張る。  先に言い訳をしておく。  手加減してる余裕もバランスをとる余裕もなんかなかったんだってば。  背中と胸にそれぞれ堅い衝撃とやわらかい衝撃。  いつの間にか目を堅く閉じていたようで、視界は真っ黒になっている。  それでも、自分の腕の中にある暖かい温もりのおかげで、ユリアさんが無事であることだけはわかって安堵した。 「い……つつ……」  ――安堵して。  ――パニックになった。  胸に当たるやわらかく暖かな感触。覆いかぶさる温もり。その原因が一つしかないと理性が告げた瞬間、両目を見開く。  そこにあった光景は、まさしく予想通り。  雪のように白い肌と蜂蜜色の髪が、すぐ目の前にあって、翡翠の瞳がきょとんとかわいらしくこちらの瞳を覗き込んでいた。相手の瞳の中に映る自分の間抜けな表情が見えるくらいの密着状態。  その、奇跡的なのか絶望的なのかよくわからない時間がどれくらいか続いて。 「ふぇ……? あ、あ、あ、ああああああああ……!」 「い、いやあの、これは、だから、ええええと……!」  雪原に朱が指し、翡翠に水滴が浮かぶ。  え、ちょ、だから、いや、そんな、え、俺?  考えがまとまらない。いや、考えがまとまらないことはわかってるんだけど、いやだから、俺はだからその、考えがまとまらないなら考えをまとめないとダメで、だからこの場合考えないといけないことは考えることで、だからえっと、あああああもう! 「ひ、ひあああああああ!!!」  耳まで真っ赤にしたユリアさんが急いで俺の上から飛びのいた。 「あ、あのその、す、すみません、わ、私こんな、その!!」 「い、いや、俺もそんないきなりこんな、その、だから、ごめんなさい!!」  ユリアさんが何を言ってるのかよくわからない。俺も何を言っているのかよくわからない。  そのとき、背後に不気味な気配が突如発生した。ぶわっと全身に鳥肌が立ち、よくない汗がだらだらとまるでナイアガラ。恐る恐る振り向く。  そこには、修羅がいらっしゃった。 「ユウウウゥゥゥキィィィィィ…………ヒロトォォォォ……………………!!!」  あの口は地獄かどこかに直通しているのだろうか。どう考えても人間が出せるような声じゃないと思う。  ああ、さっきとはうって変わって冷静だな俺。多分わかってるからだろうなぁ……。  絶対、逃げられないことが。  ぎしり、ぎしり。  一歩一歩、重く、踏みしめるようにレンさんが近づいてくる。怖い。本気で怖い。 「ユ、ユリアさん! レンさんを止めてください! ユリアさん!?」  しかし、頼みのユリアさんは耳まで真っ赤になって行動不能状態に陥っていた!  こ、これはもうだめか!? 「ユウウウゥゥゥキィィィィィ…………ヒロトォォォォ……………………!!!」 「!?」  もはや悪鬼はすぐ目の前。俺の命を射程範囲に捉えている。  その右手がゆっくりとこちらへ向かってくる。俺は絶望とともに、視界に広がっていくレンさんの手のひらをただ呆然と見つめて―― 「はいストップ。さすがに学校で人死にはまずいんだよね~」  がっしと、レンさんの肩をつかんでその動きを引き止めたのは、 「まったく、昨日の今日でこんなベタベタなラブコメを展開してくれるとは、やはり君は面白いな、ヒロト君」  口の端を軽く引いて笑顔を浮かべた、乃愛さんだった。
 学園の案内といってもどうしたものかというのが正直な感想だったが、ユリア様が「全体をゆっくり見たい」ということだったので、もう1階から屋上まで全部回ってしまうことにした。  うちの学園はそれなりに広いので、それだけでも結構な時間がかかると思うけど。 「それで、こっちのほうには特別教室が多いですね。さすがに今日はどこも開いてないと思いますけど」 「色々あるのですね。ヒロト様の教室はどちらに?」 「俺の教室はもっと上のほうですよ」  大体の学校ではそうだと思うが、うちの学園では学年が上がるほど教室の階も上になる。体育のときに外に出なきゃいけないときなんかは地味に面倒だったりする。 「それで、あー……」  一階にある最後の教室の前に立つ。  プレートに無機質な文字で『保健室』と書かれたその部屋はしかし、扉が明らかに他の部屋とは違っていた。 「ここが、保健室です……ハイ」 「保健……室?」  レンさんが怪訝な顔をする。そりゃそうだろう。ユリア様たちがどの国から来たのかは知らないが、保健室というのはおそらくどの国でもそう変わるではないと思う。  ていうか、少なくともこの扉みたいにファンシー大爆発ではないと思う。  扉の見た目だけなら保健室の入り口というよりも夢の国の入り口といったほうが納得してしまうかもしれない。中も似たようなもんだし。 「まあ、なんといいますか……保険医の趣味でこうなっているといいますか……」  他に説明のしようがない。 「かわいらしいじゃないですか!」  だが、ユリア様は大歓迎状態だった。  そういえば美優も好きだったな、保健室……。女の子はかわいければ全部許せるのかもしれない。 「どんな方が保険医をなさっているんですか? ぜひとも会ってみたいです!」 「とりあえずあまりお勧めはしません」  即忠告する。  今でも脳裏にこびりついて離れないあの忌まわしい記憶。  入学したての頃、何も知らなかった俺はうかつにも何の心構えもなくこの部屋の扉を開き、その主と出会ってしまった。  当時の俺に会ったのなら、俺は殴ってでも止める。あの日の自分の行いを、脳髄を抉り出してでも止めてみせる!! 「ヒロト様? なんだか猛烈に視線が遠くをさまよいだしましたけど、脳は無事ですか?」 「なんか俺いま地味に酷いこと言われませんでした!?」 「いや、特に問題はなかったぞ」 「そうですか……」  どうやら気のせいだったらしい。その後もレンさんは「現実を端的に表すことは正しい」とか「事実は本人にはわかり難い物」とか何か深いようなそうでもないようなことを言っていた。 「えーっと、確か学園長には会ったんですよね?」 「はい。こちらに来てから困っていたのですが、突然の来訪にもかかわらず快く受け入れてくださいました」 「あのお方とは直接の面識はないものの話にはよく聞いていたのでな。頼りにさせていただいたのだ」 「直接の面識のない知り合いって……ユリアさんかレンさんの知り合いの知り合い、とかいう感じですか?」 「おお、鋭いなヒロト殿。実は、姫様のお父上とこの学園の学園長が旧知の仲でな。そのつながりでミウ殿やノア殿を紹介していただいたのだ」 「へえ、そうだったんですか」  人の繋がりってすごいな。っつーか何者だ、学園長。  そんな話をしながら学園中を回っていく。  三階の廊下を案内していると、見慣れた後姿が目に入った。本人はなにやら忙しそうな様子で掲示板に向かっている。ポスターの張替えか何かなんだろう。 「よう、美羽」 「あ、兄貴。それにユリア様とレンさんも。どうですか、うちの学校は?」 「ええ、今色々見て回らせていただいているところですけれども、色々と興味深い場所がありました」 「そう、ですか……すみません、本当ならアタシが案内してあげたかったんですけど……」  一瞬、美羽の表情にかげりが見える。  ユリア様を案内してあげられないことに対しての負い目……とも少し違うか?  けど、その表情はすぐに消えてしまった。 「そんな、お仕事なんですからお気になさらないでください。それに、ヒロト様と色々話ができてとても楽しいです」 「あ、そうですか? それはよかったです」 「うむ。ヒロト殿の話は実に軽快で聞いていて飽きないからな。話のまとめ方がうまいということだろう」 「まあ普段から口先だけで生きてるような生命体ですから」 「お前はもう少し素直に兄をほめることはできないのか!?」 「はぁ……あのねぇ兄貴、そう思うのならもっと成長してよね。せめて人間レベルにまで」 「美羽の中で俺は人間以下の扱いだったのか!?」 「え、あ、ごめんつい本音が出ちゃった!」 「そこで本気でうろたえるな! 心が締め付けられるから!!」  美羽の言葉攻めに容赦がない。俺がM全開なら喜びに打ち震えるのだろうが、残念ながらというべきなのか、俺はM全開ではない。微Mだ。ゆえにこのやり取りも実はちょっと楽しかったりする。  ……何を考えてるんだ俺は……。 「ヒロト様は先ほどからよくこうやって、自動的に遠くを見たり落ち込んだりなさるのですが、癖か何かなのですか?」 「えーっと……まあその、癖みたいなものといえば癖みたいなものです。自分の失敗とか間抜けとか、そういうこと思い出して恥ずかしがったり落ち込んだりしてるだけなので放っておいてください。そのうち勝手に帰ってきますから」 「ふむ、感情が豊かなのだな。いいことだ」 「いいことなのかなぁ……」 「とりあえず悪意のない追い討ちはやめてくれませんか、お二人とも」  三対一は勝ち目がありません。しかもそのうち2人は悪気とかぜんぜんないから怒りようがありません。僕はこの気持ちをどこにぶつければいいんですか。 「あっれー? 大翔じゃん。土曜日に学校で何してんだ?」 「おぉぉまぁぁえぇぇだぁぁぁぁッ!!」 「ごぶぁっ!?」  目の前にサンドバッグ兼悪友が現れたので思わずぐーを入れてしまった。 「ヒ、ヒロト様!? 今誰か現れて消えていったような……」 「ああ、今のやつなら大丈夫です。頑丈ですから」 「頑丈でも現れた瞬間に殴られたら驚くだろうが……」 「驚くだけで済むんですかっ!?」  済むんですよ、こいつそういう生命体だから。 「いや、悪い。なんか見たら反射的に体が動いてた」 「うん、まあそれがお前の愛だって言うのなら俺は何も言わずに受け止めるけどな」 「じゃあもうそれでいいから今すぐにそこの窓から飛び降りてくれ。今すぐ。ほら、すぐ」 「お、おいちょっとタンマ! 何ほんとに落とすの!? さすがの俺でもここから落ちるのはちょっと勘弁させていただきたいんだが!!」  わりかし精一杯の力を込めてぐいぐいと貴俊を窓の外へ押し出す。  あ、くそ、こいつガタイがいいから窓枠に引っかかってうまく押し出せないぞ! 「あ~……とりあえず長くなりそうですし、生徒会室にでも行きませんか?」 「え……でもあの、ヒロト様とあの方は放っておいてよろしいのですか?」 「このままだとヒロト殿が罪人にでもなりそうだが……」 「大丈夫ですよ、いつものことですし。それになんだかんだで大きな怪我ならしないように気をつけてるんですから」 「あれで……か?」 「あれで、です。兄貴~、アタシたち生徒会室にいるから、満足したら後でちゃんと来てよ!」 「おう、了解! ほら、もういい加減に諦めろって!」 「そう簡単に諦めてたまるか!」  俺たちがもみ合っているうちに美羽はユリア様たちを連れて廊下の向こうへと消えていった。 「なあ……もう、戻っていいか……?」  体の3分の2が窓の外にある状態でかなり苦しそうな貴俊。  じっくりと観察、ちょっと考えてみる。結論。 「もうそのまま落ちてもいいんじゃないか?」 「いや、よくねーから!!」  仕方がないので手を貸してやることにする。ちっ。 「ったく……なんで俺がこんな目に……」 「俺への愛ゆえじゃないのか?」 「ふっ……それならば仕方ない……とでもいうと思ったのかまったく。で、どうしたんだ大翔。今日は妙にテンションたけーじゃん」 「あー……ほら、さっきつれてる人たちがいただろ」 「あの美人さんたちか? なんかスゲーなあの人たち。雰囲気が現実離れしてるっつーか。それで、あの人たちがどうかしたのか?」 「ちょっと学園の案内してたんだけどな……正直、どう接していいのかわからなくて」  正直なところ、緊張していた。  何しろどれだけ控えめに見積もったところで美人としか形容できない女の子達を相手にしているのだ。そもそも、悲しいことに普段は女の子としゃべる機会なんてないし。 「正直、どうしたらいいのかよくわからないな」 「なんつーか、お前にしては随分と青春真っ只中な悩みだな。大翔はそういう場面になっても冷静に対処するイメージがあったんだけどなぁ、いつもの美羽ちゃんや美優ちゃんへの態度とか見てっと」 「妹と客を同じように扱えるわけないだろ」  しかもお姫様相手に。という言葉は飲み込んでおいた。貴俊のことだからいつかはかぎつけるかもしれないが、だからといってほいほい言って回っていいことだとも思えないしな。 「まあ俺から言えるのは一つだけだな。……大翔、俺は何があってもお前への愛は変わらないつもりだぜ」 「本当に落としてしまいたくなるようなことを言うなっ」 「ん、まあなんだ。別にそんなに気にすることもねーだろうさ。なんだかんだで大翔は他人と打ち解けるのがうまいからな。俺は心配してないぜ?」 「貴俊に保証をもらってもな……」  盛大にため息をついてみせる。  そもそも俺のことを過大評価しすぎだと思うんだ、お前は。 「おいおい、この世界に俺ほどお前のことを理解してる人間はいねーぞ?」 「世界とはまたでっかく出たな……さて、そろそろ迎えにいってくる。あんまりノロノロしてると美羽にぶっ飛ばされかねん」 「おう。あ、そうそう。時間があれば乃愛先生のところに顔出していったらどうだ? 暇そうにしてたぜ」 「乃愛先生来てるのか? じゃあ、後で行ってみるよ」  その場で貴俊と別れる。  そういえば、何で貴俊が学校にいたのか聞いてないな……まあいいか、どうせ放浪癖か何かだろう。あるいは乃愛先生に呼び出されたのか。 「さて、お姫様たちを迎えに行かないとな」  さっきよりは幾分肩の力が抜けたのを自覚しながら一人呟いた。 「遅いっ! お客さんをいったいどれだけ待たせるつもり!?」  生徒会室の扉を開いた途端にこれだった。 「思いのほか貴俊の抵抗が激しかったんだよ」  冗談交じりに椅子に座っていたユリア様、レンさんに軽く会釈をする。  部屋の中にはどうやら3人だけしかいなかったらしい。他の役員は別の仕事をしているようだ。うちの学園の生徒会は働き者だなぁ。 「ヒロト殿、学友はどうしたのだ?」 「あいつはもう帰りましたよ。連れてきたほうがよかったですか?」 「ミウさんの話を聞いたらとても面白い方だと思ったので、もしご一緒だったらお話をしたいと思ったのですけど……」 「う。すみません、気が利かなくて。まあ、あいつは基本的に暇人ですから、そのうち都合がつきそうなときにでもうちに呼びますよ」 「本当ですか! ありがとうございます」 「かたじけないな、ヒロト殿」  ユリア様とレンさんが深々と頭を下げる。本気で感謝してくれているらしいのだが、あんなののことでここまで頭を下げられると逆に心苦しい。  まあ、過去にあいつを呼んだ事なんか一度もないんだけど。ていうか誘ってもこない気がする。 「いや、そんな対したことじゃないですから。友達を家に呼ぶだけですし」  のだが、そう答えておいた。まあ、どうにかなるだろう。 「そうですよ! ユリアさんもレンさんも、兄貴にそんな頭なんて下げる必要はないですから!」  何で今日の美羽の言葉にはいちいち棘があるんだろう……。ちょっと悲しくなってきた。  ていうか、ちょい待て。 「ユリア“さん”?」 「ん? 気づいた?」  美羽が得意げに無い胸をそらす。 「まあなんていうか、ホームステイとして一緒に暮らすわけだしお互いにもう少し遠慮を無くそうってことで、まずは呼び方から変えていこうってことになったの。ほら、どうしても緊張しちゃうでしょ、お互いに」 「美羽でも緊張することがあるんだな」 「アタシは兄貴と違って繊細なの! 大体……」  ぐいっと襟元をつかまれて、耳を美羽の口元にまで引き寄せられる。 「緊張してたのはどっちの方よ!」 「う……気づいてたのか……」 「当然でしょ。アタシは兄貴の妹なんだから」  情けないことに、どうやら美羽にはバレバレだったらしい。  その『してやったり』という顔が実に腹立たしいのだが返す言葉が無いのでもごもごと口の中で言葉にならない言葉をこねくり回す。  そんな俺の背中を押して、ユリア様たちの前に押し出す美羽。 「そんなわけでユリアさんレンさん、残りの学校案内も兄貴と一緒に楽しんできてください」 「ええ、ありがとう、ミウさん。よろしくお願いしますね、ヒロト様」 「それではよろしく頼む、ヒロト殿」 「あ……俺は呼び方を変える対象には入ってないんだ……」 「そういうことは自分で言わないとダメでしょ。今からたくさん時間あるんだから自力でどうにかしてよ。……もし、家に帰るまでに何も進展していないようだったら……」  美羽の視線の温度がぐんぐん下がっていく。この温度ならホッキョクグマも凍死させられる。 「ど、努力はするから……それじゃあ、いきましょうか」 「ええ、よろしくお願いしますね」  古くなった金属がきしむ音とともに、重い扉が開かれる。  差し込む暖かな日差しと吹き込む心地よい風が髪を揺らす。今の季節、屋上は最高のロケーションになる。 「さて……これで最後の場所ですね。ここが屋上になっています」 「わあ……風が気持ちいい……。ほら、レン! 周りが一望できるわ!」 「姫様、急に走り出しては危険です!」  駆け出すユリア様とそれを追いかけるレンさん。屋上を駆けるユリア様からは、今までの印象よりも随分幼く――いや、歳相応の女の子の印象を受けた。  屋上は景色もいいし、少し肌寒いもののこの時間なら十分すごしやすいから、一気に開放的な気分になったからかもしれない。  だとすると、今のユリア様のほうが素の状態なんだろうか。それとも、単にちょっとはしゃいでしまっているだけなんだろうか。 「……色々考えすぎだな。もっと気楽に行こう」  このままでは家に帰ったときに美羽に何をされたもんだかわからない。  俺は2人の後についていく。ユリア様は珍しそうに屋上からの景色を眺めている。時折レンさんと何か話しながら、景色のあちこちを指差す。屋上からは町の景色がよく見える。 「そういえば、俺も昔はあんな感じだったけな」  入学した手の頃、行くことのできない町を眺めてはそこに何があるのかを想像して空想していた。そこで暮らしている人たちのことを考えていた。  いつの間にか当たり前の景色になっていて、それでもやっぱりそこには行けないのに、そこでの暮らしに昔ほど夢にあふれた想像を働かせることはなくなっていた。  去年俺も、さっきのユリア様みたいな顔をしてこの町を眺めていたんだろうな。  そう思うと、急に目の前のお姫様に親近感が沸いた。  うん。  よし。  気合十分。根性一発。 「ユリア“さん”、レン“さん”」 「え……。あ! は、はいっ!」  意識的に“さん”を強調して言ってみたけど、その意思を汲み取ってくれたらしい。察しの良い人たちでよかった。正直に口に出して説明するのは、恥ずかしい。まったく、情けないなあ。  ユリアさんはこっちを振り向いて、まっすぐに向かい合ってくれた。 「2人は、美羽から町のことについて聞たりした?」 「はい、町の人たちの様子や、町がどんなものかを少しだけ。あそこに暮らす人たちはみんな魔法使いだったり、その家族だったりするんですよね」 「うん、そう。っていっても、俺も町にはいったことはないんだけどね」 「ヒロト殿は、こちらの町に移ろうと考えたことはないのか?」  ああ、なるほど。そこまで知っているのか。  町で生まれたのならともかく、そうでないのなら基本的に町に入れるようになるのは学園を卒業してからだ。  ただし、その例外はいくつかある。  両親、あるいは保護者が何らかの理由によりいない場合、後見人の了承さえもらえれば町に住めるのだ。  俺たちの後見人は、乃愛さんになっている。あの人も一度といわず、何度かこちらに住むことを薦めてはくれた。 「うーん、まあ確かに、あるかないかっていったらないわけじゃないよ。でも、あの家は両親が遺してくれたものだから、できれば離れたくないって思ってる」 「そう、ですか……ううん、そうですよね。……ヒロトさん」 「うん?」 「この度は、私達を受け入れてくれて本当にありがとうございました。突然のことだった上、色々と訊ねたいことがあると思います。それを深くは問わず、それでも流されるのではなく確たる意思の元で受け入れてくれたこと、本当に感謝しています」  その真摯な姿に何もいえなくなる。普段ならもっと適当な誤魔化しを入れたり、それとなくはぐらかしたりするんだけど……。 「うん、まあ……そこまで感謝してもらえるなら、こっちも嬉しいよ」  っていっても、さっきも言ったようにあの家は両親が遺してくれたものだから俺が威張るものでもないんだけど。  となると……そうだな、昨日の夜はまともにおもてなしできなかったしな。 「2人は何か好きな食べ物とかある?」 「好きな食べ物……ですか? そうですね、甘いものは大好きです」 「私は薄味なものが好きですね」  となると、今夜の食事の味付けは薄めにして、何かデザートでも作ろうか。  そうやってやることを決めると、なんだか体に力がみなぎってくる。自分がすること、したいことをはっきりと意識したせいだろう。 「それじゃあ、今日はこのくらいにしてそろそろ帰ろうか。今日の夜は俺が腕を振るうよ」 「ほう、ヒロト殿の手料理か。それは楽しみですね、姫様」 「そうね、レン。楽しみにさせてもらいますよ、ヒロトさん」 「それじゃ、全力でご期待に応えさせていただきましょう」  まだお互いに、どこかぎこちないところはあるけれど。  それは今だから。  これからがあるのだから、焦らなくてもいい。ゆっくり、でも確実に変わっていけばいいと、そう思いながら、俺達は屋上を後にした。 「ほら、レン、ヒロトさん! 早く行きましょう」 「おわ! ち、ちょっとユリアさん! 急に袖を引っ張ったりしたりなんかしたら危ないですよ!」 「だいじょうぶです……きゃぁっ!!」 「っ、ぶない!!」  くるりと回る途中でバランスを崩し、ユリアさんの体が階段のほうへと大きく傾く。  ただがむしゃらだった。  ユリアさんが俺の袖を離してしまう前に、俺がその腕をつかんで力の限り引っ張る。  先に言い訳をしておく。  手加減してる余裕もバランスをとる余裕もなんかなかったんだってば。  背中と胸にそれぞれ堅い衝撃とやわらかい衝撃。  いつの間にか目を堅く閉じていたようで、視界は真っ黒になっている。  それでも、自分の腕の中にある暖かい温もりのおかげで、ユリアさんが無事であることだけはわかって安堵した。 「い……つつ……」  ――安堵して。  ――パニックになった。  胸に当たるやわらかく暖かな感触。覆いかぶさる温もり。その原因が一つしかないと理性が告げた瞬間、両目を見開く。  そこにあった光景は、まさしく予想通り。  雪のように白い肌と蜂蜜色の髪が、すぐ目の前にあって、翡翠の瞳がきょとんとかわいらしくこちらの瞳を覗き込んでいた。相手の瞳の中に映る自分の間抜けな表情が見えるくらいの密着状態。  その、奇跡的なのか絶望的なのかよくわからない時間がどれくらいか続いて。 「ふぇ……? あ、あ、あ、ああああああああ……!」 「い、いやあの、これは、だから、ええええと……!」  雪原に朱が指し、翡翠に水滴が浮かぶ。  え、ちょ、だから、いや、そんな、え、俺?  考えがまとまらない。いや、考えがまとまらないことはわかってるんだけど、いやだから、俺はだからその、考えがまとまらないなら考えをまとめないとダメで、だからこの場合考えないといけないことは考えることで、だからえっと、あああああもう! 「ひ、ひあああああああ!!!」  耳まで真っ赤にしたユリアさんが急いで俺の上から飛びのいた。 「あ、あのその、す、すみません、わ、私こんな、その!!」 「い、いや、俺もそんないきなりこんな、その、だから、ごめんなさい!!」  ユリアさんが何を言ってるのかよくわからない。俺も何を言っているのかよくわからない。  そのとき、背後に不気味な気配が突如発生した。ぶわっと全身に鳥肌が立ち、よくない汗がだらだらとまるでナイアガラ。恐る恐る振り向く。  そこには、修羅がいらっしゃった。 「ユウウウゥゥゥキィィィィィ…………ヒロトォォォォ……………………!!!」  あの口は地獄かどこかに直通しているのだろうか。どう考えても人間が出せるような声じゃないと思う。  ああ、さっきとはうって変わって冷静だな俺。多分わかってるからだろうなぁ……。  絶対、逃げられないことが。  ぎしり、ぎしり。  一歩一歩、重く、踏みしめるようにレンさんが近づいてくる。怖い。本気で怖い。 「ユ、ユリアさん! レンさんを止めてください! ユリアさん!?」  しかし、頼みのユリアさんは耳まで真っ赤になって行動不能状態に陥っていた!  こ、これはもうだめか!? 「ユウウウゥゥゥキィィィィィ…………ヒロトォォォォ……………………!!!」 「!?」  もはや悪鬼はすぐ目の前。俺の命は射程範囲に収められた。  その右手がゆっくりとこちらへ向かってくる。俺は絶望とともに、視界に広がっていくレンさんの手のひらをただ呆然と見つめることしかできずに―― 「はいストップ。さすがに学校で人死にはまずいんだよね~」  がっしと、レンさんの肩をつかんでその動きを引き止めたのは、 「まったく、昨日の今日でこんなベタベタなラブコメを展開してくれるとは、やはり君は面白いな、ヒロト君」  口の端を軽く引いて笑顔を浮かべた、乃愛さんだった。

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