4話 D

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 様々な騒動があった初日だったが、ユリアさんもレンさん一週間ほどですっかりクラスに溶け込んだ。  やっぱりたまにずれた発言があったり、妙なことを言い出したりすることはあったが、それをいったらクラスメイトの大半が変人で構成されているわけで。  そしてうちでも共同生活をしていれば、ふたりの性格や特徴も何となくだがつかめてきた。  ユリアさんはまじめで正義感が強く――少しというかかなりというか、浮世離れしたところがある。無邪気にテレビで見たままの知識を実践しようとするところなんかその最たるところだろう。これは彼女の純粋さから出てくるものだと思う。  そう、純粋。彼女の性格を一言で言うのなら、そこに集約されるだろう。  あるときは無垢な子供のように、あるときは凛とした女性のように、その時々の感情を素直に表に出す彼女を見ているのは実に楽しい。もっとも、彼女はそういったところをなるべく隠そうとしているのだが。  レンさんはというと、こちらもまっすぐなのだが、ユリアさんとは少し違う。  彼女の中ではまず第一にユリアさんという存在が中心にあり、自分という存在全てをユリアさんに奉げているかのようだ。レンさんはどちらかといえばメイド服を着ている印象の方が強いし、家でも基本はメイド服だ。それでも、俺が彼女を語るときにはまず『騎士』という言葉を口にするだろう。徹頭徹尾、レンさんはユリアさんの騎士なのだから。  そんなふたりだが、果たしてどんな国から来たのやら。この国の文明というものにてんてこ舞いだ。  ようやく落ち着いてきてはいるが、珍しいものは尽きないらしい。  気がつけば、彼女達がやってきてから二週間の時間が過ぎていた。 「もう、結構経つよなあ……」  夜も更け、街全体が寝静まる時間。そんな時間に、俺は夜の街をぶらついていた。本当にぶらつくだけで、何をするわけでもない。  警察に見つかったら、ちょっと言い訳に困る状況だ。 「警察といえば……」  丁度、近くにあった掲示板を見ると、大きなポスターが張ってあった。 <注意! 刃物を持つメイドに警官が気絶させられるという事件がありました。お出かけの際には十分注意してください>  黄色い背景に黒いメイドのシルエット。猛獣注意かよ。  もはやネタにしか見えないやたらとピンポイントな警告だが事実なんだから仕方がない。目撃者というか当事者なんだもんなぁ、俺。  ちなみに犯人のレンさんは近所の奥様方といつの間にか井戸端ネットワークを築いており、俺に匹敵する収集能力を持つに至っている。やはり侮れない。  ……そういえば、テレビのリモコンの電池が切れてたな。ふと思い出して足を24時間営業のコンビニへ向ける。  電池で思い出したけど、ユリアさんもレンさんも機械に対してとにかく音痴だった。扱い方がわからずに叩いてみたり振ってみたりは当たり前。投げる落すねじる遠くからじっと観察するなどなど、愉快な利用方法を次々に考案した。  かと思えば、一度使い方を覚えたら子供のようにそれに張り付いて離れない。特に2人ともテレビがお気に入りなようで、レンさんは時代劇に目を輝かせていた。  ……そのうち、侍のいるところにつれてけとか言わないだろうな、あの人。  ありえるなぁ、などと考えているうちに、コンビニに着いた。えーっと、乾電池は――うわ、嫌なものを見た。 「あれ、大翔じゃん。こんな時間に何してんだ?」 「貴俊。いや、っつーかそれはお前にも言えることだろ。そっちこそ何してんだよ」  偶然、貴俊と出会ってしまった。ああ、これは今日の運勢は最悪だな。  現在早朝三時。 「なんか今、お前からの熱い愛を感じたんだが。そうだ、今からホテルにでも行かないか?」 「存在しないものを感知している辺り、お前のセンサーは回収必至の不良品だな」  いいこと思いついたみたいな顔をしている貴俊を軽く小突く。それすらもニヤニヤと受け止められる。 「……お前、最近妙に機嫌いいな」 「おう~、何しろ、存分に頭フル回転させてっからなぁ」  その言葉に、以前注意しようと思って結局忘れていたことを思い出す。  そのときはどういう風に注意したものかと思っていたが、今では悩まずとも言葉にすることができると思った。 「そっか。それはまあいいんだけど、ひとつ言っておいていいか?」 「はいはい、マイスイート? なんとなく言いたいことはわかるけど、何かな?」  貴俊がニヤニヤと口をひん曲げて、目を弓のようにゆがめて笑っている。こいつ気をぬいたな、ずっと昔に注意した癖が出てきてるぞ。  その、目の奥で相手を威嚇する癖、いい加減治せ。 「じゃあ、お前の予想の斜め上を狙ってやろうか……俺を騒動に巻き込むのは自由だけど、俺の家族は巻き込むな。以上」  暗闇の奥を睨みつけて言うだけ言って、目的のものを探す。 「ふむ……家族。家族ねぇ……それ、血のつながりをいってんのか?」 「それじゃあ美優はどうなる。あいつを勝手にうちの一家から外すなよ」 「んじゃあ、苗字が一緒、とかか?」 「乃愛さんにはさんざんお世話になってるんだけどな。ガキの頃から、ずっと」  乾電池は……あれ、単何だったっけ? まあ単三でいいだろ  それと眠くなる食べ物ってないかな。 「大翔」 「ん、何」  振り返ると。  貴俊が、心底面白いことを見つけたといわんばかりに笑ってた。そうそう、こんな顔だ。  野獣さえ恐怖に慄く、それは暗闇の奥で牙をむき出しにして嗤う魔獣の瞳。普段見せる物とは明らかに種類の違う、異質な深い笑み。この男が心底愉快を覚えたときにのみ浮かべる、黒い笑み。 「了解だ。俺はお前の願いならなーんでも聞くぜ。お前がそういうのなら、お前の家族にゃ手はださねぇよ」  くかっ。  例えようのない声を喉の奥から漏らして、表現しがたい笑顔が浮かんだ。こいつが何を企んでいたのかはわからないが、それがろくでもない物であったことだけは予想できる。  人懐こいふりをしながら牙を研ぐ獣の調教師にでもなった気分。 「そうしてくれ。最近、美羽が妙に忙しそうでな。あんまり手を煩わせるのもアレだろ。ユリアさんとレンさんは、学校にいるときもずっと何か探してるみたいだし」  確かに、2人とも純粋に学園生活を楽しんでいる。でもそれだけじゃない。そういうことだ。  学園初日、なぜユリアさんが俺が目覚めてすぐに保健室に来たのか訊ねたところ、帰ってきたのはこういう答えだった。 『学園のあちこちに風を置いてあるんです。その風は、私の元へ声を運んでくれます。風がヒロトさんの目覚めを教えてくれたんですよ』  つまり、俺を心配して用意した物ではなく、常に学園全体を見張っているということだ。彼女の便利な魔法は、この学園全体を監視している。  さて。そんなことをして何が目的なのか。学園長に会ったと言っているしユリアさんの性格からしても、何か悪事を働いているということはないだろう。  様子からしてわかっていることは、ユリアさんとレンさんの事情を美羽が手伝っているって事ぐらいか。あのお節介め。人には簡単に手を差し伸べるくせに、自分が他人の手を借りるのは嫌いなんだよな。だから俺や美優には何も話していないんだろう。 「けどなぁ大翔。俺はガンガン関わってくぜ。楽しそうだからな、お前らは」 「……俺もかよ」  心労がかさみそうな言葉に自然とため息が漏れる。それでも何か騒ぎを起こされるよりはましだと割り切る。 「ん? おいおい、勘違いするなよ。俺の愛をちゃんと受け取ってるか? 俺はお前らって言ったんだぜ。お前が中心なんだよ」 「お前のその考えには賛同しかねるな。今回に関してはどう考えても中心はユリアさん達だろ」 「どうかねぇ……お前は才能があるからな。厄介ごとに巻き込まれる、いや、厄介ごとを巻き込む、才能が」  絶対欲しくないな、その才能。大体、厄介ごとを引き連れて歩いているような人間が何を言ってるんだか。  買うものを買ってコンビニを出る。結局、買ったのは乾電池のみだった。 「んじゃ、俺はそろそろ帰るぜ」 「俺もそろそろ帰る。ていうか結局お前は何をしてたんだ」 「ふっ、お前と俺の愛が俺をここに呼び込んだ――冗談だ、冗談だからそんな睨むなって。偶々だよ。ちょっと散歩してただけ。そういうお前はどうなんだ?」 「同じだな。俺も、ちょっと散歩してただけだ」  実際は、ちょっとという時間を大幅に超えていたりするわけだが。 「へぇ、まさしく運命だな。俺達の愛は世界すらも動かすってことだ」 「……正直、お前のその妄想力と美優の妄想力、どっちが上なのか興味が出てきたよ」 「俺に興味が出てきたか! じゃあ、ホテル行こうぜホテル! なんなら、その辺の公園だっていいぜ! 俺いいスポット知ってんだ!!」 「さっさと家に帰るかあるいは土に還れこの変態野郎!!」  足元に転がってた小石をぶん投げる。ひょいとそれをかわすと、貴俊は明らかに近所迷惑な大声で笑いながら走って夜の闇に消えていった。  ……なんて気持ちの悪い奴だろう。  それから三十分ほど外を散歩して帰宅した。冷たい布団に入るものの、結局今夜も寝付けなかった。  今日は珍しく弁当なんぞを作ってみた。結局寝付けなかったので、手の込んだ弁当を作ってみた次第だ。  俺と美羽と美優、そしてレンさんとユリアさん。最低でも5人で食べるわけだから、かなりの量になる。さらにそこに貴俊や陽菜が入る可能性も考えると……足りるか、重箱ひとつで? 2つくらい用意しといたほうがいいような気になってきたぞ。 「……作るのはいいんだけど正直持ち運びが面倒なんだよな」  ごめんなさい、無精者で。  そもそも俺って別に働き者じゃないんだよ。特に掃除なんかは美羽や美優がやってたりするし。ああでもここ最近美羽が学校から帰ってくるのが遅かったりするおかげで家の中結構汚れてきたな。 「まあ、片付けは帰ってからでいいか。……昨日も一昨日も同じこと考えてた気がするが」  愚痴っても仕方ない。やることやらないと後で困るのは自分だしな。  そんなことを考えていると、上がなにやら騒がしくなってきた。あの足音は、美羽か? 朝から何騒いでるんだ?  2階のあちこちの部屋を行き来した後、階段を転げ落ちるような速さで降りてきてリビングの扉を騒々しく開くと、開口一番。 「あぁっ!? 嘘、遅刻!?」 「朝っぱらからいい度胸だテメェそこに直れ!」  人の顔を見るなりいきなりの失礼発言。お兄ちゃん怒ってもいいかな?  美羽は美羽で朝っぱらから血圧の高そうな顔をしている。何をそんなに興奮してるんだ。 「あれ、時間いつもどおりだ……え? 兄貴、ちょっと、何やってんのよこんな時間に起きるなんて……っ!?」 「だからそういう怖ろしいものを見るような目をするな! ガタガタ震えるな!」 「だって兄貴がこんな時間に起きてるなんておかしいじゃない! どう考えても変だよ!? ねえ、何か嫌なことでもあったの?」  美羽が本気で心配してくれてるのがわかる。人に心配されることがここまで腹立つのは初めての経験だ。  続いて、とたとたとた……ひょこ、と顔を出したのは、美優。 「……お姉ちゃん……どうした……のっ!? あ、あれ? ワタシ、遅刻しちゃった……?」 「さすが姉妹似たような反応をありがとうなちくしょうめっ!!」  弁当ひっくり返していいかなぁっ!?  美優だって俺と同じくらいの時間に出ることのほうが多いくせに。 「みなさん、どうしたんです……か…………ひ、ヒロトさん……?」 「姫様、そんなところで固まっていったい何が……ヒロト殿!?」 「あんたらもか、あんたらもなんだなっ? なんかそれだけで俺に対する認識がわかろうってもんだぞ!?」  最近確かによく朝寝坊してたけどさぁっ! 美羽とか美優は知ってるだろ、俺が本来そんなに寝坊しないの! 妙に寝起きが悪いの、ここ最近じゃんかよ……。って、今日は単に寝てないだけだから別に早起きってワケでもないか。 「あのなぁ……人が朝から台所に立ってるのがそんなに変か?」 「変と言うか気持ち悪いのよ。ていうか何してんの、兄貴?」  美羽はいまだに困惑している様子だ。それでもストレートな意見ありがとうね、ちっとも嬉しくないよ。 「弁当作ってたんですー。つか、そんな扱いするんならもう弁当作るのやめるぞ」  実はもう完成しているわけだが。 「お、お兄ちゃんのお弁当……? た、食べるよ、ワタシ食べる!」 「兄貴が弁当作ったの? 珍しいなぁ、それにしても何でいきなり?」 「作りたくなったから作ってるだけだよ。別にいいだろ、理由なんか」  まさか、夜眠れないから、などと言うわけにもいかない。作りたくなったのは嘘じゃないから騙していることにもならない。 「それにしても、これだけの量を作るのは大変だったんじゃないですか? かなりの量ですよ、これ」 「や、時間だけはあったから、へーきへーき」  俺は勤めて軽い様子を装って答えた。 「…………」  しかしユリアさんは、真剣な表情で俺の目を覗き込む。 「ヒロトさん、ちょっと、いいですか?」 「へ? って、と、ち、ちょっと?」  返事をする前に手をつかまれて引っ張られる。見送る三人の視線を背中に受けながら、俺はユリアさんの部屋に強引に連行された。  腕を引かれて床に座る。何故か正座になっていた。あれ、怒られるの、俺? 「えっと、少し聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」 「ああ、うん、大丈夫だけど……」  とか言いつつ緊張してる自分を意識する。……考えたら、ユリアさんの部屋に入るの初めてだ。さすがに女の子の部屋ということで掃除は全てレンさんや美羽、美優に任せっきりなのだ。じろじろ見たら悪いだろうなーとか思いながら、ついつい視線が室内に向いてしまう。 「……ヒロトさん」 「うわぃっ!!」  しまった油断した! お、怒られる!?  ん? なんか、ユリアさんの様子が少しおかしい? この様子は、どこかで見たことがある。そう、これはあの時と――俺の前で初めて魔法を使ったときと、同じ。  不安と覚悟が同居している。 「その……私たちが来てから、体の調子がおかしかったりすることとか、ありませんか?」 「ないよ」  気づいた時にはすでに口が動きを終えていた。嘘をつこう、なんて考える暇もなかった。思わずという言葉すら、この場合には当てはまらないかもだろう。  あまりの反応の速さにユリアさんが虚を突かれて唖然としている。ていうか、言った俺がそもそも驚いていた。  ……ここで会話を途切れさせるのは、よくないか。打算から口を開いた。 「どうしてそう思うの?」 「あ……その、以前、レンが夜中にヒロトさんと公園で訓練したという話を聞いたんです。……それで、実は昨晩と四日前、夜中に目が覚めたときにヒロトさんが出かけるのが見えたので、もしかしたら眠れないのかな、と思ったんです」  ん? 見られてたんだ。  ていうか、それは単に寝付けないだけで体調不良といえないような……ああ、不眠症か? それはそれで体の調子がおかしいといえるのか。 「んー、それは単に寝付けなかっただけなんだけど。別に体調が特に悪いとか、そういうのはないよ」 「っ。じ、じゃあ、妙に胸騒ぎがしたり、感覚が鋭敏になったりとかいうことはないですか?」  少し考える。簡単にNOを返すこともできるけど、ユリアさんの真剣な様子を見て、それをすることはできない。  ここしばらくの自分の様子を思い返す。ユリアさんは昨晩と四日前といったが――実際はほぼ毎日出歩いている。さて、それはすでに習慣と考えていいのではないだろうか。問題ないように俺は考える。  結論。 「多分、ないと思うよ。……何か、気になることでも?」 「その……ほら、私たちの魔法って独特じゃないですかっ。そ、それで、そのせいでもし、ヒロトさんに何かの影響が、出てるかもしれませんし……」  ユリアさんは必死に言葉を選んでいる様子だった。  何を、そんなに心配しているんだろうか。そもそも、他人の魔法のせいで体調不良を起こすなんて、聞いたことがない。いくら独特の魔法を持っているからってそんなことが起こるんだろうか?  彼女の指摘は的を外している……否、的を得ることを意図的に外しながらの質問に聞こえる。  これが彼女の美点であると同時に、貴俊を惹きつけてやまなかった恐ろしさ。  彼女は、あまりにも純粋に嘘をつく。それが必要であるのならば、迷う事無く、悪意なく、まさしく正義を体現するかのように。それでいて彼女の行いを悪と断ずることができないのはひとえに彼女の善性によるものだと思う。 「大丈夫だよ。別に夜に眠れなくなるのは、初めての事じゃないから。ま、ユリアさん達が来てちょっと緊張してるんだと思うよ」  仮に魔法の影響だというのなら、俺だけに影響が出ているというのはおかしいだろう。間違いなく、うちのなかで一番神経が図太いのに。 「あう……やっぱり、迷惑ですか?」 「ぜんぜんそんな事ないよ。っつーか、むしろ来てくれて楽しくなったくらいだから」 「そうですか。それは、その、なんていうか……ありがとう、ございます」  はにかむユリアさんを見て、心臓が大きく跳ねた。だから、そういう、無防備な顔は、やめてってば……。 「えへへへへ……」 「あ、あはははは……」  2人顔を見合わせて笑いあう。明らかな愛想笑いは、基本的に長続きしない。 「……………………」 「……………………」  妙に居心地の悪い沈黙が流れる。お互いにどこか視線を合わせるのをためらいながら、相手の様子を伺っている気配がする。  ……こういう場合、どういう風に動くのが正解ですかっ!?  なんだこう、この、妙な空気は……ユリアさんは、どんな様子――っ!  目があった。こっちをチラ見していたユリアさんが目を見開いて、同じタイミングで顔をそらす。耳まで赤くなっていくのがわかる。多分、ユリアさんも同じだろう。  ど、どうしたらいいんだぁっ!?  そのとき、救いの手が差し伸べられた。こんこん、と扉がノックされる。 レン『お二人とも、そろそろ、時間が押してきましたが……』 「ひゃぁっ! れ、レン!! わ、わわわ、わかったから! すぐ行くから……きゃっ!?」 「うぉわっ!?」  突然のレンさんの登場にフリーズ解除されたユリアさんは、焦って立ち上がろうとしてしまってバランスを崩してしまった。俺もレンさんの声に注意が向いていたせいで、反応するのが遅れてしまった。結果、 「………………」 「………………」  倒れこんできたユリアさんを、俺が抱きとめるカタチになっていた。  ユリアさんの体は柔らかくて、暖かくて、髪からほのかにいい香りが漂っている。すっぽりと腕の中に体をおさめて、しなだれるかかるようになったユリアさんと目が合う。  先ほどから赤かった肌は、もはや気の毒なくらいに真っ赤に染まっている。着した胸のやわらかさと、その奥の心臓の鼓動が俺の理性をかき乱していた。すぐ目の前には柔らかくみずみずしいくちびるか吐息が漏れるたび、脳みそがとろけるような錯覚に全身が打ち震える。 「…………………………」 「…………………………」  突然の事態に完全に動きを止めた俺達は、 「姫様?」  がちゃり、とドアを開けてレンさんがはいてくると同時にずざーっ! と部屋の端と端にまで飛びのいていた。 「ぐあっ!?」  飛びのきすぎて壁に頭をぶつけた。ユリアさんは、飛びのく途中でひっくり返っていた。 「……お二人とも、何をなさっているので?」 「いや、これは、その…………あ、あははははっ! そ、それじゃあ俺、弁当の仕上げしてくるんで!!」 「あ、はい! お昼、楽しみにしていますねっ!!」 「????????」  明らかに挙動不審な俺達に、レンさんは疑問符を浮かべていた。が、俺は一刻も早くこの場を離れないといけない。じゃないと、なんか気分がおかしいっていうか、なんだよさっきまでのピンクな俺はあぁぁぁぁ!!!  その後、洗面所で頭から冷水をぶっ掛けても、なかなか顔の火照りは消えてくれなかった。  うう……ユリアさんと顔があわせ辛い…………。  昼休み。  四段の重箱という昼飯にあるまじき巨大弁当を持参した俺は、周囲の視線を集めつつ午前の授業を終え、屋上に弁当を広げていた。  美羽はなにやら忙しいということで、少しおかずを食べただけでさっさと行ってしまった。ユリアさんたちと何か話していたが、その内容までは聞こえなかった。  そんなわけで、今ここにいるのは俺、美優、ユリアさん、レンさん、貴俊、陽菜に加え、なぜか沙良先生が加わっていた。ちなみに、沙良先生は弁当持参。なぜ呼んでもいない人がここにいるんですか、先生? 「いや、噂の結城兄の激ウマランチが食えるいう話やったからな。顔出して見たんや。それにしても、ホンマにうまいなあ、アンタの飯」 「誰ですか、そんなわけのわからん情報を垂れ流してる人は……」 「乃愛やけど?」 「あの人は……」  ちなみに、乃愛先生には以前の反省を生かして小さい弁当箱に別につめて持ってきて先に渡しておいたた。まあ、アレだけ喜んでもらえたらこっちも嬉しいが……。 「職員朝礼でいきなり自慢するもんやから、どんだけのもんか気になってな」 「あの人はっ……!」  何つーことをしてくれてるんすか……。 「でも、お兄ちゃんの料理、おいしいから……」 「ほめてくれるのは嬉しいが、あまり理由になってないぞ、それ……」 「だが実際、お前の料理がうまいのは事実だ。うん、これで俺の将来の食事の心配はないわけだな」 「そういうわけのわからん未来予想図を描く暇があるのならさっさとここから飛び落ちろ」  貴俊はばくばくと勢い良く弁当を平らげていく。特に唐揚げが気に入ったらしい。ていうかさっきから肉ばかり食べてないで、もっと野菜を食え。 「しかし、この弁当には工夫がこもっているな。どれも長時間の保存と味の変化を考慮したものになっている」  レンさんは相変わらず、俺の料理の分析に余念がない。お互い、妙なライバル意識が生まれている気がする。  しかしながらそれは俺の工夫というより先人の工夫といったほうが正しいんだけどね。 「ううう……お弁当の味付けはこっちはこっちで凄くおいしい……! うだー! 陽菜の勝てる要素がいったいどこにっ!?」  陽菜は相変わらず良くわからないことを吼えていた。食事中に大口を開けないの。  そして、ユリアさんは……。 「…………(チラッ)」 「……………………」 「(もぐもぐもぐもぐ)…………(チラッ)」  あまり会話に参加せず黙々と食べ続けている。ただ、時々伺うようにこちらをちらちら見ているけど。  ていうか。あの。  すんごい、気まずいの。どうしよ、この状況。 「あのー、ヒロ君? なーんかユリアちゃんの様子がおかしくないっかな? なんかあったの?」 「え? いや、何も……いや、あったかもだけど。いやしかしそれはだな」 「あ、わかっちゃたよ! アレでしょ、ヒロ君がユリアちゃんを怒らせちゃったんでしょ? もー、ダメだよヒロ君」  こら。なんでそんな結論にいきなり至るのか。  ていうか、周りの連中もそれに同意するよう顔をしないの。  別に怒らせるようなことなんか……あれ、もしかして怒ってるのかな、今朝のあれ。俺はあれは役得――。 「ヒロ君、ど、どうしたの? いきなりコンクリに頭突きしちゃってっ!?」 「ちょっと雑念を追い払っていたところだ」  煩悩退散煩悩退散! 色即是空色即是空!!  そんな俺をどこか呆れた様子で見ていた陽菜。 「仕方ないなぁヒロ君は! ここはこの陽菜ちゃんが、ふたりの仲直りのお手伝いをしちゃってあげるんだから!! おーい、ユリアちゃーん」 「おーい、陽菜さーん。そろそろその勘違いをやめちゃってくれませんかー?」  けど陽菜は聞かないやめないとまらない。  陽菜の言葉に、ユリアさんは顔を上げる。陽菜は何もいわずにユリアさんの手を引いて、俺の目の前に引っ張ってきた――っておいおいおいおい。 「ほら、ユリアちゃん、座って座って」 「え、あの、でもその私は……」 「もう、だめだよ、喧嘩しちゃあ。ふたりとも仲良くしないとねっ!」  そういって、陽菜はギャラリーに戻る。  ねえ、何その投げっぱなし解決策。あとは俺達でどうにかしろって、無責任にも程がありませんか?  俺とユリアさんは困って顔を見合わせる。そもそも、喧嘩なんかしてないんだけどなぁ……ユリアさんも同じ考えなのか、苦笑を浮かべていた。ああよかった、怒っていない。必要以上に安堵してしまった。  でもこれでようやくまともに顔を合わせられたんだし、そこのところは陽菜に感謝しよう。 「ええと……今から、何をすればいいんでしょうか?」 「まあとりあえず、仲がいいことを証明すればいいんじゃない?」  普通に会話するとか、どうやって証明すればいいのかいまいちわからないけど。さて、どうやって陽菜たちを納得させるべきか……ん? なにやら、ユリアさんが真剣な表情で考え込んでいる。と、おもむろに卵焼きを取り、箸をこちらに差し出してきた。左手は添えるように差し出され、ユリアさんは期待に満ちたまなざしで俺を見ている。  まあ、なんつーか。  いわゆる『あーん』のポーズだった。  …………あの。 「ユリアさん? あの、なんでしょう、コレは……」 「昨日、テレビでやっていたんです。仲のよい男女は、このようにして相手に食事を食べさせ合うのだといっていました」  違っ! それ、仲いいの意味が違っ!? その場合の仲の良い男女は行き着くところまでいった男女だ!  嫌な予感がしてちらりと横を見てみるとそれぞれがそれぞれの表情を浮かべていた。  美優は夢見る乙女のような妙にきらきらした顔で。  貴俊は愉快な見世物を見るような、にやけた顔で。  レンさんは珍しいものを見るような、驚いた顔で。  陽菜は衝撃に身を打ち震わせて、愕然とした顔で。  沙良先生はいかにも『若いってええなぁ』な顔で。  要するに全員割と他人事っぽい扱いで。 「さ、ヒロトさん」 「いや」 「ささ、ヒロトさん」 「あのですね」 「さささ、ヒロトさん」 「ユリアさん?」  ぜんぜん聞いちゃいない。多分、テレビでやってたことをそのままやるのが楽しいんだろう……うう、なんだ、この針の筵。ていうか、屋上にいるのは俺達だけじゃないんだ。屋上の視線を独占していますよっ!?  仕方なしに、ユリアさんの差し出してくれた卵焼きにぱくりとかぶりついた。ユリアさんは実に楽しそう。何で俺1人、こんな恥ずかしがってなきゃいけないんだ……そう思うと段々ふてぶてしさのようなものが自分のなかに生まれてきた。 「うわあぁぁぁっ! し、しまったぁぁぁっ!!」  ようやく陽菜が動き出した。頭を抱えてのけぞる。悪かったな、俺があーんしてもらうのがそんなに衝撃的な光景で。  ユリアさんはやたらと満足そうな顔で―― 「あー」 「…………」  小鳥のように口を開く。  明らかに待っている。俺が『あーん』をするのをひたすらに待っていらっしゃる!  再び横を見れば、先ほどの表情をさらに深くした連中がこちらを見ていた。逃げ場はどこにもない。  どうやら、ここからが本当の地獄らしい。  結局、その後は俺とユリアさんによるあーん合戦を鑑賞しながら飯を食う会になっていた。  飯を食い終わっても、美優は妄想をひたすらに広げていていまだに帰ってこないし貴俊は腹を抱えて笑い転げていた。沙良先生は大福のぬいぐるみを座布団にして爪楊枝を咥え、陽菜は叫びすぎて息切れしていた。 「はぁ……ユリアさん、楽しそうですね」 「はい! 実は、てれびで『あーん』を見たときから、やってみたかったんです」 「いや、まあいいけどね……満足した?」 「はいっ!」  元気に答えるユリアさんに苦笑して、美優にするようになんとなくその頭を軽くなでる。ユリアさんは気持ちよさそうに目を細めた。  と、そのとき、 「まてぇぇぇぇい!!!!」  屋上全体に響き渡るほどの大音声。  なんだ、今の声は?  声のしたほうを振り返ると、そいつは屋上の入り口の上のさらに上、貯水タンクの上に立っていた。  青い長髪を風になびかせ、口に真っ赤なバラを咥えたそいつは、青空を背景にこれでもかといわんばかりに変なポーズをとっていた。  突然の驚きに支配された屋上。だが、その姿を見たものはひとり、またひとりと、 「ぶっ」「ぷ、くくく……」「くすくす」  笑いに沈んでいく。  なんという破壊力……出オチでアレだけの笑いを取るなんて、あいつはもしや次世代を担う芸人か!? 「おい、そこの貴様!」  変人が、へんなポーズのまま口を開く。顔が真面目なだけに余計に面白さが増してしまっている。 「こら、何を笑っている!? お前だといっているのだ、そこの庶民!!」  先ほどから変人は何者かに対して呼びかけている。誰だろう? 俺にはさっぱりわからない。 「ええい、きょろきょろと周りを見回している貴様だ! 庶民、それはわざとではなかろうね!?」  ……いや、気づいてたよ? だってあいつ、最初からずっと俺のほうをじぃっと見てるし。いやだなぁ……関わりあいたくないなぁ。  俺が反応するのを渋っていると、美優がくいくいと袖を引いてきた。 「ん、どした?」 「お兄ちゃん……あの人、なんか怖い……」 「……まあ、確かに、アレだけ敵意満々で見られたらなぁ。けど、あいつが見てるのは俺だから、美優は少し離れとけ」  そう微笑みかけると、 「……………………」  ぎゅ。袖をにぎる力に力がこもる。逃げない、と目が言っていた。  どうやら、逆効果だったらしい。苦笑を浮かべて、変人を見る。さて、あの変人がどういう目的で俺に声をかけたのかはわからないけど、美優に悪影響を残さないようにしないと。 「ふ……どうやらようやく自分の事だと理解したようだな庶民」 「っつーかさっきから庶民庶民うるさいぞ。お前に名乗る名前はないけど庶民はやめろ」 「ふん、ボクも君の名前なんか知りたくもないがね! だが、庶民ごときにお前と呼ばれるのを無視するわけにもいかない。特別にボクの名前を教えてやろう。心して聞くがいい! このボクこそが次期サフィール家当主――」 「おいおい、なんかあいつ俺以上に目立ってるんだが、もしかして愛の試練か、新たなる宿敵の登場か、第二シーズンかっ!?」 「お前が何を言っているのか俺にはもう理解できねぇよ……大体新たなる宿敵って、じゃあ過去の宿敵って誰だよ」 「そこはほら、実は俺たちの愛の力でたおしたという裏設定をがだな」 「設定って何だ! 空恐ろしいことを口走るんじゃない!!」 「ねえ、あのポーズって何かの流行なの?」 「えー、あんなダッサいポーズが? ちょおセンス悪くない?」 「こんな感じか、あのポーズ? あ、もうちょっと右手を上げる感じか?」 「なあ、次の授業の課題終わってないんだけど、教えてくれない?」 ざわ……    ざわ…… ざわ……    ざわ……  誰ひとりとして変人の言葉を真面目に聞いちゃいなかった。ここまで無視されるとさすがに哀れに見えてくる。 「え、ええい! こらお前達、このボクの名前を知りたいとは思わないのか!? くそっ、これだから庶民は……!!」  だむだむとタンクを踏みつける変人。美形の地団駄はギャップがあってなかなかコミカルだった。 「お兄ちゃん……あの人、なんか可哀そう……」 「優しいなぁ美優。けど、アレはほっとこう。なんか関わっちゃいけない空気が駄々漏れだ」 「う……うん…………」  とりあえず今のうちに逃げようと、ユリアさんとレンさんに声をかけようとする。が、2人は揃ってぽかーんと変人を見ていた。  どうしたんだ? 「エーデルさん!?」 「サフィール殿!?」  ふたりの声が重なるが、口に出した言葉は違うものだった。つまり……さっき次期当主だとかなんとか言ってたから、エーデルが名前で、サフィールが苗字、か? 「ふっ、お久しゅうございます。姫、ミス・ロバイン」 「なぜ、あなたがこちらにいるのですか!? サフィール家嫡男ともあろう、あなたが!」 「それを仰るのであれば、王族であるあなたがここにいることがまず問題となりましょう」  エーデルとかいう男の言葉に、ユリアさんが言葉を詰まらせる。なんだ、この状況は?  様子からして、どうやらこの3人は知り合いらしい。同じ国の出身だろうか? 「ボクがここへ来たの理由はただひとつ……あなたに愛をささやくためですっ」  エーデルは懐からバラの花束を取り出し、空中へ振りまいた。その姿を見た屋上にいた生徒の心がひとつになる。 『バ、バカだー! バカが出たぞーっ!?』  ひらひらと舞い落ちるバラの花びらをバカが伝染るといわんばかりに避ける生徒達。俺もなるべく触れたくないのだが、何しろ野郎の目標であるユリアさんのすぐそばにいるため、降ってくる量も他の場所とは段違いにおおい。とりあえず、美優があんなのに触れないように保護する。 「お兄ちゃん……人としての大切な何かを全力で踏み越えてるよ、あの人…………!?」 「とりあえず、そういうことは思っても口に出さないように」  こくんとうなずく美優の頭をなでる。なんかこいつ、たまに無意識的に強烈な毒吐くよな……。 「愛ですか。愛はいいものですね、父もよく言っています。でも、ささやいていては周りの方に聞こえませんよ?」 「……姫様、おそらくサフィール殿はもう少し別の意味で愛をささやくと言っておられるのだと思われますが」  ……なんか、この3人の関係が一気に見えてきた気がする。つまりあれか、あの見るからにお坊ちゃまな奴はユリアさんが好きで、ユリアさんはそれに気づかなくて、レンさんはそれを見ている、と。  とことん報われないな、あのエーデルって奴は。 「えーっと、結局あいつはなんなんだ、ユリアさん?」 「彼は私の国の最有力貴族、サフィール家の次期当主のエーデルさんです。愉快な方なんですよ」  愉快、ねぇ。まあ確かに愉快な脳みそを持っているようではあるが。 「はぁ……で、なんでそいつがいきなりここへ?」 「サフィール殿は姫様の行く先にはどこにでもついて来られるからな。だが、まさかここまでついてくるとは予想外だったが……それにしても、どうやってこちらへ……」  ぶつぶつと呟くレンさん。どうやっても何も、飛行機でも使えば簡単にこられると思うんだが。それとも、何か別に理由があるんだろうか? 「おいこら! そこの庶民! ボクの姫になれなれしく話しかけるんじゃない!!」 「おいこら! そこの変態! 俺のスウィートに乱暴な口きいてんじゃねぇぞ!!」 「貴俊お前は状況をさらに混乱させるだけだから何もしゃべるな」  どうやって収拾つけるんだよ、この状況。とりあえず、ユリアさんに頼むしかないか。 「ユリアさん、ちょっといいですか……」 「はい、なんですか?」  ユリアさんの手を引く。とりあえず、いったん落ち着ける場所を探して話し合ったほうがよさそうだ。何を話し合うのかも良くわからないけど、このまま放置するよりはましだろう。  そう、思ったのだが。 「だ・か・ら……! ボクの姫になれなれしくするなといっているのだ、庶民!!」 「!?」 「え?」  ざぁっ、と全身に悪寒が走る。振り返ると、エーデルはへんなポーズのまま全身に淡い光をまとっていた。 「一度痛い目を見なければわからないらしいな、庶民! 水よ、我が意に従い牙をむけ、大いなる力を知らしめよ!!」  その言葉が終わると同時、貯水タンクが震え、弾け飛た。だが、水は散る事無く、渦巻き、荒れ狂い、蛇を形作る。エーデルはその水蛇の頭に飛び乗る。 「エーデルさん!?」 「さあ、庶民! ボクの力の前にひれ伏すがいい!! みっともなく命乞いをすれば、この場は見逃してやろう!」  己の力を誇示し、エーデルが高らかに宣言する。強大な魔法を駆使し、己の力を見せつけ傲慢に他者を見下す。ひれ伏せ、従え、畏れよ、敬え。己に逆らうものを許さず、認めず、意のままにならないことを拒絶する。  ――むかついた。酷い吐き気を覚えた。 「おい、アホ王子」 「おにい……ひっ!?」  美優が息を呑み、怯えからか半歩退いた。けど、フォローは後回しだ。今は、あいつへの苛立ちが意識の大半を占めていた。 「てめえ、周りよく見ろよ。どれだけの人間がいると思ってんだ? こんなところでそんな大掛かりな魔法使って、誰か怪我したらどうすんだ」 「ふん。そのような瑣末事に関わっていられるほど、僕は暇人ではない」 「……よくわかった。とりあえず、お前はむかつく。ぶっ飛ばすから覚悟しろよ」 「庶民が……このボクに楯突いたこと、痛みの中で後悔するがいい!!」  水蛇が体を大きくしならせ、牙をむいて突進する。その速度はすさまじい。あの巨体と勢いに正面からぶつかり合えば、こちらの身は持たないだろう。ならば、狙うのは蛇の頭に立つ奴だけ。ギリギリまでひきつければ、相打ち覚悟でどうにか一撃を―― 「――お兄ちゃん」 「――――――」  叩きつける水の音がやかましく響く中、さびしげな声が嫌に大きく耳に届いた。  その声が、苛立つ心をなだめ、冷静な思考を呼び戻した。  あー。だめだ。それダメ。相打ちとかね、俺のキャラじゃねーわ。熱くなりすぎ。頭冷やせ、俺。こんな奴相手にするために、家族泣かせたら馬鹿だろ。俺は確かに馬鹿だけど、こんなどうでもいい状況で平気で馬鹿をできるほど人間終わってないつもりだ。  ため息と共に、不要な怒りと熱を外へと吐き出す。 「美優、貴俊。悪いけど頼んでいいか。情けないけど、俺じゃ魔法がうまく出るかどうかわかんないし、魔法抜きじゃあいつをうまく止められる自信がない」 「うん――平気」 「頼まれたならしかたねぇ! 俺もあいつをぶん殴ってやりたかったしな!」  袖をにぎっていた美優の手をぎゅっとにぎりかえす。貴俊は獰猛な表情で、俺の横に並んで立った。 「庶民が揃って……このボクを止められるかな!?」  蛇は大きく口を開き牙を剥く。轟音と共に迫り来るそれを迎え撃たんと三人が身構えた瞬間、 「もうええて。あんた退場や」  暢気な声の持ち主が軽い動作と共に俺達の前に立つ。それを障害とも思わなかったのか、水蛇はうねりその人影を飲み込む。 「な……? い、いったい何をした!?」  飲み込まれた人影――沙良先生は閉じかけた口の中、蛇の牙にちょんと触れてその動きを止めていた。先ほどまで氾濫した川のように荒れ狂っていた水蛇がそれだけで氷のように動きを止めてしまった。 「何でもええやろ。ていうかな、アンタ、この学校でウチの世話になる人間をほいほい量産しようとか考えたらあかんよ。はっきり言って迷惑や。そういうオイタは、ウチの『流理』に負けん位の力をつけてからやるべきやな」  沙良先生はいつもの調子で、くるくると余った白衣の袖を回す。すると、しゅるしゅると水蛇が形を崩し、貯水タンクのあった場所に渦を巻いた。 「なぁっ!?」 「そんで、アンタにはお仕置きが必要やな……ウチの庭で勝手なことしたら、ただじゃおかんで。なあ、ましゅまろ」  呼びかけに応えるように、白衣の下からあの大福のぬいぐるみが現れた。ぽんぽんと跳ねるそいつは、 「ぶごふっ!?」  全力でエーデルの顔面に突っ込んだ。どれほどの勢いだったのか、大きくのけぞるエーデル。 「ああ、それからな……ウチの学園は関係者以外立ち入り禁止や。てかそれ以前に――ウチの生徒に手ェ出してんじゃねえよ、カスが」  一瞬、地を震わすような低い声が響いた。  先生は一瞬小さく膝を曲げる。次の瞬間、その姿が消え白い軌跡のみをかろうじて追う事しかできなかった。  白い軌跡がまっすぐにエーデルに伸び、くるりと円を描く。 「ちぃぇすとぉぉっ!!」 「ごふぁっ!?」  俺たちが見たのは、見事な後ろ回し蹴りを放つ先生。その蹴りを食らったエーデルは床と平行にしばらく飛行し、そのまま墜落、床の上を滑ってフェンスをゆがめんばかりに激突しようやく止まった。そのままピクリとも身動きしない。いや、よく見ると細かく痙攣している。  どう見ても重傷ですけど、先生……アンタさっき、自分の世話になる人間をだすなって言ってませんでしたっけ?  先生はエーデルを大福に乗せてひきずりながら、そのまま屋上を出て行こうとする。 「ああ、せや。水はウチの力でしばらくこのままにしとくけど、この中に修復系か復元系の能力の子はおるか?」  先生の言葉に、数人の生徒が軍隊のようにまっすぐと手を上げる。どこからどうみても怯えていた。かくいう俺たちも、ちょっと引いてた。 「ああ、せやったらアンタらちょっとタンク直したってな。ウチはこいつを学長のタヌキんとこにもってかないかんさかい。じゃあ、後よろしく頼むわ」  そういって、沙良先生は屋上を去っていった。一連の出来事に呆然としていた俺達は、やがて屋上の片付けに取り掛かる。といっても、タンクの破片を拾ったりするだけだが。  それにしても……。 「美優、魔法の発動随分早くなったな」 「練習、してるから……」  俺はいつの間にかそこに存在していた姿見サイズの鏡を見た。指でピンと弾くと、それはさらさらと光になって消えていく。  美優は学園に入ってから確実に魔法の力を高めている。それは、あの努力家の美羽にもいえることだろう。それに比べ…… 「あー、なんか情けねーな、俺……さすがにちょっと凹みそうだ。魔法が使えねーのもそうだけど、熱くなって美優の事頭になくなったりとか」  あのまま相打ち覚悟でやっていたら、もしかしたら美優も巻き込んでいたかもしれない。最初に冷静になろうって思ったくせに、ちょっと気に食わないことを言われたからって熱くなったのは、なんていうか、情けない。 「でもあの人、酷い事言ったから……お兄ちゃんは、悪くないよ」 「ありがとな、美優。けどやっぱ、俺がもっとしっかりしてりゃなって思うよ、俺は」 「なーに、俺とお前の愛があればどんな困難も打ち砕く! それが、愛の力って奴だぜ」 「お前はいいから……。ユリアさん? どうかしたの?」 ユリアさんは、沙良先生が出て行った扉をじっと見ていた。 「いえ……多分、平気です」 「姫様……」  ユリアさんとレンさんは深刻な表情で空を見上げた。俺もつられて空を見上げる。  空は、気持ちいいくらいに突き抜けるくらいに、ただ、青く深く広がっていた。  これが、俺とエーデル・サフィールとの出会いだった。  お互いの最初の印象は、最悪。互いに互いを嫌いあう、そんな間柄となった。  そんな奴が、俺の運命を大きく変えるきっかけになると、このときの俺はまだ知らなかった。  ちなみにまったくの余談になるが。 「兄貴! なんか屋上でラブラブ空間を展開していた馬鹿の目撃証言があったんだけど何か言い残すことは!?」 「ちょ、お前いきなりジ・エンド確定ってなんだそりゃ!? せめて事情の説明くらい」 「うるさい黙れどうせ聞き流すんだからいいでしょこの馬鹿兄貴!!」 「おいこらやめろいくら俺でもそんなもので殴られたら脳味噌がいい具合に愉快なことになるって……ぐああぁぁぁっ!?」  そろそろ、このパターンやめねえか。

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