ABCまとめ11

「ABCまとめ11」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ABCまとめ11」(2007/10/08 (月) 01:46:12) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

「でも、俺達は三人で、助けられるのは二人だけだ」 「……はい、その通りです」 「そのことを二人に話したらさ……どっちも、自分を候補から除外しようとしたんだよ」 「……そうですか」 「やっぱり、家族の考えって似るもんだな。俺もそうしようとしていた」 「…………」 「そこでさ、わかったんだ。俺たちは三人で一つだから、誰か一人でも欠けたら幸せになれないと思う。だから――」 「…………」 「――俺たちは、ここに残るよ」 しばらく間を置いて、美優が言葉を継ぐ。 「きっと、普通の人だったら自分の命を優先すると思います……。それが、当たり前です」 次に美羽が――。 「でも、きっと私達は頭のネジが何本も飛んじゃってて、おかしくなってるんだと思う。だから、こんな選択しかできなかった」 そして再び俺が口を開き、締めくくる。 「……俺達のことは、ハズレくじを引いたとでも思って。もっと自分の命を大事に出来る人を、助けてあげてくれ」 ユリアは、その白魚のように細い指をぐっと手のひらに食い込ませるようにして拳を握りこんでいる。 そして、その仕草とは対照的な花の咲くような笑顔で言う。 「じょ、冗談はよし子さんっ」 「ユリア」 ごまかさないでほしい。 「……ちょっと聞こえなかったので、もう一度言っていただけませんか?」 必死に笑顔を作るユリアの目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。 「もう、いいだろ?」 「良くありません、その提案は受け入れられません」 ユリアは俯いてしまい、表情が窺えなくなる。 ただ、小刻みに震える拳から静かな怒りと悲しみが感じ取れた。 「何故? ユリアは誰かを助けたくてこの世界に来たんだろう?」 河川敷で聞いた彼女の言葉を、今でも俺は覚えている。 「何もしないまま、後悔したくはないんだろう?」 「……そんなの、仕方ないじゃないですか。命の価値は平等じゃないんですから」 「平等じゃないって……そんなわけないでしょ!?」 美羽が罵るように叫ぶ。 「では、ミウさんは動物の肉を食べないと言うのですか? 養豚場の豚一匹を屠殺する度に断罪される気があるのですか? ……人間と動物は違う。そう仰る方もいるでしょうね。ですが例えそうだったとしても、人間が恣意的に物を見る以上命が等価値になることなどありえません」 「…………」 「そんな考え方がまずありえないっての!」 俺と美優は黙ってユリアの言葉を聞くが、美羽だけは食ってかかるように激昂している。 そう、美羽は直情型な正義感の強い人間だから。……少なくとも、表面上はそれを演じようとしているから。 「でしたらわかりやすくこう質問しましょう。他人……他人です、袖を振り合う縁もゆかりもない他人と大切な家族、どちらかしか助けられないと言われたら、美羽さんはどちらを選びますか?」 ユリアは美羽がそこまで深く考えてないとわかっていて、勢いを削ぐ言葉を選んでいる。 美羽は多少躊躇うように歯噛みするが、まだその気勢は失われていない。 「そんなの、どっちも助けるっ!」 「前提条件を守ってください。どちらかしか助けられないと私は言いました」 「……っ」 「揺らいでますね、ミウさんの正義が。……わかっています。貴方は絶対に家族を選ぶに決まっている。 ですがそれは悪いことではありません、人の命に順位がつけられるのは必然、仕方ないことなのですから」 「仕方ないも糞もないでしょうが! そんな状況に直面する可能性自体が皆無に等しいんだからっ!」 その言葉を聞いて、ユリアの口の端がくっとつり上がった。何をまぬけなことをと、嘲笑を隠さない人を見下しきった顔。 「ミウさんは、自分の兄が置かれている状況も忘れているのですね?」 「……あ……」 完全に周りを見る目を失い、死角から突き崩されてしまっている。 俺への反骨で組み上げられた正義なんて、脆いに決まっているだろう……。 「で、でも私達は……この世界に残るから……他人を選んだことになるじゃない……!」 「良く考えてみることですね。他人に権利を譲る前に、貴方達は三人でしか物事を考えていなかった。 ヒロトさんはミウさんとミユさんを助けようとし、ミウさんはミユさんとヒロトさんを助けようとし、ミユさんはヒロトさんとミウさんを助けようとした。 そうして互いに身動きがとれなくなり、権利を放棄した。……他人を助けたことにはなりません、それはただの結果論ですから。 結局ミウさんも家族のことしか考えていないということですよ」 「そんな……そんなの……!」 「ユリア」 俺は、美羽の脆い正義――偽善とも置き換えられる――が完全に崩れ落ちる前に、二人の会話を止める。 怒りと悲しみに打ち震える美羽の頭に優しく手を置き、少しだけ抱き寄せる様にして囁きかける。 「もういいから、下がってろ」 「……私は……間違ってない……!」 蚊の鳴くような呟きに、俺は「ああ、お前は間違ってないから。今は俺に任せろ」と割と適当にやりこめる。 美羽は弱々しく頷いて、俺の影に隠れるようにユリアに背を向けた。 美優がすっかりしおらしくなった姉をよしよしと慰めている。いつもこんな風におとなしければいいんだけどな、なんて。 そんなどうでもいい思考を追い出して、俺はユリアと向き合う。 「ユリア、美羽をいじめたって何にもならないだろう?」 「……そうですね、その通りです。でしたらヒロトさんをいじめさせてもらえますか?」 「いや、そういうことじゃなくてね」 今のユリアは、どこかキレてる。 いや、実際に怒るという方の意味あいで完全にキレているのかもしれない。 「そもそも、今日のデートは一体なんだったのですか? 一日ご機嫌をとれば、私に受け入れてもらえるとでも思っていたのですか?」 「……っ、そうじゃない、そうじゃないよ。俺は、本当にユリアのことをもっと知りたかっただけだ」 ――言い訳だ。 確かに俺は、ユリアの言う通り打算的な考えも持ってこのデートに臨んでいた。だけれど、先ほど口にした理由だって無いわけじゃない。 最も、本当の目的はレンがついてこないよう牽制することだったのだが。 ……ことを円滑に進める為だったんだけど、どうやら逆効果だったらしい。 「私のことをわかろうとしてくださるのなら、私達の気持ちも汲んでくださってもいいじゃないですか」 「……ユリアの、気持ち?」 「他人よりも、家族が大事。それは私達にも同じことです。……私は、貴方達を家族同然に大切に思っているのですよ?」 「それは、俺達も同じだよ」 「だったら、なんで――」 「……?」 「――なんで、貴方達を助けさせてくれないんですかっ!!!!」 「っ!!」 巨大な質量を持つかのような衝撃的な叫びに、圧倒される。 木々がざわめき、生命力に満ちた葉が数枚散った。蝉は飛び上がり、野良猫は走り去っていく、公園内に俺達以外の音をたてる生き物がいなくなり、場に静謐がもたらされた。 「…………」 「…………」 俺も、美羽も、美優も、何も口を引き結ばれたみたいに何もいえなくなってしまう。 乾いた地面にぽつりぽつりと落ちるユリアの涙だけが、この場で唯一、心の奥底から溢れ出る悲しみを主張していた。 それから、どれだけの時間が経っただろう。 夕日は既に沈みかけていて、反対側の空から夜が運ばれてこようとしている。 このまま時の流れに身を任せて全てが解決すればいいのだけれど、そんなうまいことが起きるわけがなかった。 「ユリア」 誰も口を開かないなら、俺がやるしかないだろう。 ……早くネタをばらして、ユリアを解放してやりたい。 これは俺の仕向けた茶番なんだから。 「少し、二人だけで話をしよう」 「……?」 唐突な提案に、三人ともが戸惑いを見せた。 「悪いけど、美羽と美優は先に帰っててくれ」 「……何で?」 美羽は、急にことを進めようとする俺の意図を見抜こうと、じっとこちらの目を見つめてくる。 こいつは嘘を見抜く力には長けているけれど、俺だって一度覚悟を決めてしまえば鉄面皮だって装える。 兄として精神的な面までも妹に負けるなんて、情けないからな。 「後は俺が一人で俺が説得してみるから。……もう暗くなるしな。夕食の準備でもしててくれよ」 「夕食の準備は美優一人でもできるでしょ、レンさんもいるだろうし」 レンは料理が下手だから駄目だ……じゃなくて。 「お前はかわいー妹を一人で帰らせる気か?」 「え? わ、私なら大丈夫だよ?」 ぶんぶんと手を振り、俺達に気を遣わせまいと振舞う美優だったが、美羽の方はそうはいかない。 「……ひきょーもの」 美優をダシにするのは少し気が咎めるけれど、こうする以外にこの頑固者は動かせないだろうから。 「ああ、ひきょーなんだ俺は。昔から変わらないだろ?」 「変わってよ、そんな兄貴、嫌いだから」 そっぽを向いて不貞腐れる美羽に俺は苦笑するしかない、しかしそれが余計に美羽を苛立たせたのか、美優の腕をつかんで「行こう!」と強引に引っ張って行ってしまった。 美優は何か言いたげな目で何度もこちらを振り向いていたが、結局美羽の怪力には逆らえずにつれていかれてしまった。 端から見れば微笑ましいけれど、美羽はもうはらわたが煮えくりかえる一歩手前、MK5といったとこだろうな……死語か……そうか……。 「じゃ、改めて話をしようか」 「……は?」 呆気にとられていたユリアに再び話題を振ると、「あ、ええ」と姿勢を直す。 「ですが、これ以上話し合う余地は……」 「俺さ」 ユリアの言葉を遮って、俺は語りだす。 くだらない昔話、取るに足らないトラウマの話を――。 「小学校二年くらいの頃だったかな……図書館で変な絵本を見つけたんだよ」 「…………」 自分の話を遮られたことには特に感想もないようで、今はただこちらの意図を測りかねているのか黙って聞いてくれようとしている。 「『死んだ子供たちのABC』ってタイトルの本だった。今思えば学校の図書館にあんな本置いてたのが驚きなんだけど、その頃勤勉な読書家だった俺はついつい手にとってしまったんだよ」 その内容は――。 「酷いもんだった。中身はさ、ただ子供たちが淡々と殺されていくだけの話なんだ、しかもすげー不気味な絵がついてて妙な恐怖を演出してたよ。 俺はもう内心ガクガクブルブルしてたんだが、やめときゃいいのに怖いもの見たさで全部読んじまったんだ」 まだ本当の恐怖を知らない年頃だったから。 恐怖の動悸をも期待の鼓動にすり替えてしまっていたのかもしれない。 「読み終えた後は不思議な虚無感に包まれてた……何を伝えないのかわからなかったし……後味も悪い。 とにかく『理不尽』だった。まあ当時はそのりの字も知らなかったし、ガキだから切り替えも早かったんで美羽達とサッカーしてる内に記憶の隅に追いやられたけどな」 多分、その時に俺は、言葉では知らなくても『どうしようもならないこともある』ということを理解させられたのかもしれない。 だけれど俺は物語に干渉出来ないのだから、殺されていく子供達を助けることなんて出来ない。 例え絵本を破り捨てたとしても、完成してそこにあった話がなくなるわけではない……。 それは、一度完成してしまった以上一読者にはどうしようもないこと。 「何か、今もそんな感じだよな」 「……そうかもしれませんね」 今は俺が、物語の中の登場人物になってるわけだ。 だとしたら、もしも俺が『登場人物の一人』なのだとしたら、どうしようも無いストーリーから『他の登場人物』を救済することだってできる。 「昨日は、まだ本当に何も決めてなかった」 逃げてきた分のツケが回ってきたみたいに頭の中をぐちゃぐちゃにかき回そうとする思考を必死に追いだして、平成を保とうとした。 もう、俺の心はそれだけで限界で……答えを出すことなんて出来そうになかった。 「でも、美羽と美優に相談してその答えを聞いた時にさ、こう思ったんだよ。『やっぱりこいつらを死なせるわけにはいかない』ってさ」 元より俺は、他人のことなんて考えていなかった。 家族や友人のことだけしか考えていなかった。そんな、エゴに塗り固められた考えの先にあった答え。 それは……。 「俺が、この世界に残る」 自己犠牲――自己満足。 どう言ってもいいけれど、結局は同じこと。 俺の言葉にユリアは今日二度めの衝撃を受けていたようだった。 「そう……そんな、じゃあ……さっきの答えは?」 「敵を騙すにはまず味方からって言うだろ? ま、ユリアは敵じゃないけど。自然なリアクションが欲しかったから言わなかったんだ。ごめんな」 「演技には、見えませんでしたが」 「嘘をつくのはうまい方なんだ」 演技をする際には、ただ騙そうと思うのではなく、目前で起こったことについてだけを考えるようにしていた。 余計なことを考えると顔に出てしまうからだ。 「美羽さんや美優さんだけでなく、私も一緒に騙したということですか……」 一種の感動を覚えたかのような、ぼーっとした表情で薄暗い空を見上げるユリア。 「怒った?」 「いえ……それよりも、美羽さんが怒るのではないですか?」 「ユリアが言ったじゃないか、ばれなければ嘘じゃないって」 この嘘が露見する時は、全てが終わった時だ。 「私は、嬉しいです。望んでいた答えが返ってきたんでから……」 魂のこもらない虚ろな口調で、ユリアは呟くように話す。 「……嬉しいはずなのに……貴方は助けられないから……それを考えると、涙が出そうで……」 涙が流れないように、空を見上げている。 だったら、その流れそうになる涙くらいは拭ってあげよう。ゆっくりとユリアに近づこうとしたその時、彼女の後ろの植え込みががさりと揺れたのを俺は見逃さなかった。 「――!」 そして、次の瞬間にそこから現れた二つの影。 「誰!?」 ユリアが、突然の人の気配に驚きながら振り返る。 そこには……。 美羽と美優が、それぞれに怒りと悲しみを瞳に宿して立っていた。 「お前ら、戻ってきてたのか!?」 「ごめんね、兄貴。どうしても気になってさ……」 そう話す美羽の顔は、怒るのでなければ、許しを請うような笑顔でもない。 ひたすらに、無表情。 美優は黙って俯き、口を出すつもりはないように見える。 「でも兄貴、また裏切ったんだ?」 ……鎌をかけているのかもしれない、まだ表には出すな。 「何のことだ? 何を聞いたのかしらんがどーせ聞き違いでもしたんだろ。俺はただユリアと……っ!!」 鉄球をぶつけられた。 そう錯覚する程の速さで、美羽の硬い拳が鳩尾に叩き込まれていた。 「ぐぅっ……」 鍛えることもやめたこの体にはあまりにも強すぎる衝撃。 それは俺の頭の中を痛みという言葉で埋め尽くすのに十分なものだった。 腹を押さえてのたうつ俺に、容赦なく足を振りおろそうとする美羽の姿が目に入る。 「ミウさんっ! やめてください!」 その足が振り下ろされる前に、ユリアが美羽の肩を掴んで止めていた。 「いいんだよ、ユリアさん。私は兄貴と昔約束したの」 「約束?」 「『もう絶対に裏切ったりしない、もしそんなことがあった時には俺に何をしてもいい』ってさ」 ……それは、幼少の頃の記憶。 「だけどね、兄貴はまた裏切った。ずっと一緒だって言ったのに! 自己犠牲なんて全然嬉しくない! したり顔で私達のことを騙しやがって! 自己満足のオナニー野郎!!!」 ユリアの静止を振りきり、狙い澄ましたかのような蹴りが、先ほどと同じ個所に叩き込まれた。 「ぎゃ……ぁっ……!」 痛い……! 騙して悪かっただとか、どうすれば怒りを抑えられるかだとか、考えるべきことはたくさんある筈なのに何も言えない。 ただ今は、惨めに公園の地べたに転がりのたうつしかなかった。 「だ、だからって暴力を振るっていいわけがないでしょう! ミユさんも止めてくださいっ!」 美優の返事はない。 「ユリアさん、ごめん。……貴女まで殴りたくないから、離して」 「いいえ、離しません!」 「っ……離してっ!」 ――何が起きたのか。 俺は痛みに反応して流れ出る涙のせいで、潤んだ視界でしかそれを捉えることができなかった。 美羽が振り上げた平手を受け止めたユリアが、逆にカウンターで頬を張ったのだ。 「確かに、嘘をついたヒロトさんが悪かったのかもしれません、ですが、ここまで苦しませなくても良いでしょう!」 「……そんなの……何も知らないくせに……! 私のことなんて、何も知らない癖に! 横から口出さないでよ!!!」 「っ、み、ミウさんっ!」 美羽が、ユリアの手を振り払って脱兎のごとく駆け出す。 夜の闇に溶けるみたいに、すぐにその姿は見えなくなってしまう。 「……美……羽……!」 あの馬鹿、一人じゃ何もできない癖に! 早く追いかけないといけない、腹部に残る疼痛を歯をくいしばって抑え込んで立ち上がる。 「ヒロトさん、大丈夫ですか!?」 「あ、ああ、大丈夫……。それよりも、あいつを早く追わないと!」 額に浮き上がる脂汗が気持ち悪いけれど、今はそんなことにかまっていられない。 「ヒロトさん、無茶です! もう少し休んでからでないと……!」 「駄目だ」 「ヒロトさんっ!!」 「あいつはっ、一人じゃ何も出来ないんだよっ!!」 そう、美羽は一人では行動出来ない。 俺か美優のどちらかが傍についていてやらないと、泣き出したり、癇癪を起したりする。 ――恐怖症、厳密にはそう言うらしい。 学校でも、親しい友人などに囲まれている時には問題が無いのだ。 だが、登下校などには必ず美優か俺を付き添わなければいけない。 「だから、早く追いかけてやらないと……!」 あれは、いつのことだっただろうか。 まだ美優もいなくて、小学校にも入って無かった頃だったか。 家族で少し遠出して夏祭りに出かけたんだ。 車の中で何をして遊ぶか夢想して、期待で胸ははち切れん程だった。 でも、実際に行って見れば、あの頃の俺達では満足に動くことが出来ないほどの人ゴミばかりがそこにはあって、親父なんかはげんなりしていたと思う。 だけどずっと祭りを楽しみにしていた美羽は、俺の腕を引っ張って急に駆け出したんだ。 母さんも止めたけれど、すぐに群衆のざわめきにかき消された。 俺は止めようとは思わなかったな。だって、俺もずっと楽しみにしていたから。少しくらいならいいだろうって。 だけれど、俺達はすぐに迷子になった。人ゴミにもまれている内に自分がどこにいるのかもわからなくなり、見えるのは人と空だけ。 正直物凄く怖かったけれど、ただ涙目で手を握りしめている妹を見るとそんな泣きごとも言っていられなくなる。 「ぜったいにはなすなよ」 「……うん」 絶対に、離さない。 自分の中では絶対の約束だと思っていた。 だけれど、約束というのはそれを成し遂げるする力があってこそ履行されるもの。 今の美羽にとっては、俺だけが唯一の指針だったのに。 俺だけが唯一の『世界』だったのに。 どっと、真正面から大人にぶつかって転んだ。 ただそれだけのことで――美羽の手を離してしまったんだ。 「あ……」 魔物の口に飲み込まれるみたいに、美羽が人の波に紛れてゆく。 ――すぐに、その姿は見えなくなった。 俺はその後、すぐに親父達と合流することが出来た。 ただ運が良かったんだ。俺はいいから、美羽にその加護があれば良かったのに。 それから皆で必死に美羽を探したけれど、見つけることは出来なかった。 結局祭りが終わるまで探しても見つからずに、後は警察に任せることになる。 親父なんか動物園のトラみたいに家の中をうろうろ動き回って、母さんはひたすら心配そうに俯いていた。 俺も次の日は学校を休んだ。 その一日の間にも、美羽は見つからなかった。 家族の一人が欠けただけで家が妙に広く感じて、それ以上に心に大きな穴が開いた気がした。 幼心に、恐怖を感じる。 もし、このまま見つからなかったら――。 喚いて、泣いて、暴れた。 そんなことをしてもどうにもならないって、当時の俺にはわからなくて。 「みう……もう、ぜったいはなさないから……もどってきて……」 そんなことを、呟いたような覚えがある。 その祈りが届いたのかどうかわからないけれど。 その翌日の夜、美羽は見つかったんだ。 どこで見つかったのか、とかそんな話はまるで聞いていない。 俺はただ、病院で衰弱した美羽を抱きしめただけ。 「ごめんな、みう……もうずっといっしょだからな」 「……うん……」 これで、めでたしめでたし。 この事件はこれで終わって、十年後くらいに『あの時は大変だったよな』と語られて、それで終わる……そんな程度の話。 だった筈なのに……。 二日にも渡る孤独は、美羽の足跡一つない雪原のような心に深い傷を残すには、十分過ぎる時間だった。 それ以降、美羽は『一人で何かをする』ことが出来なくなる。 信頼している人間。俺や親が傍にいないと、泣き喚いてどうにもならなくなってしまうのだ。 本当に、最初は常に手を握ってやらないと駄目な程だった。 寝つかせる時も、ずっとだ。やっと寝たと思って部屋を離れると、ぱっと目を覚まして泣きだすこともあった。 その内に、仲の良い友人とでも一緒にいられるようになった。 そのおかげで学校などでの心配はなくなる。 俺だって、一人だけ下級生の教室で授業を受けるわけにはいかないから。 「それから、もう十年以上経つんだどさ。……まだあいつ、誰かが一緒にいてやらないと駄目なんだ」 一度だけ、克服させようとしたことがあった。 だけれどその作戦は失敗し、俺は死にかけた。 あいつ、それから嘘を嫌うようになった癖に……自分は結構平気で嘘をつくんだよな。 「そんな、ことが……」 一年間一緒に暮らしていても、そうそう気付けることでは無いだろう。 成長する内に、部屋の中などでなら一人でいられるようになったらし。 学校でも友人がいるから問題ない。 外出中は必ず俺か美優が傍にいる。 余程のことが無い限り、美羽の障害が表に出ることはない。 「だから、俺は行くよ」 「……わかりました」 ユリアの手がすっと離れて、俺は駆け出す。 だがその前に声をかけておくべき人物がいた。 「美優」 俺の呼びかけに、美優がびくりと肩を震わせる。 「……ごめんな。あのことは、また後で話すから」 ユリアに美優のことを任せて、俺は夜の街に向かう。 「美優…………どこ…………?」 美羽は、失った自分の半身を求めるかのように夜の街を歩き回っていた。 夜でも光が消えることは無く、道を歩く人の層ががらりと変わる。 柄の悪い人間もだいぶ多くなってきていて、それが美羽の精神を一層追い込むことになっていく。 「泣いちゃ、駄目……!」 普段の強気な彼女の面影も、今は無い。 いつもなら何でも無い人ごみも、今では気持ち悪いものでしかないのだ。 「美優……あに……っ……!」 兄貴、そう口に出してしまいそうになって、咄嗟に口をつぐんだ。 あんな奴、もう知るもんか。美羽はそう心の中で繰り返す。 だけど、いつだって美羽の傍には誰かがいた。 それは時には大翔で、時には美優で、時には他の友人だった。 だけれど、今は誰もいない。 「ぅ……」 今は動いてくれているこの足も、必死に恐怖を抑え込んで、ゆっくり一歩一歩踏みしめるようにして何とか保っているのだ。 本当は、もう泣いて叫んで助けを呼びたい。 携帯で美優を呼ぼうと思ったけれど、運悪く充電が切れていた。 「もう、やだ……」 大翔に、また裏切られた。 それが美羽の怒りの原因。 (全部、兄貴が悪いんだ……!) ずっと一緒だと大翔は言った。 破られることのない約束だって思っていた。 世界の崩壊だって、信じてあげたのに。そんな意趣返しのようなことをされるだなんて予想もしていなかった。 そんな思いやりは、美羽には微塵もうれしくない。 「……うう……うぁ……ぁぁぁぁぁぁぁああああっ!」 コンビニの前で膝を抱えてうずくまり、誰にも見られないように涙を流す美羽。 みっともなく喚いているその姿に、周りの人間は奇人を見るような目を向けるだけ。 (傍にいてよ……! 手を、握っててよ……!) 孤独に押しつぶされ、既にまともな思考は働かない。 そんな哀れな姿を、駐車場に入ってきた外車のハイビームが照らし上げる。 「……なんだ、結城姉。そんな山南と別れた明里のように泣いてどうした」 「ノア、先生?」 真紅のエリーゼからカツンと足音を響かせて降りたったのは、ノア・アメスタシアその人だった。
「でも、俺達は三人で、助けられるのは二人だけだ」 「……はい、その通りです」 「そのことを二人に話したらさ……どっちも、自分を候補から除外しようとしたんだよ」 「……そうですか」 「やっぱり、家族の考えって似るもんだな。俺もそうしようとしていた」 「…………」 「そこでさ、わかったんだ。俺たちは三人で一つだから、誰か一人でも欠けたら幸せになれないと思う。だから――」 「…………」 「――俺たちは、ここに残るよ」 しばらく間を置いて、美優が言葉を継ぐ。 「きっと、普通の人だったら自分の命を優先すると思います……。それが、当たり前です」 次に美羽が――。 「でも、きっと私達は頭のネジが何本も飛んじゃってて、おかしくなってるんだと思う。だから、こんな選択しかできなかった」 そして再び俺が口を開き、締めくくる。 「……俺達のことは、ハズレくじを引いたとでも思って。もっと自分の命を大事に出来る人を、助けてあげてくれ」 ユリアは、その白魚のように細い指をぐっと手のひらに食い込ませるようにして拳を握りこんでいる。 そして、その仕草とは対照的な花の咲くような笑顔で言う。 「じょ、冗談はよし子さんっ」 「ユリア」 ごまかさないでほしい。 「……ちょっと聞こえなかったので、もう一度言っていただけませんか?」 必死に笑顔を作るユリアの目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。 「もう、いいだろ?」 「良くありません、その提案は受け入れられません」 ユリアは俯いてしまい、表情が窺えなくなる。 ただ、小刻みに震える拳から静かな怒りと悲しみが感じ取れた。 「何故? ユリアは誰かを助けたくてこの世界に来たんだろう?」 河川敷で聞いた彼女の言葉を、今でも俺は覚えている。 「何もしないまま、後悔したくはないんだろう?」 「……そんなの、仕方ないじゃないですか。命の価値は平等じゃないんですから」 「平等じゃないって……そんなわけないでしょ!?」 美羽が罵るように叫ぶ。 「では、ミウさんは動物の肉を食べないと言うのですか? 養豚場の豚一匹を屠殺する度に断罪される気があるのですか? ……人間と動物は違う。そう仰る方もいるでしょうね。ですが例えそうだったとしても、人間が恣意的に物を見る以上命が等価値になることなどありえません」 「…………」 「そんな考え方がまずありえないっての!」 俺と美優は黙ってユリアの言葉を聞くが、美羽だけは食ってかかるように激昂している。 そう、美羽は直情型な正義感の強い人間だから。……少なくとも、表面上はそれを演じようとしているから。 「でしたらわかりやすくこう質問しましょう。他人……他人です、袖を振り合う縁もゆかりもない他人と大切な家族、どちらかしか助けられないと言われたら、美羽さんはどちらを選びますか?」 ユリアは美羽がそこまで深く考えてないとわかっていて、勢いを削ぐ言葉を選んでいる。 美羽は多少躊躇うように歯噛みするが、まだその気勢は失われていない。 「そんなの、どっちも助けるっ!」 「前提条件を守ってください。どちらかしか助けられないと私は言いました」 「……っ」 「揺らいでますね、ミウさんの正義が。……わかっています。貴方は絶対に家族を選ぶに決まっている。 ですがそれは悪いことではありません、人の命に順位がつけられるのは必然、仕方ないことなのですから」 「仕方ないも糞もないでしょうが! そんな状況に直面する可能性自体が皆無に等しいんだからっ!」 その言葉を聞いて、ユリアの口の端がくっとつり上がった。何をまぬけなことをと、嘲笑を隠さない人を見下しきった顔。 「ミウさんは、自分の兄が置かれている状況も忘れているのですね?」 「……あ……」 完全に周りを見る目を失い、死角から突き崩されてしまっている。 俺への反骨で組み上げられた正義なんて、脆いに決まっているだろう……。 「で、でも私達は……この世界に残るから……他人を選んだことになるじゃない……!」 「良く考えてみることですね。他人に権利を譲る前に、貴方達は三人でしか物事を考えていなかった。 ヒロトさんはミウさんとミユさんを助けようとし、ミウさんはミユさんとヒロトさんを助けようとし、ミユさんはヒロトさんとミウさんを助けようとした。 そうして互いに身動きがとれなくなり、権利を放棄した。……他人を助けたことにはなりません、それはただの結果論ですから。 結局ミウさんも家族のことしか考えていないということですよ」 「そんな……そんなの……!」 「ユリア」 俺は、美羽の脆い正義――偽善とも置き換えられる――が完全に崩れ落ちる前に、二人の会話を止める。 怒りと悲しみに打ち震える美羽の頭に優しく手を置き、少しだけ抱き寄せる様にして囁きかける。 「もういいから、下がってろ」 「……私は……間違ってない……!」 蚊の鳴くような呟きに、俺は「ああ、お前は間違ってないから。今は俺に任せろ」と割と適当にやりこめる。 美羽は弱々しく頷いて、俺の影に隠れるようにユリアに背を向けた。 美優がすっかりしおらしくなった姉をよしよしと慰めている。いつもこんな風におとなしければいいんだけどな、なんて。 そんなどうでもいい思考を追い出して、俺はユリアと向き合う。 「ユリア、美羽をいじめたって何にもならないだろう?」 「……そうですね、その通りです。でしたらヒロトさんをいじめさせてもらえますか?」 「いや、そういうことじゃなくてね」 今のユリアは、どこかキレてる。 いや、実際に怒るという方の意味あいで完全にキレているのかもしれない。 「そもそも、今日のデートは一体なんだったのですか? 一日ご機嫌をとれば、私に受け入れてもらえるとでも思っていたのですか?」 「……っ、そうじゃない、そうじゃないよ。俺は、本当にユリアのことをもっと知りたかっただけだ」 ――言い訳だ。 確かに俺は、ユリアの言う通り打算的な考えも持ってこのデートに臨んでいた。だけれど、先ほど口にした理由だって無いわけじゃない。 最も、本当の目的はレンがついてこないよう牽制することだったのだが。 ……ことを円滑に進める為だったんだけど、どうやら逆効果だったらしい。 「私のことをわかろうとしてくださるのなら、私達の気持ちも汲んでくださってもいいじゃないですか」 「……ユリアの、気持ち?」 「他人よりも、家族が大事。それは私達にも同じことです。……私は、貴方達を家族同然に大切に思っているのですよ?」 「それは、俺達も同じだよ」 「だったら、なんで――」 「……?」 「――なんで、貴方達を助けさせてくれないんですかっ!!!!」 「っ!!」 巨大な質量を持つかのような衝撃的な叫びに、圧倒される。 木々がざわめき、生命力に満ちた葉が数枚散った。蝉は飛び上がり、野良猫は走り去っていく、公園内に俺達以外の音をたてる生き物がいなくなり、場に静謐がもたらされた。 「…………」 「…………」 俺も、美羽も、美優も、何も口を引き結ばれたみたいに何もいえなくなってしまう。 乾いた地面にぽつりぽつりと落ちるユリアの涙だけが、この場で唯一、心の奥底から溢れ出る悲しみを主張していた。 それから、どれだけの時間が経っただろう。 夕日は既に沈みかけていて、反対側の空から夜が運ばれてこようとしている。 このまま時の流れに身を任せて全てが解決すればいいのだけれど、そんなうまいことが起きるわけがなかった。 「ユリア」 誰も口を開かないなら、俺がやるしかないだろう。 ……早くネタをばらして、ユリアを解放してやりたい。 これは俺の仕向けた茶番なんだから。 「少し、二人だけで話をしよう」 「……?」 唐突な提案に、三人ともが戸惑いを見せた。 「悪いけど、美羽と美優は先に帰っててくれ」 「……何で?」 美羽は、急にことを進めようとする俺の意図を見抜こうと、じっとこちらの目を見つめてくる。 こいつは嘘を見抜く力には長けているけれど、俺だって一度覚悟を決めてしまえば鉄面皮だって装える。 兄として精神的な面までも妹に負けるなんて、情けないからな。 「後は俺が一人で俺が説得してみるから。……もう暗くなるしな。夕食の準備でもしててくれよ」 「夕食の準備は美優一人でもできるでしょ、レンさんもいるだろうし」 レンは料理が下手だから駄目だ……じゃなくて。 「お前はかわいー妹を一人で帰らせる気か?」 「え? わ、私なら大丈夫だよ?」 ぶんぶんと手を振り、俺達に気を遣わせまいと振舞う美優だったが、美羽の方はそうはいかない。 「……ひきょーもの」 美優をダシにするのは少し気が咎めるけれど、こうする以外にこの頑固者は動かせないだろうから。 「ああ、ひきょーなんだ俺は。昔から変わらないだろ?」 「変わってよ、そんな兄貴、嫌いだから」 そっぽを向いて不貞腐れる美羽に俺は苦笑するしかない、しかしそれが余計に美羽を苛立たせたのか、美優の腕をつかんで「行こう!」と強引に引っ張って行ってしまった。 美優は何か言いたげな目で何度もこちらを振り向いていたが、結局美羽の怪力には逆らえずにつれていかれてしまった。 端から見れば微笑ましいけれど、美羽はもうはらわたが煮えくりかえる一歩手前、MK5といったとこだろうな……死語か……そうか……。 「じゃ、改めて話をしようか」 「……は?」 呆気にとられていたユリアに再び話題を振ると、「あ、ええ」と姿勢を直す。 「ですが、これ以上話し合う余地は……」 「俺さ」 ユリアの言葉を遮って、俺は語りだす。 くだらない昔話、取るに足らないトラウマの話を――。 「小学校二年くらいの頃だったかな……図書館で変な絵本を見つけたんだよ」 「…………」 自分の話を遮られたことには特に感想もないようで、今はただこちらの意図を測りかねているのか黙って聞いてくれようとしている。 「『死んだ子供たちのABC』ってタイトルの本だった。今思えば学校の図書館にあんな本置いてたのが驚きなんだけど、その頃勤勉な読書家だった俺はついつい手にとってしまったんだよ」 その内容は――。 「酷いもんだった。中身はさ、ただ子供たちが淡々と殺されていくだけの話なんだ、しかもすげー不気味な絵がついてて妙な恐怖を演出してたよ。 俺はもう内心ガクガクブルブルしてたんだが、やめときゃいいのに怖いもの見たさで全部読んじまったんだ」 まだ本当の恐怖を知らない年頃だったから。 恐怖の動悸をも期待の鼓動にすり替えてしまっていたのかもしれない。 「読み終えた後は不思議な虚無感に包まれてた……何を伝えないのかわからなかったし……後味も悪い。 とにかく『理不尽』だった。まあ当時はそのりの字も知らなかったし、ガキだから切り替えも早かったんで美羽達とサッカーしてる内に記憶の隅に追いやられたけどな」 多分、その時に俺は、言葉では知らなくても『どうしようもならないこともある』ということを理解させられたのかもしれない。 だけれど俺は物語に干渉出来ないのだから、殺されていく子供達を助けることなんて出来ない。 例え絵本を破り捨てたとしても、完成してそこにあった話がなくなるわけではない……。 それは、一度完成してしまった以上一読者にはどうしようもないこと。 「何か、今もそんな感じだよな」 「……そうかもしれませんね」 今は俺が、物語の中の登場人物になってるわけだ。 だとしたら、もしも俺が『登場人物の一人』なのだとしたら、どうしようも無いストーリーから『他の登場人物』を救済することだってできる。 「昨日は、まだ本当に何も決めてなかった」 逃げてきた分のツケが回ってきたみたいに頭の中をぐちゃぐちゃにかき回そうとする思考を必死に追いだして、平成を保とうとした。 もう、俺の心はそれだけで限界で……答えを出すことなんて出来そうになかった。 「でも、美羽と美優に相談してその答えを聞いた時にさ、こう思ったんだよ。『やっぱりこいつらを死なせるわけにはいかない』ってさ」 元より俺は、他人のことなんて考えていなかった。 家族や友人のことだけしか考えていなかった。そんな、エゴに塗り固められた考えの先にあった答え。 それは……。 「俺が、この世界に残る」 自己犠牲――自己満足。 どう言ってもいいけれど、結局は同じこと。 俺の言葉にユリアは今日二度めの衝撃を受けていたようだった。 「そう……そんな、じゃあ……さっきの答えは?」 「敵を騙すにはまず味方からって言うだろ? ま、ユリアは敵じゃないけど。自然なリアクションが欲しかったから言わなかったんだ。ごめんな」 「演技には、見えませんでしたが」 「嘘をつくのはうまい方なんだ」 演技をする際には、ただ騙そうと思うのではなく、目前で起こったことについてだけを考えるようにしていた。 余計なことを考えると顔に出てしまうからだ。 「美羽さんや美優さんだけでなく、私も一緒に騙したということですか……」 一種の感動を覚えたかのような、ぼーっとした表情で薄暗い空を見上げるユリア。 「怒った?」 「いえ……それよりも、美羽さんが怒るのではないですか?」 「ユリアが言ったじゃないか、ばれなければ嘘じゃないって」 この嘘が露見する時は、全てが終わった時だ。 「私は、嬉しいです。望んでいた答えが返ってきたんでから……」 魂のこもらない虚ろな口調で、ユリアは呟くように話す。 「……嬉しいはずなのに……貴方は助けられないから……それを考えると、涙が出そうで……」 涙が流れないように、空を見上げている。 だったら、その流れそうになる涙くらいは拭ってあげよう。ゆっくりとユリアに近づこうとしたその時、彼女の後ろの植え込みががさりと揺れたのを俺は見逃さなかった。 「――!」 そして、次の瞬間にそこから現れた二つの影。 「誰!?」 ユリアが、突然の人の気配に驚きながら振り返る。 そこには……。 美羽と美優が、それぞれに怒りと悲しみを瞳に宿して立っていた。 「お前ら、戻ってきてたのか!?」 「ごめんね、兄貴。どうしても気になってさ……」 そう話す美羽の顔は、怒るのでなければ、許しを請うような笑顔でもない。 ひたすらに、無表情。 美優は黙って俯き、口を出すつもりはないように見える。 「でも兄貴、また裏切ったんだ?」 ……鎌をかけているのかもしれない、まだ表には出すな。 「何のことだ? 何を聞いたのかしらんがどーせ聞き違いでもしたんだろ。俺はただユリアと……っ!!」 鉄球をぶつけられた。 そう錯覚する程の速さで、美羽の硬い拳が鳩尾に叩き込まれていた。 「ぐぅっ……」 鍛えることもやめたこの体にはあまりにも強すぎる衝撃。 それは俺の頭の中を痛みという言葉で埋め尽くすのに十分なものだった。 腹を押さえてのたうつ俺に、容赦なく足を振りおろそうとする美羽の姿が目に入る。 「ミウさんっ! やめてください!」 その足が振り下ろされる前に、ユリアが美羽の肩を掴んで止めていた。 「いいんだよ、ユリアさん。私は兄貴と昔約束したの」 「約束?」 「『もう絶対に裏切ったりしない、もしそんなことがあった時には俺に何をしてもいい』ってさ」 ……それは、幼少の頃の記憶。 「だけどね、兄貴はまた裏切った。ずっと一緒だって言ったのに! 自己犠牲なんて全然嬉しくない! したり顔で私達のことを騙しやがって! 自己満足のオナニー野郎!!!」 ユリアの静止を振りきり、狙い澄ましたかのような蹴りが、先ほどと同じ個所に叩き込まれた。 「ぎゃ……ぁっ……!」 痛い……! 騙して悪かっただとか、どうすれば怒りを抑えられるかだとか、考えるべきことはたくさんある筈なのに何も言えない。 ただ今は、惨めに公園の地べたに転がりのたうつしかなかった。 「だ、だからって暴力を振るっていいわけがないでしょう! ミユさんも止めてくださいっ!」 美優の返事はない。 「ユリアさん、ごめん。……貴女まで殴りたくないから、離して」 「いいえ、離しません!」 「っ……離してっ!」 ――何が起きたのか。 俺は痛みに反応して流れ出る涙のせいで、潤んだ視界でしかそれを捉えることができなかった。 美羽が振り上げた平手を受け止めたユリアが、逆にカウンターで頬を張ったのだ。 「確かに、嘘をついたヒロトさんが悪かったのかもしれません、ですが、ここまで苦しませなくても良いでしょう!」 「……そんなの……何も知らないくせに……! 私のことなんて、何も知らない癖に! 横から口出さないでよ!!!」 「っ、み、ミウさんっ!」 美羽が、ユリアの手を振り払って脱兎のごとく駆け出す。 夜の闇に溶けるみたいに、すぐにその姿は見えなくなってしまう。 「……美……羽……!」 あの馬鹿、一人じゃ何もできない癖に! 早く追いかけないといけない、腹部に残る疼痛を歯をくいしばって抑え込んで立ち上がる。 「ヒロトさん、大丈夫ですか!?」 「あ、ああ、大丈夫……。それよりも、あいつを早く追わないと!」 額に浮き上がる脂汗が気持ち悪いけれど、今はそんなことにかまっていられない。 「ヒロトさん、無茶です! もう少し休んでからでないと……!」 「駄目だ」 「ヒロトさんっ!!」 「あいつはっ、一人じゃ何も出来ないんだよっ!!」 そう、美羽は一人では行動出来ない。 俺か美優のどちらかが傍についていてやらないと、泣き出したり、癇癪を起したりする。 ――恐怖症、厳密にはそう言うらしい。 学校でも、親しい友人などに囲まれている時には問題が無いのだ。 だが、登下校などには必ず美優か俺を付き添わなければいけない。 「だから、早く追いかけてやらないと……!」 あれは、いつのことだっただろうか。 まだ美優もいなくて、小学校にも入って無かった頃だったか。 家族で少し遠出して夏祭りに出かけたんだ。 車の中で何をして遊ぶか夢想して、期待で胸ははち切れん程だった。 でも、実際に行って見れば、あの頃の俺達では満足に動くことが出来ないほどの人ゴミばかりがそこにはあって、親父なんかはげんなりしていたと思う。 だけどずっと祭りを楽しみにしていた美羽は、俺の腕を引っ張って急に駆け出したんだ。 母さんも止めたけれど、すぐに群衆のざわめきにかき消された。 俺は止めようとは思わなかったな。だって、俺もずっと楽しみにしていたから。少しくらいならいいだろうって。 だけれど、俺達はすぐに迷子になった。人ゴミにもまれている内に自分がどこにいるのかもわからなくなり、見えるのは人と空だけ。 正直物凄く怖かったけれど、ただ涙目で手を握りしめている妹を見るとそんな泣きごとも言っていられなくなる。 「ぜったいにはなすなよ」 「……うん」 絶対に、離さない。 自分の中では絶対の約束だと思っていた。 だけれど、約束というのはそれを成し遂げるする力があってこそ履行されるもの。 今の美羽にとっては、俺だけが唯一の指針だったのに。 俺だけが唯一の『世界』だったのに。 どっと、真正面から大人にぶつかって転んだ。 ただそれだけのことで――美羽の手を離してしまったんだ。 「あ……」 魔物の口に飲み込まれるみたいに、美羽が人の波に紛れてゆく。 ――すぐに、その姿は見えなくなった。 俺はその後、すぐに親父達と合流することが出来た。 ただ運が良かったんだ。俺はいいから、美羽にその加護があれば良かったのに。 それから皆で必死に美羽を探したけれど、見つけることは出来なかった。 結局祭りが終わるまで探しても見つからずに、後は警察に任せることになる。 親父なんか動物園のトラみたいに家の中をうろうろ動き回って、母さんはひたすら心配そうに俯いていた。 俺も次の日は学校を休んだ。 その一日の間にも、美羽は見つからなかった。 家族の一人が欠けただけで家が妙に広く感じて、それ以上に心に大きな穴が開いた気がした。 幼心に、恐怖を感じる。 もし、このまま見つからなかったら――。 喚いて、泣いて、暴れた。 そんなことをしてもどうにもならないって、当時の俺にはわからなくて。 「みう……もう、ぜったいはなさないから……もどってきて……」 そんなことを、呟いたような覚えがある。 その祈りが届いたのかどうかわからないけれど。 その翌日の夜、美羽は見つかったんだ。 どこで見つかったのか、とかそんな話はまるで聞いていない。 俺はただ、病院で衰弱した美羽を抱きしめただけ。 「ごめんな、みう……もうずっといっしょだからな」 「……うん……」 これで、めでたしめでたし。 この事件はこれで終わって、十年後くらいに『あの時は大変だったよな』と語られて、それで終わる……そんな程度の話。 だった筈なのに……。 二日にも渡る孤独は、美羽の足跡一つない雪原のような心に深い傷を残すには、十分過ぎる時間だった。 それ以降、美羽は『一人で何かをする』ことが出来なくなる。 信頼している人間。俺や親が傍にいないと、泣き喚いてどうにもならなくなってしまうのだ。 本当に、最初は常に手を握ってやらないと駄目な程だった。 寝つかせる時も、ずっとだ。やっと寝たと思って部屋を離れると、ぱっと目を覚まして泣きだすこともあった。 その内に、仲の良い友人とでも一緒にいられるようになった。 そのおかげで学校などでの心配はなくなる。 俺だって、一人だけ下級生の教室で授業を受けるわけにはいかないから。 「それから、もう十年以上経つんだどさ。……まだあいつ、誰かが一緒にいてやらないと駄目なんだ」 一度だけ、克服させようとしたことがあった。 だけれどその作戦は失敗し、俺は死にかけた。 あいつ、それから嘘を嫌うようになった癖に……自分は結構平気で嘘をつくんだよな。 「そんな、ことが……」 一年間一緒に暮らしていても、そうそう気付けることでは無いだろう。 成長する内に、部屋の中などでなら一人でいられるようになったらし。 学校でも友人がいるから問題ない。 外出中は必ず俺か美優が傍にいる。 余程のことが無い限り、美羽の障害が表に出ることはない。 「だから、俺は行くよ」 「……わかりました」 ユリアの手がすっと離れて、俺は駆け出す。 だがその前に声をかけておくべき人物がいた。 「美優」 俺の呼びかけに、美優がびくりと肩を震わせる。 「……ごめんな。あのことは、また後で話すから」 ユリアに美優のことを任せて、俺は夜の街に向かう。 「美優…………どこ…………?」 美羽は、失った自分の半身を求めるかのように夜の街を歩き回っていた。 夜でも光が消えることは無く、道を歩く人の層ががらりと変わる。 柄の悪い人間もだいぶ多くなってきていて、それが美羽の精神を一層追い込むことになっていく。 「泣いちゃ、駄目……!」 普段の強気な彼女の面影も、今は無い。 いつもなら何でも無い人ごみも、今では気持ち悪いものでしかないのだ。 「美優……あに……っ……!」 兄貴、そう口に出してしまいそうになって、咄嗟に口をつぐんだ。 あんな奴、もう知るもんか。美羽はそう心の中で繰り返す。 だけど、いつだって美羽の傍には誰かがいた。 それは時には大翔で、時には美優で、時には他の友人だった。 だけれど、今は誰もいない。 「ぅ……」 今は動いてくれているこの足も、必死に恐怖を抑え込んで、ゆっくり一歩一歩踏みしめるようにして何とか保っているのだ。 本当は、もう泣いて叫んで助けを呼びたい。 携帯で美優を呼ぼうと思ったけれど、運悪く充電が切れていた。 「もう、やだ……」 大翔に、また裏切られた。 それが美羽の怒りの原因。 (全部、兄貴が悪いんだ……!) ずっと一緒だと大翔は言った。 破られることのない約束だって思っていた。 世界の崩壊だって、信じてあげたのに。そんな意趣返しのようなことをされるだなんて予想もしていなかった。 そんな思いやりは、美羽には微塵もうれしくない。 「……うう……うぁ……ぁぁぁぁぁぁぁああああっ!」 コンビニの前で膝を抱えてうずくまり、誰にも見られないように涙を流す美羽。 みっともなく喚いているその姿に、周りの人間は奇人を見るような目を向けるだけ。 (傍にいてよ……! 手を、握っててよ……!) 孤独に押しつぶされ、既にまともな思考は働かない。 そんな哀れな姿を、駐車場に入ってきた車のハイビームが照らし上げる。 「……なんだ、結城姉。そんな山南と別れた明里のように泣いてどうした」 「ノア、先生?」 真紅のエリーゼからカツンと足音を響かせて降りたったのは、ノア・アメスタシアその人だった。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。