初日a

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 まだ眠りたいんだと騒ぎ立てる頭と体にムチを入れた俺は階段を下り、重い足を引きずってリビングに向かっていた。  小鳥の囀りと日光が眩しいリビングは朝の光景としては最上の部類に入るだろうが、低血圧の俺が感じるのはまぶたの重みだけだった。 「休みじゃないのに随分とごゆっくりなお目覚めね。いい夢見れた?」  開口一番、結城美羽(ゆうき みう)が皮肉たっぷりの言い方で俺を一瞥する。ツリ目で黒みがかった赤系の髪と眼が印象的な皮肉屋だ。  毎度のことながら口うるさいのだけは直らない。朝っぱらから他人の神経逆撫でしようとするのは真性だからか? それとも努力してこうなったのか? 「ああ。囚われた姫を助けるために魔王と対峙したところで終わった」 「クライマックスじゃん。今夜続きが見れるといいわね」 「ハッピーエンドさ。もう決まってる」  その後美羽が何か言ったがよく聞き取れなかった。問題ない。  食パンをかじっている美羽を横目にイスに座る。それとほぼ同時に、「おはようございます」という声が聞こえてきた。  キッチンから、結城美優(ゆうき みゆ)の極上のスマイルがのぞいていた。タレ目で黒みがかった青系の髪と眼が印象的なカワイイ妹だ。  俺はあくびで出迎える。 「ああ、おはよう」  美羽に比べれば、美優のなんと女の子らしいことか。朝一番で皮肉をぶちかます女の今後が本気で心配になってくる。貰ってくれるような物好きはそうそういないから物好きなのだ。 「お兄ちゃん、ごめんなさい。今日の朝ごはんは昨日の残り物でいい?」 「ん? ああ、いいよ」  美優は申し訳なさそうにペコりと頭を下げた。こういう素直さは実に好感が持てる。それに引き換え、美羽は俺の顔見ながらニヤニヤと笑みを浮かべていた。  理由は分かっている。  前に美羽相手に一日における三食の黄金パターンを語ったことがあった。朝はコーヒーとパンとハムエッグで始動し、昼は焼きそば及びチャーハンなど一品で食べられる物、夜はご飯、味噌汁、そして肉と野菜を七対三の割合で構成されたおかずを食すのが一番だと。感想もなく、見事にただ鼻で笑われたことはショックだった。今、奴の頭の中ではそれがフラッシュバックしてるんだろう。普段俺を弄る要素があまりないようで、ネタを見つけると一年以上は確実にからかわれる。  いいさ、いくらでも笑えば。これは俺の中で人生におけるルールに加えてもいいくらい重要だ。 「ねぇ、兄貴ぃ」  パンに肉じゃがの肉を挟んでいる最中に美羽がコーヒーカップを弄りながら言った。 「そろそろ試験だからさぁ、数学教えてよ」 「数学は許容範囲外だ」 「じゃあ、世界史」 「暗記しろよ」 「お兄ちゃん、教えてあげたら?」  俺の隣に座った美優がコーヒーに角砂糖二、三個入れながら言う。  両親が他界してから、もう三年が経った。初めは大変だったが、今は三人で仲良く暮らしている。家事は全般的に美優任せだが、俺も時々手伝っている。美羽に任せると洗濯機回すだけなのにまるごと爆発させるようなミスターマリックもびっくりのイリュージョンを起こしそうだし、本人もやる気はないようで毎日堕落の限りを尽くしている。そんな感じだ。 「兄貴、コーヒーこぼしてるよ」 「テーブルにおすそ分けしたんだよ」  美優はパタパタとナプキンを取りにいった。  まさにこの時まではよくある朝の光景の一部分だった。この時までは。 「駄目だなぁ」  美羽が俺を見ながらため息をついた。朝からテンション高い奴なんてそうそういるもんか。  毒づくことすら面倒だった俺は美優に入れてもらった二杯目のコーヒーに口をつけていた。その時だ。  一瞬、ぱっと窓が光り輝く。続いて玄関の方でドスンという音が響いてきた。家が軽く揺れる。  美羽も美優も玄関の方を見ながら呆けている。 「何、今の?」  俺は気にせずコーヒーを飲んでいた。どうもまだ眠い。 「兄貴」 「なんだよ」  美優が怯えるように俺の近くに擦り寄ってきた。 「何、今の光」 「お日様がもの凄く差したんじゃないか?」  美羽が「このボケ老人が」というような目で見た。 「音は? 何かが地面に落ちたような……」 「近所のポチが壁に頭をぶつける時も似たような音が出てた」 「お兄ちゃん、見てきて」  美優がすがるような目で訴えてくる。こういう時、女は反則だなと思う。  俺は残り少ないコーヒーを一気飲みすると、すくっと立って玄関に向かった。「変質者か?」と美羽が玄関を睨んでいた。随分と早起きな変質者だな。  大方、陽菜か貴俊がどっきり企画でも立ち上げたんだろうが俺には効かんぞ、などと思いながら玄関を開ける。  その予想は見事に裏切られた。  目の前には、金髪ロングでドレスを来た女性と、黒髪ショートでメイドの格好をした……女性がうつ伏せに倒れていた。しかもメイドの方は右手に抜き身の大剣を握っている。  美羽がひょっこり顔を出してきた。 「兄貴……魔王に囚われた姫はメイドに助けられたようだね」  笑えない冗談だ。  何をするべきか頭が回らない内にメイドの方が目を覚ました。気絶している金髪ロングの女性を確認すると跳ね起きた。 「ひ、姫様!」 「本当にお姫様だって」  美羽が呆けてる俺の顔を覗いてくる。  ツッコミ待ちなら他をあたれ。 「大丈夫ですか! 姫様!」  声に反応した姫がゆっくりと目を開ける。 「レン……」 「よかった……」  これが戦場だったなら、感動のシーンに見えなくもないが、玄関前で飛び石の上でやられると茶番にしか見えない。二人の女性は互いを称えあうように抱き合っていた。薄っすら涙すら見える。  横槍を入れるのが躊躇われる。というか、正直関わりたくなかった。 「お兄ちゃん……どう? 大丈夫?」  美優が心配そうな顔でゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。 「あの~、大丈夫ですか~?」  美羽が二人を取り巻く空気を壊さない程度の声で言った。どちらの意味で言ったのか俺には分かるはずもない。  ようやく俺たちの存在に気づいたメイドは素早く立ち上がり、剣先を突きつけてきた。 「なんだ貴様ら」  あれ? それこっちのセリフだよな? 間違えたか? 台本見直さなきゃ。 「名乗れ!」  思った以上に興奮している。これが演技だったらオスカーものだ。それにしても、あまりの非現実性に目の前の情景が夢にしか見えなかった。  メイドも、金髪ロングの女性も酷く疲れているようだった。肩で息をしながら狼のような目つきで俺と美羽を威嚇している。  これは思った以上にやばいかもしれない。  剣先が俺の目の前から美羽に動いた瞬間、俺は美羽を引っ張って家の中に蹴り込んだ。ドアを閉めるとほぼ同時に左耳に何か冷たいモノが掠める。  ドスっという音が生々しく聞こえる。ドアに剣が突き刺さったのだ。お世辞にも耳障りのいい音とは言えない。 「名を名乗れと言っている」 「ヒロトだ。結城大翔」  まったく、朝っぱらから剣で刺されそうになる高校生なんてそうそういるもんじゃないぞ。  やばい相手だとは分かっているが、いまいちピンと来ないのはシチュエーションが可笑し過ぎるからだろうか。ああ、あと寝起きだからだ。頭が回るはずもない。 「剣を収めろ」 「断る」  メイドがドアに刺さっている剣を引き抜いて、再び俺の目の前に突きつける。  どう解釈すりゃいい? 俺はどういう選択をするべきだ?  簡単だ。なんとか出てってもらえばいい。さっさと家の前から消えてくれれば、俺たちはまた何でもない一日を満喫できるって寸法だ。今日は帰りに貴俊と買い物に行く約束があるんだから。 「兄貴!」  美羽が金属バットを持って庭から出てきた。またややこしくなるようなことしやがって。  俺は手で追い払う仕草をしたが、美羽はまったく気にした様子がなかった。 「レン、剣を収めなさい」 「ですが――」 「収めなさい!」  レンと呼ばれているメイドは一度びくっとすると、すぐに剣を鞘に収めた。  金髪ロングの女性はメイドの肩を借りながらゆっくりと立ち上がった。 「失礼しました。私、ユリア・ジルヴァナと申します。非礼をお許しください」 「……」 「あの、失礼ですがここはどこでしょうか?」  金髪ロングの姫様、ユリアは丁寧に聞いてきた。本当に茶番にしか見えないから困る。 「都内だけど」 「トナイとは?」 「日本だ」  意地悪のつもりで言ったが、二人は心底驚いた表情で互いを見ていた。 「ニ、ニホンとは?」 「国の名前だよ」  メイドであるレンが笑顔を見せた。 「成功ですよ、姫様!」  レンとは反対に姫らしいユリアは青ざめ、大きなため息を吐くと倒れてしまった。  今日、学校をサボったのは間違いなく痛手だった。中間テストの範囲発表と出題可能性Aランクの授業があるというのに。誰かに写させてもらわないと。  家が近い貴俊はノートに数学の公式よりもパラパラ漫画を描くのに夢中だろうからあてにはならない。お隣に住んでる陽菜はボーっとして重要な部分を見事に書き忘れることがよくあるから駄目だ。おいおい。俺の周りはなんでこんなに抜けてるんだ?  クラスで一番信用できる奴は誰かと思案していると部屋をノックする音がした。 「お兄ちゃん。ユリアさんが目を覚ましたよ」  メイドにお姫様と呼ばれていたユリアという女性が倒れてから、手のひらを返し懇願するメイドに折れた俺は家の中に入れていた。美羽は相当ごねていたが、それも仕方ない。客間に布団を敷き、安静にさせていたのだが、三十分ほどで起きたようだ。  ドアを開けると美優が複雑そうな顔をしていた。 「ごめんな。今からでも学校行っとくか? 試験近いだろ?」 「ううん。大丈夫」  ああ、もうこりゃ、美羽にも美優にも勉強教えることになりそうだ。 「美羽は?」 「お姉ちゃん、金属バット持ったままレンさんと睨み合ってる……」 「はぁ……」  まったく、しょうがないな。  リビングに下りて、美優に何か飲み物を持ってくるように告げると、足早に客間に入っていった。  ほとんど美羽と美優の服置き場と化している客間だったが、元々五人くらいなら仲良くオヤスミできる広さの部屋だ。服がインテリアになっている事を我慢すれば寝れなくはない。  互いに牽制しているようで、レンと美羽は座りながらも互いに得物を持ったままじっと見つめあっていた。ギスギスした空気はごめんだったが、上半身だけ起こしたお姫様であるユリアに話を聞く必要があったし、一触即発状態の爆弾抱えた部屋をほっとくわけにはいかない。 「美羽。外に出てろ」 「嫌」  ちょっとは俺の話をだな……。 「なら、その危なっかしいバットを窓の外にでも放り投げろ。必要ないだろ」  美羽がレンの大剣を凝視している。 「美羽。外に出るか、バットを窓の外に捨てろ。部屋からたたき出すぞ」  ゆっくり立ち上がった美羽はバットを握り締めたまま、部屋の隅に移動して再び座った。  そこが美羽なりの妥協点だったようだ。話が進まないので、強引によしとしてユリアに向き合った。  相変わらず、青ざめた顔は重大な間違いを犯してしまった子供に似ていた。美優に気立てが似ているかもしれない。 「さて、なんで家の前で倒れていたのか聞かせてもらえるかな」  叱られた子供がびくっとするように体を振るわせると、ユリアは言いにくそうに口を開いた。 「私が言おう」  メイド剣士、レンが言ったが俺は意図的に無視した。ユリアをじっと見る。 「レン、私が説明します。私たちは……この世界の人間ではありません」  ほぼ同時に美優が五人分のコーヒーを持ってきた。おかげで思案する時間が出来たのだから、美優に感謝すべきだろう。  ここまでで、一体どれだけの可能性が生まれるだろうか? 一つ目はドッキリの類。しかし、どうも嘘をついてるようには見えないし、演技でここまで出来るか? 二つ目は統合失調症など精神的におかしい人。これなら、本人は真面目なのだから必死なのは分からないでもない。でも、なんでうちに? 三つ目は……本当に異世界が存在し、やってきたという話。だけどそれは、少し飛躍しすぎだろう。  なら、やはり、精神的な部分だろうか。それなら、こっちの対応は決まってる。警察に連絡して、連れて行かれる。運が悪けりゃ施設にぶち込まれる。  ただ一つ、ひっかかることがあるからまだその判断はしない。 「他の世界から、来たと? 何故こっちの世界に来たんだ?」 「もう少し口に気をつけろ」  レンが唸るように言った。だが、また意図的に無視した。  美優が俺、メイド、姫、美羽の順にコーヒーを渡し、俺の少し後ろに座った。  俺はミルクの入ったコーヒーを軽く啜る。 「貴方たちがいるこの世界は、あと一年で崩壊してしまいます。理由は定かではないのですが、この世界が崩壊すると私たちの世界にも悪影響が出てしまう。だから、私たちは原因を探るためにこの世界へ……」  なんだそれは? 「どうやってきた?」 「空間移動魔法で……」 「魔法?」  美優が思わず声を出して、すぐに口を閉じた。  益々胡散臭い。やはり、ドッキリの類なのだろうか。 「魔法、何でもいいからここで使える?」  その一言でレンとユリアの二人ははっとした顔をする。 「レン……これは……」 「姫様……いえ、これなら少しは出来るはずです」  レンは手のひらを上に向けて、気合を入れるように「はッ!」と口に出した。  次の瞬間、手のひらから強い光と共に炎が一瞬出た。しかし、ほんの一瞬だ。 「手品か……」  フラッシュペーパーを使えば誰だって出来る芸当だ。  心底がっかりした俺は警察を呼び出そうかと本気で考え始めていた。ここまで来るとそろそろ俺の手には負えない。この子らが何の意図があって俺にそんな話をするのか分からないし、分かったとしても何かのお役に立つことはなさそうだ。折れて家にあげちまったのが運の尽きか。ちょっと休ませたら、理由をつけてとっととお帰り願おう。  ため息を吐きつつ、立つ。それに何か危機的な意味を感じ取ったのか、ユリアが「待ってください」と言った。 「姫様、無理です。この世界では魔法は……」  ユリアが両手で玉を抱えるような形を取ると、風がふわっと吹き始めた。  窓は開いていない。閉鎖された空間で風が舞う。 「はァァア」  ユリアを中心に風が吹き荒れる。髪が何度となく踊っては頬を痛いくらいに打つ。がしゃんとコーヒーカップが倒れる音もしたが、気にする余裕はなかった。  段々強くなっていく風は飾ってある服を巻き込み、部屋の中を高速で飛び回っている。レンに服が何着か覆いかぶさって、そこからまた吹き飛ばされたシャツが俺の目の前を掠める。何かに引っかかったのか、ビリっという音がした。飛んできた枕がレンにぶち当たった。みしみしと部屋が悲鳴を上げた。目が容易に開けられない状態で、俺は腕で防ぐこともしなかった。そして緑色のショールが俺の視界を遮ったのを最後に風は緩やかになっていき、そよ風がショールをふわっと踊らせて終わった。  視界が見えないまま、随分そうしていた。  腕が動かないことに少しの間気づかず、それが美羽と美優が抱きついているせいだと気づいたのはもっと後になってからだった。  緑色のショールがずるっと落ちた。 「ど、どうですか」  どうですも何も、ここまでやられたら魔法の存在を曲がりなりにも信じるしかないじゃないか。けど、それを信じるということは、他の話も肯定前提で考えなきゃいけないということで。異世界とか、そこから飛んできたとか、この世界があと一年で崩壊してしまうとか、つまり、そういう事も視野に入れなきゃならないのか。おまけに関わっちまった手前、今更蹴り出すわけにもいきそうにない。  まったくとんだ一日の始まりだ。  美優はまだ俺に抱きついてブルブル震えている。美羽はもう離れていて、バットも落としていた。メイドのレンは俺をじっと見て何か考えているようで、姫のユリアは監督に自分の練習の成果を見てもらう選手のような顔で俺を見ていた。勘弁してくれよ。  ここで今何かを即座に認めるのを躊躇った俺は、素っ頓狂な言葉を口走っていた。 「とりあえず、片付けようか」  超局地的に起きた台風による被害は、客間にある美羽と美優の服たちだ。  両親が死んでから三年。  毎朝、学校に行く前にリビングにある仏壇の前で手を合わせるのは俺の日課になっていた。  客間を片付けようとして、「兄貴はいいよ」と美羽に蹴り出された俺はこうしてあの世の両親に愚痴に近い今日の出来事を報告しているのだ。まだ半日も経ってないのに。  なぁ、親父。あんたなら間違いなくあの二人を疑うことなく助けてたよな?  死んじまった親父は誰がどう見てもお人よしの塊だった。人に頼まれれば、嫌な顔ひとつせずにこなしてみせる。責任を取らない昨今のクソミソどもの尻拭いを幾度となくさせられる事もよくあり、まさに損な性格を真っ向から堂々と歩いていた。  宗教の勧誘屋に二時間付き合ってやったり、泣いて頼まれれば数十万単位で金を貸す。計画立案、面倒な仕事でも同じ。いくら仕事が忙しくてもだ。いつも使われる側だ。おまけに厄介なことに有能だった。  昔からあまり遊んでもらえなかった俺は、いつか何故そんなにお人よしが好きなのか親父に聞いてみたことがあった。  ――さぁてね。そうしたいだけだからだと思うよ。ご立派に語れる理由なんてないさ。理解できないか? 大丈夫。お前にもいつか分かる時が来るさ――  今でも理解できないね。いつも楽なことしか考えていない連中に一体何をしてやるって言うんだ?  てめぇの不甲斐なさを棚に上げて、自己主張だけは立派な連中の何を?  自分が絶対に正しいと信じて疑わず、その結果他人を巻き込むような連中の何をだ?  そんな連中をいい気にさせてたらそれこそ国家的損失だろう。長い目で見りゃ、もっと酷いことをするような連中だ。  親父、それはただの自己満足だったんじゃないか?  そこまで考えて俺はちょっと笑った。  あぁ、そうか。別にお人よしの塊というわけじゃなかったんだな。ただちょっと、人に理解されない暇つぶしの方法だったんだろう。なら俺も、好きなことをやるだけさ。  カチャっと後ろでドアがゆっくり開く音がしたが、俺は目を閉じて仏壇の前で手を合わせたまま動かなかった。  ただ一言、「レンか?」と言った。 「え……ああ」  美羽ならもっと乱暴に開けるだろうし、美優なら俺に面と向かい合う前に話しかけてくる。見たところお姫様であるユリアは立ち上がる気力もなさそうだし、一人で積極的に動き回るということもしそうにない。メイドのレンなら、恐らく何かをしている人間の邪魔は極力しないようにするはずだ。だから声をかけて来なかった。そんな俺の推理はまぁそれほど大きく間違っていなかったようだ。 「お姫様はいいのか?」 「実は、頼みがあるんだ」 「ここをベースキャンプにしたいって話か?」  異世界から来た人間だ。金も無けりゃ知人もいるはずはない。とんでもなく突然なホームステイの要望を俺がこの家の主と思った彼女が交渉に来たのだろう。外人と違い、言葉が通じることがせめてもの救いか。  あれ? 異世界は外国と言っていいよな? 「非礼は詫びる。出来ることなら何でもする。だから、ここに泊めてくれ。姫様に野宿なんてさせたくないんだ。私は外でもいい」  俺は手を合わせたまま、目を開けた。  実際は三十秒ほどの沈黙だっただろうが、向こうには嫌に長く感じられたに違いない。時計の秒針の音が大きく聞こえる。俺の目の前では、親父とお袋のニコニコ笑ってる写真がこっちを見ていた。  親父、あんたのお人よしの性格を俺は生前馬鹿にしてたけどな、どうやらいつの間にか俺にも受け継がれていたようだぜ。  この体たらくを笑うかい? 「そんな事をしたら、俺は妹二人に一生白い目で見られるわ。寝る場所は客間な。しばらくは服のインテリアで我慢してくれ。家事は手伝ってもらう。勝手なことは出来るだけするなよ。この世界の常識を知らないだろう?」  俺は手を合わせるのを止めて、レンに向き直った。 「それが条件だ」 「すまない。恩に着る」  俺がちょっと笑うと、レンも釣られるようにぎこちなく笑った。笑ったのは多分、俺もレンも自嘲的な意味しか含まれていなかっただろう。  沈黙に耐えられなかったのか、レンが仏壇を指差す。 「これは何だ?」 「んー、死者を祭る祭壇かな」 「何をしていたんだ?」 「あの世の両親に現在状況の報告かな。見守ってくれよって」 「そんなことをするのか。私たちの世界ではなかったな。死んだ人間は精霊たちの一部になる。個から全になると言われていて、死者を祭ることなどなかった」  異世界の話か。まったく、本当に信じられないな。 「やってみる?」 「ど、どうすればいい?」 「目を閉じて、手を合わせて、そうだなぁ挨拶すれば十分じゃないかな。はじめましてってね」  レンは言われた通りに仏壇の前で目を閉じ、手を合わせて挨拶を始めた。 「はじめまして。私はレン・ロバインです」  口に出すとは思わず、危うく吹いてしまうところだった。 「今日からこの家でしばらくの間泊まらせていただきます。この世界に飛ぶまでは不安でいっぱいでしたが、なんとか姫様と一緒に祖国のために頑張れそうです。精霊の力が少ないこの世界では、魔法はほとんど使えそうにないので苦労するかもしれません。ですが、姫様だけは私の命にかけて守り続けるつもりです。どうか、少しだけでも私たちの事も見守っていてください」  レンは言い終えると照れくさそうにこちらを見た。 「つ、伝わったかな?」 「伝わったよ」  特に俺にな。  貴俊が開口一番で言う。 『あのな、世界は俺を中心に回ってるんだよ』  自分の部屋に戻っていた俺は、机の上でやかましく鳴るケータイを大人しくさせて、今度は電話の向こうの相手を大人しくさせる必要に迫られていた。  学校に来ない俺を心配になって電話してくれたのなら、俺ももう少しこいつの話を素直に聞いていたかもしれない。 「唯心論か?」 『馬鹿が! 学校には来なくとも、お前は今日俺に付き合うんだってことだ!』 「他の奴と行けよ。それか一人で行け」  買い物に行く約束をすっぽかすと思った貴俊は休み時間が終わる前にこうして電話をしてきたのだ。耳が痛い。 『一人で? お前よ、人という字は人と人とが――』 「待て待て。ボケるな。お前はツッコミ専門でいけ」 『大翔くん? お前のボケは分かりにくすぎるんだよ。俺に任せとけ』 「つまらないボケにツッコミを入れるのは疲れるんだよ」  俺は電話越しに露骨なまでのため息を吐いてみせた。 『お前、ただ楽したいだけじゃねぇか。ボケはなぁ、世界を救うんだよ! これを理解できるのはプロ』 「ほら、どっからツッコミを入れればいいのか分からん」  電話の向こうの貴俊が落胆したように言う。 『惜しい。どんなボケにもテンポのいいツッコミをする人間がいる確率は、甲子園で全打席ホームランを打つ人材を発掘する確率より低いからなぁ。天性の才能がお前にあればなぁ』 「なんでお前のためにツッコミ入れなきゃならんのだ」 『俺たち友達だろ?』 「俺が天性のツッコマーだったら、ボケの下手な友人は切るね」 『悲しき性だぜ』  まったく、こいつの言っていることはホントわけわからん。 『それはそうと、君は今から出られるかね?』 「は?」 『だぁから、俺は授業フけるから、お前も出て来いって言ってんの。お前のことだからどうせ寝坊したから面倒で来なかったとか、そんな感じだろ』  それはお前だろう。 「お前なぁ、テスト前でよく普通にサボれるな。単位落とすんじゃないか?」 『ちょっとくらい単位落としても俺は困らん。世界も困らん。神は天にいまし、世はこともなし。だがしかし! あると思っていたイベントがなくなると途端に俺の胸の辺りにぽっかりと穴が開くんだ。こいつは物凄く厄介だぜ。お前を見るたびにこの悲しい日を思い出すんだ。大翔くん、友人にそんな重荷を背負わせる気か?』  スケールが……。  貴俊お得意の演説だ。今日はまだ抑えているらしい。一度、原稿用紙十枚分くらいの演説を聞いたことがあるが、勘弁してくれと何度途中で口を挟んだか分からない。 「帽子ほどの重さだから気にするな。風が吹けば飛んでくだろうさ」 『いいや、俺が言いたいのはそんなことじゃないんだ。今日は十周年記念セール中で、これを見逃すくらいなら部屋で百匹のゴキブリと戦闘する方がマシってことだ。さぁこれから行く場所は戦場だぜ。槍と鉄砲は準備しろよ。お前の背後は俺に任せろ。俺の背後はお前に任せる』 「俺はまだ行くとは言ってないぞ」 『お前が本当に行く気ないなら、さっさと電話切ってるさ』  こいつはいつも分かってやってるから困る。ある意味、美羽や美優よりも俺の扱い方が上手いかもしれない。 「何で今からなんだよ。まだ学校あるだろ?」 『野暮だぜ。何でお前がプラプラ遊んでる時に俺がせっせと勉学に励まにゃならんのだ。あーあ、こんな事になるなら俺も登校するんじゃなかった』 「分かったよ。多分出れると思う。そういえばまだ着替えてなかったわ。ちょっとバタバタしてたから、多少遅れるとは思う」 『戦場で遅れるのは死を意味するぜ。ま、私服でいいからさっさと来いよ。槍と鉄砲は必ず持って来い』  やれやれ。  電話が切れると俺は部屋を出て、軽くため息を吐きながら四人が固まってる客間に足を踏み入れた。  ユリアはまだ布団の中で安静にしている。レンはその横で憮然と座っている。レンとは布団を挟んだ反対に美羽と美優が並んで座っていた。  居候諸君にこれから色々と話を聞きながら、家事における役割分担を振り分けようと思っていたのに。まぁ帰ってからでも遅くはないと思うが。  妹二人のうち、美羽はというと、俺が居候のOKサインを出したことが酷く気に入らないらしい。美優は「お兄ちゃんがいいなら」と別にどうでもいい様子。これから先が思いやられるなぁと頭を抱えそうになるもんなのだが、俺が決めたのだから仕方ない。 「兄貴、部屋で電話してたでしょ。もしかして、黒先輩?」 「まぁな」  こいつ、わざわざ俺の部屋の前で聞き耳立ててやがったな。 「兄貴の独断と偏見で居候することになったユリアさんとレンさんですが、ここで暮らすには少し物が足りないというか、必要なものを買いに行かなきゃならないと思っているのです。服もめちゃくちゃになっちゃったしね」  ユリアは俺を見て軽くペコっと頭を下げた。  回りくどい気がする。どうも美羽の意図が読めない。 「何か買いに行くってことか? 金は出すよ、いくらぐらい欲しい?」 「お金は兄貴が持っててよ。どうせ行くところは同じなんだし。十周年記念セール楽しみ」 「……」  美羽は俺と貴俊との電話越しの会話で見抜いたのだろう。セール期間は完璧に頭に入ってるだろうし、貴俊の性格もよく分かってる。変なところで気が合うらしく、たまにメールのやり取りもしているらしい。そこから、今日のことが漏れてるかもしれないがまぁとにかく。  あぁ……頭が切れる妹を持って幸せだなぁ、俺。 「お兄ちゃんごめんね。リストに上げたら結構たくさん必要なものが出てきちゃって……ワタシたちだけじゃちょっと大変だから……」  強制荷物要員!? 「私は必要ないと言ったのだがな。少しくらいの荷物なんて問題ない」  美羽が笑ってレンに返す。 「物理的に無理だから。魔法で手が二、三本生えるって言うなら別だけどね」 「大翔ぉ、確かに槍と鉄砲は持って来いって言ったけど、それは心の中の話だぜ。ついでに言うと刀や爆弾も持ってきたのか?」  黒須川貴俊(くろすがわ たかとし)が、俺の後ろにいる女たちを見てそう漏らした。  駅のターミナルでは、平日とあって人がまばらだ。デパートの十周年記念セールを何も平日にやらなくてもいいだろうと思う。一週間丸まるセール期間にすりゃ人も来るだろうに。 「何々、美羽ちゃんも美優ちゃんも学校サボったの? おいおい、一家総出で買い物ですか。確かにセールは見逃せないよ。続き物のドラマを見逃しても、こっちは見逃しちゃいけないけどさ。そちらのお二人さんは? 外人?」 「こんちわー、黒先輩」美羽が言った。 「お久しぶりです。黒先輩」美優が言った。  貴俊は察しがいい。すぐに荷物持ちになるのだと気づいた。そして、俺の方をじとっとした目で見つめてくる。  すまん。今度なんか奢ってやるから。  そんな事を思いながら、ユリアとレンを前に出して紹介する。 「こっちがユリア・ジルヴァナ」  ユリアはペコりと頭を下げた。 「こっちがレン・ロバインだ」  レンが「どうも」と言って頭を下げた。 「わけあって二人ともうちでホームステイ中だ。イギリスから来た。日本語は普通に喋れる」  貴俊は「ホームステイ?」と呟いたが、その場では何も言って来なかった。 「ユリア、レン、こいつはクロだ。クロって呼んでやってくれ」 「クロさんですね」 「大翔、それは真っ黒クロスケと黒猫のクロとどっちの意味を込めて命名した?」 「真っ黒クロスケの方だ」 「それならばよし。さて、自己紹介も終わったし行きますか」  それから、六人の不思議な団体はデパートに入って行く。  平日だと言うのに暇人どもの列がそこかしこに出来ているのはある意味圧巻だった。セール中の垂れ幕やらが「こんなにいらないだろ」と言いたくなるほど自己主張をしている。  俺や貴俊の分を買っている間、美羽の妙な威圧感は言葉に出来ない。「先に行って見てろよ」という俺の言葉もどこ吹く風で、金魚のフンのごとくついて来る。たまに貴俊が美羽を見てにっこり笑い、俺を見て「この借りは返してもらう」と顔が言っていた。  ユリアとレンはというと、美羽と美優の服を着させてから言った、俺の「出来るだけ大人しくしてろ、その場で困ったことがあったら美羽や美優に聞け、疑問点は箇条書きでメモしとけ、後で答えてやる」という言葉をきちんと守っているようで、目をキラキラさせながら周りを見ている。今頃はきっと俺たちの足の速さが恨めしく思っている頃だろうな。「もっとゆっくり見させてくれ」ってな具合に。  だが生憎ながら、そんなことしてたら間違いなく閉店までここにいる事になっちまう。疑問をいちいち聞いてたらそれこそお話だけで終わっちまう。  バスに乗った時も叫び出すんじゃないかとヒヤヒヤしたものだった。今回はないが、いつか電車に乗る時も同じようにドキが胸々するに違いない。  ものの三十分で俺と貴俊の買い物が終わり、女四人衆の出番がやってきた。  はっきり言って、ここからは地獄の時間にしかならないのは目に見えていたし、実際そうだった。 「見て見て。ユリアさんとレンさん!」 「ああ、かわいいよ」  このワンパターンの会話をほぼ繰り返すだけで二時間以上持つのはそうそうあることじゃないと思う。  何故か服買う時間にかなり費やしていることに気づき、「他の買ってくるよ。何が必要?」という俺の言葉を美羽は、「えーっと、あーもうちょっと待って」と一蹴した。  美羽も美優も初っ端はあんなに険悪な空気だったのに今は見事に打ち解けてやがる。我が妹ながら順応能力が高いな。  さらに二時間かかったところで俺と貴俊は休憩所を見つけて強引に座り込んだ。俺たちがかなりお疲れの顔を見せていたのか、それともどうでもいいのか、美羽は「あーハイハイ」と言ってすぐに自分の服選びに夢中になっていた。台風の被害は服どころか、金と精神的な二次災害を生み出していた。  俺は自販機からミルクティーとレモンティーを買うと、レモンティーを貴俊に投げた。貴俊は受け取るとすぐにうな垂れた。俺もそんな気分だ。 「なぁ、貴俊。女の買い物はなんでこんなに長いんだろうな」 「あぁ? 決まってんだろ……着飾ることに命かけてるからだよ」  貴俊はうめくように言う。 「俺は腹の具合の方がよっぽど大事だがな」 「そんな事言ってるから、美羽ちゃんに『兄貴、マジセンスねぇ』って言われるんじゃないか。精々いいのはそのネックレスぐらいだ」  貴俊の視線の先には、杖の天辺に羽が生えていて、二匹の蛇が杖に絡み付いているアクセサリーがあった。 「流行の服を追いかけることに夢中のお前に言われたくない」 「しっかし、長いな。服選んでる時間だけで、二、三本は長編映画が見れるぞ。近くに映画館があるから、ちょっと抜けるか。見たい映画があるんだ」 「気づかれたら、当分飯抜きにされるだろうからヤダ」 「お前、本当に妹二人にゃ甘いなァ。将来は絶対、尻に敷かれるタイプだな」 「ほっとけ」  それから会話の糸口が見つからず、俺も貴俊もしばらく黙っていた。  たまにユリアや美優がこちらを心配そうにチラ見してくる以外は特に大した変化はない。まだまだ買い物を楽しむらしい。 「そういえばあの二人さ」貴俊がレモンティーを飲み干してから言った。「何なわけ?」  このタイミングで切り出すのだから、こいつは空気が読めると言っていい。 「ホームステイだって? ありえないだろ」 「まぁな。ちょっと俺もね、まだ口に出したくないんだよね。自分でも信じられないから」 「へぇ? そんなに訳分からない状況になってるわけ? もしかして、今日学校に来なかったのもソレか?」  察しがいいね。  俺は軽く頷いてみせた。貴俊は鼻で笑ってみせた。 「居候することになってるのはマジなの?」 「それはマジだ。ただそこに至るまでの過程が普通じゃない。これから全員連れて精神病院直行してもいいくらいだ」 「そんなにか。ここで聞いてもいいけど、込み入った話をするにゃちと騒がし過ぎるな。まぁ何にせよ、ヤバくなったら言えよ。お前は無理し過ぎるところがあるからな。倒れる直前までまるで普通の顔してるってことがよくある。ホント損するタイプ」  俺は自嘲的に笑った。 「これを聞いたら、お前も俺を精神病院にぶち込みたくなるぜ」 「そいつは楽しみだね。どんな夢物語を話してくれるのか今から期待してるよ」  貴俊はニヤっと笑って俺を見た。  こいつには本当に助かってる。頼りすぎなんじゃないかってくらいに。両親が死んだ時もそうだった。俺なんかよりもずっと冷静で飲み込みも早い。普段は馬鹿だけど。 「それにしてもなぁ、まだかなぁ、美羽ちゃんたち……」 「ああ、マジ鬼畜」 [[初日b]]へ
 まだ眠りたいんだと騒ぎ立てる頭と体にムチを入れた俺は階段を下り、重い足を引きずってリビングに向かっていた。  小鳥の囀りと日光が眩しいリビングは朝の光景としては最上の部類に入るだろうが、低血圧の俺が感じるのはまぶたの重みだけだった。 「休みじゃないのに随分とごゆっくりなお目覚めね。いい夢見れた?」  開口一番、結城美羽(ゆうき みう)が皮肉たっぷりの言い方で俺を一瞥する。ツリ目で黒みがかった赤系の髪と眼が印象的な皮肉屋だ。相当な完璧主義者でもあり、昔、俺直々に勉強を教えた時など俺が悲惨だった。自分が理解するまで決して妥協しないため、中途半端に理解している俺はその都度教科書とノートと授業中の場面をひっくり返すはめになり、ギブアップしたかった思い出がある。  それにしても、毎度のことながら口うるさいのだけは直らない。朝っぱらから他人の神経逆撫でしようとするのは真性だからか? それとも努力してこうなったのか? 「ああ。囚われた姫を助けるために魔王と対峙したところで終わった」 「クライマックスじゃん。今夜続きが見れるといいわね」 「ハッピーエンドさ。もう決まってる」  その後美羽が何か言ったがよく聞き取れなかった。どうせ返してくるのは煽りか皮肉だ。リアクションはしなくてもいいだろう。  食パンをかじっている美羽を横目にイスに座る。それとほぼ同時に、「おはようございます」という声が聞こえてきた。  キッチンから、結城美優(ゆうき みゆ)の極上のスマイルがのぞいていた。タレ目で黒みがかった青系の髪と眼が印象的なカワイイ妹だ。弱弱しそうな外見ではあるが、美羽よりも頑固だったりするから困る。たまにボーっとすることもあり、その点に関しては「やぁ同類」と満面の笑みで迎えたい。  美優に俺はあくびで出迎えた。 「ああ、おはよう」  美羽に比べれば、美優のなんと女の子らしいことか。朝一番で皮肉をぶちかます女の今後が本気で心配になってくる。貰ってくれるような物好きはそうそういないから物好きなのだ。 「お兄ちゃん、ごめんなさい。今日の朝ごはんは昨日の残り物でいい?」 「ああ、いいよ」  美優は申し訳なさそうにペコりと頭を下げた。こういう素直さは実に好感が持てる。それに引き換え、美羽は俺の顔見ながらニヤニヤと笑みを浮かべていた。  理由は分かっている。  前に美羽相手に一日における三食の黄金パターンを語ったことがあった。朝はコーヒーとパンとハムエッグで始動し、昼は焼きそば及びチャーハンなど一品で食べられる物、夜はご飯、味噌汁、そして肉と野菜を七対三の割合で構成されたおかずを食すのが一番だと。感想もなく、見事にただ鼻で笑われたことはショックだった。今、奴の頭の中ではそれがフラッシュバックしてるんだろう。普段俺を弄る要素があまりないようで、ネタを見つけると一年以上は確実にからかわれる。  いいさ、いくらでも笑えば。これは俺の中で人生におけるルールに加えてもいいくらい重要だ。 「ねぇ、兄貴ぃ」  パンに肉じゃがの肉を挟んでいる最中に美羽がコーヒーカップを弄りながら言った。 「そろそろ試験だからさぁ、数学教えてよ」 「数学は許容範囲外だ」 「じゃあ、世界史」 「暗記しろよ」 「お兄ちゃん、教えてあげたら?」  俺の隣に座った美優がコーヒーに角砂糖二、三個入れながら言う。  今、この朝食の場にいる俺を含む三人がこの家の家族だ。  両親が他界してから、もう三年が経った。初めは大変だったが、今は三人で仲良く暮らしている。家事は全般的に美優任せだが、俺も時々手伝っている。美羽に任せると洗濯機回すだけなのにまるごと爆発させるようなミスターマリックもびっくりのイリュージョンを起こしそうだし、本人もやる気はないようで毎日堕落の限りを尽くしている。そんな感じだ。 「兄貴、コーヒーこぼしてるよ」 「テーブルにおすそ分けしたんだよ」  美優はパタパタとナプキンを取りにいった。  まさにこの時まではよくある朝の光景の一部分だった。この時までは。 「駄目だなぁ」  美羽が俺を見ながらため息をついた。朝からテンション高い奴なんてそうそういるもんか。  毒づくことすら面倒だった俺は美優に入れてもらった二杯目のコーヒーに口をつけていた。その時だ。  一瞬、ぱっと窓が光り輝く。続いて玄関の方でドスンという音が響いてきた。家が軽く揺れる。  美羽も美優も玄関の方を見ながら呆けている。 「何、今の?」  俺は気にせずコーヒーを飲んでいた。どうもまだ眠い。 「兄貴」 「なんだよ」  美優が怯えるように俺の近くに擦り寄ってきた。 「何、今の光」 「お日様がもの凄く差したんじゃないか?」  美羽が「このボケ老人が」というような目で見た。 「音は? 何かが地面に落ちたような……」 「近所のポチが壁に頭をぶつける時も似たような音が出てた」 「お兄ちゃん、見てきて」  美優がすがるような目で訴えてくる。こういう時、女は反則だなと思う。  俺は残り少ないコーヒーを一気飲みすると、すくっと立って玄関に向かった。「変質者か?」と美羽が玄関を睨んでいた。随分と早起きな変質者だな。  大方、陽菜か貴俊がどっきり企画でも立ち上げたんだろうが俺には効かんぞ、などと思いながら玄関を開ける。  その予想は見事に裏切られた。  目の前には、金髪ロングでドレスを来た女性と、黒髪ショートでメイドの格好をした……女性がうつ伏せに倒れていた。しかもメイドの方は右手に抜き身の大剣を握っている。  美羽がひょっこり顔を出してきた。 「兄貴……魔王に囚われた姫はメイドに助けられたようだね」  笑えない冗談だ。  何をするべきか頭が回らない内にメイドの方が目を覚ました。気絶している金髪ロングの女性を確認すると跳ね起きた。 「ひ、姫様!」 「本当にお姫様だって」  美羽が呆けてる俺の顔を覗いてくる。  ツッコミ待ちなら他をあたれ。 「大丈夫ですか! 姫様!」  声に反応した姫がゆっくりと目を開ける。 「レン……」 「よかった……」  これが戦場だったなら、感動のシーンに見えなくもないが、玄関前で飛び石の上でやられると茶番にしか見えない。二人の女性は互いを称えあうように抱き合っていた。薄っすら涙すら見える。  横槍を入れるのが躊躇われる。というか、正直関わりたくなかった。今すぐ玄関のドアを閉めるのが最上の判断だと思われたが、何故か行動に移せない。 「お兄ちゃん……どう? 大丈夫?」  美優が心配そうな顔でゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。 「あの~、大丈夫ですか~?」  美羽が二人を取り巻く空気を壊さない程度の声で言った。どちらの意味で言ったのか俺には分かるはずもない。  ようやく俺たちの存在に気づいたメイドは素早く立ち上がり、剣先を突きつけてきた。 「なんだ貴様ら」  夢の続きか? いや、こんな展開が例え脳内であろうと俺が生み出すわけがない。多分。 「名乗れ!」  本来、蛮族に向かって発する質の警戒の仕方だと思った。メイドの目には怒りよりも困惑の色が強く出ているような気がする。どうやら、俺たちに敵意があるのかないのかを判断する余裕もないらしい。  あまりの非現実性に目の前の情景が夢にしか見えなかった。  メイドも、金髪ロングの女性も酷く疲れているようだった。肩で息をしながら狼のような目つきで俺と美羽を威嚇している。  これは思った以上にやばいかもしれない。  剣先が俺の目の前から美羽に動いた瞬間、俺は美羽を引っ張って家の中に蹴り込んだ。ドアを閉めるとほぼ同時に左耳に何か冷たいモノが掠める。  ドスっという音が生々しく聞こえる。ドアに剣が突き刺さったのだ。お世辞にも耳障りのいい音とは言えない。剣は本物か。 「名を名乗れと言っている」 「ヒロトだ。結城大翔(ゆうき ひろと)」  この状況じゃ名よりも現状把握の方が割に合ってるんじゃないか? とよっぽど言ってやりたかった。  やばい相手だとは分かっているが、いまいちピンと来ないのはシチュエーションが可笑し過ぎるからだろうか。ああ、あと寝起きだからだ。頭が回るはずもない。 「剣を収めろ」 「断る」  メイドがドアに刺さっている剣を引き抜いて、再び俺の目の前に突きつける。これなら夢の中の魔王との対峙の方が分かりやすいし、大分マシだ。  どう解釈すりゃいい? 俺はどういう選択をするべきだ?  簡単だ。なんとか出てってもらえばいい。さっさと家の前から消えてくれれば、俺たちはまた何でもない一日を満喫できるって寸法だ。今日は帰りに貴俊と買い物に行く約束があるんだから。 「兄貴!」  美羽が金属バットを持って庭から出てきた。またややこしくなるようなことしやがって。  俺は手で追い払う仕草をしたが、美羽はまったく気にした様子がなかった。 「レン、剣を収めなさい」 「ですが――」 「収めなさい!」  レンと呼ばれているメイドは一度びくっとすると、すぐに剣を鞘に収めた。  金髪ロングの女性はメイドの肩を借りながらゆっくりと立ち上がった。気品のある立ち振る舞いは、育ちのよさを物語っている。  軽くさっと服についた汚れを払うと、こちらはメイドとは違い、今にも泣きそうな顔をしていた。でも、多分絶対に涙は見せない種類の表情だった。我慢の仕方が幼馴染の顔を連想させる。 「失礼しました。私、ユリア・ジルヴァナと申します。非礼をお許しください」 「……」 「あの、失礼ですがここはどこでしょうか?」  金髪ロングの姫様、ユリアは丁寧に聞いてきた。本当に茶番にしか見えないから困る。 「都内だけど」 「トナイとは?」 「日本だ」  意地悪のつもりで言ったが、二人は心底驚いた表情で互いを見ていた。 「ニ、ニホンとは?」 「国の名前だよ」  メイドであるレンが笑顔を見せた。 「成功ですよ、姫様!」  レンとは反対に姫らしいユリアは青ざめ、大きなため息を吐くと倒れてしまった。  今日、学校をサボったのは間違いなく痛手だった。中間テストの範囲発表と出題可能性Aランクの授業があるというのに。誰かに写させてもらわないと。  家が近い貴俊はノートに数学の公式よりもパラパラ漫画を描くのに夢中だろうからあてにはならない。お隣に住んでる陽菜はボーっとして重要な部分を見事に書き忘れることがよくあるから駄目だ。おいおい。俺の周りはなんでこんなに抜けてるんだ?  クラスで一番信用できる奴は誰かと思案していると部屋をノックする音がした。 「お兄ちゃん。ユリアさんが目を覚ましたよ」  俺はちらっと時計を見た。  メイドにお姫様と呼ばれていたユリアという女性が倒れてから、手のひらを返し懇願するメイドに折れた俺は家の中に入れていた。美羽は相当ごねていたが、それも仕方ない。正直な話、俺にも誰かを納得させるほどの理由があって家に上げたわけじゃない。単に押しに弱いだけかもしれん。  客間に布団を敷き、安静にさせていたのだが、三十分ほどで起きたようだ。  ドアを開けると美優が複雑そうな顔をしていた。 「ごめんな。今からでも学校行っとくか? 試験近いだろ?」 「ううん。大丈夫」  ああ、もうこりゃ、美羽にも美優にも勉強教えることになりそうだ。 「美羽は?」 「お姉ちゃん、金属バット持ったままレンさんと睨み合ってる……」 「はぁ……」  まったく、しょうがないな。  リビングに下りて、美優に何か飲み物を持ってくるように告げると、足早に客間に入っていった。  ほとんど美羽と美優の服置き場と化している客間だったが、元々五人くらいなら仲良くオヤスミできる広さの部屋だ。服がインテリアになっている事を我慢すれば寝れなくはない。  互いに牽制しているようで、レンと美羽は座りながらも互いに得物を持ったままじっと見つめあっていた。ギスギスした空気はごめんだったが、上半身だけ起こしたお姫様であるユリアに話を聞く必要があったし、一触即発状態の爆弾抱えた部屋をほっとくわけにはいかない。 「美羽。外に出てろ」 「嫌」  ちょっとは俺の話をだな……。 「なら、その危なっかしいバットを窓の外にでも放り投げろ。必要ないだろ」  美羽がレンの大剣を凝視している。 「美羽。外に出るか、バットを窓の外に捨てろ。部屋からたたき出すぞ」  ゆっくり立ち上がった美羽はバットを握り締めたまま、部屋の隅に移動して再び座った。  そこが美羽なりの妥協点だったようだ。話が進まないので、強引によしとしてユリアに向き合った。  相変わらず、青ざめた顔は重大な間違いを犯してしまった子供に似ていた。美優に気立てが似ているかもしれない。 「さて、なんで家の前で倒れていたのか聞かせてもらえるかな」  叱られた子供がびくっとするように体を振るわせると、ユリアは言いにくそうに口を開いた。 「私が言おう」  メイド剣士、レンが言ったが俺は意図的に無視した。ユリアをじっと見る。 「レン、私が説明します。私たちは……この世界の人間ではありません」  ほぼ同時に美優が五人分のコーヒーを持ってきた。おかげで思案する時間が出来たのだから、美優に感謝すべきだろう。  ここまでで、一体どれだけの可能性が生まれるだろうか? 一つ目はドッキリの類。しかし、どうも嘘をついてるようには見えないし、演技でここまで出来るか? 二つ目は統合失調症など精神的におかしい人。これなら、本人は真面目なのだから必死なのは分からないでもない。でも、なんでうちに? 三つ目は……本当に異世界が存在し、やってきたという話。だけどそれは、少し飛躍しすぎだろう。  なら、やはり、精神的な部分だろうか。それなら、こっちの対応は決まってる。警察に連絡して、連れて行かれる。運が悪けりゃ施設にぶち込まれる。  ただ一つ、ひっかかることがあるからまだその判断はしない。 「他の世界から、来たと? 何故こっちの世界に来たんだ?」 「もう少し口に気をつけろ」  レンが唸るように言った。だが、また意図的に無視した。  美優が俺、メイド、姫、美羽の順にコーヒーを渡し、俺の少し後ろに座った。  俺はミルクの入ったコーヒーを軽く啜る。 「貴方たちがいるこの世界は、あと一年で崩壊してしまいます。理由は定かではないのですが、この世界が崩壊すると私たちの世界にも悪影響が出てしまう。だから、私たちは原因を探るためにこの世界へ……」  なんだそれは? 「どうやってきた?」 「空間移動魔法で……」 「魔法?」  美優が声を出して、すぐに口を閉じた。  益々胡散臭い。やはり、ドッキリの類なのだろうか。 「魔法、何でもいいからここで使える?」  その一言でレンとユリアの二人ははっとした顔をする。 「レン……これは……」 「姫様……いえ、これなら少しは出来るはずです」  レンは手のひらを上に向けて、気合を入れるように「はッ!」と口に出した。  次の瞬間、手のひらから強い光と共に炎が一瞬出た。しかし、ほんの一瞬だ。 「手品か……」  フラッシュペーパーを使えば誰だって出来る芸当だ。  心底がっかりした俺は警察を呼び出そうかと本気で考え始めていた。ここまで来るとそろそろ俺の手には負えない。この子らが何の意図があって俺にそんな話をするのか分からないし、分かったとしても何かのお役に立つことはなさそうだ。折れて家にあげちまったのが運の尽きか。ちょっと休ませたら、理由をつけてとっととお帰り願おう。  ため息を吐きつつ、立つ。それに何か危機的な意味を感じ取ったのか、ユリアが「待ってください」と言った。 「姫様、無理です。この世界では魔法は……」  ユリアが両手で玉を抱えるような形を取ると、風がふわっと吹き始めた。  窓は開いていない。閉鎖された空間で風が舞う。 「はァァア」  ユリアを中心に風が吹き荒れる。髪が何度となく踊っては頬を痛いくらいに打つ。がしゃんとコーヒーカップが倒れる音もしたが、気にする余裕はなかった。  段々強くなっていく風は飾ってある服を巻き込み、部屋の中を高速で飛び回っている。レンに服が何着か覆いかぶさって、そこからまた吹き飛ばされたシャツが俺の目の前を掠める。何かに引っかかったのか、ビリっという音がした。飛んできた枕がレンにぶち当たった。みしみしと部屋が悲鳴を上げた。目が容易に開けられない状態で、俺は腕で防ぐこともしなかった。そして緑色のショールが俺の視界を遮ったのを最後に風は緩やかになっていき、そよ風がショールをふわっと踊らせて終わった。  視界が見えないまま、随分そうしていた。  腕が動かないことに少しの間気づかず、それが美羽と美優が抱きついているせいだと気づいたのはもっと後になってからだった。  緑色のショールがずるっと落ちた。 「ど、どうですか」  ユリアが真剣そうな目で見つめてくる。  どうですも何も、ここまでやられたら魔法の存在を曲がりなりにも信じるしかないじゃないか。けど、それを信じるということは、他の話も肯定前提で考えなきゃいけないということで。異世界とか、そこから飛んできたとか、この世界があと一年で崩壊してしまうとか、つまり、そういう事も視野に入れなきゃならないのか。おまけに関わっちまった手前、今更蹴り出すわけにもいきそうにない。  まったくとんだ一日の始まりだ。  美優はまだ俺に抱きついてブルブル震えている。美羽はもう離れていて、バットも落としていた。メイドのレンは俺をじっと見て何か考えているようで、姫のユリアは監督に自分の練習の成果を見てもらう選手のような顔で俺を見ていた。勘弁してくれよ。  ここで今何かを即座に認めるのを躊躇った俺は、素っ頓狂な言葉を口走っていた。 「とりあえず、片付けようか」  超局地的に起きた台風による被害は、客間にある美羽と美優の服たちだ。  両親が死んでから三年。  毎朝、学校に行く前にリビングにある仏壇の前で手を合わせるのは俺の日課になっていた。  客間を片付けようとして、「兄貴はいいよ」と美羽に蹴り出された俺はこうしてあの世の両親に愚痴に近い今日の出来事を報告しているのだ。まだ半日も経ってないのに。  なぁ、親父。あんたなら間違いなくあの二人を疑うことなく助けてたよな?  死んじまった親父は誰がどう見てもお人よしの塊だった。人に頼まれれば、嫌な顔ひとつせずにこなしてみせる。責任を取らない昨今のクソミソどもの尻拭いを幾度となくさせられる事もよくあり、まさに損な性格を真っ向から堂々と歩いていた。  宗教の勧誘屋に二時間付き合ってやったり、泣いて頼まれれば数十万単位で金を貸す。計画立案、面倒な仕事でも同じ。いくら仕事が忙しくてもだ。いつも使われる側だ。おまけに厄介なことに有能だった。  昔からあまり遊んでもらえなかった俺は、いつか何故そんなにお人よしが好きなのか親父に聞いてみたことがあった。  ――俺の世界じゃそれが普通なんだ。残念なことに、こいつはよっぽどの事がないと変わってくれない。理解できないか? 大丈夫。お前にもいつか分かる時が来るさ――  今でも理解できないね。いつも楽なことしか考えていない連中に一体何をしてやるって言うんだ?  てめぇの不甲斐なさを棚に上げて、自己主張だけは立派な連中の何を?  自分が絶対に正しいと信じて疑わず、その結果他人を巻き込むような連中の何をだ?  そんな連中をいい気にさせてたらそれこそ国家的損失だろう。長い目で見りゃ、もっと酷いことをするような連中だ。  親父、それはただの自己満足だったんじゃないか?  そこまで考えて俺はちょっと笑った。  あぁ、そうか。別にお人よしの塊というわけじゃなかったんだな。ただちょっと、人に理解されない暇つぶしの方法だったんだろう。なら俺も、好きなことをやるだけさ。  カチャっと後ろでドアがゆっくり開く音がしたが、俺は目を閉じて仏壇の前で手を合わせたまま動かなかった。  ただ一言、「レンか?」と言った。 「え……ああ」  美羽ならもっと乱暴に開けるだろうし、美優なら俺に面と向かい合う前に話しかけてくる。見たところお姫様であるユリアは立ち上がる気力もなさそうだし、一人で積極的に動き回るということもしそうにない。メイドのレンなら、恐らく何かをしている人間の邪魔は極力しないようにするはずだ。だから声をかけて来なかった。そんな俺の推理はまぁそれほど大きく間違っていなかったようだ。 「お姫様はいいのか?」 「実は、頼みがあるんだ」 「ここをベースキャンプにしたいって話か?」  異世界から来た人間だ。金も無けりゃ知人もいるはずはない。とんでもなく突然なホームステイの要望を俺がこの家の主と思った彼女が交渉に来たのだろう。外人と違い、言葉が通じることがせめてもの救いか。  あれ? 異世界は外国と言っていいよな? 「非礼は詫びる。出来ることなら何でもする。だから、ここに泊めてくれ。姫様に野宿なんてさせたくないんだ。私は外でもいい」  俺は手を合わせたまま、目を開けた。  実際は三十秒ほどの沈黙だっただろうが、向こうには嫌に長く感じられたに違いない。時計の秒針の音がやたらと大きく聞こえる。俺の目の前では、親父とお袋のニコニコ笑ってる写真がこっちを見ていた。  親父、あんたのお人よしの性格を俺は生前馬鹿にしてたけどな、どうやらいつの間にか俺にも受け継がれていたようだぜ。  この体たらくを笑うかい? 「そんな事をしたら、俺は妹二人に一生白い目で見られるわ。寝る場所は客間な。しばらくは服のインテリアで我慢してくれ。家事は手伝ってもらう。勝手なことは出来るだけするなよ。この世界の常識を知らないだろう?」  俺は手を合わせるのを止めて、レンに向き直った。 「それが条件だ」 「すまない。恩に着る」  俺がちょっと笑うと、レンも釣られるようにぎこちなく笑った。笑ったのは多分、俺もレンも自嘲的な意味しか含まれていなかっただろう。  沈黙に耐えられなかったのか、レンが仏壇を指差す。 「これは何だ?」 「んー、死者を祭る祭壇かな」 「何をしていたんだ?」 「あの世の両親に現在状況の報告かな。見守ってくれよって」 「そんなことをするのか。私たちの世界ではなかったな。死んだ人間は精霊たちの一部になる。個から全になると言われていて、死者を祭ることなどなかった」  異世界の話か。まったく、本当に信じられないな。 「やってみる?」 「ど、どうすればいい?」 「目を閉じて、手を合わせて、そうだなぁ挨拶すれば十分じゃないかな。はじめましてってね」  レンは言われた通りに仏壇の前で目を閉じ、手を合わせて挨拶を始めた。 「はじめまして。私はレン・ロバインです」  口に出すとは思わず、危うく吹いてしまうところだった。 「今日からこの家でしばらくの間泊まらせていただきます。この世界に飛ぶまでは不安でいっぱいでしたが、なんとか姫様と一緒に祖国のために頑張れそうです。精霊の力が少ないこの世界では、魔法はほとんど使えそうにないので苦労するかもしれません。ですが、姫様だけは私の命にかけて守り続けるつもりです。どうか、少しだけでも私たちの事も見守っていてください」  レンは言い終えると照れくさそうにこちらを見た。 「つ、伝わったかな?」 「伝わったよ」  特に俺にな。  貴俊が開口一番で言う。 『あのな、世界は俺を中心に回ってるんだよ』  自分の部屋に戻っていた俺は、机の上でやかましく鳴るケータイを大人しくさせて、今度は電話の向こうの相手を大人しくさせる必要に迫られていた。  学校に来ない俺を心配になって電話してくれたのなら、俺ももう少しこいつの話を素直に聞いていたかもしれない。 「唯心論か?」 『馬鹿が! 学校には来なくとも、お前は今日俺に付き合うんだってことだ!』 「他の奴と行けよ。それか一人で行け」  買い物に行く約束をすっぽかすと思った貴俊は休み時間が終わる前にこうして電話をしてきたのだ。耳が痛い。 『一人で? お前よ、人という字は人と人とが――』 「待て待て。ボケるな。お前はツッコミ専門でいけ」 『大翔くん? お前のボケは分かりにくすぎるんだよ。俺に任せとけ』 「つまらないボケにツッコミを入れるのは疲れるんだよ」  俺は電話越しに露骨なまでのため息を吐いてみせた。 『お前、ただ楽したいだけじゃねぇか。ボケはなぁ、世界を救うんだよ! これを理解できるのはプロ』 「ほら、どっからツッコミを入れればいいのか分からん」  電話の向こうの貴俊が落胆したように言う。 『惜しい。どんなボケにもテンポのいいツッコミをする人間がいる確率は、甲子園で全打席ホームランを打つ人材を発掘する確率より低いからなぁ。天性の才能がお前にあればなぁ』 「なんでお前のためにツッコミ入れなきゃならんのだ」 『俺たち友達だろ?』 「俺が天性のツッコマーだったら、ボケの下手な友人は切るね」 『悲しき性だぜ』  まったく、こいつの言っていることはホントわけわからん。 『それはそうと、君は今から出られるかね?』 「は?」 『だぁから、俺は授業フけるから、お前も出て来いって言ってんの。お前のことだからどうせ寝坊したから面倒で来なかったとか、そんな感じだろ』  それはお前だろう。 「お前なぁ、テスト前でよく普通にサボれるな。単位落とすんじゃないか?」 『ちょっとくらい単位落としても俺は困らん。世界も困らん。神は天にいまし、世はこともなし。だがしかし! あると思っていたイベントがなくなると途端に俺の胸の辺りにぽっかりと穴が開くんだ。こいつは物凄く厄介だぜ。お前を見るたびにこの悲しい日を思い出すんだ。大翔くん、友人にそんな重荷を背負わせる気か?』  スケールが……。  貴俊お得意の演説だ。今日はまだ抑えているらしい。一度、原稿用紙十枚分くらいの演説を聞いたことがあるが、勘弁してくれと何度途中で口を挟んだか分からない。 「帽子ほどの重さだから気にするな。風が吹けば飛んでくだろうさ」 『いいや、俺が言いたいのはそんなことじゃないんだ。今日は十周年記念セール中で、これを見逃すくらいなら部屋で百匹のゴキブリと戦闘する方がマシってことだ。さぁこれから行く場所は戦場だぜ。槍と鉄砲は準備しろよ。お前の背後は俺に任せろ。俺の背後はお前に任せる』 「俺はまだ行くとは言ってないぞ」 『お前が本当に行く気ないなら、さっさと電話切ってるさ』  こいつはいつも分かってやってるから困る。ある意味、美羽や美優よりも俺の扱い方が上手いかもしれない。 「何で今からなんだよ。まだ学校あるだろ?」 『野暮だぜ。何でお前がプラプラ遊んでる時に俺がせっせと勉学に励まにゃならんのだ。あーあ、こんな事になるなら俺も登校するんじゃなかった』 「分かったよ。多分出れると思う。ちょっとバタバタしてたから、多少遅れるとは思う」 『戦場で遅れるのは死を意味するぜ。ま、私服でいいからさっさと来いよ。槍と鉄砲は必ず持って来い』  やれやれ。  電話が切れると俺は部屋を出て、軽くため息を吐きながら四人が固まってる客間に足を踏み入れた。  ユリアはまだ布団の中で安静にしている。レンはその横で憮然と座っている。レンとは布団を挟んだ反対に美羽と美優が並んで座っていた。  居候諸君にこれから色々と話を聞きながら、家事における役割分担を振り分けようと思っていたのに。まぁ帰ってからでも遅くはないと思うが。  妹二人のうち、美羽はというと、俺が居候のOKサインを出したことが酷く気に入らないらしい。美優は「お兄ちゃんがいいなら」と別にどうでもいい様子。これから先が思いやられるなぁと頭を抱えそうになるもんなのだが、俺が決めたのだから仕方ない。 「兄貴、部屋で電話してたでしょ。もしかして、黒先輩?」 「まぁな」  こいつ、わざわざ俺の部屋の前で聞き耳立ててやがったな。 「兄貴の独断と偏見で居候することになったユリアさんとレンさんですが、ここで暮らすには少し物が足りないというか、必要なものを買いに行かなきゃならないと思っているのです。服もめちゃくちゃになっちゃったしね」  ユリアは俺を見て軽くペコっと頭を下げた。  回りくどい気がする。どうも美羽の意図が読めない。 「何か買いに行くってことか? 金は出すよ、いくらぐらい欲しい?」 「お金は兄貴が持っててよ。どうせ行くところは同じなんだし。十周年記念セール楽しみ」 「……」  美羽は俺と貴俊との電話越しの会話で見抜いたのだろう。セール期間は完璧に頭に入ってるだろうし、貴俊の性格もよく分かってる。変なところで気が合うらしく、たまにメールのやり取りもしているらしい。そこから、今日のことが漏れてるかもしれないがまぁとにかく。  あぁ……頭が切れる妹を持って幸せだなぁ、俺。 「お兄ちゃんごめんね。リストに上げたら結構たくさん必要なものが出てきちゃって……ワタシたちだけじゃちょっと大変だから……」  強制荷物要員!? 「私は必要ないと言ったのだがな。少しくらいの荷物なんて問題ない」  美羽が笑ってレンに返す。 「物理的に無理だから。魔法で手が二、三本生えるって言うなら別だけどね」 「大翔ぉ、確かに槍と鉄砲は持って来いって言ったけど、それは心の中の話だぜ。ついでに言うと刀や爆弾も持ってきたのか?」  黒須川貴俊(くろすがわ たかとし)が、俺の後ろにいる女たちを見てそう漏らした。  駅のターミナルでは、平日とあって人がまばらだ。デパートの十周年記念セールを何も平日にやらなくてもいいだろうと思う。一週間丸まるセール期間にすりゃ人も来るだろうに。 「何々、美羽ちゃんも美優ちゃんも学校サボったの? おいおい、一家総出で買い物ですか。確かにセールは見逃せないよ。続き物のドラマを見逃しても、こっちは見逃しちゃいけないけどさ。そちらのお二人さんは? 外人?」 「こんちわー、黒先輩」美羽が言った。 「お久しぶりです。黒先輩」美優が言った。  貴俊は察しがいい。すぐに荷物持ちになるのだと気づいた。そして、俺の方をじとっとした目で見つめてくる。  すまん。今度なんか奢ってやるから。  そんな事を思いながら、ユリアとレンを前に出して紹介する。 「こっちがユリア・ジルヴァナ」  ユリアはペコりと頭を下げた。 「こっちがレン・ロバインだ」  レンが「どうも」と言って頭を下げた。 「わけあって二人ともうちでホームステイ中だ。イギリスから来た。日本語は普通に喋れる」  貴俊は「ホームステイ?」と呟いたが、その場では何も言って来なかった。 「ユリア、レン、こいつはクロだ。クロって呼んでやってくれ」 「クロさんですね」 「大翔、それは真っ黒クロスケと黒猫のクロとどっちの意味を込めて命名した?」 「真っ黒クロスケの方だ」 「それならばよし。さて、自己紹介も終わったし行きますか」  それから、六人の不思議な団体はデパートに入って行く。  平日だと言うのに暇人どもの列がそこかしこに出来ているのはある意味圧巻だった。セール中の垂れ幕やらが「こんなにいらないだろ」と言いたくなるほど自己主張をしている。  俺や貴俊の分を買っている間、美羽の妙な威圧感は言葉に出来ない。「先に行って見てろよ」という俺の言葉もどこ吹く風で、金魚のフンのごとくついて来る。たまに貴俊が美羽を見てにっこり笑い、俺を見て「この借りは返してもらう」と顔が言っていた。  ユリアとレンはというと、美羽と美優の服を着させてから言った、俺の「出来るだけ大人しくしてろ、その場で困ったことがあったら美羽や美優に聞け、疑問点は箇条書きでメモしとけ、後で答えてやる」という言葉をきちんと守っているようで、目をキラキラさせながら周りを見ている。今頃はきっと俺たちの足の速さが恨めしく思っている頃だろうな。「もっとゆっくり見させてくれ」ってな具合に。  だが生憎ながら、そんなことしてたら間違いなく閉店までここにいる事になっちまう。疑問をいちいち聞いてたらそれこそお話だけで終わっちまう。  バスに乗った時も叫び出すんじゃないかとヒヤヒヤしたものだった。今回はないが、いつか電車に乗る時も同じようにドキが胸々するに違いない。  ものの三十分で俺と貴俊の買い物が終わり、女四人衆の出番がやってきた。  はっきり言って、ここからは地獄の時間にしかならないのは目に見えていたし、実際そうだった。 「見て見て。ユリアさんとレンさん!」 「ああ、かわいいよ」  このワンパターンの会話をほぼ繰り返すだけで二時間以上持つのはそうそうあることじゃないと思う。  何故か服買う時間にかなり費やしていることに気づき、「他の買ってくるよ。何が必要?」という俺の言葉を美羽は、「知らん」と一蹴した。  美羽も美優も初っ端はあんなに険悪な空気だったのに今は見事に打ち解けてやがる。我が妹ながら順応能力が高いな。  さらに二時間かかったところで俺と貴俊は休憩所を見つけて強引に座り込んだ。俺たちがかなりお疲れの顔を見せていたのか、それともどうでもいいのか、美羽は「あーハイハイ」と言ってすぐに自分の服選びに夢中になっていた。台風の被害は服どころか、金と精神的な二次災害を生み出していた。  俺は自販機からミルクティーとレモンティーを買うと、レモンティーを貴俊に投げた。貴俊は受け取るとすぐにうな垂れた。俺もそんな気分だ。 「なぁ、貴俊。女の買い物はなんでこんなに長いんだろうな」 「あぁ? 決まってんだろ……着飾ることに命かけてるからだよ」  貴俊はうめくように言う。 「俺は腹の具合の方がよっぽど大事だがな」 「そんな事言ってるから、美羽ちゃんに『兄貴、マジセンスねぇ』って言われるんじゃないか。精々いいのはそのネックレスぐらいだ」  貴俊の視線の先には、杖の天辺に羽が生えていて、二匹の蛇が杖に絡み付いているアクセサリーがあった。 「流行の服を追いかけることに夢中のお前に言われたくない」 「しっかし、長いな。服選んでる時間だけで、二、三本は長編映画が見れるぞ。近くに映画館があるから、ちょっと抜けるか。見たい映画があるんだ」 「気づかれたら、当分飯抜きにされるだろうからヤダ」 「お前、本当に妹二人にゃ甘いなァ。将来は絶対、尻に敷かれるタイプだな」 「ほっとけ」  それから会話の糸口が見つからず、俺も貴俊もしばらく黙っていた。  たまにユリアや美優がこちらを心配そうにチラ見してくる以外は特に大した変化はない。まだまだ買い物を楽しむらしい。 「そういえばあの二人さ」貴俊がレモンティーを飲み干してから言った。「何なわけ?」  このタイミングで切り出すのだから、こいつは空気が読めると言っていい。 「ホームステイだって? ありえないだろ」 「まぁな。ちょっと俺もね、まだ口に出したくないんだよね。自分でも信じられないから」 「へぇ? そんなに訳分からない状況になってるわけ? もしかして、今日学校に来なかったのもソレか?」  察しがいいね。  俺は軽く頷いてみせた。貴俊は鼻で笑ってみせた。 「居候することになってるのはマジなの?」 「それはマジだ。ただそこに至るまでの過程が普通じゃない。これから全員連れて精神病院直行してもいいくらいだ」 「そんなにか。ここで聞いてもいいけど、込み入った話をするにゃちと騒がし過ぎるな。まぁ何にせよ、ヤバくなったら言えよ。お前は無理し過ぎるところがあるからな。倒れる直前までまるで普通の顔してるってことがよくある。ホント損するタイプ」  俺は自嘲的に笑った。 「これを聞いたら、お前も俺を精神病院にぶち込みたくなるぜ」 「そいつは楽しみだね。どんな夢物語を話してくれるのか今から期待してるよ」  貴俊はニヤっと笑って俺を見た。  こいつには本当に助かってる。頼りすぎなんじゃないかってくらいに。両親が死んだ時もそうだった。俺なんかよりもずっと冷静で飲み込みも早い。普段は馬鹿だけど。 「それにしてもなぁ、まだかなぁ、美羽ちゃんたち……」 「ああ、マジ鬼畜」 [[初日b]]へ

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