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「第2話「smorzando」」(2007/07/20 (金) 22:51:35) の最新版変更点
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▼2
【大翔】「ん……ぬぉ」
閉じた瞼に陽光を感じた。
思わず顔を歪めてしまうが、やがて目を開く。
……どうしてこう、人間が目覚める瞬間って唐突なんだろうか。
せめて夢とかが終わる頃合いにはカウントダウンしてくれてもいいんじゃないのか?
まぁ実際にあったらかなり寝起きの機嫌が悪くなるか。
【大翔】「ま……とりあえず起きるか」
重力を無視したように湾曲する髪をかきつつ、ドアを開けようと手を伸ばして―――
【?/レン】「―――きゃっ!?」
【大翔】「―――っと!」
―――突然開いたドアから出てきた人物とぶつかってしまう。
胸の辺りに衝撃を感じて、後ろに仰け反った。
どうやらいきなり出てきた人物が思い切り頭をぶつけたようだ。
【大翔】「悪い。大丈夫?」
【?/レン】「だっ、大丈夫だ……」
【大翔】「ってあれ?レンさんじゃないですか」
よく見ると、昨日からウチにホームステイすることになったメイドさんだった。
【レン】「あ、ああ……ヒロト殿…………起きていらしたか」
【大翔】「あの、本当に大丈夫ですか?」
【レン】「平気だ、これくらい問題などない……」
そうレンさんは言うが、ほんの少し顔を赤らめているのがなんとなく見えた。
【大翔】「あの……さっきぶつかった時、レンさんの声が―――」
【レン】「―――!?そ、その先は言うなっ!!」
何故だか爆発したように慌てるレンさん。
……。
ああ、なるほど。
【大翔】「随分可愛かったですね。レンさんもやっぱり女の子ですよねー」
【レン】「だ、だだだだ黙れ黙れだまれ!私を愚弄するなっ!」
なんだか必死に否定する姿が可愛く見える。
あえてからかってみるとしよう。
【大翔】「何だか涙目になってませんか」
【レン】「~~~っ!」
おぉ、図星だ。
なんというか実にわかりやすいな、レンさんは。
【レン】「こっ、これくらい平気だと言っているだろう!からかうな!」
俺の一言が引き金になったのか、レンさんは一瞬にして完熟トマトのように真っ赤になる。
後に後世に語られることとなる完熟メイドの誕生であった。
【大翔】「なはははは、わかりましたよ」
【レン】「はぁ……はぁ……」
まくしたてるように叫んだせいか、レンさんはぜえぜえと肩で息をする。
【レン】「全く……先にヒロト殿が起きられたのでは、私の役目がなくなるではないか……」
【大翔】「へ?」
ぽつりと呟いたレンさんの言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
【レン】「私は姫様のメイドであり騎士だ。ならば、姫様が宿泊することとなるご家族の方々のお世話をするのも、また私の役目であろう」
【大翔】「……そういうもん?」
【レン】「メイドとはかくてそういうものだ。常に主のために、為すべきことをせねばならん」
【大翔】「そうですかぁ……それじゃ、改めてこれからよろしく頼みますね」
【レン】「ああ。もちろんだ」
そうして、レンさんは部屋を出て行こうと踵を返す。
俺も続いて部屋を出ようとして……そこでふと気づく。
【大翔】「あ、ちょっとタンマ」
【レン】「……?タンマとは何のことだ?」
【大翔】「マンタレイの仲間ですよ。ちょっとこっち向いてください」
もちろんマンタレイは嘘だ。
レンさんは不審な表情を浮かべつつ、こちらに振り返った。
【レン】「…………?」
俺は、そんなメイドさんの頭に手を伸ばして―――
【レン】「―――っ」
頭にちょこんと添えられている、メイド特有のヘアバンドのズレを正してやった。
【大翔】「ずれてましたよ。ヘアバンド」
【レン】「…………」
【大翔】「……ん?」
どうしたんだろうか。
レンさんは、先程とはベクトルの違うような赤らみを見せる。
これは……もしや戸惑っているのだろうか?
【大翔】「どうか……したんですか?」
【レン】「あ、あああああの、だな……」
【大翔】「はあ」
【レン】「あ、あまり……そういうことは慎んだ方がいい……」
【大翔】「はあ。それまたどうして」
【レン】「とにかくだ!!」
【大翔】「はあ。まあ。自重しろってことですね」
【レン】「わかれば良いのだ……」
何やらぷりぷりとした様子で、レンさんは階下へと降りていった。
・
・
・
着替えを終えてリビング入ると、既にテーブルには朝食が用意されていた。
美優や美羽はいつも通り自分の支度を済ませて俺を待っていたようだ。
【美優】「おはよう、お兄ちゃん」
【美羽】「あれ?早いね、兄貴」
【大翔】「そうかぁ?」
【美羽】「もう少ししたらあたしが起こしに行こうとしてたんだけど……」
そういって、美羽は俺の傍らにいるメイドに目を向ける。
【美羽】「レンさんが起こしてくれたんだね。どーりで早いわけだ」
【レン】「…………」
が、レンさんはあくまで無言を貫いている。
まぁ俺が自分でで起きたのだから、『はい』とは言えないのだろう。
【大翔】「ま……そういうことにしといてくれ」
【美羽】「……?」
不思議そうに首を傾げる美羽だったが、すぐにテーブルへと着いた。
【?/ユリア】「おはようございます、ヒロト様」
【大翔】「……?」
すると、透き通るような声が聞こえてくる。
ぴくりと体が跳ね、思わず顔を上げてその人物を見てしまう。
【ユリア】「今日はいい朝ですね」
【大翔】「あ……は、はい、そうっすね……」
俺のどもった返事に、異世界のお姫様はくすりと笑う。
その姿がどうにもいつもの日常とはかけ離れてて……。
目の前にいる、お姫様という貫禄に、俺はただ魅入るばかりだった。
【美羽】「あははっ!兄貴、照れてやんの~!」
と、そんな俺の間抜けた姿を見て、美羽がけらけらと笑う。
【大翔】「ち、ちげーわい!こんなべっぴんさんいたら誰だってフリーズするわい!」
【ユリア】「まぁ。ヒロト様、べっぴんさんとは賛美の言葉でしょうか?後ほどお調べしますね」
【大翔】「あ、あー、ま、まぁ……そんな感じです。はい」
【レン】「姫様。そろそろ食事を……」
【ユリア】「そうですね。では、卓に着きましょうか」
【美羽】「ほら兄貴。ぼさっとしてないで食べよ」
【大翔】「あぁ、そうだな」
美羽が椅子に座るのに続いて、俺と美優もテーブルに着いた。
【大翔】「それじゃ、いただきます」
【美羽】「いただきます」
【美優】「いただきます……」
【ユリア】「では、いただきます」
いつもの3人に、いつもとは少し違う声が重なる。
ほんの少しの違いだけれど、俺たちにとっては、それはそれは大きなことなわけで。
それでもこの大きな違いは、確実に、いつもの雰囲気をより明るくしてくれる。
【大翔】「…………」
……あぁ、やっぱり。
この妙に暖かい気分は、きっと、嬉しいんだろう。
大勢で食べる朝食は、何より幸せだと思う自分がいる。
【大翔】「…………ってあれ?」
【美羽】「どうしたの」
【大翔】「い、いや……何か……違和感が」
【美優】「違和感……?」
うーん。何なんだろう。
何か、大事な物を見落としているような……。
【大翔】「あっ!そういえばレンさんは!?」
そうだ。
本来なら全員で食べるはず朝食に、あの微妙に頑固なメイドさんだけがいない。
【美羽】「レンさんならもう先に食べてたよ」
【大翔】「ええっ、何でだよ?」
【ユリア】「メイドたる者、主人と食を共にすることはあってはならない」
と、そこへユリア姫の声が響く。
【大翔】「え?」
思わず3人してユリア姫の方を見てしまった。
【ユリア】「主と同じ卓に着き食事をするというのは、主と同等の立場であるということを意味する、とレンは思っているのでしょう」
【美羽】「つまり……自分はメイドだから、主人とご飯を食べることはできないってこと?」
【ユリア】「そういうことになりますね」
【大翔】「あぁ、そうか……なるほど」
【ユリア】「私はあまり気にはしないのですが……何しろ、本人は頑として引かない性質ですから……」
あー、レンさんのことだから、きっと頑なに拒んだんだろうな。
しかし、メイドなんて滅多に見ないし、そういうルールとかがあるのって普通は知らないよな。
【美羽】「これも文化の違いってやつだよ、兄貴」
【大翔】「るっせ。お前だってわかってなかったろーにぃ」
【美羽】「あたしはいいもん。そうやって、一つ一つ文化を学んで、着々と大人へと進歩していくからね」
【大翔】「はっ、なめるなよ。俺だって多少のカルチャーギャップなど一週間でコメット彗星にしてやるわ」
【美優】「…………問題放棄?」
【大翔】「……そういう意味も取れるが、普通はそうじゃないぞ美優」
【美羽】「へー。兄貴に普通って単語が通用するんだ」
【大翔】「なにおう。この乱世の中、俺ほどの常識人は存在せんぞ」
【美羽】「じゃあ聞くけど、あたしや美優の好きな食べ物ぐらいはわかるよね?」
【大翔】「え、朝鮮人参だろ?」
【美羽】「死ねよやあああああああああああああ!!!」
どがぁっ!!
【大翔】「だあっ」
俺の隣に座っていた美羽が思い切り肘を振り下ろし、俺の頭へクリーンヒットさせる。
【美羽】「モラルの片鱗すら見えない兄貴に聞いたあたしがバカだったっ!!」
【大翔】「何をするかーっ!頭蓋骨が陥没するかと思ったわ!」
【美羽】「陥没してそのまま死ねっ!!」
【大翔】「美優っ、助けてくれっ」
【美優】「…………いんもらる(ぼそっ)」
【大翔】「いんも……っ!?」
ざくっ!
美優のズレていそうで、実に的を射た言葉が俺の胸に突き刺さった。
うぅ、地味につらいぞ。これ……。
【大翔】「…………飯食うか」
ぽつり、と行き場がないように呟いた。
【美羽】「ふんっ、バカ兄貴に言われなくたってそうするもんね」
【大翔】「…………」
くっ、黙っていれば言いたい放題言いやがって。
反論したい気持ちは山々だが、ここは我慢しておくとしよう。これぞ、大人の余裕。
すると、俺たちの会話を聞いていたユリアが、ふっと笑ったのが見えた。
【ユリア】「ふふ……皆さん、仲がよろしいんですね」
【大翔】「へ?」
【美羽】「ふぇ?」
ユリア姫のその一言に、俺と美羽は同時に反応してしまう。
そして、自然とお互いに見合ってしまったわけで。
【美優】「……お兄ちゃん、何だかんだいって私たちに優しいよね」
そんでもって、遅れたようににっこりと言う美優。
【大翔】「は、はぁ……そう見えますかね……?」
【ユリア】「ええ。一日の初めに、こんな明るく食事をしているではないですか」
【美羽】「…………」
【大翔】「そーですかぁ?まぁ、ウチはいつもこんな感じですよ」
こんな感じで、いつも非難されるのは俺だったりするのだが。
【美羽】「どれもこれもバカ兄のせいでしょ。もー頭がスポンジなんじゃないかってくらい、人の話聞かないよね」
【大翔】「スポンジだと?保水性抜群でいいじゃないか!」
【美羽】「誰が水を多く含む兄なんて求めんのよ!!」
【大翔】「あれだろ、肌にうるおいがあるってことだ。ほれ、ぴっちぴちだぞ」
【美羽】「知るかぁっ!」
うがーっ、と美羽が咆哮する。
ふふん、そんな脅しなど通用するものか。
【美優】「…………」
【美優】「絞れば、用なし?」
【大翔】「よ、よよよ用なしじゃないですう!」
【美羽】「ほらぁ、また話が脱線したじゃん」
【大翔】「るーん」
ため息を吐く美羽だったが、俺は知らぬ存ぜぬと言う顔を突き通した。
【ユリア】「うふふ……」
すると、ユリア姫の小さな笑いが聞こえてくる。
今の会話が面白かったのだろうか。
俺はそんな笑みを見ていると、こんな他愛もない会話を、ユリア姫はうらやましく思っているように見えた。
【大翔】「ごっそさん」
残っていたご飯の口にかき込んで、俺は立ち上がった。
・
・
・
【レン】「では、私たちは先に」
全員朝食をつつがなく(誇張あり)終えて、ユリア姫は支度を始めた。
……何でも、一度俺たちが通う学園に行ってみたいのだとか。
んで、美羽と美優は二人の道案内のために同行するらしい。
まぁ、俺が行くべきなんだろうが、美羽あたりが許さんだろうな。全く可愛げのない。
【大翔】「ういっす。それじゃ、美羽と美優をよろしく頼みますね」
【美羽】「ぎろっ!」
俺がそう言うや否や、美羽は殺意むき出しの眼光を俺に浴びせてくる。
【大翔】「つーん」
だが伊達にこのビューティー大翔と恐れられた俺ではない。
そんなチャチな睨みに耐えるのは赤子の手を捻るくらい簡単だ。
……いや、耐えるだけじゃダメか。
【美羽】「…………ま、遅刻だけはしないでよね」
【大翔】「へいへい」
【美優】「じゃあ、行ってくるね。お兄ちゃん」
【大翔】「おう。行ってらっしゃい」
【美優】「変な人が来ても開けちゃダメだよ?」
【大翔】「なはは。わかってるって」
【美優】「スーツにサングラスの黒人が二人来ても開けちゃダメだよ?」
そんなのが来たら全力で逃げるから心配せんでいい。
【レン】「では……」
レンさんが軽く会釈をし、ドアを開いた。
ばたん。
後に残るのは、俺一人。
まだ時間には余裕がある。
少し休んだら、俺も出発するとしようかね……。
・
・
・
【ナレーター】「今日の天気はぁ、おーむね晴れなのでぇ、今日は絶好の洗濯日和ですよ~っ!」
テレビのニュースか何かで、天気予報をしているお姉さんの声がした。
普段だったら聞き流してしまいそうだけども、今日は何気なく眺めてみた。
あ、ちょっとお姉さん鼻毛出てる。
ぴっ。
まぁ、言ったところで相手には聞こえないだろう。
むしろ聞こえてたら怖い。軽くホラーだ。
天気予報が終わったのを見計らい、リモコンを操作してテレビを消す。
さて、そろそろ行くとすっか……。
戸締りを確認し、俺は鞄を手に取った。
ぴんぽーん。
【大翔】「んあ?」
すると、狙いすましたかのようなタイミングで、家のインターホンが鳴り響いた。
こんな朝っぱらから誰だろうかと思いつつ、ドアホンの受話器を取る。
【?/陽菜】「あ、沢井ですけどヒロ君はいらっしゃいますかー?」
聞き覚えのある幼馴染の声が俺の耳に入ってきた。
【大翔】「ん、俺だけど」
【陽菜】「あ、ヒロ君!おっはよー!」
俺とわかるや否や、陽菜の声がもう一段階明るくなるのが受話器越しからでもわかった。
【大翔】「おはよ。何か用か?」
【陽菜】「あ、うん……えっと、いっ、いい一緒に学園に行かないか?」
【大翔】「別にいいけどなんで男言葉なんだよ」
【陽菜】「な、なんでもない!忘れて忘れて!てれりこてれりこ!」
途端に慌て始めた陽菜がおかしな呪文を唱え始めた。
一体こいつは何歳なんだろうか。
【大翔】「まぁ、俺も今出るとこだったし、いいぜ」
【陽菜】「ほんと!?」
【大翔】「ああ」
【陽菜】「ほんとにほんとにほんと!?黙って裏口から出たりしないよね!?」
【大翔】「して欲しいか?」
【陽菜】「絶ぇっ対っダメ!!」
【大翔】「やかましい!そんな大声出してたらご近所様に迷惑でしょ!ちょっくら待ってなさい!」
【陽菜】「えー?なんでー?」
【大翔】「いいから、今出るから待ってろっての!」
こういった会話はいつものことだから別に気にしないのだが、それに比例して近所の俺と陽菜のおかしな噂が絶えなくなるのは何故だ。
陽菜がうん、と言ったのを聞いて、俺はドアホンを切った。
そのまま教科書やらを詰めた鞄を手に取り、靴を履く。
がちゃ。
ドアを開けて外に出ると、ギラギラとした暑い陽光を浴びた。夏が近づいてきたのがしみじみと感じられる。
【陽菜】「おっはよ、ヒロ君!」
門の外で健気に立っている陽菜がにこやかな笑顔で挨拶をした。さっきも言った気がするが、特に気にすることでもないか。
【大翔】「おう。おはようさん」
俺は自然と挨拶を返しながらドアを施錠して、門を出た。
【陽菜】「あっついね~」
【大翔】「だな」
はぁ、と陽菜は体内の熱を放出するようにため息をする。
同時に手で仰いでたりもするが、大した効果は望めないだろうな。
【大翔】「ほんじゃ、行くか」
【陽菜】「うんっ」
そうして、俺は歩き出す。すると陽菜は後ろから駆けて来る。まるで、俺と歩調を合わせるように。
【陽菜】「えへへ……」
【大翔】「な、なんだよ」
【陽菜】「なんでもな~い」
俺の真横に揃うと、陽菜は小さく笑った……。
他愛もない、ただ一緒に歩くというだけなのに。
陽菜は、とても嬉しそうだった。
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【大翔】「ん……ぬぉ」
閉じた瞼に陽光を感じた。
思わず顔を歪めてしまうが、やがて目を開く。
……どうしてこう、人間が目覚める瞬間って唐突なんだろうか。
せめて夢とかが終わる頃合いにはカウントダウンしてくれてもいいんじゃないのか?
まぁ実際にあったらかなり寝起きの機嫌が悪くなるか。
【大翔】「ま……とりあえず起きるか」
重力を無視したように湾曲する髪をかきつつ、ドアを開けようと手を伸ばして―――
【?/レン】「―――きゃっ!?」
【大翔】「―――っと!」
―――突然開いたドアから出てきた人物とぶつかってしまう。
胸の辺りに衝撃を感じて、後ろに仰け反った。
どうやらいきなり出てきた人物が思い切り頭をぶつけたようだ。
【大翔】「悪い。大丈夫?」
【?/レン】「だっ、大丈夫だ……」
【大翔】「ってあれ?レンさんじゃないですか」
よく見ると、昨日からウチにホームステイすることになったメイドさんだった。
【レン】「あ、ああ……ヒロト殿…………起きていらしたか」
【大翔】「あの、本当に大丈夫ですか?」
【レン】「平気だ、これくらい問題などない……」
そうレンさんは言うが、ほんの少し顔を赤らめているのがなんとなく見えた。
【大翔】「あの……さっきぶつかった時、レンさんの声が―――」
【レン】「―――!?そ、その先は言うなっ!!」
何故だか爆発したように慌てるレンさん。
……。
ああ、なるほど。
【大翔】「随分可愛かったですね。レンさんもやっぱり女の子ですよねー」
【レン】「だ、だだだだ黙れ黙れだまれ!私を愚弄するなっ!」
なんだか必死に否定する姿が可愛く見える。
あえてからかってみるとしよう。
【大翔】「何だか涙目になってませんか」
【レン】「~~~っ!」
おぉ、図星だ。
なんというか実にわかりやすいな、レンさんは。
【レン】「こっ、これくらい平気だと言っているだろう!からかうな!」
俺の一言が引き金になったのか、レンさんは一瞬にして完熟トマトのように真っ赤になる。
後に後世に語られることとなる完熟メイドの誕生であった。
【大翔】「なはははは、わかりましたよ」
【レン】「はぁ……はぁ……」
まくしたてるように叫んだせいか、レンさんはぜえぜえと肩で息をする。
【レン】「全く……先にヒロト殿が起きられたのでは、私の役目がなくなるではないか……」
【大翔】「へ?」
ぽつりと呟いたレンさんの言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
【レン】「私は姫様のメイドであり騎士だ。ならば、姫様が宿泊することとなるご家族の方々のお世話をするのも、また私の役目であろう」
【大翔】「……そういうもん?」
【レン】「メイドとはかくてそういうものだ。常に主のために、為すべきことをせねばならん」
【大翔】「そうですかぁ……それじゃ、改めてこれからよろしく頼みますね」
【レン】「ああ。もちろんだ」
そうして、レンさんは部屋を出て行こうと踵を返す。
俺も続いて部屋を出ようとして……そこでふと気づく。
【大翔】「あ、ちょっとタンマ」
【レン】「……?タンマとは何のことだ?」
【大翔】「マンタレイの仲間ですよ。ちょっとこっち向いてください」
もちろんマンタレイは嘘だ。
レンさんは不審な表情を浮かべつつ、こちらに振り返った。
【レン】「…………?」
俺は、そんなメイドさんの頭に手を伸ばして―――
【レン】「―――っ」
頭にちょこんと添えられている、メイド特有のヘアバンドのズレを正してやった。
【大翔】「ずれてましたよ。ヘアバンド」
【レン】「…………」
【大翔】「……ん?」
どうしたんだろうか。
レンさんは、先程とはベクトルの違うような赤らみを見せる。
これは……もしや戸惑っているのだろうか?
【大翔】「どうか……したんですか?」
【レン】「あ、あああああの、だな……」
【大翔】「はあ」
【レン】「あ、あまり……そういうことは慎んだ方がいい……」
【大翔】「はあ。それまたどうして」
【レン】「とにかくだ!!」
【大翔】「はあ。まあ。自重しろってことですね」
【レン】「わかれば良いのだ……」
何やらぷりぷりとした様子で、レンさんは階下へと降りていった。
・
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着替えを終えてリビング入ると、既にテーブルには朝食が用意されていた。
美優や美羽はいつも通り自分の支度を済ませて俺を待っていたようだ。
【美優】「おはよう、お兄ちゃん」
【美羽】「あれ?早いね、兄貴」
【大翔】「そうかぁ?」
【美羽】「もう少ししたらあたしが起こしに行こうとしてたんだけど……」
そういって、美羽は俺の傍らにいるメイドに目を向ける。
【美羽】「レンさんが起こしてくれたんだね。どーりで早いわけだ」
【レン】「…………」
が、レンさんはあくまで無言を貫いている。
まぁ俺が自分でで起きたのだから、『はい』とは言えないのだろう。
【大翔】「ま……そういうことにしといてくれ」
【美羽】「……?」
不思議そうに首を傾げる美羽だったが、すぐにテーブルへと着いた。
【?/ユリア】「おはようございます、ヒロト様」
【大翔】「……?」
すると、透き通るような声が聞こえてくる。
ぴくりと体が跳ね、思わず顔を上げてその人物を見てしまう。
【ユリア】「今日はいい朝ですね」
【大翔】「あ……は、はい、そうっすね……」
俺のどもった返事に、異世界のお姫様はくすりと笑う。
その姿がどうにもいつもの日常とはかけ離れてて……。
目の前にいる、お姫様という貫禄に、俺はただ魅入るばかりだった。
【美羽】「あははっ!兄貴、照れてやんの~!」
と、そんな俺の間抜けた姿を見て、美羽がけらけらと笑う。
【大翔】「ち、ちげーわい!こんなべっぴんさんいたら誰だってフリーズするわい!」
【ユリア】「まぁ。ヒロト様、べっぴんさんとは賛美の言葉でしょうか?後ほどお調べしますね」
【大翔】「あ、あー、ま、まぁ……そんな感じです。はい」
【レン】「姫様。そろそろ食事を……」
【ユリア】「そうですね。では、卓に着きましょうか」
【美羽】「ほら兄貴。ぼさっとしてないで食べよ」
【大翔】「あぁ、そうだな」
美羽が椅子に座るのに続いて、俺と美優もテーブルに着いた。
【大翔】「それじゃ、いただきます」
【美羽】「いただきます」
【美優】「いただきます……」
【ユリア】「では、いただきます」
いつもの3人に、いつもとは少し違う声が重なる。
ほんの少しの違いだけれど、俺たちにとっては、それはそれは大きなことなわけで。
それでもこの大きな違いは、確実に、いつもの雰囲気をより明るくしてくれる。
【大翔】「…………」
……あぁ、やっぱり。
この妙に暖かい気分は、きっと、嬉しいんだろう。
大勢で食べる朝食は、何より幸せだと思う自分がいる。
【大翔】「…………ってあれ?」
【美羽】「どうしたの」
【大翔】「い、いや……何か……違和感が」
【美優】「違和感……?」
うーん。何なんだろう。
何か、大事な物を見落としているような……。
【大翔】「あっ!そういえばレンさんは!?」
そうだ。
本来なら全員で食べるはず朝食に、あの微妙に頑固なメイドさんだけがいない。
【美羽】「レンさんならもう先に食べてたよ」
【大翔】「ええっ、何でだよ?」
【ユリア】「メイドたる者、主人と食を共にすることはあってはならない」
と、そこへユリア姫の声が響く。
【大翔】「え?」
思わず3人してユリア姫の方を見てしまった。
【ユリア】「主と同じ卓に着き食事をするというのは、主と同等の立場であるということを意味する、とレンは思っているのでしょう」
【美羽】「つまり……自分はメイドだから、主人とご飯を食べることはできないってこと?」
【ユリア】「そういうことになりますね」
【大翔】「あぁ、そうか……なるほど」
【ユリア】「私はあまり気にはしないのですが……何しろ、本人は頑として引かない性質ですから……」
あー、レンさんのことだから、きっと頑なに拒んだんだろうな。
しかし、メイドなんて滅多に見ないし、そういうルールとかがあるのって普通は知らないよな。
【美羽】「これも文化の違いってやつだよ、兄貴」
【大翔】「るっせ。お前だってわかってなかったろーにぃ」
【美羽】「あたしはいいもん。そうやって、一つ一つ文化を学んで、着々と大人へと進歩していくからね」
【大翔】「はっ、なめるなよ。俺だって多少のカルチャーギャップなど一週間でコメット彗星にしてやるわ」
【美優】「…………問題放棄?」
【大翔】「……そういう意味も取れるが、普通はそうじゃないぞ美優」
【美羽】「へー。兄貴に普通って単語が通用するんだ」
【大翔】「なにおう。この乱世の中、俺ほどの常識人は存在せんぞ」
【美羽】「じゃあ聞くけど、あたしや美優の好きな食べ物ぐらいはわかるよね?」
【大翔】「え、朝鮮人参だろ?」
【美羽】「死ねよやあああああああああああああ!!!」
どがぁっ!!
【大翔】「だあっ」
俺の隣に座っていた美羽が思い切り肘を振り下ろし、俺の頭へクリーンヒットさせる。
【美羽】「モラルの片鱗すら見えない兄貴に聞いたあたしがバカだったっ!!」
【大翔】「何をするかーっ!頭蓋骨が陥没するかと思ったわ!」
【美羽】「陥没してそのまま死ねっ!!」
【大翔】「美優っ、助けてくれっ」
【美優】「…………いんもらる(ぼそっ)」
【大翔】「いんも……っ!?」
ざくっ!
美優のズレていそうで、実に的を射た言葉が俺の胸に突き刺さった。
うぅ、地味につらいぞ。これ……。
【大翔】「…………飯食うか」
ぽつり、と行き場がないように呟いた。
【美羽】「ふんっ、バカ兄貴に言われなくたってそうするもんね」
【大翔】「…………」
くっ、黙っていれば言いたい放題言いやがって。
反論したい気持ちは山々だが、ここは我慢しておくとしよう。これぞ、大人の余裕。
すると、俺たちの会話を聞いていたユリアが、ふっと笑ったのが見えた。
【ユリア】「ふふ……皆さん、仲がよろしいんですね」
【大翔】「へ?」
【美羽】「ふぇ?」
ユリア姫のその一言に、俺と美羽は同時に反応してしまう。
そして、自然とお互いに見合ってしまったわけで。
【美優】「……お兄ちゃん、何だかんだいって私たちに優しいよね」
そんでもって、遅れたようににっこりと言う美優。
【大翔】「は、はぁ……そう見えますかね……?」
【ユリア】「ええ。一日の初めに、こんな明るく食事をしているではないですか」
【美羽】「…………」
【大翔】「そーですかぁ?まぁ、ウチはいつもこんな感じですよ」
こんな感じで、いつも非難されるのは俺だったりするのだが。
【美羽】「どれもこれもバカ兄のせいでしょ。もー頭がスポンジなんじゃないかってくらい、人の話聞かないよね」
【大翔】「スポンジだと?保水性抜群でいいじゃないか!」
【美羽】「誰が水を多く含む兄なんて求めんのよ!!」
【大翔】「あれだろ、肌にうるおいがあるってことだ。ほれ、ぴっちぴちだぞ」
【美羽】「知るかぁっ!」
うがーっ、と美羽が咆哮する。
ふふん、そんな脅しなど通用するものか。
【美優】「…………」
【美優】「絞れば、用なし?」
【大翔】「よ、よよよ用なしじゃないですう!」
【美羽】「ほらぁ、また話が脱線したじゃん」
【大翔】「るーん」
ため息を吐く美羽だったが、俺は知らぬ存ぜぬと言う顔を突き通した。
【ユリア】「うふふ……」
すると、ユリア姫の小さな笑いが聞こえてくる。
今の会話が面白かったのだろうか。
俺はそんな笑みを見ていると、こんな他愛もない会話を、ユリア姫はうらやましく思っているように見えた。
【大翔】「ごっそさん」
残っていたご飯の口にかき込んで、俺は立ち上がった。
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【レン】「では、私たちは先に」
全員朝食をつつがなく(誇張あり)終えて、ユリア姫は支度を始めた。
……何でも、一度俺たちが通う学園に行ってみたいのだとか。
んで、美羽と美優は二人の道案内のために同行するらしい。
まぁ、俺が行くべきなんだろうが、美羽あたりが許さんだろうな。全く可愛げのない。
【大翔】「ういっす。それじゃ、美羽と美優をよろしく頼みますね」
【美羽】「ぎろっ!」
俺がそう言うや否や、美羽は殺意むき出しの眼光を俺に浴びせてくる。
【大翔】「つーん」
だが伊達にこのビューティー大翔と恐れられた俺ではない。
そんなチャチな睨みに耐えるのは赤子の手を捻るくらい簡単だ。
……いや、耐えるだけじゃダメか。
【美羽】「…………ま、遅刻だけはしないでよね」
【大翔】「へいへい」
【美優】「じゃあ、行ってくるね。お兄ちゃん」
【大翔】「おう。行ってらっしゃい」
【美優】「変な人が来ても開けちゃダメだよ?」
【大翔】「なはは。わかってるって」
【美優】「スーツにサングラスの黒人が二人来ても開けちゃダメだよ?」
そんなのが来たら全力で逃げるから心配せんでいい。
【レン】「では……」
レンさんが軽く会釈をし、ドアを開いた。
ばたん。
後に残るのは、俺一人。
まだ時間には余裕がある。
少し休んだら、俺も出発するとしようかね……。
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【ナレーター】「今日の天気はぁ、おーむね晴れなのでぇ、今日は絶好の洗濯日和ですよ~っ!」
テレビのニュースか何かで、天気予報をしているお姉さんの声がした。
普段だったら聞き流してしまいそうだけども、今日は何気なく眺めてみた。
あ、ちょっとお姉さん鼻毛出てる。
ぴっ。
まぁ、言ったところで相手には聞こえないだろう。
むしろ聞こえてたら怖い。軽くホラーだ。
天気予報が終わったのを見計らい、リモコンを操作してテレビを消す。
さて、そろそろ行くとすっか……。
戸締りを確認し、俺は鞄を手に取った。
ぴんぽーん。
【大翔】「んあ?」
すると、狙いすましたかのようなタイミングで、家のインターホンが鳴り響いた。
こんな朝っぱらから誰だろうかと思いつつ、ドアホンの受話器を取る。
【?/陽菜】「あ、沢井ですけどヒロ君はいらっしゃいますかー?」
聞き覚えのある幼馴染の声が俺の耳に入ってきた。
【大翔】「ん、俺だけど」
【陽菜】「あ、ヒロ君!おっはよー!」
俺とわかるや否や、陽菜の声がもう一段階明るくなるのが受話器越しからでもわかった。
【大翔】「おはよ。何か用か?」
【陽菜】「あ、うん……えっと、いっ、いい一緒に学園に行かないか?」
【大翔】「別にいいけどなんで男言葉なんだよ」
【陽菜】「な、なんでもない!忘れて忘れて!てれりこてれりこ!」
途端に慌て始めた陽菜がおかしな呪文を唱え始めた。
一体こいつは何歳なんだろうか。
【大翔】「まぁ、俺も今出るとこだったし、いいぜ」
【陽菜】「ほんと!?」
【大翔】「ああ」
【陽菜】「ほんとにほんとにほんと!?黙って裏口から出たりしないよね!?」
【大翔】「して欲しいか?」
【陽菜】「絶ぇっ対っダメ!!」
【大翔】「やかましい!そんな大声出してたらご近所様に迷惑でしょ!ちょっくら待ってなさい!」
【陽菜】「えー?なんでー?」
【大翔】「いいから、今出るから待ってろっての!」
こういった会話はいつものことだから別に気にしないのだが、それに比例して近所の俺と陽菜のおかしな噂が絶えなくなるのは何故だ。
陽菜がうん、と言ったのを聞いて、俺はドアホンを切った。
そのまま教科書やらを詰めた鞄を手に取り、靴を履く。
がちゃ。
ドアを開けて外に出ると、ギラギラとした暑い陽光を浴びた。夏が近づいてきたのがしみじみと感じられる。
【陽菜】「おっはよ、ヒロ君!」
門の外で健気に立っている陽菜がにこやかな笑顔で挨拶をした。さっきも言った気がするが、特に気にすることでもないか。
【大翔】「おう。おはようさん」
俺は自然と挨拶を返しながらドアを施錠して、門を出た。
【陽菜】「あっついね~」
【大翔】「だな」
はぁ、と陽菜は体内の熱を放出するようにため息をする。
同時に手で仰いでたりもするが、大した効果は望めないだろうな。
【大翔】「ほんじゃ、行くか」
【陽菜】「うんっ」
そうして、俺は歩き出す。すると陽菜は後ろから駆けて来る。まるで、俺と歩調を合わせるように。
【陽菜】「えへへ……」
【大翔】「な、なんだよ」
【陽菜】「なんでもな~い」
俺の真横に揃うと、陽菜は小さく笑った……。
他愛もない、ただ一緒に歩くというだけなのに。
陽菜は、とても嬉しそうだった。
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陽炎が薄く立ち昇る歩道を、二人で歩いていく。
微かに聞こえるセミの鳴き声や、どこかの家で風鈴がちりんちりんと音を立てている。
『そうした小さな事』で、俺は夏が近づいているのだと、実感していたりもする。
もちろん、相変わらず俺の横をぴったりとキープしている幼馴染が、あついあついと喚くというのも、『そうした小さな事』に含まれてたりもするんだけど。
【陽菜】「ヒロ君ヒロ君、あのさぁあのさぁ」
【大翔】「2回言うなっ。で、何だ?」
【陽菜】「あのさ、ヒロ君ん家によその国の人が来たってほんと?」
【大翔】「あー…………」
陽菜の問いに、一瞬口ごもってしまう。
理由なんてないのに、なんとなく、これからのことが想像できたからだ。
【大翔】「まぁ、一応な」
【陽菜】「じゃあなんで黙ってたのさ」
そう言いながら、陽菜は俺の顔を覗き込んでくる。
予想通りの反応に、俺はただ肩をすくめるばかりだった。
【大翔】「別に黙ってたわけじゃねーよ。ただ、そういうのって、あんま周りぺらぺら喋るわけにもいかないだろ?」
我が家の姉妹はそういった事情は話さないと、俺は思っている。
美羽は俺に対する態度はああいったものだが、それなりにしっかりしている。
美優は……まぁ、元々あまり自己主張の激しい性格じゃない。
俺は俺で、そこまで周囲に自慢をするような奴とは違う。
ましてや、ただでさえ普通とは少し違う家庭なのだから、そんな、言う必要がない事をわざわざ言いふらすなんてもっての他だ。
とはいえ、慣れ親しんだ陽菜に相談を持ち掛けなかったのはまずかったのかもしれない。
こんなストーカーまがいの幼馴染でも、俺との隔たりは、今のところ家族に次いで2番目に薄いようなわけで。
陽菜から見れば水臭かったんだろう。俺はそう思うことにした。
【陽菜】「でももうご近所中に噂になってるよ?」
【大翔】「―――はぁ!?」
思わず大声を張り上げて、陽菜の方を振り向く。
陽菜はといえば、俺のこの反応に首を傾げているようだ。
【大翔】「な、なななななんでだよ!?昨日来たばっかだぞ!?」
【陽菜】「ん~……、きっと悪事千里を走るってやつじゃない?」
【大翔】「意味がちげーよ!俺何も悪事なんていわれることしてねーし!」
【陽菜】「ふぅ~ん……」
だが、俺の反論を聞くや否や、陽菜は途端にジト目でこちらを見つめてくる。
その視線に思わず目を逸らしたくなるが、後ろにたじろぐことで何とか場を乗り切った。
【陽菜】「噂の内容、聞きたい?」
そう言いながら陽菜は、何やら頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。
おいおい、口にするのも悪い噂なのか?
しかし、俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、陽菜が口を開いた。
【陽菜】「結城さん家の坊ちゃんの子供を孕んだお姫様が、出産のためにはるばるやってきただってさ」
その言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。
【大翔】「ん、んなバカあるか!誰だそんな噂流した奴は!?」
【陽菜】「そんなの私が知ってるわけないじゃん」
そう言って、またそっぽを向く陽菜。
心なしか歩調も早くなっていて、俺を追い抜きそうだった。
その後ろ姿を見ながら、俺は肩を落とす。
【大翔】「あのなぁ……そんな根も葉もない噂、嘘に決まってんだろ?」
【陽菜】「…………」
【大翔】「大体な、俺いくつだと思ってんだよ。んな狂った下半身持ってるわきゃないっての」
そもそも、俺の幼馴染がここまで憤慨するような、そんないかがわしい事、俺がしてるわけがない。
というか、そんな体験すら未だないわけで。
さすがに恥ずかしいというか、胸を張って言えることではないので、未体験というのは公表はせずに説得しているが。
【陽菜】「……でもさ、何もしてないのにそんな噂が立つってことはさ、普段からそういうことばっかしてるからじゃないの?」
が、オブラートに包み過ぎたのか、陽菜は理解しなかったようだ。
【大翔】「るっせ。俺だって男の子だっつーの。果てない欲求に思いを馳せることだってあるわ!」
【陽菜】「やっぱ孕ませたんだぁ~~~!!」
さらに陽菜は頭を抱えて大声を張り上げる始末だ。
近くを通りがかっている人たちが一斉にこっちを見てくる。
……ややこしいことになりそうな気がしてきた。
【大翔】「だぁぁぁっ、ご近所に迷惑でしょうが!」
【陽菜】「ヒロ君の鬼畜王~~~!!」
そこまで言った瞬間、陽菜はわんわん泣き始めた。
鬼畜、の言葉の辺りで、周囲の野次馬はこれまた一斉にひそひそと小話を始める。
まずい、これは明らかに端から見ると男女関係でひと悶着あって、孕み孕まれの地獄絵図に違いない。
【大翔】「ばっ、馬鹿お前、だから違うっつーに!思いを馳せるだけっつってんだろが!」
ともかくこの場を収めるべく、俺は慌てて言葉をつないだ。
陽菜はぐすぐす音を立てて鼻水を吸いながら、
【陽菜】「……ホントに?」
かすかに聞こえる声で、そう聞いてきた。
俺は陽菜を安心させるべく、胸を張って答えた。
【大翔】「ああ本当だ。もし嘘だったら、俺の未だかつて攻め込んだ事のない兵士を披露してやるよ」
攻め込んだ事のない兵士という意味が陽菜に伝わることのないよう祈った。
しかもそれ披露したら猥褻物陳列罪だ。
【陽菜】「ん…………信じる」
【大翔】「よし。だからもう泣くなよ」
【陽菜】「うん……」
ようやく落ち着いた陽菜をよそに、俺は重くため息をついた。
朝っぱらからとんでもないこと言う奴だな全く。
おそらくこういうところを見られて変な噂が立つんだろう。そうに違いない。
そう思いつつ携帯を開き、現時刻を確認する。
【大翔】「…………」
……そして俺は音もなく立ち止まった。
【陽菜】「……?ヒロ君どうしたの?」
その場に立ち尽くしている俺を怪訝に思ったのか、陽菜が俺の方へ振り返る。
【大翔】「…………」
だが相変わらず俺は立ち止まったままだ。
【陽菜】「ね、ねぇ……?」
【大翔】「陽菜」
ようやく俺は言葉を発せるまでに至った。
短く、的確に幼馴染の名を呼ぶ。
【陽菜】「な、何?」
首を傾げる陽菜を一瞥し、俺は再び足を踏み出す。
一歩、二歩。
三歩目からは歩行間隔を狭めて、歩調を上げていく。
ぐんぐん歩行スピードは上がっていき、やがて疾走へと変わる。
そしてぽかんとしている陽菜の横をすり抜ける瞬間―――
【陽菜】「え、えええ?ちょっとっ!」
しっかと陽菜を肩を抱き、俺は猛ダッシュを始める。
肩を掴まれた陽菜も、当然の如く走り出すわけで。
【陽菜】「ヒ、ヒロ君ってばっ、どうしたのっ!?」
【大翔】「遅刻だぁぁぁあああはあああああん!!」
先程陽菜が泣き叫んだ時と同じぐらいの声量で絶叫する。
携帯にて確認した時刻は……8時6分。
あと4分の内に、俺たちは学園へと着かねばならない。
どう考えても、今から走ったのでは間に合わないだろう。
だが、走らなければ。
遅刻によって降りかかる担任教師の鉄槌を、俺は浴びたくはない。
―――残時間240秒。
今俺は体中の筋肉を爆発させ、大地を蹴る。
顔から吹き出る汗が粘つく。同時に目から汗が流れ出るような気がした。
……確認しなくとも、それは涙であった。
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