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『少年は世界に触れる』

 その背は高く、並みの男では見上げるほど。
 眼光は鋭く、その瞳は時に、鮮やかな赤に輝く。
 常に黒い服に身を包み、分厚い手袋を決して外さない。
 その手には、身長ほどもある長い剣。

 そのパン焼き窯に、火が入らないのは、月に二度の定休日だけだ。
 パン屋の主シュペヒトが、こびりついたススを磨いていると、背後からぬうっと、大きな影が現れた。
「お、ユスト。稽古はもういいのか?」
 シュペヒトが振り返った先には、一人のルーンフォークが立っている。
 長身痩躯に、ぴったりとした黒い服。撫で付けた銀色の髪に、二筋の黒い線。目下、パン屋に居候中の冒険者、ユストゥスである。
「レルヒェ殿が、泣き出しまして」ユストゥスは、そう言って苦笑いした。
 レルヒェはシュペヒトの娘。まだ一歳にもなっていない。
 シュペヒトの妻ナハティガルは、ユストゥスの剣の師であるが、乳飲み子を抱えていては、その鬼のような厳しさも発揮しきれないようだ。
「はっは、救われたな。ま、体力があるなら調理器具でも洗っといてくれ」シュペヒトが言うと、ユストゥスは「任務了解であります!」と、びしっと敬礼して、喜々として調理器具に飛びついた。
 食器だろうと、机だろうと、剣だろうと、擦り切れそうなほど磨いて、顔が映るくらいピカピカにするのが、ユストゥスの趣味である。
 ニコニコしながらお玉を洗うユストゥスを見て、シュペヒトは感慨深げに頷いた。
「変わらねえな、お前は。そのでかい図体見てると、"双頭の狐"に戻ったみてえだ」
 "双頭の狐"とは、ユストゥスやシュペヒト、そしてナハティガルも属していた傭兵団。彼らが団を離れた後は、レーゼルドーン大陸に渡って、蛮族たちと戦いを続けているという。「団長殿たちはお元気でありますかねえ」手は休めないまま、ユストゥスが言う。
「ピンピンしてるに決まってるだろ。あの連中はバケモンだ。ま、眼鏡殿はカゼくらい引いてるかもしれんが」
「それぐらいなら、良いのですが」ユストゥスは、少し顔を曇らせる。最近、立て続けに仲間の死亡に立ち合うことになり、気持ちを立て直すために、昔の仲間がいるこのパン屋にやってきたユストゥスだ。遠い人の安否に、神経質になっているのだろう。
 そんなユストゥスの肩を、シュペヒトがぽん、と叩く。「団長の心配なんかするにゃまだ早いぜ、ユスト」
「で、ありますね!」
 また笑顔に戻って、お玉磨きを再開するユストゥス。
 そんな彼を見ながら、シュペヒトは、太い両腕を胸の前で組む。
 少し、昔のことを思い出していた。

 その日、シュペヒトが見たのは、傭兵たちが積み上げた洗濯物の山の前で、泣きそうな顔をしながら、一枚のシャツを延々洗っているユストゥスの姿だった。
「何やってるんだ、お前?」シュペヒトの言葉に、ユストゥスがゆっくり顔を上げる。
「汚れが……落ちなくて……」
 ユストゥスは、空ろな目で、シャツを洗濯板にこすりつけ続けている。「もう、ボロボロじゃねえか」どこか異常なものを感じて、シュペヒトはユストゥスを洗い桶から引き離した。「何やってんだ、全く」
「どんなに洗っても……」ユストの力ない視線は、洗い桶の中の、ぼろぼろのシャツから離れない。「血の染みが、落ちなくて……」
「……あのなあ、ユスト」
 シュペヒトは、自分よりも背の高いユストゥスの両肩を掴んで、自分に向き直らさせた。
「あのな、どうしたって、落ちないシミってのはあるんだ。でも、そりゃな、別に汚なくはないんだ」
「……どういうことでありますか?」ユストゥスは、泣きそうな目をシュペヒトに向ける。
「どんな服だってな、ずっと使ってりゃ、汚れもするし破れもする。それを直すにも、限度がある。……でもな、いいんだよ、それで。そうやって使ってるうちに、愛着なんかも湧いてくるもんだ。……あー」
 シュペヒトは、少し照れたように、ユストゥスから顔を背けて、ぽりぽりと頬を掻いた。
「つまりなァ……。生きてくってのは、まァ、だいたい、そーゆー事なんだ。だから、気にすんな。な」
 そう言って、ぽんぽん、とユストゥスの肩を叩く。
「わかりません……」答える声は、震えている。
「わからんか。まァ……とりあえず、今は洗濯はいい。皿洗いの方、やっといてくれ」
「……はい」ユストゥスは頷いて、歩きだそうとした。「あ、おい待てよ。手袋」と、シュペヒトが、ユストゥスの手を指す。皮の手袋が、水を吸って、その手に張り付いている。手袋のままで、洗濯をしていたらしい。
「気持ち悪くないか? だいたい、洗いものにゃ邪魔だろう」手袋を外させようとしたシュペヒトを、ユストゥスが拒む。
「このままで、良いのです。中までは濡れていません。それに……」ユストゥスは、両手をきつく握りしめた。水が滴り落ちる。
「触れたく、ないのです」
 そういえば、ユストゥスが手袋を外したところを、シュペヒトは見た事がない。
 そのまま、よろよろと去っていくユストゥスを見て、シュペヒトは溜め息をついた。
「……やれやれ。あんなナリしてなァ」

 ――その背は高く、並みの男では見上げるほど。
 眼光は鋭く、その瞳は時に、鮮やかな赤に輝く。
 常に黒い服に身を包み、分厚い手袋を決して外さない。
 その手には、身長ほどもある長い剣。
 そんな外見に、むき出しの、傷ついた子供の心。
 それが、シュペヒトから見た、あの頃のユストゥスの印象だった。

 今。
「あれ、ユスト。そういや、手袋どうした?」
 シュペヒトは、ユストゥスの手が、素手であることに気が付いた。
「ああ、邪魔なので、今は外しておりますが」ユストゥスは、磨いている盆から顔を上げず、事もなげにそう答える。
「……ほー」
 シュペヒトは、まじまじとユストゥスを見た。視線に気付いて、ユストゥスは怪訝そうな顔をする。「どうしました?」
「や、いやいや。何でもない」
 そう言って、パン焼き窯に向き直りながら、シュペヒトは、こみ上げてくる感慨に、喉の奥が痛くなるのを感じていた。


END.