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「愛しのフレッド兄さんへ
兄さん、いつもお手紙ありがとう。どの手紙も何度も読み返しています。
こちらは皆元気にしています。お父さんの消息は聞かないけれど、きっと元気だと思います。
冒険のお話、いつも楽しく読んでいます。兄さんはいつも頑張っているのですね。
あまり危ないことはしてほしくないけれど、兄さんならきっと大丈夫だと信じています。
兄さんは今もザイア様のお導きに従っているのですね。そんな兄さんを誇りに思います。
けれど、私は悪い子です。寂しいの。ザイア様に兄さんを取られてしまったような気がして。
今日もお祈りしました。兄さんが無事に帰ってきますようにって。私のところに帰ってきますようにって。
兄さんが無事に帰ることだけを、毎日祈っています。
もうすぐ私の誕生日だけれど、どうか気を遣わないでください。
でも、もし叶うなら、少しでいいから顔を見せてください。それだけが私の望みです。
貴方のエレノアより」


『エレノア・ジェードの不安』


 私たちのお父さんは、昔、傭兵だった。
 傭兵の世界というのは、私たち貴族の世界とは、全く違うものらしい。歩き方から食事の仕方、言葉遣いに至るまで。
 私や兄さんが、お父さんのことを父さん、お父さんと呼ぶのも、お父さんが「お父様」と呼ばれるのを嫌がるからだ。
 そんな不思議な家風だったから、私は、兄さんのことを呼ぶ時も、「お兄様」ではなく「兄さん」と呼ぶようになった。この呼び方は、私も、兄さんも、結構気に入っている。

 ――兄さん、兄さん、兄さん、兄さん、にいさん、にいさん…………

『親愛なるエレへ』
 兄さんの手紙は、いつもその言葉で始まる。
 それから、私がどうしているか聞いて、お母さんがどうしているか聞いて、伯父様がどうしているか聞いて、お父さんの消息が届いていないかを聞いて。
 それから、やっと自分のこと。どんな冒険に行ったとか、どんな仲間がいるとか。
 兄さんはいつも、自分の見たこと、したことについて、すごくすごく考える。でも、なかなか答えは出ないみたい。いつも、最後に書いてあるの。『エレなら、どう思う?』って。
 そう聞かれるのが、とても嬉しい。私も、一生懸命考えて、兄さんに返事を送る。
 最初に書く言葉は、いつも同じ。
『愛しのフレッド兄さんへ』

 兄さんの手紙が来るのは、とても楽しみ。でも、最近、それが少し怖いことがある。
 最近の兄さんは、なんだか、少し様子がおかしいみたい。
 何が、なのかは、うまく言えない。けれど、なんだか、どんどん、兄さんとの距離が離れていくような気がする。
 もう少し前までは、離れていたって、心はずっと側にいるって、実感があったのに。
 兄さんがどんどん、知らない人になっていくみたいで。兄さんが、もう帰ってこないかもしれないなんて予感がして。
 そんなの、嫌。絶対に嫌。

 ――兄さん、兄さん、帰ってきて。会いたい、会いたい、会いたい……

「誕生日、おめでとう。エレノア!」
 その日、久しぶりに兄さんが帰ってきた。腕一杯に、綺麗なネリネの花束を抱えて。
 私は、嬉しくて嬉しくて、ずっと兄さんの側にいた。伯父様は、兄さんと二人で話がしたそうだったけど。
 何を話すのか、だいたい知っている。でも、そんなの、兄さんだってわかってる。兄さんはそれで、苦しんでいる。
 壊れた家の残骸が、兄さんの肩に、重く重くのしかかっている。
 だけど、今は、忘れていてほしい。せめて、私が側にいる時は。

 ――冒険のことも神様のことも家のことも全部忘れて、私のことだけ考えていてくれる時が、兄さんは一番幸せなんだから。

「今夜は、一緒に寝てもいい……?」
「あはは、エレは甘えんぼだなあ。もう、13歳になったのに」
「今夜だけでいいから、ね?」
 伯父様の家の、客室のベッドは、二人でゆうゆうと寝られるくらいに大きい。
 昔、私たちの家で、兄さんと私が一緒に寝ていたベッドは、もう少し小さかった。お互い、大きくなった体には、このベッドがちょうどいいけれど、ほんの少し寂しい気がする。
「……はは、なんだろ、ちょっと照れるね」
 ベッドに横たわった兄さんが、隣にいる私を見てそう言った。
 ランプを消して暗くなった部屋の中でも、兄さんの顔ははっきりと見える。
 ちょっと見ない間にも、兄さんの顔はだんだん大人びてきていて。そんな兄さんはとても素敵で、でも、私はどうしても不安になる。
「……兄さん、他の女の人と、こんなふうに一緒に寝たこと、ある?」
 少し気になっていたことを聞いてみると、兄さんは真っ赤になって否定した。
「そ、そんなこと、あるわけないじゃないか!」
 兄さんは私に嘘をつけない。本当だと思う。でも、私は不安なの。兄さんは優しいから、悪いひとにだまされたり、ほだされたりするんじゃないかって。

 ――不安、不安、不安、不安、不安。
 兄さん、どこにも行かないで。私のそばにいて。私だけを見て。私のことだけ考えていて。

「エレ……?」
 鼻の奥がつんとする。私は急いで、眠くなったふりをした。
 兄さんの胸に顔を埋める。懐かしい匂い。
「エレ……泣いてるの?」
 震える体をどうすることもできない。こみ上げてくる不安をどうすることもできない。
「大丈夫だよ、エレ。僕は、いつだって、君の……」
 兄さんは、その先を言い淀んだ。困ったように、ただゆっくりと、私の頭を撫でている。

 ――あ。
 ふいに、気がついた。

「……ねえ、兄さん」
 顔を上げて、言う。この暗闇の中なら、赤くなった目も、はっきりとは見えないだろう。

 ――それがわかっても、私の不安は、軽くなるわけではないけれど。

「忘れていたわ。ねえ……」

 兄さんの心に、一本の糸が引っ掛かっていて、それは私の手元に伸びている。

「……おやすみの、キスをして?」

 もちろん、こんな糸は、兄さんがその気になれば、容易く切られてしまうだろう。
 ――でも。それでも。

「……おやすみ、エレ」
 数瞬のためらいの後に、頬に触れた柔らかさ。今は、それでいい。それだけで、いい。

「おやすみなさい、兄さん」

 涙は暗闇に溶けてゆく。
 柔らかな匂いが、懐かしい体温が、愛しい鼓動が、私の不安を包み込む。
 ふわりと落ちていく、私の、この意識のそばには。
 兄さんが、いる。
 誰よりも大好きな、大好きな、私のフレッド兄さんが。






 行くなら、もっと遠く、ずっと遠くに行かなければ。橋を越えて、あるいは街道を越えて。平和とは遠い、戦いの最前線へ。君の姿が見えないくらい、君の声が届かないくらい、君の夢も見ないくらい、もっと、遠く、遠く、遠く、遠くへ。
 父さんの気持ちも、今なら少しだけわかる。父さんは橋を渡って、どこに行ったんだろう。霧の中? そうかもしれない。今の父さんにあるものは、歴戦の強さと、翡翠の色の瞳だけだから。
 いつかまた一緒にと思うなら、一度全てを捨てなければいけない。父さんには、わかってたんだ。あの家と、この世界とは、信じられないくらい遠いってこと。
 でも、僕に、同じことができるんだろうか? 笑いかけてくれる笑顔、髪を梳いてくれる手、兄さんって呼んでくれる、あの甘くて柔らかな声。そんな全てから遠ざかって、どこか知らない地の果てへ。
 本当はきっと、そのほうがエレのためなんだ。僕が遠くに行ってしまえば……。あの子はそのうち、素敵なレディになるだろう。そしてきっと、いつか、一番の幸せを見つけるだろう。彼女にとっては、きっとそれが一番いいんだ。……でも、どうして僕は、心からそう思えないんだろう?
 僕をここに引きとめているのは、彼女じゃない。彼女を想う、僕の心。それもひどく身勝手な。
 あの夜、彼女は、泣きながら、笑っていた。確かに、笑っていた。どうして?
 あの時、僕が、言えなかった言葉は、それは――
 行かなければ。もっと遠く、ずっと遠くに。どうせ、もう、戻ることなんて出来ないんだから。