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 薄曇りの空の下、港の喧騒が響く。
 "彩りの港"ロシレッタは、今日も変わりなく動いている。
 どこにでもある一日。
 だが、ある家族にとって、その日は、特別な一日だった。


「ルッツィー、準備はできたか?」
「うん、今行く」
 兄に呼ばれて、ルッツィーは自分の部屋を出た。普段は少年のような格好をしている彼女だが、この日は黒いワンピースに、網目のヴェールのついた黒い帽子を被っていた。
 今日は葬式の日だ。
 亡くなったのはルッツィーの曾祖父。母の父の父にあたる人で、ここ一年半ほどの間は、ルッツィーたち家族とともに、このバルカローレ家で過ごしていた。
 病を患った、という訳ではない。寿命、と言うよりないだろう。
 家は静けさに満ちている。階段を降りると、店内の光景は様変わりしていた。普段、この時間は賑わいが絶えないが、今日は商品棚も片付けられ、カウンターにも白い布がかけられている。
 台を重ねて布をかけただけの壇の上に、白木の棺。蓋はまだ閉められていない。
 棺の中には、ルッツィーの曾祖父が横たわっている。歳月を経た竜人の肉体。髭は白く、筋肉は痩せ、鱗の色は褪せている。
 ――こんなに、小さかったっけ――
 棺に納まった曾祖父を見て、ルッツィーは改めて、その死を強く意識した。


 葬儀はサカロスの神殿で行われる。曾祖父は特に強く信仰する神を持たなかったので、家長であるルッツィーの父が、商売の上で縁のある神殿を選んだ。
 二人の兄が棺を運んで、礼拝堂に安置した。ドワーフの神官が、祈りを捧げてくれている。
 父と母は弔問客の対応に追われ始めた。兄たちも、両親を気遣いながら、あれこれ準備を手伝っている。祖父母は、昔馴染みの友人と、穏やかに故人の思い出話をしている。
 こんな時、子供はただ大人しくしているのが仕事だ。
 外に出て、薄曇りの空をぼんやりと眺めていると、声をかけてくる者があった。
「おはよう、ルッツィー。大丈夫?」
 まだ背の低い少年は、見上げるようにルッツィーの顔を覗き込んだ。
「うん。来てくれたんだ、イーサ」
「兄ちゃんについてきたんだ」
 言われて見ると、イーサの兄――ヨナが、バルカローレ商会の番頭と挨拶しているところだった。彼は、そのまま振り向きもせずに礼拝堂に入って行く。
「あ、兄ちゃん……もう。声くらいかけていってもいいのにな」
「いいよ。あいつ、今日はそっちの名代なんでしょ?」
 イーサとヨナの家は、バルカローレ商会と同じく、ロシレッタに店を構える商家で、友好的な商売相手にあたる。商会の長である二人の父が来ていないのは、多忙のためだろう。亡くなった曾祖父は、バルカローレ家の一員ではあっても、商会とは関係を持っていなかった。息子を名代に立てるだけでも、随分律儀な対応だ。
「……でも、それだから揉めるんだよね」
 イーサが呟いた。
「後継ぎ?」
「うん。ヨナ兄ちゃんに仕事が回ってくるとさ……」
 二人の上には、もう一人兄がいる。母親が違うこともあって、仲は良くないらしい。
「あ、ごめん。今する話じゃないね」
 そう言って、イーサはぱたぱたと手を振った。
「亡くなったおじいちゃん、ルッツィーの先生なんだったよね」
「うん、武術のね。最近はさすがに、あんまり稽古つけてもらえなかったけど……」
 曾祖父は戦士だった。つい数年前まで、現役で戦場を駆け回っていた。蛮族との戦いの先頭に立ち、大斧を振るって敵を薙ぎ倒す。100年以上も戦いを続けてきた彼だが、歳には勝てなかったのだろうか。ある時、大きな怪我を負い、それをきっかけに戦働きを引退した。
 現役のころから、曾祖父はよくバルカローレ家に立ち寄っていた。ルッツィーと二人の兄は、彼の話す戦場の話に夢中になった。斧の使い方を習い、戦場での生き残り方を学んだ。兄たちは商人見習いでもあるから、武術の修業は嗜み程度のものだが、ルッツィーはかなり真剣に稽古に打ちこんでいた。曾祖父もルッツィーを可愛がり、多くの技を教え、培った経験を伝授した。
 曾祖父が引退してバルカローレ家に居付いた時、ルッツィーはもっと多くのことを彼から学べると期待したものだが、一線を退いてからの彼は、気力を失っており、みるみるうちに別人のように弱っていった。
「じいちゃんは、戦ってなきゃ、だめだったんだろうな」
 戦場で死にたかった。死ぬべきだった。曾祖父がそう呟いているのを、ルッツィーは何度も聞いている。
「……でも、ここにいるのも、楽しかったんじゃないかな。ルッツィーや、家の人たちがいて」
 気遣うように、イーサが言った。
「そうだと、いいんだけどね」
 イーサの頭にぽんと一度手を置くと、ルッツィーは身を翻し、礼拝堂へ入って行った。


 祈りの声が礼拝堂に響く。
 おごそかに式が執り行われる中、ルッツィーはぼんやりと、サカロス像の横に並んだ、ライフォスの神像を見つめていた。
 穏やかな表情の、壮年の男性像。人間の姿を模してはいるものの、その顔に刻まれた皺と、骨ばった肉体は、ルッツィーに在りし日の曾祖父の姿を思い起こさせた。
 ――お前は、いい戦士になれるよ。
 ――ほんと? みんなみたいな、鱗も、尻尾も、翼もないのに。
 ――必要なのは技と力、そして心。お前には、ちゃんとそれが備わっているよ。じいちゃんのヒマゴだからな。
 強く、厳しく、そして優しく、明るかった曾祖父。
 ――命を捨てる場所は、いくらでもあったのになあ。
 ――じいちゃんが生きてて、良かったと、オレは思うよ。
 ――そう言ってくれるのは嬉しいよ。だがね……。
 安楽椅子に腰かけたまま、ぼうっと終日遠くを見て、ぼそぼそと後悔を吐き出す曾祖父。
 (……老いるっていうのが、ああいうことなら)
 (オレは、こんな風に生まれて、よかった)
 自分の存在を肯定する、その根本。良くも、悪くも、曾祖父はルッツィーにとって、生き方の師匠だった。
 式は進む。参列者たちが、棺に花を添えていく。ヨナとイーサの兄弟も。
 親族席に座るルッツィーに、イーサは気遣わしげな視線を向けたが、ヨナは儀礼的に一礼しただけで、目も合わせずに献花を終えて、参列者席へ戻っていった。
 棺を閉じる前に、ルッツィーはもう一度、曾祖父の顔を見た。
 歳月を経た竜人の肉体。髭は白く、筋肉は痩せ、鱗の色は褪せ。ルッツィーの、尊敬していた曾祖父とは、もはや似ても似つかない、その姿。
 ――これが、老い。これが、死。
 曾祖父が息を引き取った時、悲しみは湧いてこなかった。ルッツィーの知っている曾祖父は、既にどこにもいなかったから。
 それでも、こうして改めて、命を失った躯を見ると、思い出は次々と攻めてきた。
 ――じいちゃん。今は幸せかい?――
 湧き上がった気持ちが零れる前に、ルッツィーは曾祖父の顔のそばに花を添えると、急いで棺から遠ざかった。


 釘を打たれ、閉ざされた棺は、船に乗せられて、沖へ運ばれる。リルドラケンには馴染みのない風習だが、この港町では時たま行われる弔いだ。
「じいさんは、あちこち回ってたからなあ」
 父が呟いた。このロシレッタの土に埋めるより、遥かな海へ送り出した方が、故人の願いに叶うと考えたのだろう。
 船に乗るのは家族と神官、操船を担当する船頭と漕ぎ手たちだけだ。参列者たちは、岸辺でそれを見送る。船の上からルッツィーが見ると、イーサが手を振ろうとして、ヨナに止められているのが見えた。目が合うと、ヨナはわずかに顔を緩ませた。商会の名代から、一瞬だけ、ただの少年に戻ったかのように。
 船は、ゆっくりと進んでいく。やがて岸はぼんやりと霞み、海は深い色に変わる。
「願わくば、神の御許で、再び杯を交わさん」
 神官が祈りを捧げる。
「大いなる導きのあらんことを」
 板の上を滑らせ、重りを付けた棺を海中に落とす。
 やがて、見えなくなる。
 ――もう、会えないんだなあ――
 それとも、また会えるのだろうか。魂の浄化がなされていくのなら、いつか。
 ――でも、それはもう、じいちゃんじゃないし、オレじゃない――
 死とは、会えなくなることなのだろうか。
 ――でも、じいちゃんは。オレの知ってるじいちゃんとは、もう、ずいぶん前から――
 では、今、沈んでいった棺に、入っていたのは……?
「…………」
 思い出、悲しみ、寂しさ、そして、答えの出ない疑問。
 湿った海風が、そっと、ルッツィーの帽子を撫でていった。