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 母親の顔も名前も憶えちゃいないが、どうしてだか一つだけ憶えている言葉がある。
『イシュ、イシュマエル。お前の名前は、お前の父親が付けてくれたんだよ』
 物心ついたかも怪しいガキが、今まで育っても憶えてるんだから、よっぽど何度も繰り返してたんだろう。
 事情も何も知らない。愛してたのか恨んでたのかも知らない。俺が四つになるかならないかの時、母親は死んだ。

 ロシレッタの裏町で、一人、ドブを浚って生きていた。
 似たようなのは周りに結構いたけど、そいつらもまあ、次から次へとバタバタ死んでいった。
 病気が流行ったり、事故が起きたり、単に何日も食うものがなかったり。
 俺が今まで生きてこられたのには、それこそ、運が良かったって以外のなんの理由もない……と思う。
 ねぐらはしょっちゅう変わったし、家族もいない。仲間の顔ぶれもどんどん変わる。
 それでも、なんとなく、『俺の居場所』っていうのは存在した。
 海から三つ目の橋の東側、街のゴミ溜めのような場所。寝る時は拾ったボロ布でも被るか、似たようなガキ連中で肩を寄せ合って寝るか。起きたら隣の奴が衰弱して死んでたとか、よくあった。
 次の角の廃屋の二階に、狂人が住んでいた。屋根の下に住んでるだけ、俺らよりはいい身分だ。どうしてだか生活はできてたらしい。変にリュートが上手かったから、そのおかげか。
 よく意味のわからないことを叫んでた。誰かを恨んでたのか、世の中を恨んでたのか。
 寝入りばなにそいつの叫び声が聞こえてくると、小せえガキは怯えて泣いた。そっちの声のほうが、うるさかった。

 探せば仕事はいくらでもあった。どれもこれも危険な上に、生きていくにはちと厳しい稼ぎだが。
 ドブ浚いの他に、物乞い、穴掘り、煙突掃除、スリ、強盗……おっと。ま、たとえ話だと思ってくれ。
 もうちっと可愛らしい顔してりゃ別の稼ぎもあったのかもしれねえが、そういう連中でも楽できてるわけじゃねえのは、周り見ててよくわかった。
 俺らみたいな生まれから、楽に生きる道なんてのは、やっぱそうそう無えもんだ。
 背が伸びてきてからは、船の漕ぎ手なんかやることが多かった。蒸し暑い船倉で重いオールをひたすら漕ぐ。絶え間なく監督官の鞭が飛ぶ。
 周りのどいつもぐったぐたに疲れてたと思うけど、そんな状況でもやる気のある奴ってのはいるもんで。
 二、三度、反乱の計画を上にチクったりした。おかげで稼がせてもらったよ。恨みなんて持たれる前に、恨む奴の首が飛ぶ。
 生きるか死ぬかってなってから、状況を改善しようなんて思っても遅いんだ。
 反乱なんざ、成功しても行く所もねえだろうに。ああいう連中は何考えてんだかな。考える力もなくなっちまってるのか。
 ……そんなこんな色々あったが、何度か船に乗ってるうちに、まあ慣れたし、顔なじみもできた。
 ちょっと偉い奴に気に入られたりして、操帆手なんかも任せてもらえるようになった。危険はむしろ大きいが、やっぱ高いとこは気持ちがいい。
 けど、多分俺は生粋の海の男とは違うんだな。船乗りってのは、ハマると海から離れられなくなるらしいが、俺の場合あんまりそういう気分と縁がなかった。
 船の上ってのは結局、身動き取りにくい場所だしな。船長にまでなったって、出資者探しで苦労する。
 波に乗ってどこまでも行く海の男、なんてほざいて気取ってみたって、結局のとこ、陸で動く金には勝てねえってオチだ。

 俺のいた裏町で金の流れを集めてたのは、セイルザートっていう商人だった。商人ってのは表の顔。裏でやってたのは、いわゆる盗賊ギルドって奴だ。
 最大組織ってほどじゃねえけど、わりかし手広く稼業をやってた。
 どういうわけだか、そのボスに気に入られてた。趣味ってわけでもなさそうだったし、理由はわかんねえけど。
 名前を覚えられて、たまにゃ酒や食事までおごってもらった。普段そのへんの草でも食ってるような身分だから、そりゃ有難えなんてもんじゃなかった。
 つっても、そんな気まぐれを後ろ盾だと思ったら痛い目に遭うもんだ。仕事を回してくれる時はありがたく受け取ったが、こっちからあっちを使おうなんて思い上がった真似はしなかった。
 自分の分をわきまえるのが、思わぬ事故に遭わないコツって奴だ。
 ボスが回してくれた仕事はさすがにいい稼ぎになったが、危険なのは変わらなかった。
 危険つうよりは、難しい仕事が多かったな。蛮族退治とか洞窟探検とか、冒険者みてえなことやらされたり。
 けど、いい経験になったよ。槍の使い方を教わったのも、そんな仕事の時に会った冒険者の戦士からだ。
 一時とはいえ仕事仲間だから、ってレベルでもなかった気がする。見返りもねえのに、お人好しっつうか。
 そういうの多いみたいだけどな、冒険者ってのは。明日も知れねえ浮浪児相手に、まあ、有難えこった。
 教わったのはほんとに基礎の基礎だったが、基本の型とか鍛錬の仕方を教わるだけでも変わるもんだ。それまで短剣だの鈍器だの適当に振り回してた時より、段違いに伸びるようになった。
 俺も単純なもんで、そうなると訓練も楽しくってな。
 日常の俺の仕事で、槍なんてそう使う機会もねえけど、たまーに暇があって余力が残ってると、棲み家近くの河原で、槍に見立てた棒っ切れを振り回したりしてた。
 狂人の弾いてるリュートの音が聞こえてきて、いいリズムになった。頭がアレになってても、音と拍だけは狂わねえもんだな。

 それから、そう――。
 ボスに回してもらった仕事で、もう一つ、俺の生き方を変えるような出来事があった。
 盗賊ギルド絡みじゃなく、ボスの表の顔……セイルザート商会の仕事の手伝い。
 ちょっと遠くまで荷物を届けに行けってんで、馬を貸してもらったんだ。ライダーギルドで飼育してる、そこそこの馬。これも乗り方から教えてもらった。
 おそるおそる脇腹を蹴ると、馬はゆっくりと歩き出した。歩みは次第に早くなり、走りに変わる。
「う……あ!?」
 味わったことのない感覚だった。周りの景色があっという間に後ろに溶けていく。馬の高い背の上から、もっと高い遠くが見えた。
 ――遠く、遠く、もっと遠く。高く、高く、もっと高く――。
 気が付いたら目的地に着いてた。馬は道に慣れてるのか、勝手に止まって俺を下ろした。
 どうしてだろうな、俺は泣いてた。母親が死んで以来、初めてだったかもしれない。
 帰り路もそうやって、あっという間に帰ってきた。別れるのが惜しかった。人と別れる時もそんなことねえのにな。
 報酬を受け取って、いつも通りねぐらに戻る。その時聞こえてきてたのは、リュートじゃなくて叫び声の方だ。
 気が付いたら、叫び返してた。
 ――俺は! もっと! 遠くに行ってやる!
 周りのガキどもが、なんだなんだと集まってきた。興奮が止まらないまま、俺と狂人はぎゃーぎゃー叫び合ってた。そのうち、他の連中も騒ぎ出した。
 盗賊ギルドの世話役が来て、俺の頭を小突いていった。さすがに叫ぶのはやめたが、その日は興奮が冷めないまま、稽古用の棒っ切れを一晩中振り回してた。
 ……思い出してみたら痛々しいことやってんな俺。若気の至りって奴か。
 他にもいろいろきっかけはあったと思うが、それが一番の決め手だったと思う。いつかこんな生活抜け出して、もっと……何だ。はっきり目標があるわけでもねえけど。

 旅に出る日ってのは、唐突に来るもんで。
 例の、世話焼いてくれたボスが暗殺された。敵が多すぎて誰の差し金かもわかんねえとか。
 そうなると裏町の勢力図も変わるもんで、あっちこっちひっくり返ったみたいになってた。ちょうどいい潮だと思った。
 食費削って貯めてた金で、なんとか槍と盾と鎧が買えた。それだけありゃあ、なんとか冒険者はやれるだろう。野宿にも空腹にも慣れっこだ。
 あとは、馬――。
 もちろん買う金なんかねえし、借りるにもちと高い。そもそもギルド員になれるだけの金すら覚束ねえ。それでも顔だけは出しとこうと、ギルドの受付に行ってみた。
 馬の乗り方を教わった時、ちょっと顔なじみになってたギルド員のおっさんがいた。
 俺の顔を見るなり、「待ってた」と言って、真新しい騎獣証を出してきた。
「なんだ、これ」
「セイルザートさんから預かってたんだよ」
 あいつが来たら、入れてやれ。だとさ。
 …………。

 ――俺が今まで生きてこられたのには、運が良かったって以外のなんの理由もない。
 周りにいた似たような境遇のガキどもは、寒い時の毛布代わりにはなった。
 漕ぎ手からマストの上に引っ張り上げられたのは、航海士の単なる気まぐれだったんだろう。
 槍の使い方を教えてくれた奴は、相当なお人好しだった。
 人と別れるのを、惜しんだりしない。
 ボスが何を考えてたんだか、わからない。どうして気にいられてたのか、わからない。
 近所の狂ったリュート弾きは、俺の末路か同類か。
 ……いや、違う。
 きっと、違う。

 ――遠く、遠く、もっと遠く。高く、高く、もっと高く――。




__End.