"アーニティさんは、とてもいい友達だけれど……"
 思い出すだけで死にたくなるような思い出も、今思えば悪くない思い出だ。思い出すと死にたくなるけど。

「……三年ぶり、でしたっけ」
「そうですね。皆が亡くなってから、三年」
「すみません、ずっと顔を出せなくて。合わせる顔が、なかったものですから」
「そんな……。でも」
 シェリカさんは、記憶より少し大人びた顔で、寂しげに笑った。
「また会えて、嬉しいわ」


『竜騎兵の凱旋』


 当分戻るまいと思っていた故郷なのに、結局一年も経たずに、僕はまたこの街にいる。
 気持ちの整理がついたから、というより、気持ちの整理をつけにきた、と言うべきか。
 ま、整理なんてつくわけもないんだけど。
 それでも、こうやって、思い出深い人に会いに来れる程度には強くなった……というより、強くならなきゃいけないと思った。
「それにしても、冒険者になっていたなんて。驚いた」
 花瓶の水を替えながら、シェリカさんが言う。この店は今も昔も、花の香りに満ちている。
「自分でも驚きましたよ。もうちょっと堅実な人間のつもりだったんですけどね」
 姉上が先にそうしなければ、思いつきもしなかったと思う。
「ふふ」
 こちらに向けられる柔らかな笑顔は昔通りだけれど、どこか陰が差したように見える。
 魔法の腕輪が、鎖に下げられて、彼女の胸にかかっている。聞かなくても、由来は知っている。
「セディも、聞いたらきっと、びっくりするわね」
「そうですね……」
 セディ。シェリカさんの恋人、僕の友人の一人……ライバルと言うにはちょっと差がありすぎた。でも彼は命を落とし、僕はいまこうして生きている。皮肉な話だ。
「彼は、剣で身を立てようとしていたから。今のあなたを見たら、きっと……」
 そこで、シェリカさんは言葉を止めた。
"きっと、羨ましがる"
 そう、言おうとしたのだろうか。
「きっと……笑うでしょうね」
 僕がそう言うと、彼女は、胸元の腕輪に手を当てて、柔らかに微笑んだ。
「そうね」
 ……半身を失った痛みというのは、どれほどのものだろう。きっと、僕なんかには想像もつかないほどの。
「シェリカさん、まだ……」
 言いかけて、後悔したけど、言葉は止まらなかった。
「辛い……ですか?」
 彼女の目が、曇る。
「…………」
 彼女は、俯きがちに振り向いて、カウンターの花瓶に近づく。
「……ええ。辛いわ。とても」
 彼女の手が、花瓶の周りに落ちた花びらを拾い集める。
「幸せな夢を見て……朝、目が覚めたことを残念に思う」
 集められた花びらは、まとめて籠に入れられる。彼女の手からひらひらと、くすんだ花びらが舞い落ちる。
「夜、眠れないまま、空が白くなっていくのを見る」
 ……ああ、わかる。よくわかる。
「何をしていても、まるで実感のないまま時は過ぎていって……」
 僕も、そうだった。
「……でも、ね」
 シェリカさんが、顔を上げた。。
「それでも……良かったって思うの」
「え?」
 振り向いた彼女の、その表情は、穏やかだ。
「彼と出会ったことも、私が今生きていることも。……そう思えるようになったのは、本当に最近だけれど」
 彼女の手が、形見の腕輪を優しく撫でる。
「それに、もちろん……あなたが生き残ってくれたことも」
「…………」
 無理のない笑顔が、かえって、胸に痛い。
「アーニティさんが、無事でよかった。元気で戻って来てくれて、よかった」
 花瓶から、花が一本、シェリカさんの手に取られる。
「……今は、心からそう言える」
 彼女が、僕に歩み寄る。
「だから……あなたも、もう、自分を責めないでください」
 シェリカさんが、僕の顔を覗き込む。
 瞳が、きれいだと思う。若葉のような翠。
「ライフォス様が、あなたの心に平穏をお届けになりますように」
 彼女は、手にした花を、僕の胸ポケットに差し入れた。
 花の香りが、じわりと喉の奥に沁みる。

 僕の背負うものが、軽くなったわけじゃない。
 でも、それでも、今、僕の中でまた一つ、糸のかたまりが、ほどけたような気がした。


 中心街から周縁部に向かう道は、緩やかな坂。人通りはそう多くない。
 見覚えのある人とすれ違ったが、話すのも面倒なので気付かないふりをした。
 たまに、お使い中らしい人形を見かけたりする。以前は当たり前のように思っていたけど、久しぶりに見るとぎょっとする。
 まぁ、この街は、変わっていないようだ。良くも悪くも。
 自警団の詰め所に顔を出すかどうかは迷った。あまり親しい相手は残っていないが、団長にはちょっと会いたい気もする。でも忙しいだろうし、待つのもなんなので、今回は寄らないことにした。
 住宅街を抜けて、郊外。林のそばにぽつんと建っているのが、僕の実家だ。ここも、変わらない。
 ドアを開けると、母が顔を出して、驚いたように僕の顔を見て……。
 覚悟してた通り。平手が飛んできた。
 それ以上は何も言わずに、母はそのまま食事の支度を続ける。
 自分の部屋に行ってみると、机はうっすら埃を被っていた。さすがに、居ない人間の部屋まで掃除はされてない。
 抽斗を開けると、記憶通り、そこに勲章が収まっている。
 そのまま戻して、自分のベッドに寝転ぶ。
 天井の染みがなんだか懐かしくて、視界が歪んだ。
 少し経って、父がギルドから帰って来た。顔を出すと、父はちょっと目を丸くしたが、すぐ、にやっと笑って、僕の頭をわしわしと撫でた。
「何も言わなくていい、わかってる」
 この人はいつもこうだ。多分なにもわかってない。でも、まあ、これでいいんだと思う。
 母の料理は相変わらず、素材そのままの味を生かした、要するに塩気の少ない料理だったが、これもまた懐かしくはある。
 姉上の話を色々した。自分の話はあまりしなかった。ただ、一つだけ。
「友達が、できました」
 両親は、顔を見合わせて、同時に笑った。


 義兄の顔は見たくもないが、甥っ子のことは気になる。気は重いが、寄るだけ寄ることにした。
 相変わらず、大きな家だ。
 姉上がここで暮らしていた時期、何度か来たことはある。
 あの頃の姉上は、まるで別人のように穏やかな顔をしていた。
 過去のことなんて、全部、忘れてしまったんだろうと思ってた。本当はまったくそんなことなかったってことは、今の姉上を見れば明らかだが。
 きっと、あのまま、本当に忘れていくことだって、できたんだろう……でも、それができないのが姉上だ。
 ノックしようとして、ちょっと躊躇していたら、中から思い切り扉が開いて、僕にぶつかった。
「わあっ!?」
「あー」
 扉を開けたのは、癖のある銀髪の、ナイトメアの子供。
 リヴァだ。……大きくなった。
 僕の姿を見ると、驚いたように中に駆け込んで行ってしまった。その奥から声がする。
「こら、リヴァ。廊下を走っちゃいけないって……あれ」
 ……出た。
「アーニー君じゃないか。久しぶり」
 彼にこう呼ばれるのもまぁ慣れた。友達が増えてから、僕をアーニーって呼ぶ人も増えたし。
「えぇ、お久しぶりです」儀礼的に頭を下げる。
「珍しいこともあるものだね。君が僕に会いに来るなんて」
「あなたに会いに来たわけじゃありませんよ」
 義兄がリヴァを抱き上げた。慣れた動作だが、やっぱり以前より随分重そうだ。
「リヴァ、憶えてるかい? アーニー君」
「あーに?」
「そうそう」
 子供の成長って早いな。一年も経たないのに、本当に大きくなった。感動したけど、義兄の前で態度には出さない。
「元気そうで、よかったです。リヴァ」
 手を伸ばして頭を撫でてやると、リヴァはびっくりしたような顔をした。かわいい。この義兄と姉上の子だとは思えない。顔はどっちにも似てるけど。
「まぁ、上がっていきなよ。ついでに掃除してくれると嬉しい」
「客に頼むことですか、それ」
 とは言ったものの、確かに散らかり方が気になる。姉上がいないとこれだから。
「ここの所、野暮用が嵩んで忙しいのと、リヴァが走り回るようになったからさ。さすがに、危険なものは片付けたけどね」
「それは何よりです」
 野暮用とか危険なものの内容については、心から聞きたくない。
「あ、茶葉は上の棚の右のほう。ポットとカップは食器棚の一番下」
「……はい?」
「リヴァの分はミルクでね。朝の残りがまだあるから」
「…………」
 もうなんか諦めた。厨房に行って、二人分のお茶とリヴァのミルクを用意する。厨房だけはやたら綺麗なので逆に心配になる。ちゃんとしたもの作ってるんだろうか。
「はい、どうぞ!」居間のテーブルに、お盆をがちゃりと置いた。
「乱暴だなぁ」そう言って、義兄はポットからカップにお茶を注ぐ。自分の分だけ。
「横暴な人に言われたくないです」
 仕方ないので、自分の分は自分で注ぐ。やたら香りがいい葉なのがむしろ腹立たしい。
 リヴァはコップを両手でしっかり持って、おいしそうにミルクを飲んでいる。その顔が、ちょっと姉上に似て見える。
「レンデは、どうしてる?」義兄が言った。
「気になるなら、会いに行ったらどうですか」
「行ったよ、夏に」
 ……思わず椅子からずり落ちそうになった。聞いてない。いや、聞きたくもなかったが。
「……えぇ、まぁ、それからなら、そんなに変わってないと思いますよ」
 一年前と比べるなら、姉上も結構変わったとは思うけど。
「つまり、可愛くて素敵な僕のファーレンディアのままだってことだね」
「はいはい」
 こいつのありえない惚気には大概慣れている。慣れるまでが遠かったが。
「まぁ、レンデはいつだってレンデだけど」
 茶を一口啜って、義兄が言う。
「君は、変わったかな」
「……そうですか?」
「良かったね。だいぶ立ち直ったみたいじゃないか」
「あなたと会ってませんでしたからね」あながち冗談でもない。
「随分、苦労した?」
「そうでもないですよ。一年前のほうが、ずっと辛かった」
 冒険者になってからは……そりゃ、怪我もするし、死にかけたこともあるし、仲間が傷つくことだってよくあるけど。それでも、なんていうか楽だし、嬉しいこともある。逃避と言われれば、それまでだけど。
 何より、友達が増えた。
「元気そうで何より。僕にとっても、君は大事な弟だし?
「……はっ」
 思わず本気で鼻で笑ってしまった。
「あっはっは。まぁ、前向きに生きる気になってくれたなら嬉しいよ」
 ……同じようなことはよく言われるけど、こいつに言われるとむしろ死にたくなる。
「ま、あなたより先に死ぬのも癪ですからね」
 義兄は何がおかしいのか、肩を震わせてくつくつと笑っている。こういう所が心底苦手だ。
「うんうん。……もう、大丈夫そうだね」
 何だか満足げなのが腹立たしい。
「えぇ、まぁ。ご心配おかけしました?」
「僕はともかく。ご両親、心配してたよ? あれでも」
「…………」
 こいつに言われる筋合いはないが、心配をかけたのは事実だと思うので反論できない。
「しばらく居るんだろ? 親孝行して行けばいいさ」
「……あなたに言われなくても、多少の埋め合わせは出来るように頑張りますよ。そう、長くは居られませんけどね」
「なんだ。せっかくだから、ついでに色々頼もうと思ったのに」
 冗談じゃない。
「あなたに使われる気はありませんよ。仕事としてならそりゃ別ですけど、それなら相応の報酬で……」
「心配しなくても、君にゴーレムを倒してこいだの、アンデッドを倒してこいだの頼まないさ」
 ……殴りたい。
「……じゃあ、何をしろって言うんですか」
「ほら、リヴァの遊び相手とか」
 ミルクを飲み干した後、ぬいぐるみを振り回して遊んでいたリヴァは、突然名前を呼ばれて、きょとんとした顔をした。
「それはもちろん、構いませんけど。というか、喜んでやりますけど」
「リヴァ、アーニー叔父ちゃんと遊びたい?」
「うー?」
 リヴァは、なんだか、よくわからない、といったように、僕のほうをちらちら見ている。
「大丈夫。ちょっと心に余裕がないからトゲトゲしい態度になりがちだけど、ほんとはいい人なんだよ?」
 リヴァの頭を撫でながら、義兄が言う。
「いーひと?」
「うんうん。アーニー君はいい人」
「あーに、いーひと?」
 ……この行き場のない感情をどうすればいいんだ。
「はいはい、どうせいい人ですよ……」
「いーひと!」
 なんだかわからないが、リヴァは機嫌が良いらしい。にこにこしながらぬいぐるみをぺしぺし叩いている。こういう仕種が、姉上によく似ている。
 と、子供を見て多少和んでいたら、父親のほうに声をかけられた。
「あ、そこのいい人。ポットとカップ洗っておいて」
「…………」
 ポットごと盆をひっくり返してやりたくなったが、それをやってもどうせ後片付けをするのは僕だろう。
「そういう態度、教育に悪いんじゃないですか?」机の上を片付けながら、そう言ってやる。
「大丈夫。僕がこんな対応するのは、君が相手の時くらいだから」
「何が大丈夫なんですか……」
 やっぱり、こいつだけはどうにもならない。大概慣れた自分が嫌だ。
 再び厨房へ向かうと、リヴァがついてきて、僕が食器を洗う手元をじっと見ている。この子には、出来た性格に育ってほしいものだ。できれば父親にも母親にも似ずに。
 恐る恐る抱き上げてみる。以前に比べればすっかり重くなったけれど、やっぱりまだ小さくて柔らかくて、ちょっと怖い。リヴァのほうは慣れたもので、うまく安定するようにしがみついてくる。
 子供の匂い。なんだか落ち付く。
「……い、いたた」
 髪を引っ張られた。両手が塞がっているので抵抗もできない。
 やっぱり、子供の相手って重労働だと思う。だからって義兄に同情もしないし尊敬もしないが。

「とりあえず、今日は家に戻ります」
 居間に戻って、義兄にリヴァを受け渡す。リヴァは、するりと僕の腕から義兄の腕に乗り移る。
「うん。また明日?」
「……重ねて言いますけど、リヴァと遊ぶ以外のことはしませんからね?」
「まぁ、頼む時はシェリカを通して店から頼むから、大丈夫」
 大丈夫じゃない。断れない。
「もう会った? 随分元気になっただろ、彼女」
 逆に言えば、やっぱり、元気じゃない時もあったってことなんだろう。
「……まあ。三年、ですからね」
 三年前。色んなことが起こった。姉上は師を失い、シェリカさんは恋人を失い、僕は友人を失った。
「まだ三年か。びっくりだな」
 他人事のように言う。こいつが一番の当事者だったっていうのに。
「まぁ、傷は癒えなくても。痛みは消えるよ、そのうちにね」
 そう言って、義兄はにこりと笑う。
「…………」
 踵を返しかけて、振り返った。
「……僕は」
「ん?」
「痛みも、忘れたくありません」
「……へぇ」
 義兄は、興味深そうに僕を見た。
「その生き方は、結構辛いと思うよ?」
「今さらですよ」
 肩をすくめてみせると、義兄は、「そうだね」と笑った。
「まぁ、頑張ればいいさ」
 義兄は、抱えていたリヴァを下ろして、僕の手を取った。
「アーニティ君に、ライフォスのご加護がありますように」
 ……ちょっと本気で蹴りを入れそうになったが、下手に怒ってもこいつの思うつぼだ。
「あなたこそ、リルズのご加護がありますように」
 手を振り払って、そう言ってやると、リードは、心底楽しそうに笑った。


 そのために帰って来たのに、寄るか、どうするか、随分迷った。
 まぁ、先に義兄に会ったおかげで、変に吹っ切れはした。
 街の中心街の少し外れ、煉瓦の壁に囲まれた一角。……墓地。
 木立が、ざわざわと騒いでいる。
「……久しぶり、ドゥエル」
 ここに来るのは、実は初めてだ。
 石の下には、友人が眠っている。恐らくは、僕が撃ち抜いた穴を頭に空けたまま。
「なんか……言わなきゃいけないことは、いっぱい、あるんだけど」
 喉の奥が、痛い。
 やっぱり、ここに来るのは、まだ早かったんだろうか。
 ……でも。
「ごめん。……とりあえず、報告っていうか」
 ここ一年にあった、色々なことが、頭を渦巻く。
「……って、言えるほど、まだ、まとまってないんだけど」
 僕はまだ、渦の中でもがいている。
「でも、少しは、しっかりしたと思うから……じゃ、なくて」
 後悔、罪悪感、自己嫌悪。
「……やっぱり僕は、まだ弱くて。何も、できないかもしれないけど」
 でも、色んな人が背中を押してくれた。
「僕は……まだ、生きているから。生きているなら……」
 やれることが、あるから。そう、口に出せなかった。
「……生きてるから、まだ、生きる。から……」
 許して欲しい。そう、言えなかった。
「だから……」
 見守って居て欲しい。そんなこと、言えるわけがない。
「だから……また、きっと、ここに、戻ってくるよ」
 …………。
 もちろん、石は、答えを返さない。
「……ごめん、なんだか、一方的に喋っちゃって」
 懐を探る。ポケットに、シェリカさんから受け取った花が、入ったままになっている。
 "ライフォス様が、あなたの心に、平穏をお届けになりますように"
「……神様に祈る趣味は、僕にはないから。だから、これは」
 シェリカさんの、僕の。残された者の、心。
「……あぁ、もう。何だか、馬鹿みたいだ」
 逃げ出したい。主に自分自身から。
「こんなだから、いつも姉上とか義兄上に馬鹿にされるのかな……」
 ポケットから抜いた花を、ドゥエルの墓前に捧げる。
「…………」
 言葉を探す。出てこない。
「……何て言っていいのか、わからないや」
 まったく、馬鹿馬鹿しい。
「……それじゃ、また」
 物言わぬ石を残して、僕はゆっくりと歩き始める。


 こうして、僕のささやかな凱旋は終わった。
 冒険に戻れば、きっとまた、たくさんの悪いことと、少しのいいことが待っている。



__End.









最終更新:2010年11月16日 09:42