その光景を、今も鮮明に憶えている。
 赤く染まるシーツ。産婦の上げる、悲鳴のような唸り声。出産を手伝う我が母の、厳しい顔。
 14歳の私は、碌な手伝いもできず、ただおろおろとその光景を眺めていた。
 絶え間なく繰り返される、祈りの言葉。神の癒しを以って、産婦は辛うじて息を保っている。
 生死の間の緊張は、丸一日近くも続き……
 やがて、新しい命の上げる産声が、救いの鐘のように鳴り響いた。


 『孤独の中の神の祝福』


 その娘は、あらゆるものから距離を置いていた。湖から、里の者たちから、家族からすらも。
 ただ、妖精たちだけが、娘の遊び相手だった。
 娘が妖精と話しているのを、見かけたことがある。誰にも見せたこともないような、生き生きした表情を見て、安堵を覚えるとともに、心が痛んだ。

 娘は、誰の手も必要としてはいなかった。
 何度も、外に誘った。私は、娘が里に溶け込んでいくことを望んでいた。けれど、その手はいつも拒まれた。
「うっとーしーのよ、あんたは」
 こちらに背中を向けたまま、そう言った。
 迎えに行く私、拒む娘。毎日のように、そんなことを繰り返した。

 この娘を、守らなければならないと思っていた。
 娘を、救わなければならないと思っていた。
 忌み子として生まれて来たこの娘が、神の道を踏み外すことのないように。

 娘が里を出たと知った時には、ことが起こってから、もう数週が過ぎていた。
 それは家出というようなものではなく、街に出たいと言う娘を、娘の両親も敢えて止めなかった、そういうことであったらしい。
 娘にとって、この里は居心地のよい場所ではなかっただろう。当然の選択であったのかもしれない。
 だが、私は、少なからず衝撃を受けていた。

 "この子を、守らなければならない"
 血の床に生まれ落ちた、角の生えた赤子を見た時から、ずっとそう思っていた。
 それは、神が私に与えた試練であり、使命なのだと思っていた。

 やがて、娘の母から私の母を通じて、娘が盗みを犯して捕らえられたと聞いた。
 私は……その時、あるいは、喜んだのかもしれない。"それ見たことか"と。
 私の手を拒んだ娘が、神の手を拒んだ娘が、闇に堕ちるのは当然のことだと。

 結局――
 私が、自らの思い上がりに気付いたのは、数年経って、娘と再会した時だった。

 娘は、何も変わってはいなかった。罪を償い、自由を得、やがて名声を得、力を得ても、何も変わってはいなかった。(酒量が増えたぐらいのものか)
 顔を見せた私に、娘は開口一番、こう言った。
「うわ、何あんた、何しに来たのよ」
 昔と変わらず、差し出した手を拒まれる。

 娘は、今も、私の知っている、あの娘のままだった。
 過ちを犯そうと、その心は汚れることなく。
 私がいようと、いまいと、道を踏み外すことなどなく。

 娘は、神を信じていない。
 人に甘えながらも、依存することはない。
 妖精と遊びながらも、世界のこちら側から足を踏み外すことはない。
 忌み子として生まれながらも、堕ちることもなく挫けることもない。
 まあ、酒には溺れるが……

 それでいながら、おそらく――

「愛されておるよ、貴様は」
「げほっ」
 そう言うと、娘は瓶から口を離し、しばし咳き込んだ。
「あんたねえ……昔っからそーだけど、そーゆーことよく口に出すわねー……」
「思うておることを言うたまでよ」

 娘は、妖精に愛されている。
 娘は、父母に愛されている。
 私は、娘を愛している。
 そして、娘は、神に祝福されている。

 湖の里の孤独な忌み子は、私が手を差し伸べるまでもなく、神の愛し子であるのだ。



__End.





最終更新:2010年09月25日 01:21