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『カラフル・モノクローム』」(2013/02/02 (土) 17:01:09) の最新版変更点

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『カラフル・モノクローム』 ――ナイトメア。角を持ち、寿命を持たず、生まれながらに穢れを背負った、ルミエルの忌み子。  うちの両親はリルドラケンで、ナイトメアだからって気にするような種族じゃないから、そのへんは助かったといえば助かったんだろうけど。  ただ、オレが育ったのは、多種族がごった返してる、ロシレッタの街で。人間やエルフ、ドワーフには、ナイトメアを忌避する傾向があるって話だから、オレも外に出る時は、帽子やバンダナで角を隠して、人間のフリをしなきゃならなかった。家族以外の他人と、あんまり関わりを持てなかったといえば、そうかもしれない。ナイトメアってばれたら、近所の子供と遊ぶこともできなくなっちゃったし。  でも、同じようにロシレッタに住んでるリルドラケンの子は遊んでくれたし、歳は離れてるけど兄ちゃんも二人いるから、まあ寂しいってことはなかった。  それに、人間の友達も、ぜんぜんいなかったわけじゃない。  最初に出会ったのは、イーサっていう男の子。オレより一つか二つ年下。ぼさぼさの黒髪に、くりくりした黒い瞳。  イーサも他の友達の輪に入れずにいて、海辺で一人で遊んでることが多かった。小さな蟹とかの捕まえ方を教えてくれたりして、そのうち仲良くなった。  後で聞いた話だと、イーサは『継っ子』だったらしくて、それで他の子に爪弾きにされてたらしい。そういうの、よくわからない。  本人は明るくて、あっけらかんとしてて、よく笑う子だった。そのあたり、ちょっとリルドラケンっぽかったかもしれない。頭がよくって、年下なのに、すごく大人びて見えた。  次に出会ったのは、ヨナっていって、イーサの兄貴。オレより一つ年上。背はあまり高くない。茶色がかったさらさらの髪に、濃い青色の瞳。  ヨナは、イーサとは逆に、あまり笑わなくて、たいていむすっとした顔してた。オレたちと一緒に遊んでても、ずっと仏頂面で、楽しくなさそうに見えたけど、イーサに言わせると、「ルッツィーと遊んでる時は、兄ちゃんも楽しそうな顔してる」らしかった。  イーサとヨナは本当の兄弟じゃなかったけど、仲良くしてた。皮肉屋で無愛想なヨナも、イーサには優しかった。  ヨナの上にはもう一人兄ちゃんがいたらしいけど、こっちの兄貴は、イーサやヨナとは仲が悪かったらしくて、オレは顔を見たこともない。元々貰い子のイーサとは、もちろん血が繋がってないし、ヨナとも母親が違うらしくて、家の後継争いとか、なんだか色々あったらしい。  ヨナの母親は亡くなってて、周りに味方が少なかったみたいで、だからかな、ヨナは、まだ子供なのに、無理して大人になろうとしてた。  多分、イーサもそれが見てらんなくて、よく外に引っ張り出して、無理やり遊びに混ぜたりしてたんだと思う。  一緒に遊んでる時でも、ヨナはたいてい黙ってたけど、イーサとオレの話はちゃんと聞いてくれてた。何かわからないことがあると、答えを出してくれることもあった。頼れる、ってほどじゃないけど、いい友達だった。少なくともオレは、そう思ってた。  二人の家は、セイルザート商会っていって、ちょっと大きな商会だった。もとは材木商だったのが、イーサとヨナの父ちゃんの代から、造船業とか水運とか色々な方向に手を伸ばして、それがすごくうまくいってたらしい。  うちのバルカローレ商会は、小規模の貿易商だから、船を出すとき共同出資したりして、いい協力関係だったとか。  商売相手ってだけじゃなくて、オレの父ちゃんと、イーサとヨナの父ちゃんは、種族は違うけど、なんとなく仲が良かったみたいだ。 「彼の考えることはわからない」って、父ちゃんはよく言ってたけど、それでも友達だったんじゃないかな……。  リルドラケンから生まれたナイトメアの子供と、ややこしい人間の家の二人の子供。  三人が、ロシレッタの浜辺で、一緒に遊んでいられた時間は、あんまり長くはなかった。  オレが十三になったくらいのころ。突然、イーサが亡くなった。  食中毒、だったらしい。衰弱が激しくて、治療が追いつかなかったそうだ。同じ症状で、ヨナもしばらく寝込んでたけど、こちらはなんとか助かった。  知らせを聞いた時、とても信じられなかった。身の回りに死者が出るのは初めてじゃなかったけど、だって、あんまり突然すぎた。 「ルッツィー……」  呆然としてたオレに、父ちゃんが声をかけた。 「……わかんないよ。父ちゃん、人間って、こんなに早く死んじゃうの?」  もちろん、リルドラケンだって、みんながみんな大人になれるわけじゃない。でも。 「…………」  父ちゃんは、オレが初めて見るような、すごく苦い顔をしていた。  イーサの葬式。人はまばら。  セイルザートの家族で出席していたのは、イーサの養父の商会長と、ヨナだけみたいだった。  一緒に来てくれてたオレの父ちゃんは、商会長にお悔やみを言うと、そのまま二人で何か話し始めた。  ヨナは、病み上がりでげっそりしてたけど、思ったよりもしっかり、立って、イーサを見送ろうとしてた。  こういうとき、こいつはホント、無理するんだ。 「ヨナ」  オレが声をかけると、ヨナはゆっくり振り向いた。いつもの無愛想な顔が、もっと無表情になってて、まるで仮面みたいだった。 「お前は……大丈夫なの?」 「……まあ、生きてる。俺は、運が悪いからな」  本音、なんだろう。 「イーサは……」  ヨナが顔を伏せる。その横に立って、棺桶の中を覗き込む。  青白い、小さな顔。細い手足。花に埋もれて窮屈そうなイーサ。小さな体が、もっと小さくなったように見えた。 ――誰でも、死ぬと、小さくなるんだな。  じいちゃんの死に顔を、思い出した。  花と一緒に、小さな網を入れた。浜辺の潮だまりで、いつも遊んでいたように、どこか遠くで、遊べるように。手を合わせて、目を閉じると、こんなことになる前の、イーサの元気な顔が浮かんで、辛くなった。 「……ちょっといい? 終わってからで、いいから」  喪服の袖で涙を拭いながら、ヨナに話しかけた。 「……ああ」  ヨナは、泣いてなかった。泣くのはもう、終わってたのかもしれない。  イーサの棺は堅く閉ざされ、深い穴に埋められた。上から土が被せられて、やがて見えなくなった。  ライフォスへの祈りが響く。 ――父ちゃんが、突然、セイルザート商会長の胸倉を掴んだ。 「君は一体、何をしているんだ。子供を死なせてまで――!」  誰も止めなかった。止められなかった。  セイルザート商会長――イーサの養父、ヨナの実父。掴みかかられても、彼は無表情を崩すことなく、ただじっと父ちゃんの目を見つめていた。  その仕草が、なんだかすごく、ヨナに似ていた。 ――やがて、神官は鎮魂の仕草とともに祈りを終える。葬儀は終わった。  父ちゃんは、商会長を掴んでいた手を離すと、オレのほうに来て、一言だけ囁いた。父ちゃんは、そのまま、振り向きもせず、共同墓地を後にした。  オレとヨナは、墓地を出ると、浜辺のほうに向かって、ゆっくりと歩いていく。 「なあ……お前さ」  横を歩いているヨナに言う。 「……うちの子になんない?」  ヨナのほうを見ないまま。 「……何だ、それは」  しばらくの沈黙のあと、無表情な声が返ってきた。 「あー……だからさ。その……オレの、兄ちゃんになる気ないかなって。部屋くらい作れるし」 「……お前は時々、わけのわからんことを考えるな」  ヨナが、ふうっと息をつく。 「オレじゃないよ、父ちゃんがさ、その方がいいんじゃないかって」 『あの子はセイルザートにいるべきじゃない――うちに来る気がないか、聞いてみてくれないか』 「……あり、なんじゃないかな。ほら、オレだってもとは養女……だし」 「……養女、ね」  抑揚のない声に、ちょっと焦った。 「……じゃ、ないけど。その、だから」  うまく話ができなくなった。  また、しばらく、二人とも黙ったまま。 「……お前も、それがいいと思うのか?」  ぽつんと、ヨナが言った。 「……と、思うよ。オレ、お前のこと嫌いじゃないし」 「嫌いじゃない、か」  陽の沈みかけた空。北向きの浜辺は、もう、一面の藍色に塗り潰されている。  しばらく、海を見ながら、二人で、立ち尽くしていた。 「……俺の弟は、イーサだけだ。これからも」  ヨナが言った。表情は見えない。 「ん……」  海風が、通り抜けて行った。早く帰れ、とでも言うように。  その時、ヨナがどこまで決めてたのか。  ……もう、かなり踏み込んでたんじゃないかと思う。  ヨナと後継者争いをしてた兄貴と、その母親が、突然姿を消したのは、それから一月も経たないうちだった。  オレには、その時その意味はあんまり飲み込めなかったけど。父ちゃんが、ため息をついてた。 「馬鹿な子だな。本当に、馬鹿な子だよ」  うん、それはオレもそう思う。  そんなわけで、結局、ヨナは正式に商会の跡継ぎに決まった。イーサが生きてたころは、ずっと嫌そうな顔してたのにね。  もう、遊ぶ時間もなさそうだった。たまに、商売の話でうちに来ることはあったけど。大人らしい態度も、すっかり身について、変わらないのは、愛想のない顔だけ。  それでも、たまに押しかけていって、忙しそうなヨナを引っ張って、港を見に行ったり、色んな話をしたりした。イーサが生きてたら、そうしてただろうから。  時は過ぎて――イーサが亡くなってから、二年くらい経ったころ。  今度は、ヨナの父ちゃんが亡くなった。急死。  人の家のことだ、あんまり知りたいとは思わない。ヨナが話してくれるなら、聞きたいけど。  きっとあいつは、自分が悲しいとか、辛いとか、そういう話は、してくれない。  でも、会いには行った。友達なんだから。  正式に家を継ぐことになったヨナは、それまでよりも更に忙しそうだった。会える時間が取れるまで、何カ月もかかった。  でも、ヨナはちゃんと会ってくれた。  部屋の扉を開けたら、正装のヨナがいた。  大きな商談とかよくあるんだろうし、ちゃんとした格好はした方がいいんだろうけど、それにしても格好つけすぎな気がする。  そして、顔には眼鏡。これまでヨナが眼鏡をしていた所なんか見たことない。 「何それ、目悪くしたの?」 「伊達だ。少しは歳嵩に見えるだろう」 「似合わねー」  思わず指さして笑ってしまったけど、ヨナは怒るでもなく、バルコニーのテーブルにオレを誘った。  手すりから身を乗り出して見渡せば、きちんと手入れされてはいるが、どこか面白見のない庭と、暮れかけた空が目に入る。  テーブルの上には、高そうなワインとチーズ、クラッカー。 「飲んでいいの?」 「ああ」  ヨナの方がとっとと席に着いたので、対面の椅子に座る。魔法の布がかけられていて、冬の夕暮れだっていうのに、寒さを感じない。  ヨナは手慣れた手つきでワインのコルクを抜き、テイスティングしてから、二人分のグラスにそれぞれ注いだ。 「お前、偉くなったんじゃなかったっけ。そういうの、使用人に任せるもんじゃないの?」 「自分でやらんと、何があるかわからんからな」  ……イーサの死のことを思い出した。 「お前……巻き込まれてるのか、何なのか、オレにはよくわからないんだけど……本当に、大丈夫?」 「大丈夫とは言い切れん」 「それって、どうにかならないの?」 「努力はしている。あとは……まあ、俺は悪運だけは強いからな」 「……何だよ、それ」  少し、腹が立った。 「あんまり無茶するなよな。お前に何かあったらやだよ」 「……そうか」  ヨナは、表情も変えないまま、ワイングラスを口につけた。 「オレにできることなんて、そんなにないけど。なあ、お前が困ってたり、辛いならさ、言ってくれよ。オレにでも、何かできることがあったら……」 「……できること、か」  ヨナは、一息でほとんど空になったグラスを、静かにテーブルに置くと、改めてオレの方に向き直った。 「……ルッツィー。お前、確かもう十五になったんだったな」  唐突に話が飛んで、ちょっと面食らった。 「え? えーと……うん。先月。なんだよ、誕生日憶えてたんなら、祝ってくれたらよかったのに」 「悪かった、暇がなくてな」 「来年は期待してるよ……少しは、落ち着くといいな、そのころには」 「来年……で、十六か。リルドラケンの成人は、三十くらいだったか?」 「そんなもんだね。あ、人間は十五だっけ。早いよな」 「さすがに三十までは待てんな」 「人間はさー、気が早いから」 「ルッツィー」  ヨナは、テーブルに手をついて、頭を下げた。 「俺と、結婚してくれ」  しばらく、呆然とした。言葉の意味が、頭まで伝わってこなかった。 「は……?」 「結婚してくれ」  姿勢を変えないまま、もう一度ヨナが言った。 「……なあ、それ、何の冗談?」 「冗談でも何でもない。結婚してくれ」 「いや、あのさ?」 「ルッツィー」  ヨナが顔を上げて、オレの目をじっと見つめてきた。 「あ、あの。えーと、あの……」  頭が混乱している。 「……と、とりあえず落ち着いて。オレも落ち着く。……問題を整理するところから始めるよ?」  オレが言うと、ヨナは素直に頷いた。 「まず……言ったことなかったけど、お前、どうせ知ってるよね、忘れてるかもしれないけど。あの、こう見えてもオレ、リルドラケンなんだよ?」 「知ってる。忘れるか。馬鹿にするな」 「いや、わかってる? だって……」  ……人間に近い姿に見えても、オレはリルドラケンだ。リルドラケンは、人間との間に子を成すことができない。 「判っているし、問題だと思っていない。わざわざ言わせるな」 「や、でも……だって、お前、その……跡継ぎとか必要なんじゃ?」  ……こほん。ヨナが、小さく咳ばらいをした。 「……セイルザート商会は、俺の一代をかけて縮小する」  ヨナは、きっと誰にも話したことのない本意を、静かに、でもはっきりと口にした。 「儲けは少なくとも、胡乱な連中の蔓延ることもない、誠実で、小さな商会に。――そのうち、俺がくたばる頃になったら、幹部の中から、害のなさそうなのを適当に選んで、後継者に指名する」 「そんなの、だって、簡単にできることじゃ……」 「身内で争うよりはマシだろう。……多分な」  弟と父の不審死。ヨナが失ってきたもの。そして、ヨナが自分の意思で行ったであろう異母兄の追放……。それを思えば、言ってることはわからないでもない。 「でも、だからって、オレがお前と、その……」 「好きなんだ」  ヨナは、まっすぐ俺の目を見て、そう言った。 ――その視線に、なぜか、苛立ちを覚えた。 「……どうして、オレなんだよ」 「好きなんだ。理由なんて、ない」 「……理由なんて、いくらでも用意できるよ。言ってやろうか?」  苛立ちのままに、言葉を続ける。 「イーサのことや、お前の父ちゃんのことや、兄貴とその母ちゃんのこと……。お前はもう、血の繋がりとか、家族ってものが、嫌になったんじゃないのか」  ヨナは、黙ってオレの言葉を聞いている。 「お前のこと、お前にあったこと、全部は知らないよ、聞いてないから。でも、想像はつくよ。 ――お前の父ちゃんの周りには、財産目当てで寄ってくる連中がいっぱいいた。どいつもこいつも、自分のことしか考えずに、そのうち争いが始まった。商会の中でも、家族の、中でも……」  ヨナがどんな思いをしてきたのか知らない。何があっても、いつだって、ヨナは何も言わなかった。言ってくれなかった。 「……あの時、本当は、お前が死ぬはずだったんだろう。でも、死んだのはイーサだった……」  イーサは――先代の気まぐれで引き取られた、愛妾の忘れ形見は、後継争いに利害関係を持たず、利用価値も持たなかった。巻き込んでもどうということはなかったんだろう。  でも、ヨナにとってだけは、違った。ヨナにとって、イーサは大事な、たった一人の弟だった。二人は仲がよかった。……同じ皿から分けあって、食事をするくらいに。 「イーサは、死んだ。毒を盛ったのは……お前の兄貴と、その母親なんだろ? ……お前はもう、家族とか、女とか、そんなの、うんざりしてるんだろう。 ……だから、だから、異種族のオレと、こんな中途半端な女と、結婚したいなんて言い出したんだろう……!」  オレは、テーブルに手をついて、立ち上がって、ヨナを睨みつけた。 「お前は、ただ、自分が一番ラクな相手を選ぼうとしてるだけだ!」  ヨナは、無表情のまま、口を開いた。 「……あまり見くびるな、馬鹿」  声音は、少し、怒っている。 「お前にだけは、それ、言われたくないよ!」  テーブルをどんっと叩く。ワイングラスが倒れて、テーブルクロスを赤く汚した。 「だってさ、だってさ! お前、オレのこと、考えてないだろ! お前にそう言われて、どう思うか、全然考えてないだろ! オレは……!」 「……じゃあ、黙っていれば良かったって言うのか? 本音を隠して、ただの友人の振りをしていれば良かったって言うのか? ただ適当に愚痴でも聞かせてやって、頼れる友人だと思ってる振りをしていれば良かったって言うのか?」 「……そうだよ! そうしておけば……!」 「……俺は、ただ」  ヨナは、静かに言った。 「誠実で、いたいだけだ」 「そういうのは、バカ正直って言うんだよ!」  もう一度テーブルを叩いた。 ――それから、少しの間、沈黙が続いた。零れたワインが、ぽたぽたと、床に落ちる音がする。  ヨナが、呟くように、口を開いた。 「……時間が、もう、どれだけあるのか、わからない」  冷たい手で、心臓を、掴まれたような気がした。 「ただの友人を……何年続けていればよかったって言うんだ?」  ヨナが椅子から立ち上がる。小さなテーブル越しに、あまり変わらない背丈で睨み合う。 「俺が十六で、お前が十五。歳だけなら、一つしか違わない。だが、お前が俺と同じ位置にいるのは、今だけなんだ」 ――ヨナは、すぐに大人になるだろう。五年もすれば、一人前の商会長に。十年もすれば、押しも押されもしない大商人に。  でも、オレは、十年経っても、二十年経っても、きっと、今のまま変わらない。 「……それで、いい。一緒に歳を重ねるなんて、望まない。ただ、ほんの一時でいいんだ」  ヨナは、レンズのない眼鏡越しに、暗い色の目で、じっとオレを見つめた。 「……五十年。いや、三十年。いや、この立場ならそんなに持たんだろう。俺が死ぬまで」  ――血の気が引く音がした。恐怖と、怒りで。 「頼む。お前の人生の、ほんの一瞬でいい。一緒にいてく……!」  意識もしなかった。気が付いたら、殴ってた。 「寿命を盾にすんな、卑怯者っ……!」  ヨナの眼鏡が壊れて、顔の端が切れてた。レンズは元々入ってないから、たいした怪我にはなってない。  眼鏡を外すと、ヨナの顔は歳よりずっと幼く見えて、もう見ていられなくなって……  オレは、バルコニーから部屋に戻り、そのまま扉を蹴り開けて、門の外まで走っていった。  海岸沿いの道を走って、自分の家まで辿り着くと、そのまま二階に上がって、自分の部屋に駆け込んで、上着だけ脱いで、そのままベッドに潜り込んだ。  眠れるわけがなかった。  それから、三日くらい後。  オレは、ヨナの執務室の扉を叩いた。  この間よりは地味な服を着たヨナが出てきた。眼鏡は新しくなってた。今度はレンズも嵌ってる。度のない、ただのガラスだろうけど。 「気が変わったか?」 「いや、いろいろ、考えたんだけどさ……」  そりゃもう、人生で初めてってくらい、ひたすら考えた。どうしてヨナのためにオレがこんなに悩まなきゃいけないのかと思うと、腹は立ったが。そのうち、結論は決まった。 「旅に出る、ことにした」 「……旅?」 「武者修行。とりあえず五十年くらいかな」 「…………」  ヨナは、無表情のまま、黙り込んでしまった。 「心配すんな。お前が死ぬ頃には、迎えに来てやるよ。あんまり早く死ぬなよ、戻って来れないかもしれないから」  そう言って、ヨナの胸を軽く叩いた。 「……だから、さ。 せいぜいさ、かわいい奥さんもらって、子供たくさん作って、孫も生まれて、幸せな爺ちゃんになってろよ。 その時になったら、この前お前が言ったこと持ち出して、みんなで笑ってやるからさ」  オレがそう言うと、ヨナは、表情を変えないまま、オレを見据えて、言った。 「……お前の期待通りにはなってやらん」 「今だけだ、ほざいてろ、ばーーか!」  あっかんべーをしてみせて、そのままくるりと背を向けて、ヨナの前から立ち去った。 「……待っている」  ヨナの声が、耳に届いた。  振り返らずに、そのまま、走って行った。  そんなのが、オレの旅の始まりだった。  

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