@harukimurakami_


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僕は個人的には、1)愚痴をできるだけ言わない。 2)好きなことをただ一生懸命やる。3)お腹の肉をなるべくつけない。4)新しい音楽を積極的に聴く。というようなことを日々心がけております。

小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。

人生の限られた時間を節約して使うために、自分に興味のあることと、自分に興味のないこととを、はっきり分別する傾向が僕には強くあります。

自分が何を求めているかは、あくまで自分で決めることです。自分の心に耳を澄ませることがいちばん大事なのです。僕はそう思います。

人間にとって大事なのはむしろ、言葉にならない「何か」をそのままじっと抱え続けられる心の強さと魂の深さを獲得することではないか、と僕は考えています。

僕は20代のころはとにかく生きることに必死で、借金を抱え、限界ある能力を抱え、ばたばたとあたふたと、せわしなく日々を送っていて、ふと気がついていたら作家になっていた

その時期、僕は疲労し混乱し、女房は体を壊していた。文章を書こうという気持ちが湧いてこなかった。(中略)自分の文章が書けないときでも、翻訳はできる。他人の小説をこつこつと翻訳することは、僕とっては一種の治療行為であると言ってもいい。それが僕が翻訳する理由のひとつである。「遠い太鼓」

お金で買うことのできるもっとも素晴らしいものは、時間と自由である、というのが僕の昔から変わらない信念です。時間と自由があれば、雑事に邪魔されることなく、集中して次の小説を執筆することができます。もちろんお金がなくても、ある程度、時間と自由を手に入れることはできます。

孤独は酸となって人をむしばむ。

深くて暗い井戸の底に一人でじっと座っているような時期がないと、人生に深みと広がりが出てこないような気がします。

でも優れた本を読んだり、良い音楽を聴いたり、面白い映画を見たりすると、そのあいだちょっとほっとすることができます。あとになってもその記憶や感触が残っていて、それで心を温めることもできます。

時間にしか解決できないことが、世界にはけっこうたくさんあります。そして僕はそういうものごとをいちばん信頼したいです。

コレクション(心を注ぐ対象)にとって問題は数じゃないんだということです。大事なのはあなたがどれくらいそれらを理解し愛しているかであり、それらの記憶がどれくらいあなたの中に鮮かに留まっているかだ。それがコミュニケーションというものの本来の意味だろう、そう愚考します。

本を読むことは、心の貯金をするようなものです。

訓練を介さない楽しみとは本質的に退屈なものだ。本質的に退屈でないものの楽しみとは、訓練によって得られる。

生きる目的は固定された何かの中にあるのではなく、対象にあわせて遷移していく自己のスタイルの落差の中にある。

風について考えるというのは、誰にでもできるわけではないし、いつでもどこでもできるわけではない。人がほんとうに風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。そういう気がする。

日々休まず書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気付かれない程度にわずかずつ、その目盛をこっそりと移動させていく。

結果としてのかたちはもちろんとても大事なものだけれど、我々が生きていくことをほんとうに助けてくれるのは、何かもっとべつのものだ。そう思う。だって永遠に勝ち続けることのできる人間なんて、この世界には一人もいないのだから。

かたちあるものはいつか消える。かたちのないものだって、いつかは消えていく。残るのは記憶だけだ。

小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にまたもっと深いところで誰かと担い合えるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。

人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。

僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある―生きることも、読むことも。

よくわからないからこそ、人生にはきっと意味があるのだろう。よくわけがわからないこそ、これからどうなるのか先が見えないからこそ、人は必死になってそこから何かを吸収していくのだ。

僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。

僕が走りながらいつも考えるのは、他人との勝ち負けはどうでもいいけど、自分との勝ち負けはすごく大事だということ。走っているとき、つらいときにどうやってそれを克服できるかというと、自分には負けたくないということしかないんです。昨日の自分よりはもうすこしましな自分でありたいという姿勢。

女性は怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいときがあるから怒るのだ。

あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることとしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。

あんたはこれまでにいろんな物を失ってきた。いろんな大事なものを失ってきた。それが誰のせいかというのは問題じゃない。問題はあんたがそれにくっつけたものにある。あんたは何かを失うたびに、そこに別の何かをくっつけて置いてきてしまったんだ。まるでしるしみたいにね。

走っていると、頭の中が空っぽになっていきます。走っているあいだに僕が考えることはどれも、その空白に従属しています。走っているときに頭に入り込んでくる考えは、一陣の風みないなもので ー 不意に吹いてきては、過ぎ去り、何も変えたりはしません。

人生には感動も数多くあるけれど、恥ずかしいことも同じくらいたくさんある。でもまあ、人生が感動ばかりだときっと疲れちゃいますよね。

「何をするべきか(何が正しいか)」というよりはむしろ、「何をするべきではないか(何が間違っているか)」というある種本能的な見極め、それがこれからの時代の精神のひとつの指標になっていくのではないかと思うのです。好むと好まざるとにかかわらず。

歳を取ることは僕の責任ではない。誰だって歳は取る。それは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない。

精神的なアイデンティティーが確立しておらんのです。(中略)アイデンティティーそのものは十分にあるのだが、それに対する秩序づけがなされていないことには使いものにならんです。

アイデンティティーとは何か?一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。

良い樵(きこり)というのは体にひとつだけ傷を持っているもんさ。それ以上でもなく、それ以下でもない。ひとつだけさ。

言葉というのは常に変化していくものだし、いろんな要因によって変わっていくものである。それは空気に対応して変化し、思考方法や行動様式に対応して変化する。交際する相手によって、年齢によって変化し、自分の立場の変化によって変化する。

自分が何を求めているかは、あくまで自分で決めることです。自分の心に耳を澄ませることがいちばん大事なのです。僕はそう思います。

才能とは何か?僕もときどき(そんなしょっちゅうではありませんが)それについて考えます。それで思うんですが、ものすごく特別な、巨大な才能を例外にすれば、何かに目標を定めて、ずっと努力し続けられる力こそが才能の中核ではないでしょうか。