内田樹先生 街場の至言(非公認)


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論文はその「まだ見ぬ読者」を宛先にした「贈り物」です。
その読者に「ああ、私は『こういうもの』を探していたのだ。『こういうもの』を読みたかったのだ」と思って貰うように書く。
その「贈り物」性こそが学術論文の本質であると申し上げてよろしいでしょう。

繰り返し言っているように、ほんとうにたいせつな仕事は「雪かき」や「どぶさらい」のようなものである。
別に感謝もされないし、誰かに誇るものでもない。
「やらないとまずいよな」と思う人が自分の家の前から始める。それだけのことである。

自分の可能性を最大化するためには、自分の可能性には限界があるということを知っておく必要があります。
自分の可能性を伸ばすためには、自分の可能性を「たいせつにする」ことが必要です。

人間は自分が欲するものをまず他人に贈与することでしか手に入れることができない。

人間を真に「人間的」たらしめているのは快楽ではない。
「受難」である。

「面白そうだったから」とか「暇だったから」とか「頼まれたから」とか「人生意気に感じたから」というような、
どうでもいいような理由で仕事をする人間、
ふつうこういう人たちがいちばん「質のよい仕事」をする。

歴史が証明しているのは、あらゆる組織は-世界帝国から資本主義企業まで-多様性を維持しているときに栄え、
「栄えている」という事実ゆえに均質的な個体を結集させ、結果的に組織としての多様性を失って滅びる、ということである。

成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。

ことばの贈り物をすると、ことばが返ってくる。
その往還の中で、自分があるコミュニケーション・ネットワークの中にいるということが実感される。
自分の存在が承認され、必要とされていることが分かる。
だからぼくたちはことばを交わすわけです。

あまり言う人がいないから言っておくが、「向上心はかならずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても確実な、幸福」(村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。

「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」のリスト作るより、
「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分ち与えることのできるもの」のリストを作る方が心身の健康にはずっとよいことである。

学びを起動させるもっとも効果的な動機は、「なんだかわからないけれど、ここに来てしまった」、「ここに呼ばれたような気がした」という感じである。

コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する

人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでもけっこう幸福に生きることができる。

「できないこと」を「やっていない」と反省してもまるで時間の無駄である。
だったら、いろいろある問題点のうち、「なんとかなりそうなもの」と「手が着けられないもの」を仕分けして、
リソースを「なんとかなりそうなもの」に優先的に配分する。それが老人の知恵である。

欠けているのは、「自分の持っている知識」は「どのような知識であり、どのような知識でないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば、「自分の知識についての知識」なのである。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定される。
能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見されるのである。

たいていの場合、私たちはつい出来合いの言葉を使って近似的な表現に甘んじたり、言いたいことに言葉が届かなかったりします。
つまり、私たちの言語運用はつねに「言い過ぎる」か「言い足りない」かどちらかなのです。

「スキャン」というのはつねづね申し上げているように、「自分を含む風景を上空から俯瞰する想像的視座」に立つ能力である。

人間が仕事に求めているのは、突き詰めて言えば「コミュニケーション」です。
ただそれだけです。
やったことに対してポジティブなリアクションがあると、どんな労働も愉しくなります。
人にとって一番つらいのは自分の行いが何の評価も査定もされないことです。
応答が返ってくるなら人間は何でもやります

言論の自由というのは「何を言っても構わない」という意味ではなく、
「さまざまな言論のうち、どれがベターであるかについて検証する場が存在する」という「場への信認」のことです。

言論の自由というのは、「言う自由」のことだけではない。
「言われたことば」の適否を判定する権利を社会成員が「平等なしかた」で分かち合うことも「自由」のうちにはふくまれている。

「私にはこの人がよく分からない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。

生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。
その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。

繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。
その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。
それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか。

正義は「奪われたものを奪い返す」ことを求める。
だが、無償での贈与は正義に悖る。
正義は「赦すこと」を許さないからだ。

「『私は弱者です』と自己申告すれば、社会的リソースの配分で有利なポジションが得られる」というポストモダニズム固有の病態である。私たちの時代の「政治的正しさ」は「『誰が最も弱者かレース』の勝者」がリソース配分で有利になる」というゲームのルールを採択した。

「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか。

多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの「替え」はいくらでもいる、ということである。誰でも自分と「代替可能」であるという自己認識がひとを幸福にすることはありえない。

私たちが自分に課すべき倫理的規範はある意味で簡単なものである。それは社会の全員が「自分みたいな人間」になっても、生きていけるような人間になることである。

「共生する能力の高さ」はおそらくもっとも査定することの困難なものである。査定が困難であろうとなかろうと、たいせつなものがたいせつなものであるという基本は譲るわけにはゆかない。

親子や夫婦の関係のほんとうの価値は、「楽しい時代」にどれほどハッピーだったかではなく、「あまりぱっとしない時代」にどう支え合ったかに基づいて考量される。

「不快な入力」が多い環境にいると、人間は鈍感になる。鈍感になる以外に選択肢がないのだからしかたがない。けれども、それによって危機対応能力は劇的に劣化する。子どもは、できるだけ快適な感覚入力だけしかない、低刺激環境で育てる方がいい、というのは私の経験則である。

ぼく自身の経験から言っても、レイバー的なアルバイトからは、時給以外に何も得るものがありません。マニュアルがきちんと決まっているようなバイトの場合は、一〇年間やってもたぶんそれを通じて社会的なスキルが身につくとか、人間的な成長を遂げるということは期待できないでしょう。

「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。
自分と政治的意見が違い、経済的ポジションが違い、宗教が違い、言語が違い、価値観も美意識も違う隣人たちと、
それでもにこやかに共生できるだけの度量をもつ人間のことである。

家族が崩壊したのは、これも繰り返し申し上げている通り、家族を解体し、家族ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利を手に入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。

システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したことにある。

「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。

配偶者というのは「入れ歯」のようなものである。
それは「私」という自然に闖入してくる「異物」である。
本質的に「合わない」のである。
このときに「合う配偶者を求める」ことよりも、「配偶者に合わせる」ことにリソースを優先的に備給できるのが武人である。

「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。

愛において自由であろうと望むのなら、私たちがなずべきことはとりあえず一つしかない。それは愛する人の「よく分からない言動」に安易な解釈をあてはめないことである。

仲間がいると人間の可動域は制約され、自由は抑制されるが、その代わりに「ひとりではできないこと」ができるようになる。

人口が減少し、高齢化が劇的に進行し、生産活動が停滞し、社会的流動性が失われてゆく社会において、なお健康で文化的で、(平川くんが愛用する形容詞を借りれば)「向日的」な市民的生活を営むためには、どのように制度設計を書き換えるべきか、それが喫緊の問題だろうと私も思っている。

「私はあなたのために何ができるのですか?」そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。

若々しい才能は脆く、弱い。
恐怖によって、恫喝によって、不安によって、花開く前に失われてしまう。
だからこそ、それは守らなくてはならない。
いくら手立てを尽くしても守り切れはしないけれど、それでもできるかぎり守らなくてはならない。
私は一教員としてそう思っている。

「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。

結婚を「得か損か」のタームで考えるということは、「快楽」の貨幣でしかものごとの軽重がはかれなくなっている「近代の病徴」なのだということには、そろそろ気がついてもよいと私は思う。

目的地にたどり着くまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどり着くことができる。

君がほんとうにこれからの人生で二度と致命的な失敗を犯したくないと、本気で望んでいるのなら、このような決断を迫られる局面に立ち至った自分自身の「最初の不適切な決断」を反省しなければならない。「自分はいつ、どのようにして、決断を誤ったのか」、それを自分に向かって問わねばならない。

世界に少しでも「よいこと」を積み増ししたいと思うなら、「ほうっておいても、どんどん世界をよくする非人称的なシステム」について考えるよりも、とりあえず自分の足元のゴミを拾いなさい、ということである。