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Mission 29 <禁断の魔法薬> 前編



金髪の巻き毛が自慢である少女、〝香水〟のモンモランシーは趣味で秘薬作りに勤しんでいる。
彼女の実家のモンモランシ家はトリステインの由緒正しい伝統ある名家であるが、色々な事情があって領地の経営だけで精一杯の状況である。
故にモンモランシーも小遣いを自分で稼ぐために香水を作ってはそれを街女や貴族の女性らに売り捌いていたのだ。
彼女の香水は独特の香りがすることで中々評判があり、結構な高値で売れるのである。そうしてお金を稼いでは、珍しい秘薬の材料を手に入れて作るのである。
もっとも、それらはコレクションを目的としているために使う機会はほとんどないのだが。

あくるの日の夜のことである。寮の自室でモンモランシーはいつも以上で真剣に秘薬作りに熱中していた。
「見てなさいよ……絶対に振り向かせてみせるんだから」
ぶつぶつと呟きながら、るつぼの中の秘薬をすりこぎでこね回していた。
今作っているのははただの秘薬ではなく、国法によって作成と使用を禁じられている品である。
これまでコツコツと貯めていた小遣い1000エキュー以上を費やして禁断の秘薬を作るための高価な秘薬を購入していたのであった。
見つかったら大変な罰金が科せられると知りつつも、モンモランシーはその秘薬を作らねばならなかった。
自分の大切な人が今、奪われようとしている。しかもあのスパーダという男と一緒にいたためかギーシュは以前とすっかり変わり果てた姿になりつつあった。

その時の男らしい気迫ある姿は悪くないとは思いつつも、そんなのは本当の彼ではない。ギーシュはキザっぽいのが一番似合っているのだ。それが変わってしまうのが嫌だった。
だがあのスパーダという男にすっかり入れ込んでおり、まともな手段では元のギーシュには戻せないだろう。
だからこそ、これから作る秘薬に全てを賭けているのだ。

滑らかにすり潰した香木に竜硫黄、マンドラゴラ、そして闇市でなければ手に入らない肝心の秘薬……香水瓶に入れられたほんの少量のその液体をるつぼの中に入れていく。
ちょうどこの一滴が闇市で扱っていた最後の一品。しかも今後、入荷の予定はないというので本当にギリギリだったのだ。決して、失敗は許されない。
少しずつ、少しずつ……こぼさぬように細心の注意を払って一滴一滴をるつぼの中へ落としていき、慎重にかき混ぜていく。
大切な人を何としてでも取り戻すために、モンモランシーは徹夜で禁断の秘薬を作り続けていた。


アルビオンより帰還してもう一週間以上が経っていた。
その日は虚無の曜日、多くの男子生徒達は朝からヴェストリ広場でスパーダの行なう剣術の稽古に参加していた。
この稽古によって己の状況、環境が変化した生徒が何人かいる。
まず、ルイズと同じクラスの同級生で〝風上〟の二つ名を持つマリコルヌ・ド・グランドプレ。
元々、彼がスパーダの稽古に参加したのは女の子にもてたいからという理由であった。小太りな体格である彼は女子には全くもてたことがない。
故にギーシュが師事しているスパーダから剣術を習って少しでもモテるためのきっかけを作ろうとしていたのだ。
スパーダの稽古は昼休みの合間、そして時々午後の授業が終わった夕方近くにも行なわれる。
それが何週間もほぼ毎日続けられており、マリコルヌにとっては極めて辛い運動となっていた。
「君、最近少し痩せたな?」
共に稽古を受けているギムリはマリコルヌの体を見て思わず呟く。
そう。結果的にその稽古をほぼ毎日受けていたのが功を成したのか、マリコルヌのぽっちゃりとした体は以前より少しではあるが逞しいものへと変わっていた。
出ていた腹も少し引っ込み、脂肪の多かった体などには筋肉がつき始めている。
「よぉしっ! もっともっと、修行に取り組むぞー!」
その指摘を受けたマリコルヌは、いつになく張り切っていた。女の子にモテる様を想像して、思わず顔がにやけてしまう。
「あっ! おい!」
「うげっ!」
結果として、組み手の相手をしていたギムリの木剣を腹へまともに受けることになってしてしまった。

「ワルキューレ!」
スパーダの直接の弟子であるギーシュ・ド・グラモンはいつにも増して戦士としての気迫を発揮していた。
剣を片手に杖を振り、青銅のゴーレムを作り出すと正面に立つスパーダ目掛けて突進させていく。
スパーダは腰の閻魔刀は手にせず左手に篭手のデルフを装着しており、向かってきたワルキューレに一発フックを叩き付けた。
バゴンッ、と鋭く重い打撃音と共に粉々に砕かれるワルキューレ。
だが、ギーシュは既に武装したもう二体を作り出して左右から時間差で向かわせていた。
「てやっ!」
さらに、スパーダ目掛けて自らの剣を投擲する。
勢いよく真っ直ぐに飛んでいく剣をスパーダはひらりと体を横に捻ってかわした。
右から来たワルキューレがメイスを振り下ろそうとする。だが、スパーダはそのまま体を勢いよく左に一転させる。
遠心力を利用して繰り出された左手の裏拳がワルキューレのメイスを腕ごと吹き飛ばし、もぎ取っていた。
砕かれた青銅の残骸が草地に放られるようにして転がる。

左から時間差で向かってきたもう一体のワルキューレもまたメイスを薙ぎ払おうとしていたが、一転し終えたスパーダはそのまま腰を低く落として足払いを繰り出した。
軽々と宙を舞ったワルキューレだったが、スパーダの頭上をギーシュの剣が回転しながら通過していくのをはっきりと耳にしていた。
「てえりゃあっ!」
念力で剣を引き戻したギーシュは即座に、立ち上がろうとしているスパーダへと駆け寄り斬りかかろうとした。
だが、スパーダは草地に叩きつけられていたワルキューレを蹴り上げ、再び宙へと舞わせていた。
「おっと!」
今までずっと、スパーダが腰だめに構えていた左拳を目にしたギーシュは慌ててその場で倒れるようにして伏せる。
直後、先ほど以上に鋭く凄まじい衝撃音と共にワルキューレが吹き飛ばされていた。
「危ない!」
「きゃあっ!」
まるで砲弾のような勢いで飛んでいったワルキューレを観戦していたギャラリー達は慌てて道を開けるようにして左右によける。
そのまま学院の外壁まで飛んでいったワルキューレはそれに衝突し、バラバラに砕け散っていた。

「ひゅーっ! 飛んだ、飛んだ!」
正拳突きを繰り出したスパーダの左手、装着されているデルフが歓声を上げていた。
「おおおっ!」
ギーシュは回避に成功したことを確認してすぐに起き上がり、そのままスパーダに斬りかかっていた。
袈裟に振り上げ、体を捻りつつ斬り返し、懐目掛けて突くなど、次々と剣の乱舞がスパーダに繰り出される。
矢継ぎ早に繰り出されるその剣を、スパーダは子供をあしらうかのように篭手で全て防ぎきっていた。
「素敵よ! ギーシュ様!」
乱舞を次々と繰り出すギーシュの表情はまるで獅子のように勇ましく、ギャラリーの女子達から黄色い声が上がっていたがギーシュの耳には届いていなかった。
「――うわあっ!」
スパーダに乱舞を繰り出し続け、剣を振り下ろそうとした途端、激しい閃光が瞬いた。同時にギーシュは自分の胸に風魔法のエア・ハンマーが叩きつけられた時以上の強烈な衝撃を感じていた。
ギーシュの体は軽く10メイルは吹き飛ばされ、剣を手放し草地に叩きつけられてしまう。
スパーダは左手を突き出したまま、静かに立ち尽くしている。
「ふぅ……。突っ込み過ぎだったなぁ、貴族の坊主」
蓄積されていた衝撃を開放されたためにどこかスッキリした様子でデルフは言った。
「痛い……」
まともに魔力開放によるカウンターを食らってしまったギーシュは草地の上で仰向けになったまま、起き上がれないでいた。
全身が痺れてほとんど動けない。
ちらりと、ギャラリー達の方を見やる。……初めはそこにいたモンモランシーの姿は、どこにもなかった。
(何故だ? どうして、僕を見てくれないんだい)
哀しそうな面持ちで、ギーシュは溜め息を吐いた。

アルビオンから帰ってきてからというものの、モンモランシーは何故かギーシュを避けるようになっていた。
以前、二股をかけてしまった件はあったものの、ギーシュの本命はあくまでモンモランシーである。
だから積極的に愛の言葉を囁いたり、薔薇の花を贈ったりなどして気を引いたり、共にお茶を飲んだりもしていた。
彼女もまんざらではないのか、表面上は仕方なさそうにギーシュに付き合ってくれたのだ。
ところが最近はどれだけ彼女の気を引こうとしても無視されてばかりであることにギーシュは困惑していた。
その理由を、「自分が弱々しいから」と判断していたギーシュはいつも以上に剣の修行に取り組むことにしたのである。
自分がモンモランシーを守れるようにもっと強くなることで振り向いてもらいたかったのだが、どうやらまだまだ彼女に認めてもらえる強さにはなっていないようだ。
そのためにもこうして更なる特訓に打ち込み、それが終わった後には諦めずにモンモランシーにアタックするのである。
体を起こしたギーシュは未だビリビリと痺れる胸を押さえる。
「……そ、そういえばどうしてタバサはいないのかな。また手合わせを頼もうかと思ったのに」
「実家に帰ったそうだ」
スパーダは左肩を揉みつつ回しながら言った。

タバサは今のギーシュの練習相手としてはちょうど良い相手であり、暇な時は手合わせをしてくれることに了承してくれていた。
しかし、いざそれを頼もうかと思ったら今日は朝食が終わってからシルフィードに乗ってどこかへ行ってしまった。
おまけに親友であるキュルケも面白そうだから、という理由で同行したためにここにはいない。
タバサは時々、授業を休んだり抜け出したりして留守にすることが多い。その際、伝書フクロウが必ず飛んでくるので何か特別な用事のようである。
そもそも彼女の実家はどういった場所なのかよく分からない。ガリアからの留学生だということは分かるのだが。
まあ、何にせよタバサとの手合わせができなかったので師匠のスパーダにこうして直接、手合わせをしてもらったのである。
スパーダとの手合わせは本気の殺し合いに等しいものだった。
以前にもたっぷり味わった悪魔としての本性を露にしていた組み手はタバサの時と違って、絶対に気は抜けない。
少しでも気を緩めれば確実に殺される。故にギーシュも本気を出し切らねばならなかったのだ。


結果的にギーシュは殺されはしなかったものの、スパーダの体術で徹底的に痛めつけられることになった。
顔こそ傷つけられることはなかったものの、体中に無数の痣をつけられている姿は実に痛々しい。
それでもモンモランシーは以前のように彼を介抱してくれることはなかったが、ギーシュ本人はこの傷だらけの姿を彼女に見せることで自分はさらに強くなったことを示すのだ。
「ああ……待っててくれよ、モンモランシー。今、君の元へ……」
足取りはおぼつかず、剣を杖にしなければまともに歩くことはできなかったが。
(ギーシュもこりないわね。あんなにボロボロになるまで続けることないのに)
始祖の祈祷書を抱えながらルイズは呆れたように嘆息する。
朝食を終えてからというものの、式で告げる詔を自室や図書館、そしてつい先ほどまでこの広場と回って初めの文程度までは考え付いていた。
そこから先で停滞してしまったので、気分転換をするため一時中断しているわけである。
「それからどうだ。何か詔は考え付いたのか」
庭の隅のベンチに腰掛けるスパーダに近づくなり、何の前触れもなく単刀直入に尋ねてきたためルイズは渋い顔をした。
「ありきたりなものかもしれないけど……」
「では、思いついたのを述べてみろ。だが、あまり批評には期待しないでもらおうか」
「ま、あまり固くなるなよ? どうせ、ほとんどは王宮の奴らに手直しされるんだから」
左手に装着したままのデルフがけらけらと笑うと、ルイズはムスッとした顔になる。
「うるさいわねっ。黙って聞いてなさい」
こほん、と小さく可愛らしい咳をしてルイズは考え付いた詔を読み上げていく。
「この麗しき日に、始祖の調べの光臨を願いつつ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。畏れ多くも祝福の詔を詠みあげ奉る……」
「どうしたい? 続けろよ」
そこで黙り込んでしまうと、デルフが急かしてきたので拗ねたように唇を尖らせた。
「これから火に対する感謝、水に対する感謝……順に四大系統に対する感謝の辞を、詩的な詞で韻を踏みつつ読まなきゃならないの。
でも、詩的な表現なんてそう簡単には思いつかないわよ」
かと言ってスパーダは芸術などにはあまり関心がなさそうなので助力は求められないし、デルフなど論外だ。
「……詩、か。では、ギーシュにでも聞いてみてはどうだ」
黙って詔を聞いていたスパーダが提案するが、ルイズは渋面を浮かべた。
「嫌よ。だって、ギーシュの考え付くのなんてどうせキザ臭いものばかりじゃない。そんなもの詔になんかしたら恥よ」
「それじゃあがんばって、自分で考えるこったなぁ」
他人事のように笑うデルフにうぅ~、と唸るルイズ。
「ねぇ、スパーダ。本当に何か良い詩とか知らないの?」
「そうだな……」
あまり芸術に興味がないスパーダとて、何もそういった分野に無知というわけではない。世を渡り歩いていると自然に耳にしてしまうものもあったりするものだ。
が、やはり今のルイズに必要なものをスパーダは耳にしたことがない。
「すまんな。やはり力にはなれん」
「……もういいわ。まだ時間はあることだし、ゆっくり考えることにする。さ、お昼ご飯にしましょう」
残念そうに溜め息を吐いたルイズは、既に生徒達は解散して自分達以外に誰もいない広場をスパーダと共に後にしていた。


昼食が終わって一時間ほど経った後、ルイズは詔を考えるのは一日中断することにし、スパーダを連れて学院裏手の草原へと訪れていた。
詔を考えるのも大事だがもう一つ……ルイズにはやらなければならないことがあるのである。
そのために昼食が終わった直後、スパーダに頼み込むことでこうして来てもらったのだった。
この場所を選んだのはヴェストリ広場では人が来るかもしれないため、スパーダの悪魔の力を見られる恐れがあるからである。
「それじゃあ、お願いね」
「うむ」
杖を抜き身構えるルイズに対し、スパーダは自分の左右に無数の赤い魔力の刃、幻影剣を浮かべていた。
なお、デルフを幻影剣にしたままだとうるさくなるために篭手にして装着している。
高速で回転する幻影剣を学院の外壁に向かって射出する。呪文を唱えていたルイズはその刃に向けて杖を振り下ろした。
「ファイヤー・ボール!」
別に呪文など何でも良かったが、ルイズはこの魔法を選んでいた。
ルイズがイメージしたのは、幻影剣の少し先の空間に爆発を起こすことだ。

――ドンッ!

何もない空間に一瞬、透けた魔力が収束したのが見えた途端、その場所を中心にして爆発が起きた。
「おっと、おしかったなぁ」
篭手のデルフが呟く。
狙いは僅かに外れており、爆発は飛んでいった幻影剣のすぐ横で発生している。ピンポイントで狙えなかったのがルイズは悔しかった。
もっともその爆風によって幻影剣は砕かれていたのだが。
「まだまだ続けるわよっ。スパーダ、お願い!」
ルイズはさらに杖を構えてはりきっていた。スパーダは無言で幻影剣を自分の周囲に作り出していた。
自分の魔法は本来ならただの失敗に過ぎないものだ。四代系統魔法のどれにも当てはまらない。
だが、スパーダが助言をしてくれたおかげでその失敗を自分なりに活かすという道に進ませてくれた。
コモン・マジックならば何とか使いこなせるようになったとはいえ、この失敗も更に活かすことが大切だ。
ルイズの目標は多くの人に認められる立派なメイジとなることなのだから。
気分転換にもちょうど良い。

スパーダの放つ幻影剣を的にしてルイズはこの爆発の失敗……〝バースト(炸裂)〟と名付けることにした魔法を撃ち続けていた。
今のように射出され、高速で飛んでいく幻影剣を一発のバーストで撃ち落したり、大量に放たれた幻影剣を小さなバーストを連鎖的に同じ場所で発生させて一掃するなど様々なバリエーションで魔法を行使していた。
それは夕方になるまで続き、スパーダは黙々と自分の魔力から作った幻影剣を的にしてくれていたが、ルイズは次第に精神力を消耗してきて頭がクラクラしていた。
「今日はもはや打ち止めだな」
「まだよ。あともう二、三発くらいは撃つわ」
だが、それでもルイズは虚勢を張って続けようとした。
「おいおい、娘っ子。あまり無理すんなよ? 引き際が肝心だぜ」
「うるさいわね。アンタを的にしてあげなかっただけでも感謝しなさい」
茶々を入れてきたデルフに言い返すと、ルイズは改めて杖を振り上げようとした。
「あ……」
その途端、これまで以上の目まいがルイズを襲い、さらに視界もぼんやりと霞みだす。
ルイズの体はくらりと、力なく倒れそうになるがスパーダが左手で支えてくれた。その拍子に、左手で抱えていた始祖の祈祷書が足元に落ちてしまう。
「限界だ。自重しろ」
スパーダはルイズを支えたまま諌めてくる。
「もう……こんな時に……」
「だから無理すんなって言ったじゃねえか。メイジの魔法は無限じゃねえ。いくらイレギュラーな魔法つったって、精神力の消耗は他の魔法とそう変わらないんだからな」
ルイズとしてはもう少し特訓を続けたかった。
スパーダはギーシュ達に何時間にも渡って剣の稽古を付けているのだから、自分にだってそれと同じくらい特訓に付き合ってもらいたい。
悪魔であるスパーダの体力はそれこそ人間の何十倍もあるだろうが、人間であるルイズの体力や精神力はそう高くはない。
「ねぇ、スパーダ。例のデビルスターって秘薬……」
「残念だが、今は切らしている。どの道、戻らねば作れん」
悪魔の秘薬に縋ったが、やんわりとスパーダは断っていた。

「うぅ~……」
やはり、今日はもう切り上げた方が良いのかもしれない。悪魔であるスパーダの忠告はある意味、的を得ているものばかりだ。それを拒めばどうなるか分からない。
ルイズは仕方がなく、その言に従うことにする。落としてしまった始祖の祈祷書を拾おうと屈みこんだ。
「やだ……本当に今日は休んだ方がいいみたい」
「何だ」
篭手のデルフをしまったスパーダが尋ねる。
「気にしないで」
開かれていた祈祷書の1ページ、白紙しかないはずのそこに一瞬、文字のようなものが見えた気がした。
次に目を凝らしてみてもそれは霞のようにページの上から消えてしまっており、もうそこには何も見えなかった。
本当に疲れてしまっているようだ……。
拾い上げた祈祷書を抱えてルイズはスパーダのコートに寄りかかったまま、共に学院へと戻っていった。
右手の指にはめている、アンリエッタ王女から任務の褒賞として貰った水のルビーが仄かに光っていることに気づくことはなかった。


同じ頃、学院本塔正面の中庭にて、モンモランシーは設けられたテーブルの一席についていた。
頬杖を突いていた彼女は恐る恐るポケットの中から手の中に収まるほどの小さな香水瓶を取り出すと、それを両手で包んだままじっと見つめていた。
「今のうちに入れちゃおうっと……」
誰も人がいないことを確認し、モンモランシーはテーブルの上に置かれていたワインを二つのワイングラスに注ぐ。
そして、今しがた取り出した香水瓶の中にある液体をほんの一滴……僅かな量だけを片方のグラスに落とした。
あまり量が多すぎると効果が強くなりすぎるらしいので、これくらいがちょうど良い。
後は、ギーシュの到着を待つのみ。
昼間、スパーダと組み手をしたおかげでボロボロの姿になって現れたギーシュはいつものようにモンモランシーに愛の言葉を囁いていた。
「僕はこんな姿になるまで、彼の稽古を受けていたんだ」とか、「君を守れる強い男になれるなら、この程度の痛みなど、問題ないさ」などと言ってきたのである。
そんな風に熱心に口説かれると、モンモランシー自身は悪い気はしなかった。
もっとも、そんな姿を見せられた所でモンモランシーはツンとした態度で彼をあしらう。そうすることでギーシュはさらに必死になって自分に食いついてくれる。
モンモランシーがずっと彼に対してつれない態度をとり続けていたのは、そうすることで自分へもっと目を向けるように仕向けたのであった。
そして、仲直りをするということで夕方、一緒に一杯やろうということになった。……だが、ただの仲直りではない。
「でも、本当に効き目あるのかしら……?」
たった今、ワインに注いだポーションの正体は国法で作ることを禁じられている惚れ薬だ。
何故、そのような物を作ったのか。理由はただ一つ。
ギーシュはあのスパーダという男の元で貴族であるはずなのに剣の稽古を受けるようになったことで彼に夢中になってしまったのである。
おかげで自分と過ごす時間は大幅に減ってしまい、おまけに自分の知らない姿になりつつある。
それを阻止するためにも、何としてでも自分へと振り向かせてやるのだ。そのためには、たとえ違法である惚れ薬を作ることさえ躊躇わない。

スパーダは女子だけでなく、多くの男子でさえ惹きつけられるほどの強いカリスマを持った男だ。
まともにやったのではまるで勝ち目がないからである。
……しかし、当のギーシュはいつになっても現れない。
スパーダに痛めつけられたダメージが祟ったのか、この密会の約束をしてからすぐに気絶してしまい、今は自分の部屋で寝かせてある。
あれから大分経っているのにまだ起きていないのだろうか。
だが、いずれ起きるのだからモンモランシーはそれまで待つことにした。
取り出した手鏡で髪の調子などを整え、いつ彼が来ても良いように準備をする……。

「こんな所で何してるの?」
突然、誰かに声をかけられた。振り向くと、そこにはギーシュを奪ったスパーダとルイズの姿があった。
何だかやけに疲れている様子で、スパーダに寄りかかっている。
傍から見れば父と娘みたいに見える姿である。
「ギーシュを待ってるのよ。あれだけボロボロになるまでがんばったんだから、ちょっとだけ許してあげることにしたの」
「ふぅん。今までずっとギーシュにつれない態度だったのに、急に許してあげるなんて。どういう風の吹き回し?」
「べ、別に良いでしょ。ルイズには関係ないわ」
「あっそ……。これ、もらうわよ」
すると、ルイズが手を伸ばしたのはテーブルの上に乗っていたワイングラス。
しかも、それは惚れ薬を仕込んだやつだ。
それを見たモンモランシーは慌ててルイズに飛び掛る。
「……あっ! 駄目よ! それはギーシュに飲んでもらうんだから!」
「いいじゃないの。あたし、疲れて喉が乾いてるんだから。減るもんじゃないでしょ」
「駄目だったら駄目なの!」
ルイズが手にしたワイングラスを取り返そうと、モンモランシーは彼女と取っ組み合いになった。
その拍子でワイングラスの中身がいくらか飛び散り、その一部がまだテーブルに乗っているワイングラスの中へ落ちたことにモンモランシーは気づかなかった。

スパーダはその様子を黙って傍観しているだけであったが、ふと近づいてくる人影に気づきそちらを振り向いた。
「何をこんな所で騒がしくしているのかしら」
学院長の秘書、ロングビルであった。
彼女は休日ということで朝早くからトリスタニアの修道院を訪れ、ティファニアに会ってきたのだ。
そして、たった今こうして帰ってきたばかりなのである。そこで目に付いたのが、隣で騒いでいる二人の女子とスパーダだった。
「気にするな。それより、彼女の様子はどうだ。変わりはないか」
「ええ。他の子達ともよくやっているわ。すっかり馴染んでいるわよ」
「うむ。何か異変が起きたら私にも知らせろ。スカロンにも相談をしておくといい」
ロングビルはあのオカマの男の顔を思い浮かべ、思わず渋い顔を浮かべていた。
……気持ち悪いったらありゃしない。
「……ところで、あなた明日明後日は用事があるかしら」
「何か用か?」
「あの子があなたに会いたいっていうのよ。あなたのことをずいぶんと気に入っているみたいでね」
ティファニアがスパーダの話題を切り出すと、妙に明るくなっていたのをロングビルは思い起こす。
スパーダは魔法学院でどのようなことをしているのか、自分とはどのような関係なのかといったことを熱心に聞いてきたりするのだが、あれはまるで身内のことを知りたがる子供のような姿だった。
たとえスパーダが悪魔であろうとその内に秘めたる人間らしさは分かっているようで、また会って話をしたいなどと言ってきたのだ。
「別に今のところは用はない。付き合ってやってもいいぞ」
「そう。それじゃあ、明日は平日だから私の仕事が終わったら行くことにしましょうか」
隣では未だルイズとモンモランシーがいざこざを続けていたが、二人は気にせずに話を続けていた。
ふと、ロングビルはテーブルの上に乗っていたワイングラスへゆっくりと手を伸ばした。
帰ってきたばかりで喉が渇いていたこともあるが、スパーダと会話を続けていたためにほとんど無意識な行動であった。
ロングビルはくいっ、と中に注がれているワインを一飲みしていた。……安物のようだが、まあ悪くはない味だ。

「素直にすれば良いのよ。それじゃ、貰うわね」
一方、腕っ節は強いルイズはモンモランシーをようやく組み伏せ、奪い取っていたワインを同じように一口で飲み干してしまった。
「あっ!」
それを見たモンモランシーは青ざめた顔で声を上げる。
もう、全てが台無しだ。……このままでは。
「やあ、遅くなってすまないね。モンモランシー。僕はこの通り、すっかり回復したよ……」
と、そこへ今になって現れたのはモンモランシーが待ちわびていた男、ギーシュであった。
ルイズはあの惚れ薬が入ったワインを飲んでしまった。もしも、ここでギーシュを見てしまったら……。
「わああああああっ!」
起き上がり、上に乗っているルイズを弾き飛ばしたモンモランシーはそのままギーシュに向かって体当たりした。
二人はそのまま草地の上に倒れこんでしまう。
「おっとっと……ど、どうしたんだね。そんなに僕が待ちきれなかったのかい?」
何も知らぬギーシュはそんな彼女の行動に酔ったように笑っていた。

「いたた……何すんのよ、モンモランシー! たかがワインの一つや二つくらいでそんな……に……」
体を起こし尻餅をついていたルイズの視界に入ったのは、スパーダの姿。
その姿を目にした途端、ルイズは己の胸が熱くなるのを感じていた。
スパーダはルイズにとって、いわば尊敬できる教師か父親のような存在であった。
自分の失敗を活かせるように導いてくれただけでなく、強大な剣技をもって自分達を守ってくれた。
おまけに彼は人間のために力を尽くした正義の悪魔であり、人間の愛を知って故郷と決別したのだという。
その彼の偉業を思い出し、ルイズは更にスパーダに対する憧れを強くしていた。彼のように強くなってみたい、と。
だが、その憧憬はたった今、好意へと変わった。あのワルドに抱いていたようなまやかしなどではなく、心の底から彼を愛する思いが膨れ上がった。
たとえ悪魔であろうが、そんなことは関係ない。自分は、彼が好きなのだ。
ルイズ自身でさえ当惑するほどにその感情は大きかった。
とろんとした目つきで、スパーダを見つめる。
そして、そんな彼の傍にいつの間にかいるロングビルに対する嫉妬心が大きくなっていた。

一方、同じようにワインを飲み干したロングビルにも変化があった。
ロングビルは密かにスパーダに対して強い思いを抱いていた。
初めは同じ没落貴族ということで親近感を抱き、次は自分のために色々と手助けをしてくれた挙句たった一人残された身内までも助けてくれた彼に恩義を抱いていた。
ロングビルはそんな彼に対していつかその借りを返したいと思い、その中でスパーダに心惹かれていた。
たとえ彼が悪魔だろうと、それは変わらない。
もっとも、スパーダが自分に振り向いてくれるとはさすがに思ってはいなかった。だから、それ以上の思いを抱くことは自ら封じていた。
ところが、そのスパーダをこうして間近で見た途端、彼女もまた心の奥に秘めていた彼への思いがより大きく膨れ上がった。
この男に対して、どんな女が色仕掛けをしかけようが振り向くことなどありえないことだろう。
だが、それでもロングビルは濁流のように膨れ上がった自らの思いを抑えることはできなかった。
自分はこの男に尽くす。そう決めたのだ。

惚れ込んでいた男の顔を見て、ロングビルの顔は仄かに赤く染まった。ぽろりと、手にしていたグラスが落ち、カシャンと音を立てて割れた。
妖艶な目付きで、じっとスパーダの顔を見つめてくるロングビル。
そして、スパーダの胸にそっと自分の頭をうずめて抱きついていた。
スパーダは自分に抱きついてきたロングビルを平然としたまま見下ろしている。
「ああ……スパーダぁ……」
いつもの彼女とは思えぬ色気のある声で呟く。
「ねぇ、お願いよ……私を抱いて……」
「だめぇっ! スパーダはあたしのものなの! 他の女の人と一緒にいちゃ嫌ぁ!」
ルイズがロングビルに飛び掛るが、彼女は敵意を剥き出しにした表情でルイズを睨みつけていた。
「……うるさいわねっ! 子供が大人同士の恋路に入り込むんじゃないよ!」
「あたし、子供じゃないもん!」
二人の女は一人の男……悪魔を巡って争い合った。

倒していたギーシュの上から起き上がったモンモランシーはその様を見て唖然とした。
「へ? な、何でミス・ロングビルまで……」
「な、何がどうなってるんだね? これは一体……」
これが惚れ薬の効果なのだろう。どれほどの効果があるか少し不安だったモンモランシーだったが、これで納得ができた。
結局、それをこのギーシュに飲ませるのは失敗したが……。
しかしルイズがあんな姿を見せるのは分かるが、何でロングビルまで?
見ると、テーブルに乗っていたもう一つのグラスがない。先ほどの音と草地に散らばっているガラスの破片からして、彼女が飲んでしまったのだろう。
だが、どうしてあのグラスに惚れ薬が?
全く理解できないモンモランシーとギーシュは、二人の女が争い合う姿を見ているしかなかった。
それに対し、二人が取り合おうとしている当のスパーダはというと、
「Did you even feel madness?(気でも狂ったのか?)」
などというあまりに素っ気ない反応であった。





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