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虚無の王-30


 虫の囀りが、夜風と混じり合った。
 白く乾いた街道が、夜の中へと緩やかな弧を描く。
 乾涸らびた野草の群が、月明かりに濡れて吐息をついている。
 不意に、火炎が奔る。
 灼熱疾走、矢の勢いで街道を貫き、夜を断ち割る。
 衝撃が下生えを弾き飛ばす。
 固い路面をウィールが滑る。
 一歩。
 また一歩。
 その都度、4キロワットのモーターが唸り、体を風に叩き付ける。
 全身を襲う衝撃に、目が、肺が機能を忘れる。空気が重油の粘度で体にへばり着く。
 風を突き破った先に見えるのは、見た事も無い世界だ。
 視野が潰れ、街道が溶け落ち、土色の河が背後へと飛んで行く。
 焼け付く息に肩を揺らし、キュルケは虚空の一点を見据えて直走る。
 夜の裏には八頭の竜が居る。タバサが居る。
 正体の知れぬ竜騎士の一団と、捕らわれの少女を前に、警備の目を光らせている筈のトリステイン騎士達は何を見ていたのだろう。
 何も見てはいない。
 その目は今を見ぬ様に、明日を見ぬ様に、昨日までは確かに在った学院本塔の影を追っている。
 6000年の偉大な歴史と、魔法に最も秀でた王国と言う虚像だけを見つめている。
 先行する風竜に追いつくのは至難だ。ハルケギニアにその術は存在しない。
 だが、キュルケには異世界からもたらされた羽根が有る。
 一般的なATは80㎞/h。キャノンボーラーは280㎞/h。
 最速を誇る炎の道〈フレイム・ロード〉は次元が違う。トップスピードでは人間の動体視力を振り切り、目視すら許さない。
 世界が震えた。
 路面の僅かな起伏が指先にまで痺れを運び、小砂利が肺を突き上げた。
 全身から汗が噴き出し、心臓が溶鉱炉に変わる。
 ATほど空に近い乗り物は無い。
 目にも止まらぬ速度に生身を晒す。
 一つ、蹴躓けば、たちまち、誰の手も届かない所まで飛んで行ける。
 心拍が200に近付き、世界がどろりと粘度を帯びる。
 月明かりの隙間に八つの影を認めた時だ。一年前の記憶が脳裏を掠めた。

「貴女、随分とミス・ヴァリエールを意識してらっしゃるのね」

 顔は覚えていない。いかにも得意そうな声だけが耳に残っている。
 トリステイン女はこれだから嫌だ。
 領地を接する大貴族同士。想像し易い事を指摘して見せれば、賢察を装えるつもりでいたのだろう。
 キュルケの冷笑を、相手は都合良く解釈した。
 全く、馬鹿げた話だ。
 確かにヴァリエール家は仇敵だ。典型的なトリステイン女の欠点を平たい形にしたルイズも虫が好かない。
 だからと言って、家門以外に何の取り柄も無い小娘を誰が意識などするものか。
 自分が同年代を意識するとしたら、それはタバサ唯一人だ。
 自分達は性格が違い、年が違い、同時に力が等しいからこそ巧く行っていた。
 今は随分、差がついた気がする。
 最も早く牙の玉璽〈レガリア〉を使いこなしたのはタバサであり、恐るべき風の王を前に、最も勇敢だったのも、死ねない理由を抱えている筈のタバサだ。
 このままでは、格好がつかない。

「タバサ。逃がさないわよ」

 杖を一振り。短いスカートが、空を掴んだ。




 最初に気付いたのは、最後尾の騎士だった。

「気にする必要は無い」

 先頭を行くイザベラは、振り向きさえしなかった。
 トリステインの玉無し騎士共は、学院本塔と言う竿さえ失くしてしまった。
 そんな連中が前を向いて空を飛び、敵の後に突っ込めるだろうか。出来る訳が無い。
 全く、その通りだった。
 しかし、世の中には万が一と言う事が有る。
 何より、追っ手がかかった時、最も危険な位置に居るのは他ならぬ彼だ。
 練達した竜騎士の本能は、追随、相互支援、そして索敵と言う三つの原則を、一時たりとも忘れる事が無かった。
 その本能が、異変を教えてくれた。
 雲と地平線の間から、赤い瞳が睨んだ。
 二つ、三つ、四つ。
 小さな光は忽ち花と咲いた。夜風を呑み込み、みるみるその大きさを増して迫って来る。

「退避!」

 手綱を手繰りながら叫んだ。
 事態に気付いた六騎の竜は、風の隙間に鼻先をねじ込み、一斉に散開する。
 火メイジ操る火球は厄介な魔法だ。
 時速200リーグで巡航する風竜を狙い撃つのは至難だが、この魔法は熱源を追尾して背後から迫って来る。
 風メイジなら打ち払う事も可能だろう。
 そうでなければ、とにかく逃げる事だ。無限の射程を持つ魔法など在りはしない。
 急激な運動を強いれば、火球はそれだけ減衰、ついには消滅する事を、竜騎士達は経験で知っている。
 二騎、空に残る騎士が居る。
 一騎は鉄檻を懸架運搬中。中身はトロル鬼でも雄牛でも無いとは言え、脚に鉄の塊をぶら提げているのだ。さしもの風竜も動きが鈍る。
 イザベラは柳の腰を捻ると、長い指先の下で杖を撓らせる。
 準備するのは霧の魔法だ。火球の威力を瞬時に吸収、文字通りに霧散する。
 敵手が範囲内なら同時に蒸し焼き。火の術者は一際、与しやすい。
 蒼く長い髪が、夜風に溶けた。
 水のドットメイジだ。魔法には自信が無い。だが、魔法の使い方には自信が在る。
 燃費が悪ければ、どうしても工夫を強いられる。
 杖先の弾力で、距離とタイミングを図る。
 火球はどの竜に食いつくだろう。
 右に急旋回する最後尾の騎士か。
 上空へ弧を描く一騎か。
 横転急降下を始めた気の早い男か。
 こちらに来るなら、準備済みの魔法が物を言う。
 風が鳴る。
 白い帯が月明かりの下に紋様を描く。
 竜の翼が空から切り出す、水蒸気の帯だ。
 空力加熱の轍を前に、四つの火球が、どれにしようか、と迷っている。
 神様の言う通り、火球が雲の尻尾に乗った時だ。
 杖を握る手と、世界が同時に凍った。
 凍て付いた空の中で、四人の騎士が火達磨に変わっていた。

 呼吸を思い出した時、火球が空のレールを滑り出した。
 赤光を曳いて一転。風竜の尻尾へと追いすがる。
 訓練された風竜だ。騎士が無くとも、すべき事は理解している。元より、危険を回避する本能が有る。
 だが、背に火をくべられ、錯乱した竜にどんな機知が期待出来るだろう。
 火球が爆ぜた。
 一騎。
 また一騎。炎に包まれた翼が墜ちて行く。
 内耳に風の唸りを覚えながら、イザベラは反射的に夜空の底を見回した。
 もう一人、どこかに術者が居る。
 それは全く、正常な反応だった。
 少なくとも、火球を放った術者自身が、魔法を追い越して肉薄したと考えるよりは間違い無く理に叶った考えだ。
 メイジの姿はどこにも無かった。
 竜の姿はどこにも無かった。
 更に二騎が炎上。
 姿無き術者の火炎が、配下の騎士を踏み潰しながら迫り来るのに気付いた時、耳元で衣擦れの音が囁いた。

「時よ、止まりなさい――――」

 冷たい息が耳朶を撫でた。
 目線よりも先に、手が振り返った。
 短刀の鋭さを帯びた杖先が破ったのは空だけだ。
 心臓に冷感を覚えた時、目尻を炎の轍が撫でた。
 火球では無い。理性がそう断じた時には遅かった。本能が先走り、杖先が白濁した霧を吐き出していた。
 灼熱の雲が弾けた。水蒸気が忽ち視野を呑み込む。灼けた感触が肌に吸い付き、口腔を舐る。
 焦げ付く粘膜を喉から吐き出しながら、イザベラは恐慌に溺れようとする意識を必死で繋いだ。
 何が起きているのか判らなかった。
 何者が相手かも判らなかった。
 炎の道“After Burner”。衝撃波と炎の痕跡のみを残して姿を消す超高速トリック。
 最速の風竜に跨る騎士の目が、風よりも速い物を追える訳が無かった。


 鉄檻を懸架する騎士。思わず、息を飲んだ。
 少女が居る。
 炎の赤髪、紅鋼玉の瞳。
 チョコレート色の肢体が二つの月と、風竜の首の間に佇立する。
 不作法な密航者を背に、騎竜は微動だにしない。ただ、祖国へと続く空の向こうを見つめている。
 少女が手を差し出す。
 長い指の下で時計が揺れる。ゲルマニア製の機械時計だ。なんのつもりだ?
 杖を振るおうとして気付く。体が動かない。
 少女の足下に炎が巻き起こる。
 竜は動かない。時計は動かない。
 炎が膨れあがる。
 のたうつ火竜が成長と共に色を変える。
 赤からオレンジへ、白へ、主の身の丈を超える頃には冷たい蒼に変わる。
 見た事も無い炎を前に、騎士は魔法を試みる。
 喉が動かない。竜は動かない。時計は動かない。
 蒼い炎が、風竜の首を嘗めながら伸びて来る。
 翼を包み、脚甲に絡む。
 冷たい炎が心臓を撫でる。首に貼り付く。
 脳裏にはどんな魔法も浮かばない。悲鳴は声にならない。風竜は動かない。時計は動かない。
 沈黙の空を時計が舞った。
 炎の道“無限の煉獄”〈インフィニティ・インフェルノ〉。
 午前二時の空が、昼に変わった。
 夜気を切り払って生まれた太陽は、その巨大な重力と熱量で、騎士と風竜と動きを止めた秒針とを一時に呑み込んだ。
 夜の一点に白夜が閉じた時、そこには何も残されていなかった。
 蒸発する霧の底から一騎の竜が地上へと落ちて行く。急降下加速、全力で離脱を図る。
 イザベラだ。処女雪の肌に、火傷が浅く貼り付いている。
 繊手が手綱を扱く。騎竜の脳神経に刺激を送る。
 魔法の手綱だ。五、六人を背に時速数百リーグで飛べる生き物が、人一人背上で暴れようが、喚こうが言う事を聞く訳が無い。
 ついには風竜の首に杖を打ち込む。魔力が生む激痛に、翼長10メイルの巨体が空を叩いて加速する。

「お人形。運が有ったら生き伸びな」

 平時の騎士道と無縁な北花壇騎士は、敵に背を見せる事に抵抗を覚えなかった。
 その正体が不明とくれば尚更だ。
 敵手の正体を知っていれば、イザベラは最初と同じ様に言っただろう。
 キュルケは空を蹴る。
 美獣の肢体が一転、風の井戸へと飛び降りる。
 鉄檻が、大地へと吸い込まれた。




 体が重さを忘れた。
 凍った息だけをその場に残し、空が頭上へ飛んで行った。
 寮塔に置き去られた杖が脳裏を過ぎった。
 今更、どうでも良い事だと思った。
 魔法は得意だ。
 この年齢でトライアングルの技量は極めて稀だと言うが、努力と言う物は記憶に無い。
 やれば巧く出来る。巧く出来れば褒めて貰える。
 こんな楽しい事を、やれるだけやらない理由がどこにある。
 父が謀殺され、事情が変わった。
 楽しかった魔法は、奪われた物を取り戻す手段に変わった。
 今まで以上に、魔法に熱中した。
 小さな胸の奥で、誰かが溜息をついた。
 権勢を前に、個人の杖が意味を持つと信じる程世間知らずでは無い。
 過去へと繋る細い糸に取り縋る事を、努力とは呼ばない。
 結局、父の死から数年間、自分がして来た事がなんだっただろう。
 何もしてはいない。
 ただただ、沈黙を守りながら、我が身の不幸を言われずとも肩代わりしてくれる、都合の良い誰かを待っていただけだ。
 そう、黙って耐えるほど楽な事は無かった。なにしろ、何もしなくて良い。
 車椅子の男が、記憶のどこかで笑った。
 天を操る風の王とは違った。風の王璽も身に着けてはいなかった。

「阿呆」

 図書館での出来事だった。空が軽く小突いた。

「関係有るも無いも、損か得かも、ええ事か悪い事かかて、どうでもええ。一生懸命な奴見たら、誰だって応援したくなるし、手助けだってしたくなる物や。でっかい目標有るなら、仲間作らんでどうする」

 何故、自分はあの異邦人を信じ続けたくなったのか、漸く得心がいった。
 こんな自分でも頑張っている。
 この世界のあらゆるしがらみと無縁なあの男は、そう認めてくれたのだ。
 空が遠離る。手の届かない所へ飛んで行く。
 背筋が土の味を思い起こして強張った時だ。
 夜空に太陽が浮いた。




 なんの工夫も変哲も無い鉄檻は、それだけに重かった。
 レビテーションの魔法が潰れ、地面にめり込んだ。
 茹で上がった吐息が二つの月に纏わりついた。
 熱く柔らかい褐色の肢体が、鉄檻にも勝る重さで叢に沈んでいた。
 細い首と豊かな双膨が、焼け付く心臓を吐き出そうと痙攣した。
 王璽は極めて優れた回生能力を持つ。だが、装着者が生身である事に変わりは無い。
 いかに優れた王と雖も無限の空〈インフィニティ・アトモスフィア〉を行使する回数には限界があり、それを超えれば自身の肉体を傷付ける。
 トライアングルの力を持つとは言え、初心者同然となれば尚更だ。
 喉の奥から炎を吐き出すと、この場に居る筈の無い人物は漸く立ち上がった。
 情熱的な唇が、夜空に三つ目の三日月を浮かべた。
 彼女との出会いが、脳裏を過ぎった。
 入学の当初、タバサの興味を惹いたのは本塔の図書館だけだった。
 遅れた講義にも、あちらこちらに波紋の態で浮かぶ社交の輪にも興味は無かった。
 安全な学院で勇気と名誉を語りながら、お定まりの演目を演じるしかない貴族達。
 役柄の違いに目を瞑れば自分となんら変わる所が無い彼等には、どんな価値も見出せなかった。
 些細な一件から、キュルケの存在が浮かび上がった。本当に驚いたのを憶えている。
 トライアングル・メイジ。
 シュバリエの称号。
 そうした物を、自慢にはしていない。
 とは言え、幾多の修羅場を潜って勝ち得た力だ。自慢ではないが、自負は有る。
 だが、微熱の二つ名を持つ赤毛の少女は、情熱と冒険心のみに従って、自分が血と硝煙の中に身に付けた力と同等の物を手にしていた。
 ゲルマニアの名門ツェルプストー家の令嬢は、この世界の何物からも自由に見えた。
 何物にも縛られず、何物も恃まず、ただ炎の如き奔放と情熱とで万事を決す。
 その強靱な意志には、幾度と無く憧れを抱いた物だ。

「私が友達になってあげる」

 お芝居好きの貴族の中で、彼女は驚くほど率直だった。
 固い音が鳴った。
 鉄檻を探っていた長い指が、ウィールに当たった鎖を拾い上げた時、タバサは首輪の存在を思い出した。
 檻の下敷きになっていなかったのは、全く幸運だ。
 体の芯が震え、タバサは小さなくしゃみをした。ベビードール一枚で風竜の快速に晒されれば凍えもする。
 レンズの歪みが無い、滲んだ視野の中では、年来の友人が笑みを浮かべていた。
 二つ名の通り、微熱を帯びた笑み。
 常々、自分を困惑させて来た笑みだ。

「ねえ、タバサ」

 僅かに上気した声が言った。

「この格好でウィンドボナを散歩したら、素敵だと思わない」

 小さな唇から、溜息が漏れた。
 夜が明けようとしていた。
 血まみれの悪夢が終り、いつもの生活、友人の情熱と奇行に振り回されるいつもの毎日がやって来る。
 その度に、タバサは呟くのだ。

「なんでやねん」






 摩天楼の狭間を、白くぼやけた顔が埋め尽くした。
 個々の差別が曖昧な点は勿論、それぞれに論じるに足る価値も無いと言う点で、古ぼけた仮面と変わらない顔の群だ。
 林立するプラカードは、一つの文言で縫い付けられている。

『AT技術の特許を解放せよ』

 熱狂の中心に、一人の男が居る。
 一人だけ、輪郭が判然とした顔を持っている。
 顔と名前なら、世界中の人間が知っているだろう。
 ジョン=オマハ。米合衆国初の黒人大統領だ。
 現職の大統領がデモの中心で歓呼を浴びている事を、奇異とは覚えなかった。
 そう言う男だ。
 顔と名前以上の事を知っている人間にとっては、不思議でもなんでも無い。
 二酸化炭素削減に有用なエネルギー回生機構ATの特許を廃し、技術を無償提供すべし――――南米からの安価な抗エイズ薬がアフリカ大陸に流れ込むのを阻み、数十万と言うアフリカ人を殺戮した男が掲げた迷信を、オマハは忠実に受け継いでいる。
 その主張が通るなら、殆ど一切の技術的特許は無効化し得る。
 その時、利を得るのは誰だ。日米と言った技術、省エネ先進国ではないのは間違いが無い。
 ゴアやオマハの活動と、民主党の元大統領クリントンが人民解放軍から献金を受け取っていた疑惑は、恐らく、何の関係も無いのだろう。
 主流メディアがオマハの当選を目指して談合、対立候補や保守派の論者に異常な攻撃を加えていた事実は良く知られている。
 そして、オマハ政権ほど発足前から金銭的醜聞にまみれた政権は米史上類を見ない。
 現在、議会は共和党が優勢だ。
 オマハが、自身の権力が前大統領モッシュに及ばない、と語る所以であり、その状況が続く限り、あのリベラリストは狂気の迷信を強行出来ずにいる。
 では、奴はどうする。
 恐らく、大衆を扇動する形で、AT技術関連特許の無効化を強行せんとする。
 国民の情緒を利用するのは政治の禁忌だが、あの男は躊躇わない。
 その瞬間、特許保持者や反対派は米国民の良心の敵となる。
 そして、例えば日本の様な、膨大なAT特許保有国が当然の態度として異を唱えたらどうなるか――――






「空」

 その声が、空を白昼夢から引きずり出した。
 白く灼けた世界が、次第に色彩を取り戻す。
 煮え立つ空気が、地平線に陽炎を被せていた。

「ようやっとか」

 揺らめく風に紛れる影を、猛禽の鋭さが捉えた。
 全てを見通す鷹の目は、風の王が持つ能力の一つだ。
 隣では、フーケがオペラグラスを片手に、空と地平線の狭間の黒点を追っている。

「随分、遅れての御到着だね」

 声に苛立ちが混じった。

「昨日の内に着いとる予定やったんけどな」

 その為に、空は先回りして、偶然の演出も込みのフネを確保した。
 フーケは鬚子爵主演の舞台を盛り上げる為、役者を一抱え用意した。
 日除けのフードの奥で、奥歯が軋んだ。
 契約の延長も無料では無いし、何より高々傭兵風情に嘗めた態度を取られた事は、王国中の貴族を震撼させた大盗賊の矜持を痛く傷付けた。

「予定外の出費になったわ」

 帽子の裏で、空はぼやいた。フネを一日余計に拘束。
 それだけでは無い。
 アルビオンが最も近付く日を過ぎてしまった。当然、風石の補給も余分にかかる。
 同じ色をした目が、交錯した。

「舞台はもう一幕ありよったな」
「街中でね」
「殺れ」

 フーケは無言で頷いた。
 よい舞台とは役者も活き活きとしている物だ。



 ラ・ロシェールが見えた。
 港街へと続く峡谷は、蛇の気紛れで歪んでいた。
 夏。
 日中。
 真っ直ぐでいられる物などありはしない。
 プラタナスの木立が躍り、空気でさえも地熱に溶けて油の揺らめきを見せる。
 タルブの草原を渡るのは二度目になる。
 気楽な学生旅行との違いは、宮廷内の陰謀から、異世界からの侵略者まで、ありとあらゆる危険に備えなければならない事だ。
 事実、昨夜も傭兵の一隊に襲われた。
 ルイズは片目で眼下を窺った。
 三人の少年貴族は、今も興奮覚めやらぬ様子で、昨晩の武功を誇りあっていた。
 不意を打たれて危ない所だったが、所詮は平民の傭兵。自分達の敵では無かった。我々の勇戦を誰かに見て貰えなかったのは残念だ。
 言いたい事が、溜息になった口から漏れた。
 なるほど、実戦に不慣れな少年達は、確かに奮戦した。
 がんばり過ぎた。
 彼等に任せておいたら、傭兵達を殲滅してしまい、背後関係は文字通り闇に葬られてしまった事だろう。
 結局は、ただの物取りだったのだが、それが判然としなければ不安で仕方が無い。

「どうしたのかね、溜息などついて。なに、もう少しの辛抱だ。ラ・ロシェールに着けば一息つける」
「い、いえ……!」

 ルイズは慌てて顔を逸らした。
 今は空やその手勢の目を欺く為、男装の状態だ。
 ワルドは自分の正体に気付いていない。
 倒錯的な装いを見咎められたくはなかった。

「あ……」

 逸らそうとした目が、背後の鼻先に吸い寄せられた。
 赤い滴が、整った鬚に吸い込まれた。

「どうやら、先刻、手綱で打ってしまったらしいのだ」

 その言い訳にルイズは目を細める。
 スクエア・メイジ。
 魔法衛士。
 そんな男でも、つまらないドジを踏む事が、なんだか可愛く感じた。

「ふふ。ワルド様、格好悪い」

 出立から初めての笑顔だ。
 白いハンカチに鮮血が舞った。


 ――――To be continued



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