ユーゼスとエレオノールがそんな会話をしている壁一枚向こう側。
「……………」
朝だと言うのにカーテンを閉め切ってどんよりと暗い部屋の中で、ルイズはベッドの中に潜り込んだまま落ち込んでいた。
『――、―――?』
『――――――、――――――――――』
「…………ぅぅ」
布団を被って耳を塞いでも、ほんのわずかに隣の部屋の声が聞こえてくる。
何を話しているのかまでは聞き取れない……と言うか聞き取りたくもないが、何だか親しげというか、楽しげというか。
難しい言い回しをすれば『喋々喃々(チョウチョウナンナン)』というヤツだ。
「ぅぅううぅぅううぅ…………」
自分の使い魔と長姉がどんな顔で、どんなことを話して、どんなことをしているのかを考えてしまって、色々とグチャグチャになってくる。
中途半端に豊かな自分の想像力が、ここまで鬱陶しくなったのは初めてである。
「……はぁ……」
ここ三日で、ずいぶんと涙を流した。
隣に聞こえないように枕に顔を押し付けながら、叫び声も上げた。
なんかもう頭の中がワケ分かんなくなって、軽く暴れたりもした。
溜息だって、どのくらいついたのか分からない。
もう幸せだって逃げ放題。
そもそも幸せって何かしら。
そんな哲学っぽいことまで考えてしまう体たらくだった。
「って、言うか……」
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、只今絶賛失恋中なのだ。
傷心なのだ。
心が苦しいのだ。
ブロークンハートなのだ。
そんな自分に対して、隣の部屋のあの二人はせめて話し声を控えめにするとか、もうちょっと配慮してくれたっていいじゃないか。
……いや、まあ、ユーゼスもエレオノールも自分が失恋したことなんて、気付いてないだろうけれども。
配慮されたらされたで、多分もっと傷付きそうな気はするんだけれども。
「…………これから、どうしよう」
さすがにいつまでもこのまま、というわけにはいかない。
いや、部屋から外に出るのはいい。
授業だって出よう。
この際、戦争しにアルビオンに行けと言われたら行ってもいいくらいの心境だ。
しかし、そうすると必然的に使い魔であるユーゼスも付いて来ることになってしまう。
メイジと使い魔は一心同体。
切っても切り離せない関係。
その厳然たる事実が、ルイズを打ちのめす。
「ユーゼスと、顔……合わせたくない」
別に顔も見たくないとか大嫌いとか、そういうわけではないのだが、とにかく今は顔を合わせたくない。
そりゃあ、いつかはこの心の傷も癒えてユーゼスとまた普通に話せるようになるのかも知れない。
だが、その『いつか』ってどのくらい先だろう。
少なくとも今はキツい。
……いや、今の時点では一生治らないような気がする。
「…………どうしてこうなっちゃったのかしら」
思い返そうとして、すぐにやめる。
そんなことをしたところで、何の意味もない。
原因が分かって、『あの時ああすれば良かったんじゃないか』と考えて、上手く行ったときのことを空想して、それが何になるというのだろう。
過去には戻れないし、現実も事実も真実も変わりはしない。
ユーゼスの心は、自分に向いてはいないのだから。
「はぁ……」
また溜息をつく。
……何だかもう、考えるのも面倒になってきた。
パッと気持ちを切り替えることが出来たらいいのだけれど、そんな服を着替えるように気分を変えられたら誰も苦労なんてしない。
いっそのこと何も考えないようになれたら、どんなに楽か。
「……………」
なんてことを考えれば考えるほど、気分はどんどん沈んでくる。
むしろ考えまいとすればするほどアレコレと色々なことを考えてしまう。
特殊な水の秘薬を使えば、もう本当に『何も考えられない』ようになるらしいが、さすがにそれは嫌だ。
そしてふと気付くと、自分の心の大部分がある感情で埋められていることに気付いた。
「…………むなしい」
一体わたしは何をしているんだろう。
いや、何もしていない。
何をすればいいのか分からない。
何かをしようという気すら起きない。
って言うか、何もしたくない。
このままじゃいけない、何かしなくちゃいけないと心のどこかでは分かっているのだが、それを押し潰すくらいの虚しさがそんな焦燥感すらも押し潰していた。
(……いくら虚無の担い手だからって、心の中まで虚無じゃなくてもいいじゃないの)
そんな笑い話にもならないようなことを思ったところで、ルイズの部屋に軽いノックの音が響く。
コン、コン
「ん……?」
誰だろう。
まだおぼろげに隣の部屋から会話が聞こえてくることからして、ユーゼスやエレオノールでないことは確かなようだが……。
とにかく、来客には対応するべきだろう。
いくら落ち込んでいるからと言って、無碍に追い返すような真似をしてはいけない。
最低限の『礼』は守るべきなのだ。
……そう言えばほとんどずっと部屋に閉じこもりっぱなしなので服装が寝巻きのまま、髪はボサボサ、目は泣き腫らしたせいで充血、ついでに部屋は散らかりまくっているが、まあ、色々と整えるのも面倒なのでこのままでいいだろう。
ルイズはどこかズレた思考のままドアまで歩き、その来客を迎えるべくドアを開ける。
そして現れたのは、
「タバサ?」
「……………」
青いショートカットの髪にメガネをかけた、小柄な少女だった。
「ど……どうしたのよ、いきなり」
「落ち込んでるみたいだから」
「……む」
確かに落ち込んではいるけど、そんなわざわざ来てもらうほどじゃないのに。
でも何だか嬉しいような気もする。
ルイズは何だか申し訳ないような、むず痒いような気分になりながら、しかし生来の気質からタバサに対してつっけんどんな態度を取ってしまう。
「……お、落ち込んでるって言うんなら、キュルケだってそうでしょ? あの火メイジにこっぴどくやられて、何だか沈んでるそうじゃないの」
「……………」
キュルケの受けたショックは、ルイズのそれとは全く種類が異なっている。
情熱と破壊こそが『火』の本領。
よくキュルケが語っており、もはや座右の銘と言ってもいいほどの言葉だ。
しかし、あの夜、あの男が繰り出した炎は……『破壊』はともかく『情熱』とは程遠いものだった。
実際に対峙した自分たちだからこそ分かる。
冷酷さ、狂気、憎悪、そして歓喜などがごちゃ混ぜになった凶悪な炎。
少なくとも自分の知る『火』のメイジに、あんな男はいない。
ユーゼスはよくあんなのと真っ正面から戦えたものだ。
「ぅ……」
そこまで考えたところで『ユーゼスが戦った理由』に連想方式で行き当たってしまい、軽くダメージを受けるルイズ。
落ち着きなさい。
思い浮かべてしまったことは仕方ないとして、これ以上考えちゃダメ。
今は……そう、取りあえずキュルケのことよ。
(とにかく……)
そんなメンヌヴィルの存在は、『情熱』を信条とするキュルケにとって人生観を根底からひっくり返してしまうほどの衝撃だったのだろう。
自分には想像することしか出来ないが、ダメージの度合で言うなら自分以上かも知れない。
そんな状態なんだから、きっと支えが必要なはず。
……いや、本音を言えば自分だって支えは欲しいけど。
「わ、わたしは別にどうってことないわ。……ただ、面倒だから閉じこもってただけで、もうそろそろ部屋から出てパーッとトリスタニアにでも出かけようかと思ってたくらいだし。だから、あなたは落ち込んでるキュルケをせいぜい励ますなりしてれば……」
出かけるつもりなんか実は全くないのだが、口から出まかせで強がりを口にするルイズ。
するとタバサがポツリと、しかしどこか力強さを感じさせる口調で呟いた。
「キュルケはもちろん心配だけど、あなたのことも心配」
「タバサ……」
不覚にも胸が熱くなってしまう。
普段は無口で、無表情で、無愛想で、何を考えてるのかサッパリ分からないし、たまにフラッとどこかにいなくなったりもするけれど、けっこう友達思いのいい娘じゃないか。
ルイズがそんな感じにちょっと感動していると、タバサはルイズの横をするりと抜けて部屋の中に入ってきた。
……意外に押しの強い一面もあるようだ。
「まあ……いいか」
ルイズも観念したのか、タバサを追い返すようなことはせずに椅子を差し出した。
そうしてタバサはその椅子に、対するルイズはベッドに腰掛けて話を始める。
「……それで、何をするのよ?」
「取りあえず、あなたの悩みの聞き役にはなれる」
相変わらずの平坦な口調でそう言うと、眼鏡越しにルイズをじっと見つめるタバサ。
一方、ルイズは多少動揺しつつ言葉を返す。
「……でも、いくら聞いてもらったところで解決する問題じゃ……」
「話すだけでも楽になる、らしい」
「…………そうなの?」
「みんな、色々あるから」
「色々?」
「そう。あなたにも色々あるし、わたしにも色々ある。もちろんキュルケにも、あなたの使い魔にも、あなたのお姉さんにも、みんな。……だから、それを実際に言葉にして吐き出すだけでも少しは意味がある」
何だか、妙に実感のこもった言葉である。
この青髪の少女がそんなに大きな悩みを抱えているようには見えないが、何かあったのだろうか。
あるいは、人生相談や告解でも受け付けていたとか。
(って、そんなわけないか)
いくら何でもこんな十代半ばの女の子が人生相談など受け付けているわけがない。
ロマリアや祖国の寺院あたりから神官の位でも貰っていれば話は別だが、しかしタバサが告解を聞くようなタイプには見えないし。
ともあれ、自分の話を聞いてもらいたい気持ちはある。
色々と吐き出したいことは、ある。
「……いいの? 話しても」
「いい。わたしは聞くだけだから」
わざわざそう言うくらいなのだから、本当に『聞くだけ』なのだろう。
でも、何もしてくれなくても……誰かに聞いてもらえるというだけで、取りあえず今よりはマシになるような気がする。
…………ああ、そうか。
悩みや罪を告解する人間って、こんな気持ちなのかも知れない。
「そ、それじゃあ……」
そしてルイズは、ためらいがちにタバサに語った。
ユーゼスのこと。
自分のこと。
エレオノールのこと。
それぞれの関係。
二人に対する色んな不満。
自己嫌悪や自責。
どうしてこうなっちゃったのかしら。
そもそもエレオノール姉さまのどこがいいのよ。
わたしより胸ないじゃないの。
って言うか、わたしの方が若くて可愛いじゃないの。
そりゃあ、結果的に姉さまの方がユーゼスと気が合ったんだろうけど。
だけど……。
―――怒りながら、落ち込みながら、泣きながら、延々とタバサに向かって吐き出す。
ルイズのその独白は、もうすっかり日も落ちた頃、タバサの実家の使いらしい伝書フクロウがクチバシで窓を叩くまで続けられたのだった。
「……………」
朝だと言うのにカーテンを閉め切ってどんよりと暗い部屋の中で、ルイズはベッドの中に潜り込んだまま落ち込んでいた。
『――、―――?』
『――――――、――――――――――』
「…………ぅぅ」
布団を被って耳を塞いでも、ほんのわずかに隣の部屋の声が聞こえてくる。
何を話しているのかまでは聞き取れない……と言うか聞き取りたくもないが、何だか親しげというか、楽しげというか。
難しい言い回しをすれば『喋々喃々(チョウチョウナンナン)』というヤツだ。
「ぅぅううぅぅううぅ…………」
自分の使い魔と長姉がどんな顔で、どんなことを話して、どんなことをしているのかを考えてしまって、色々とグチャグチャになってくる。
中途半端に豊かな自分の想像力が、ここまで鬱陶しくなったのは初めてである。
「……はぁ……」
ここ三日で、ずいぶんと涙を流した。
隣に聞こえないように枕に顔を押し付けながら、叫び声も上げた。
なんかもう頭の中がワケ分かんなくなって、軽く暴れたりもした。
溜息だって、どのくらいついたのか分からない。
もう幸せだって逃げ放題。
そもそも幸せって何かしら。
そんな哲学っぽいことまで考えてしまう体たらくだった。
「って、言うか……」
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、只今絶賛失恋中なのだ。
傷心なのだ。
心が苦しいのだ。
ブロークンハートなのだ。
そんな自分に対して、隣の部屋のあの二人はせめて話し声を控えめにするとか、もうちょっと配慮してくれたっていいじゃないか。
……いや、まあ、ユーゼスもエレオノールも自分が失恋したことなんて、気付いてないだろうけれども。
配慮されたらされたで、多分もっと傷付きそうな気はするんだけれども。
「…………これから、どうしよう」
さすがにいつまでもこのまま、というわけにはいかない。
いや、部屋から外に出るのはいい。
授業だって出よう。
この際、戦争しにアルビオンに行けと言われたら行ってもいいくらいの心境だ。
しかし、そうすると必然的に使い魔であるユーゼスも付いて来ることになってしまう。
メイジと使い魔は一心同体。
切っても切り離せない関係。
その厳然たる事実が、ルイズを打ちのめす。
「ユーゼスと、顔……合わせたくない」
別に顔も見たくないとか大嫌いとか、そういうわけではないのだが、とにかく今は顔を合わせたくない。
そりゃあ、いつかはこの心の傷も癒えてユーゼスとまた普通に話せるようになるのかも知れない。
だが、その『いつか』ってどのくらい先だろう。
少なくとも今はキツい。
……いや、今の時点では一生治らないような気がする。
「…………どうしてこうなっちゃったのかしら」
思い返そうとして、すぐにやめる。
そんなことをしたところで、何の意味もない。
原因が分かって、『あの時ああすれば良かったんじゃないか』と考えて、上手く行ったときのことを空想して、それが何になるというのだろう。
過去には戻れないし、現実も事実も真実も変わりはしない。
ユーゼスの心は、自分に向いてはいないのだから。
「はぁ……」
また溜息をつく。
……何だかもう、考えるのも面倒になってきた。
パッと気持ちを切り替えることが出来たらいいのだけれど、そんな服を着替えるように気分を変えられたら誰も苦労なんてしない。
いっそのこと何も考えないようになれたら、どんなに楽か。
「……………」
なんてことを考えれば考えるほど、気分はどんどん沈んでくる。
むしろ考えまいとすればするほどアレコレと色々なことを考えてしまう。
特殊な水の秘薬を使えば、もう本当に『何も考えられない』ようになるらしいが、さすがにそれは嫌だ。
そしてふと気付くと、自分の心の大部分がある感情で埋められていることに気付いた。
「…………むなしい」
一体わたしは何をしているんだろう。
いや、何もしていない。
何をすればいいのか分からない。
何かをしようという気すら起きない。
って言うか、何もしたくない。
このままじゃいけない、何かしなくちゃいけないと心のどこかでは分かっているのだが、それを押し潰すくらいの虚しさがそんな焦燥感すらも押し潰していた。
(……いくら虚無の担い手だからって、心の中まで虚無じゃなくてもいいじゃないの)
そんな笑い話にもならないようなことを思ったところで、ルイズの部屋に軽いノックの音が響く。
コン、コン
「ん……?」
誰だろう。
まだおぼろげに隣の部屋から会話が聞こえてくることからして、ユーゼスやエレオノールでないことは確かなようだが……。
とにかく、来客には対応するべきだろう。
いくら落ち込んでいるからと言って、無碍に追い返すような真似をしてはいけない。
最低限の『礼』は守るべきなのだ。
……そう言えばほとんどずっと部屋に閉じこもりっぱなしなので服装が寝巻きのまま、髪はボサボサ、目は泣き腫らしたせいで充血、ついでに部屋は散らかりまくっているが、まあ、色々と整えるのも面倒なのでこのままでいいだろう。
ルイズはどこかズレた思考のままドアまで歩き、その来客を迎えるべくドアを開ける。
そして現れたのは、
「タバサ?」
「……………」
青いショートカットの髪にメガネをかけた、小柄な少女だった。
「ど……どうしたのよ、いきなり」
「落ち込んでるみたいだから」
「……む」
確かに落ち込んではいるけど、そんなわざわざ来てもらうほどじゃないのに。
でも何だか嬉しいような気もする。
ルイズは何だか申し訳ないような、むず痒いような気分になりながら、しかし生来の気質からタバサに対してつっけんどんな態度を取ってしまう。
「……お、落ち込んでるって言うんなら、キュルケだってそうでしょ? あの火メイジにこっぴどくやられて、何だか沈んでるそうじゃないの」
「……………」
キュルケの受けたショックは、ルイズのそれとは全く種類が異なっている。
情熱と破壊こそが『火』の本領。
よくキュルケが語っており、もはや座右の銘と言ってもいいほどの言葉だ。
しかし、あの夜、あの男が繰り出した炎は……『破壊』はともかく『情熱』とは程遠いものだった。
実際に対峙した自分たちだからこそ分かる。
冷酷さ、狂気、憎悪、そして歓喜などがごちゃ混ぜになった凶悪な炎。
少なくとも自分の知る『火』のメイジに、あんな男はいない。
ユーゼスはよくあんなのと真っ正面から戦えたものだ。
「ぅ……」
そこまで考えたところで『ユーゼスが戦った理由』に連想方式で行き当たってしまい、軽くダメージを受けるルイズ。
落ち着きなさい。
思い浮かべてしまったことは仕方ないとして、これ以上考えちゃダメ。
今は……そう、取りあえずキュルケのことよ。
(とにかく……)
そんなメンヌヴィルの存在は、『情熱』を信条とするキュルケにとって人生観を根底からひっくり返してしまうほどの衝撃だったのだろう。
自分には想像することしか出来ないが、ダメージの度合で言うなら自分以上かも知れない。
そんな状態なんだから、きっと支えが必要なはず。
……いや、本音を言えば自分だって支えは欲しいけど。
「わ、わたしは別にどうってことないわ。……ただ、面倒だから閉じこもってただけで、もうそろそろ部屋から出てパーッとトリスタニアにでも出かけようかと思ってたくらいだし。だから、あなたは落ち込んでるキュルケをせいぜい励ますなりしてれば……」
出かけるつもりなんか実は全くないのだが、口から出まかせで強がりを口にするルイズ。
するとタバサがポツリと、しかしどこか力強さを感じさせる口調で呟いた。
「キュルケはもちろん心配だけど、あなたのことも心配」
「タバサ……」
不覚にも胸が熱くなってしまう。
普段は無口で、無表情で、無愛想で、何を考えてるのかサッパリ分からないし、たまにフラッとどこかにいなくなったりもするけれど、けっこう友達思いのいい娘じゃないか。
ルイズがそんな感じにちょっと感動していると、タバサはルイズの横をするりと抜けて部屋の中に入ってきた。
……意外に押しの強い一面もあるようだ。
「まあ……いいか」
ルイズも観念したのか、タバサを追い返すようなことはせずに椅子を差し出した。
そうしてタバサはその椅子に、対するルイズはベッドに腰掛けて話を始める。
「……それで、何をするのよ?」
「取りあえず、あなたの悩みの聞き役にはなれる」
相変わらずの平坦な口調でそう言うと、眼鏡越しにルイズをじっと見つめるタバサ。
一方、ルイズは多少動揺しつつ言葉を返す。
「……でも、いくら聞いてもらったところで解決する問題じゃ……」
「話すだけでも楽になる、らしい」
「…………そうなの?」
「みんな、色々あるから」
「色々?」
「そう。あなたにも色々あるし、わたしにも色々ある。もちろんキュルケにも、あなたの使い魔にも、あなたのお姉さんにも、みんな。……だから、それを実際に言葉にして吐き出すだけでも少しは意味がある」
何だか、妙に実感のこもった言葉である。
この青髪の少女がそんなに大きな悩みを抱えているようには見えないが、何かあったのだろうか。
あるいは、人生相談や告解でも受け付けていたとか。
(って、そんなわけないか)
いくら何でもこんな十代半ばの女の子が人生相談など受け付けているわけがない。
ロマリアや祖国の寺院あたりから神官の位でも貰っていれば話は別だが、しかしタバサが告解を聞くようなタイプには見えないし。
ともあれ、自分の話を聞いてもらいたい気持ちはある。
色々と吐き出したいことは、ある。
「……いいの? 話しても」
「いい。わたしは聞くだけだから」
わざわざそう言うくらいなのだから、本当に『聞くだけ』なのだろう。
でも、何もしてくれなくても……誰かに聞いてもらえるというだけで、取りあえず今よりはマシになるような気がする。
…………ああ、そうか。
悩みや罪を告解する人間って、こんな気持ちなのかも知れない。
「そ、それじゃあ……」
そしてルイズは、ためらいがちにタバサに語った。
ユーゼスのこと。
自分のこと。
エレオノールのこと。
それぞれの関係。
二人に対する色んな不満。
自己嫌悪や自責。
どうしてこうなっちゃったのかしら。
そもそもエレオノール姉さまのどこがいいのよ。
わたしより胸ないじゃないの。
って言うか、わたしの方が若くて可愛いじゃないの。
そりゃあ、結果的に姉さまの方がユーゼスと気が合ったんだろうけど。
だけど……。
―――怒りながら、落ち込みながら、泣きながら、延々とタバサに向かって吐き出す。
ルイズのその独白は、もうすっかり日も落ちた頃、タバサの実家の使いらしい伝書フクロウがクチバシで窓を叩くまで続けられたのだった。
「それでは魔法学院は当面、閉鎖するということで」
「……まあ、しょうがなかろうなぁ」
オールド・オスマンは渋々といった様子で書簡にサインを書き、判を押す。
賊に襲撃され、教師に死者まで出てしまったとあっては、いくら何でも通常通りに授業を続けることなど出来ないのだった。
「……………」
オスマンは目を細め、その『死者』を作り出した張本人の一人を見つめる。
一方、見つめられた張本人ことアニエス・シュヴァリエ・ド・ミランは、どことなく気の抜けた表情でオスマンに問いかけた。
「……何か、ないのですか」
「は? ……何かって、何かね?」
「私がミスタ・コルベールを殺したことについてです」
「ふむ」
引き出しから水ギセルを取り出し、口にくわえるオスマン。
部屋の端の机であれこれと書き物をしているミス・ロングビルからキツめの視線を向けられるが、そこは長年の貫禄で受け流す。
「正直、言いたいことは色々ある」
「ならば……」
「だが、言ってどうなるね?」
「っ……」
「私は仇討ちを決して肯定はせんが、だからと言って安易に否定もせん。……故郷の村を滅ぼされたんなら、やった相手を恨まん方がおかしいわい」
「……………」
「それに彼は君に対して攻撃らしい攻撃を全くしなかったし、恨み言の一つも言わんかったしの。ならば、君に殺されることは―――少なくともミスタ・コルベール本人は納得していたことだったんじゃろう」
遠くを見つめるような目をしながら、オスマンは目の前のアニエスに言い聞かせるようにして語る。
「加えて言うなら、じゃ。曲がりなりにも君は『女王陛下直属の銃士隊』の隊長じゃろう? そんな相手に対して揉め事を起こしたら、ただでさえ切羽詰まった今のトリステインに余計な火種が生まれかねん」
王宮を向こうに回せるほど若くもないしな、とオスマンは煙とともに溜息を吐く。
確かに、今のトリステインは切羽詰まっている。
国の財政はアルビオンとの戦争費用で火の車、王宮はアンリエッタ女王の独断専行が目に付き、国の各地でその王宮に対する不満が出ていると言うのが現状だった。
こんな状態で『女王陛下お抱えの近衛騎士が問題を起こした』などと国中の貴族に知れた日には、内憂外患どころの話ではなくなってしまう。
それだけでトリステインが潰れるとは思えないが、だからと言って軽視も出来まい。
この国に余計な混乱を招いてしまうことは、オスマンとしても本意ではないのだ。
「ふぅ……」
キセルをふかしつつ、オスマンはなおも話を続けた。
「とは言え、あらかじめ君の素性を知っていれば色々と対策の立てようもあったんじゃがな。平民からのし上がってきたシュヴァリエがいるとは聞き知っていたが、さすがに君がダングルテールの出身だとは思わなんだ」
「……傭兵あがりの女兵士の過去を、いちいち詮索する者はいませんでしたから」
「それにいちいち『自分はダングルテール出身です』と吹聴するわけにもいかんかったじゃろうしの。あの一件の関係者ならば、君の出身を聞いただけで警戒心を抱いてもおかしくない」
「…………そういうことです」
全ては復讐を果たすために。
だから剣を取り、傭兵になり、今の地位にまで登りつめた。
だが。
「それで……これからどうするのかね?」
「……これから?」
「そうじゃ。当面の目的である復讐を果たして、君はこれからどうする? 銃士隊を続けるのかの?」
「……………」
困惑、呆然、放心。
アニエスはそれらの感情表現がごちゃ混ぜになったような顔をすると、ほんのわずかに震える声でオスマンの質問に答えた。
「それは……。これから、考えます」
「ふむ」
眉をひそめ、アニエスを測るような視線を向けた後、オスマンはまた煙を吐き出す。
「それじゃ、辛気臭い話をするのはここまでにしておくか。……数日中には学院を閉鎖させておくから、王宮にもその旨を伝えてくれたまえよ」
「……了解しました。それでは、私はこれで」
「うむ」
アニエスは若干頼りなげな足取りで学院長室を後にする。
そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、オスマンは一人ごちた。
「―――叶ってしまった夢は、もう夢じゃないってことかのう」
魔法学院に来たばかりの彼女は、抜き身の剣がそのまま歩いているような殺伐とした空気を振りまいていたが、今ではその剣が根元からポッキリと折れてしまったような印象を受けた。
無理もない、とは思う。
何せ人生最大の目標が驚くほど呆気なく、しかも一気に達成出来てしまったのだから。
『20年来の復讐』と一口に言ってしまうのは簡単だが、その20年の間にどれだけのことがあって、どれだけの思いをしてきたのか余人には知るすべがない。
陳腐な言い回しになるが、辛い時、苦しい時、逃げ出したくなる時だってあっただろう。
しかし、アニエスは『復讐』を心の支えにしてそんな時を乗り越えてきたはずだ。
……その心の支えが、無くなってしまったら。
人生最大の目標を達成し、心の支えとしてきたものを消失してしまった人間は、これからどうするのだろうか。
「憎んでしかるべき相手ではあるが……フッ、教師という職業のクセじゃな。悩みや迷いの中にある若者を見ると、要らぬ世話を焼きたくなってくる」
自重気味にそう呟くオスマン。
と、そこに。
「『……フッ』じゃありません。煙草はおやめくださいと、もう数えるのも馬鹿らしくなるほど言っていたはずですが?」
今まで秘書用の席で黙々と書類仕事をしていたミス・ロングビルこと本名マチルダ・オブ・サウスゴータが羽ペンを振り、『念力』でオスマンの水ギセルを取り上げた。
「…………人がせっかくカッコよく決めようとしとるのに、茶々を入れんでくれんかのぅ」
「カッコよく決めている暇がありましたら書類の一つでも片付けてくださいな、オールド・オスマン」
空気を読んでいたのかアニエスとの会話には割り込んでこなかったが、そのアニエスがいなくなったので言葉に遠慮がない。
いや、元々彼女はオスマンに対して遠慮など(特に最近は)ほとんどしていなかったのだが。
「はぁ……。まったく、出会った頃に比べて随分とつまらん女になったなぁ、君は。去年の今あたりは私に尻を触られてもニコニコしとったのに、今じゃ肩にすら触れられん」
「居酒屋の雇われ給仕が上客に対して取る態度と、学院長秘書が学院長に対して取る態度を同列に扱わないでください。……それに、ある程度の事例をこなせばあしらい方も分かってきますわ」
「いや、君の場合はあしらい方って言うか、純粋に隙や容赦がなくなったような気が……」
「だって人は変わっていくものですもの。良くも悪くも」
「……元々の地が出て来ただけな気もするがの」
ふへぇ、と情けない溜息をつきつつオスマンは物思いにふける。
おそらくコルベール死亡の件は、事件の際の死傷者として『アルビオンの賊がやった』ことになるだろう。
先ほども考えたことだが、『女王陛下直属の銃士隊隊長がやった』というのは体裁が悪すぎる。
アニエスによるコルベール殺害の場面を見ていたのは、自分を除けばあの場面において戦闘に参加していた者のみ。
他の教師や生徒たちは、解放されると同時に散り散りに食堂から逃げ出したのでその場面を目撃してはいない。
戦闘に参加していたキュルケとタバサとユーゼスは……まあ、特にコルベールに対して思い入れなどもなかったようだし、自分から進んで言いふらすような真似はするまい。
仇討ちだということも彼らにはバレているようだし、タバサなどは彼女の素性を考えればむしろ正当性を認めそうだ。
ユーゼスもコルベールの研究内容になぜか難色を示していたし、キュルケに至っては同じ火メイジでありながら戦争に参加しなかったコルベールを軽蔑すらしていたと聞いている。
ともあれ、コルベールに好感情を抱いてはいるまい。
つまり彼女たちが『銃士隊の隊長がコルベールを殺した』などと騒ぎ立てる心配はあまりないわけだ。ゼロではないが。
(銃士隊の隊員については……さすがにミス・ミランが事情の説明くらいはしておるかの)
同じ平民同士であるし、全く分かってもらえないということはあるまい。
何より『故郷を焼いた火メイジへの復讐』という、同情を引く大義名分がある。
下手をすれば祝福すらされるかも知れない。
よって、こっちの方面から騒がれる心配もそれほどない。
……真面目な隊員だったら上に報告くらいはするだろうが、どこかの段階でもみ消される可能性が高いだろう。
あとは自分が黙っていれば、この件が王宮に与える影響は多少抑えられる。
(あくまで多少、じゃがな……)
決定してしまった学院の閉鎖も一応『この戦争が終わるまで』という名目になってはいるが、今の状況ではいつ戦争が終わるのか分かったものではない。
実家に戻った女子生徒たちのもとへ、召集令状が届かない保証はどこにもないのだ。
自分と魔法学院はその時のための防波堤になろうとしていたが、さすがに閉鎖されてしまっては手の出しようがない。
もちろんその召集を突っぱねる貴族もいるだろうが、だったら王宮だって強制的に徴兵するだろう。
…………いや、今のトリステイン王宮にそこまでの力が残されているだろうか?
かえって国中の貴族から反感をかってしまうだけでは?
そもそも、あんな付け焼き刃以下の『軍事教練』しか知らない子供を投入したとして、勝つ見込みはあるのか?
いや、それ以前に今の戦況はどうなっている?
(―――進退きわまってきたか)
考えれば考えるほど、不安材料しか出てこない。
かと言って、そんな様々な不安材料を自分がどうにかすることも出来ない。
事態は魔法学院の学院長の裁量や機転でどうにかなる領域を、かなり初期の段階で超えてしまっているのだ。
この期に及んでオスマンに可能なのは……せいぜい王宮に一石を投じるか、もしくは誰かが投じた一石が王宮に届くのを防ごうとするくらいか。
……『防ぐ』と断言出来ないのが何だかなぁ、という感じである。
ぶっちゃけ、オスマンに政治的な発言力はそんなにない。
この国を実質的に動かしているのは宰相兼枢機卿のマザリーニ、そして爵位持ちや将軍などの有力貴族であって、国の教育機関の長ではポジション的に弱いのだ。
(ま、国に関するあれやこれやに今更関わる気もないし、物事ってのはなるようにしかならんが)
ともあれ、ここで考えていても事態は何も変わらない。
差し当たって目の前の書類仕事でも片付けるかな……などと思いながら、オスマンがのそのそと手を動かそうとすると、
「失礼します」
「ん?」
ドアが開いて学院教師のミセス・シュヴルーズが姿を現した。
「ミセス・シュヴルーズ。学院長に何か?」
「いえ、ミス・ロングビルにお客様が見えましたので、その呼び出しに」
いかにも人が良さそうなふくよかな体型の女性教師は、微笑みを浮かべて応対してきたミス・ロングビルにそう告げる。
「客?」
「ええ。ミスタ・シラカワという方が『ミス・ロングビルにご用がある』という旨でお見えになっていますが……」
「シラカワ? ……シュウが?」
「はい」
やぶから棒に『実家の居候』の名前が出てきたので、思わず質問を質問で返してしまうミス・ロングビル。
ちなみにシュウ・シラカワは非常に丁寧な物腰やどことなく漂ってくる気品、そして何より形容しがたいプレッシャーのようなもののせいで、ハルケギニアの人間からは初対面で貴族扱いされることが多い。
実際、エレオノールやルイズなどもシュウを呼ぶ時には『ミスタ』をつけていた。
「外で待たせておくのも何ですので、すでに学院長室の近くまでお通ししていますが……」
「……ああ、はい。ありがとうございます、ミセス・シュヴルーズ」
そうしてミセス・シュヴルーズは姿を消した。
これでこの場における自分の役割は終わった、と判断したのだろう。
「それでは学院長。少々席を外しますが、仕事の手は止めないで下さいね」
「分かっとるって。……あーあ、ミス・ロングビルはいいのう。都合よく仕事をサボる口実が出来て」
「そういうセリフは、日頃からきちんと仕事をしてから言ってください」
席を立ち、学院長室から出て行くミス・ロングビル。
「ったく、いきなり何の用だってんだい、あの男は……」
唐突に現れた紫髪の男に対して誰にも聞こえないほどの小声で悪態をつきつつ、彼女はミス・ロングビルからマチルダ・オブ・サウスゴータへと切り替えを行う。
そしてマチルダは学院長室前の廊下に立っていたシュウ・シラカワへと、いかにも不機嫌そうな顔で近付いていくのだった。
「……まあ、しょうがなかろうなぁ」
オールド・オスマンは渋々といった様子で書簡にサインを書き、判を押す。
賊に襲撃され、教師に死者まで出てしまったとあっては、いくら何でも通常通りに授業を続けることなど出来ないのだった。
「……………」
オスマンは目を細め、その『死者』を作り出した張本人の一人を見つめる。
一方、見つめられた張本人ことアニエス・シュヴァリエ・ド・ミランは、どことなく気の抜けた表情でオスマンに問いかけた。
「……何か、ないのですか」
「は? ……何かって、何かね?」
「私がミスタ・コルベールを殺したことについてです」
「ふむ」
引き出しから水ギセルを取り出し、口にくわえるオスマン。
部屋の端の机であれこれと書き物をしているミス・ロングビルからキツめの視線を向けられるが、そこは長年の貫禄で受け流す。
「正直、言いたいことは色々ある」
「ならば……」
「だが、言ってどうなるね?」
「っ……」
「私は仇討ちを決して肯定はせんが、だからと言って安易に否定もせん。……故郷の村を滅ぼされたんなら、やった相手を恨まん方がおかしいわい」
「……………」
「それに彼は君に対して攻撃らしい攻撃を全くしなかったし、恨み言の一つも言わんかったしの。ならば、君に殺されることは―――少なくともミスタ・コルベール本人は納得していたことだったんじゃろう」
遠くを見つめるような目をしながら、オスマンは目の前のアニエスに言い聞かせるようにして語る。
「加えて言うなら、じゃ。曲がりなりにも君は『女王陛下直属の銃士隊』の隊長じゃろう? そんな相手に対して揉め事を起こしたら、ただでさえ切羽詰まった今のトリステインに余計な火種が生まれかねん」
王宮を向こうに回せるほど若くもないしな、とオスマンは煙とともに溜息を吐く。
確かに、今のトリステインは切羽詰まっている。
国の財政はアルビオンとの戦争費用で火の車、王宮はアンリエッタ女王の独断専行が目に付き、国の各地でその王宮に対する不満が出ていると言うのが現状だった。
こんな状態で『女王陛下お抱えの近衛騎士が問題を起こした』などと国中の貴族に知れた日には、内憂外患どころの話ではなくなってしまう。
それだけでトリステインが潰れるとは思えないが、だからと言って軽視も出来まい。
この国に余計な混乱を招いてしまうことは、オスマンとしても本意ではないのだ。
「ふぅ……」
キセルをふかしつつ、オスマンはなおも話を続けた。
「とは言え、あらかじめ君の素性を知っていれば色々と対策の立てようもあったんじゃがな。平民からのし上がってきたシュヴァリエがいるとは聞き知っていたが、さすがに君がダングルテールの出身だとは思わなんだ」
「……傭兵あがりの女兵士の過去を、いちいち詮索する者はいませんでしたから」
「それにいちいち『自分はダングルテール出身です』と吹聴するわけにもいかんかったじゃろうしの。あの一件の関係者ならば、君の出身を聞いただけで警戒心を抱いてもおかしくない」
「…………そういうことです」
全ては復讐を果たすために。
だから剣を取り、傭兵になり、今の地位にまで登りつめた。
だが。
「それで……これからどうするのかね?」
「……これから?」
「そうじゃ。当面の目的である復讐を果たして、君はこれからどうする? 銃士隊を続けるのかの?」
「……………」
困惑、呆然、放心。
アニエスはそれらの感情表現がごちゃ混ぜになったような顔をすると、ほんのわずかに震える声でオスマンの質問に答えた。
「それは……。これから、考えます」
「ふむ」
眉をひそめ、アニエスを測るような視線を向けた後、オスマンはまた煙を吐き出す。
「それじゃ、辛気臭い話をするのはここまでにしておくか。……数日中には学院を閉鎖させておくから、王宮にもその旨を伝えてくれたまえよ」
「……了解しました。それでは、私はこれで」
「うむ」
アニエスは若干頼りなげな足取りで学院長室を後にする。
そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、オスマンは一人ごちた。
「―――叶ってしまった夢は、もう夢じゃないってことかのう」
魔法学院に来たばかりの彼女は、抜き身の剣がそのまま歩いているような殺伐とした空気を振りまいていたが、今ではその剣が根元からポッキリと折れてしまったような印象を受けた。
無理もない、とは思う。
何せ人生最大の目標が驚くほど呆気なく、しかも一気に達成出来てしまったのだから。
『20年来の復讐』と一口に言ってしまうのは簡単だが、その20年の間にどれだけのことがあって、どれだけの思いをしてきたのか余人には知るすべがない。
陳腐な言い回しになるが、辛い時、苦しい時、逃げ出したくなる時だってあっただろう。
しかし、アニエスは『復讐』を心の支えにしてそんな時を乗り越えてきたはずだ。
……その心の支えが、無くなってしまったら。
人生最大の目標を達成し、心の支えとしてきたものを消失してしまった人間は、これからどうするのだろうか。
「憎んでしかるべき相手ではあるが……フッ、教師という職業のクセじゃな。悩みや迷いの中にある若者を見ると、要らぬ世話を焼きたくなってくる」
自重気味にそう呟くオスマン。
と、そこに。
「『……フッ』じゃありません。煙草はおやめくださいと、もう数えるのも馬鹿らしくなるほど言っていたはずですが?」
今まで秘書用の席で黙々と書類仕事をしていたミス・ロングビルこと本名マチルダ・オブ・サウスゴータが羽ペンを振り、『念力』でオスマンの水ギセルを取り上げた。
「…………人がせっかくカッコよく決めようとしとるのに、茶々を入れんでくれんかのぅ」
「カッコよく決めている暇がありましたら書類の一つでも片付けてくださいな、オールド・オスマン」
空気を読んでいたのかアニエスとの会話には割り込んでこなかったが、そのアニエスがいなくなったので言葉に遠慮がない。
いや、元々彼女はオスマンに対して遠慮など(特に最近は)ほとんどしていなかったのだが。
「はぁ……。まったく、出会った頃に比べて随分とつまらん女になったなぁ、君は。去年の今あたりは私に尻を触られてもニコニコしとったのに、今じゃ肩にすら触れられん」
「居酒屋の雇われ給仕が上客に対して取る態度と、学院長秘書が学院長に対して取る態度を同列に扱わないでください。……それに、ある程度の事例をこなせばあしらい方も分かってきますわ」
「いや、君の場合はあしらい方って言うか、純粋に隙や容赦がなくなったような気が……」
「だって人は変わっていくものですもの。良くも悪くも」
「……元々の地が出て来ただけな気もするがの」
ふへぇ、と情けない溜息をつきつつオスマンは物思いにふける。
おそらくコルベール死亡の件は、事件の際の死傷者として『アルビオンの賊がやった』ことになるだろう。
先ほども考えたことだが、『女王陛下直属の銃士隊隊長がやった』というのは体裁が悪すぎる。
アニエスによるコルベール殺害の場面を見ていたのは、自分を除けばあの場面において戦闘に参加していた者のみ。
他の教師や生徒たちは、解放されると同時に散り散りに食堂から逃げ出したのでその場面を目撃してはいない。
戦闘に参加していたキュルケとタバサとユーゼスは……まあ、特にコルベールに対して思い入れなどもなかったようだし、自分から進んで言いふらすような真似はするまい。
仇討ちだということも彼らにはバレているようだし、タバサなどは彼女の素性を考えればむしろ正当性を認めそうだ。
ユーゼスもコルベールの研究内容になぜか難色を示していたし、キュルケに至っては同じ火メイジでありながら戦争に参加しなかったコルベールを軽蔑すらしていたと聞いている。
ともあれ、コルベールに好感情を抱いてはいるまい。
つまり彼女たちが『銃士隊の隊長がコルベールを殺した』などと騒ぎ立てる心配はあまりないわけだ。ゼロではないが。
(銃士隊の隊員については……さすがにミス・ミランが事情の説明くらいはしておるかの)
同じ平民同士であるし、全く分かってもらえないということはあるまい。
何より『故郷を焼いた火メイジへの復讐』という、同情を引く大義名分がある。
下手をすれば祝福すらされるかも知れない。
よって、こっちの方面から騒がれる心配もそれほどない。
……真面目な隊員だったら上に報告くらいはするだろうが、どこかの段階でもみ消される可能性が高いだろう。
あとは自分が黙っていれば、この件が王宮に与える影響は多少抑えられる。
(あくまで多少、じゃがな……)
決定してしまった学院の閉鎖も一応『この戦争が終わるまで』という名目になってはいるが、今の状況ではいつ戦争が終わるのか分かったものではない。
実家に戻った女子生徒たちのもとへ、召集令状が届かない保証はどこにもないのだ。
自分と魔法学院はその時のための防波堤になろうとしていたが、さすがに閉鎖されてしまっては手の出しようがない。
もちろんその召集を突っぱねる貴族もいるだろうが、だったら王宮だって強制的に徴兵するだろう。
…………いや、今のトリステイン王宮にそこまでの力が残されているだろうか?
かえって国中の貴族から反感をかってしまうだけでは?
そもそも、あんな付け焼き刃以下の『軍事教練』しか知らない子供を投入したとして、勝つ見込みはあるのか?
いや、それ以前に今の戦況はどうなっている?
(―――進退きわまってきたか)
考えれば考えるほど、不安材料しか出てこない。
かと言って、そんな様々な不安材料を自分がどうにかすることも出来ない。
事態は魔法学院の学院長の裁量や機転でどうにかなる領域を、かなり初期の段階で超えてしまっているのだ。
この期に及んでオスマンに可能なのは……せいぜい王宮に一石を投じるか、もしくは誰かが投じた一石が王宮に届くのを防ごうとするくらいか。
……『防ぐ』と断言出来ないのが何だかなぁ、という感じである。
ぶっちゃけ、オスマンに政治的な発言力はそんなにない。
この国を実質的に動かしているのは宰相兼枢機卿のマザリーニ、そして爵位持ちや将軍などの有力貴族であって、国の教育機関の長ではポジション的に弱いのだ。
(ま、国に関するあれやこれやに今更関わる気もないし、物事ってのはなるようにしかならんが)
ともあれ、ここで考えていても事態は何も変わらない。
差し当たって目の前の書類仕事でも片付けるかな……などと思いながら、オスマンがのそのそと手を動かそうとすると、
「失礼します」
「ん?」
ドアが開いて学院教師のミセス・シュヴルーズが姿を現した。
「ミセス・シュヴルーズ。学院長に何か?」
「いえ、ミス・ロングビルにお客様が見えましたので、その呼び出しに」
いかにも人が良さそうなふくよかな体型の女性教師は、微笑みを浮かべて応対してきたミス・ロングビルにそう告げる。
「客?」
「ええ。ミスタ・シラカワという方が『ミス・ロングビルにご用がある』という旨でお見えになっていますが……」
「シラカワ? ……シュウが?」
「はい」
やぶから棒に『実家の居候』の名前が出てきたので、思わず質問を質問で返してしまうミス・ロングビル。
ちなみにシュウ・シラカワは非常に丁寧な物腰やどことなく漂ってくる気品、そして何より形容しがたいプレッシャーのようなもののせいで、ハルケギニアの人間からは初対面で貴族扱いされることが多い。
実際、エレオノールやルイズなどもシュウを呼ぶ時には『ミスタ』をつけていた。
「外で待たせておくのも何ですので、すでに学院長室の近くまでお通ししていますが……」
「……ああ、はい。ありがとうございます、ミセス・シュヴルーズ」
そうしてミセス・シュヴルーズは姿を消した。
これでこの場における自分の役割は終わった、と判断したのだろう。
「それでは学院長。少々席を外しますが、仕事の手は止めないで下さいね」
「分かっとるって。……あーあ、ミス・ロングビルはいいのう。都合よく仕事をサボる口実が出来て」
「そういうセリフは、日頃からきちんと仕事をしてから言ってください」
席を立ち、学院長室から出て行くミス・ロングビル。
「ったく、いきなり何の用だってんだい、あの男は……」
唐突に現れた紫髪の男に対して誰にも聞こえないほどの小声で悪態をつきつつ、彼女はミス・ロングビルからマチルダ・オブ・サウスゴータへと切り替えを行う。
そしてマチルダは学院長室前の廊下に立っていたシュウ・シラカワへと、いかにも不機嫌そうな顔で近付いていくのだった。