翌朝……。
鍾乳洞につくられた港の中、ニューカッスルから疎開する人々に混じって、ティトォは『イーグル』号に乗り込むための列に並んでいた。
先日拿捕した『マリー・ガラント』号にも、脱出する人々が乗り込んでいる。
(いいの?)
ティトォの頭の中に、声が響く。
(黙って先に行っちゃってさ)
幼い女の子の声……、アクアの声である。
「ルイズのこと、怒らせちゃったから。顔合わせづらくて」
ティトォは小声で呟き、頬を掻いた。
(ありゃルイズだって悪いんだよ。あのガキ、癇癪持ちでどうしようもないね)
アクアが鼻を鳴らす。まるで肩をすくめる仕草が見えるようで、ティトォは小さく笑った。
(それにしても、結婚式か……)
「うん」
(プリセラは、見たかったんじゃないかな……。結婚式)
「……そうだね」
ティトォとアクアは、魂の同居人に思いを寄せた。
と、そのとき。
急に、胸がざわざわとして、ティトォは小さく顔をしかめた。
この感覚は、ティトォのものではない。
「……プリセラ?」
不死の三人の最後の一人・プリセラの魂がざわめいて、ティトォの魂を揺らしていた。
鍾乳洞につくられた港の中、ニューカッスルから疎開する人々に混じって、ティトォは『イーグル』号に乗り込むための列に並んでいた。
先日拿捕した『マリー・ガラント』号にも、脱出する人々が乗り込んでいる。
(いいの?)
ティトォの頭の中に、声が響く。
(黙って先に行っちゃってさ)
幼い女の子の声……、アクアの声である。
「ルイズのこと、怒らせちゃったから。顔合わせづらくて」
ティトォは小声で呟き、頬を掻いた。
(ありゃルイズだって悪いんだよ。あのガキ、癇癪持ちでどうしようもないね)
アクアが鼻を鳴らす。まるで肩をすくめる仕草が見えるようで、ティトォは小さく笑った。
(それにしても、結婚式か……)
「うん」
(プリセラは、見たかったんじゃないかな……。結婚式)
「……そうだね」
ティトォとアクアは、魂の同居人に思いを寄せた。
と、そのとき。
急に、胸がざわざわとして、ティトォは小さく顔をしかめた。
この感覚は、ティトォのものではない。
「……プリセラ?」
不死の三人の最後の一人・プリセラの魂がざわめいて、ティトォの魂を揺らしていた。
さてその頃、ルイズは戸惑っていた。
今朝方早く、いきなりワルドに叩き起こされ、ニューカッスル城の敷地にある礼拝堂に連れてこられたのである。
始祖ブリミルの像が置かれている礼拝堂には、ウェールズ皇太子が待っていた。
周りに、他の人間はいない。皆、戦の準備で忙しいのだろう。
寝ぼけた目でぼんやり皇太子を見ていると、ワルドがルイズの耳に顔を寄せ、「今から結婚式をするんだ」と言った。
「え」
ルイズは思わず目をぱちくりとする。
結婚式?なにそれ。
寝起きの悪いルイズは、まだ自分が夢を見ているのかと思った。
呆然とルイズが突っ立っていると、ワルドはアルビオン王家から借り受けた新婦の冠をルイズの頭に乗せた。
魔法の力で永久に枯れぬ花があしらわれ、なんとも美しく清楚な作りであった。
甘い花の香りが、ルイズの鼻をつく。
どうやらこれは、夢ではないらしい。
いったい、何が起こってるっていうの?
ルイズは昨日の、ティトォとのやり取りを思い出す。
(わたし、ワルドにプロポーズされたの。今決めたわ。わたし、ワルドと結婚するわ。あの人、頼りがいがあるから、きっと安心ね)
あれは、ティトォへの当てつけで、つい口にした言葉だった。
ラ・ロシェールで受けたプロポーズへの返事をどうするかは、実際のところ、まだ悩んでいた。
もしかして、ワルドは昨日の話を、どこかで聞いてたのかしら。
それで、わたしがプロポーズを受けたのだと思ってるのかしら。
ええ、そんな。どど、どうしよう。
「あのね、ワルド。えと、その」
ルイズがあたふたしているうちに、ワルドはルイズの黒いマントを外し、同じく王家から借り受けた純白のマントをまとわせた。
新婦しか身につけることを許されぬ、乙女のマントであった。
「そそ、そのね。ふ、不幸な行き違いがあったと思うの……」
ルイズはしきりに手をいじりながら、ごにょごにょと呟いた。
「似合っているよ、ぼくのルイズ」
ワルドがうっとりと声をかける。
ルイズのつぶやきは、ワルドの耳にはまったく届いていなかったようだ。
ルイズは本当に困ってしまった。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
「あのねワルド」
「では、式を始める」
ルイズが口を開くのと同時に、ウェールズがおごそかに宣言した。
その言葉に、ルイズの隣に立ったワルドが、恭しく一礼した。
ダメだ。ダメだこの人たち。
人の話、全然聞いてない。
「新郎、子爵ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、妻とすることを誓いますか」
ワルドは重々しく頷いて、杖を握った左手を胸の前に置いた。
「誓います」
ウェールズはにこりと笑って頷き、今度はルイズに視線を移した。
「新婦、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール……」
朗々と、ウェールズが誓いのための詔を読み上げる。
「いえ、ですから……」
ルイズは困った顔でウェールズに進言しようとした。
これは、ワルドの早とちりなんです。ふたりの間に、ちょっとした誤解があったんです……
「……汝は始祖ブリミルの名に置いて、このものを敬い、愛し、夫とすることを誓いますか」
ルイズはハッとなって、ウェールズを見る。
ウェールズは明るい紫のマントを身に纏い、七色の羽を着けた帽子をかぶっている。アルビオン王家の礼服である。
ウェールズの後ろには、両手を前に突き出した始祖像が鎮座している。
困惑していて気付かなかったが、これは正式な結婚式だ。
略式とはいえ、始祖の前に誓う婚礼の儀である。
ルイズは気付いた。今、答えを出さなくてはいけないのだ。
決心がつかずにのらりくらりとかわしていた、ワルドのプロポーズへの返事を出すのが、今なのだ。
ルイズは俯いて、考える。
相手は、憧れていた頼もしいワルド。
幼い頃に交わした結婚の約束、それが現実のものになろうとしている。
でも、ちょっと話が急すぎない?
プロポーズを受けた(とワルドは思っている)次の日に結婚式だなんて。
そんな話、聞いたことないわ。
キュルケの奴が『殿方は強引なくらいじゃなきゃだめよ』なんてのたまってたけど、これはあんまり強引すぎじゃないかしら。
「緊張しているのかい?仕方がない。初めての時は、ことがなんであれ、緊張するものだからね」
そういってワルドはにっこりと笑った。
ウェールズが続ける。
「まあ、これは儀礼にすぎぬが、儀礼にはそれをするだけの意味がある。では繰り返そう。汝は、始祖ブリミルの名において、この者を敬い、愛し……」
式は、ルイズの与り知らぬところで続いている。
ルイズはなんだか腹が立ってきた。
ルイズの脳裏に、昨日の夜の、ティトォやウェールズたちへの怒りが甦ってくる。傲慢な男たちへの怒りであった。
ワルドだってそうだ。強引で、なにもかも勝手に決めてしまってる。
そういうの、なんかいやだわ。気に入らない。
ルイズの心は、決まりつつあった。
でも、そんなことでプロポーズを断っていいものかしら?
ワルドのことは、憧れだった。
魔法衛士隊の隊長ともなれば、結婚の相手としては理想的と言えるだろう。
それを「なんだか気に入らない」なんて言葉で、袖にできるものなのかしら?
そんなの、何の理由にもなってないわ……。
ルイズは少し悩んだが、やがてふうっと息を付いた。
ルイズの脳裏に、ゆうべティトォに投げかけた言葉が思い出された。
(プロポーズを受けるかどうか、悩んでるわ。これは理屈じゃない、気持ちの問題よ)
そうだ。これは、政略結婚でもなんでもない。
ならば結婚は、理屈でするものではない。
だったら自分の今の気持ちに、従ってみよう。理由なんて後から付いてくるわ。
「……夫とすることを、誓いますか」
ウェールズの言葉に、ルイズは小さく首を振った。
「新婦?」
「ルイズ?」
二人が怪訝な顔で、ルイズの顔を覗き込む。ルイズはワルドに向き直った。
そして、申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「ごめんなさい、ワルド。あなたとは結婚しないわ」
いきなりの展開に、ウェールズは首をかしげた。
「新婦は、この結婚を望まぬのか?」
「その通りでございます。お二方には、大変失礼をいたすことになりますが、わたくしはこの結婚を望みません」
「……緊張しているんだ、そうだろルイズ。きみがぼくとの結婚を拒むはずがない」
ワルドはルイズの手を取って、言った。
「ごめんなさい、ワルド。憧れだったのよ。もしかしたら、恋だったかもしれない。でも、今は違うの」
「あの使い魔か?あの男に恋したのか、ルイズ!」
「そんなんじゃないわ」
「ではなぜ!」
「本当にごめんなさい。でもワルド。今のあなた、なんだか気に入らないの」
ワルドの頬に、さっと朱がさした。
「ふざけるな!そんな理由があるもんか!」
ワルドは、ルイズの肩を掴んだ。その目が吊り上がる。熱っぽい口調で、ワルドは叫んだ。
「世界だルイズ!ぼくは世界を手に入れる!そのためにきみが必要なんだ!」
ルイズはワルドに怯えて、後じさった。
そりゃあ、あんな理由で結婚を拒んだのだ、ワルドはきっと怒るだろうとは思っていた。
しかし、ワルドの豹変ぶりは尋常ではない。歪んだ目の光が、爬虫類を思わせるような冷たいものに変わっている。
「ルイズ、いつか言ったことを忘れたか!きみは始祖ブリミルに劣らぬ、優秀なメイジに成長するだろう!きみは自分で気付いていないだけだ、その才能に!」
ワルドの剣幕に、ルイズは震え上がった。ルイズの知っているワルドではない。いったい何が、彼をこのような物言いをする人間に変えてしまったのだろうか?
見かねたウェールズが、間に入ってとりなそうとした。
「子爵……、きみはフラれたのだ。いさぎよく……」
「黙っておれ!」
ワルドはその手をはねのける。
ウェールズは、ワルドの言葉に驚き、立ち尽くした。
ワルドはルイズの手を握った。ルイズはまるでヘビに絡みつかれたように感じた。
「ルイズ、きみの才能がぼくには必要なんだ!」
ルイズはワルドの手を強引に振りほどき、きっとワルドを睨みつけた。
「あなたのこと、気に入らなかった理由がやっとわかったわ」
ルイズの肩は、怒りで震えている。
『なんだか気に入らない』程度だったワルドへの感情は、はっきりとした嫌悪に変わっていた。
「あなた、ちっともわたしを愛してないじゃない。あなたが愛しているのは、あなたがわたしにあるという、ありもしない魔法の才能だけ。そんな結婚、死んでもいやよ!」
ワルドはまたしてもルイズに掴みかかろうとする。しかし、その行く手にウェールズが立ちはだかった。
ウェールズは、ワルドに杖を突きつけている。
「見苦しいぞ、子爵!今すぐにラ・ヴァリエール嬢から離れたまえ!」
ワルドはやっと身を引くと、どこまでも優しい笑顔を浮かべた。
しかしその笑みは、嘘に塗り固められていた。
「こうまでぼくが言ってもだめかい?ルイズ。ぼくのルイズ」
「いやよ、誰があなたと結婚なんかするもんですか」
ワルドは天を仰いだ。
「この旅で、きみの気を惹くために、ずいぶん努力したんだが……」
両手を広げて、ワルドは首を振った。
「こうなってはしかたない。ならば目的の一つは諦めよう」
「目的?」
ルイズは首をかしげた。どういうつもりだと思った。
ワルドは唇の端を吊り上げると、禍々しい笑みが浮かべた。
ワルドは右手を掲げると、人差し指を立てて見せた。
「そうだ。この旅におけるぼくの目的は、三つあった。ひとつはきみだ、ルイズ。きみを手に入れること。しかし、これは果たせないようだ」
「当たり前じゃないの!」
次にワルドは、中指を立てた。
「二つ目の目的は、ルイズ、きみのポケットに入っている、アンリエッタの手紙だ」
ルイズははっとした。心の中で、いやな想像がふくれあがる。
「ワルド、あなたまさか、貴族派に……」
「そして三つ目」
ワルドの『アンリエッタの手紙』という言葉で、ウェールズはすべてを察した。
「貴様、『レコン・キスタ』!」
ウェールズは杖を構え、呪文を詠唱した。
しかし、ワルドは二つ名の閃光のごとく杖を引き抜き、呪文の詠唱を完成させた。
ウェールズの呪文が発動しようという瞬間、ワルドの杖がウェールズの杖を薙ぎ払った。
ウェールズの水晶の杖は真っ二つに切り裂かれ、宙を舞う。
「三つ目は、貴様の命だ。ウェールズ」
ワルドは小さく呟き、ウェールズの胸を狙って杖を突き出した。
ルイズは立ちすくみ、その光景をまるでスローモーションの映像を見るかのように、見守っていた。
杖を中心に、青白く光る鋭い空気の渦が発生している。杖を刃と化す『風』の魔法、『エア・ニードル』だ。
ワルドの杖の切っ先が、今まさにウェールズの心臓を貫かんとしたとき……、
突然、がくんと身体を揺らし、ワルドの動きが止まった。
「なに!」
ワルドが困惑して、叫んだ。
ぐん、と見えない力で引っ張られて、ワルドの身体はウェールズから引き離される。
ワルドはそのまま、宙に浮いた格好で動きを封じられた。
「身体が、動かん……!貴様、何をした!」
ワルドが叫ぶ。
しかし、ルイズもウェールズもわけが分からず、困惑した目でワルドの姿を見ていた。
ふとワルドが、杖を握った、動かない右腕に目をやると、手の甲を何かが這い回っていた。
それは小さな蜘蛛であった。
よく見ると、ワルドの腕に、脚に、身体に、細い糸が絡み付いている。
ばかな。こんな細い糸が、身体の動きを封じているというのか?
「マテリアル・パズル」
礼拝堂の入り口から響いてきた声に、ウェールズと、ルイズ、そしてワルドは振り返った。
「魔法の炎で蜘蛛をパワーアップさせ、操った。そしてパワーアップした糸を出してもらった」
そこにいたのは、ハルケギニアでは珍しい、黒い髪と黒い目を持った少年。
『イーグル』号でアルビオンを脱出しているはずの、ティトォであった。
「ティトォ!」
ルイズが目に涙をいっぱいためて、叫んだ。
「貴様……」
ワルドが苦々しげに呟く。
「なぜにぼくの裏切りがわかった?ミョズニトニルン。きみに疑われるような真似は、しなかったつもりなんだがね」
「確かに、お前の行動におかしなところはなかった。ぼくは疑いもせず、『イーグル』号に乗り込むところだった」
ワルドは怪訝な顔になる。
「ならばなぜ?」
「勘さ」
「勘?勘だと!」
ワルドは驚いて、叫んだ。『勘』、それはこの少年に、もっとも似つかわしくない言葉に思えた。
ティトォはなにごとも細かく観察し、論理的に分析する人間だ。
『勘』などという曖昧なものにそって、行動するとは思えない。
「ぼくだけだったら、まんまと騙されてた。でもぼくの中のプリセラの魂が囁いたんだ。「ワルドはなんだか気に入らない」ってね」
女の勘ってやつかな、とティトォは呟いた。
そしてティトォは、火のような怒りを含んだ目で、ワルドを睨みつけた。
「よくもルイズを裏切ったな」
ルイズには、ティトォの黒い瞳の色が、一瞬青く色を変えたように見えた。
これはティトォだけの怒りではない。不死の身体に眠るアクアの、プリセラの怒りだ。
そして、結婚式でルイズを裏切ったワルドに、一番腹を立てているのはプリセラなのだ。
プリセラの魂が震え、ティトォの怒りを大きくしていた。
ワルドはティトォの言葉の意味がわからず、首をひねっていた。
しかしやがて残忍な笑みを浮かべて、言った。
「いやはや……、さすがは伝説の使い魔と言ったところか。きみには驚かされてばかりだよ」
妙に余裕を感じる口調である。
ティトォはいぶかしんだ。
「ルイズ、ウェールズ皇太子を連れて逃げるんだ」
ティトォの言葉に、ルイズははっとして、ウェールズに駆け寄った。
「ウェールズ様、こちらに……!」
「あ、ああ」
ウェールズは困惑していたが、その言葉に従い、ルイズの手を取った。
しかし……
どこに潜んでいたのか。突然、ウェールズの背後に長身の貴族が現れた。
その貴族は風のように身をひるがえらせ、青白く光る杖で、背後からウェールズの胸を貫いた。
ウェールズの口から、どっと鮮血が溢れ出る。ティトォの目が驚愕に見開かれる。ルイズは悲鳴を上げた。
ウェールズの身体が、どう、と床に崩れ落ちる。
杖を鮮血に染めた長身の貴族は、悠然とそこに立っていた。白い仮面が顔を隠している。
ルイズは腰を抜かしてへたり込んだ。
この貴族は、ワルドのグリフォンに乗っていた……!
仮面の貴族は、ふわっと身を翻らせると、ワルドの身体にからみつく蜘蛛の糸を杖で切り裂いた。
身体の自由を取り戻したワルドが、すたっと地面に降り立つ。
「ルイズ!」
ティトォがルイズとウェールズの元に駆け寄る。
右手に握ったライターから、大きな火柱が燃え上がっている。
「ホワイトホワイトフレア、この者の傷を癒せ!」
ティトォはウェールズの身体に、魔法の炎を叩き込んだ。ウェールズの全身に、炎が燃え広がる。
「無駄だよ、心臓を貫いたのだ。ウェールズは即死さ」
せせら笑うワルドと、その隣に立つ仮面の男を、ティトォは睨みつけた。
そして、奇妙なことに気が付く。
身長、呼吸の間隔、骨格、全身のバランス。この二人は『すべてが同じ』なのだ。
「風の遍在〈ユビキタス〉……」
「おや、さすがだね、一目で見抜くとは。やはり『遍在』を隠しておいて正解だったよ」
仮面の貴族は、すっと顔に手を伸ばすとその真っ白の仮面を外した。
ルイズははっと息を呑んだ。その仮面の下から現れたのは、ワルドの顔だった。
二人のワルドが、こちらを見て笑っている。
「風のユビキタス。風は遍在する。風の吹くところ、何処となくさまよい現れ、その距離は意志の力に比例する」
「ラ・ロシェールで襲ってきた傭兵の手引きをしたのも……」
「その通り、ぼくだ。遍在は、それ自体が意志と力を持っているからね。離れたところでいろいろと動かせてもらった」
ワルドが得意げに語る中、跪くティトォの背後、ウェールズの身体がぴくりと動いた。かは、とウェールズの喉から空気が漏れる。
それを見て、ワルドの眉が吊り上がる。
「傷を塞ぎ、蘇生したというのか。どうやらきみの魔法を甘く見ていたようだな……」
ワルドの遍在が、薄笑いを浮かべて杖を構えた。
「だが、貴様はウェールズの治療で動けまい!二人まとめて、地獄に送って差し上げよう!」
ワルドを睨みつけるティトォの額に、冷や汗が浮かぶ。
ワルドの言う通り、ウェールズは危険な状態だ。完全に治療が終わるまでは、動かせない。
そのとき、杖を構える遍在の足下が爆発した。ぼごんっ!と激しい音が響く。
ワルドとティトォが振り向いた。杖を構えたルイズが、ワルドと遍在を睨みつけている。
ワルドが素早く杖を振るう。ルイズは風の障壁に横殴りに打たれ、紙切れのようにふっとんだ。
ルイズの身体は、ティトォとウェールズの近くまで転がって、ようやく止まった。
「ルイズ!」
「あぐ……」
全身の痛みにルイズが顔をしかめる。
「ルイズ。愚かなルイズ。きみは変わってしまったな。昔はぼくの言うことはなんでも聞き入れたのに」
「ふざけないで、変わったのはあなたよ……!トリステインの貴族であるあなたが、どうして!」
「我々はハルケギニアの将来を憂い、国境を越えて繋がった貴族の連盟さ。我々に国境はない。ハルケギニアは我々の手によって一つになり、始祖ブリミルの降臨せし『聖地』を取り戻すのだ」
ルイズが呪文を唱え、杖を振るう。しかし呪文はワルドにかすりもせず、ワルドの背後の壁を爆発させた。
ワルドが杖を振るう。風の刃が、ルイズの肌を薄く切り裂いた。
「うあ……!」
「共に世界を手に入れようと言ったのに、聞き分けのない子だ」
ティトォの手が、ルイズの肩に伸びた。ルイズの全身を炎がまとい、傷が消えていく。
二人のワルドは冷たい瞳で、ルイズを見下ろす。
「言うことを聞かぬ小鳥は、首を捻るしかないだろう?なあ、ルイズ」
遍在が呪文を唱えると、杖が青白く輝きだした。先ほどウェールズの胸を貫いた、『エア・ニードル』の呪文だ。
(結構なダメージでも、その炎が回復させてしまうからな……。このまま、一撃で確実に首を落とす)
遍在が杖を振りかぶる。
ルイズは恐怖に目をつむりそうになったが、気丈に遍在を睨みつけた。
怖い、逃げ出したい。でも。
負けるもんか。
薄汚い裏切り者なんかに、負けるもんか!
「ウル・カーノ……!」
ルイズが呪文を唱える。それより早く、遍在は杖を振るった。
しかし。
ぼごんっ!と激しい音が響き、爆発とともに遍在は吹っ飛んだ。遍在は、ワルドの背後の壁にぶち当たり、消滅した。
「何!」
ワルドがうろたえる。ルイズの詠唱より、確実に遍在の動きの方が速かったはずだ。
しかし実際には、先に発動したのはルイズの呪文だった。
「え……?」
ルイズも、あっけにとられた顔で自分の杖の先を見つめた。
信じられないくらい、身体が速く動いた。それだけじゃない。あの距離で魔法を外すことはないとは思っていたが……、なんだか『狙ったところに魔法が当たった』ような感覚があったのだ。
ワルドが杖を構え、呪文を唱える。
「ラナ・デル……」
「ウル・カーノ!」
ルイズが杖を振るのと同時に、ワルドは呪文の詠唱をやめ、飛び退った。ワルドの立っていた空間が爆発し、礼拝堂の床板を巻き上げた。
「なんだと!」
ルイズは確信した。
当たる。
今の自分は、狙った場所を爆発させることができる。
しかも爆発の威力も、いつもの失敗魔法より、数段上がっている。
「この力は、いったい……」
「……マテリアル・パズル。魔法の炎を、ドレス化して身に纏わせた」
ルイズの背後で、ウェールズを治療しているティトォが言った。
「魔法の炎は、生き物の潜在能力を引き出してくれる。蜘蛛をパワーアップさせたように、ルイズの身体能力・魔力・そして魔法のコントロール力を強化した!」
ティトォの叫びに呼応するかのように、ルイズの身体を纏う炎が、いっそう強く燃え上がった。
「……ルイズ」
ティトォが、苦しそうな声で言う。
「ぼくは、ウェールズ皇太子の治療で動けない。それに、残念ながらぼくは、あいつと戦えるだけの攻撃力は持っていない。……女の子に戦わせるようなことをして、申し訳ないと思う。情けないと思う。
そのかわり、ぼくの魔力は、できるだけきみに送る。ダメージも一瞬で回復させる。きみはぼくが命をかけて守る!だから、きみの力を貸してくれ!」
「……当然だわ!ワルドはハルケギニアを戦渦に巻き込もうとする『レコン・キスタ』の一員よ。それに、ウェールズ様やわたしをなんとも思わず殺そうとした。命をなんとも思わないゲスな男!」
ルイズは視線をワルドから外さずに、頷いた。
「トリステイン貴族として!あなたはここで倒す!」
「は!勇ましいことだ、小さなルイズ」
ワルドが笑う。
「もう、小さくないわ!」
ルイズが杖を振るうと、ドンドンドンと続けざまに爆発が巻き起こった。
ワルドは素早い動きで爆発を交わしながら、早口に呪文を唱える。
「ラグース・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ!」
『風』の二乗と、『水』ひとつのトライアングルスペル、『ウィンディ・アイシクル』。
空気中の水蒸気を凍らせた無数の氷の矢が出現し、ルイズに殺到する。
「ウル・カーノ・ジエーラ!」
ルイズが素早く杖を振るう。立て続けに爆発が起こり、氷の矢はすべて撃ち落とされた。
「やるね。しかしこの魔法は撃ち落とせないぞ!」
ワルドはすでに、次の呪文を完成させていた。ワルドの周りの空気が、バチバチと帯電している。
「『ライトニング・クラウド』!」
ルイズが魔法の正体に気付いた瞬間、ばちん!と空気がはじけた。ワルドの周辺から稲妻が伸び、ルイズに襲いかかる。
「きゃあああああ!」
身体にしたたかに通電し、ルイズは悲鳴を上げた。『ライトニング・クラウド』は、まともに受ければ命を奪うほどの危険な呪文である。電撃はルイズの胸を直撃し、そのショックで心臓が止まる……
「ホワイトホワイトフレア!」
ティトォの叫びとともに、ルイズの纏う炎が勢いを増す。心臓はふたたび動き出し、電撃によって負った火傷もすべて消え去った。
「……っは、はあっ!」
ルイズは荒い息を付いた。身体にダメージがまったく無いことを確認すると、ふたたびワルドに向け杖を構える。
ワルドは小さく舌打ちをする。
やっかいだな。
ルイズの力は大幅に強化されている。しかし、ルイズは魔法発動のための媒体にすぎない。今、実質的にぼくが戦っているのは……
ワルドはルイズの背後、倒れ伏すウェールズの側に跪くティトォを見る。ティトォは、こめかみを指でトントンと叩きながら、ワルドのことをじっと見つめている。
……実質的にぼくが戦っているのは、あの後ろにいる少年というわけか。ならば。
ワルドは口の端を吊り上げ、呪文を唱える。
「ラナ・デル・ウィンデ……」
空気の槌、『エア・ハンマー』が、礼拝堂の天井を砕いた。崩れた天井が、ティトォとウェールズに降り注ぐ。
「ティトォ!」
ルイズは素早く呪文を唱え、天井の破片を爆発で砕いた。
しかし、砕ききれなかった破片がティトォの頭にぶつかる。ごつ、と鈍い音が響き、額からつうっと血が一筋流れる。
ルイズがティトォたちに気をとられた瞬間、ワルドがルイズに襲いかかった。
「余所見をしたね。迂闊な!」
至近距離で『ウィンド・ブレイク』の魔法をくらい、ルイズは吹っ飛んだ。ごろごろと、ティトォの近くに転がる。
「ぐ……」
うめきながら身を起こすと、またも身体のダメージが消えていくのがわかった。
「このくらい、かすり傷よ。わたしのことより、あんたは皇太子の治療に専念して」
ルイズが、隣にいるティトォに言った。
「……でも、どうしよう。どうやって戦えばいいの?いくら魔力を強化したって言っても、相手は魔法衛士隊のスクウェアよ。戦いのセンスとか、勘とか、そういうのではわたしぜんぜん敵わないわ」
「わかってる。でも、もう少しだけ、ワルドを足止めしてくれ」
ワルドから視線を外さず、ティトォは言った。こめかみを指で叩き続けていて、額に流れる血を拭おうともしない。
「あと少し……、あと少しでわかるんだ」
「?……わかったわ」
よく分からないけど、ティトォはなにか考えがあるようだった。
ワルドが杖を振りかぶると同時に、ルイズも魔法を発動させた。
ワルドの真上の天井が爆発し、破片が降り注ぐ。さっきのお返しだ。
ワルドがばらばらと落ちる破片をかわした先に、爆発を起こす。巻き込まれるワルドを見て、ルイズはやった!と思ったが、ワルドは無傷だった。風の障壁で爆発をいなしたようだ。
すぐさまワルドが、『エア・カッター』をルイズに撃ってきた。ルイズは素早く魔法をぶつけ、『エア・カッター』を相殺する。
ワルドが忌々しげに呟いた。
「やはり、あの使い魔を先に仕留める必要があるか……」
あの少年を倒せば、魔法はじきに解ける。ルイズとウェールズの回復もできなくなる。
しかし、魔法の攻撃はルイズに撃ち落とされてしまう……
ならば……
「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ……」
ぶわっ、とワルドのまわりから、白い煙が巻き起こった。いや、これは煙ではなく、雲だ。雲はみるみる礼拝堂に広がり、ルイズたちに襲いかかる。
「わぷ!」
綿菓子のように濃密な雲にまとわりつかれ、ルイズは思わず声を上げた。
いけない、この呪文は『スリープ・クラウド』!眠りの呪文だわ!
あわてて口を塞いだが、魔法の炎を身に纏っているためだろうか、眠気には襲われなかった。
しかし、眠りの魔法にはかからなかったものの、濃密な雲がルイズの視界を奪っている。
ルイズははっとなった。
まずい、ワルドの姿が見えない!
「ティトォ!ティトォ、狙われるわ!逃げて!」
ルイズの叫びを聞きながら、ワルドはせせら笑った。
無駄だよ。治療の終わっていない皇太子は動かせない。それに、君たちからはぼくの姿は見えないが、ぼくにはちゃんと見えている。『風』の流れを読むのは、ぼくの得意とするところなのだ。
しかし、あの使い魔の少年は得体が知れないからな。念には念を入れて……
「ユビキタス・デル・ウィンデ……」
呪文を完成させると、ワルドの身体がいきなり分身した。風の遍在。しかも、その数は先ほどのように一つではない。
二つ……、三つ……、四つ……、本体とあわせて五体のワルドが現れ、ティトォににじり寄った。
ルイズは真っ白な雲の中、なんとかワルドの姿をとらえようときょろきょろしている。
ティトォは相変わらず、ウェールズに魔力を送りながら、こめかみを指でトントンと叩いている。
ワルドはにやりと笑い、小声で呪文を呟く。すると、杖が青白く光りだした。『エア・ニードル』だ。
「さよならだ、『ミョズニトニルン』」
ワルドは静かにティトォの背後に忍び寄り、杖を振りかぶった。
トン、とティトォが、指でこめかみを叩くのをやめた。
「……よし」
口の端を吊り上げて、ニッと笑顔を作る。
「できた!」
ワルドが杖を振り下ろした。首を正確に狙った、必殺の一撃だ。
しかしティトォはふっと身をかがめ、その一撃は空を切った。
「なに?」
ワルドが驚きの声を上げる。
「かわした?ばかな、見えているのか。いや……」
ティトォは変わらず前を見据えていて、その視線の先には、五人のワルドの誰もいない。
おまけに、ティトォのすぐ横に立っている、別の『遍在』にも、まったく気付いてないように見えた。
「……空気の流れを感じるとか、気配を察知するだとか、こいつにそんな能力はないはず。かわしたのは、偶然だ」
ワルドはふたたび杖を掲げ、ティトォを狙う。
「来る」
ティトォは呟くと、くいっと右手を動かした。
次の瞬間、ティトォの背後、杖を振りかぶった遍在が爆発した。遍在は吹き飛び、消滅した。
「なんだと!」
残った四人のワルドは驚き、飛び退る。
今のは、ルイズの爆発魔法だ。しかしなぜ、この雲の中『遍在』の位置がわかったんだ?
何が起こっているというのか。まったく説明がつかない。
一方、遍在に向けて魔法を放ったルイズも困惑していた。なにせ、自分の意志でなしに勝手に身体が動き、呪文を唱えたのだ。
(ルイズ、聞こえる?ルイズ)
ルイズの頭の中で、声が響いた。
「ティトォ……、ティトォなの?」
それは果たして、ティトォの声だった。魔法の炎を通じて、ルイズの頭に直接言葉を伝えているのだ。
(目をつむって、ルイズ)
「は?」
(どうせ視界は閉ざされてるんだ。ぼくが炎を操ってきみを導くから、きみは炎の流れにそって動いてくれ)
「目をつむるって……、ええ、わかったわ」
ティトォの声には自信が宿っていた。その言葉を信じ、ルイズは固く目を閉じる。
ワルドは困惑していた。
「偶然の偶然だ……、でなければ説明がつかない」
そう呟くと、今度は2体の遍在を、一度にルイズに襲いかからせた。
「右方向から一人、杖に風の刃を形成しつつ突撃……、さらに背後でもう一人が左方向に6歩分移動、呪文を唱える」
ティトォはなにごとかぶつぶつと呟くと、炎を操りルイズの身体を動かした。
ルイズは杖を振るう遍在の一撃をかわし、背後で呪文を唱えるもう一体の遍在に爆発を叩き込み、消滅させた。
「ワルド、お前の戦闘行動は……」
ティトォが呟いた。
「すべて把握した」
ルイズはそのままぎゅるっと身をひねり、突っ込んできた遍在の鼻っ柱に、強烈なパンチを叩き込む。
魔法の炎で強化されたルイズの拳は、いともたやすく遍在の鼻を叩き折った。
遍在が痛みによろめくと、すぐさま魔法を叩き込む。至近距離の爆発を食らい、遍在は消滅した。
「ばかな……!」
ワルドが驚愕の声を上げる。
さらにルイズはこちらを振り向きもせず、魔法を放った。
ワルドの横に立っていた最後の遍在が爆発で吹き飛ばされる。
「ばかな!」
「子爵、あなたはぼくに、手の内を見せすぎた」
ティトォが誰にともなく呟く。
「この旅で、そしてこの戦いで、あなたが発した言葉の一言一句。あなたが見せた表情。あなたの動き。『すべて記憶している』」
記憶。
記録。
展開。
判断。
発想。
発祥。
計算。
創造。
「心の底からの、本気の言葉!本気の表情は!それはお前の真実のピース!断片を知ることで、お前のすべてを『透し見る』!これが、魔法と同じく100年の間に培われたぼくの能力、『仙里算総眼図』!」
ワルドは焦り、魔法をティトォに打ち込んだ。その魔法を、すかさずルイズが撃ち落とす。
身を翻し、ルイズに無数の風の刃を放ったが、撃ち落とすまでもなく、すべて避けられた。
「見えているんじゃない、読まれているんだ……、行動が……?思考が……?」
ワルドは狼狽し、ティトォを見る。
視界の効かないはずの雲の中で、ティトォははっきりとワルドの方を向いていた。
どくん、とワルドの心臓が跳ねる。
まずい、視界を奪った意味がない……!
悔しいが、ここは一旦引いて……
ワルドが後じさると、背後からルイズが飛びかかった。炎を纏った拳を、ワルドに叩き付ける。
「げふ!」
振り向きざま顔に一撃をくらい、ワルドはよろめいた。
ルイズの拳を受けたワルドの頬から、めらめらと白い炎が燃え上がった。ルイズの纏う魔法の炎が、ワルドに燃えうつったのだ。
炎はまたたく間にワルドの全身に燃え広がる。
ワルドはルイズから飛び退りながら、いぶかしんだ。
なぜ、回復魔法をぼくの身体に燃え移らせた……?
ワルドの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。まずい!と思った時には、もはや手遅れであった。
「マテリアル・パズル分解せよ!炎に、戻れッ!」
ティトォの叫びとともに、癒しの炎はその力を失い、すべてを焼きつくす業火となった。
「ぐあああああ!」
全身から炎を吹き出し、ワルドは悶絶した。炎はあっという間にワルドの全身を焼き、ぶすぶすと煙を上げた。
ワルドは口からもわっと煙を吐くと、どう、と倒れ込んだ。衝撃で取り落とした杖がカラカラと音を立てて床を転がり、礼拝堂を覆っていた眠りの雲が、さあっと晴れていった。
炎を纏ったルイズと、ティトォ、黒こげのワルド、そしてティトォの足下に横たわるウェールズの姿が現れる。
ウェールズの身体からは、すっかり傷が消え失せ、その顔には血色が戻っていた。
ティトォは、拳で胸を軽く叩くと、宣言した。
「我が勝利、魂と共に」
今朝方早く、いきなりワルドに叩き起こされ、ニューカッスル城の敷地にある礼拝堂に連れてこられたのである。
始祖ブリミルの像が置かれている礼拝堂には、ウェールズ皇太子が待っていた。
周りに、他の人間はいない。皆、戦の準備で忙しいのだろう。
寝ぼけた目でぼんやり皇太子を見ていると、ワルドがルイズの耳に顔を寄せ、「今から結婚式をするんだ」と言った。
「え」
ルイズは思わず目をぱちくりとする。
結婚式?なにそれ。
寝起きの悪いルイズは、まだ自分が夢を見ているのかと思った。
呆然とルイズが突っ立っていると、ワルドはアルビオン王家から借り受けた新婦の冠をルイズの頭に乗せた。
魔法の力で永久に枯れぬ花があしらわれ、なんとも美しく清楚な作りであった。
甘い花の香りが、ルイズの鼻をつく。
どうやらこれは、夢ではないらしい。
いったい、何が起こってるっていうの?
ルイズは昨日の、ティトォとのやり取りを思い出す。
(わたし、ワルドにプロポーズされたの。今決めたわ。わたし、ワルドと結婚するわ。あの人、頼りがいがあるから、きっと安心ね)
あれは、ティトォへの当てつけで、つい口にした言葉だった。
ラ・ロシェールで受けたプロポーズへの返事をどうするかは、実際のところ、まだ悩んでいた。
もしかして、ワルドは昨日の話を、どこかで聞いてたのかしら。
それで、わたしがプロポーズを受けたのだと思ってるのかしら。
ええ、そんな。どど、どうしよう。
「あのね、ワルド。えと、その」
ルイズがあたふたしているうちに、ワルドはルイズの黒いマントを外し、同じく王家から借り受けた純白のマントをまとわせた。
新婦しか身につけることを許されぬ、乙女のマントであった。
「そそ、そのね。ふ、不幸な行き違いがあったと思うの……」
ルイズはしきりに手をいじりながら、ごにょごにょと呟いた。
「似合っているよ、ぼくのルイズ」
ワルドがうっとりと声をかける。
ルイズのつぶやきは、ワルドの耳にはまったく届いていなかったようだ。
ルイズは本当に困ってしまった。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
「あのねワルド」
「では、式を始める」
ルイズが口を開くのと同時に、ウェールズがおごそかに宣言した。
その言葉に、ルイズの隣に立ったワルドが、恭しく一礼した。
ダメだ。ダメだこの人たち。
人の話、全然聞いてない。
「新郎、子爵ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、妻とすることを誓いますか」
ワルドは重々しく頷いて、杖を握った左手を胸の前に置いた。
「誓います」
ウェールズはにこりと笑って頷き、今度はルイズに視線を移した。
「新婦、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール……」
朗々と、ウェールズが誓いのための詔を読み上げる。
「いえ、ですから……」
ルイズは困った顔でウェールズに進言しようとした。
これは、ワルドの早とちりなんです。ふたりの間に、ちょっとした誤解があったんです……
「……汝は始祖ブリミルの名に置いて、このものを敬い、愛し、夫とすることを誓いますか」
ルイズはハッとなって、ウェールズを見る。
ウェールズは明るい紫のマントを身に纏い、七色の羽を着けた帽子をかぶっている。アルビオン王家の礼服である。
ウェールズの後ろには、両手を前に突き出した始祖像が鎮座している。
困惑していて気付かなかったが、これは正式な結婚式だ。
略式とはいえ、始祖の前に誓う婚礼の儀である。
ルイズは気付いた。今、答えを出さなくてはいけないのだ。
決心がつかずにのらりくらりとかわしていた、ワルドのプロポーズへの返事を出すのが、今なのだ。
ルイズは俯いて、考える。
相手は、憧れていた頼もしいワルド。
幼い頃に交わした結婚の約束、それが現実のものになろうとしている。
でも、ちょっと話が急すぎない?
プロポーズを受けた(とワルドは思っている)次の日に結婚式だなんて。
そんな話、聞いたことないわ。
キュルケの奴が『殿方は強引なくらいじゃなきゃだめよ』なんてのたまってたけど、これはあんまり強引すぎじゃないかしら。
「緊張しているのかい?仕方がない。初めての時は、ことがなんであれ、緊張するものだからね」
そういってワルドはにっこりと笑った。
ウェールズが続ける。
「まあ、これは儀礼にすぎぬが、儀礼にはそれをするだけの意味がある。では繰り返そう。汝は、始祖ブリミルの名において、この者を敬い、愛し……」
式は、ルイズの与り知らぬところで続いている。
ルイズはなんだか腹が立ってきた。
ルイズの脳裏に、昨日の夜の、ティトォやウェールズたちへの怒りが甦ってくる。傲慢な男たちへの怒りであった。
ワルドだってそうだ。強引で、なにもかも勝手に決めてしまってる。
そういうの、なんかいやだわ。気に入らない。
ルイズの心は、決まりつつあった。
でも、そんなことでプロポーズを断っていいものかしら?
ワルドのことは、憧れだった。
魔法衛士隊の隊長ともなれば、結婚の相手としては理想的と言えるだろう。
それを「なんだか気に入らない」なんて言葉で、袖にできるものなのかしら?
そんなの、何の理由にもなってないわ……。
ルイズは少し悩んだが、やがてふうっと息を付いた。
ルイズの脳裏に、ゆうべティトォに投げかけた言葉が思い出された。
(プロポーズを受けるかどうか、悩んでるわ。これは理屈じゃない、気持ちの問題よ)
そうだ。これは、政略結婚でもなんでもない。
ならば結婚は、理屈でするものではない。
だったら自分の今の気持ちに、従ってみよう。理由なんて後から付いてくるわ。
「……夫とすることを、誓いますか」
ウェールズの言葉に、ルイズは小さく首を振った。
「新婦?」
「ルイズ?」
二人が怪訝な顔で、ルイズの顔を覗き込む。ルイズはワルドに向き直った。
そして、申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「ごめんなさい、ワルド。あなたとは結婚しないわ」
いきなりの展開に、ウェールズは首をかしげた。
「新婦は、この結婚を望まぬのか?」
「その通りでございます。お二方には、大変失礼をいたすことになりますが、わたくしはこの結婚を望みません」
「……緊張しているんだ、そうだろルイズ。きみがぼくとの結婚を拒むはずがない」
ワルドはルイズの手を取って、言った。
「ごめんなさい、ワルド。憧れだったのよ。もしかしたら、恋だったかもしれない。でも、今は違うの」
「あの使い魔か?あの男に恋したのか、ルイズ!」
「そんなんじゃないわ」
「ではなぜ!」
「本当にごめんなさい。でもワルド。今のあなた、なんだか気に入らないの」
ワルドの頬に、さっと朱がさした。
「ふざけるな!そんな理由があるもんか!」
ワルドは、ルイズの肩を掴んだ。その目が吊り上がる。熱っぽい口調で、ワルドは叫んだ。
「世界だルイズ!ぼくは世界を手に入れる!そのためにきみが必要なんだ!」
ルイズはワルドに怯えて、後じさった。
そりゃあ、あんな理由で結婚を拒んだのだ、ワルドはきっと怒るだろうとは思っていた。
しかし、ワルドの豹変ぶりは尋常ではない。歪んだ目の光が、爬虫類を思わせるような冷たいものに変わっている。
「ルイズ、いつか言ったことを忘れたか!きみは始祖ブリミルに劣らぬ、優秀なメイジに成長するだろう!きみは自分で気付いていないだけだ、その才能に!」
ワルドの剣幕に、ルイズは震え上がった。ルイズの知っているワルドではない。いったい何が、彼をこのような物言いをする人間に変えてしまったのだろうか?
見かねたウェールズが、間に入ってとりなそうとした。
「子爵……、きみはフラれたのだ。いさぎよく……」
「黙っておれ!」
ワルドはその手をはねのける。
ウェールズは、ワルドの言葉に驚き、立ち尽くした。
ワルドはルイズの手を握った。ルイズはまるでヘビに絡みつかれたように感じた。
「ルイズ、きみの才能がぼくには必要なんだ!」
ルイズはワルドの手を強引に振りほどき、きっとワルドを睨みつけた。
「あなたのこと、気に入らなかった理由がやっとわかったわ」
ルイズの肩は、怒りで震えている。
『なんだか気に入らない』程度だったワルドへの感情は、はっきりとした嫌悪に変わっていた。
「あなた、ちっともわたしを愛してないじゃない。あなたが愛しているのは、あなたがわたしにあるという、ありもしない魔法の才能だけ。そんな結婚、死んでもいやよ!」
ワルドはまたしてもルイズに掴みかかろうとする。しかし、その行く手にウェールズが立ちはだかった。
ウェールズは、ワルドに杖を突きつけている。
「見苦しいぞ、子爵!今すぐにラ・ヴァリエール嬢から離れたまえ!」
ワルドはやっと身を引くと、どこまでも優しい笑顔を浮かべた。
しかしその笑みは、嘘に塗り固められていた。
「こうまでぼくが言ってもだめかい?ルイズ。ぼくのルイズ」
「いやよ、誰があなたと結婚なんかするもんですか」
ワルドは天を仰いだ。
「この旅で、きみの気を惹くために、ずいぶん努力したんだが……」
両手を広げて、ワルドは首を振った。
「こうなってはしかたない。ならば目的の一つは諦めよう」
「目的?」
ルイズは首をかしげた。どういうつもりだと思った。
ワルドは唇の端を吊り上げると、禍々しい笑みが浮かべた。
ワルドは右手を掲げると、人差し指を立てて見せた。
「そうだ。この旅におけるぼくの目的は、三つあった。ひとつはきみだ、ルイズ。きみを手に入れること。しかし、これは果たせないようだ」
「当たり前じゃないの!」
次にワルドは、中指を立てた。
「二つ目の目的は、ルイズ、きみのポケットに入っている、アンリエッタの手紙だ」
ルイズははっとした。心の中で、いやな想像がふくれあがる。
「ワルド、あなたまさか、貴族派に……」
「そして三つ目」
ワルドの『アンリエッタの手紙』という言葉で、ウェールズはすべてを察した。
「貴様、『レコン・キスタ』!」
ウェールズは杖を構え、呪文を詠唱した。
しかし、ワルドは二つ名の閃光のごとく杖を引き抜き、呪文の詠唱を完成させた。
ウェールズの呪文が発動しようという瞬間、ワルドの杖がウェールズの杖を薙ぎ払った。
ウェールズの水晶の杖は真っ二つに切り裂かれ、宙を舞う。
「三つ目は、貴様の命だ。ウェールズ」
ワルドは小さく呟き、ウェールズの胸を狙って杖を突き出した。
ルイズは立ちすくみ、その光景をまるでスローモーションの映像を見るかのように、見守っていた。
杖を中心に、青白く光る鋭い空気の渦が発生している。杖を刃と化す『風』の魔法、『エア・ニードル』だ。
ワルドの杖の切っ先が、今まさにウェールズの心臓を貫かんとしたとき……、
突然、がくんと身体を揺らし、ワルドの動きが止まった。
「なに!」
ワルドが困惑して、叫んだ。
ぐん、と見えない力で引っ張られて、ワルドの身体はウェールズから引き離される。
ワルドはそのまま、宙に浮いた格好で動きを封じられた。
「身体が、動かん……!貴様、何をした!」
ワルドが叫ぶ。
しかし、ルイズもウェールズもわけが分からず、困惑した目でワルドの姿を見ていた。
ふとワルドが、杖を握った、動かない右腕に目をやると、手の甲を何かが這い回っていた。
それは小さな蜘蛛であった。
よく見ると、ワルドの腕に、脚に、身体に、細い糸が絡み付いている。
ばかな。こんな細い糸が、身体の動きを封じているというのか?
「マテリアル・パズル」
礼拝堂の入り口から響いてきた声に、ウェールズと、ルイズ、そしてワルドは振り返った。
「魔法の炎で蜘蛛をパワーアップさせ、操った。そしてパワーアップした糸を出してもらった」
そこにいたのは、ハルケギニアでは珍しい、黒い髪と黒い目を持った少年。
『イーグル』号でアルビオンを脱出しているはずの、ティトォであった。
「ティトォ!」
ルイズが目に涙をいっぱいためて、叫んだ。
「貴様……」
ワルドが苦々しげに呟く。
「なぜにぼくの裏切りがわかった?ミョズニトニルン。きみに疑われるような真似は、しなかったつもりなんだがね」
「確かに、お前の行動におかしなところはなかった。ぼくは疑いもせず、『イーグル』号に乗り込むところだった」
ワルドは怪訝な顔になる。
「ならばなぜ?」
「勘さ」
「勘?勘だと!」
ワルドは驚いて、叫んだ。『勘』、それはこの少年に、もっとも似つかわしくない言葉に思えた。
ティトォはなにごとも細かく観察し、論理的に分析する人間だ。
『勘』などという曖昧なものにそって、行動するとは思えない。
「ぼくだけだったら、まんまと騙されてた。でもぼくの中のプリセラの魂が囁いたんだ。「ワルドはなんだか気に入らない」ってね」
女の勘ってやつかな、とティトォは呟いた。
そしてティトォは、火のような怒りを含んだ目で、ワルドを睨みつけた。
「よくもルイズを裏切ったな」
ルイズには、ティトォの黒い瞳の色が、一瞬青く色を変えたように見えた。
これはティトォだけの怒りではない。不死の身体に眠るアクアの、プリセラの怒りだ。
そして、結婚式でルイズを裏切ったワルドに、一番腹を立てているのはプリセラなのだ。
プリセラの魂が震え、ティトォの怒りを大きくしていた。
ワルドはティトォの言葉の意味がわからず、首をひねっていた。
しかしやがて残忍な笑みを浮かべて、言った。
「いやはや……、さすがは伝説の使い魔と言ったところか。きみには驚かされてばかりだよ」
妙に余裕を感じる口調である。
ティトォはいぶかしんだ。
「ルイズ、ウェールズ皇太子を連れて逃げるんだ」
ティトォの言葉に、ルイズははっとして、ウェールズに駆け寄った。
「ウェールズ様、こちらに……!」
「あ、ああ」
ウェールズは困惑していたが、その言葉に従い、ルイズの手を取った。
しかし……
どこに潜んでいたのか。突然、ウェールズの背後に長身の貴族が現れた。
その貴族は風のように身をひるがえらせ、青白く光る杖で、背後からウェールズの胸を貫いた。
ウェールズの口から、どっと鮮血が溢れ出る。ティトォの目が驚愕に見開かれる。ルイズは悲鳴を上げた。
ウェールズの身体が、どう、と床に崩れ落ちる。
杖を鮮血に染めた長身の貴族は、悠然とそこに立っていた。白い仮面が顔を隠している。
ルイズは腰を抜かしてへたり込んだ。
この貴族は、ワルドのグリフォンに乗っていた……!
仮面の貴族は、ふわっと身を翻らせると、ワルドの身体にからみつく蜘蛛の糸を杖で切り裂いた。
身体の自由を取り戻したワルドが、すたっと地面に降り立つ。
「ルイズ!」
ティトォがルイズとウェールズの元に駆け寄る。
右手に握ったライターから、大きな火柱が燃え上がっている。
「ホワイトホワイトフレア、この者の傷を癒せ!」
ティトォはウェールズの身体に、魔法の炎を叩き込んだ。ウェールズの全身に、炎が燃え広がる。
「無駄だよ、心臓を貫いたのだ。ウェールズは即死さ」
せせら笑うワルドと、その隣に立つ仮面の男を、ティトォは睨みつけた。
そして、奇妙なことに気が付く。
身長、呼吸の間隔、骨格、全身のバランス。この二人は『すべてが同じ』なのだ。
「風の遍在〈ユビキタス〉……」
「おや、さすがだね、一目で見抜くとは。やはり『遍在』を隠しておいて正解だったよ」
仮面の貴族は、すっと顔に手を伸ばすとその真っ白の仮面を外した。
ルイズははっと息を呑んだ。その仮面の下から現れたのは、ワルドの顔だった。
二人のワルドが、こちらを見て笑っている。
「風のユビキタス。風は遍在する。風の吹くところ、何処となくさまよい現れ、その距離は意志の力に比例する」
「ラ・ロシェールで襲ってきた傭兵の手引きをしたのも……」
「その通り、ぼくだ。遍在は、それ自体が意志と力を持っているからね。離れたところでいろいろと動かせてもらった」
ワルドが得意げに語る中、跪くティトォの背後、ウェールズの身体がぴくりと動いた。かは、とウェールズの喉から空気が漏れる。
それを見て、ワルドの眉が吊り上がる。
「傷を塞ぎ、蘇生したというのか。どうやらきみの魔法を甘く見ていたようだな……」
ワルドの遍在が、薄笑いを浮かべて杖を構えた。
「だが、貴様はウェールズの治療で動けまい!二人まとめて、地獄に送って差し上げよう!」
ワルドを睨みつけるティトォの額に、冷や汗が浮かぶ。
ワルドの言う通り、ウェールズは危険な状態だ。完全に治療が終わるまでは、動かせない。
そのとき、杖を構える遍在の足下が爆発した。ぼごんっ!と激しい音が響く。
ワルドとティトォが振り向いた。杖を構えたルイズが、ワルドと遍在を睨みつけている。
ワルドが素早く杖を振るう。ルイズは風の障壁に横殴りに打たれ、紙切れのようにふっとんだ。
ルイズの身体は、ティトォとウェールズの近くまで転がって、ようやく止まった。
「ルイズ!」
「あぐ……」
全身の痛みにルイズが顔をしかめる。
「ルイズ。愚かなルイズ。きみは変わってしまったな。昔はぼくの言うことはなんでも聞き入れたのに」
「ふざけないで、変わったのはあなたよ……!トリステインの貴族であるあなたが、どうして!」
「我々はハルケギニアの将来を憂い、国境を越えて繋がった貴族の連盟さ。我々に国境はない。ハルケギニアは我々の手によって一つになり、始祖ブリミルの降臨せし『聖地』を取り戻すのだ」
ルイズが呪文を唱え、杖を振るう。しかし呪文はワルドにかすりもせず、ワルドの背後の壁を爆発させた。
ワルドが杖を振るう。風の刃が、ルイズの肌を薄く切り裂いた。
「うあ……!」
「共に世界を手に入れようと言ったのに、聞き分けのない子だ」
ティトォの手が、ルイズの肩に伸びた。ルイズの全身を炎がまとい、傷が消えていく。
二人のワルドは冷たい瞳で、ルイズを見下ろす。
「言うことを聞かぬ小鳥は、首を捻るしかないだろう?なあ、ルイズ」
遍在が呪文を唱えると、杖が青白く輝きだした。先ほどウェールズの胸を貫いた、『エア・ニードル』の呪文だ。
(結構なダメージでも、その炎が回復させてしまうからな……。このまま、一撃で確実に首を落とす)
遍在が杖を振りかぶる。
ルイズは恐怖に目をつむりそうになったが、気丈に遍在を睨みつけた。
怖い、逃げ出したい。でも。
負けるもんか。
薄汚い裏切り者なんかに、負けるもんか!
「ウル・カーノ……!」
ルイズが呪文を唱える。それより早く、遍在は杖を振るった。
しかし。
ぼごんっ!と激しい音が響き、爆発とともに遍在は吹っ飛んだ。遍在は、ワルドの背後の壁にぶち当たり、消滅した。
「何!」
ワルドがうろたえる。ルイズの詠唱より、確実に遍在の動きの方が速かったはずだ。
しかし実際には、先に発動したのはルイズの呪文だった。
「え……?」
ルイズも、あっけにとられた顔で自分の杖の先を見つめた。
信じられないくらい、身体が速く動いた。それだけじゃない。あの距離で魔法を外すことはないとは思っていたが……、なんだか『狙ったところに魔法が当たった』ような感覚があったのだ。
ワルドが杖を構え、呪文を唱える。
「ラナ・デル……」
「ウル・カーノ!」
ルイズが杖を振るのと同時に、ワルドは呪文の詠唱をやめ、飛び退った。ワルドの立っていた空間が爆発し、礼拝堂の床板を巻き上げた。
「なんだと!」
ルイズは確信した。
当たる。
今の自分は、狙った場所を爆発させることができる。
しかも爆発の威力も、いつもの失敗魔法より、数段上がっている。
「この力は、いったい……」
「……マテリアル・パズル。魔法の炎を、ドレス化して身に纏わせた」
ルイズの背後で、ウェールズを治療しているティトォが言った。
「魔法の炎は、生き物の潜在能力を引き出してくれる。蜘蛛をパワーアップさせたように、ルイズの身体能力・魔力・そして魔法のコントロール力を強化した!」
ティトォの叫びに呼応するかのように、ルイズの身体を纏う炎が、いっそう強く燃え上がった。
「……ルイズ」
ティトォが、苦しそうな声で言う。
「ぼくは、ウェールズ皇太子の治療で動けない。それに、残念ながらぼくは、あいつと戦えるだけの攻撃力は持っていない。……女の子に戦わせるようなことをして、申し訳ないと思う。情けないと思う。
そのかわり、ぼくの魔力は、できるだけきみに送る。ダメージも一瞬で回復させる。きみはぼくが命をかけて守る!だから、きみの力を貸してくれ!」
「……当然だわ!ワルドはハルケギニアを戦渦に巻き込もうとする『レコン・キスタ』の一員よ。それに、ウェールズ様やわたしをなんとも思わず殺そうとした。命をなんとも思わないゲスな男!」
ルイズは視線をワルドから外さずに、頷いた。
「トリステイン貴族として!あなたはここで倒す!」
「は!勇ましいことだ、小さなルイズ」
ワルドが笑う。
「もう、小さくないわ!」
ルイズが杖を振るうと、ドンドンドンと続けざまに爆発が巻き起こった。
ワルドは素早い動きで爆発を交わしながら、早口に呪文を唱える。
「ラグース・ウォータル・イス・イーサ・ウィンデ!」
『風』の二乗と、『水』ひとつのトライアングルスペル、『ウィンディ・アイシクル』。
空気中の水蒸気を凍らせた無数の氷の矢が出現し、ルイズに殺到する。
「ウル・カーノ・ジエーラ!」
ルイズが素早く杖を振るう。立て続けに爆発が起こり、氷の矢はすべて撃ち落とされた。
「やるね。しかしこの魔法は撃ち落とせないぞ!」
ワルドはすでに、次の呪文を完成させていた。ワルドの周りの空気が、バチバチと帯電している。
「『ライトニング・クラウド』!」
ルイズが魔法の正体に気付いた瞬間、ばちん!と空気がはじけた。ワルドの周辺から稲妻が伸び、ルイズに襲いかかる。
「きゃあああああ!」
身体にしたたかに通電し、ルイズは悲鳴を上げた。『ライトニング・クラウド』は、まともに受ければ命を奪うほどの危険な呪文である。電撃はルイズの胸を直撃し、そのショックで心臓が止まる……
「ホワイトホワイトフレア!」
ティトォの叫びとともに、ルイズの纏う炎が勢いを増す。心臓はふたたび動き出し、電撃によって負った火傷もすべて消え去った。
「……っは、はあっ!」
ルイズは荒い息を付いた。身体にダメージがまったく無いことを確認すると、ふたたびワルドに向け杖を構える。
ワルドは小さく舌打ちをする。
やっかいだな。
ルイズの力は大幅に強化されている。しかし、ルイズは魔法発動のための媒体にすぎない。今、実質的にぼくが戦っているのは……
ワルドはルイズの背後、倒れ伏すウェールズの側に跪くティトォを見る。ティトォは、こめかみを指でトントンと叩きながら、ワルドのことをじっと見つめている。
……実質的にぼくが戦っているのは、あの後ろにいる少年というわけか。ならば。
ワルドは口の端を吊り上げ、呪文を唱える。
「ラナ・デル・ウィンデ……」
空気の槌、『エア・ハンマー』が、礼拝堂の天井を砕いた。崩れた天井が、ティトォとウェールズに降り注ぐ。
「ティトォ!」
ルイズは素早く呪文を唱え、天井の破片を爆発で砕いた。
しかし、砕ききれなかった破片がティトォの頭にぶつかる。ごつ、と鈍い音が響き、額からつうっと血が一筋流れる。
ルイズがティトォたちに気をとられた瞬間、ワルドがルイズに襲いかかった。
「余所見をしたね。迂闊な!」
至近距離で『ウィンド・ブレイク』の魔法をくらい、ルイズは吹っ飛んだ。ごろごろと、ティトォの近くに転がる。
「ぐ……」
うめきながら身を起こすと、またも身体のダメージが消えていくのがわかった。
「このくらい、かすり傷よ。わたしのことより、あんたは皇太子の治療に専念して」
ルイズが、隣にいるティトォに言った。
「……でも、どうしよう。どうやって戦えばいいの?いくら魔力を強化したって言っても、相手は魔法衛士隊のスクウェアよ。戦いのセンスとか、勘とか、そういうのではわたしぜんぜん敵わないわ」
「わかってる。でも、もう少しだけ、ワルドを足止めしてくれ」
ワルドから視線を外さず、ティトォは言った。こめかみを指で叩き続けていて、額に流れる血を拭おうともしない。
「あと少し……、あと少しでわかるんだ」
「?……わかったわ」
よく分からないけど、ティトォはなにか考えがあるようだった。
ワルドが杖を振りかぶると同時に、ルイズも魔法を発動させた。
ワルドの真上の天井が爆発し、破片が降り注ぐ。さっきのお返しだ。
ワルドがばらばらと落ちる破片をかわした先に、爆発を起こす。巻き込まれるワルドを見て、ルイズはやった!と思ったが、ワルドは無傷だった。風の障壁で爆発をいなしたようだ。
すぐさまワルドが、『エア・カッター』をルイズに撃ってきた。ルイズは素早く魔法をぶつけ、『エア・カッター』を相殺する。
ワルドが忌々しげに呟いた。
「やはり、あの使い魔を先に仕留める必要があるか……」
あの少年を倒せば、魔法はじきに解ける。ルイズとウェールズの回復もできなくなる。
しかし、魔法の攻撃はルイズに撃ち落とされてしまう……
ならば……
「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ……」
ぶわっ、とワルドのまわりから、白い煙が巻き起こった。いや、これは煙ではなく、雲だ。雲はみるみる礼拝堂に広がり、ルイズたちに襲いかかる。
「わぷ!」
綿菓子のように濃密な雲にまとわりつかれ、ルイズは思わず声を上げた。
いけない、この呪文は『スリープ・クラウド』!眠りの呪文だわ!
あわてて口を塞いだが、魔法の炎を身に纏っているためだろうか、眠気には襲われなかった。
しかし、眠りの魔法にはかからなかったものの、濃密な雲がルイズの視界を奪っている。
ルイズははっとなった。
まずい、ワルドの姿が見えない!
「ティトォ!ティトォ、狙われるわ!逃げて!」
ルイズの叫びを聞きながら、ワルドはせせら笑った。
無駄だよ。治療の終わっていない皇太子は動かせない。それに、君たちからはぼくの姿は見えないが、ぼくにはちゃんと見えている。『風』の流れを読むのは、ぼくの得意とするところなのだ。
しかし、あの使い魔の少年は得体が知れないからな。念には念を入れて……
「ユビキタス・デル・ウィンデ……」
呪文を完成させると、ワルドの身体がいきなり分身した。風の遍在。しかも、その数は先ほどのように一つではない。
二つ……、三つ……、四つ……、本体とあわせて五体のワルドが現れ、ティトォににじり寄った。
ルイズは真っ白な雲の中、なんとかワルドの姿をとらえようときょろきょろしている。
ティトォは相変わらず、ウェールズに魔力を送りながら、こめかみを指でトントンと叩いている。
ワルドはにやりと笑い、小声で呪文を呟く。すると、杖が青白く光りだした。『エア・ニードル』だ。
「さよならだ、『ミョズニトニルン』」
ワルドは静かにティトォの背後に忍び寄り、杖を振りかぶった。
トン、とティトォが、指でこめかみを叩くのをやめた。
「……よし」
口の端を吊り上げて、ニッと笑顔を作る。
「できた!」
ワルドが杖を振り下ろした。首を正確に狙った、必殺の一撃だ。
しかしティトォはふっと身をかがめ、その一撃は空を切った。
「なに?」
ワルドが驚きの声を上げる。
「かわした?ばかな、見えているのか。いや……」
ティトォは変わらず前を見据えていて、その視線の先には、五人のワルドの誰もいない。
おまけに、ティトォのすぐ横に立っている、別の『遍在』にも、まったく気付いてないように見えた。
「……空気の流れを感じるとか、気配を察知するだとか、こいつにそんな能力はないはず。かわしたのは、偶然だ」
ワルドはふたたび杖を掲げ、ティトォを狙う。
「来る」
ティトォは呟くと、くいっと右手を動かした。
次の瞬間、ティトォの背後、杖を振りかぶった遍在が爆発した。遍在は吹き飛び、消滅した。
「なんだと!」
残った四人のワルドは驚き、飛び退る。
今のは、ルイズの爆発魔法だ。しかしなぜ、この雲の中『遍在』の位置がわかったんだ?
何が起こっているというのか。まったく説明がつかない。
一方、遍在に向けて魔法を放ったルイズも困惑していた。なにせ、自分の意志でなしに勝手に身体が動き、呪文を唱えたのだ。
(ルイズ、聞こえる?ルイズ)
ルイズの頭の中で、声が響いた。
「ティトォ……、ティトォなの?」
それは果たして、ティトォの声だった。魔法の炎を通じて、ルイズの頭に直接言葉を伝えているのだ。
(目をつむって、ルイズ)
「は?」
(どうせ視界は閉ざされてるんだ。ぼくが炎を操ってきみを導くから、きみは炎の流れにそって動いてくれ)
「目をつむるって……、ええ、わかったわ」
ティトォの声には自信が宿っていた。その言葉を信じ、ルイズは固く目を閉じる。
ワルドは困惑していた。
「偶然の偶然だ……、でなければ説明がつかない」
そう呟くと、今度は2体の遍在を、一度にルイズに襲いかからせた。
「右方向から一人、杖に風の刃を形成しつつ突撃……、さらに背後でもう一人が左方向に6歩分移動、呪文を唱える」
ティトォはなにごとかぶつぶつと呟くと、炎を操りルイズの身体を動かした。
ルイズは杖を振るう遍在の一撃をかわし、背後で呪文を唱えるもう一体の遍在に爆発を叩き込み、消滅させた。
「ワルド、お前の戦闘行動は……」
ティトォが呟いた。
「すべて把握した」
ルイズはそのままぎゅるっと身をひねり、突っ込んできた遍在の鼻っ柱に、強烈なパンチを叩き込む。
魔法の炎で強化されたルイズの拳は、いともたやすく遍在の鼻を叩き折った。
遍在が痛みによろめくと、すぐさま魔法を叩き込む。至近距離の爆発を食らい、遍在は消滅した。
「ばかな……!」
ワルドが驚愕の声を上げる。
さらにルイズはこちらを振り向きもせず、魔法を放った。
ワルドの横に立っていた最後の遍在が爆発で吹き飛ばされる。
「ばかな!」
「子爵、あなたはぼくに、手の内を見せすぎた」
ティトォが誰にともなく呟く。
「この旅で、そしてこの戦いで、あなたが発した言葉の一言一句。あなたが見せた表情。あなたの動き。『すべて記憶している』」
記憶。
記録。
展開。
判断。
発想。
発祥。
計算。
創造。
「心の底からの、本気の言葉!本気の表情は!それはお前の真実のピース!断片を知ることで、お前のすべてを『透し見る』!これが、魔法と同じく100年の間に培われたぼくの能力、『仙里算総眼図』!」
ワルドは焦り、魔法をティトォに打ち込んだ。その魔法を、すかさずルイズが撃ち落とす。
身を翻し、ルイズに無数の風の刃を放ったが、撃ち落とすまでもなく、すべて避けられた。
「見えているんじゃない、読まれているんだ……、行動が……?思考が……?」
ワルドは狼狽し、ティトォを見る。
視界の効かないはずの雲の中で、ティトォははっきりとワルドの方を向いていた。
どくん、とワルドの心臓が跳ねる。
まずい、視界を奪った意味がない……!
悔しいが、ここは一旦引いて……
ワルドが後じさると、背後からルイズが飛びかかった。炎を纏った拳を、ワルドに叩き付ける。
「げふ!」
振り向きざま顔に一撃をくらい、ワルドはよろめいた。
ルイズの拳を受けたワルドの頬から、めらめらと白い炎が燃え上がった。ルイズの纏う魔法の炎が、ワルドに燃えうつったのだ。
炎はまたたく間にワルドの全身に燃え広がる。
ワルドはルイズから飛び退りながら、いぶかしんだ。
なぜ、回復魔法をぼくの身体に燃え移らせた……?
ワルドの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。まずい!と思った時には、もはや手遅れであった。
「マテリアル・パズル分解せよ!炎に、戻れッ!」
ティトォの叫びとともに、癒しの炎はその力を失い、すべてを焼きつくす業火となった。
「ぐあああああ!」
全身から炎を吹き出し、ワルドは悶絶した。炎はあっという間にワルドの全身を焼き、ぶすぶすと煙を上げた。
ワルドは口からもわっと煙を吐くと、どう、と倒れ込んだ。衝撃で取り落とした杖がカラカラと音を立てて床を転がり、礼拝堂を覆っていた眠りの雲が、さあっと晴れていった。
炎を纏ったルイズと、ティトォ、黒こげのワルド、そしてティトォの足下に横たわるウェールズの姿が現れる。
ウェールズの身体からは、すっかり傷が消え失せ、その顔には血色が戻っていた。
ティトォは、拳で胸を軽く叩くと、宣言した。
「我が勝利、魂と共に」