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ゼロの魔王伝-17


ゼロの魔王伝――17

 今も残響が鼓膜を揺るがす中、ルイズはへなへなと萎れた様にぺたんと腰を落とした。すがる様にして『破壊の槍』いや『神の槍』を両手で握り締めている。
 自分の体の奥に眠る何かが導かれる様にして神の槍へと流れ込み、熱い迸りとなって穂先から溢れ出てゴーレムを粉砕した代償であった。そのルイズの傍らにばっさばっさと、音をたてながらシルフィードが降り立つ。
 同時に驚きの顔を浮かべているキュルケとタバサが、駆け足でルイズに駆け寄った。Dならなんとなくわかるが、よもやルイズがゴーレムを倒したとは信じられず、驚いたやらなんやらで目を丸くしていた。

「ちょっと、ちょっと、ルイズ貴女何したの!? あれだけ大きなゴーレムが一瞬で粉々になっちゃったじゃない!」
「あ、あはは、私もやるもんでしょ?」

 タバサが隠しきれぬ好奇心を瞳に輝かせて、ルイズの手の中に在る槍について尋ねた。ディティクトマジックを使わなくとも肌をぴりぴりと刺されるような圧倒的な気配がこちらにも伝わってくるのだ・

「それが破壊の槍?」
「あ、うん。Dが見つけて来たの。自分じゃ使えないから、私に使えって。そしたらなんだかすごい力が体と槍から溢れて来て、気づいたらコレよ」
「あら、じゃあ、ルイズの力じゃなくて破壊の槍の力のお蔭なの? 褒め損ねぇ」
「なによ、褒めて損はないわよ」
「はいはい。ていうか、なんだか前見た破壊の槍と形が変わっていない?
「え、あ、あれ?」

 Dに手渡される直前に見た破壊の槍とは、確かに穂先の形状が違う。なんというか、良くも悪くも普通の槍の外見だったのに、今では悪鬼羅刹の様な文様が浮かび上がり、鋭く左右に弧を描く刃が伸びている。
 いかにも破壊の槍と呼ばれるに相応しい姿で、目に見えぬ途方もない力が陽炎のように立ち上っているような気さえするではないか。
 ただ在るだけでその場の空気を固く戒めるような、荘厳ささえ伴っている。ルイズの力と呼応する事によって、それに相応しい姿へと変わったのだ。
 メイジの力量を量るには使い魔を見よというが、この槍の姿の異様さと力強さもまた、ルイズの潜在的な力の強さを物語っている。
 きょろきょろとルイズの周りを見回したキュルケが、ふと気づいた様にルイズにこう聞いた。

「ところで、ミスタは?」
「え?」

 キュルケの疑問どおりにルイズは、自分の背後で手を添えてくれていた頼りになることこの上ない使い魔を振り返り、そこに誰もいない事に気づいた。
 Dはゴーレムを倒すのと同時に、姿を消していたのだ。
 そのDの姿は、森の中にあった。肥沃な大地と滴り落ちるがごとき陽光を浴びて豊かに育った木々の合間を歩んでいる。まるで木々の方がDを避けているのではと錯覚を覚えてしまうほど、堂々たる姿であった。
 木の葉を踏みしめても、枯れ木を踏み折っても、音一つ立たないのは如何なる歩法を納めているのか、怪盗フーケでも教えを請うかもしれない。
 Dが、足を止めた。目の前には、凝然と身を竦めたミス・ロングビルの姿があった。ゴーレムが姿を現しルイズ達に襲いかかるのと同時に、姿をくらまして何処に居たものか、Dを前にしてその顔色は血の気を失っていた。
 感じ取ってしまったのだ。Dの美貌への恍惚さえ吹き飛ばされる鬼気を。青白い燐光の如くその美影身より吹き出す、異形の気を。
 言葉を離す事を忘れたようにロングビルは青白く変わった唇を動かせず、あ、あ、と意味の無い呻き声を上げている。首に当てられた断頭台の刃の冷たさを、骨の髄まで味わってしまった死刑囚の心境であろうか。

「フーケはお前だな」

 疑いをわずかも含まぬ断定の言葉に、ロングビルは唇を痙攣させた。ぎゅっと、心臓が縮まる確かな感触をロングビルは味わった。一生耳にしないで済めばよかったと心底から思わされる声であった。

「なぜ、そう、お思いになられるのです」

 これほど冷たい自分の声を聞く事になるとは、ロングビルはこの男の同道を許した自分の選択を心から後悔した。この男は、自分の運命を暗く冷たいものに変える死神だ。
 そんなロングビルの様子を、Dの左手の老人は実に楽しそうな声で笑った。ようやく自分達らしい状況になってきたと、真実楽しんでいるのだ。

「一つは宝物庫と廃屋の中に残っていた足跡がお前さんと同じだという事。二つはま、勘じゃ。こいつの勘は時に反陽子コンピュータの計算を上回る精度でな。
 特にこれが決定的じゃったが、三つ目は血の匂いがするのじゃよ。こやつが馬の手綱を握ったのは僥倖だと思ったじゃろう? お前さんの右腕では手綱を操れまいからの。裾を捲ってわしらに見せてみい」
「……」

 Dの気迫に骨の髄まで緊縛されて抗う気力を失ったのか、ロングビルは左手の指示通りに、裾を捲り、巻かれた包帯を見せた。
 昨夜、ゴーレムで宝物庫を襲撃した際に、ルイズ達の目に止まらず放たれた白木の針の肉に埋まった部分が、今もそこに突き刺さっているのだ。
 そこから漏れ出るわずかな血の匂いを、Dと左手の老人はかぎ取っていたらしかった。むしろDの素性を考えるのならば、血の匂いをかぎ取る事はいとも容易い事であったろう。
 観念したのか、ロングビルはそれまでの穏やかで理知的な雰囲気をかなぐり捨て、平民の様な伝法な口調に変わった。

「なんなんだいこれは? どれだけ力を込めて引っ張っても引き抜けやしないし、痛みばかりはあるのに血は滲むくらい。仕方無いから私の体から出ている部分だけへし折るしかなかったよ」
「ふむ、そちらが地か? いや、それでもどことなく気品が漂っているあたり、生まれはなかなか上品らしいの。花よ蝶よと育てられた令嬢が今や怪盗に落ちぶれたか。どうやら苦労した様じゃ。同情してやるぞい」
「はん! あんたこそ見た事が無いくらい良い男だけど、その声は碌でもないね。碌な人生送っていないんだろう。それで、どうする気だい? わたしをとっ捕まえて官憲にでも突き出すのかい?」
「そうじゃのう、金も出るじゃろうなあ。お前さん、ずいぶん派手にやった様じゃし、裁判になってもまず縛り首、市中引き回しの刑、断頭台の赤い露、辺りが妥当か。それを免れても一生監獄暮らしか、孤島にでも幽閉されるじゃろ。
 いやいや、その前に恨み骨髄の貴族共が暗殺者の一人二人も放ってお前さんの首を掻き切ろうとするのも自明の理。
 いやいやいや、お前さんほどの美貌じゃ女の尊厳をさんざか踏みにじられて人形扱いされてもおかしくないの。良かったのう、未来の選択肢はずいぶんあるぞい。暗いだけなのが玉に瑕じゃが」
「そうかい、そいつはありがとう!!」

 右腕の裾を捲る動作に隠して握った杖の先をDに向ける。左手が厭味ったらしくネチネチと言葉で嬲る様に喋っている間に、口中で唱え終えていた魔法を発動させ――視界の中に縦一文字の銀光が走った。

「あー、相棒、お久しぶり。あのね、もうちょっとおれっちの事をさ、大事に扱ってくんね? おれ、自力で鞘から出られないからさ」
「っ!?」

 昨夜のゴーレム戦以来ようやく鞘から抜かれたデルフリンガーの愚痴を聞く筈もないDは、目の前で右手首を抑えて蹲るロングビルへと歩み寄る。膝をついたロングビルの目の前には、デルフリンガーの抜剣と同時に斬りおとされた右手首があった。
 骨ごめに断たれたロングビルの右手首は、そこを過ぎ去った斬撃がどれほどの鋭さを持っていたものか、血の一滴も滲んではいなかった。
 言葉を失って膝を突くロングビルの顎にデルフリンガーの切っ先を突き付けて、俯いていたロングビルの顔を上げさせる。
 Dの鬼気を浴びて蒼白と変わっていたロングビル、いやフーケの顔は、右手首を斬りおとされたという事実を前にしてさらに血の気を引き、今や脂汗をびっしりと浮かべて、白蝋を精巧に削って彫琢された彫像のような色になっていた。
 自分の顎に当てられた刃の冷たさよりも、フーケは自分を見下ろすDの瞳の冷たさに血が凍る思いであった。今、自分の心臓は血ではなく、氷水を全身に流しているに違いない。
 相手を人間と、いや、生き物とさえ見ていない。
 その辺の石ころを見る人間の目つきを、万倍も冷たく、暗くした様な視線。
 魂までも斬り捨てられるような、生命以上の何かを失うと、心から知ってしまう瞳。
 そこに決して人間が出会ってはならぬ、人間外の存在の心が如実に表れている。

「さて、どうするかのう。とりあえずとっ捕まえるのが筋じゃろうが。わしとお前にとっても色々と使い道があるしのう」
「つ、使い道って、いったい、なにさ?」
「そうじゃのう……。ルイズお嬢ちゃんらと違ってこっちの世界の裏側も知っておるじゃろうし、色々と小間使いになってもらうもよし」
「……」

 右手首を落とされ、目の前の魔青年に命を握られた状況とあっては、命が助かるだけでも儲けものだろう。フーケは、Dの使い走りになる事で命が助かるなら迷わず従うつもりだった。
 だが、次の左手の老人の言葉がそれさえも許さぬ事を無慈悲に伝えた。

「こやつの食事になってもらうもよし、じゃ。やはり人工物よりも生の人間の血の方が身になるのでなあ」
「……え?」

 唐突にフーケの視線が高くなった。青い空ばかりが視界を埋め尽くし、首に圧倒的な圧搾が加えられている。Dの左手がフーケの胸元を掴み上げ、親指で顎を押して顔の向きを固定させているのだ。
 フーケは、左手の告げた生の人間の血という言葉に、がちがちと歯を打ち鳴らした。人間の血が、身になる? 人間の血を糧とする者。
 それは、ああ、それは!?

「吸、血、鬼……」
「ま、そんな所じゃ。男の血は熱く、女の血は甘いとわしらの知る貴族共は口を揃えて言う。お前さんの血はさて、どんな甘みがある事やら」
「……ゃ、い、やぁ……いやぁ!!」

 デルフリンガーを握りしめた右手の人差し指を伸ばし、Dはフーケの首筋を露わにした。怪盗という命がけの荒事に携わっていたにも拘らず、その肌は雪肌と呼べるほどに白く美しい。
 その肌の下に滔々と流れる血潮は、この上ない美味となってDの喉を潤すだろう。
 見たくない。見てはいけない。見れば、きっと、いや、魂が狂いかねぬほどに後悔するだろう。だが、ああ、しかし、それが己の運命を決めるのだとすれば、見ずにはいられまい。
 それ――自分の喉に欲情し、飢えを露わにした血を吸う鬼の顔を。

「ああ、あああぁぁあああああああああああああ」

 フーケの口から連続する『あ』。
 それは絶望の『あ』、それは恐怖の『あ』、それは後悔の『あ』、それは戦慄の『あ』、それは、それは、それは魂の挙げる悲鳴であった。
 白蝋と等しい色になっていたフーケの顔は、魂の凌辱への恐怖でより一層白くなる。そのまま透き通って消えてしまいそうなほどに。
 Dの瞳は変わらず冷たい黒を湛えたままであった。だが、しかし、その血が凝縮されたように赤い唇を割って伸びる二本の牙を、フーケは見た。どこまでも白く、どこまでも鋭く伸びた血を吸うための牙を。
 眠り姫となった美女の褥に忍び入り、その首筋に突き立てて溢れる血潮を吸う為の牙。人間の生命を呪われた死者のモノへと変える牙であった。

「やめろ、相棒!!」

 自らの新たな使い手の正体を、忌むべき魔性のモノの本性を知ったデルフリンガーが、普段のお茶らけた様子を取り払い、真剣そのものの声で制止した。
 自分の主が行わんとする悪行を止められぬ事が、この上なく悔しいのであろう。吐けるものならば、血を吐かんばかりのデルフリンガーの制止の声は、しかしDの動きを寸分たりとも止める事は出来なかった。
 フーケの体から力が抜けた。度を超えた恐怖に、魂が何かを感じる事を拒絶し、無感情に変わったのだ。これ以上恐怖する事も絶望する事も耐えられぬと、心が最後の一片を守る為に諦めたのだ。
 表情を変えぬ人形のように変わり果てたフーケの首筋に、静かに、ぷつりという音さえもなくDの牙が突き立てられた。
 自分の首筋に感じられる二つの痛覚と、そこから流れ出る熱いものと、心の臓から奪われてゆくぬくもりを感じ、フーケの瞳から清らかな滴が流れ落ちた。フーケの唇がかすかに動いた。
 こう、動いた。

「テファ、ごめんね……」

 Dは、ごくりと喉を鳴らしてフーケの血潮を飲んだ。
 Dよ、呪われた死者、吸血鬼の血を引く者よ。
 フーケの血は美味いか? 熱いか? 甘いか? 
 お前の中の呪われた死者の冷たい血を温め、人のぬくもりを感じ取っているのか。血を吸う悪鬼の子よ、やはりお前も呪われた命か。
 二つの影が溶けあっていたのは、それから数十分後にも、数秒後にも感じられた。思いのほか優しくフーケは下ろされた。Dの唇を割って覗いていた白々と輝く牙は元の歯並に戻り、唇は真一文字を描いている。
 フーケが震える手で自分の首筋を抑えた。そこにはうじゃけた二つの穴が並んでいた。指先に触れたその傷跡に気づきフーケの唇から、あはは、と乾いた笑いが漏れた。
 感情が抜け落ちたがらんどうの笑い声であった。感情の伴わぬそれはひどく虚ろであった。聞くものの心をどこまでも暗い泥濘に突き落とす笑い声だった。

「はは、これで、わたしも吸血鬼の下僕、グールかい? あは、はは、あんた、なんてことしてくれたんだい? もう、あの子たちの前には行けないよ。どう、してくれるんだい? ねえ、ねえったら?」

 声だけは笑いながら、フーケはDへの詰問を続けた。それを遮る様に左手の老人がぷぷぷ、と笑いながらこう言った。慰める様、というよりは悪戯の種を明かす様な口調だ。

「何を勘違いしとるか知らんが、お前さんは別になーんにも変わらんよ。今だって陽の光を浴びてもなんともなかろう」
「はい?」
「なんだって?」

 ぽかんとしたフーケとデルフリンガーがにゃにい? という声を出した。

「こいつはダンピールという奴でな。吸血鬼の父親と人間の母親の間に生まれたハーフよ。ダンピールは吸血鬼同様に血への渇望を覚えるが、血を吸っても相手を吸血鬼化する力は持たん。ま、時たま今みたいに血を吸いたくて堪らなくなるがの」
「吸血鬼と人間の、間に生まれたってのかい? あんたは、ああ、だから、か。そんなに綺麗なのは。そうさ、人間同士の子供があんたみたいに美しいわけが無い。人間じゃない者の血が混じらなければ、あんたみたいなのが生まれるもんか」

 どこか納得したようにフーケは言った。自分が人間ではなくなるという恐怖が杞憂であると告げられ、あまりの安堵に感情が混濁してしまったらしい。けっけっけ、と左手の老人は笑う。

「ただし、血を吸われた以上、お前さんは一生、こやつにメロメロじゃ。どんな命令も、どれだけ遠くに居ても聞こえ、逆らえぬようになる。もっともそうでなくとも、この顔相手では女なら骨抜きじゃわな」
「……言う通りだけどさ」

 と、フーケは首筋を抑えたまま、青白く変わっていた頬に恥じらいの朱を昇らせた。自分の首にDの唇が触れた事実に興奮している自分を、抑えきれなかったのだ。
 しかし頭に上った血を何とか冷やして、フーケは鋭い眼差しでDを睨み、コンマ一秒で失敗した。だめだ、この顔と向き合った時点で自分の負けが確定している。
 それが厳然と存在するこの世の法則なのだとフーケは理解した。その程度にはフーケの頭は動いていた。

「それで、これからあんたの気が向いた時には私の血を吸わせろってのかい?」
「さて、それはこやつの飢え次第かのう。とはいえ、そんな嬉しそうな声を出しては睨んでも意味が無いぞ」
「う、うるさいね。嬉しいわけがないでしょう!」

 しかし、フーケの頬は明らかに性的興奮を伴う赤に染まっている。吸血鬼が血を吸うとき、吸われる相手はこの世のものとは思えぬ至上の快楽を与えられるという。
 それを味わってしまうと、二度三度と重ねられる吸血鬼の訪れを、被害者達は心待ちにしてしまうのだ。
自分が人間でなくなる恐怖さえも凌駕する吸血の快楽。それを今フーケは魂まで味あわされたのだ。ましてや、これほど美しい青年では。

「相棒よお、心臓に悪いぜ、そういう真似は。おれっちには心臓無いけどさ。ただの人間とは思っていなかったが、はあ、妖魔と人間の間に生まれた子供ねえ。相棒は滅多やたらと人間を襲うようなタイプじゃないみたいだけど、ほんとびっくりだわ。いや、まじで」
「それで、ダンピールさん、わたしに何をさせるのさ。あんたが血を吸う相手を用意する手伝いなんてさせられる位なら、私は自分で自分に始末をつけるよ」
「本気らしいの。精神力や体質次第で血を吸われても自我を維持する人間はおるが、お前さんの場合は前者かな。まあ、それでもこやつの呪縛からは逃れられまいが。ところで本当に言葉通りにする気か?」
「ああ、そうさ。そのつもりだよ。確かに私は堂々とお天道様の下を歩けるような人間じゃないさ。国の定めた法律を破る悪党さ。けどね、そんな私でも命を天秤に掛けても手を染める気にはならない事ってのはあるさ」
「テファと口にしたな。養う家族でもいるのではないか」

 ようやく口を開いたDである。錆を帯びた氷の声は、フーケの心の奥底へと一直線に切り込んできた。それは、家族を引き換えにしても命を捨てるのかと問うている。
 フーケは、ぐっと苦いモノを飲み込み、視線を彷徨わせたが、決然と言った。

「地獄耳だね、あんたは。なんであんたなんかが召喚されちまったんだか。ああ、そうだよ、そうさ、私には養ってかなきゃならない大切な家族がいるさ。あの子たちの為ならどんな事だってやってみせるつもりだったよ。
 でもね、あの子たちには申し訳ないけど、それでも譲れない一線てのはあったみたいでね。喉の渇きを癒すのに泥水を啜るのだって、飢えを誤魔化す為に木の根を齧って木の皮を食べるのだって構わないさ。
 けど、自分の命惜しさにバケモノの片棒を担ぐなんてごめんだね。私がいなくなったら、きっとあの子たちは困る。ひょっとしたら、生きてはいけないかもしれない。
 それは、本当に申し訳ないと思う。けどね、人間は誰だっていつかは巣立たなきゃいけないんだ。私だってこんな稼業をしている以上、いつかはトチっておっ死ぬかわからないって覚悟している。
 だから、遅かれ早かれ、あの子たちは私の庇護から飛び立たなきゃならないのさ。それが、あんたのせいで早まっちまうってのは、腸が煮えくりかえるけどね」

 そう言ってDを睨むフーケの瞳は轟々と怒りの炎が燃えていた。Dに血を吸われ、多少なりとも隷属の影響を受けているはずなのに、服従の影さえ見せないのは、この美女の精神の堅牢さを物語っていた。

「人間の精神は滅ぼせない。なぜならそれは魂によって支えられているからだ」
「なんだい、それは?」
「大昔、人間の事を支配し尽くそうとして失敗した者達の残した結論だ。ここでもそうらしいな」
「そうかい、で、私の処遇は? 返答しだいじゃ、例え首だけになったってあんたの喉笛を噛みちぎって道連れにしてやるっ!」
「いつもどおり過ごせ。学院長の秘書としてな」
「……」
「それから、時々裏側の情報を集めて持ってこい。当面はそれで構わん」
「当面、ね。なんだって私に秘書に戻れなんて言うんだい?」
「これまでうまくやっていたのだろう。それに学院長も君の事は知っているだろう」
「あのボケじじいが?」
「多分な」
「……吸血鬼らしく処女でも集めろ、なんて言われるかと思ったんだけどね」

 どこか気の抜けた様子で、しかし警戒の様子は残したままフーケが言う。Dはいつもどおりの様子であった。

「おれは吸血鬼ハンターだ」
「……吸血鬼の血を引くあんたがかい?」
「その血を引くからだ」
「ふうん、近親憎悪? いや同族嫌悪かね。私も大概のメイジは嫌いだからなんとなく分かるけど、だからってあんたが私の血を吸った事実は変わらないんだ。心を許す気にはならないね」
「ほっほ、好きな時にこやつの心臓に刃を突き立てるがよかろう。甘んじて受けるかもしれんぞ」
「さっきから気になっていたんだけどさ。その声はあんたじゃないのかい?」

 眼鏡の奥の柳眉を寄せるフーケに向かって、Dが左手の掌を向けた。そこに浮かぶのは無論、あの皺でできた様な老人の顔である。その小さな顔が人並みに好色な笑顔を浮かべるのを見て、フーケが絶句した。

「そりゃ、ちょっと趣味悪いよ。縁切りな」

 心から同情するように言うものだから、Dが面白そうにこう答えた。

「いつかな」
「はあ、まったくなんであんたなんかと巡り合っちまったのやら。土くれのフーケ一生の不覚だわ。とりあえず、怪盗フーケは捕まえられず、代わりに神の槍は奪還成功ってシナリオかい。そんで私は目出度くあんたの小間使いかい」
「よろしくな」

 抜け抜けと言うDに、心底疲れた様子でフーケは溜息をついた。この青年は顔がいい分、根性と性格があらぬ方向にねじり曲がっているのだと悟ったのだ。

「ああ、もう。珠のお肌に傷まで作ってさ。なんなのよ、もう!」

 すでにルイズ達の所へと戻る為に歩き始めたDの後を追い、フーケは自棄になってずかずかと歩き出した。その途中、左手がふと思い出したように呟いたが、Dにもフーケにも聞こえなかったようだ。

「はて、テファ? 最近どこかで聞いた様な?」


 地面に腰を下ろし、両手で神の槍を握ったままの姿勢でいたルイズが、戻ってきたDとフーケの姿に安堵してぱっと顔を輝かせた。その様子にキュルケとタバサが目を合わせて苦笑した
 ちなみにフーケの右手首は元通りだ。Dが切り落とした右手首を拾い上げ、ぴたりと合わせると、何事もなかったようにくっついて元通りになったのである。
 先住魔法? と驚くフーケに、Dはくっつくように斬ったと一言だけ告げて、絶句させた。もうなんでもありなんじゃないの、とフーケはつくづく己が不運を嘆いた。

「D! ミス・ロングビルも、お怪我はありませんか?」
「ええ、ミス・ヴァリエール、かすり傷一つありませんわ。それよりもミスタ・Dから伺いました。その破壊の槍で見事、土くれの巨大ゴーレムを斃されたとか。素晴らしいご活躍ですわ!」
「ありがとうございます」

 すっかり元の美人秘書に戻ったフーケの褒め言葉にルイズは、照れた様子で頬を染めた。その癖両手にはすっかり凶悪な形に変わった神の槍を握っているから、アンバランスな事この上ない。

「ねえ、D、フーケを追っていたんでしょ。……捕まえられなかったの?」
「すまない」
「ううん! Dのお陰でゴーレムに踏み潰されずに済んだもの。それに破壊の槍はこうして取り返せたのよ。最低限の任務はこなせたわ。学院長もきっとお許しくださるわ」

 実際には隣にそのフーケがいるのだがDはおくびにも出さない。嘘をつくのが上手いというよりは、いつもと変わらない顔をするだけで済むのだから便利である。感情が読めないというわけだ。

「ええ、ミス・ヴァリエールの仰る通りですわ。わたくしからも皆様のご活躍を学院長のお耳に入れます。褒めてくださるに違いありません」

 ロングビルの仮面を被ったフーケの慰めに、ルイズは、はい、と素直に頷いた。
 こうして、『破壊の槍』奪還を目的としたフーケ捜索隊は、フーケこそ取り逃がしたものの、無事学院の秘宝を取り戻し学院へと帰還した。
 事の次第を学院長室でルイズ達と使い魔のDはオスマンとコルベールに説明した。ロングビルことフーケは、この件について書面を作成すると告げて退室している。
 オスマンが口に咥えていた水キセルを離し、残った手で髭をしごきながら、ルイズの報告を聞き終えた。

「ふむ、槍は見事取り返す事に成功したか。なに、フーケを取り逃がしたというが諸君らは見事取り返したのじゃ。恥じる所か胸を張ると良い。
 シュヴァリエの勲章授与申請とまではいかぬが、今期の学業について便宜を図ろう。とりあえずある程度の単位の免除あたりが妥当かな」

 これにはキュルケとタバサが嬉しそうな様子を見せた。基本的に真面目な学生とはいえぬキュルケと、意欲はあるが本国からの命令によって長期的に授業をさぼる事の多いタバサには実にありがたい申し出だったからだ。
 ルイズが遠慮した様子でおずおずと前に出て口を開いた。

「あの、学院長、Dにはなにかないのでしょうか? 彼のおかげで破壊の槍を取り戻せました。私も彼の主人としてなにか報いたいのです」

 オスマンは孫娘を慈しむ祖父の様に、優しい目でルイズを見つめた。

「彼は貴族でも学生でもないからの。その代りわしのほうで生活の足しになるものを用意しておいたよ。さ、受け取ってくれたまえ」

 オスマンが机の棚の一つを開き、中からエキュー金貨の詰まった牛革の袋を取り出して、机から立ち上がって手ずからDに渡した。Dは黙ってそれを受け取った。ルイズの財布と同じくらいの重さだ。となると三百エキューくらいか。
 黙したままのDに代わり、ルイズが感謝の言葉を告げた。

「まあ、オールド・オスマン、ありがとうございます!」
「なになに、お金で済むなら安いものじゃよ。しかしまあ、破壊の槍の外見が変わるとはな。わしも知らんかったわ」

 ほへぇ、と感心した様子でオスマンはいまだルイズが握っている神の槍を見つめた。最後にオスマンが見た時と比べてなんとも凶悪な形に変化したものだ。

「も、申し訳ありません。まさかこんな事になるなんて。あの、所で、この槍は一体どうやって学院長の手に渡ったのですが。その、学院長もお知りでない事があるようですし」

 ルイズの質問に、オスマンは遠い眼をして過去の記憶を掘り起こし始めた。

「あれはもう何時の事だったか。一メイル先も見えぬ深い霧の漂う日じゃった。わしが森を散策しておると、霧が立ちこみ始めて道が分からなくなってしまったのじゃ。
 訳も分からず彷徨っていると何もない荒野に出たのじゃ。そこには途方もなく巨大な石像が転がっておった。男と女の二つの頭が一つの体から生えておったよ。
 何時、何処の誰が彫琢した石像であったのか、どんな風雨に晒されても罅一つ入らぬような圧倒的な迫力の石像は、ばらばらに砕けていた。その砕けた心臓の部分にその破壊の槍を突き刺しておった。
 わしはおそるおそる槍に近づき、意を決して槍を引き抜いたのじゃ。するとどうした事が巨人の石像は見る間に目にも映らぬ小さな塵となって消えたのじゃ。後には呆然とするわしと槍と荒野だけが残っていた。
 わしは荒野を造り出したのが槍の力によるものと直感的に感じ、破壊の槍と名付けて学院に持ち帰った。後であの石像は本当に消えたのかと確かめに行ったが、二度とあの荒野には辿り着く事はなかった」

 オスマンにとっても謎の代物であったらしく、その話を聞いた所為でかえって神秘性が増し、ルイズ達は神の槍をまじまじと見つめた。Dには扱えず、ルイズの手に握られた時フーケの巨大ゴーレムさえ粉砕する力を見せた、謎の槍。
 おずおずとルイズから神の槍を受け取ったオスマンは、うむ、と一つ頷いてから、ぽんぽんと手を合わせた。にっこりと好々爺そのものの笑顔を浮かべた。

「さあさあ、今宵は『フリッグの舞踏会』じゃ。この通り破壊の槍も戻ってきたし、予定通り執り行う。今夜の主役は君らじゃ。存分に着飾り、心行くまで楽しんでくれたまえ」

 派手好きなキュルケは特に楽しみにしているようで、オスマンの言葉で思い出したらしく、忘れていたわ、と実に楽しげに言った。ルイズ達はそれぞれ礼をして学院長室から退室した。
 オスマンはそれまでの好々爺ぶりをどこかに忘れた様な眼差しをDに向け

「すまんが、Dくん、君はちょっと残ってくれんかね。話がある」
「D」
「先に行け」

 心配そうに自分を見つめてくるルイズに短く告げて、Dはオスマンと向き合った。ごくりと、これから何が起こるのかと、慄くコルベールが生唾を飲む音がいやに大きく響いた。
 無言で待つDに、ああ、わしの寿命が見る見るうちに減ってゆくのお、とごちりながらオスマンが口を開いた。

「訪ねたいのだが、本当にフーケは取り逃がしたのかな?」
「どうかな。だが、学院で女性を優遇すればしばらくは姿を見せんだろう」
「女性か、使用人かな? それとも教師かね?」
「ふむ、特に有能な女性秘書とかが良いじゃろうな」

 Dに続いて左手がそう告げるのを聞いて、オスマンは愉快気に笑った。やはりというべきか、フーケの正体についてうすうすと気付いていたらしい。

「ほっほ、そうかそうか。うまく君がやってくれたようじゃな。なにどうしようかと思案しておったのだが、ここに残ってくれるなら幸いじゃ。君の睨みならわしが釘を刺すよりも万倍も効果があるじゃろう」

 釘を刺すどころか牙を突き立てたとは、流石にDも言わなかった。何の事を言っているのか分からないコルベールだけが、不思議そうな顔をしているが、この場では無視である。

「その破壊の槍だが」

 Dの視線はオスマンの手の中の神の槍を見つめていた。

「なにかの?」
「槍は使い手を選んだ。自らの意思でだ」
「インテリジェンス・スピアだと?」
「正確には異なるだろうがな。もしルイズに何かあった時には“何か”をするかもしれん」
「何か、か。突如彼女の元に出現したり、とかかな?」
「そこまでは分からん。そうなるかもしれんという事を覚えておいて損はないだろう」
「にわかには信じ難いという奴じゃが、なにしろ君の言葉じゃ。肝に刻んでおこう。さて、ミスタ・コルベール、君の方からも話があるのではないかね」
「はい。ミスタ・D、貴方の左手のルーンについてですぞ」
「これか」

 とDは左手の甲を見つめた。今回のゴーレム戦ではデルフリンガーどころか白木の針さえ握らなかったので、まったく出番の無かったルーンだ。これほど意味の無いルーンというのも珍しい方だろうか。

「うぉっほん、それは始祖ブリミルの用いた伝説の使い魔ガンダールヴの印ですぞ。あらゆる武器を使いこなし、千の兵隊にも勝る力を奮ったとか。貴方はその伝説の再来なのです!」
「なぜおれが?」
「それは、その、分かりません。ただそのルーンがガンダールヴであるというだけでして」
「肝心要の所は分からぬままか」
「すまんのう。それと君を送還する為の方法もちゃんと探しておるから、あまりミス・ヴァリエールの事を責めんでやってくれよ。君が女子供を詰る様な卑劣漢ではないと信じてはいるがの」

 そう言ってからからと笑うオスマンと、コルベールに背を向けてDは学院長室を退室した。


 その夜、アルヴィーズの上の階のホールで舞踏会は行われていた。思い思いに着飾った貴族の子弟と教師達がそこそこで語らい合っている。
ホールから続くバルコニー。暗闇が広がる空の下、ホールから届く囁き声や蝋燭の灯す明かりの残滓がほのかに輝く霧のように、漂っていた。
 栄華と伝統と享楽と誇りとによって形成される舞踏会から外れた影がそこに一つあった。Dは誰の目にも止まらぬ内にバルコニーにいた。
 舞踏会など素知らぬ顔でルイズの部屋か中庭に逃げるかと思われたが、ルイズたっての頼みとあって顔を出しているのだ。デルフリンガーを枠に立てかけて、右手に持ったワイングラスを時折口に運んでいる。
 夜空を彩る億千万の星と蒼と紅の双子月と、かすかな冷気を孕む夜風を供に、Dは舞踏会の絢爛さと喧騒から隔離された闇の静けさに身を浸していた。
 ダンスの相手がいない女性を壁の花と言うが、壁の花などと例えれば花の方が申し訳なくて枯れてしまいそうな青年だ。
 そんなDに、シックなドレスに身を包んだフーケが声を掛けてきた。首の傷跡を隠す為に白いシルクの襟巻を巻いていた。

「なにやってんだい。ご主人様はどうしたのさ?」
「まだ来ていない」
「ふうん。あんたさ、あのじじいと何か話した?」
「何かあったか?」
「話したんだね。なに、今度から給料を上げてくれるって言われてね。おかげで危険な真似をする必要がずいぶん減ってね。まあ、しばらく土くれの話題はなくなるだろうねえ」

 意味ありげにこちらを見つめてくるフーケに、一瞥くれてDはワインを一杯飲んだ。フーケはこれほど話しかける甲斐の無い相手もいないね、と溜息をついた。それから空になっているDのグラスにワインを注いだ。

「美人のお酌さ。手酌よりはましでしょ?」
「……」
「はあ、ありがとう位言いなよ。もう」
「ありがとう」
「……ヴァリエールのお嬢ちゃんも苦労するね。せいぜい楽しみなよ。私のご主人様」

 そういってひらひら手を振りながら、フーケはロングビルとして舞踏会へと戻っていった。抜き身のままのデルフリンガーが、フーケのご主人様発言にからから笑った。

「はは、使い魔を持った使い魔ってのは初めて目にしたぜ、相棒。てえしたもんだ」
「使い手が人間ではなくても、気にしないのか?」
「なあに、下手な人間なんかよりもずっと相棒の方が面白いやね。それに相棒も血を吸いたくなるので、結構苦労しているみたいだしね。まあ、長い人生そう言う事もあるさね」
「生意気な剣じゃわい」

 騒がしさが倍になった状況をどう思っているのか、Dはフーケの注いだワインを黙って飲んだ。ちょうど、ホールの壮麗な門が開き、目一杯着飾ったルイズが姿を現した。

「ヴァリエール公爵が息女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ヴァリエール嬢のおな~~~~り~~~~~~~~!」

 ルイズは桃色がかったブロンドの髪を細やかな装飾で埋め尽くされた純銀のバレッタでまとめ、純白のパーティドレスに身を包んでいた。学院の制服姿の時でも、学友達の中で一際目立つ高貴さを纏っていたルイズは、よりいっそう輝いていた。
 胸元の開いたドレスで飾られたルイズの美貌はそれまで彼女の事をゼロと馬鹿にしていた者達が、群れとなってダンスを申し込むほどに優美で、華があった。
 どんな大国の舞踏会に姿を見せても賛辞の言葉しか出ぬほどの美貌に麗しい装いのルイズは、ゆっくりと流れ始めた音楽と共に踊り始めた貴族達の間をすり抜け、バルコニーに佇む漆黒の青年の元へと急いだ。
 恥じらいに頬を染め、ルイズは上目使いにDを見た。双子月と万光の星、ビロードの様に広がる夜の天幕のすべてが、この青年の為の舞台装置のように見える己の使い魔を。

「D……、あの」
「きれいだ」
「え? わたし?」
「ああ」
「うん、ありがとう、D。初めて名前を呼んでもらった時と同じくらい嬉しい」

 月夜にのみ咲く一輪の花の様な可憐さで笑うルイズ。輝く魅力、透き通るような魅力。ルイズと言う少女の一番きれいで、可愛くて、良い所をすべて集めた様に美しく、はにかんだ笑み。それは、Dの目にどう映ったのだろう。

「D、隣、いいかしら?」
「好きにしたまえ」
「ん、ありがとう」

 そう言って、ルイズはDの右手側に立ってバルコニーに背を預けた。奇跡的にDの方から話しかけた。

「踊らないのか?」
「いいの。誘ってくれた人たちはいるけど、みんな今日の私を見るまで馬鹿にしてきた連中よ。私の外見だけで決めたってことでしょ? それこそ馬鹿にしているわ」
「君がそれだけ魅力的という事だ」
「えへへ、Dにそう言って貰えると、嬉しいな」

 ルイズは大好きな人に褒めてもらった幼い子供の様に無垢な笑みを浮かべていた。本当に、ただDの横に居るだけで嬉しいのだ。
 そうして二人は華やかな舞踏会から離れたまま、肩を並べたまま時を過ごした。ルイズはそれだけで、幸せそうに慎ましく笑っていた。
 やがて、止む事はないかと思われた音楽は止み、ダンスと歓談に耽っていた貴族達は自室へと戻り、ホールも片づけを終えて、忙しなく動いていた使用人達もほとんど人影はなくなっていた。
 ルイズとDはそれからようやくバルコニーを降りた。ただ横に並んでいただけで幸福感に包まれていたルイズは、不意にホールで足を止めたDを、小首を傾げて見つめた。

「D?」

 ルイズの目の前に、そっとDの右手が差し出された。デルフリンガーは壁に掛けられていた。

「D?」
「今なら、人の目を気にしなくてもよいだろう」
「え?」

 伸ばされたDの手が、優しくルイズの手を包み込んだ。気付いた時、ルイズはDの腕の中に居た。
 最後に残っていた使用人の少女が、何か片付け忘れたものはないかと確認する為にホールにのぼった時、目の前の光景に我を忘れて身惚れた。

「まあ」

 あらゆる感動を表す言葉が胸に湧きおこり、どれもが口から出る事はなくただ『まあ』という呟きになって零れ落ちた。メイドの少女はシエスタであった。
 シエスタは、明かりを落とされ音楽も絶えて静寂に満ちたホールの中で、音も光もなく踊る二つの人影を見つめていた。
 ルイズの純白のドレスぬ包まれた細腰に手をまわし力強く、かろやかに、優雅にリードするD。
 導かれるまま足を動かし、手を動かし、片時も離れぬ恋人の様にDの胸に頬を寄せて踊るルイズ。
 Dのリードは優しくさり気無く、バランスを崩さずに。さりげない不動が、二人の上半身と下半身の回転と旋回を支え、上半身は下半身を追い、下半身は上半身を導く。
 Dの足は床を踏む音を立てなかった。音楽の絶えた静かな舞台に相応しく、夜の闇を照らす月光と星の光に淡く影を落としながら、つながったDとルイズの影はどこまでも優雅に踊り続ける。
 床を踏んだ足は重力を感じさせぬ動きで夢の様に跳ねた。飛び立つ白鳥の様に優雅に飛んだ足は霧の様にさりげなく舞い降り、新たな夢を目に見えない形で産んだ。
 美という名の夢を。ダンスの形をした美を。見る者がいたならば、生涯目の前の美を忘れず、感動に震えた記憶を生涯胸に抱くだろう。
 ルイズはこの一時こそが夢だと知っているように、ただただ、幸福に包まれたまま踊り続けた。いつか醒めると分かる夢ならば、醒めるその時まで酔いしれていたかった。
 壁に掛けられたデルフリンガーは、心からの感動を言葉にした。

「てえしたもんだ。てえしたもんだよ、相棒。主人のダンスの相手を使い魔が務めた事も、こんなに綺麗なのも。相棒、おれはこんなに綺麗なものを見た事がねえよ」

 Dとルイズの影は、長い事繋がり合ったままだった。


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