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愛しのシェフィ03




 三日が、過ぎた。
 ジョゼフは自分の部屋で、ぼんやりとしたままだった。
 ヴェルサルテイルを離れる準備はほとんどできており、落ち着く先も決めた。
 いよいよ明日は、予定通り出発する日なのである。
 後悔など、片もない。
 だが、長い間住み慣れた場所を離れるというのは、どうして寂しさの残るものだった。
 良い思い出はほとんどなかったけれど、それでも、やはりここはジョゼフにとっては生家であり、故郷なのだ。
(本当なら、いるべきではなかったのかもしれんがな……) 
 ジョゼフは自重して、手のひらを見つめてみた。
 剣術などで使い込まれ、いくつもの胼胝ができている。
 今日まで、そして、おそらくこの先も、魔法というものをつかむことのできない手だった。
 ただひとつの例外をのぞいては。
 握り拳を作ると、三日前のことが思い出された。
 弟の顔を殴りつけた感触が、まざまざと甦ってきた。
 手の甲に、ずきりと痛みが走ったようだった。
 その痛みは、肉体の表面ではなく、奥底のほうから感じられた。
 信じられないという顔で、自分を見上げる弟の顔が浮かんで、消える。
 たまらないものが、ジョゼフの顔を痛苦で歪ませた。
 弟への暴行は両親に、ことに母親からヒステリックな叱責を受けたが、今となってはどんなことを言われたのか覚えていない。
 弟を殴ったのは、あれが初めてだった。
 幼い頃は何度も喧嘩をしたことはあったが、手を上げたことなど一度たりともなかった。
 無邪気な子供時代が過ぎ去る頃には、喧嘩らしい喧嘩さえしなくなった。
 喧嘩をしたって、結果は見えている。
 ガリアの誇る麒麟児であるシャルルと、無能王子のジョゼフの差はどうしようなく開いていたからだ。
(俺と、あいつは……本当に仲が良かったのだろうか)
 幼い頃はまだしも、それ以降の二人の関係はどうだったのだろう。
 今となっては、ひどく嘘臭くも思えてくるのだ。
 生の感情のぶつかり合いというものが、あったのか。
(けれど、思いこみなら、思いこみで、良かったのにな……)
 何か、小さい頃から大事にしていた宝物を、自分から投げ捨ててしまったような気がする。
(しかし、シャルルよ……お前が悪いんだ。お前が……)
 自分のもっとも大事なものに、唾を吐きかけるような真似をするから……。
 だからこそ、弟を殴ったのだ。
 ある意味では、この世のもっとも愛していた弟を。
 しかし、今から思えば、ジョゼフはシャルルを愛すると同時に憎んでいたのかもしれない。
 愛と憎しみは表裏一体である。
 この言葉は、誰のものだっただろうか。
 それが全てに当てはまるかはわからないが、あるいは今の自分にも通じるものがあるのだろうか。
「ジョゼフ様」
 後ろで、シェフィールドの声がした。
 心配そうな顔をした少女が、ジョゼフを見ている。
 彼女の、そんな顔は見たくはなかった。
 シェフィールドには、いつも朗らかに笑っていてほしい。
「心配いらない」
 ジョゼフは笑い、握った拳を開いた。
「シャルルのやつも大したことないそうで、父上も大目に見てくれるとさ。母上は、まあ、怒りぱなしだったがな」
「あの、そうではなくて……」
「どうした? 何かあったのか?」
 シェフィールドの何か言いたそうな顔に、ジョゼフは不安になった。
 ジョゼフの専属であることや、その生まれもあって、シェフィールドはあまり他のメイドと折り合いが良くない。
 もしかすると、ジョゼフとシャルルの問題で、とばっちりを受けたのかもしれぬ。
 シャルルを神輿にしている連中はヴェルサルテイルどころか、ガリアのあちこちにいる。
 それに、シャルルは平民たちからも人気は高い。
 社交界の令嬢や貴婦人たちのみならず、城のメイドたちからも<白面の貴公子>として大人気なのだ。
 自分たちの愛するシャルルを殴りつけた無能な愚兄。
 その愛人と見なされている蛮族のメイドという立場は、この状況では決して安全なものではない。
 むしろ、相当に悪いと言い切れる。
 考え違いをした連中が、ジョゼフが駄目ならとシェフィールドに意趣返しをしないとも限らない。
「いえ、私のことではなくて……」
 そう言って、シェフィールドはジョゼフを見つめてくる。
 悲しみと、戸惑いを交えた視線が送られてきた。
 一瞬だけれど、ジョゼフは心の底まで見透かされるような錯覚を覚えた。
 だが、それは決して不快なものではない。
 むしろ春の日差しのように柔らかく暖かで、安心を感じさせる。
「嫌なものだな」
 ジョゼフは、自分がひどく情けない顔をしているのを自覚しながら、また笑った。
「肉親を殴るというのは……」
 きっと、見られたようなものではないに違いない。
 しかし先ほどかぶろうとしていた、やせ我慢の仮面がとっくに砕けてしまっている。
「…………」
 シェフィールドは何も言わず、自分の両手でジョゼフの手を覆った。
 じんじんと痛む拳が、柔らかな温度に包まれていく。
 痛みが和らぎ、消えていくような気がした。
「ありがとうな、シェフィ」
「あっ」
 ジョゼフが笑うと、シェフィールドはその黒い瞳を思い切り見開いた。
「やっと、笑ってくれましたね」
 シェフィールドの表情が、ぱあっと明るくなった。
 気のせいか、部屋中が明るく照らされたような気がした。
「ここしばらく、ずっと笑ってくれなかったから……」
「そうかな、笑ってなかったか? そんなことはないと思うけどなあ……」
 ジョゼフはひどく照れくさくなり、少し口調を速めて言った。
「さっきだって、笑っいてただろう?」
「……そうですけど、でも、ああいうのは何だか、違うような気がして……」
「違うかな」
「はい、笑っているけど、でも、哀しくて泣いてるみたいでした」
 シェフィールドの言葉に、ジョゼフはドキリとした。
「ハッキリと言うな……」
「あ、すみません。ご主人様にこんなこと……」
 シェフィールドはわたわたとして、謝りだす。
「いや、いいよ。そのほうが、良かった」
 ジョゼフは感謝と親愛をこめて、シェフィールドの頭を撫でた。
(まったく、本当に俺ってやつは……)
 シェフィールドの喜ぶ顔を見たいと張り切ってみたり、がんばってみたところで、結局は彼女に助けられている。
 彼女を幸せにしてあげたいのに、彼女から<幸せ>をもらってばかりだ。
(度し難いよな。こんなところまで無能では……)
 魔法に関しては、正直なところもうどうでもいい。
 そんな常識はずれのことを考え出している自分がいることを、ジョゼフは苦笑するばかりだった。
 <昨日>まであれほど焦がれていたはずなのに、<今日>はもう大した価値を感じなくなっている。
 使えるのなら、それに越したことがないはずだ。
 もしもシャルルのような才能があったら、シェフィールドにもっともっとたくさんのことをしてやれるのに。
 そのへんを思うと、やっぱり残念だし、悔しかった。
 だが、根幹の部分では、
(だから、どうだというのだ?)
 どこかで、見切りをつけているような気がする。
 まったく、おかしなものだった。
 あんなに欲しかったのに。
 どれだけ夢想し、羨んで、妬んで、そしていじけていたかわからない。
 それが、まあ何ということだろう。
 ずっと欲しかったはずのものは、今ではすっかりと色あせて、メッキも剥がれ落ちている。
(他愛無いものだ……)
 ジョゼフは、またも自分自身に苦笑した。
 しかし、この時愛しい少女に微細な異変が起こっていたことを、ジョゼフは気づいてはいなかった。
 シェフィールド本人もまるでわかっていなかったのだから、無理もないことだが。

 シャルルは、無表情な顔で椅子に座っていた。
 兄に殴られた顔は、入念な水魔法の治癒によって綺麗に治っている。
 確かに手ひどく殴られはしたが、一発だけのことで、歯や骨にも異常はなかったのだ。
 別にたいそうなことをしなくても、自然に治っているようなものだったのである。
 けれど、その顔は暗く澱みきっており、本人だけでなく部屋全体もおかしな空気に満ちているようだった。
 死人のような顔色のまま、殴られた箇所を何度も撫でさすっている様子は、尋常な様子ではない。
 それはある種の妖気といっても過言ではなかった。
 部屋には使用人の運んだ食事が置かれているが、まるで手をつけられていなかった。
 あの一件があってから、シャルルはほとんど食事らしい食事をとっていない。
 まわりには、何でもない、ちょっと疲れているだけだと言っているが、とてもそんな生易しいものではなかった。
 幼い頃、悪さをした罰として、父から鞭を受けたことがあったが、まともに顔を殴られるなど、初めての経験だった。
 殴られた経験と同様に、兄からあんな怒りの形相を向けられたことなどなかった。
 少なくともシャルルに対し、ジョゼフがあれほどの怒りを見せた顔など、一度たりともなかったのである。
 兄の体は、あんな大きかったのか。
 まだ背丈が小さかった頃に見上げていた父の体、それよりもはるかに巨大で恐ろしく見えた。
 あの太い腕と、石のような拳で思い切り殴られたのだ。
 たったの一発だけだが、それで十分すぎるほどであった。
 あの拳は、シャルルの中にぽっかりと穴をあけてしまった。
 目には見えないその穴から、ずっと大事にしてきた色んな物がぼろぼろと抜けて落ちていく。
 それは、いくら拾い集めようとしても、抜け落ちた途端、春風に晒された雪のように虚しく溶けて消えてしまうのだ。
 どこかで何かが狂ったに違いない。
 シャルルは、そう思っていた。
 ほんの、少し前まで確かにあったものが、今は失われている。
 どんな魔法を使っても、それを取り戻すことはかなわない。
 この穴は何だ。
 そこにあったものは、どこに消えてしまったものか。
 考えれば考えるほどに心は焦れて、ある種の破壊衝動に似たものが湧き上がってくる。
 そんなシャルルの様子に、城の人間たちは同情的だった。
 そうはいっても、いずれも実のあることなど話していない。
 大体が、他人の噂話などというものが実のないものなのだが、
「おかわいそうに……。シャルル様、あんなに落ちこんでしまわれて……」
「ジョゼフ様に殴れたのが、よほどにこたえたのでしょうねえ」
「魔法ならともかく、平民や蛮人のような、下賎な暴力を受けるなど……」
「でも、なんで魔法で防ぐか逃げるか、されなかったのか」
「きっと、わざと殴られたのですわ。お優しいかただから」
 己の偏見と憶測で、好き勝手なことを言っているにすぎなかった。
 そんな戯言など当のシャルル本人にとっては、毛先ほどの意味もない。
 不愉快で、有害なだけだった。
 もしも目の前でそんなことを言われていたら、
「お前らに何がわかる!!」
 と、怒鳴り散らしていたかもしれない。
 シャルルが考えていることは、
(なぜ、兄はあんな風になってしまったのか?)
 この一つのみであった。
 常に自分と共に歩いていた兄が、今進んで自分から離れようとしている。
 それも、ずっと遠くに。
 単に城を出るというだけなら、シャルルとてそれほど狼狽しなかったろう。
 しかし、兄の態度から、明らかに自分への<基準>というものが違っていることがわかった。
 幼い頃から、振り向けば自分を見てくれた兄の目は、今はもう違う何かを見ている。
 兄の想いというものは、シャルルから別の人間に移ってしまったのだ。
 そこには、もうかつてのような繋がりは感じられない。
 気がつかないうちに、目に見えない何が、同じく目に見えないものによって切断されていたのだ。
 だからこそ、そのことを兄に注意したのだ。
(それなのに……)
 ジョゼフが返してきたものは、拳だった。
 大切な兄弟の絆は、ちぎれて腐れ果ててしまった。
 その原因は、考えるまでもない。
 あの、薄気味の悪い蛮族の娘である。
「やっぱり、ちゃんと話しておかなくちゃ駄目だよな……」
 ぼそりでつぶやくと、シャルルは実体のない幽鬼のように、部屋もなく部屋を出た。
 城内のある部屋を目指して、廊下を早足で歩いていった。


 何だか、ひどく眠たかった。
 体が変だった。
(あれれ……?)
 シェフィールドは、頭がぼんやりとしていることに気がついた。
 別に、ついさっきまでは全然普通であったはずなのだが、急にぼうっとなってきたのだ。
 サウナ風呂でのぼせた時の感触に良く似ているが、普通にしている時に、何故こうなるのか。
 まったくもって不思議だったが、深く考える前にウトウトと眠りの落ちる前のようになっていく。
 思考があやふやで、まとまりがなくなっていくるのだ。
 ヨロヨロと廊下を歩きながらも、シェフィールドの目は前の状況を確認することもできなくなっている。
 まるで酔っ払いのように千鳥足になっていた。
 思考が、変だった。

  こんちには。
  ありがとう。
  さようなら。
  お城の中での礼儀作法。
  お掃除、お洗濯。
  アン・ドゥ・トロワ。
  美味しい紅茶の入れ方。
  お料理。
  おなべにフライパン。スプーン、フォーク。
  甘い。
  柔らかい。
  美味しい。
  ご主人様、ジョゼフ様。
  嬉しい。
  暖かい。
  好き、大好き。

 瞼の下にジョゼフの笑顔が浮かんだ時、シェフィールドは右肩に鈍い痛みと衝撃をおぼえた。
 いつの間にか壁にぶつかっていたのである。
「はれ……」
 その小さな衝撃で、シェフィールドはぺたんと床に座りこんでしまう。
 立ち上がろうとしても足がうまく動いてくれない。
 何だか、体が震えているようで、指先にも、うまく力が入らない。
 世の中が、ぐらりぐらりと右へ左へと揺れているのである。
 視界の定まらない目は、自分の目の前にたった人物のことも、認識してはくれなかった。
「何やってる……。まあ、なんでもいいか」
 その暗い声に、シェフィールドは冷や水を浴びせかけられたような気分になり、驚いて前を見た。
 自分の主とよく似た少年が、ゾッとするような冷たい目でこちらを睨んでいる。
 知っている。
 シャルルという、主の弟であり、この国の王子だった。
「お前のせいだ……!」
 シャルルは強い憎悪をこめてシェフィールドに言った。
「お前さえいなければ、兄さんは変にならなかったんだ」
 ブツブツとつぶやきながら、シャルルは一歩ずつシェフィールドに近づいてくる。
「僕は、注意したんだ。あいつは悪いやつだって、兄さんを変にするんだって。なのに……」
 シェフィールドは本能的に恐怖を感じた。
 目の前の少年は、普通ではない。
 まるで戦か、敵に呪いをかけるまじない師のような、危険な匂いを放っているのである。
「なのに、兄さんは僕を殴った……! あの兄さんが僕を殴ったんだよ!!!」
 シャルルは杖を突きつけ、血を吐くような叫びをあげた。
 憎悪のこもった声であった。
「何かも、みんなお前が悪い……!!」
 シェフィールドは恐怖のために、声も出ない。
 いや、恐怖のせいばかりではない、すでに肉体そのものが通常の状態ではなかったのである。
「お前は、ここにいちゃいけない存在なんだ。だから、消えろ!!」
 シャルルは呪文を詠唱し、突き出した杖を振った。
 すると、シェフィールドの頭上に小さな雲のようなものが現れた。
 シェフィールドは急激に目の前が暗くなった。
「あっ……」
 と、叫ぶ間もなく、シェフィールドはころんと床に転がった。
(ご主人様、ジョゼフ様……)
 意識を失う直後、シェフィールドは小さくジョゼフの名を呼んだ。


「兄さん、まだ起きてる……」
 なかなか寝付けず、一人軽めのワインで晩酌をしていたジョゼフはその声を聞いてグラスを置いた。
 何だか胸騒ぎのようなを感じていたのかもしれぬ。
「シャルルか?」
「うん、そうだよ」
「鍵はかかっていない」
 そう言い切る前に、部屋のドアが開かれ、シャルルが入ってきた。
「兄さん、大事な話があるんだ。少し付き合ってくれない?」
 シャルルは以前の狂乱が嘘であったように、落ちついた様子で淡々と言った。
 何事だ、と少し不審なものを感じたが、殴りつけてしまったという罪悪感もあり、ジョゼフはうなずいた。
「ここじゃ、何だから……」
 そのように言って、シャルルはジョゼフを祭典などに使われる礼拝堂へと連れて行った。
 普段はあまり人の出入りのない場所である。
 シャルルが杖を振ると、礼拝堂のあちこちに灯りがつく。
 その時、ジョゼフはあっと声を上げた。
 壇の前に、誰かが倒れていたからである。
 それが誰かすぐにわかった。
「シェフィ!!」
 ジョゼフはすぐさまシェフィールドのもとへ駆けつける。
 見たところ、外傷などはない。
 どうも深い眠りに陥っているらしい。
 通常の眠りではなく、おそらく魔法の眠りだ。
「まさか、シャルル、お前か!?」
「ああ、僕が運んだ。魔法で眠らせてね」 
 シャルルはすっすっと、まるですべるようにジョゼフに近づく。
「何もしちゃいない。指一本触れてないよ。始祖に誓ってもいい。運ぶ時もレビテーションを使ったんだよ」
 触りたくもないからね、とシャルルは兄の顔を見つめながら、恋人にでも囁きかけるみたいに言った。
「どういうつもりだ……」
 ジョゼフはシェフィールドの無事を確認してから、弟と対峙する。
 シャルルは笑ったままだ。
 その瞳はまっすぐジョゼフに向けられているのだけれど、どこか見当の違ったほうへと向けられているように思えた。
 まるで、狂人の眼である。
「兄さん……城を出て行くとか、そんな馬鹿なことはやめてよ」
 シャルルは美顔に似合わぬ、気味の悪い笑顔を浮かべながら、一歩ずつ兄に近づいていく。
「その話か」
 またか、とジョゼフはうんざりとしたが、弟の異常さにできるだけ声音を穏やかにした。
「やめる気はない。もう決めたことだからな」
 兄の答えに、弟は秀麗な顔をぴくぴくとひくつかせる。
 幾人の乙女の心を奪った神童の顔は、不吉な影を帯びて不気味な様相となっている。
 シャルルは血走った視線を、シェフィールドへと向けた。
「ここを血で汚すのは嫌だけど、どうしても出て行くっていうなら、この娘を殺すよ?」
「貴様……」
 ジョゼフは、その言葉がただの脅しではないことを肌で感じた。
「どういうつもりだ……」
「そう怒らないでよ。兄さんが、ただおかしなことをやめてくれれば、それでいいんだ。そうすれば、その子も……」
「誰かに、何か言われたというわけじゃないよな……?」
 自分でもそれはないだろうと思いながら、ジョゼフはあえて尋ねた。
「もちろんだよ。これは、僕の考えからやったことだ」
「俺がここを去るのが、何故いけない」
「何故? 何故だって?」
 シャルルは怪鳥のいななくような笑い声をあげた。
「兄さん、僕らはいつも一緒だったじゃないか。それなのに、何で離れるんだよ?」
「……」
「ずっと、兄弟で仲良くやってきたんじゃないか。それを、どうして? どうしてだよ!?」
 シャルルは親にすがるように幼子のような表情でジョゼフに叫ぶ。
「どうしてだと――」
 弟の必死とは逆に、ジョゼフはカッと熱くなりかけていた頭が冷めていくのを実感した。
 どくどくとうるさかった心臓の鼓動も、平常時へと戻りつつある。
「……お前は、俺がここでの生活に満足していると思ったのか?」
「何だって……?」
「次の王に指名されたお前は、その肩にたくさんのものを背負わされたのかもしれん。だが……いや、やめよう」
 ジョゼフは、首を振った。
「シャルル、これからは違う道を歩むんだ。いいや、始めから俺たちは違う道を歩いていた。俺は、俺の。お前は、お前のな」
「どういうことなの……?」
「お前だって、ようくわかっているだろう?」
 ジョゼフはひどく優しい眼差しで弟を見た。
「その年でスクウェアになろうというお前と、コモン一つ満足に使えない俺が、同じ道にいるわけがないじゃないか」
「兄さん」
 シャルルは動揺したのか、声を低くした。
「正直なところな、俺はお前をどれだけ羨んだかわからない。本当だ」
 そう言って、ジョゼフは礼拝堂の天井を見た。
 幼い頃、ここはどことなく、恐ろしく感じたものだ。
「だから、何か一つでもお前に勝ちたくって色々とやってみたものさ。いつか、みんなを見返してやろうとな」
 昔のことを思い出しながら、ジョゼフは笑った。
「しかしなあ、やっぱり人間には器というか、そういうものがあるのだよ」
「……」
「俺はそれを認めたくなかったんだな。だが、ついに認める時がきたんだ。情けないし、悲しいことだがな」
 シャルルは睨むような目つきのまま、黙って兄の言葉を聞いている。
「俺は凡人以下だ、メイジとしてはな。だから、分不相応なものを求めることはやめた。それだけだ」
「それが、それが、ここを出て行くことと関係あるの?」
「あるさ。そもそも……魔法を使えん人間が、王族だの貴族だのといっていること自体がおかしいんだぜ、本来は」
 そう言ってから、ジョゼフは笑ってみせた。
 からりとした、湿り気のない笑顔であった。
「やめてよ、そんなの…。兄さんは、いつかすごいことができるはずだよ! だから、そんな風に言わないでよ!」
「すごいことか。そいつはなんだ? お前のように四大魔法を操ることか?」
 ジョゼフは肩をすくめた。
「それとも、伝説の虚無の力でも手にすることか? どっちにしろ、無理だな。夢だよ」
「兄さん! やめて……」
「だから、俺は俺に見合った場所へいくことにした。だからなあ……お前はお前でがんばれ」
 そう言って、ジョゼフはシェフィールドを抱き上げようとする。
「やめてって、言ってるだろう!!」
 狂ったような叫びがあがる。
 ジョゼフが殺気を感じて振り返ると、シャルルは杖をジョゼフたちに向けている。
 弟の全身は、ぶるぶると震えていた。
「行かせない。行かせるもんか……!」
「シャルル、お前は、何故そこまで……」
 ジョゼフは弟の言動が理解しきれず、思わず声を荒くした。
 すると、シャルルはいったん息をぐっと殺してから、
「兄さんに勝つために、ぼくがどれだけ努力してきたと思ってるんだ!!」
 恐ろしい叫びをあげた。
「な、なに?」
 思いもかけない弟の叫びに、ジョゼフは驚いて目を見張る。
「ぼくのほうが優秀だと証明するために、ぼくが見えない場所でどれだけ頑張ってきたと思ってるんだ!!」
 その声は、血を吐くどころか、臓腑を残らず吐き出すような凄まじいものであった。
 ジョゼフは、何も言えずに、黙って弟の言葉を聞いていた。
「ぼくにとって、兄さんは一番で。兄さんにとっても、ぼくが一番で……。ずっと、ずっとそうだったなのに……!!」
 ジョゼフは、弟の姿がひどく小さく、幼いものに見えた。
 天才だ、神童だと称えられ、謳われた少年は、その年齢よりもずっと幼かったのかもしれない。
 しかしその秀でた才能ゆえに、まわりも、もしかすると本人も気づいていないままになっていたのか。
「なのに、今、今兄さんが離れたら、降りちゃったら、それが全部無駄になるんじゃないか……!!」
「いいや、無駄にはならんさ」
「気休めを言わないでよ!!」
 シャルルはついにわんわんと、子供のように泣き始めた。
 ジョゼフは驚きながら、同時にひどく腹がたった。
 甘えるな! そう怒鳴りつけてやりたかった。
 努力なら、自分だってやってきたのだ。
 呪文を何百回、何千回も唱え、書物は一文字一文字が暗記できるほどに読み返した。
 精神力を高めるための瞑想や修練だって、幾度繰り返したことか。
 だが、その努力はいずれも、まったくの徒労に終わったのだ。
 どれだけやっても実らない努力や修行など、ただの苦痛でしかない。
 それを人は、無駄骨というのだ。
 その苦しみに加え、無能王子という蔑みを受け続けてきた。
 シャルルという存在が横にいたおかげで、その苦しみがどれだけ大きかったか、お前ほうこそわかっているのか。
 けれど、泣いているシャルルの姿を見ていると、その怒りも萎んでいってしまう。
 ジョゼフは頭を押さえて、ため息をつく。
「俺はお前のことを、気持ちをわかってやれてなかった。それは、謝るよ。俺のほうが兄貴なのにな……」
「兄さんも、父上も母上も、知らないんだろうね……ぼくがどれだけ」
 ぶつぶつとつぶやきながら、シャルルは顔を伏せて泣き続けている。
 かまわず、ジョゼフはハッキリと宣言した。
「だがなシャルル……。俺はお前の求めに応える気はない。いや、できないんだ」
「なんで……どうして……どうして?」
 シャルルは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげた。
 眠っているシェフィールドを見ながら、ジョゼフは言う。
「俺の人生は、生きながら死んでいたようなものだった。自分自身で気がつかないうちに殺していた」
 ジョゼフは自嘲の笑みを浮かべる。
 自分の無能を呪い、弟を羨み、世間を上目遣いに睨みながらすごしてきたように思う。
 思えば、恥の多い生き方であった。
「生きた屍だった俺に、シェフィは本当に大事なことを教えてくれた。俺の人生に命を与えくれたのは、彼女なんだ」
 そう言ってから、ジョゼフはシャルルを見た。
 歩けばすぐそこにいる距離なのに、二人の間にはどうしようもなく深く、大きな谷があるようだった。
 空を飛んでも、谷間を土砂で埋めようとしても、それは無駄なことなのである。
「だから、俺の命は、俺の人生はシェフィのものだ。お前にくれてやるわけにはいかない」
 兄の言葉に、シャルルはがっくりとうなだれた。
 互いに、無言の時が過ぎた。
 しばらくしてから、
「ごめん……」
 シャルルは小さな声で、言った。
「いいさ」
 ジョゼフは微笑を返し、そっとシェフィールドを抱き上げた。
 しかしシェフィールドの顔に触れた時、ジョゼフはハッと息を呑む。
 シェフィールドの顔は紅潮し、その尋常ではない熱を持っていたのである。
「シェフィ…? シェフィ!!」
 ジョゼフの叫び声が、礼拝堂に響き渡った。



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