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第一話 無残の宴


 それは名を持たない。
 大多数が無意識に忌避し、臆病者は回れ右で走り出し、攻撃的な人間であれば迫害を試
みる。誰も名付けようとはしない。それとの和合を考える一部の狂人でさえ、名を与えよ
うとはしなかった。
 決まった姿かたちを持たず、形容することさえ困難な対象に、誰が名をつけられようか。

 それは貪りつくす。
 死骸、腐肉、塵芥から、鋭く尖った無数の針、産業廃棄物、天を駆ける流星まで。
 時には己が産み落とした卵でさえも、区別例外なく一呑みで喰らう。

 それは際限なく増える。
 穢れと汚濁、目を背けたくなるものを床にして卵を孵す。
 産まれた子は、親と寸分違わぬおぞましくも忌まわしい姿でせせら笑う。全てを貪り、
それは多くなり、大きくなり、はばかる事を知らず世に蔓延る。

 それは死なない。
 大地を溶かす超高温は涼風、巨鯨をも倒す猛毒は食後の葡萄酒に過ぎない。
 鍛え抜かれた刀剣は、それを二つに引き裂くが、死を与えるに及ばない。二つに引き裂か
れたままで泰然自若にまどろむのみ。
 人類の英知が生み出した悪魔の子である爆弾は、それを粉々に吹き飛ばすが、命を奪うに
いたらない。死神の鎌から逃れ、寄り集まっては元に戻る。

 その姿は常にうつろう。
 心臓が弱い人間であれば見ただけで命を奪われることさえある醜怪な肉体は、生来持った
流動性ゆえに他者の姿をとることを可能とする。つまり、ごく容易に人間社会へ紛れ込んで
しまう。
 傍らで微笑む少女は本当に少女なのか? 将来を誓い合った青年は本当に青年なのか?
 臥所をともにするその時まで、布一枚下に蠢く異形を知ることはできない。
 知ってしまえばもう遅い。ただただ叫びが空を裂く。


 ここ最近、城内の噂話はある一つのことに集中していた。ちょっとした雑談、無体な上
役への不平不満、仕事上の悩み事、馬鹿な笑い話、猥談、あるいはクーデターへの布石と
なる謀(はかりごと)まで、あらゆることが一つの話題に収束してしまうのだ。王女が召
喚した使い魔は摩訶不思議で前代未聞、耳目を集めないわけにはいかない変り種だった。

 現王打倒の志を秘めたる騎士は「奴ばらめは我々の計画を邪魔するに違いない」と考え、
お抱えの学者は「まさにまさにあらゆる生命の体現と呼ぶに相応しい。わしに任せてくれ
れば不死の秘法を解き明かすことができように」と鼻息荒く意気込み、厨房勤めの好色漢
は「ありゃあきっと具合がよろしかろうぜ、ぜひとも一晩おつき合い願いてえもんだ」と
だらしなくやにさがり、生真面目な庭師は「あんな気色の悪い生き物、きっとこの世界の
ものじゃあないね。ちらっと見ただけでも吐き気がすらあ」と吐き捨てた。

 そして数人の召使い達が、今日も今日とて井戸端会議に精を出す。
「けっこう可愛くないかな? ぷにぷにっとしてて」
「あんたの悪趣味にはほとほと呆れるわ……」
「まぁ矛先がこっちに向かなくなったのはありがたいことだけどね。いじめられるのはあ
いつのお仕事」
「使い魔ってのも骨よねぇ。私、生まれ変わっても使い魔にだけはなりたくない」
「でもでも、なんだかんだで殿下と仲良しよね」
「そう? ただいじめていじめられるだけの間柄でしょ」
「でもでもでも、話してみたらけっこういい人だったのよ」
「うげっ! あんたあれと口きいたわけ? やっぱり悪趣味だわ」
「……ふふ、実は仲良しどころじゃないのよねぇ」
「なによ。思わせぶりな口きくじゃない」
「あたしね、殿下がボソッとつぶやいてるの聞いちゃったのよね。『このままじゃ使い魔
に殺される』って」
「聞き間違いか何かでしょ。なんでメイジが使い魔に殺されなきゃいけないのよ」
「だいたいあの殿下が殺されたくらいで死ぬもんですか」
「アッハッハ、それいえてるわあ」
「わたしは仲良しだと思うんだけどなぁ……」

 皆が皆、自分の意見を述べ、声高に論ずるも、けして結論が出ることはない。
 それがどこから来たのか、誰も知らないからだ。分厚い生物図鑑、象牙の塔の学者達、
神話や伝承、代々の口伝、子供が好むおとぎ話や胡散臭い都市伝説まで、王女が召喚した
生物を特定できるものは何一つとして存在しなかった。



 上空で二度旋回し、ようやく使い魔が言わんとしていたことを理解できた。クン、と鼻
を一度鳴らす。不快な臭気がタバサの鼻腔をつつく。
 シルフィ曰く、臭いの元はリュティス郊外にそびえるヴェルサルテイル宮殿のほぼ全て
を占めるグラン・トロワ……ではなく、そのグラン・トロワに付き従うようにして建築さ
れた薄桃色の建物に他ならないそうだ。

「臭う」
「でしょう!? シルフィが言った通りなのね!」

 なるほど、風竜の鼻なら二リーグ先から気がついていてもおかしくはない。宮殿を目指
すシルフィの速度が徐々にゆるみ、咳き込み、ごね、もだえ、さっさと進むよう命ずる主
に対して不満をもらしていた理由がここにあった。
 ずばり、生ゴミの臭いが漂う。どこの田舎領主であろうと、城と名のつく場所に住んで
いれば、もう少し気をつかう。ましてやプチ・トロワを支配する傲慢で我侭な王女が許す
はずもない。

 ――何があった?

 従姉が生きようと死のうとどうでもいいが、これから向かう先に異変があったとすれば
見過ごせない。空から見るかぎりでは街はいつも通りに機能していた。痩せた馬が白菜で
いっぱいの荷車を引き、露天商が声を張り上げ、髭を伸ばした強面の衛兵が闊歩する。
 たしかに生ゴミの臭いが強いとはいえ、裏町や貧民窟とどっこいどっこいだ。風向きの
こともあるし、そうとうに鼻のきく人間であっても宮殿の異臭に気づくことはないだろう。
 ただし街から臭いを嗅いだ場合の話だ。宮殿に住んでいればそうもいかない。プチ・ト
ロワだけではなく、グラン・トロワでもこの異臭に気づいているはずだ。
 何が原因なのか。気づいていても取り除けないようなことなのか。
 平常と変わらぬリュティスの有り様は、宮殿の異様さをより一層際立たせた。違和感と
切り捨てるには強すぎる異物感の残滓を感じる。

 心配だ心配だと騒ぎ立てるシルフィを落ち着かせ――何かあればすぐに呼ぶ、と言って
おいた。タバサとしては、それがシルフィへの方便で終わってくれることを祈る――案内
の騎士に続いて廊下を歩く。
 足元を何かが走り回っている。だが目をやると何もいない。
 酷い焼け跡がある。小火以上大火事未満の火災があったようだが、あちらの絨毯が焦げ、
あちらの壁がただれ、あちらの窓枠が焼け、といった具合で火元が判然としない。
 破片を飛び散らして粉々に砕けた壷がその身を横たえていた。誰も片付けないのだろう
か。ここの主を思えば、召使の首が――文字通り――飛んでもおかしくはないのに。
 天井で動く気配を感じ、見上げるとシャンデリアが揺れている。小さな目が隙間からこ
ちらを見ていた。贅を凝らした時代物のシャンデリアに潜むは何者か。年端もいかぬ子供
でさえ狭すぎるであろうその隙間に、誰が身を隠せるというのか。
 廊下の隅に巨大な蜘蛛が巣を作っている。にんまりと笑いかけたように見えたのは気の
せいだと思いたい。
 人の気配が無い。生き物の気配はあるが、あきらかに人のものとは違う。
 一つおかしなことを見つけると、全てがおかしなことに思えてくる。幽霊の正体見たり
云々という言葉を思い出し、幽霊の二文字を再認識したことで背筋に怖気が走った。

「べつに緊張することはないさ」
 はっと前を見た。分厚い鎧に包まれた大きな背中がそこにある。
「呼び出された理由は知ってるんだろ?」
 この場には二人の人間しかいない。そしてタバサは口を動かしていない。つまり、先導
する騎士が話しているということになる。
「イザベラの使い魔自慢にほんの少しの間つきあってくれればいいんだよ」
 どの派閥に属していたとしても、タバサに対してここまで馴れ馴れしく話しかけてくる
騎士はいない。王女のことをイザベラと呼ぶ騎士もいない。きちんと敬称をつけるか、余
人の耳が無い場所で「簒奪者の娘」と憎々しげに吐き捨てるか、どちらかだ。
「あいつが召喚した使い魔ってのがまた傑作でさ」
 この騎士が使い魔なのか?
 だが、ただの人間を召喚してイザベラが自慢するとも思えない。タバサの使い魔が風竜
だと知っている以上、高位の魔獣でなければわざわざ呼びつけたりしないはずだ。騎士の
生まれではないことが、足の運びや受け答えといった細かな挙措からうかがえる。騎士で
ないとしたら、前を歩く人間は何者だろう。
「会えばきっとあんたも気に入るだろうしな……」
 タバサはゆっくりと拳を握りなおした。元々敵地ともいえるこの場所で油断するつもり
はないが、向こうの意図が読めない以上、いつも以上に気を引き締める必要がある。

 二階へ続く階段を昇り、三つの角を曲がったところで二人の侍女が立ち話をしていた。
到着以来、騎士をのぞいて初めて見る人間に、多少なりとも安堵を覚えなくはなかったが、
どうにも様子がおかしい。不躾にタバサを眺め、大声で噂話らしきものに興じている。
「野良犬と聞いていたが、それほど下卑ているわけじゃない」
「むしろイザベラよりか、よっぽどお品がいいじゃないか」
 たしかにイザベラと言った。
 前を行く騎士に輪をかけて態度が大きい。噂話というよりは、まるでタバサに聞かせよ
うとしているかのように声が高くなっていく。
「かといって狼ほど気高くはない」
「狐ほど賢くもないな。も少し賢ければ、ここまで来る前に踵を返していようさ」
 顔に見覚えが無い。イザベラに仕える侍女たちは、もっと自信なさげにおどおどしてい
る。タバサに話しかけるときも申し訳無さそうにし、目を光らせる嗜虐的な主を意識して
びくついていた。この二人にはそれがない。
「とすると、ディンゴか」
「それともコヨーテか」
 二人の侍女は態度も容姿も瓜二つだった。
 衣装が共通しているのはもちろん、深い闇色をたたえた双眸、淡く光る銀色の髪、官能
性を隠そうともしない体つき、あらゆる部分が似通っている。双子というにも似すぎてい
た。まるで複製のような……。
「どちらにしても、あれだわな」
「そうだ、あれだ」
 すれ違う直前、二人が顔を見合わせた。その口唇は頬の端まで押し広げられ、鮫の歯を
研ぎに出してもここまでは尖るまいといった皓歯をずらり並べて満面の笑みを浮かべた。
「叩き殺して食らえば美味い」
 口を揃え、さも愉快そうにケラケラと笑った。

 吸血鬼、ミノタウロス、怒り狂う火竜。どれも恐るべき敵だった。心の奥底から込み上
げてくる恐怖をなだめ、押さえつけ、前に進んでここまで来た。
 それら明確な恐怖とは違った。真綿で首を絞めるという言い回しがピタリくる。正体、
相手の意図ともに見えてこない。それゆえ対策を講じることができず、ただ阿呆のように
従って、諾々と進むのみ。
 気持ちが悪い。侍女二人の言う通り、踵を返してしまいたいが、それこそ軽挙妄動だ。
命令無視だのなんだのと咎められ、タバサだけでなく事は母にまで及ぶだろう。


 足元にぐにゃりとした感触を覚え、チラと下に目をやると、絨毯に巨大な眼がはりつい
てこちらを見ていた。思わず足を止めて見詰め合うが、数秒たたずにすっと絨毯に溶け込
んで消えてしまう。ほどなくして、どこか――おそらくは近い――で若い女が怒鳴った。
大勢で走り回るような音がそれに続く。
「……今のは?」
「さあ?」
 こちらを振り返る騎士はにやついていて、一部始終に収まりが悪く、落ち着かない。
空気はどこか重く、生ゴミの臭いはますます強くなる。
 タバサは中指で眼鏡を押し上げた。品性を隠そうともせずにやつく騎士を、半ば以上睨
むようにして見返す。

「……」
「ククッ」
「……」
「……なるほどねぇ」

 何がなるほどなのかは分からなかったが、騎士はそれで納得したらしく、再びタバサに
背を見せて歩きだした。
 生暖かい風が首筋を撫で、獣臭さが生ゴミの臭気に混じり、ひそひそと話す声、せわし
なく歩き回る音、それら一つ一つに注意を重ね、消耗していく精神力を実感しながら王女
の居室に近づいていく。イザベラが何かを企んでいることはもはや明白だったが、ここで
逃げるわけにはいかない。じわり広がる恐怖心を理不尽な王女への怒りに変え、眉一つ動
かすことなくタバサは進んだ。
 ほどなくして大扉に突き当たった。騎士は控えの間へと続く大扉に手をかけ、パーティ
ーでダンスを申し込む貴族のように、仰々しい動作で入室を促した。
「そう身構えるなよ。イザベラだってさ、本心じゃお前と仲良くしたいんだぜ?」
 控えを通され、幾重にも垂れ下がったカーテンの間から顔を出す。

 素早く目を走らせた。
 中央には黒檀と思しき黒いテーブル。その上には香草サラダや水鳥の包み焼きといった
料理が並び、メインとなる大皿は染みのついた白布で覆い隠されていた。脇には無個性を
絵に描いた中年の召使いが五人、いつの間に追い越したのか、先ほど出会った二人の侍女
がそれに連なる。
 よじれた杖に寄りかかる干からびかけた老メイジ、見覚えのある騎士……タバサの記憶
が正しければ、東花壇騎士団団長のカステルモール、扇情的な衣装に身を包んだ若く美し
い踊り子、長年の経験と押し出しの強さを感じさせる太鼓腹の行商人、鼻息で吹き飛んで
しまいそうにちっぽけな花売りの小娘、詐欺師特有の小ずるさを隠そうともしない猫背の
男、眠そうな目を限界ぎりぎりまでたるませた老婆、喪服姿特有の悲哀を一切感じさせな
い痩せこけた中年女。
 イザベラがいない。
 ある者はベッドの上に寝転び、またある者はスツールに腰掛け、所狭しとイザベラの居
室を占有し、皆一様に笑みをたたえてタバサの方へ顔を向けていた。
「やっときたねシャルロット」
「よくぞまいった」
「首を長くして待ってたんだよ」
 歓迎の意を口々に繰り返す。歓待された側としてはあまりに寒々しく、暖炉が恋しくな
る季節でもないのに指先が震えて止まらなかった。


 大皿の上にかけられた白布は赤い染みで汚れている。黒檀のテーブルが濡れているのも
その染みが原因だろう。絨毯にまでポタポタとだらしなく垂れていた。今まで何度も見て
きた、時に流し、時に流させた、赤い液体……血液だ。

 部屋の中央には案山子がつきたてられていた。装飾過剰なドレスをまとい、ミスリル銀
製の大きな冠をかぶせられた藁人形が、いったい何を模しているのかは考えるまでもなく
分かる。この部屋の主以外の何者でもない。

 半歩さがろうとし、ここまで案内してきた騎士の手が伸びる寸前横へ跳んだ。腰をさげ、
どこから何がこようとも対応できる体勢で集団へと向き直る。眼鏡がずれたが、直してい
る余裕はすでにない。
 折れそうになる膝を伸ばし、右手で杖を掴もうとしたが空をかいた。シルフィの背に杖
を置いてきたことさえ忘れている。焦燥感が増していく。

 この部屋に来るまではイザベラの悪ふざけという可能性もあった。
 だが、悪ふざけのため自分に見立てた案山子を飾ったりするだろうか。あのイザベラが。
 案山子といえば、お飾りの王、頭が空っぽの愚物を揶揄するために使われることもある
鳥追い人形。プライドの高いイザベラが、そのように屈辱的なことを許可するわけがない。
これを考え、実行した人間はイザベラ以外であり、当のイザベラがどうなったかは――タ
バサは血にまみれた大皿を見、すぐに目を逸らした――つまりこういうことなのだろう。

「どうしたねシャルロット」
 老メイジが一歩前に出た。
「遊びにきたんだろ」
 踊り子がそれに続く。
「イザベラだって楽しみにしてたんだ……ねえイザベラ」
 タバサからは見えないよう白布を持ち上げ、皿に盛られた何かに向かって騎士団長が語
りかけた。
「我らが主の友なれば我らが友も同然」
「あたしたちと遊ぼうよ、シャルロットおねえちゃん」
「イザベラはオレらの相手しすぎて疲れちまったんだとさ。だらしねえこった」
「綺麗な髪……うらやましいわあ」

 背後は壁。窓は右前方。抜け出るには充分な大きさだが、距離が遠い。駆けて四歩とは
いえ、障害物が多すぎる。主兵装である杖を持たない今、力押しは無謀が過ぎた。

「つるっつるの卵肌だ。まるで赤ん坊だね……ひっ、ひひひっ」
 引きつり笑いには耳を貸さず、口元をマントで隠した。
「赤ん坊ってことは、つまりあれだ」
 取り囲む連中には気づかれないよう小さく口笛を吹く。この距離なら聞こえるはずだ。
「そう、あれだわな」
 廊下で出会った侍女と同じ表情だが、今度は人数が違う。揃いの笑顔、揃いの口調で
「叩き殺して食らえば美味い」
 老メイジは仕込み杖の刃をあらわにし、騎士は剣を抜き放った。商人の棍棒には釘が打
ってあり、侍女のナイフは黒い液体で光っている。鋭く研いだ裁ちばさみ、庭師が使う植
木ばさみ、大振りの包丁、蛮刀、ハンマー、ノコギリ、手槍に草刈鎌。各人がバラバラの
得物を抜き放ち、歯を剥き出しにし下品に笑った。その間にも囲みは小さくなり、タバサ
との距離は三歩と半ほどもない。機があるとすれば今しかなかった。


 口元を隠していたマントを跳ね上げ、右前方の視界を塞ぐ。体勢を低くしたまま前転
し、マントに気をとられた間抜けの足を払い、絨毯の上に転がした。一連の動作の中、
ルーン詠唱を始めることも忘れない。
 押さえ込む間際、タバサが暴れることは予想できたはずだったが、部屋の中を占める
者は一人として対応できなかった。左から襲い掛かる踊り子の顔面にスツールを叩き込
み、壁を蹴って絨毯の上を転がった。その勢いで跳びあがるのと同時に窓ガラスが割れ、
タバサに向かって愛用の杖が投げ込まれる。
 打ち合わせは全くなかったが、使い魔と主ならばタイミングを合わせる必要すらない。
騎士と老メイジの頭上を飛び越えた杖を見事に受け止め、風を切ってひゅんと半回転さ
せ、目の前に構えた。ほぼ同時に詠唱が完成する。
 部屋の中に漂っていた見えない水分が、あるいは大皿から染み出していた赤い液体が、
鋭利な刃となって凝結した。乱入してきたシルフィに注意を奪われた無防備な背中を、
一すくいの情け容赦もなく氷のナイフが斬りさいなむ。
 老メイジの額が割れ、騎士の装甲は鉄クズになり、花売りが壁に叩きつけられ、老婆
の腕が肘から切断された。ベッドが切り裂かれ、スツールが吹き飛び、天幕がズタズタ、
文机が砕け散り、タバサを除いた部屋の中の全てが打ち倒され、純粋な破壊のために編
み上げられた高度な技術は、結果をもって存分にその意義を示した。

「お姉さまってば遅いのね! もっと早くシルフィを呼んでくれれば……」
 さらに不平をぶつけようとしたシルフィだったが、タバサの様子を見て思わず言葉に
詰まった。
 タバサは立ち尽くしていた。
 氷の嵐は収まっていたが、タバサの体を貫く吐き気を伴う悪寒は否定しがたいものに
なり、小さな体が小刻みに揺れ、両手で抱いても寒気はおさまってくれないだろう。強
く噛んだ唇からは鋭い痛みを感じるはずだが、それすら無かった。
 タバサは知った。連中の攻撃に真剣味がなかった理由を。こちらの攻撃に対し、ろく
な対処をしなかった理由を。
 連中は避ける必要がなかった。

 打ち倒された老メイジと騎士が重なり、二人は一つに溶けた。服が、杖が、鎧が、肉
体を含めたあらゆる所持品が一つに混じる。切り飛ばされた老婆の腕が絨毯の上を這い
ずり、そこへ加わる。他の者も同様だ。形を失くしているが、動きを手放してはいない。
這い、震え、蠢き、壊れたスツールや天幕の残骸まで飲み込み、案山子にすがりつき、
その重量で寝台を押し潰し、チーク材の鳴く音がミシミシと響く。
 名状しがたい肉色の混沌が部屋の中を満たそうとしていた。

 この常識を揺るがし狂気を誘い出す光景を前に、理性よりも野生が先んじた。不定形
の何かがタバサの足元に達しようという動きを見せた刹那、タバサ本人よりも早くシル
フィの首が窓から突き入れられた。マントをくわえとると、強引に引き寄せ、自分の背
中へと投げ落とす。
「ボヤボヤしない! 一時退却!」
 窓枠を蹴り、天に向かって飛び出した。幼生とはいえ、逃げの一手を選択した風韻竜
に追いつけるものなど存在しない。
 はずだった。


「あ……ありえないのね!」
 飛び始めてから五分に満たない間に、プチ・トロワはもちろん、リュティスでさえは
るか後方に置き去った。そんな高速度で飛ぶシルフィードに追いすがろうという物体が
ある。
 鳥に似た翼は四対八枚。全体のサイズはシルフィードと同程度か。
 人間から頭部を切り落とし、その頭部から毛という毛を全て取り去り、極端に戯画化
された手足をつければこのようになるだろう。想像力豊かな子供の悪夢といった風情だ
が、不幸なことに、これは悪夢ではなく、悪夢のような現実だった。
 風を受け、バサバサとはためいていたマントが眼下の森へと吸い込まれていく。木々
の間を縫う低空飛行にもぴったりとついて離れない。水しぶきをあげて池を割ったが、
目くらましなどものともしない。
 このままではほどなく追いつかれてしまう。

「あれなんなの!?」
「逃げて」
「逃げてるのね!」
「もっと速く」
「これ以上無理!」

 後ろの『なにか』は表情こそにこやかだが、頭部にあたる部分をつるりとした鉄兜で
覆い、右の触手で巨大な棒杭を掴んで振り回していた。棒杭には、それに見合う大きさ
の板がくくりつけられ、呪文めいた文様が描かれている。何もかも理解しがたい。
 その笑顔はこれから行われる歪んだ愉悦に期待しているだけのことで、人間のそれと
は全く性質が異なるのだろう。餓えた禽獣のヨダレに等しいものだ。間違っても騙され
てはいけない。固く拳を握り締め、二度三度と膝に叩きつけた。逃げることがかなわな
いなら、シルフィードと自分で迎撃しなければならない。ここで死ぬつもりはなかった。
まだやらなければならないことが残っている。恐怖にすくんで震えていることも、悲壮
感に酔い、英雄ぶって散ることも許されない。母のことを、父のことを忘れてはいけな
い。醜かろうとみっともなかろうと生きなければならないのだ。

 タバサはシルフィードの首にしがみつきながら必死で考えた。
 切り裂かれても血の一滴さえ流さず、人間並かそれ以上の知性を有し、騎士から絨毯
までその姿を自由自在に変化させ、風韻竜を凌駕する速度で空を飛ぶ未知の生物相手に、
どう立ち回るべきなのか。
 うなじに感じる生臭い吐息は恐怖心からくる錯覚か。それとも……だが振り返る暇が
あるなら考えなければ。
 時間はもうほとんど残されていない。


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