あの作品のキャラがルイズに召喚されました @ ウィキ

虚無の王-24


 火の塔を過ぎた。
 空を置き去りにして来た広場は、冷たい闇に沈んでいた。
 僅かな物音、背筋を撫でる冷感、些細な切っ掛けが度々ギーシュを捕まえ、ヴェストリの広場へと振り返らせた。
 神を信じて生きる少年は、その度に始祖を呪う言葉を吐き捨て、同じ数だけ、自身を悪罵した。
 互いの名誉と生命とを賭けて戦うべき決闘の相手を、一人死地に残して来た。
 貴族として、これ程恥ずべき事は無い。
 だが、今、ギーシュを呵責するのは、もっと少年らしい、純粋な感情だ。
 学生の姿は殆ど見られなかった。
 幸福な恋人達が二人で迎える朝に備え、独り者が夜を諦めるには十分過ぎる時間だった。

「どう言う事なの!ねえ!」

 気付くとアウストリの広場だった。
 女神の様に美しい少女達は、揃って一人だった。
 ルイズの声は、いつもより甲高かった。
 その鋭さで、モンモランシーから彼女が知りもしない事実を抉り出そうとしていた。
 ギーシュは空気を啜り込むと、拳を固く握った。
 恋人を庇わなければならないし、不幸な仲間が、残酷な現場をその目にしないで済む様、取り計らってやらねばならなかった。
 四つの目線が一度に振り向いた。
 使い魔と、片思いの相手と、恩人と、恋人の悪友と。
 それぞれの立場に従って異なる光を放つ目が、一つの事を聞いていた。

「ギーシュ!空はどうしたの!?」
「――――ルイズ。そして他の皆も。どうか、落ち着いて聞いて欲しい」

 一番、落ち着かなければならないのは、他ならぬ当人だった。
 心臓が胃を乱雑に蹴り飛ばして、ひっくり返した。
 適切な説明の言葉は、どこにも見つからず、舌は空転するばかりだった。

「ギーシュ!ねえ!ギーシュ!」

 再三再四の強硬な催促が、頭の中に積み上げられた積み木を滅茶苦茶にした。

「落ち着いて!落ち着いてくれ給え!大変な事が起きている!オールド・オスマンが彼を亡き者にしようとしているんだ!」

 単純な少年の思考回路は、意図せずして正解を選び取った。
 核心に飛び込めば、細部は自ずと着いて来る物だ。
 ルイズの表情が、冷めた脂の様に固まった。

「……それ、どういう事?」
「王国のあちこちで暴動が起きているだろう。オールド・オスマンは彼が原因だと考えている」
「そんな筈無いじゃない!」
「300歳の爺さんが考える事なんて、僕に判るもんか!とにかく、学院長は本気だ。手勢を集めて、たった一人の平民を囲んでいるんだ!」

 一つの魔法燈が、溜息と共に目を閉じた。
 広場からは人影が消えていた。
 役割を終えた灯が、一つ一つと消えて行く。
 残るのは、五人を照らす二つだけとなった。
 時が凍り付いた。
 ギーシュは警戒した。
 それは、項垂れた、敗者の沈黙とは違った。
 放たれる寸前の魔法が、杖先で保つ静止の時間に過ぎなかった。

「何人?」
「50人以上だ。殆どは学生だが、教師も居る」
「場所は?ヴェストリの広場の、どこ?」
「……聞いてどうするんだ?」

 ルイズはもう、ギーシュを見ていなかった。
 夜空の色に染まった芝生の上を、魔法灯の光が嘗める様に移動した。
 義理固い少年は、空との約束を思い出さなければならなかった。

「待つんだ!一体、どうする気だ!」
「決まっているでしょうっ。空は私の使い魔よ。使い魔を見殺しにするメイジは居ないわっ」

 声だけが返って来た。
 ルイズが一体自分の話をどこまで聞いていて、どこから聞いていないのか、ギーシュには判らなくなった。
 出来もしない練金の魔法に指名された時だって、もう少しは動揺を見せた筈だった。

「言っただろう。オールド・オスマンは彼を亡き者にしようとしている!その為、50人以上もの手勢を集めている!そんな所に行ったらどうなるかくらい、判るだろう!」

 空の言葉は、敢えて口にしなかった。
 きっと、逆効果になる。

「勿論、判っているわっ。生命が惜しいなんて、貴族じゃないっ」

 胸に刺さる一言だった。
 勿論、ギーシュとて我が身可愛さに一人立ち去った訳では無かった。
 絶えず、如何に生きるべきかを教えられて来た。それは、如何に死ぬべきかにも通じる。
 だが、あの時、あの広場には、どんな生き方も死に方も埋まってはいなかった。

「彼は王権に唾する賊徒として裁かれるんだ!生命だけならいい!名誉だって失うかも知れない!」
「物事の価値は私が決めるわっ。貴族の誇りに、名誉や、まして生命より安い値を付ける気なんてないっ」
「貴女、こんな時まで素直じゃないわねえっ」

 不意だった。
 ルイズの隣に、キュルケの微笑が現れた。

「なによ、それっ!」
「別に。じゃ、行きましょうかっ」
「付き合う」

 二つの真っ白な背中と、褐色の背中が遠離って行った。
 ギーシュは一人立ち尽くしたが、それも一時だった。
 彼には三人の乙女よりもずっと悩む時間が有って、なにより男だった。

「待ちなさいよ!どこ行く気!」

 攻守が変わった。
 最後まで残った魔法燈の中に、モンランシーが立っていた。
 水精霊の様なドレスの中に、痩せぎすの影が浮かんでいた。

「決まっている。彼の所だ」
「何、言っているのよ!そんな所に行って、どうなるかくらい判らないの!あなたが言った事じゃない!」
「こんな事を言うと笑われるかも知れないがね。彼と居る時、僕は貴賤の別を忘れた。友情の様な物を感じていたんだ。主人であるルイズが行った。無関係な筈の二人だって行った。皆、女の子だ。ここで行かなければ、僕は一生、貴族を名乗れなくなる」
「何、気取っているのよ!似合わない!」
「そうだ。僕は気取っているんだ。そして、多分、それが貴族の務めなのだ」
「馬鹿じゃないのっ!」

 モンモランシーは叫んだ。ヒステリックな声だった。
 そして、女は一切の刺も含まぬヒステリーを起こせるものだ。

「私は行かないわよ……」
「勿論だ。是非、そうして欲しい」
「嫌だわ、男、て。残された者の事なんて、一つも考えないのね……」
「それは誤解だ」

 昔から考えていた事が有る。
 女は子を残す。教育を与え、一門に人士を残す。
 では、男は?

「昔、金持ちの貴族に馬鹿にされてねえ。祖父や先祖を恨んだものさ。でも、今なら判る。男が子孫の為に残せる物は、誇り高き、勇敢な生涯だけなんだ」

 行って来る――――そう言い置いて、ギーシュは三人を追った。
 背後で最後の魔法燈が消えた。
 モンモランシーはもう、何も言わなかった。
 彼女は泣いているだろうか。仕方が無い。泣くのは女の仕事なのだから。
 ギーシュは振り向かずに駆ける。杖を握る手に力が籠もった。守る杖後に憂い無し。騎士道精神揺るぎ無き。
 戻って、自分に何が出来るだろう。ふと考えて、止めた。
 想像を超えた事態に、想像を働かせる事は無駄だった。
 名誉や尊厳を守る事ばかり考えて、逆にそれを失うのだとしたら、馬鹿馬鹿しい話だ。
 どんな状況であれ、男は一人敢然と立てば良い。
 二人の背中が見えた。ルイズとキュルケだ。
 パーティドレスの背は、大胆に開かれていた。
 或いは見納めかも知れない。せめて視線でくらいは、舐めても罰は当たらないだろう。
 本塔を迂回した二人は、ヴェストリの広場への最短距離を選ばず、女子寮塔に向かっていた。
 舞踏会に杖を持ち込む不作法者は、恐らくタバサ一人だった。
 杖を携え、“牙”を華奢な脚に備えた少女の姿だけが無かった。
 プライドが高ければ、我も強い二人が、タバサに抜け駆けを許すとも思えない。
 その俊敏を活かして、状況を探りに行ったのなら、有りそうな話だ。
 恐るべき破壊魔法を操る二人だが、脚力では流石にギーシュが上だった。
 白と黒のコントラストも鮮やかな剥き出しの背中に、指を這わせて見ようとも思ったが、自分の年齢が、それを冗談で許してくれそうも無い事を思い出した。
 その滑らかな肩を男らしく叩く事も諦めて、背後から声をかけた。
 その声は、二人の耳に届かなかった。
 当人の耳にさえ届かなかった。
 もう一度、声をかけ直す事は勿論、今、自分がどこに居て、何をしようとしたのかさえ、綺麗に頭から消えた。
 爆音が耳を劈いた。
 本塔と火の塔の間に、もう一つの塔が聳えていた。
 “塔”は三人に向けて倒れて来た。
 誰も、動く事が出来なかった。
 視野に墨がぶち撒けられ、硬い感触が頭を叩き、舌の上に砂が貼り付いた時にも、その正体が吹き上がる土砂である事に気づけなかった。
 三人は激しく咳き込んだ。
 粉塵が眼に食い込み、唾液をたっぷりと吸った砂が、どこまでも執拗に口腔を舐っていた。
 目が開く様になったのが先か、砂煙が収まったのが先かは、誰にも判らなかった。
 視野を取り戻した時、三つに増えていた塔は、一つに減っていた。
 夜空に二つの月が並んでいた。
 月の滴から生まれた巨大な龍は、その強暴な食欲を以て地上を食い荒らし、本塔も、火の塔も、広場の緑も、その一切を天に持ち去ろうとしていた。

「圓月杯!」

 その光景は、フーケのゴーレムを丸飲みにした竜巻を、否応無しに連想させた。
 学院長秘蔵の恐るべきマジックアイテム。
 まさか、たった一人の平民相手にこんな物まで持ち出すとは、夢にも思わなかった。
 烈風と土砂の城壁に、一つの影が浮かんだ。
 黒いドレスから覗く白い背中が、妙に艶めかしく、鮮やかに見えた。
 タバサだ。圓月杯の余波に巻き込まれたらしい。ギーシュは救出を謀る。
 少年の勇気と献身は然したる意味を持たなかったが、正しく報われた。
 彼女の使い魔シルフィードは彼よりも遙かに忠実に、機敏に、転落する主人のスカートを銜え上げた。
 惜しむらくは、決定的な瞬間を記憶に刻むだけの余裕を、ギーシュが欠いていた事だろうか。

 ヴェストリの広場から、砂が絶え間なく飛んで来た。
 その多くは空気とぶつかり、砂埃となって舞い上がった。
 大振りの粒だけが礫となって体を叩いた。
 明日には青痣を覚悟しなければならないだろう。後、10メイルも前に居たら、皮膚に突き刺さっていたかも知れない。
 ルイズの顔に、絶望感が滲み出した。
 圓月杯の力が、貴族の矜持と、持ち前の強情を吹き飛ばした時、そこには17歳の少女しか残っていなかった。
 ギーシュは反射的に飛び出した。鈍い頭に、珍しく虫の知らせが下りた。
 御陰で、ルイズに一歩先んじる事が出来た。

「待つんだ!」

 ギーシュはルイズを抱き留めた。
 返って来たのは、無言の抵抗だ。それだけに直接的だったが、同じく興奮状態に有る少年は、ミミズ腫れ程度で怯みはしない。

「放してっ!」
「待てっ!落ち着くんだっ!あんな所に飛び込んだらっ……!」
「あそこに、空が居るのっ!」

 つい、とキュルケが歩み出た。
 燃え上がる情熱を身上とする女の眼は冷めていた。
 平手が一閃。ルイズの恐慌と興奮とを断ち切った。

「キュルケ……?」

 ルイズが声を落とした所に、もう一発。

「!……何するのよ!」
「少しは、落ち着きなさい。杖を持たずに、何が出来るつもり?」
「彼は大丈夫」

 状況を確認して来たタバサの言葉に、ルイズから憑き物が落ちた。
 仮にもヴァリエール公爵家の三女だ。
 知性も教養もあれば、常人では正視も叶わない打撃とて、正面から受け止め、耐えるだけの精神は備わっている。

「……杖を取りに行きましょう」

 もう、拘束は必要無かった。
 取り敢えず、圓月杯の効力が収まるまで、出来る事は何も無い。
 杖を手にする二人だけが残された。
 タバサの無表情は、いつもながらに、その内心を窺う事を許さなかった。
 眼鏡を外すと、こびり付いた砂を丁寧に落とす。
 ギーシュは滅多に見る事が出来ない、その素顔に見入った。
 彼女が言った事よりも、言わなかった事が気にかかった。


   * * *


 一つの広場と、二つの塔を食い散らかした巨龍が、不貞不貞しく蜷局を巻いていた。
 “空”は土砂で濁り、手が届く先さえ見えそうも無かった。
 満腹の竜巻がその目を閉じるまで、一同は巨大な石像の陰に身を潜めた。
 変わり者の貴族が寄贈したと言うイーヴァルティの像だ。
 左手を失い、凡人と堕した勇者は、メイジの弾除けが精々だった。
 四人の心臓が刻む時間は、その長さと言い、形質と言い、まるで異なる物だった。
 ギーシュは武者震いを起こして、突撃の時を待っていた。
 方策は何一つとして思いつかなかったが、我が身に不幸が訪れた時に叫ぶ言葉だけは決まっていた。
 女王陛下万歳!女王陛下万歳!女王陛下万歳!――――
 キュルケは固く唇を結んでいる。杖先で発射の瞬間を待つ炎の様相だ。
 ルイズは瞬きも忘れて、風の向こうを睨んでいる。そうする事で、中が覗けると信じているのかも知れない。
 脱げ落ちた貴族の仮面を拾う事も忘れ、言い知れぬ不安と恐怖に小さな胸を痛める女の子の素顔を晒している。
 純白のドレスは所々が破れていた。
 白い肩には血がうっすらと滲んでいた。
 風が若干衰えるのを目にして、飛び込もうとした代償だった。
 眼前で最早何者とも知れぬ石像が真っ二つにへし折れるのを目にしては、退くしか無かった。

「ねえ。タバサ。空は無事なのよね?」

 タバサは振り向いた。
 ルイズの表情には覚えが有った。
 物心付いて間もない頃だ。母が病気で伏せったと聞いた時、鏡の向こうに見えた顔だった。

「――――多分」
「多分、て!」

 タバサは竜巻に向き直った。
 シュヴァリエの少女は、危機を前にして、珍しく考え込んでいた。
 脳裏で構築される複雑な思考は、実の所、単純極まりない事実を忌避しての物だった。
 ルイズが先頭を切って飛び出した。
 ギーシュは敢えて風上に立った。
 砂が礫と化して頬に弾けた。
 蹌踉け、蹌踉けて危うく庇う筈の乙女を押し倒しかけたが、それでも体ごと吹き飛ばされる程では無かった。
 後からは二人が悠々着いて来た。
 タバサが杖を振るった。
 スカートを抑えたり、造花の薔薇を心配する必要は、もう無さそうだった。
 グズグズの地面が、靴の中にこっそりと土を放り込んだ。四人は構わず進んだ。
 レビテーションに無駄な精神力を費やしたくは無かった。
 半ばを残した本塔を抜けた。
 最初に息を飲んだのは、ルイズだった。
 陰気な広場は、地獄絵図の様相を呈していた。
 崩れた塔から、砕けた石像から、紫と黒のマントが垂れ下がっていた。
 その上は見ない方が良さそうだったが、目を背けた時には、既に胃が横転していた。
 ルイズは口元を抑えた。
 俯いた時、誰かと目が合った。
 錯覚だった。
 どこの誰とも判らず、貴族かどうかも判別出来ないその男は、どんな物も見ていなかった。

「空ぁっ!」

 声に涙が混じった。
 足下には砂塵が立ち込めていた。
 何も見えなかったが、恐らく、何も有りはしなかった。
 狂風神の雫が、何もかもを風に溶かして、持ち去っていた。
 粉塵の向こうに、影が浮いた。
 堆く積もった瓦礫の上。見間違え様が無い。毎日、目にして来た姿だ。

「空っ!」

 迷子の子犬が飼い主を見付けた時、ギーシュは思わず、その手を掴んでいた。
 何かがおかしい。
 あの影は、確かに空だ。その筈だ。
 何故、頭があの高さにある?

「……なんや、ボーズ。ルイズ、来させるな言うたやんか。ホンマ、使えんやっちゃなあ」

 ルイズは影とギーシュの間で目線を巡らした。
 掴まれた手を、振り解く事はしなかった。

「空……?」

 ルイズは影に向き直った。夢遊病者にも似た足取りだった。
 その後に続いたギーシュに、その足取りを真似たつもりは無かった。
 キュルケも同様だ。
 タバサだけが、足にした“玉璽〈レガリア〉”に相応しい、鋭い眼を見せていた。
 革ベルトを備えた、長大な杖が振るわれる。
 砂塵が渦となって弾け飛んだ時、三人は声を失った。
 瓦礫の山は、どこにも無かった。
 そこには、精神力を最後の一片まで削り、遂には力尽きたメイジ。勇敢なる貴族達の体が、無造作に折り重なっていた。

「オールド・オスマン!」

 ギーシュは叫んだ。
 サハラのエルフでもここまではしないだろう、残忍と野蛮と侮辱の山。
 その頂点に倒れるのは、齡300とも噂される学院長だ。
 それだけなら、ルイズも、キュルケも、ギーシュも顔色を失い、為す所を忘れる事は無かっただろう。
 義憤に燃え、その名誉を踏みにじられた貴族を悼み、救出を急ぐと共に、報復を誓った筈だ。
 三人は恐る恐る目線を上げる。
 そこには、今決して、目にしたくない人物が居た。
 その安否に胸を痛め、探し求めた筈の人物が居た。
 空は傲然、堆く積まれた貴族の上に座していた。
 スニーカーは失われ、ジーンズはズタズタに裂けていた。
 その下に、金属の脚が覗いた。
 曲板が肋骨の様に機械部品を庇い、踵と爪先には大小の車輪が備えられていた。

「圓月杯」

 タバサの声は、誰の耳にも届かなかった。
 いや、誰の意識にも届かなかった。
 空だけが表情を見せた。
 義足の後輪には、確かに例のルーンが記されていた。

「さて――――」

 空は目線を泳がせた。
 誤魔化す素振りとは違った。
 獲物を射落とした猟師が、ふと“空”に投げかける視線だった。
 三人は空の声を待った。
 その顔には、どんな表情も浮かんでいなかった。
 羽ばたきが耳朶を打った。
 反射的に伸ばした手を、ずしりと重たい感触が叩く。
 ルイズの手に収まったのは、一冊の本だ。
 装飾画家、細密画家、飾り文字画家、製本師。幾多の職人達の労苦が重なった古書は、見るからに豪奢な物だった。

「これ……?」
「始祖の祈祷書。四の秘宝の一つや」
「秘宝?」
「せや。四の担い手、四の使い魔、四のルビー、四の秘宝」

 それは、誰も知らない筈の予言だった。

「担い手は、始祖の秘宝と始祖のルビーとを手にする事で、虚無の力に覚醒する。ま、そいつは学院の宝物庫に在った奴さかい。偽書の可能性も高いけどな」

 何を言っている?
 空の長広舌を、三人は呆然聞き流した。
 鼻に圧迫感を伴う刺激が走った。急激に流れ込んだ血で頭がパンパンに膨れ、正常な思考を押し潰した。
 空は続ける。
 秘宝は単体ではその意味を為さない。必ず始祖のルビーと相伴わなければならない。
 そして、ルビーはトリステイン、アルビオン、ガリアの三王家並びに、ロマリア教皇が所持している。
 トリスタニアなら、目と鼻の先だ。

「奪って来るか?」

 空は平然と言った。恐ろしい提案だった。
 ルイズは足下が小舟の頼りなさで揺れるのを感じた。
 何を言っている?
 空は何を言っている?

「……どう言う事?」

 肺からありったけの空気を集めて、漸く、それだけの声を絞り出した。

「思うとったより、鈍い奴っちゃなあ、ルイズ。見てみ」

 空は左手を差し出した。
 手背で、ルーンが不気味な光を放っていた。

「こいつはな、四の使い魔の一つ。ガンダールヴのルーンや。『始祖ブリミルの使い魔たち』にも載っとる」
「……それ、て……」
「決まっとるやろ。お前の系統は“虚無”や」

 ルイズは固唾を飲んだ。
 鉛の感触が、喉を押し広げて、胃に落ちた。
 虚無?
 なんだ?
 何の事だ?
 空は何を言っている?

「な、何よ。何言ってるのよ……私の“道”は“爆風の道〈ブラスト・ロード〉”よ。あんたがそう言ったんじゃない……あんたが、そう言ってくれたんじゃない……!」
「何も知らへんかったからなあ。御陰で、ちょいと脇道に逸れとったわ。お前の力の正体判った以上や。もう、見当違いの手探り続ける意味もあらへんやろ」
「いやよ……」

 声が震えた。
 虚無は始祖ブリミルが操った伝説の系統だ。
 十数年間の苦しみを贖うにも、ずっと自分を心配してくれていた家族を安堵させ、喜ばせるにも、自分を“ゼロ”と蔑んで来た連中を見返すにも、これ以上の物は無い。
 だが、望外の幸運を、ルイズは喜んで受け止める気になれなかった。
 半年間、二人で歩んで来た“道”を平然、脇道と言い捨てる空を受け容れたくなかった。

「私の“道”は“爆風”よ。私は“破烈の王”だわ。虚無なんて知らない」
「あんなあ、ルイズ。よう考えてみい。なして、6000年も経った今、ずーっと消えとった“虚無”が復活しようとしとると思う?」

 ハルケギニアは、6000年もの間、他の文明圏との接触も殆ど無く、狭い半島に閉じこもって来た。
 その文明は自重で歪みに歪んでいる。いずれ自壊自滅は免れないだろう。レコンキスタはその先兵だ。

「今、お前みたいな“虚無”の担い手が生まれとんのはや。もっぺん始祖の奇跡を再現しろ。もっぺん世界を作り直せ。そう言うこっちゃないんか?それがお前の運命やったら、貴族として逃げたらアカンやろ?」

 後退ると言うよりも、倒れまいとする足取りだった。
 ルイズは首を揺らした。
 世界を作り直せ?
 その前は?
 堆く折り重なった貴族達の上から、異邦人の冷たい瞳が降りて来た。

「いやよ……私は虚無なんて知らない……世界なんて知らない……」
「担い手はお前だけやあらへんで。ワイの知っとる限りでもう一人居る。ガリアの王様や」

 ルイズよりも、タバサが反応を見せた。柳眉が僅かに跳ねる。

「やばいおっさんやで。レコンキスタも、あいつが糸引いとる。いつか、この国にかて手伸ばすやろ。あないなんに、この世界委ねてええんか?放っといてええんか?」

 ルイズは力無く首を揺らした。その仕草には、どんな意味も含まれていなかった。
 ただ、眼にした事、耳にした事、全てを受け容れたくなかった。

「ワイはどうなる?虚無の使い魔として、こっち喚ばれたんやで?その為に喚ばれたんやで?」
「違うっ!」

 ルイズは体の中に残っていた、ありったけの声を吐き出した。

「違うっ。あんたは、虚無の使い魔なんかじゃないっ。あんたは……あんたは私の……」

 滲んだ声が、目尻の涙に溶け落ちた。
 空は頭を垂れた。重い溜息が、その広い肩を押し潰していた。
 オスマンの剛腕によって狂った歯車を組み直す方法は、足下のどこにも転がってはいなかった。
 とにかく、この時、この場にルイズが来てしまったのが致命的だ。
 こうなると、選べる方法は限られて来る。

「――――どうしても、その気になれへんか?」
「だって!……私の“道”は虚無なんかじゃないもの!あんたは虚無の使い魔なんかじゃないもの!」
「そか」

 空はそのままの姿勢で言った。
 最後の風が、広場に舞い降りた。
 土煙った“空”には、星が戻っていた。
 二つの月が、消え去った本塔越しに光りを投げかけていた。
 ルイズは肩の震えを大きな息で吐き出した。
 頬に熱が溜まり、体の芯は凍て付きそうだった。
 沈黙が重かった。
 誰もが事態を飲み込めずにいた。
 ルイズはもう一度、空に呼びかけた。呼びかけようとした。

「ルイズ。お前にはホンマ、感謝しとる。色々世話んなったし、ワイ学校通った事無かったさかい。ここは居心地ええ所やった」

 ルイズは身を強ばらせた。
 主人の心理が乗り移ったかの様に、心臓が身を縮こまらせた。
 いつもの様に聞いていた礼の言葉。
 今は絶対に聞きたくない言葉だった。

「空……」

 無意識の一歩、縋る様な手振りを、空の目線が止めた。
 力の無い、涙に滲んだ微笑が、足取りと共に凍り付いた。

「せやけどな――――」

 立ち尽くすルイズに、空は言った。

「お前、もういらへんから」

 足下が、パクリと開いた。
 滑り落ちる視界に残る目には、どこかで見覚えがあった。
 昔、家族と街に出かけた時の事だ。
 しつこく付きまとう旅芸人を、従者が小銭を投げ付け、追い払った。
 這い蹲って金を拾い集める無頼者に、姉エレオノールが見せた目――――。
 学院の厨房からは、定期的に誰かが辞めて行く。
 規則でも引退でも無い。
 料理長のマルトーは、誰か一人に“使えない奴”と言う役割を回す。
 ガス抜きの道具となった使用人は、やがて全ての自信を失い、本当に失態を繰り返し、逃げ出す様に辞めて行く。
 一度だけ、目にした。立ち去り際の丸い背中に、厨房の一同が向けていた目――――。
 耳の中で、何かが切れた。
 ルイズは自分が泣いている事に気付かなかった。
 自分が両膝を付いている事に気付かなかった。
 どんな物も目に入らず、どんな音も聞こえなかった。
 空は自身を、虚無の使い魔と称した。
 真っ向否定したルイズは、一方で、彼が自分にとって何者であるのかを、断じる事が出来なかった。
 心の中で、ヴァリエール家の三女と、一人の少女が葛藤を繰り広げていた。

「ワイが“空”の飛び方、教えたるっ」
「それはお前にしか出来へん、お前だけの魔法やろ。お前だけの“道”やろ」
「ルイズ~。急げ。特訓やで。特訓、特訓やっ」
「なんちゅーの?御主人様守るんが使い魔の仕事やろ」
「ルイズかて出来る事が有る。それで十分やろ」
「そんでも一切合切認めへん、言う親やったらな、そん時はワイが連れて逃げたるさかい。安心しとき」
「せやなあ……毎朝起きたら、おはよう、言うてくれる奴居るんは、悪くない気分やな」

 脳裏に空との半年間が浮かんだ。
 今なら判る。自分は、この異世界から来た奇妙な男を、本当の兄の様に感じ始めていたのだ。
 なのに、たった一言が、この人生最良と思えた半年間も、共に歩んで来た道も、二人で交わした誓いも、自身の気持ちも、その全てを“嘘”に変えてしまった。
 ルイズは泣いた。火が付いた様に泣いた。
 信じ、頼り、慕った男の言葉が剃刀の鋭利さで思考を、年齢を裁ち落とし、貴族の令嬢を幼児に返した。

「空ぁぁぁっっっっ!!」

 崩れ落ちた塔の狭間に、絶叫が木霊した。

「……貴方と言う人はっ!貴方と言う人はっ!」

 ギーシュは半ば曇った視野で、空を見上げていた。
 杖を手にする手が震えた。
 体の中を、凍てつく様な霧を含んだ風と、激情の炎とが交錯した。

「彼女がどれほど、貴方の身を案じていたか!……どれほどの決心を持ってこの場に来たか!……それが、貴方には判らないのかっ!そんな彼女に、貴方はそんなにも残酷な言葉を投げかけるのか!」
「なんや、ボーズ」

 空はゆらり、と立ち上がった。

「また、決闘かい?」
「これは決闘では無いっ。男の、いや、人としての道を踏み外した、貴方への裁きだっ!」

 タバサの目は空の踵へ吸い込まれた。
 ウィールのスカルマークが、おいでおいでと誘っていた。
 圓月杯。狂風神の雫。
 恐らく、あれがタルブには無かった“風の玉璽”だろう。
 魔法の力を決して受け付けず、物理的な衝撃に対しても無敵に等しい防御力を誇る筈の本塔。
 その外壁はめくり返され、上から半分は無造作にもぎ取られていた。
 宝物庫の秘宝も、6000年間蓄えられた書物も、歴史の向こうへ消えてしまった。
 広場?そんな物はどこにも無い。
 “王”の力。
 “玉璽”の本当の力。
 この二つが得られるなら、タバサがその小さな胸に秘めてきた渇望は、容易く成就出来る。
 空とルイズの関係が解消されるのも、寧ろ都合が良い。
 都合が良いが……。

「でも、なんだか不愉快」

 タバサは大きな杖を一旋させると、“玉璽”を転がした。
 キュルケは唇を噛み締める。臼歯の間で、半年間の記憶と、諸々の感情とを磨り潰す。
 赤い唇が破れ、血が滴り落ちた。
 空の脚が、月明かりを冷たく弾いた。見たことも無い、不思議な金属は、銅鏡の様に磨かれていた。
 脳裏に、甲斐甲斐しく車椅子を押すルイズの姿が浮かぶ。

「普通に立てるんじゃないっ!馬鹿にしてっ!」

 ヴァリエール家との関係も、嘗てルイズに抱いていた反感も、腹の底で沸々燃える焼灼感の中で、忽ち灰に変わった。
 恋に生きる女にとって、少女の純情を弄んだ空のやり口は、何よりも許せない物だ。

「何、腑抜けてるのよルイズ!あの男はもう、私達の敵よ!」

 ルイズは弾かれた様に顔を上げた。
 背筋が凍った。涙の隙間に、空の姿が土足で踏み入った。
 自分を見下ろす目。ドブの様に濁った目――――。

(……誰、この人?)

 ルイズは胸の内で頭を振る。

(私、こんな人、知らないっ!)


 ――――To be continued


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