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風の行く先-01

 絶望を視覚的に表現できるとするならば、”それ”は正しく相応しい。
 巨大な銀色の体躯は、それだけで見るものに畏怖の感情を呼び起こす。周囲を取り囲む二百近い板状のものから吐き出される赤々とした光線は死角なく降り注ぎ、本体下部から生えた柱上の砲台からは緑色をした光弾が全てを蒸発させる。
 現代兵器ではその装甲の一枚も貫く事も出来ず、吐き出す光線の一条も防ぐ事が叶わない。最強の矛と盾をもった存在、それは正しく絶望である。
 人類全ての敵、明確で強大な悪、それは憎しみと恐れを持って星船と呼ばれた。



 ささくれ立ち、瓦礫で埋め尽くされた道を狙撃銃を片手に男が走る。
 疎開がなされた町はゴーストタウンとなっていた。避難する途中に落とされたのか、ビニール製の人形が道路にぽつんと横になっている様が物悲しい。
 乗り捨てられた自動車が引っくり返って腹を見せ、建物という建物は殆ど薙ぎ払われている。廃墟というよりも更地。これが、ほんの数ヶ月前まで日本の首都として栄えた町などとは誰も想像できまい。
 倒れたバイクを飛び越えたところで立ち止まり、後方に振り返りざまに引き金を引く。マズルフラッシュの直後、自ら射線上に飛び込むかのように銀色のガンシップが現われ銃弾の洗礼を受けた。
 結果を確認する間も惜しいと走り出すと、奇跡的に残っていたビルの影に身を隠した。
 わずかばかりに訪れた休息に、急いで相棒の弾倉を交換する。
 対物狙撃銃、ライサンダーZ。異星人と人間の技術の合いの子は、無茶な扱いにも動作不良を起こすこと無く男に付き従ってくれている。
 口径12.7mm、銃としては最大級に部類されるものではあるが、たかだか個人携帯火器レベルで戦車砲に迫る装甲貫徹力というふざけた威力は、実射したことの無い人間からすれば出鱈目を通り越して狂人の妄言に聞こえるだろう。
 かくいう男自身も緒元を聞いた時には欠片すら信じていなかった一人だ。けれど今ではその言葉は真実だったと確信している。
 神経をささくれ立たせる嫌な音を耳にし、忌々しげに空を振り仰ぐ。
 空には先ほど撃墜したものと寸分違わぬ姿のガンシップの群れが男を捜して飛び交っている。彼らの後ろに空は見えない。ただ銀色の”星船”と呼ばれる、侵略者たちの母船がビルから見える空一杯に浮かんでいた。
 直径ほぼ千m、銀色の球体は地を這う虫けらなど歯牙にもかけていないかのように、威風堂々と浮遊している。
――そうやって、余裕ぶっているがいい。すぐに地べたに叩き落してやる。
 家族を殺され、仲間を喪い、故郷を更地に変えられた。
 守るべき者も、帰るべき場所も、もはや残されていなかった。
 ただ心にあるのは黒々とした憎しみだけ、諦観など心に入れる隙も無い。
 虎の子の防護衣はとっくにバッテリーが切れていた。眼は激しい光で半ば焼け付き、片耳は鼓膜が破れ、体中に穴を穿たれ、骨も数本イカレている。満身創痍、それでも憎悪だけを糧にしてここまで来た。
 首筋にチリつくような感覚を覚えた。隠れていたビルから飛び出した直後、星船の光弾が直撃しビルが倒壊を始めた。
 目標を発見したガンシップがすぐさま殺到する。
 アスファルトを転がりながら不自然な姿勢で無理やり敵に照準して発砲、止まることなく転がりながら槓悍を引いて装填。一瞬前までいた場所を、光線が走り道路がめくれ上がった。
 スコープを覗く暇すら惜しみ、銃を構えて撃ち、後方へ転がる。
 発砲、回避、装填。
 機械よりも正確に一連の動作を繰り返す。怒りは熱く身を焦がすも、動作に一切の支障をもたらさない。
 光線がまたしても迫り、回避しようとしたが身体がそれを裏切った。
 唐突に膝が落ち、わけも分からずに転倒した。
 見れば、いつのまに攻撃を食らったのか腹に黒々とした空洞が口を広げていた。血は、流れていない。痛みすら無いがそれでも傷は確実に力を奪っていた。
 せり上がる熱に、堪えられず吐血した。着衣を濡らす赤々とした鮮やかな血に今まで感じたことも無い絶望感が訪れる。

 立ち上がろうと足掻くが、手足は地面を擦るだけだ。
――ここまできて!
 一瞬の内に喪った家族と仲間の顔が脳裏をよぎる。助けられなかった、助けたかったかけがえの無い者たち。
 視界を敵の光弾が埋め尽くた。
 異星人との戦闘で初めて恐怖した。復讐を遂げる事も無く無意味に死ぬ事が、どうしようもなく恐ろしかった。
「あ、あ゛ああああぁああっ!」
 無念が口から飛び出したその時、勢いよく横に押し倒された。すぐ脇に光弾が着弾し、アスファルトにクレーターを作る。
 男を押し倒した何者かは、男を引き摺るようにして崩れたビルの陰へと移動した。
「大丈夫か!?」
 男をすんでの所で助けた者はこの場には似つかわしくない格好をしていた。
 身軽さと、低視認性を優先した都市迷彩、灰色に化粧した顔。スカウトだ。常ならば敵をいち早く発見し、情報を司令部に渡すのが仕事の彼らがなぜ激戦の最中に居るのか。
「なにを、している?」
「なに、ちと格好をつけにな。最後の最後までケツまくってたんじゃ、あの世の娘に会わす顔がねぇからよ」
 スカウトの直ぐ傍を、ビルを貫通して光線が薙いだ。
「っと、無駄話してる暇はねぇな。これ、拾った弾なんだけどよ。使えや。俺の銃じゃ使えないが、お前のなら使えるだろ?」
 こんな状況だというのに、スカウトは朗らかに笑いながら弁当箱ほどの弾倉を取り出すと男に押し付けた。
「なんでお前笑ってるんだ?」
「なんでって、そりゃあお前が生きてるからだよ。聞いてるぜ、お前の噂」
 まるで英雄を見るかのようなスカウトの眼に、男は居心地の悪さを感じた。
 自分は、そんな大層なものではない。正義のヒーローなどではなく、ただ復讐のために戦っていただけだ。
「俺は、そんなんじゃ」
 続く言葉は爆音にかき消された。
 もうもうと立ち込める粉塵に手をかざした。視界が限りなく零になる。
「もうここもダメか。俺が囮になる。お前も直ぐに復帰しろよ」
「おいっ!」
「俺らの地球を頼んだぜ。うおぉおおっ!」
 粉塵の晴れた先には、倒壊したビルと、星船へ向かって走って行くスカウトの姿があった。
 彼に群がるガンシップ、降り注ぐ光線。すぐさまスカウトは爆発と、ガンシップの影に隠れて見えなくなった。
『ぎゃぁあああ!』
 ヘッドセットから、断末魔の悲鳴が聞こえた。
「ちく、しょう」
 また一人、喪った。名前も知らない奴だったが、それでも命を助けてくれた恩があった。
 もう流すまいと誓った涙が、嗚咽と共に漏れた。
「畜生畜生畜生っ! これだけ殺してもまだ足りないかっ。クソッタレの異星人め! 殺してやる、殺してやるぞ!」
 銃を杖代わりに無理やり立ち上がった。膝はまだ力が入らず無様に震えたが構わなかった。

 襲い掛かってきたガンシップの射線上から倒れながら回避、同時に発砲。最新戦車の前面装甲すらも貫通する銃弾は、銀の体躯を容易く沈黙させた。
「弾丸の味はどうだ!」
 怒号を上げながら、転がり、撃ち、吹き飛ばされた。
 少し前までの機械的な正確さは望むべくもなかった。身体はスクラップ寸前で、立っていることすらままならない。槓悍を引く手すらもが覚束なかったが、それでも絶望はしない。
「俺たちに帰る場所は無い。お前らが奪ったんだ!」
 一発撃つたびに光線が体の何処かを貫き、光弾が肉を抉った。
 発砲の反動すらも使って回避と攻撃を繰り返す。
 意識が混濁しはじめ痛覚が完全に麻痺したが、引き金を引く指だけを認識する事ができた。それだけ判れば十分だ。地面に何度も叩き付けられながらも撃ち続けた。
 どれだけの時間をそうしていただろうか。
『マザーシップ大破! 墜落します!』
『総員退避せよ! マザーシップが落ちる! できるだけ遠くに逃げろ!』
 久しく聞こえなかった本部からの通信が聞こえた。
 敵の弱点しか見据えていなかった目を離し、星船全体を見た。
 黒煙が上がっていた。巨大な船体は傾き、炎を上げてゆっくりとだがこちらに近づいてきているのが見えた。
――ああ、終わったのか。
 笑い出したい程の達成感と歓喜を感じると同時に、空虚な風が男の心に吹く。まったく異なる二つの感情を、けれども自然と男は受け入れた。理由がなんとなくわかったからだ。どれほど憎んだ相手を倒そうと、喪った者までは帰ってこない。
 厳しくも優しかった父母、腕白盛りだった弟、引っ込み思案だった妹、何度も馬鹿話を肴に盛り上がった中隊の仲間たち、誰も、帰ってこない。
 腹ばいになっていた体を、銃を杖がわりにして立つ。しっかりと星船が落ちる様を眼に捉えた。
 船が金属の軋む音を断末魔の悲鳴のように高らかにあげた。黒煙をたなびかせながら落ちてくる様は、星が迫ってくるかのようだ。
 今更逃げた所で、最前線で戦っていた自分はもう助からないだろう。もとより助かるつもりはなかった。
「皆、今、そっちに行く」
 視界を埋め尽くす怨敵を眼に焼きつけて、ついに力尽きアスファルトに向かって倒れこんだ。
 何故か柔らかな土の感触と草の青臭さを感じたのを最後に、暴風の中の暴風と呼ばれた男は意識を手放した。



 鉄錆めいた臭いが鼻に届いて初めて、少女は己が喚び出した使い魔が人間であることに気が付いた。
 喚び出された人間は、体中から血を流してボロキレのように広場の中心に倒れていた。
「なに、あれ」
「人間か?」
「おいあれ、血じゃねぇのか」
 周りを取り囲んだ学生たちがざわつき始める。無理も無い。トリステイン魔法学院、いや、ハルケギニアの長い歴史を紐解いてもメイジが人間を召喚した事例など無いのだから。
 呼び出した少女自身、未だに自分のなした結果を受け止めきれず呆然としていた。
 突然の異常事態に誰も動けなかった中、人垣から一人の男が召喚された男に駆け寄った。素早く脈拍と呼吸の有無を確認し、
「水メイジっ、今すぐ応急処置を! それからそこの君、急いで医務室へ行って職員に有りったけの秘薬の準備と状況を説明しておいてください。手隙の者は彼にフライを。頭は動かさないように。医務室に運びます!」
 学生達の硬直を解くように怒鳴った。声を聞いて、初めてその男が自分の担当教諭であるコルベールであることに気が付いた。
 怒鳴り声に普段の凡庸とした雰囲気は感じられず、部下を叱咤する指揮官じみた厳しさを感じる。こんな声もだせるのだな、などと他人事のように思う。
「ミス・タバサ、行きますよ」
 声と共にコルベール教諭手を引かれ、ようやく少女は忘我の淵から脱出した。頷くことで返事をすると、教諭と、幾人かの生徒と共に医務室へと向かった。

 学院に常備してあるけして安くはない秘薬を幾つか使い切る事によって、怪我人は辛うじて一命を取り留めた。
 術式を担当した教諭が言うには、応急処置が少しでも遅れていたら命は無かった状態だったらしい。
 コルベール教諭は治療が一段落すると、他の生徒の監督があると付き合った学生を引き連れて広場へと戻っていった。
 医務室付きの教諭は、自分の噂を知っているのか特に話かけることもなく黙々と今回使用した薬の事務手続きを行っている。
 先ほどのまでの治療の喧騒が嘘のように医務室は静けさを取り戻していた。ベッドで昏睡する男の寝息と、羽ペンが書類の上を踊る音だけが響く。
 タバサは何をするともなく、ベッド脇の椅子に座り男を眺めた。
 血塗れでずたずたになった見慣れぬ衣服は脱がされており、今は簡素な麻の下着だけをつけた状態でシーツに覆われている。
 横たわっている状態でもわかるほどの長身だ。2メイル近くはあるのではなかろうか。大柄なもの特有の作りの大雑把さは無く、どこか彫刻めいた均整の取れた体つきをしている。
 シーツからのぞく腕と首は、鍛えられた者のそれだ。でこぼこと隆起し、けれど無駄が感じられない筋肉は荒縄を連想させた。
 筋肉以上に目を引くのは、まんべんなく残された傷だ。刺し傷、裂傷、擦過傷、火傷痕、それらが新しい肉特有の桃色をのぞかせていた。古いものも合わせるともう数え切れない。
 特に顔が酷い。火傷痕が右半分を覆っており、眠っている今でさえ息を呑むほどの凶相に男を貶めていた。戦に明け暮れる傭兵のほうがまだマシな面構えだ。
「よかったわね」
 唐突に後ろから話しかけられた。振り返ると、見慣れた赤毛の友人が此方を見つめている。
 身分を隠した亡命者として肩身の狭い思いをしている自分にとって国を捨てたもの同士、唯一心を許せる女性だ。姉がもしいたとしたらこんな感じなのかもしれない。昔共に遊んだ従姉姫は、姉というより友人であったし今では怨敵の一人娘だ。
 傍らに侍らせているサラマンダーは彼女が召喚した使い魔だろう。狼よりも一回りは大きい赤々とした体躯、尻尾の先に轟々と灯る炎、サラマンダーの中でも特に立派な部類に入るだろう。
 タバサとは違い、なかなかの上玉を引き当てたようだ。
「キュルケ」
「彼、助かったんだって? いくら平民を呼んじゃったって言っても目の前で死なれちゃ寝覚め悪いものね」
 お喋りな口を止めることなく、よっこいせ、などと年寄りじみた掛け声を上げながら引っ張ってきた椅子に腰掛けた。
 彼女はベッドの男へ視線を向けると、ヒュッと息を呑んだ。
「酷いわね」
「ええ」
 男の傷のことを言っているのか、それとも顔のことか。どちらにしろ同じだ。
「どこで何をすればこんな傷こさえられるのかしらね」
 半ば呆れたようにキュルケが呟いた。声には抑えきれない畏怖と好奇心が滲んでいる。
 古い傷にはいくつか致命傷とわかる傷があった。だというのに男は今現在生きてここにいる。よほど優秀な水メイジが治療にあたったのだろう。騎士か、それとも名の知れた傭兵隊長だろうか。でなければこれほどの高度な治療は受けられない。
「そういえばコントラクト・サーヴァントは終わったの?」
「まだ。教諭が意識を取り戻してからにしろって」
「ふーん。ま、無難な所よね。下手に刺激したら死にそうだし、彼」
 寝息を立てる男の顔をキュルケが指でなぞった。
「この傷さえなければ、そこそこ見れる顔だったろうにね。あーあ、勿体無い」
「キュルケ」
「冗談よ、冗談。いくら微熱の私でも、あんたの使い魔に手を出すほど無粋じゃないわよ」
 手をぱたぱたと左右に振り、冗談よ、と繰り返す。
「そういえば、あのゼロも平民を召喚してたわよ。ま、あっちは大怪我をしてる事も無く普通の男の子だったけどね」
「そう」
「彼が目を覚ましたら会わせてあげたら? 男の子のほうはなんか随分と混乱してたみたいだから、お仲間に会わせてあげたら多少落ち着くんじゃないかしら」
「考えとく」

 目でキュルケに礼をする。一年を共にした友人は、タバサの感謝を間違う事無く受け取ると軽く頷いた。
「さってと」キュルケは大儀そうに椅子から腰を上げた。
「そろそろ私部屋に戻るわ。夕食の時にでも経過を聞かせてね」
 手を振りながら、来た時と同じく唐突にキュルケはサラマンダーを引き連れて帰っていった。使い魔の立派な焔が見えなくなってから、深く溜息をついた。
 平民というかつてないものを引き当ててしまったことが、堪らなく憂鬱であった。当分はヴァリエール嬢と共に学院の噂の中心となるだろう。目立たないよう一年間を過ごしてきたというのに、だ。
 最悪、この噂が元で捨てた母国に存在が露見してしまうかもしれない。
 死。寒気を伴ったイメージにタバサは身震いした。
 毒を飲み床を転がる母を心底面白そうに眺めていた伯父王の瞳を幻視する。もしばれたら、あの男は自分を今度こそ抹殺しようとするだろう。トリステインも、自分たちを見捨てる。たかだか小娘一人のために圧倒的な国力差のある国に歯向かおうなどと思う馬鹿はいない。
 毒矢という下賎な手段で謀殺された父、自分の代わりに毒をあおり三日三晩熱病に苦しみ悶死した母、自分を逃がす為に一人娘をタバサの影武者にして屋敷諸共焼死した執事、一人トリステインへ亡命して来てからの復讐に身を焦がした日々。
 全てがこの男の存在、いや、平民を呼んでしまったという事実で無駄に終わろうとしている。
 いっそこの男を殺してしまいたかった。無意味とわかっていても、この焦燥感と怖気を払拭するのにいくらかは役に立ちそうな気がする。
 ぎりし、と杖が鳴った。手が白くなるほどに杖を握りこんでいた事に気づき、慌てて自制する。
 感情に流されるな。無駄なことをするな。何度も自身に言い聞かせ男への殺意を抑える。
 適当な詩集でも読んで気を紛らわせよう、そう思いたちカバンへ手を伸ばしたところでぎょっとした。
 男が目を覚ましている。
 真白な天井を微動だにせず凝視して、ただ一言「ここは、どこだ?」と呟いた。
 男の声は妙にしゃがれていて、歳経た翁のようだ。
「トリステイン魔法学院」
 内心の動揺を悟られないよう、出来るだけ平坦な声で答えた。
 ゆっくりと、言葉に反応して男が首を向ける。虚ろな眼がタバサを捉えた。男は自分の傍にいるメイジに驚きも、怯えもしない。ただ仮面がはりついたような無表情で、じっとタバサを見つめる。
 誰何の意だと解釈し、此方から自己紹介をする事に決めた。
「タバサ」
 また沈黙が降りる。今度はお前の番だ、という無言の圧力を加えたが、男は答えない。ただ虚ろに、タバサを見つめ続けるだけだ。
 先に痺れを切らしたのはタバサの方だった。
「名前」
「わからない」
 短すぎる問いに、内容を理解出来なかったのだろうか。もう一度、今度は少しだけ長く問う。
「自分の、名前」
「だから、わからない」
「物狂い?」
「そうかもしれない。自分の名前も、どうして此処にいるのかも、何も覚えていない」
 虚偽を述べているのかと思ったが、男の瞳がそれを裏切っていた。
 男の黒色の瞳は、嘘を付く者特有の焦りや打算といった色が無い。それどころか感情の欠片一つ、捕らえる事が出来なかった。
 人形。幾度と無く学院で囁かれた陰口が蘇った。情動をまったく感じさせない瞳は、まるで鏡に映った自分自身のようだ。
――なんて皮肉。
 感情の無い表情というのがいかに不気味かを、初めて知った。
 思考を切り替える。嘘をついているにしろ、本当に何も覚えていないにしろ、今やらねばならない事は一つだ。
 コントラクト・サーヴァント、これさえ行えば主人である自分の任意で五感の共有と、意思の疎通さえ可能だ。
 本来ならば言葉の通じない使い魔との為にあるの機能だ。ハルケギニア広しと言えども使い魔の言葉の真偽を計る為に使うメイジは、自分が始めてなのではないだろうか。
「貴方は使い魔」
「つかい、ま?」
「私の手足になる」
「俺は、君の使い魔、という奴だというのか」
「そう。契約する」
 素早くルーンを唱え、抵抗する暇も与えずに唇を合わせた。
 少し勢いを付けすぎた。歯がぶつかり合い、歯茎と唇に鋭い痛みが走る。男は僅かに片方の眉を動かした。
 厳しい外見とは裏腹に、男の唇はひどく柔らかい。
 お互い目を開けたままだ。情緒も何も無い、などと埒も無い事を考える。
 しっかりと男の身体に紋章が刻まれるのをメイジとしての感覚で理解してから唇を離した。
 男の唇には、どちらのともつかない血が滲んでいる。
 ファーストキスは、血の味がした。

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