あの作品のキャラがルイズに召喚されました @ ウィキ

鬼哭街 > Zero-3



I/
 なぜ自分はこんなところにいるんだろう。
 はしゃぎながら赤毛の少女がガラス越しに商品を眺める様を見て、濤羅はげんなりと
して溜め息をついた。
 もう、ずいぶんと街を歩いたというのに、未だにこの少女が疲れる気配はない。癒えぬ
傷を持つとて、濤羅がこの少女より体力が劣ることなど万に一つもありえない。たが、精
神だけは別だ。知らぬ土地で、慣れる買い物に付き合わされた濤羅の心の疲労といえば、
実にフーケとの戦いの数倍にすら匹敵する。
 その彼に、タバサは表情一つ変えることなくさらに絶望的なことを呟いた。

「あと、一時間は覚悟した方がいい」

 黙って、濤羅は空を仰いだ。
 今日は、ずいぶんと青が深い。


II/
 ルイズの怒りは天井知らずに突き抜けていき、悲しみは底知らずに沈んでいた。
 原因は濤羅にある。彼は、主に何も教えなかったのだ。
 なぜ彼が召喚時に傷を負っていたのか。主の度量の大きさを見せようと、それを詳しく
聞かなかったのはルイズだ。それはいい。だが、余命幾許もないとはどういうことか。
 まして、それを主に伝えぬなど!
 苛立たしげに足を鳴らす。ダン、と非力で小柄なルイズが発したとは思えぬほどの音が、
廊下に響き渡った。歩く生徒たちは、一瞬身を竦ませたが、触らぬ神にたたりなしとばか
りに足早にその場を去っていく。
 彼らは知っているのだ。ここ数日、正確にはゼロのルイズと、雪風のタバサがフーケを
捕まえて以来、彼女の機嫌がこの上なく悪くなっていることを。
 『ゼロ』がどうして『土くれ』を捕まえることができる。
 興味半分、冷やかし半分で問いかけたマリコリヌが、彼女の失敗の魔法で吹き飛ばされ
た記憶は新しい。
 今日はせっかくの虚無の曜日。詰まらぬことで、誰もそれを潰したくはなかった。
 そうしてまたルイズのストレスはたまっていく。溜まった鬱憤を誰に晴らせばいいとい
うのか。愚痴を言えるような友人はいない。責めるべき従者といえば既に部屋から追い出
し、使い魔たちの納屋へと押し込んだ。
 わざわざ愚痴を言うためだけに自分がそんなところへ行く。ルイズの価値観からすれば、
そんなことはありえない。濤羅の方から、ご主人様ごめんなさいと謝りに来るべきなのだ。
 それが数日、未だ濤羅が謝りに来る気配はない。時折姿を見かけるが、ルイズを遠くか
ら眺めてくるだけで、声すら掛けることはない。
 絶対、私からは謝らないからね――と、一層態度をかたくなにしたルイズの機嫌が晴れ
るのは、まだ先のことになりそうだった。



III/

「ふう」

 大型の使い魔が暮らす納屋で、濤羅は人知れず溜め息をついた。先程のことを思い出す。
 遠くから濤羅がルイズ眺めていると、ふと視線があったのだ。一瞬彼女は表情を和らげ
るような気配を見せたが、すぐに顔を怒らせるとあらぬ方向へと目を逸らしてしまった。

「ふう」

 と、もう一度濤羅は息を吐き出した。
 彼の経験上、女性の怒りを納めるのは容易ではなかった。いや、人にとっては簡単なの
かもしれぬが、濤羅にとっては剣の道よりもなお険しい。
 妹の真意に気付かなかったばかりか、機嫌を取ることすら覚束なかった濤羅には、いさ
さか荷が重すぎる。
 とはいえ、捨て置ける問題でもなかった。もはや死人とも呼べる濤羅だが、主たる少女
にだけは、わずかながら人並みの感情を残していた。それ故に自らの余命を告げないでい
たのだが、此度はそれが裏目に出た。枯れ果てた心とて、ばつの悪さを感じる。
 はて、どうすればいいのか。記憶の中にあるわずかな経験から、濤羅は何か方法はない
かと思案に暮れる。とはいえ、濤羅が知る女性は少ない。自然、思考は妹との思い出へと
移りゆく。
 耳元で、蕭と玲瓏な鈴の音の音が鳴り響いた。
 はっとする濤羅。無論幻聴だ。彼が妹のためだけに匠に誂えさせた銀の腕輪はこの場に
ない。過去を思うあまり、またしてもルイズを妹に重ねてしまったのだ。

「なんと……」

 己の無様さを恥じ入り、歯噛みする濤羅。
 とはいえ、光明が見えたのも事実だった。贈り物を喜ばぬ女性は、濤羅の知る限り数が
多いとは言えない。ならば、方法としてはこれで問題あるまい。
 そう思った濤羅だが、そこではたとやはり問題があったことに気がついた。
 何を、どのように贈ればよいのか。朴訥な濤羅にはよくわからぬ。そしてそれ以上に、
よほど大きな障害が目の前にある。

「金が、ない」

 加えて言うなら、どこに店があるかもわからない。
 やっとつかんだ一筋の光明が、水上の藁にしかすぎぬと悟った濤羅はやはり一人、納屋
の中で煩悶していた。


IV/

 キュルケ。キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。
またの名を『微熱』のキュルケ。彼女は今、とある情熱に突き動かされていた。よくある
恋の『微熱』ではない。彼女の胸の内にあるのは、純粋な好奇心だ。
 彼女が知りたいのはただ一つ。『ゼロ』のルイズが、如何にして『土くれ』を捕まえた
のか。
 同じくその場にいた彼女の友人に問いかけてみたが、シュヴァリエの称号を持つタバサ
ですら、何が起きたのかわからぬと言う。
 彼女の熱しやすさは、何も恋に限ったことではない。
 言い知れぬ興味を覚えた彼女は、虚無の曜日を活かしてフーケを倒した濤羅という使い
魔の姿を――今のルイズに聞くほど愚かではない――探していた。
 思ったよりも早く、彼の居場所は知れた。あまり動かぬ性質らしく、時折ルイズの様子
を伺う以外は、ほとんどの時間を使い魔たちの厩舎、納屋で過ごしているらしい。

「いや、何をするわけでもなく、ずっと瞑想みたいなことをしてるんですがね。それでも
何か不気味なんですよ。なんかこう、真昼間に幽霊でも見ちまった様な気がして……。
 ホント、よくわからない男ですよ」

 そう濤羅を語った使用人の顔を思い出し、キュルケはその赤い唇を舌でなめた。ツェル
プストーを、大貴族を前にしながらも、彼はそれ以上にこの場にいない濤羅のことを恐れ
ていたのだ。
 幽霊、結構ではないか。簡単に答えを知ってしまっては興が削がれるというもの。
 俄然乗ってきたと言わんばかりに足取りを軽くしたキュルケは納屋へと向かっていく。
距離はさほどない。使用人たちの部屋や働くスペースは、効率も考えられて近くに纏めら
れている。
 そうして、角を二つばかり曲がったところで目的地に着いた。果たして、鬼が出るか蛇
が出るか。笑みを浮かべて、キュルケが一歩足を踏み入れる。

 ――――その瞬間、彼女は衝動的に杖を抜きそうになった。

 男は、別段何をしているわけでもない。腕を組んで眉根を寄せているだけだ。寸鉄すら
帯びていない。それこそ、普通の男が何やら考え込んでいるようにしか見えなかった。大
の男が座り込んで悩む様は、ある種滑稽ですらある。
 だというのに、男が発する雰囲気は尋常ではなかった。いや、発しているのではない。
 雰囲気そのものが、目の前の男にはないのだ。死んだ魚のように濁ったその眼だけが、
暗がりで異様な光をたたえているだけ。
 粘性のある唾を飲み込んだ喉が、ごくりと音をたてて蠢いた。聞こえるはずがないその
音を、まるで聞き取ったかのようなタイミングで、濤羅の視線がキュルケへと向けられる。
 背筋に走る悪寒を押し殺して、キュルケは努めて明るい声で濤羅へと話しかけた。

「はあい、ご機嫌いかが。フーケ捕縛の立役者さん」

「……学生か。俺に何の用だ」

 先程までわずかにあった人間味すら消え去った能面のような表情。そこにキュルケの歓
迎の色はない。
 そのことにわずかに尻込みしながら、だがそれ以上に心を燃え上がらせて、彼女はその
顔に魅力的な笑みを浮かべた。

「もう、つれないわね。そんなことでは、女の心一つ捕まえられないわよ」

「捕まえる、つもりなどない」

 わずかに言いよどんだ声に、キュルケはおや、と首をかしげた。目の前の男が、この程
度の言葉に到底揺さぶられるはずがない。彼女の豊富な男性経験からもそう推測できる。
 だというのに、何が気がかりなのか。
 そこでピンときた。そういえば、この男は――

「あら、そんなこと言っていいのかしら? ゼ、っと、ミス・ヴァリエール――あなたの
主は、未だあなたにお冠だそうよ。今日もまた、床に当たり散らしたらしいし……」

 ビンゴ。
 この場にいたり、ようやく表情の変化を見せた濤羅に、キュルケは自らの予測が正しか
ったことを確信した。
 この男が悩んでいたのは、ずばりルイズのご機嫌取りについてに違いない。
 そうとわかれば、先ほどまで感じていた怖気もいくらか和らいだような気すらする。
 チェシャ猫のような笑みを浮かべて、キュルケはさらにを問い詰める。

「あの子、一度怒るとなかなかしつこいのよね。それに癇癪持ちだし。ほら、あなたも見
たことあるでしょう? あの錬金の魔法の失敗を。
 あの時は爆発したし、周りも巻き込んだからすっきりしたでしょうけど、今回はねぇ。
 聞くところによると、話すらできていないらしいじゃない。そんな状態でいつまでも溜
めこんでいたら、あの子のこと。機嫌は直るどころか、悪くなる一方でしょうね」

 濤羅は口を開かない。硬く目を閉じているだけだ。反論をする気配はない。ルイズの気
難しさを、彼も認めているようだ。

「ああ、あの子は今頃どうしているだろう。気が利かぬ従者に苛立って、何か魔法を失敗
して爆発を起こしているかもしれないわ。もしかしたら、やけ食いでもしてお腹と胸がぺ
ったんこになってるかも。
 あら、これはもとからだったわね、ごめんなさい」

「……要件は、なんだ」

「要件っていうほどのものではないわ。ちょっと聞きたいことがあっただけよ。あなたが
どうやってフーケを倒したのか興味があってね。
 ただ、もし私がそれを知ったら、ご機嫌になってあの子の好きな物とか機嫌が悪い時の
話し方とか、いろいろ口を滑らせちゃうかもしれないわね」

 歌うようにうそぶくキュルケに、とうとう濤羅が折れた。

「……金のかからない方法で頼む」

「ええ、大丈夫よ。大してお金はかからないわ」

 安心させるように、裏心のない笑みを浮かべてキュルケはそう言った。だが、濤羅はそ
れを前にしても、渋面を浮かべるばかり。そして、重苦しそうに、その口が開いた。

「一銭も、ないのだ」

「え?」

「金を、一切持ち合わせてないと言ったのだ」

 瞳は以前、昏いままだ。だというのに、その口から洩れた言葉は大の大人が発するには
あまりに情けないもの。
 こらえきれず、キュルケは爆笑した。



V/
 濤羅は久方ぶりに寮塔の階段を上っていた。あの後、笑いを終えたキュルケに説明を
しようとしたのだが、その彼女が、

「待って。私の他にもう一人、あなたの話を聞きたい子がいるの」

 そう言って、塔まで連れてきたのだ。
 それが誰か、なんとはなしに濤羅には予想がついていた。

「ここよ」

 キュルケが指示した先には木製の扉。無論、その向こうには部屋がある。
 ノックする彼女をよそに、濤羅は部屋の中の気配を探った。確かに、そこにいる。ただ、
まるで動く様子を見せない。眠っているのか、何か手作業をしているのか。
 本来なら、簡単に気取れる距離ではあるのだが、見えない――元来、気配とは見えない
ものだが――膜のようなものが邪魔をして、どうにもおぼつかない。
 わずかに不信を覚えながら横目でキュルケを見てみると、彼女はいつの間にかノックを
やめ、がちゃがちゃとドアノブを回していた。が、開く様子は一切ない。

「ああ、もう」

 苛立たしげに杖を抜き出したキュルケが何事か呟く。すると、今までが嘘だったかのよ
うにすんなりとドアノブは回った。木製だというのに音もたてず、扉が開く。その不自然
さに、わずかに濤羅は眉をひそめたが、キュルケはそんなことは気にも留めず、勢いよく
室内へと入っていく。そこに、部屋主の了承を得ていない後ろめたさは一切見て取れない。
 慣れているほど気心の知れた仲なのか、それともそれが彼女の普段なのか。どちらにも
取れるが、できれば前者であってほしいと濤羅は願った。
 嘆息を一つだけして、彼女の背に従って部屋へと足を踏み入れる。

「ほう」

 呟いて、ようやく濤羅は己が覚える違和感の正体を知ることができた。音が、ないのだ。
 気配とは、何も気の流れだけで悟るのではない。漏れる呼吸、わずかな衣擦れ、軋む床、
流れる空気。そういったものを五感すべてで感じ取り、第六感と合わせてようやく気配と
いうあやふやなものに形を与えるのだ。
 その一つを奪われたことで、濤羅の鋭敏な勘がわずかに鈍ったのだ。
 見れば、目の前で話し込んでいる少女たちも、口だけは動きながらも声はまるで響いて
いない。と、そこで小柄なほうの少女――確かタバサと言ったか――が閉じ杖を振ると、
ようやく部屋に音の世界が舞い戻ってきた。

「何の用?」

 間に指を挿んで本を閉じると、タバサはキュルケヘと問いかけた。その視線が一度だけ
自分に向けられたことを悟りながらも、濤羅は黙って彼女に説明を全て任せた。おそらく、
その方がうまくいくだろう。

「ちょっとトリスタニアに行きたくてね、貴方のシルフィードを貸してもらいたいのよ」

「……今日は、虚無の曜日」

 普通にとれば、拒絶の言葉だった。休みを邪魔するなと言ってるに等しい。だが、なら
なぜ彼女は手に持つ本にしおりを閉じているのだろうか。濤羅ですら気付くそれに、友人
のキュルケが気付かぬはずがなかった。
 彼女は先ほど濤羅に見せたのと同じ笑みを浮かべると、片目を閉じてこう言った。

「勿論、ミスタも一緒よ。ただ彼、可哀そうなことにお金を持ってないらしいのよ。私は
お金を貸す。貴女は足を貸す。
 その代わり、ミスタはフーケをどうやって倒したのか教えてくれる。あっと、おまけで
彼がルイズに贈るご機嫌取りの品を考えなくちゃならないけど……
 まあ、連り合いは取れてるんじゃないかしら。どう?」

 おまけではなく、そちらが本題なのだが――そう思った濤羅だが、何も言わなかった。
 することに変わりはない。見ればタバサも、立ち上がって準備を始めている。わざわざ
混ぜ返す必要はない。
 そうして誰もが黙っている中、キュルケだけが一人楽しそうに呟いた。

「そうこなくっちゃ」


VI/

 空の上の空気はまた格別だった。透き通っていながらも若葉のような色を残し、肌にま
とわりつくような重さもない。目を閉じれば、甲高くなる風音が耳に残る。
 魔都・上海では――いや、それこそマカオですら、これだけの空気は味わえない。かつ
ての世界では久しく失われた極上の空気を肺の中に吸い込むと、それだけで内傷が癒える
ような錯覚を濤羅は覚えた。
 だが、だからこそ己の無様さが一層強く濤羅の胸に焼き付く。
 これほど澄んだ空気、空を飛ばずとも本来気付くべきだったのだ。今や無きに等しいが、
内家拳士としての矜持は、濤羅の中に確かに残っていた。それが今傷付いた。
 まして罪が懐いている濤羅の心には、ここの空気は奇麗が過ぎる。
 渺々と吹く風に頬が揺れる。

「あら、どうしたの、ミスタ。もしかして高所恐怖症?」

 同じくドラゴンの背に座っていたキュルケが、からかい交じりに問いかける。答えるよ
うに開かれた濤羅の瞳には、空に対する恐怖はおろか、清らかな風への喜びも、そして自
らに対する嘲りも、何も映ってはいなかった。
 濤羅の心の中から、零れ落ちたものがまた一つ。風鳴りに耳を傾けても、もはや眉ひと
つ動かない。
 その内心など知らぬキュルケは、普段男に語りかけるように、そしてそこから一歩引い
た分だけ濤羅との距離を近づけた。

「ねえ、そろそろ話してくれてもいいんじゃない? シルフィードの翼なら、トリスタニ
アだろうがあっという間よ。あまりのんびりしてると、説明の前に着いちゃうんだから」

 そこからさらに離れた場所で、タバサの視線も濤羅に向けられた。彼女もまた、濤羅の
説明を心待ちにしているらしい。いや、目の前でその情景を見ていた分、キュルケよりも
知りたいという欲求は強いのかもしれない。
 彼女らの真摯な視線に押されたわけではないが、居住まいを直して濤羅は口を開いた。

「あの夜、どこまで俺の動きを見てとれた」

「何も。見えてたけど、わからない。
 30メイルはあった。一瞬で人がそこまで動けるはずがない。触れただけだった。それで
人は失神しない。だから、何も分からない」

 首を横に振る彼女に覚えたのは、やはりという納得だった。内家の技は深遠無辺。それ
を見ただけで理解できるのは、やはり同じく内家を修めた者に限られる。ならば、濤羅に
問うまでもなかった。
 では、その術を知らぬ者どうやってに説明するべきか。しばしの思案の後、濤羅はキュ
ルケへと視線を向けた。

「触れるだけで、人を倒せると思うか?」

 問われるとは思っていなかったのだろう。キュルケはその瞳を大きく見開かせた。一瞬
おいてその言葉の意味を理解すると、肩をすくめて濤羅を眇め見た。

「そんなの、あるわけないじゃない」

 濤羅は瞳を閉じた。幾度となく繰り返された遣り取りだ。考える前に口が勝手に答えを
言ってくれる。

「そう、触れるだけでは人は昏倒しない。ただ触れるだけではな」

 そうして、濤羅の右手が空気を撫でるように持ち上げられた。あくまで自然で、力を入
れた様子はまるでない。その速さとて、あくまで常識の範疇に納まっている。だというの
に、それがいつ行われたのか、キュルケとタバサには理解できなかった。

「先住魔法?」

「――無粋な言い方をしてくれるな。これは内巧、魔法などとは違うあくまで人の技だ」

 言って同じように腕を下ろす。またも見切れなかった二人の顔に混乱が浮かぶ。問いす
ら思いつかぬ二人を尻目に、濤羅の説明は淡々と続く。

「あの夜何をしたか、簡単だ。今して見せたように、あの土くれに駆け寄り、飛び上がり、
その頭を撫でてやった。例え触れただけのように見えても、内家にはそれで事足りる。
 目に見えずとも、そこに勁はある。氣を込める必要すらない」

「で、でも、動きがよくわからないだけで、人を倒せることにはならないんじゃない?」

 弾けるように言ったキュルケとは対象に、濤羅はあくまで涼しげだ。その物言いすら予
期していた彼は、間も置かずにその手を差し出した。

「なら、試してみるか?」

「え?」

「もちろん、昏倒させるような真似はしない。ただ肩を一撫でするだけだ。それで手を地
に――ああ、竜の背に着けば、俺の言うことが理解できるだろう。
 百聞は一見にしかず。百見は一撃に如かず、だ」

 しばらくは濤羅の手を見ていたキュルケだが、面白そうだと言わんばかりに胸を張ると、
一歩濤羅に近づいてその手を取って自らの肩に導いた。

「さあ、ミスタ。やってみせて」

 妖艶と笑うキュルケ。その笑みはもはや挑発に近い。だが、そこに悪意はない。純粋な
興味だけが見て取れる。
 その笑みは、一瞬後に簡単に崩れ去った。いつ着いたかもわからぬほど自然に、キュル
ケの手はドラゴンの背に触れていた。まるで、初めからそうであったかのように思えるほ
どだ。
 呆然と己の手を見つめるキュルケの背に、濤羅の低い声が掛けられた。

「これが答えだ」

「どうやって?」

 未だ自失から戻らぬキュルケの代わりに、タバサが濤羅へと問いかけた。無感情なその
物言いとは裏腹に、視線には強い力が込められている。
 タバサは見ていた。濤羅の手がほんのわずか捩じれたと思ったら、キュルケが自分から
跪くように倒れていったのだ。そこに魔法の入る余地はなかった。念話で語りかけた己の
使い魔に確認しても、先住魔法が使われた気配はないと言う。
 それが余計にタバサの混乱を誘った。それこそ濤羅の手腕は魔法じみていたのだ。この
距離で見てなお、何をしたかすらわからない。

「本当に魔法じゃ――」

 その先を、濤羅は笑って遮った。いや、笑おうとした。

「言ったろう。これは人の技だと。技とも呼べぬ児戯ではあるが」

 口元だけを歪ませた奇妙な笑み。それを見たタバサは一瞬言葉を忘れた。奇妙な沈黙が
続く。

「なんで、どうして! 私はまるで動いたつもりなかったのに」

 その膠着を破ったのは、ようやく忘我の淵から舞い戻ったキュルケだった。勢いよく身
を起こすと、今まで抱いていた警戒心も忘れて濤羅へと詰めかかる。
 怒りではない。純粋な好奇心に突き動かされてだ。
 多くの技術が流れ込むゲルマニアの中にあって、貴族は貪欲に技術を欲する。その頂点
の一つに数えられる生家をもつ彼女の好奇心は人一倍強い。
 その豊かな熱意は、濤羅は答える間を与えることなく次から次に質問させる。

「ねえ、本当にどうやったの。私、まるで自分の体が勝手に動いたようだったわ。さっき
「キ」とか言ってたわよね。それを込めるとどうなるの? もっと強くなるの? ああ、
驚きだわ。まさかこんな技術があるなんて、夢にも思わなかった。これが児戯なら、本物
はいったいどれほどのものなのかしら」

 ほう、とキュルケは夢見るように息を吐いた。
 ようやく答える暇を見つけた濤羅は、ここぞとばかりに言葉を押し込んだ。

「寸勁、あるいは暗勁と呼ばれる技の一種だ」

「え?」

「人が拳を突くとき、その力は足から腰、腰から背中、背中から肩へと相乗して伝わって
いく。普通なら、徐々にその力は殺されていく。だが、もしそれを殺さずに伝えていくこ
とができたなら? そこにもはや踏み込みすら必要ない。力む必要もない。
 フーケとやらには、その真似事をしたまでだ」

「真似事? それならいったい、何をしたの?」

 濤羅は首を横に振った。拒否の意味ではない。あまりに濤羅が学んだ流派では初歩的な、
それこそ外家とも通じる基礎の基礎を、今更になって説明することの愚かしさを悟った
からだ。
 力なく濤羅の説明は続く。

「先ほど、自分の体が勝手に動いたと言ったな。それはある意味正しい。
 人は肉で動いている。筋があり、腱があり、張り巡らせるように血管が走っている。
 例え体を動かさずとも、ただ生きているだけで肉は蠢く。息を吸えば、肺は膨らみ、肋
骨が広がる。吐くときはその逆だ。
 だから、どのような時であろうと、体のどこかに必ず力は込められている。このような
強風の下、足場の悪い所にいればひとしおだ。ただ体幹を保つだけで多くの力が働く。
 呼吸とバランス、そこにタイミングを合わせて流れを加えれば、軽く撫でるだけでも十
分人は倒れこむ。
 フーケは俺よりも速く動こうと焦り、無駄な力を発した。俺はただ、彼女が自滅するの
を手助けすればよかった。そこで俺が発した勁など、真似事と呼べるほど小さなものだ」

 そう、あの時フーケを昏倒せしめたのは、何より彼女自身の力だった。濤羅が加えた力
などそれこそ軽く手を添えた程度。だが、だからこそ濤羅の技の冴えは恐ろしい。
 はたして、濤羅の年でその域に達した者がどれほどいるものか。生涯をかけて武を学ん
だとて、易々とできるものではない。
 その歴史を紐解いても、戴天流剣法の絶技に辿り着いた物は数少ない。その一人である
濤羅の巧夫は、もはや常人では測れぬほどであった。
 それを完全に理解することなど、内家拳士ならぬキュルケとタバサには不可能だ。だが、
その一端は間違いなく彼女らに伝わった。そしてそれで十分だった。
 言葉もなく、風だけが流れる。

「見えた」

 と、しばらくしてタバサが呟いた。濤羅が見れば、彼女は竜の行く先を指さしていた。
そこにはきれいに区画整理された、こじんまりとした街がある。こじんまりといっても、
それはあくまで濤羅の主観だ。中世観の強いこの世界では、おそらくはずいぶんと大きな
街なのだろう。そして、街の中央には空から見てもわかるほど立派な城が建てられていた。

「あれが、王都・トリスタニア」

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