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#navi(三つの『二つ名』 一つのゼロ)
クリフ達が異世界に飛ばされて、ここトリステイン魔法学院で過ごすようになってから一週間ほどが過ぎた。
ギーシュとの諍いが終わり、彼が崇高な犠牲になった翌日から、クリフはコルベールと連日のように図書館で調べ物を続けていた。
時には彼の研究室へ寄り、詳しく話を聞いたり、議論めいたことまでしていた。
「うーむ……。まずいなぁ……もう一週間だ」
そろそろ昼食の時間を迎えるため、ルイズ達が一旦集まる寮塔寄りの場所へ向かいながら、クリフは暗澹として呟いた。
「これだけ調べて手がかりの一つもないとは……。どうにもならないのか……?」
非常によくなかった。一度は死んだ自分達三人はまだしも、才人は普通の生活を放り出したままなのである。両親も心配している
だろうし、おそらく失踪状態として扱われているはずである。
詳しく召喚された時の話を聞いてみたが、彼は事故などで死亡していたわけではないらしい。ただ、単純に休日に道を歩いていた
ら、通り抜けられる不思議な鏡を見つけて、なんとなくそこに飛び込んでみただけだという。
正直クリフはその行動にわりと正気を疑ったが、しかしクリフは身近にそういうことを平気でやりそうな人間を一人、よく知って
いた。ヴォルフである。
好奇心が非常に強い才人は、性格のタイプとしてはヴォルフにかなり近いようだった。義侠心や負けん気もあったりと共通する点
がある二人はずいぶん気が合うようで、よく一緒にルイズの命じた雑用をこなしている。似たような行動様式を持つ者二人、という
ことらしい。
「理解しがたいというか……どうしてこう、興味本位で無謀な人間っているんだろうな……。危険だ、となぜ考えないのか……?
まあ、多少彼の自業自得の面もあるんだよなぁ……」
しかし、放置するわけにもいかない。彼の親は今頃、途方に暮れていることだろう。このまま知らん振り、というのは原因の一端
もこちらにあり、いっぱしの大人としていくらなんでも気が引ける。
「はぁ……。しかし……それにしても、時間の経過はどうなってるんだろう……? 普通に考えれば、そのまま一週間なんだが……」
それよりクリフには、一つ大きな疑問があった。こちらと向こうと二つ世界があるとして、互いの時差というべきか、そういった
問題である。
自分達に照らしてみれば、クリフが意識を失ったのは夜中だ。目が覚めたのは夕方で、そうなると元の世界とは数時間程度、もし
くは同じことだが約一日足らずのズレが存在していることになる。それでてっきり、クリフはアメリカ・イギリス間と同程度、経度
が異なる場所と同じようなもの、と思っていた。
しかし、才人によれば鏡に突撃したのは同じく昼前の話であったらしい。そちらでは、時間の齟齬は発生していない、ということ
だ。
「となると……やっぱり、時間の流れ自体が異なると考えるべきだよな……」
こちらで一週間過ごした時間が、向こうでは一時間かもしれないし、一年間かも知れない。後者の可能性はあまり考えたくないが、
才人が持っていたノートPCが気になっていた。
どうも、自分達のいた時代より数年は進んでいるような気がしている。詳しいわけではないが、当時の現行PCはもっと性能が低
かったはずだ。機能も数段は優れていて、なにより知らないオペレーティング・システムが用いられていた。日本国内については未
詳であったが、インターネットもまだそれほど普及しているわけでもなかった。
だが才人は光ファイバー通信が一般家庭でも存在していると言っていたし、フロッピーと聞いてきょとんとした顔を見せた。超高
速回線や大容量媒体など、そんな高価なものが普通はそうそう使われるわけがない。
「……まずい……。平行宇宙とか多世界とか、そういうのであってくれないかなぁ……」
クリフはそれで嫌な予感がぷんぷんして、核心の質問はあえてしなかった。むしろ、彼がその可能性に気づく恐れがあってできな
かったとも言える。
すなわち、年号である。今が西暦何年であるかを聞けば、一発でこちらと向こうのズレの度合い、つまり時間経過の差が分かって
しまう。本音を言えば、自分もあまり知りたくはなかった。
「オシーンと常若の国だけはやめてくれよ……。日本にもあったな、ウラシマ……なんだったか……? はあ……」
軽く目の前が真っ暗になりつつため息をつくクリフが寮塔の近くまで来ると、いつものようにヴォルフが洗濯をしていた。才人の
姿はなく、今日はルイズと一緒に授業へ行っているらしい。
「あらクリフ、お帰りなさい。今日もちょっと、ダメだった?」
「ああ……。少し、先が見えないな。とっかかりがどこにもなくてさ……今日はサイト君は授業か」
「残念ねぇ。そうね、サイトちゃんはお嬢と一緒ね。なんだか、お気に入りみたいだわ」
ルイズは才人をよく連れて行きたがるようだった。護衛を任されたキクロプスは話せるようになっても、元来寡黙であまり喋る方
じゃない。それなら同年代の男の子の方がまだ話が合うからか、と最初クリフは思っていたが、どうもそうではないらしい。
それとなく聞いたルイズの話を総合すると、恐ろしいことに要は気兼ねなくボコスカ殴れるから、のようであった。
大人しく従うキクロプスには、不満はないがやはり楽しくはないという。それよりは、逆にからかい尽くされてこてんぱんにやら
れてしまうヴォルフは別にしても、少々程度やり返そうとする才人が格好の標的になっていた。
なんというか、人を趣味でサンドバックにする、というのは年頃の女の子としては如何なものかとクリフは思うのだけれども。す
ごいお転婆な娘である。
「またぞろ、生傷でも作って帰ってきそうだな……彼も災難なことだ」
「仲がよきことは美しき哉、よ。いいことじゃない」
ヴォルフは洗われたズボンを洗濯紐に通しながら言う。
……仲がいい…うーん。本当にいいのか? ……なんにせよ、僕がターゲットにならなくてよかった。彼も無事だといいが。
クリフが内心でほっとしていると、何列もの洗濯物の陰からシエスタが顔を出した。
「クリフさん、おかえりなさい! 今日もお疲れ様です!」
「やあ、シエスタ。今日も精が出てるみたいだね、君こそ毎日ご苦労様だよ」
「そんな……。ヴォルフさんがいつも手伝って下さるおかげで、ホントに助かってます」
そう言って、シエスタは頬を染めてもじもじしはじめる。
例の騒動があってからこっち、シエスタはクリフに対して好感を持っている様子だった。なにかと図書館などの様子を見に来て、
司書を通して差し入れなどをよくしてくれる。
「君のおかげで調べ物もよくはかどっているよ。本当にありがとう」
成果こそ芳しくはないが、根を詰めているときに間食の一つも差し入れてもらうとずいぶん助かる。ここまで分かりやすく好意を
示してもらえるというのは、クリフとしても悪い気はしない。
「えへへ……。今日の三時になったら、お菓子をお持ちしますね。それと、東方の名産の『お茶』っていうのが手に入ったんです。
楽しみにしててくださいね」
「『お茶』? へえ、お茶が!」
シエスタの言葉に、思わずクリフは反応した。
「それはいいね。紅茶かな? 緑茶かな? どちらも僕は好きだが」
「あ、クリフさん、ご存知なんですか?」
「ああ。知ってるどころか大好きだよ。いやあ、嬉しいね」
クリフはイギリス人である。英国といえば、お茶熱が高じてアジアの権益欲しさにオランダと戦争し、新大陸にまでお茶趣味を押
し付けて関税で絞り取り、挙句の果てにはボストン茶会事件でアメリカ独立戦争まで引き起こしたほどのお茶狂いの国である。
クリフ自身はイギリス人でありながら、子供のころからアメリカで実験場生活を送っていたため三時のお茶の習慣はなかった。が、
成人してからやってみたところ、非科学的な話ではあるが、どうにもしっくりきてしまいそれ以来病み付きになっていた。
「そうですか、よかったです。飲む前からこんなに喜んでもらえるなんて、えへへ」
シエスタがはにかんだように笑った。ヴォルフも横から話に加わる。
「いいじゃない、アタシも飲みたいわね? シエスタ、いい?」
「はい、けっこうたっぷりありますし。後でみんなで飲みましょう」
「いーわねー♪ アタシハーブティー大好きなのよー。ラベンダーとかカモミールとか、こっちにはあるのかしらね?」
「ハーブティー? ですか? ハーブはありますけど……」
「あら、じゃあできるかしら? お茶っていうか紅茶なんだけど、こうね、乾燥したハーブを香りづけとして一緒に淹れてね? 色
んなお花なんかのいーい香りを楽しむの」
「きゃあ、それ素敵ですね? それってどんなお花でもできるんですか?」
「もちろんよ、果実だってできるわ。できれば香りが強めなのがいいけど、特にね、アタシはローズヒップが大好きなの。ビタミンC
って言うのが豊富で美容にもよくて、おハダを綺麗にしてくれるのよ」
「へえ……! あとで詳しく教えて下さいね?」
「ええ、いいわよ。楽しみだわー。……あら、お嬢ちゃんも帰ってきたわね」
見てみると、のしのしと歩くルイズがこちらへ向かってきている。なにか怒っている様子で、その後ろには才人を背負ったキクロ
プスがついてきていた。またなにか癇癪を起こして才人に対して暴行に及んだらしい。
「ひどい……股間はやめろっての……」
ぐったりとした才人が悲しげな呟きを漏らしていた。……本当に仲がいいのか?
「お帰りなさいお嬢。さ、ご飯ね」
「わたしお腹が空いたわ。洗濯もいいけど、早く行くわよ」
「そりゃ奇遇ね、アタシもよ。じゃ、行きましょか。何が出るのかしら、楽しみねー」
と、ヴォルフは早くも舌なめずりする。
クリフも空腹を覚えた腹をなんとなくさすった。そういえば、自分も腹が減った。
「じゃあ、シエスタ。今日もお願いするよ」
「ええ、今日はシチューだそうですよ」
シエスタがにこにこしながら頷いた。
ルイズの許可が出てから数日の間は、アルヴィーズの食堂内で食事を摂っていたクリフ達であったが、やはり貴族ではない平民の
集団は問題があったらしい。
特に例の、才人とヴォルフのファミレス組のせいで、「著しく品位を下げるため、あまりにも」という学院側の判断でついに追い
出され、もっぱら食堂の裏にある厨房で済ませることにしていた。
ちなみに、貴族用の大浴場も今は使っていない。あのヴェストリの広場に簡易のシャワー室を建てて、そこで体を洗っていた。一
度だけは利用したが、天国などと呼んでいたヴォルフが少年達を強引に口説きはじめたので、実力で鎮圧して以降クリフの命令で自
主的に出禁にしている。
「さ、行くわよ。もたもたしないの」
ルイズが先頭になって、中央の塔に向かって一行は歩き出す。そのうちに、ヴォルフが呟いた。
「まーいいんだけどさー。お嬢ちゃん、ホントにいいの? アンタこれじゃ孤食じゃないの。一人でご飯食べるの、よくないわよ?」
「うるさいわね。いいの、しょうがないでしょ。あんたがバカみたいに下品なことするからこうなるんじゃないの」
「でもねー……なんとかならないかしら。アタシ心配よ。お嬢ってお友達も少ないみたいだし」
「お、大きなお世話よ! わたしはいいの、もう」
一週間近く過ごしてみたが、確かにルイズの交友関係はあまり広くないようである。せいぜい隣のキュルケぐらいのもので、楽し
そうにお喋りしているところはほとんど見たことがない。
「俺はあっちのが豪華でよかったけどなー。ま、厨房のもうまいんだけど」
ルイズについて歩く才人が言う。ルイズがぎろりと才人を睨んだ。
「あ・ん・た・も・でしょーが。なんでマナーもちゃんとできないのよ。せめて大人しく食べればよかったんでしょ」
「いやーついノリで……ヴォルさんが俺を乗せるの上手いんだよ」
「自分のせいじゃない。ばかヴォルフにくっついて、一緒に騒いでるからいけないんじゃないの。自業自得よ、ごはん食べれるだけ
ましだわ。甘やかしすぎなくらいよ」
そこでルイズの説教に、脇からヴォルフが口を出す。
「あら、バカだなんてひどいじゃない。アタシはただ、食事の一時に会話という花を添えているだけじゃないの」
「黙りなさいばか。マナーのことを言ってるんでしょ、罰としてあんた達二人はご飯抜きにした方がよかったかしら」
「「それは困る(わ)」」
「もう……! なんなのこの二人組は……!」
頭が痛いとばかりに、ルイズは首を振った。
「そうは言ってもねぇ。アタシはただ食べやすく食べてただけだし……」
「そうそう。ワイワイ楽しく食べることがいけないって言う方がおかしいんだよ。俺達は悪くないって」
などと、しかし二人はまったく悪いとも思っていない風情で言う。
「ヴォルフは黙りなさいって言ってるでしょ。だいたいサイト、あんた虎の威を借りるんじゃないの」
「別に借りちゃいねえよ。意見が合うだけっつーか? 俺が言う前に同じ意見を言ってくれるっつーか」
「そうよねーサイトちゃん。アタシ達気が合うのよ、これなんていうのかしら? マジョリティってやつ? 当たり前の感覚よね」
「そうだよね。俺達が多数派なんだよ、ルイズが違うだけで」
「……あんた達が多数派だったらこの世はウホウホ言ってるおサルだらけよ……」
そんなやり取りをしているうちに、食堂のある中央塔に着いた。そこでルイズは一人集団から分かれ、正面から入っていく。
「じゃあ、それじゃあね。授業の前になったら、キクロプスとサイトはわたしを迎えに来なさい」
「えー。俺、まだ働いてる方がいいかもしんねーんだけど。お前、俺のことボコボコ殴るんだもん。こいつひでーんすよ、なんでか
俺を目の敵にするし」
「いいから来なさい。遅れたらひどいからね」
「はいはい、分かったよ。なんなんだか……」
「はいは一回! じゃあね」
そう言って、ルイズは食堂に向かって行ってしまった。
「はあ……。めんどくせーな。クリフさん、俺と代わってくれません?」
才人がせがむようにクリフを見てくる。
「……いや、僕はその……調べものがあるので」
クリフはさりげなく拒否した。正直、自分に被害がくるのは勘弁であった。それにまあ……サイト君でないと、たぶん意味がない
んだろうなぁ……。
「ちぇー。あいつ、すげえ凶暴なんだよな。キクさんにはなにもしないのに、俺にだけやけに風当たりが強いし」
「…………まあ、少し……ひどいと思う時もあるが」
キクロプスがぽつりと呟いた。不平を漏らす才人の肩を、ヴォルフが叩く。
「まあ、いいじゃないの。きっと気があるのよ、やっぱり。青い恋ねー」
「ち、違うって! 最初は可愛いとは思ったけど、あんなに暴力振るうとは思ってなかったし!」
「あら照れちゃって。ま、それより早くご飯食べに行きましょ」
そうしてクリフ達は厨房へ向かった。
「おう、また来たなお前ら! 『我らのケン』達め! 出来てるぜ!」
からからと笑いながら包丁を振るって肉を切っているのは、この厨房のコック長であるマルトー、という気の良さそうな親父であ
る。
よく分からないがケン、というのはヴォルフの拳と才人の剣を指しているらしい。いつの間にか妙なネーミングまでつけられてい
た。とにかく、平民という身分で貴族のギーシュを事もなく下したのが評判であったらしい。
クリフ達が手を上げて返すと、がはは、今日のメシも美味いぞぅ、とマルトーが笑った。
「よっしゃ、ちょっと待ってろよ! シエスタ、仕事もあっから手を洗ってこい! ……おし、これで肉は上がりだ。副料理長、こ
れ頼むぞ! ……おう、お前らそこらへんの椅子に適当に座っててくれや」
マルトーに促され、クリフ達は隅の椅子の前へ行く。しかし、相変わらずすぐに座る気にはなれない。これだけ周りが忙しく飛び
回っているのに、自分達だけゆっくりと座って待つ、というのがどうにも……。
「どしたのクリフ? ボケッと突っ立って」
見ると、ヴォルフは堂々と腰掛けていた。さすがヴォルフだ、あっという間に馴染んでいる。
「あ、遠慮しない奴だな、とか思ってるんでしょ? いいのよ、向こうがいいって言ってるんだから。ほら、そこに立ってたら邪魔
になっちゃうわよ」
そう言われて、仕方なく一同は席につく。しばらく待っていると、シエスタが簡素なお盆に載せた料理を四人前運んできてくれた。
「あーら良い匂い。たまんないわね」
「うん。これは……美味そうだ」
スプーンでシチューをすくって口にする。ほのかな甘みのある、ちょうど良い塩加減。香りが良い。
「へえ……うん。これは美味いな。香草が……」
「お、あんた分かるのかい? さすがだねぇ。分かるやつに食ってもらえるってのも料理人冥利に尽きるってもんさ、がはは!」
マルトーは今度は野菜を刻みながら笑う。
「風味が特に良いな。これは確か、以前の鱒のパイに……」
「おお? なんでえ、あれ食ったのかい! 美味かったろ、あれ焼く時に詰めた奴と一緒でな。今度は余るくらいごっそり入ったか
ら、賄い用のシチューに使ったんだよ」
「あら、作ったのアナタだったの? あれはホント、美味しかったわー。アタシレシピ知りたかったのよ」
ヴォルフががつがつと食べながら会話に混じった。
「お、お気に入りかい。あいつは自信作だったな、また今度作ってやるかい?」
「お願いだわ、あの時は一皿全部食べちゃったもの。焼き加減がとっても良かったのよ、焼き色も火加減もベスト。あれはどうやっ
たのかしら?」
「へへ、あれはちょいと秘密があってな。オーブンに入れるときに軽く一工夫して――」
「あ、なるほど。じゃああれは――」
と、マルトーとヴォルフの間で料理の話が始まってしまったので、クリフは黙って目の前の昼食に集中することにした。
しかし、それにしても美味い。貴族向けの料理にも劣らないと言っていい。多少時間が経ってはいるが、パンも芳醇な香りだ。つ
いつい黙ったまま食べて続けてしまう。
「――っといけねえ、忘れるとこだったぜ。おうシエスタ、『ケン』達にアルビオンのとっておきを注いでやんな!」
手を動かしたままのマルトーが叫ぶと、厨房の奥からシエスタがワインを持ってやってきた。四つのグラスに注いで、それぞれの
前に置いてくれる。
「はい、どうぞ皆さん」
ニコニコしながら、シエスタが勧めてくれる。才人が嬉しそうな声を出した。
「おっ、やった。俺、前は友達と一緒に飲んだりもしたけど、ワインっていうか酒の味ってあんま好きじゃなかったんだよなぁ。そ
れがこっちに来てから、こんなに美味いんだってはじめて知ったよ」
「ありがとうシエスタ。ああ、ワインは中々難しいからね。大きく値が張るものはやっぱり美味しいのが多いけど、少しランクが下
がっただけで途端に選びづらくなる。飲み慣れていないと、ちょっと舌に合わないかもな……うん、これは美味い」
クリフもまた注がれたワインを口にし、深い味わいに舌鼓を打った。才人は勢い良く口に流し込み、あっという間にグラスを半分
開けてしまう。
「ぷはっ。やっぱりなんか違うなあ。向こうじゃ、コンビニで買ったチューハイとかばっかりだったしなぁ俺。ビールはいまいちダ
メだったし。クリフさん、向こうじゃどういうの飲んでたんです? オススメとかある?」
「そうだな、僕もそこまで詳しい方ではないけど。フランス産よりスペイン産のワインもよく飲んだな、値段も手ごろで掘り出し物
も多いし。近年は気候が変わって、特級畑もそんなに信用できないからな」
「特級? なにそれ、畑にランクとかあるの?」
「ああ。土質がワインの元になる葡萄を作るのに最適って判断された畑さ。でも、外れを引くと高くて不味いなんてこともあるから
ね、名作なんて呼ばれてたのが、天候不順や作り手の代替わりでひどいことにもよくなるし」
「えー。それ最悪じゃん、なんのために高い金出したってことだし。やっぱり色々騙されてひどいの飲んだりしたの?」
「したね……。87年、91年の「シャトー・マルゴー」とか、あれはひどかった。名前じゃないと思うよ、ワインは。飲んだらどうか、
じゃないかな」
そう言うと、才人が困った顔をする。
「え、それじゃあどうすんだ? 名前で信用できなかったらどうにもならないじゃん。俺なんか怖くてどれも買えないよ」
「そうだな……。やっぱり君ぐらいの年代だと、とりあえずは白ワインかな? 赤は渋みがあるし、分かりにくいかもな。このワイ
ンはすごく美味しいけど、少し特別だ。選ぶならスパークリングワインとか……」
「あ、炭酸のある奴でしょ。知ってる」
「シャンパンって呼ばれてるのと基本的には同じさ。スペインにおける「カバ」だな。白ならガリシア地方の「リベイロ」やバスク
の「チャコリ」なんかもいいんじゃないか? ライトでキリッとしてて飲みやすいよ」
「へえ、それも炭酸入り? 今度飲んでみたいなあ。んぐんぐ」
けっこうな調子で杯を煽る才人。未成年だし飲み過ぎないかちょっと心配ではあるが、彼は年の割には酒が弱いわけではないよう
だ。
僕がはじめてアルコールを飲んだときは、あっという間にひっくり返ってしまったものだが。あの時はヴォルフに指をさされて笑
われたものだ。まあ、個人差か。
「お、白が飲みたいのかい『剣』? へへ、お前もけっこうイケる口ってやつかい。シエスタ、確か一本余ってたのがあるだろ?
どこやったっけ」
一息ついたのか、マルトーが包丁を置いて会話に入ってくる。
「えーと、たしかここの棚に……これですよね料理長?」
「おう、それだ。そこのアルビオンのやつには負けるが、まあこれもそこそこのやつさ。四人で一瓶じゃ足りんだろう、こいつもい
っとけや。よっ」
そう言って、手ずから栓を抜いて才人のグラスになみなみと注ぐ。
「お、ラッキー! ってうわ、こんなにいっぱい。飲みきれないって」
「がはは、遠慮すんな! ぐいっといけぐいっと! 俺はお前らが大好きなんだ、あのいけ好かねえ貴族を軽くひねってみせるなん
てな。お前、あんな剣さばきはどこで習ったんだ? 俺にも教えてくれよ」
「んぐんぐ……ぷはっ。あ、ホントだ、すげー飲みやすい。剣? うーん、それが俺にもよくわかんねえんだよな。なんか勝手に体
が動いたっていうか……俺はなにもしてないんだけど」
才人が不思議そうに首をひねると、マルトーはますます笑みを大きくしていく。
「体に馴染んでるくらいってやつか! いやーすげえな! おいお前達、聞いたか! 達人ってのはこういうもんだ、見習えよ!
達人は誇らない!」
マルトーの大声が厨房に響く。若いコック達が、その声に唱和して返す。
『達人は誇らない!』
その返事に満足そうにマルトーは頷き、ようやく半分を開けた才人のグラスにさらにワインを注いでいく。
「がはは、俺はますますお前達が好きになったぞ。ほらほら、もっと飲め」
「おいおい、いくらなんだって昼からこんなじゃ俺つぶれちゃうよ。クリフさん助けて」
さすがに困った顔をして、才人がこっちを見てきた。
「じゃあ……僕も好意に甘えて、一杯頂こうかな?」
「おっあんたも飲むかい! がはは、いいぞ。ところであんた、なんだかリーダーみたいだが。あんたはなにができるんだい?
どうせあんたもすげえんだろう?」
マルトーの質問に、クリフはワインを口にしながら適当にごまかす。
「僕は、そんな大したことはできないよ。……ふむ、これも美味いな。たしかにいける」
「だろ!? 値は安いがな、こいつはその割には美味いんだ。俺達平民にはこっそり人気なんだぜ? それより……」
くるり、とマルトーは背を向けて、再び厨房の奥に向かって叫ぶ。
「聞いたか、お前達! 達人ってのはこういうもんだ! 自分を誇ったりは決してしねえ! いいか、達人は決して誇らない!」
『達人は決して誇らない!』
また唱和が厨房に響き渡る。
「だっはっは! 謎めいてるってやつだな? で、いざという時に伝家の宝刀を抜く、と。いいじゃねえか、かっけえな!」
「はは……」
単純に話を大きくさせたくないだけだが、どうも謙遜しているととられたらしい。まあ、どっちにせよあまり噂は広がらせないほ
うが好ましいし。
隣のヴォルフが、自分のグラスに手酌でヴィンデージ・ワインをもう一杯つぎながら言う。
「白もステキだけど、アタシはやっぱり赤ね。いいわねーこれ。アタシもこんなにいいの、そうそう飲んだことないわよ?」
「おう、『拳』は赤か! あんたは一番の大金星だったな、なんだいありゃ!? パンチ一発でぐしゃっと一撃じゃねえか! とん
でもねえ強さだな、おい!?」
「ウフフ、やるでしょ。ま、あんな銅人形なんてアタシの敵じゃないわね。100でも200でも余裕のよっちゃんよ」
「おお!? すげえ自信だな、『拳』よ!?」
「自信ていうか、確信ね。あんな子供のオモチャに負けたらアタシの『不死身』の名が泣くわ。ラクショーラクショー」
「やっぱすげえな! ますます好きになっちまうぜ! おい! お前達聞いたか!」
またまたマルトーはくるりと振り向いて、厨房に声を響かせた。
「達人ってのはこういうもんだ! 自分の力を確信してる! いいか、達人もたまには誇る!」
『達人もたまには誇る!』
……もはやなんでもいいらしい。
「ウフフ、いいわねーこういう元気な空気。ふう、ごちそう様。美味しかったわ」
いつの間にか食べ終わったのか、ヴォルフが席を立つ。
それを見て、クリフははっとした。あ、しまった。気が付けば、自分の食事を止めてしまっていた。
「あら? まだのんびり食べてるのクリフ、それに才人ちゃんも。ダメよ、厨房は戦場なのよ? さっさと食べ終わらないと」
「ああ……つい、圧倒されちゃって」
「うわ……。俺、ちょっと回ってきたかも」
さすがに立て続けの一気が効いたのか、軽く才人がふらりと揺れた。
「んもう、ダメよ? さっ、マルトー。なにか仕事あるでしょ? お礼に今日も手伝うわ。そうね、このお皿洗っちゃっていいんで
しょ?」
ヴォルフはそう言って、おととい勝手に持ち込んだどこかで手に入れたらしいエプロンを身につけ、流しに積みあがっている汚れ
た皿の山を指す。
「おいおい、やっぱ悪ぃって。英雄を働かせるわけにはいかねえし、それに一応ミス・ヴァリエール嬢の使い魔なんだろ? 勝手に
使ったらこっちが怒られちまうよ」
「なーに言ってんのよ、大丈夫に決まってるでしょ。お嬢ちゃんにはアタシから断っておいたし、許しも出たし。だいたい、今はそ
この食堂でご飯食べてるわよ」
「うーん、そうかい? んじゃ毎度すまねえな、頼むぜ。洗剤と綿はそこだからな」
「オッケー任せてちょうだいな。さってと、やりますか。フンフンフ~ン♪」
鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで素早く食器を洗いはじめるヴォルフ。わずかな間に、どんどんと綺麗になった皿が積まれてい
く。それを見ていたマルトーが呟きを漏らした。
「おうおう、速え速え。やっぱやるじゃねえか。ウチで正式に雇いてえぐらいだよなぁ。……おし、シエスタ! ちょっと早いが、
メシ食っていいぞ!」
近くで棚から食器を出していたシエスタが、はい! と元気な声で返事をした。
こういう調子で、クリフ達は食後に厨房の手伝いをする。
最初は、ここで食事を摂りはじめた初日にヴォルフが勝手にはじめたことだが、流れで全員が仕事をするようになっていた。まあ、
元々ただで食事をするというのも気が引けていたので、クリフ達は当たり前のように作業に参加している。
マルトー他、厨房のコックやシエスタ達メイドは最初遠慮していたが、ヴォルフのごり押しで結局受け入れさせられていた。それ
に、ここの人たちはそうでもしなければ食べる事ができないため交代で食事を摂っているらしく、食事時は非常に忙しい。
なるほど、厨房は戦場とは言いえて妙であった。常識的に考えて、いい年をした人間達がそんな中でのうのうと食わせてもらって
そのまま帰る、というわけにはいかない。
隣で、静かに食べていたキクロプスも椅子を引いて立ち上がった。
「…………美味かった。……マルトー、薪はまだあるか?」
「お? 裏にあるが……あんたが前に割った奴がまだ少し残ってるぜ? スカカカッっとな、ありゃ見事だったな。別に今やらんで
も、夕方にでもやってくれりゃいいけど」
「…………俺は厨房で働いた経験はない。ここでは、やはりあまり役に立てん……夕食の時は、刃物でも磨こう。……包丁以外なら、
出来る」
「おう、そうなのかい? そりゃちょうどいいな、ハサミが何本か、切れ味悪くなってきててな。んじゃ、それまでに適当に切れ味
悪い奴を集めとくぜ」
「…………ああ。……ごちそう様」
ふらりと身を翻して、キクロプスは厨房の裏口から出て行った。前にもやってみせていたが、放り投げた大量の薪を曲芸のように
ナイフで割りまくるつもりのようだ。達人の剣士ならではの技である。
「やっべ。んがんぐんが、ごっくん。……よし、俺も薪割り行ってくるよ。マルトー、ごちそうさま!」
「おう『剣』! また後でな、頼んだぜ!」
あっという間に残っていた自分の皿を平らげて、才人はマルトーの脇をすり抜けキクロプスの後を追っていってしまう。いつも見
るが、すさまじい早食いの早さである。
そしてクリフは一人、厨房の隅のテーブルにおいてけぼりを食ってしまった。周囲では人々が気忙しそうに動いている。
ううむ……しまった、これは良くないな。早く食べて手伝わないと、なんだかいたたまれないぞ。
クリフは急いで残ったシチューをかきこみパンをほうばる。しかし、急に詰め込んだせいで喉に詰まってしまった。
「ゲホッゴホッ……」
「ん? おい大丈夫かよ、無理すんなって」
マルトーが心配する声をかけてくる。いかん、僕はあまり早食いに慣れていない……苦しい。
胸を叩きながら空のグラスにワインを注ごうとしたが、その時、目の前にさっと水の入ったコップが差し出された。
見上げると、シエスタがニコニコしながら自分のお盆を片手で持って、コップを渡してくれていた。
クリフはコップをありがたく受け取って一気に呷る。
「……ふう。ありがとう、シエスタ」
「いえ、そんなに急がなくてもいいんですよ、クリフさん。私もここ、お邪魔しますね」
お盆を置いて、クリフの隣にシエスタが腰掛けた。
「ゆっくり食べればいいですから。私もいつもそんな慌てて食べてませんし」
「ああ……なんだか助かった気分だ」
「うふふ。クリフさんはこういうの、あんまり経験ないですか?」
「うん。なんて言うんだろう、こういう……勢いのある仕事場の感じというのかな、そんなに慣れていないなぁ」
「そうですね、なんだかそういうの、似合わなそうです?」
「おや、それはどういう意味かな?」
明るい調子でそう言うと、シエスタはうふふ、と笑う。
「いいんだぜ、ゆっくり食ってくれてよ! よく味わってたっぷり食ってもらう、こいつぁ料理人の喜びだからな、がはは! っと
いけねえ、次の料理の煮込みやんねえと!」
ついこっちの会話にかまけて忘れていたのか、マルトーはコック帽を抑えてあわてて奥へ駆け出して行った。
「はは……活気があるなぁ。しかし、このシチューは本当においしいね」
「ええ、マルトー親方自ら作ったものですもの。私も、色々教えてもらってますし」
「うん、素晴らしい料理人だ。今朝の朝食も、残さず食べてしまったからね。足りなかったくらいだ」
思わず激賞の言葉が口から出る。少し遠くで煮込み料理の味見をはじめたマルトーはそれが耳に入ったのか、
「だっはっは! だろ、俺の料理は美味いだろ!」と嬉しそうに笑った。
「じゃあこっちの段の配膳、お願いしますね」
「分かった、任せてくれ」
食べ終わった後、クリフは自分も何か手伝おうとしたが、特にやれることもなかったため、シエスタと一緒に食堂でデザートの配
膳をしていた。
ヴォルフやキクロプスに比べて、クリフは自分の生活力のなさに少々暗澹とした気分になる。才人も自分と同じくできることは少
ないが、彼はなんというか、自分に比べて仕事をするにもセンスがあった。飲み込みが早く、テンポよく進められる才能というんだ
ろうか。若さのせいかもしれない。つまり、四人の中ではクリフが一番役に立っていなかった。
「ううむ、こうなるとどうにも役立たずだなぁ僕は……」
大っぴらに念動を使えればできる仕事の範囲もぐっと広がるのだが、それが出来ない以上仕方がないと言えば仕方ないとは言える
のではあるが。
配膳の途中、どうにも騒いでいる少年達の集団が目に留まった。よく見ると、例のギーシュがその中にいる。
そのうちにクリフの姿に気づいたのか、ぎょっとした顔をしてこちらを見た。
「うっ!? ひ、ひえっ!」
のけぞって、自分の尻を押さえる。恐怖に歪んだ顔をしていた。
「く、来るなぁッ! 来ないでくれぇッ!」
「……やあ。……君も大変だったな……」
どういえばいいのか、なんだかすごいすまない気分になってくる……。
「はぁっ、はぁっ、や、やつは!? やつはどこにいる!?」
「……やつは厨房だよ。出てこないはずだから安心してくれ……」
「う、うう……! ああああ゛、ああ゛……! やめろ、やめろ、尻を突き出すなぁッ……! 後ろ目にこっちを見るなぁッ……!」
なにやらトラウマが蘇ったらしい、ギーシュは頭を抱えて錯乱しはじめた。近くで食事をしていたモンモランシーがそれに気づき、
ギーシュの友人達と介抱をはじめた。
「落ちついて! 落ちつくのギーシュ、息を整えるの! 焦っちゃだめ!」
「そうだ、落ちつくんだギーシュ! 取り乱すな、お前は『薔薇色のギーシュ』だろう!?」
「やめろぉーッ! そ、その名を呼ぶなぁーッ!」
……うーん、かわいそうに……。変な二つ名までつけられて、災難すぎる……。
「……お、お大事に……」
こっそりと立ち去ろうとすると、ふとギーシュの足元に紫色の小瓶が転がっているのが目に入った。
ああ、あれがヴォルフ達が言ってた例の香水とか言うやつか。また落としてる……。こっそり念動力でポケットに突っ込んでおい
てやることにした。恐怖に支配されているせいか、ギーシュはそれに気づかなかったようだ。
しばらくの内にデザートの配膳も終わって、クリフ一行の昼食の時間はつつがなく終わりを告げた。
#navi(三つの『二つ名』 一つのゼロ)
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クリフ達が異世界に飛ばされて、ここトリステイン魔法学院で過ごすようになってから一週間ほどが過ぎた。
ギーシュとの諍いが終わり、彼が崇高な犠牲になった翌日から、クリフはコルベールと連日のように図書館で調べ物を続けていた。
時には彼の研究室へ寄り、詳しく話を聞いたり、議論めいたことまでしていた。
「うーむ……。まずいなぁ……もう一週間だ」
そろそろ昼食の時間を迎えるため、ルイズ達が一旦集まる寮塔寄りの場所へ向かいながら、クリフは暗澹として呟いた。
「これだけ調べて手がかりの一つもないとは……。どうにもならないのか……?」
非常によくなかった。一度は死んだ自分達三人はまだしも、才人は普通の生活を放り出したままなのである。両親も心配している
だろうし、おそらく失踪状態として扱われているはずである。
詳しく召喚された時の話を聞いてみたが、彼は事故などで死亡していたわけではないらしい。ただ、単純に休日に道を歩いていた
ら、通り抜けられる不思議な鏡を見つけて、なんとなくそこに飛び込んでみただけだという。
正直クリフはその行動にわりと正気を疑ったが、しかしクリフは身近にそういうことを平気でやりそうな人間を一人、よく知って
いた。ヴォルフである。
好奇心が非常に強い才人は、性格のタイプとしてはヴォルフにかなり近いようだった。義侠心や負けん気もあったりと共通する点
がある二人はずいぶん気が合うようで、よく一緒にルイズの命じた雑用をこなしている。似たような行動様式を持つ者二人、という
ことらしい。
「理解しがたいというか……どうしてこう、興味本位で無謀な人間っているんだろうな……。危険だ、となぜ考えないのか……?
まあ、多少彼の自業自得の面もあるんだよなぁ……」
しかし、放置するわけにもいかない。彼の親は今頃、途方に暮れていることだろう。このまま知らん振り、というのは原因の一端
もこちらにあり、いっぱしの大人としていくらなんでも気が引ける。
「はぁ……。しかし……それにしても、時間の経過はどうなってるんだろう……? 普通に考えれば、そのまま一週間なんだが……」
それよりクリフには、一つ大きな疑問があった。こちらと向こうと二つ世界があるとして、互いの時差というべきか、そういった
問題である。
自分達に照らしてみれば、クリフが意識を失ったのは夜中だ。目が覚めたのは夕方で、そうなると元の世界とは数時間程度、もし
くは同じことだが約一日足らずのズレが存在していることになる。それでてっきり、クリフはアメリカ・イギリス間と同程度、経度
が異なる場所と同じようなもの、と思っていた。
しかし、才人によれば鏡に突撃したのは同じく昼前の話であったらしい。そちらでは、時間の齟齬は発生していない、ということ
だ。
「となると……やっぱり、時間の流れ自体が異なると考えるべきだよな……」
こちらで一週間過ごした時間が、向こうでは一時間かもしれないし、一年間かも知れない。後者の可能性はあまり考えたくないが、
才人が持っていたノートPCが気になっていた。
どうも、自分達のいた時代より数年は進んでいるような気がしている。詳しいわけではないが、当時の現行PCはもっと性能が低
かったはずだ。機能も数段は優れていて、なにより知らないオペレーティング・システムが用いられていた。日本国内については未
詳であったが、インターネットもまだそれほど普及しているわけでもなかった。
だが才人は光ファイバー通信が一般家庭でも存在していると言っていたし、フロッピーと聞いてきょとんとした顔を見せた。超高
速回線や大容量媒体など、そんな高価なものが普通はそうそう使われるわけがない。
「……まずい……。平行宇宙とか多世界とか、そういうのであってくれないかなぁ……」
クリフはそれで嫌な予感がぷんぷんして、核心の質問はあえてしなかった。むしろ、彼がその可能性に気づく恐れがあってできな
かったとも言える。
すなわち、年号である。今が西暦何年であるかを聞けば、一発でこちらと向こうのズレの度合い、つまり時間経過の差が分かって
しまう。本音を言えば、自分もあまり知りたくはなかった。
「オシーンと常若の国だけはやめてくれよ……。日本にもあったな、ウラシマ……なんだったか……? はあ……」
軽く目の前が真っ暗になりつつため息をつくクリフが寮塔の近くまで来ると、いつものようにヴォルフが洗濯をしていた。才人の
姿はなく、今日はルイズと一緒に授業へ行っているらしい。
「あらクリフ、お帰りなさい。今日もちょっと、ダメだった?」
「ああ……。少し、先が見えないな。とっかかりがどこにもなくてさ……今日はサイト君は授業か」
「残念ねぇ。そうね、サイトちゃんはお嬢と一緒ね。なんだか、お気に入りみたいだわ」
ルイズは才人をよく連れて行きたがるようだった。護衛を任されたキクロプスは話せるようになっても、元来寡黙であまり喋る方
じゃない。それなら同年代の男の子の方がまだ話が合うからか、と最初クリフは思っていたが、どうもそうではないらしい。
それとなく聞いたルイズの話を総合すると、恐ろしいことに要は気兼ねなくボコスカ殴れるから、のようであった。
大人しく従うキクロプスには、不満はないがやはり楽しくはないという。それよりは、逆にからかい尽くされてこてんぱんにやら
れてしまうヴォルフは別にしても、少々程度やり返そうとする才人が格好の標的になっていた。
なんというか、人を趣味でサンドバックにする、というのは年頃の女の子としては如何なものかとクリフは思うのだけれども。す
ごいお転婆な娘である。
「またぞろ、生傷でも作って帰ってきそうだな……彼も災難なことだ」
「仲がよきことは美しき哉、よ。いいことじゃない」
ヴォルフは洗われたズボンを洗濯紐に通しながら言う。
……仲がいい…うーん。本当にいいのか? ……なんにせよ、僕がターゲットにならなくてよかった。彼も無事だといいが。
クリフが内心でほっとしていると、何列もの洗濯物の陰からシエスタが顔を出した。
「クリフさん、おかえりなさい! 今日もお疲れ様です!」
「やあ、シエスタ。今日も精が出てるみたいだね、君こそ毎日ご苦労様だよ」
「そんな……。ヴォルフさんがいつも手伝って下さるおかげで、ホントに助かってます」
そう言って、シエスタは頬を染めてもじもじしはじめる。
例の騒動があってからこっち、シエスタはクリフに対して好感を持っている様子だった。なにかと図書館などの様子を見に来て、
司書を通して差し入れなどをよくしてくれる。
「君のおかげで調べ物もよくはかどっているよ。本当にありがとう」
成果こそ芳しくはないが、根を詰めているときに間食の一つも差し入れてもらうとずいぶん助かる。ここまで分かりやすく好意を
示してもらえるというのは、クリフとしても悪い気はしない。
「えへへ……。今日の三時になったら、お菓子をお持ちしますね。それと、東方の名産の『お茶』っていうのが手に入ったんです。
楽しみにしててくださいね」
「『お茶』? へえ、お茶が!」
シエスタの言葉に、思わずクリフは反応した。
「それはいいね。紅茶かな? 緑茶かな? どちらも僕は好きだが」
「あ、クリフさん、ご存知なんですか?」
「ああ。知ってるどころか大好きだよ。いやあ、嬉しいね」
クリフはイギリス人である。英国といえば、お茶熱が高じてアジアの権益欲しさにオランダと戦争し、新大陸にまでお茶趣味を押
し付けて関税で絞り取り、挙句の果てにはボストン茶会事件でアメリカ独立戦争まで引き起こしたほどのお茶狂いの国である。
クリフ自身はイギリス人でありながら、子供のころからアメリカで実験場生活を送っていたため三時のお茶の習慣はなかった。が、
成人してからやってみたところ、非科学的な話ではあるが、どうにもしっくりきてしまいそれ以来病み付きになっていた。
「そうですか、よかったです。飲む前からこんなに喜んでもらえるなんて、えへへ」
シエスタがはにかんだように笑った。ヴォルフも横から話に加わる。
「いいじゃない、アタシも飲みたいわね? シエスタ、いい?」
「はい、けっこうたっぷりありますし。後でみんなで飲みましょう」
「いーわねー♪ アタシハーブティー大好きなのよー。ラベンダーとかカモミールとか、こっちにはあるのかしらね?」
「ハーブティー? ですか? ハーブはありますけど……」
「あら、じゃあできるかしら? お茶っていうか紅茶なんだけど、こうね、乾燥したハーブを香りづけとして一緒に淹れてね? 色
んなお花なんかのいーい香りを楽しむの」
「きゃあ、それ素敵ですね? それってどんなお花でもできるんですか?」
「もちろんよ、果実だってできるわ。できれば香りが強めなのがいいけど、特にね、アタシはローズヒップが大好きなの。ビタミンC
って言うのが豊富で美容にもよくて、おハダを綺麗にしてくれるのよ」
「へえ……! あとで詳しく教えて下さいね?」
「ええ、いいわよ。楽しみだわー。……あら、お嬢ちゃんも帰ってきたわね」
見てみると、のしのしと歩くルイズがこちらへ向かってきている。なにか怒っている様子で、その後ろには才人を背負ったキクロ
プスがついてきていた。またなにか癇癪を起こして才人に対して暴行に及んだらしい。
「ひどい……股間はやめろっての……」
ぐったりとした才人が悲しげな呟きを漏らしていた。……本当に仲がいいのか?
「お帰りなさいお嬢。さ、ご飯ね」
「わたしお腹が空いたわ。洗濯もいいけど、早く行くわよ」
「そりゃ奇遇ね、アタシもよ。じゃ、行きましょか。何が出るのかしら、楽しみねー」
と、ヴォルフは早くも舌なめずりする。
クリフも空腹を覚えた腹をなんとなくさすった。そういえば、自分も腹が減った。
「じゃあ、シエスタ。今日もお願いするよ」
「ええ、今日はシチューだそうですよ」
シエスタがにこにこしながら頷いた。
ルイズの許可が出てから数日の間は、アルヴィーズの食堂内で食事を摂っていたクリフ達であったが、やはり貴族ではない平民の
集団は問題があったらしい。
特に例の、才人とヴォルフのファミレス組のせいで、「著しく品位を下げるため、あまりにも」という学院側の判断でついに追い
出され、もっぱら食堂の裏にある厨房で済ませることにしていた。
ちなみに、貴族用の大浴場も今は使っていない。あのヴェストリの広場に簡易のシャワー室を建てて、そこで体を洗っていた。一
度だけは利用したが、天国などと呼んでいたヴォルフが少年達を強引に口説きはじめたので、実力で鎮圧して以降クリフの命令で自
主的に出禁にしている。
「さ、行くわよ。もたもたしないの」
ルイズが先頭になって、中央の塔に向かって一行は歩き出す。そのうちに、ヴォルフが呟いた。
「まーいいんだけどさー。お嬢ちゃん、ホントにいいの? アンタこれじゃ孤食じゃないの。一人でご飯食べるの、よくないわよ?」
「うるさいわね。いいの、しょうがないでしょ。あんたがバカみたいに下品なことするからこうなるんじゃないの」
「でもねー……なんとかならないかしら。アタシ心配よ。お嬢ってお友達も少ないみたいだし」
「お、大きなお世話よ! わたしはいいの、もう」
一週間近く過ごしてみたが、確かにルイズの交友関係はあまり広くないようである。せいぜい隣のキュルケぐらいのもので、楽し
そうにお喋りしているところはほとんど見たことがない。
「俺はあっちのが豪華でよかったけどなー。ま、厨房のもうまいんだけど」
ルイズについて歩く才人が言う。ルイズがぎろりと才人を睨んだ。
「あ・ん・た・も・でしょーが。なんでマナーもちゃんとできないのよ。せめて大人しく食べればよかったんでしょ」
「いやーついノリで……ヴォルさんが俺を乗せるの上手いんだよ」
「自分のせいじゃない。ばかヴォルフにくっついて、一緒に騒いでるからいけないんじゃないの。自業自得よ、ごはん食べれるだけ
ましだわ。甘やかしすぎなくらいよ」
そこでルイズの説教に、脇からヴォルフが口を出す。
「あら、バカだなんてひどいじゃない。アタシはただ、食事の一時に会話という花を添えているだけじゃないの」
「黙りなさいばか。マナーのことを言ってるんでしょ、罰としてあんた達二人はご飯抜きにした方がよかったかしら」
「「それは困る(わ)」」
「もう……! なんなのこの二人組は……!」
頭が痛いとばかりに、ルイズは首を振った。
「そうは言ってもねぇ。アタシはただ食べやすく食べてただけだし……」
「そうそう。ワイワイ楽しく食べることがいけないって言う方がおかしいんだよ。俺達は悪くないって」
などと、しかし二人はまったく悪いとも思っていない風情で言う。
「ヴォルフは黙りなさいって言ってるでしょ。だいたいサイト、あんた虎の威を借りるんじゃないの」
「別に借りちゃいねえよ。意見が合うだけっつーか? 俺が言う前に同じ意見を言ってくれるっつーか」
「そうよねーサイトちゃん。アタシ達気が合うのよ、これなんていうのかしら? マジョリティってやつ? 当たり前の感覚よね」
「そうだよね。俺達が多数派なんだよ、ルイズが違うだけで」
「……あんた達が多数派だったらこの世はウホウホ言ってるおサルだらけよ……」
そんなやり取りをしているうちに、食堂のある中央塔に着いた。そこでルイズは一人集団から分かれ、正面から入っていく。
「じゃあ、それじゃあね。授業の前になったら、キクロプスとサイトはわたしを迎えに来なさい」
「えー。俺、まだ働いてる方がいいかもしんねーんだけど。お前、俺のことボコボコ殴るんだもん。こいつひでーんすよ、なんでか
俺を目の敵にするし」
「いいから来なさい。遅れたらひどいからね」
「はいはい、分かったよ。なんなんだか……」
「はいは一回! じゃあね」
そう言って、ルイズは食堂に向かって行ってしまった。
「はあ……。めんどくせーな。クリフさん、俺と代わってくれません?」
才人がせがむようにクリフを見てくる。
「……いや、僕はその……調べものがあるので」
クリフはさりげなく拒否した。正直、自分に被害がくるのは勘弁であった。それにまあ……サイト君でないと、たぶん意味がない
んだろうなぁ……。
「ちぇー。あいつ、すげえ凶暴なんだよな。キクさんにはなにもしないのに、俺にだけやけに風当たりが強いし」
「…………まあ、少し……ひどいと思う時もあるが」
キクロプスがぽつりと呟いた。不平を漏らす才人の肩を、ヴォルフが叩く。
「まあ、いいじゃないの。きっと気があるのよ、やっぱり。青い恋ねー」
「ち、違うって! 最初は可愛いとは思ったけど、あんなに暴力振るうとは思ってなかったし!」
「あら照れちゃって。ま、それより早くご飯食べに行きましょ」
そうしてクリフ達は厨房へ向かった。
「おう、また来たなお前ら! 『我らのケン』達め! 出来てるぜ!」
からからと笑いながら包丁を振るって肉を切っているのは、この厨房のコック長であるマルトー、という気の良さそうな親父であ
る。
よく分からないがケン、というのはヴォルフの拳と才人の剣を指しているらしい。いつの間にか妙なネーミングまでつけられてい
た。とにかく、平民という身分で貴族のギーシュを事もなく下したのが評判であったらしい。
クリフ達が手を上げて返すと、がはは、今日のメシも美味いぞぅ、とマルトーが笑った。
「よっしゃ、ちょっと待ってろよ! シエスタ、仕事もあっから手を洗ってこい! ……おし、これで肉は上がりだ。副料理長、こ
れ頼むぞ! ……おう、お前らそこらへんの椅子に適当に座っててくれや」
マルトーに促され、クリフ達は隅の椅子の前へ行く。しかし、相変わらずすぐに座る気にはなれない。これだけ周りが忙しく飛び
回っているのに、自分達だけゆっくりと座って待つ、というのがどうにも……。
「どしたのクリフ? ボケッと突っ立って」
見ると、ヴォルフは堂々と腰掛けていた。さすがヴォルフだ、あっという間に馴染んでいる。
「あ、遠慮しない奴だな、とか思ってるんでしょ? いいのよ、向こうがいいって言ってるんだから。ほら、そこに立ってたら邪魔
になっちゃうわよ」
そう言われて、仕方なく一同は席につく。しばらく待っていると、シエスタが簡素なお盆に載せた料理を四人前運んできてくれた。
「あーら良い匂い。たまんないわね」
「うん。これは……美味そうだ」
スプーンでシチューをすくって口にする。ほのかな甘みのある、ちょうど良い塩加減。香りが良い。
「へえ……うん。これは美味いな。香草が……」
「お、あんた分かるのかい? さすがだねぇ。分かるやつに食ってもらえるってのも料理人冥利に尽きるってもんさ、がはは!」
マルトーは今度は野菜を刻みながら笑う。
「風味が特に良いな。これは確か、以前の鱒のパイに……」
「おお? なんでえ、あれ食ったのかい! 美味かったろ、あれ焼く時に詰めた奴と一緒でな。今度は余るくらいごっそり入ったか
ら、賄い用のシチューに使ったんだよ」
「あら、作ったのアナタだったの? あれはホント、美味しかったわー。アタシレシピ知りたかったのよ」
ヴォルフががつがつと食べながら会話に混じった。
「お、お気に入りかい。あいつは自信作だったな、また今度作ってやるかい?」
「お願いだわ、あの時は一皿全部食べちゃったもの。焼き加減がとっても良かったのよ、焼き色も火加減もベスト。あれはどうやっ
たのかしら?」
「へへ、あれはちょいと秘密があってな。オーブンに入れるときに軽く一工夫して――」
「あ、なるほど。じゃああれは――」
と、マルトーとヴォルフの間で料理の話が始まってしまったので、クリフは黙って目の前の昼食に集中することにした。
しかし、それにしても美味い。貴族向けの料理にも劣らないと言っていい。多少時間が経ってはいるが、パンも芳醇な香りだ。つ
いつい黙ったまま食べて続けてしまう。
「――っといけねえ、忘れるとこだったぜ。おうシエスタ、『ケン』達にアルビオンのとっておきを注いでやんな!」
手を動かしたままのマルトーが叫ぶと、厨房の奥からシエスタがワインを持ってやってきた。四つのグラスに注いで、それぞれの
前に置いてくれる。
「はい、どうぞ皆さん」
ニコニコしながら、シエスタが勧めてくれる。才人が嬉しそうな声を出した。
「おっ、やった。俺、前は友達と一緒に飲んだりもしたけど、ワインっていうか酒の味ってあんま好きじゃなかったんだよなぁ。そ
れがこっちに来てから、こんなに美味いんだってはじめて知ったよ」
「ありがとうシエスタ。ああ、ワインは中々難しいからね。大きく値が張るものはやっぱり美味しいのが多いけど、少しランクが下
がっただけで途端に選びづらくなる。飲み慣れていないと、ちょっと舌に合わないかもな……うん、これは美味い」
クリフもまた注がれたワインを口にし、深い味わいに舌鼓を打った。才人は勢い良く口に流し込み、あっという間にグラスを半分
開けてしまう。
「ぷはっ。やっぱりなんか違うなあ。向こうじゃ、コンビニで買ったチューハイとかばっかりだったしなぁ俺。ビールはいまいちダ
メだったし。クリフさん、向こうじゃどういうの飲んでたんです? オススメとかある?」
「そうだな、僕もそこまで詳しい方ではないけど。フランス産よりスペイン産のワインもよく飲んだな、値段も手ごろで掘り出し物
も多いし。近年は気候が変わって、特級畑もそんなに信用できないからな」
「特級? なにそれ、畑にランクとかあるの?」
「ああ。土質がワインの元になる葡萄を作るのに最適って判断された畑さ。でも、外れを引くと高くて不味いなんてこともあるから
ね、名作なんて呼ばれてたのが、天候不順や作り手の代替わりでひどいことにもよくなるし」
「えー。それ最悪じゃん、なんのために高い金出したってことだし。やっぱり色々騙されてひどいの飲んだりしたの?」
「したね……。87年、91年の「シャトー・マルゴー」とか、あれはひどかった。名前じゃないと思うよ、ワインは。飲んだらどうか、
じゃないかな」
そう言うと、才人が困った顔をする。
「え、それじゃあどうすんだ? 名前で信用できなかったらどうにもならないじゃん。俺なんか怖くてどれも買えないよ」
「そうだな……。やっぱり君ぐらいの年代だと、とりあえずは白ワインかな? 赤は渋みがあるし、分かりにくいかもな。このワイ
ンはすごく美味しいけど、少し特別だ。選ぶならスパークリングワインとか……」
「あ、炭酸のある奴でしょ。知ってる」
「シャンパンって呼ばれてるのと基本的には同じさ。スペインにおける「カバ」だな。白ならガリシア地方の「リベイロ」やバスク
の「チャコリ」なんかもいいんじゃないか? ライトでキリッとしてて飲みやすいよ」
「へえ、それも炭酸入り? 今度飲んでみたいなあ。んぐんぐ」
けっこうな調子で杯を煽る才人。未成年だし飲み過ぎないかちょっと心配ではあるが、彼は年の割には酒が弱いわけではないよう
だ。
僕がはじめてアルコールを飲んだときは、あっという間にひっくり返ってしまったものだが。あの時はヴォルフに指をさされて笑
われたものだ。まあ、個人差か。
「お、白が飲みたいのかい『剣』? へへ、お前もけっこうイケる口ってやつかい。シエスタ、確か一本余ってたのがあるだろ?
どこやったっけ」
一息ついたのか、マルトーが包丁を置いて会話に入ってくる。
「えーと、たしかここの棚に……これですよね料理長?」
「おう、それだ。そこのアルビオンのやつには負けるが、まあこれもそこそこのやつさ。四人で一瓶じゃ足りんだろう、こいつもい
っとけや。よっ」
そう言って、手ずから栓を抜いて才人のグラスになみなみと注ぐ。
「お、ラッキー! ってうわ、こんなにいっぱい。飲みきれないって」
「がはは、遠慮すんな! ぐいっといけぐいっと! 俺はお前らが大好きなんだ、あのいけ好かねえ貴族を軽くひねってみせるなん
てな。お前、あんな剣さばきはどこで習ったんだ? 俺にも教えてくれよ」
「んぐんぐ……ぷはっ。あ、ホントだ、すげー飲みやすい。剣? うーん、それが俺にもよくわかんねえんだよな。なんか勝手に体
が動いたっていうか……俺はなにもしてないんだけど」
才人が不思議そうに首をひねると、マルトーはますます笑みを大きくしていく。
「体に馴染んでるくらいってやつか! いやーすげえな! おいお前達、聞いたか! 達人ってのはこういうもんだ、見習えよ!
達人は誇らない!」
マルトーの大声が厨房に響く。若いコック達が、その声に唱和して返す。
『達人は誇らない!』
その返事に満足そうにマルトーは頷き、ようやく半分を開けた才人のグラスにさらにワインを注いでいく。
「がはは、俺はますますお前達が好きになったぞ。ほらほら、もっと飲め」
「おいおい、いくらなんだって昼からこんなじゃ俺つぶれちゃうよ。クリフさん助けて」
さすがに困った顔をして、才人がこっちを見てきた。
「じゃあ……僕も好意に甘えて、一杯頂こうかな?」
「おっあんたも飲むかい! がはは、いいぞ。ところであんた、なんだかリーダーみたいだが。あんたはなにができるんだい?
どうせあんたもすげえんだろう?」
マルトーの質問に、クリフはワインを口にしながら適当にごまかす。
「僕は、そんな大したことはできないよ。……ふむ、これも美味いな。たしかにいける」
「だろ!? 値は安いがな、こいつはその割には美味いんだ。俺達平民にはこっそり人気なんだぜ? それより……」
くるり、とマルトーは背を向けて、再び厨房の奥に向かって叫ぶ。
「聞いたか、お前達! 達人ってのはこういうもんだ! 自分を誇ったりは決してしねえ! いいか、達人は決して誇らない!」
『達人は決して誇らない!』
また唱和が厨房に響き渡る。
「だっはっは! 謎めいてるってやつだな? で、いざという時に伝家の宝刀を抜く、と。いいじゃねえか、かっけえな!」
「はは……」
単純に話を大きくさせたくないだけだが、どうも謙遜しているととられたらしい。まあ、どっちにせよあまり噂は広がらせないほ
うが好ましいし。
隣のヴォルフが、自分のグラスに手酌でヴィンデージ・ワインをもう一杯つぎながら言う。
「白もステキだけど、アタシはやっぱり赤ね。いいわねーこれ。アタシもこんなにいいの、そうそう飲んだことないわよ?」
「おう、『拳』は赤か! あんたは一番の大金星だったな、なんだいありゃ!? パンチ一発でぐしゃっと一撃じゃねえか! とん
でもねえ強さだな、おい!?」
「ウフフ、やるでしょ。ま、あんな銅人形なんてアタシの敵じゃないわね。100でも200でも余裕のよっちゃんよ」
「おお!? すげえ自信だな、『拳』よ!?」
「自信ていうか、確信ね。あんな子供のオモチャに負けたらアタシの『不死身』の名が泣くわ。ラクショーラクショー」
「やっぱすげえな! ますます好きになっちまうぜ! おい! お前達聞いたか!」
またまたマルトーはくるりと振り向いて、厨房に声を響かせた。
「達人ってのはこういうもんだ! 自分の力を確信してる! いいか、達人もたまには誇る!」
『達人もたまには誇る!』
……もはやなんでもいいらしい。
「ウフフ、いいわねーこういう元気な空気。ふう、ごちそう様。美味しかったわ」
いつの間にか食べ終わったのか、ヴォルフが席を立つ。
それを見て、クリフははっとした。あ、しまった。気が付けば、自分の食事を止めてしまっていた。
「あら? まだのんびり食べてるのクリフ、それに才人ちゃんも。ダメよ、厨房は戦場なのよ? さっさと食べ終わらないと」
「ああ……つい、圧倒されちゃって」
「うわ……。俺、ちょっと回ってきたかも」
さすがに立て続けの一気が効いたのか、軽く才人がふらりと揺れた。
「んもう、ダメよ? さっ、マルトー。なにか仕事あるでしょ? お礼に今日も手伝うわ。そうね、このお皿洗っちゃっていいんで
しょ?」
ヴォルフはそう言って、おととい勝手に持ち込んだどこかで手に入れたらしいエプロンを身につけ、流しに積みあがっている汚れ
た皿の山を指す。
「おいおい、やっぱ悪ぃって。英雄を働かせるわけにはいかねえし、それに一応ミス・ヴァリエール嬢の使い魔なんだろ? 勝手に
使ったらこっちが怒られちまうよ」
「なーに言ってんのよ、大丈夫に決まってるでしょ。お嬢ちゃんにはアタシから断っておいたし、許しも出たし。だいたい、今はそ
この食堂でご飯食べてるわよ」
「うーん、そうかい? んじゃ毎度すまねえな、頼むぜ。洗剤と綿はそこだからな」
「オッケー任せてちょうだいな。さってと、やりますか。フンフンフ~ン♪」
鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで素早く食器を洗いはじめるヴォルフ。わずかな間に、どんどんと綺麗になった皿が積まれてい
く。それを見ていたマルトーが呟きを漏らした。
「おうおう、速え速え。やっぱやるじゃねえか。ウチで正式に雇いてえぐらいだよなぁ。……おし、シエスタ! ちょっと早いが、
メシ食っていいぞ!」
近くで棚から食器を出していたシエスタが、はい! と元気な声で返事をした。
こういう調子で、クリフ達は食後に厨房の手伝いをする。
最初は、ここで食事を摂りはじめた初日にヴォルフが勝手にはじめたことだが、流れで全員が仕事をするようになっていた。まあ、
元々ただで食事をするというのも気が引けていたので、クリフ達は当たり前のように作業に参加している。
マルトー他、厨房のコックやシエスタ達メイドは最初遠慮していたが、ヴォルフのごり押しで結局受け入れさせられていた。それ
に、ここの人たちはそうでもしなければ食べる事ができないため交代で食事を摂っているらしく、食事時は非常に忙しい。
なるほど、厨房は戦場とは言いえて妙であった。常識的に考えて、いい年をした人間達がそんな中でのうのうと食わせてもらって
そのまま帰る、というわけにはいかない。
隣で、静かに食べていたキクロプスも椅子を引いて立ち上がった。
「…………美味かった。……マルトー、薪はまだあるか?」
「お? 裏にあるが……あんたが前に割った奴がまだ少し残ってるぜ? スカカカッっとな、ありゃ見事だったな。別に今やらんで
も、夕方にでもやってくれりゃいいけど」
「…………俺は厨房で働いた経験はない。ここでは、やはりあまり役に立てん……夕食の時は、刃物でも磨こう。……包丁以外なら、
出来る」
「おう、そうなのかい? そりゃちょうどいいな、ハサミが何本か、切れ味悪くなってきててな。んじゃ、それまでに適当に切れ味
悪い奴を集めとくぜ」
「…………ああ。……ごちそう様」
ふらりと身を翻して、キクロプスは厨房の裏口から出て行った。前にもやってみせていたが、放り投げた大量の薪を曲芸のように
ナイフで割りまくるつもりのようだ。達人の剣士ならではの技である。
「やっべ。んがんぐんが、ごっくん。……よし、俺も薪割り行ってくるよ。マルトー、ごちそうさま!」
「おう『剣』! また後でな、頼んだぜ!」
あっという間に残っていた自分の皿を平らげて、才人はマルトーの脇をすり抜けキクロプスの後を追っていってしまう。いつも見
るが、すさまじい早食いの早さである。
そしてクリフは一人、厨房の隅のテーブルにおいてけぼりを食ってしまった。周囲では人々が気忙しそうに動いている。
ううむ……しまった、これは良くないな。早く食べて手伝わないと、なんだかいたたまれないぞ。
クリフは急いで残ったシチューをかきこみパンをほうばる。しかし、急に詰め込んだせいで喉に詰まってしまった。
「ゲホッゴホッ……」
「ん? おい大丈夫かよ、無理すんなって」
マルトーが心配する声をかけてくる。いかん、僕はあまり早食いに慣れていない……苦しい。
胸を叩きながら空のグラスにワインを注ごうとしたが、その時、目の前にさっと水の入ったコップが差し出された。
見上げると、シエスタがニコニコしながら自分のお盆を片手で持って、コップを渡してくれていた。
クリフはコップをありがたく受け取って一気に呷る。
「……ふう。ありがとう、シエスタ」
「いえ、そんなに急がなくてもいいんですよ、クリフさん。私もここ、お邪魔しますね」
お盆を置いて、クリフの隣にシエスタが腰掛けた。
「ゆっくり食べればいいですから。私もいつもそんな慌てて食べてませんし」
「ああ……なんだか助かった気分だ」
「うふふ。クリフさんはこういうの、あんまり経験ないですか?」
「うん。なんて言うんだろう、こういう……勢いのある仕事場の感じというのかな、そんなに慣れていないなぁ」
「そうですね、なんだかそういうの、似合わなそうです?」
「おや、それはどういう意味かな?」
明るい調子でそう言うと、シエスタはうふふ、と笑う。
「いいんだぜ、ゆっくり食ってくれてよ! よく味わってたっぷり食ってもらう、こいつぁ料理人の喜びだからな、がはは! っと
いけねえ、次の料理の煮込みやんねえと!」
ついこっちの会話にかまけて忘れていたのか、マルトーはコック帽を抑えてあわてて奥へ駆け出して行った。
「はは……活気があるなぁ。しかし、このシチューは本当においしいね」
「ええ、マルトー親方自ら作ったものですもの。私も、色々教えてもらってますし」
「うん、素晴らしい料理人だ。今朝の朝食も、残さず食べてしまったからね。足りなかったくらいだ」
思わず激賞の言葉が口から出る。少し遠くで煮込み料理の味見をはじめたマルトーはそれが耳に入ったのか、
「だっはっは! だろ、俺の料理は美味いだろ!」と嬉しそうに笑った。
「じゃあこっちの段の配膳、お願いしますね」
「分かった、任せてくれ」
食べ終わった後、クリフは自分も何か手伝おうとしたが、特にやれることもなかったため、シエスタと一緒に食堂でデザートの配
膳をしていた。
ヴォルフやキクロプスに比べて、クリフは自分の生活力のなさに少々暗澹とした気分になる。才人も自分と同じくできることは少
ないが、彼はなんというか、自分に比べて仕事をするにもセンスがあった。飲み込みが早く、テンポよく進められる才能というんだ
ろうか。若さのせいかもしれない。つまり、四人の中ではクリフが一番役に立っていなかった。
「ううむ、こうなるとどうにも役立たずだなぁ僕は……」
大っぴらに念動を使えればできる仕事の範囲もぐっと広がるのだが、それが出来ない以上仕方がないと言えば仕方ないとは言える
のではあるが。
配膳の途中、どうにも騒いでいる少年達の集団が目に留まった。よく見ると、例のギーシュがその中にいる。
そのうちにクリフの姿に気づいたのか、ぎょっとした顔をしてこちらを見た。
「うっ!? ひ、ひえっ!」
のけぞって、自分の尻を押さえる。恐怖に歪んだ顔をしていた。
「く、来るなぁッ! 来ないでくれぇッ!」
「……やあ。……君も大変だったな……」
どういえばいいのか、なんだかすごいすまない気分になってくる……。
「はぁっ、はぁっ、や、やつは!? やつはどこにいる!?」
「……やつは厨房だよ。出てこないはずだから安心してくれ……」
「う、うう……! ああああ゛、ああ゛……! やめろ、やめろ、尻を突き出すなぁッ……! 後ろ目にこっちを見るなぁッ……!」
なにやらトラウマが蘇ったらしい、ギーシュは頭を抱えて錯乱しはじめた。近くで食事をしていたモンモランシーがそれに気づき、
ギーシュの友人達と介抱をはじめた。
「落ちついて! 落ちつくのギーシュ、息を整えるの! 焦っちゃだめ!」
「そうだ、落ちつくんだギーシュ! 取り乱すな、お前は『薔薇色のギーシュ』だろう!?」
「やめろぉーッ! そ、その名を呼ぶなぁーッ!」
……うーん、かわいそうに……。変な二つ名までつけられて、災難すぎる……。
「……お、お大事に……」
こっそりと立ち去ろうとすると、ふとギーシュの足元に紫色の小瓶が転がっているのが目に入った。
ああ、あれがヴォルフ達が言ってた例の香水とか言うやつか。また落としてる……。こっそり念動力でポケットに突っ込んでおい
てやることにした。恐怖に支配されているせいか、ギーシュはそれに気づかなかったようだ。
しばらくの内にデザートの配膳も終わって、クリフ一行の昼食の時間はつつがなく終わりを告げた。
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