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#navi(毒の爪の使い魔)
暖かな朝の日差しが照らすアルヴィーズの食堂。
生徒達が朝食を取りながら談笑する、何時もと変わらぬ風景がそこに広がっている――かと思えば違った。
食堂には三つの長いテーブルが並んでおり、正面入り口から向かって左の方から順に三年生、二年生、一年生が座る。
その一年生の席の一角に凄まじい人だかりが出来ているのだ。中心には一人の少女。
流れるような美しい金色の髪に白い肌をした彼女はティファニアだった。
アルビオンからトリステインへと彼女が連れて来られてから二ヶ月ちょっと。
魔法学院の春の始業式並びに入学式から一週間程度遅れ、アンリエッタの取り計らいから彼女はここに編入して来た。
入国手続き、トリステイン王家の方々へのお目通りなど、もろもろな事情も編入に時間が掛かった理由だが、
もっとも大きい物は彼女自身の事だ。
特にそれまで親代わりを勤めていた子供達との別れは、彼女にとってもっとも辛い事だった。
子供達は修道院に預けられる事となったのだが、別れの際には互いに泣いてしまった。
だが、子供達も何時までも甘えてばかりいられない事を十分理解していたらしく、
「村に戻ろうか?」と言った彼女に「自分達は大丈夫」と笑顔で答えた。
そんな子供達の心遣いにティファニアも心の中の不安を拭う事ができ、こうして魔法学院の生徒として生活を送っている。
さてさて、そんなこんなで魔法学院の一員となった彼女だが、心労は絶えなかったりする。
その理由は大きく分けて二つ。
一つは環境の違い。
閉鎖された空間とも言うべきウエストウッドの森と違い、魔法学院はあまりにも交流が多い。
村に殆ど閉じ篭る様にして生活していた彼女にとって、大勢の生徒は見るだけでインパクトがあった。
それに加えて授業の内容や森とはまた違った生活も目新しく、彼女は目が回る思いだったのだ。
そして、もう一つは彼女の容姿がもたらした結果。
彼女はエルフの血を隠す為、尖った耳を覆ってしまうほどの大きな帽子を、入学の時から常に被っていた。
無論、本来ならばそのような格好で授業を受けたりするなど、学校生活を送る事は許されない。
だが、彼女の場合『肌が日光に極端に弱い』と言う表向きの理由で許可されている。
アンリエッタの要請で後見人となったオスマン氏が、教師や生徒に入学式の時にそう説明した。
普通ならば誰もが嘘と解る事だが、彼女の場合は事情が違う。
彼女の肌の白さは雪のようで、日焼けをしていない女子生徒の中でも群を抜いており、
見れば誰しも”この子は日光を浴びれば火傷を負う”と考えてしまうだろう。
そんな彼女の儚い印象や今は無きアルビオン王家とエルフの血がブレンドされた麗しい容姿、
アルビオンからの訳有りな転入などの要素により、彼女は一日で学院中の男子生徒の興味を学年を問わず図らずも独占。
毎日毎日蟻に集られる飴玉の如く、彼女に奉仕をしようと集まる大勢の男子生徒に囲まれる事は、
静かな学院生活を送りたかった彼女には想定外の事態だった。
しかし、悪意の無い彼らを無下に突き放す事など彼女に出来るはずも無く、結果として彼らの対応に苦労する羽目になった。
――そして、今日も彼女は目の色を変えた男子生徒に囲まれている。
「いやはや、それにしても彼女の人気は凄い物だな」
男子生徒に囲まれるティファニアを見つめながら、ギーシュは唐突にそんな事を呟いた。
隣に座っていたジャンガは興味無さそうに大欠伸をする。
そんな彼らの周りには数人の男子生徒が集まっていた。
彼等は近衛隊”水精霊騎士隊”<オンディーヌ>のメンバーだ。
千年以上昔に創設された伝説の近衛隊――その名が冠されたこの近衛隊はアンリエッタが新たに創設した物だ。
最初アンリエッタは、隊長には”シュヴァリエ”の称号を送る事にしたジャンガに勤めてもらおうと考えていた。
だが現在の所、隊長はギーシュが勤めている。
理由は至って簡単……ジャンガが”シュヴァリエ”の称号授与と共に断ったからだ。曰く『部下になるなんざまっぴら御免』との事。
無論アンリエッタもこうなる事は重々承知していたらしく、無理に進めるような事はしなかった。
この新たな近衛隊の創立には”急な用件にも柔軟な対応が出来るように”と言う意味もある。
故にジャンガが隊長でなくともさしたる問題は無い。称号授与と共にアンリエッタの彼に対する純粋な感謝の意の示しである。
加えて騎士団の創立は既に決定事項としてふれを出していたので、今更取り消す事は出来ないのだった。
そんな訳で、隊長にはある程度の家柄や戦果の有るギーシュが選ばれたのである。
ジャンガにしてみれば別に有っても無くてもいい物なので、近衛隊が作られてもさして興味は無かった。
「あれは人気者と言うレベルを超えている。まるで崇拝だ」
水精霊騎士隊の実務担当をするつもりの少年レイナールがメガネを直しながら言う。
彼の言う事ももっともだった。ティファニアの周りに集う男子生徒は彼女の一挙一動にすぐさま反応を示すのだ。
紅茶のお代わりを注ぎ、肉を代わりに切り分けるなど、彼女のしようとした行動を率先して行うのだ。
それだけならばお姫様と召使の関係だが、零れた紅茶を自らのハンカチやマントで拭き取ったり、
埃が掛からないように壁となったりするのは少々行き過ぎだろう。
ガタンッ、と音がした。
ジャンガが目を向けると、ティファニアがその場を走り去って行くのが見えた。
男子生徒が手に手に帽子を持っているのを見て、ああそう言う事か、とジャンガは納得する。
おそらくは帽子をプレゼントされ、被らねばならない状況になりそうだから逃げ出したのだろう。
帽子の下には尖った耳…、エルフの特徴が隠れている。
もっとも彼女はハーフエルフなのだが、そんな事は些細な問題だろう。
「案外苦労してるみたいじゃねェか、アイツもよ…」
そう呟き、ジャンガは再度大欠伸をした。
そんな感じで今日も一日が過ぎる――かに思われたのだが……。
夕暮れ時、ジャンガはヴェストリの広場でベンチを占拠し、鼾を掻いていた。
殆ど人が寄り付かず、静かなここもまた本塔の屋根の上同様、昼寝には絶好の場所なのだ。
無論、一日中誰も近づかないなどありえない事だが、生徒達はジャンガが眠っている間は寄り付こうとしない。
以前にジャンガの傍で騒ぎ立て、彼を起こしてしまった生徒が筆舌にし難い仕打ちを受けた事があるからだ。
そんな訳で今日も彼は静かなこの場所で、思う存分惰眠を貪っていた。…そんな彼の耳に届く雑音。
何処かで誰かが騒いでいるのは解った、それが女生徒なのも解った。――解りはするが…正直うるさい。
まさか、今更騒ぎ立てて自分を起こそうとする命知らずがいるなどジャンガは思ってもいなかったのだ。
ジャンガはイライラしながら目を開けると身体を起こし、雑音のする方へと顔を向ける。
見れば帽子を押さえながらおずおずと後退っているティファニアの姿が見えた。
すると、学院の方から褐色、黄土、緑の髪をした三人組みの女生徒が姿を現す。
何れもマントは紫色をしているから一年生だろう。
紫は三年の色だったが、新しく入った学年は卒業した学年の色が使われるらしい。
なるほど…、新しく入った一年生ならば事情を知らなくても不思議では無いだろう。
それにしても目付きが悪い…、如何にも性格が悪そうだ。
すると、三人の後ろからまた一人一年生の女生徒が姿を見せる。
金髪をツインテールにした少女だ。
こちらもまた性格が悪そうな目付きをしてる。…しかも物凄くガキっぽい。
ジャンガは耳を傾けると話の内容が耳に入って来る。
…どうやらティファニアがツインテールの少女に挨拶をしなかった事を怒っているようだ。
”無礼者”だとか”謝罪しろ”などティファニアに向かって非難轟々だ。
金髪の少女も冷たい視線をティファニアに投げかけている。
それらを見ていてジャンガは腸が煮えくり返りそうな感覚に囚われていた。
別にティファニアが苛められているのを気の毒に思ったからではない…、幼少の頃に受けていた苛めを思い出したのだ。
指の代わりに爪が生えた手が気持ち悪いと言われ、化け物と罵られる。
当時は小心者な性格だった彼にはそれは物凄い恐怖だった。
小さい頃に受けたそれはトラウマとなり、大抵の奴は黙らせられるようになった今でもふと思い出される悩みの種。
例え自分に関係の無い事でも、これだけはジャンガも克服しきれない。
自分で苛めるならまだしも(最早ありえないが)自分が苛められたり、他人が苛められているのを見るのは我慢が行かない。
「許して、お願い」
ティファニアの声にジャンガの思考は現実に戻る。
考え込んでいる間に話はエスカレートしたらしく、苛めっ子グループが帽子を掴んで引っ張ってる。
ティファニアも必死に抵抗しているが多勢に無勢…、帽子が取られるのは時間の問題の様だ。
そんな彼女が昔の自分とダブり、ジャンガは音がするほど強く歯を噛み締めた。
不意に帽子を掴んでいた手が離され、ティファニアは後ろによろめいた。
どうしたのか、と思って顔を上げると彼女達は呆然と広場の方に顔を向けている。
ティファニアもそちらに顔を向けると、そこには彼女の知っている亜人が立っていた。
「ジャンガさん?」
亜人――ジャンガは答えず、女生徒達を睨んだ。
冷たい刺す様な視線に女生徒達は震え上がる。
「あ、あなた…誰よ?」
ツインテールの少女が震える声で言った。
「ギャーギャー、ギャーギャー、ウルセェんだよ…ガキが」
吐き捨てる様に呟くジャンガ。
その言葉に褐色の髪の少女が声を荒げる。
「無礼者! 誰の使い魔か知らないけれど、この方を何方と心得ているの!?」
「ガキはガキだろうが。なんなら他の呼び方にするゼ? 小娘、クソガキ、なんちゃって貴族、…リクエストが在るなら聞いてやるゼ?」
褐色の女が噛み付くような勢いで詰め寄ろうとして、ツインテールの少女に止められる。
少女はジャンガを睨み返す。だが、その目には恐怖の色が見て取れた。
「ンだ?」
「…あなた、わたしを誰だとお思い?」
「生意気なクソガキ…、それ以外の何だってんだ?」
少女は怒りに顔を歪ませる。
「ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフよ! トリステインと縁深き独立国クルデンホルフ大公国の姫殿下!」
その説明にジャンガは、ああ、と納得したように頷く。
「なるほど…そう言う事か」
――世間知らずの無礼な亜人かと思えば、クルデンホルフの事は知っていたか。
ベアトリスはしめたとばかりに言葉を続ける。
「そうよ、わたしはアンリエッタ女王陛下とも縁は深いの。解ったなら、今の無礼を謝罪しなさい!」
指を突きつけ、謝罪を迫るベアトリス。
だが、ジャンガはそんな彼女を見下ろすのみ。その目はまるで汚物でも見るかのようだ。
その視線に不愉快になり、ベアトリスは声を荒げる。
「謝罪をしなさいとわたしは言っているのよ!?」
「…ドブネズミ風情に何で謝らなきゃならねェんだよ?」
ジャンガの言葉に女生徒達は絶句した。
ベアトリスは見て解る位に顔を怒りで真っ赤に染める。
「あ、あなた…誰に向かってそんな口を叩いているか解ってるの!?」
「テメェこそ、外から来た分際で偉そうにしてんじゃネェよ…」
ジャンガは静かに呟く。
その言葉に何か危険な物を感じ、ベアトリスは震えた。
細められた両目は獲物を狙う肉食獣のそれと変わり無い。
「…人の縄張りで好き勝手すんじゃネェよ」
ジャンガの腕がゆっくりと振り上げられ――
「わあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?」
――腕が振り下ろされる寸前、ギーシュが叫び声を上げながらワルキューレと共にジャンガに飛び蹴りをした。
完全に不意を突かれた形になったジャンガは、もんどりうって地面を転がる。
ギーシュは荒く呼吸を繰り返しながらそれを見届け、ベアトリスへと向き直る。
「ハァ、ハァ、おお、これはこれは、クルデンホルフ姫殿下ではございませんか!?」
いつもの態度は何処へやら…妙に畏まった態度でギーシュはベアトリスに挨拶をする。
「あ、あら…ミスタ・グラモンじゃない。コホン、お久しぶりですわね」
ベアトリスは目の前の相手が自分の実家がお金を貸している相手だと解るや、先程までの調子を取り戻す。
すると、彼に付いて来たのであろうモンモランシーがベアトリスの身体を見ている。
「お、お怪我とかはございませんか?」
モンモランシーは心配そうな表情で尋ねた。
「別に」
ベアトリスはあくまでも平静を装ってそう言った。
モンモランシーはその答えを聞くや、安堵の息を漏らす。
当然だろう。独立国の姫に怪我を負わせよう物ならば事は国際問題に発展する可能性が高い。
例えジャンガの性格は解っていようとも、それだけは避けなければならない事態なのだ。
ギーシュが広場で倒れるジャンガを指差す。
「あいつはジャンガと言いまして、アンリエッタ女王陛下のシュヴァリエの称号授与も断る位の無礼者なんです。
ですから、姫殿下とあろう方があのような奴と立ち話をするのは高貴さが損なわれてしまうかと…」
「でも、あの亜人が先に…」
尚も食い下がろうとするベアトリスの耳に口を近づけ、ギーシュは小声で言う。
「少しの無礼を許容出来る、出来ないで大人のレディは変わりますよ?
今此処で許容出来れば姫殿下は大人のレディとして大きく成長されるでしょう」
そのギーシュの言葉にベアトリスも満更ではなかったのだろう。
僅かに頬を染めると”この場はこれで終わり”とあっさりと引き上げた。
…去り際、ティファニアに対して「次からは帽子を取れ」と言い残して。
――当然と言えば当然だが、ベアトリスが去った後でギーシュはジャンガに責められる事となった。
胸倉を掴み上げられ、ギーシュは苦しむ。
そんな彼にジャンガはそれだけで人も殺せそうな視線で睨み付ける。
こんな風にされるのは随分と久しぶりな感じがするが、懐かしむ必要も無ければ懐かしむ余裕も無い。
ギーシュはジャンガを落ち着かせるべく言葉を選ぶ。
「ジャ、ジャンガ…落ち着いてくれ」
「ホゥ? 派手にぶっ飛ばしておきながらその言い草か。…舐めんじゃネェぞ、気障ガキ?」
胸倉を掴む爪に力が籠もる。
首が絞まって息が苦しくなり、ギーシュはもがく。
モンモランシーが慌ててジャンガの腕を掴んだ。
「確かに説明も無しにいきなり吹き飛ばしたのは悪かったと思うわよ! でもね、事情が事情なのよ!」
必死に説得するモンモランシー。
ジャンガはそんなモンモランシーとギーシュを暫く見比べる。
やがて忌々しそうに舌打をし、ギーシュを乱暴に地面へと放り出した。
背中から叩き付けられ、ギーシュは苦痛に顔を歪ませる。
「あ、あ痛たたたた…」
「ちょっと、大丈夫?」
「な、何とか…」
心配そうな表情で安否を気遣うモンモランシーに、ギーシュは何とか笑顔を返す。
そんな二人を見下ろすジャンガ。
「…どんな事情が在るってんだ? 下らないのだったら容赦しないゼ?」
「全然下らなくなんか無い! 寧ろ重大だ!」
ギーシュは深呼吸をし、口を開く。
「彼女は小国とは言え独立国の姫だ。そこらの貴族とは格が違うんだよ、格が」
「ンなもんテメェらだって同じ穴のムジナだろうが」
ジャンガの言葉にギーシュは苦笑いを浮かべる。
「その言葉は嬉しくないが、言いたい事は解る。確かにぼくのグラモン家は代々王家に使えてきている。
格の上では大公国と同格と言っても差し支えは無い」
「モンモランシ家もそうね」
「…じゃ何であんなに頭が低いんだよテメェら?」
「現実は歴史に勝る」
「あン?」
「グラモン家は名門だが、領地の経営に疎い。過去にお金を使い過ぎた所為でね…財政難なんだ」
その言葉にジャンガは事の次第を理解し…、同時に呆れ返った。
「…金を借りてるって事か」
ギーシュは乾いた笑いを上げる。
モンモランシーもまた恥ずかしそうに顔を染めた。
「モンモランシ家も似たような物ね。以前に領地の開拓に失敗してるから…」
「まぁ、君も仲良くするに越した事は…」
「すると思うか?」
思わないさ、とギーシュは首を振って答える。
「他所から俺の縄張りに勝手に紛れ込んで、好き勝手するドブネズミとどうして仲良くしなきゃならねェ?
”始末”する方が楽だ」
そう言ったジャンガにギーシュは必死な表情で詰め寄る。
「いや、だからそれはダメだ! 彼女は一国の姫! その彼女に手を上げるのは確実に国家間の問題に発展する!
しかもだ、彼女には自前の親衛隊がついている。彼らとの争いは正直御免だ」
ジャンガは怪訝な表情を浮かべる。
「親衛隊…ってのは何の話だ?」
「知らないのかい?」
尋ねてくるギーシュにジャンガは頷いて見せた。
ギーシュはジャンガとティファニア、モンモランシーを正門の前まで引っ張っていった。
「見たまえ」
そう言ってギーシュは草原を指差す。
ジャンガは僅かに眉間に皺を寄せる。
魔法学院の周辺に広がる広大な草原…、そこに何時の間に作ったのか、幾つもの天幕が設けられていた。
天幕の上には空を目指す黄色の紋章が描かれ、周囲には大きな甲冑を着けた風竜が何匹もたむろしている。
「…ンだ、ありゃ?」
「あれがクルデンホルフ大公国親衛隊、その名も”空中装甲騎士団”<ルフトパンツァーリッター>だ」
ふぅん、と詰まらない物でも見るかのような目でジャンガは騎士団を見渡す。
ギーシュの説明が続く。
「クルデンホルフ大公国は、あの騎士団を「虎の子だ」と言う理由で先だってのアルビオン戦役には参加させなかった。
だから今も健在。アルビオンの竜騎士団が壊滅した今となってはハルケギニア最強の竜騎士…とまで言われているんだよ」
「最強ね……ふ~ん」
ギーシュの説明にもジャンガは生返事を返すだけ。
「その虎の子の騎士団を留学した娘一人の警護につけるとはな…どんな親バカだよ?」
呆れたような声で言う彼にギーシュは顎に手を沿えて答える。
「金持ちと言うのは見栄を張りたがる者だからな…」
「テメェが言えた義理かよ…気障ガキ?」
「ぼくはカッコつけたいだけだ。それに、今では無意味なアプローチは極力控えるようにしている」
「ああそうかよ…」
そう言ってジャンガは踵を返す。
「何処へ行くんだい?」
「…寝直すんだよ」
そう言ってジャンガはその場から消えた。
「いいかい!!? 絶対に彼女には手を出さないでくれよ!!!?」
ギーシュは既に姿を消したジャンガの耳に届くように、精一杯声を張り上げて叫んだ。
それを見ていたティファニアは申し訳無さそうにポツリと呟く。
「すみません、色々とご迷惑を掛けたみたいで…」
「え? ああ、別にあなたは気にしなくていいわよ。あいつはいつもの事だし」
「でも、迷惑をおかけしたのには変わりません…。わたしがシッカリしていればこんな事にはならなかったし…」
そんな彼女の様子を見かねたのか、ギーシュが口を開く。
「まぁ…その、なんだ。君もそんなに落ち込まない方が良い。折角の美貌が台無しだよ?」
「ギーシュ…」
モンモランシーが目を細めて見ている事に気が付き、ギーシュは取り繕う。
「別に卑しい意味で言ったわけじゃないさ。純粋に彼女を元気付けたくて言っただけさ」
「…それは解ってるわよ。ちょっとばかり気になっただけよ」
そう言い、モンモランシーは小さく咳払いをする。
「ま、ギーシュの言う事ももっともね。あなたも元気出しなさい。そりゃ、大公国の姫に目を付けられれば困るでしょうけど…」
モンモランシーの気遣いの言葉にティファニアは首を振る。
「お気遣いありがとうございます。わたしは本当に大丈夫ですから…、では失礼します」
ぺこりと二人にお辞儀をし、ティファニアは帽子を押さえながら学院へと戻って行った。
そんな彼女の後姿を見送りながら、残った二人は顔を見合わせた。
「大丈夫かしら?」
「何とも言えないな…」
「ジャンガもそうだけど…、ベアトリス姫殿下にも困ったわね。幾ら姫殿下でも我侭が過ぎと思うわ」
「それは同感だが、だからと言って僕達に出来る事は無い。…彼女が上手く対応するのを願おう」
「もう一つ願う事は在るんじゃない?」
モンモランシーがそう言い、ああ、とギーシュは頷く。
「ジャンガが問題を起こさない事か…。…願うだけ無駄な気もするがね」
ギーシュはため息を吐く。
同感、とモンモランシーもため息混じりに呟いた。
翌日…ジャンガは昨日と変わらずヴェストリの広場のベンチで昼寝をしていた。
あれだけ脅したのだから、もう二度と問題は起こさないだろうと、考えていたジャンガは再度此処を昼寝の場所に選んだのだ。
今日は最後まで寝れるだろうと考えながら。
しかし、万事思い通りに進まないのが世の常であり…。
大勢の学生の悲鳴が耳に届き、ジャンガは歯を噛み締める。
授業中だというのに何故このように叫ぶのだろうか?
しかし、ジャンガには理由など関係無い。ただ喧しいだけだ。
帽子を深く被り、騒音を掻き消そうとする。
すると、今度は突風が吹き、何かの唸り声が聞こえた。
ガチャーーーンッ!
立て続けに派手に窓ガラスが破られる音が響き、生徒の物ではない男達の声が聞こえてきた。
「ルセェ…」
更に帽子を深く被り、極力騒音を排除しようとする。
だが、騒音は耳に届き続け、ジャンガは次第にイライラを募らせていく。
そして、トドメとばかりに猛烈な突風が吹き、ベンチごとジャンガを吹き飛ばした。
吹き飛ばされたジャンガは背中から塔の壁に叩きつけられた。
遂に我慢が限界を超え、ジャンガは目を開ける。
飛び去る無数の甲冑を着けた風竜の背中が見えた。それは昨日ギーシュに見せられた騎士団の連中のだ。
風竜の背中には竜騎士の姿が勿論在ったが、それ以上にジャンガを苛立たせる姿が目に入った。
一匹の風竜の足に掴まれた尖った耳をした金髪の少女、
そしてその風竜の背に竜騎士と共に乗った金髪をツインテールにした少女だ。
それを見ながらジャンガは亀裂の様な笑みを浮かべた。
魔法学院の正門前、そこの草原に設けられた空中装甲騎士の天幕の前の地面にティファニアは乱暴に転がされた。
痛みを堪えながら身体を起こし周囲を見回す。
甲冑を着けた表情すら伺えない騎士達が自分の周囲を取り囲んでおり、
その輪の外では更に恐ろしい風竜達が唸り声を上げて威嚇している。
現状逃げる術は無いに等しい。
これだけ大勢の人間が居る場所で”忘却”の魔法は使えない。
先程、人間の父を”悪魔に魂を売った者”とベアトリスに言われて反論した時も、すぐさま周囲の騎士達が駆けつけて来た。
そんな騎士達に囲まれている今の状況で魔法を唱える素振りなど見せようものなら、周囲から魔法で蜂の巣にされてしまう。
かと言って二重に囲まれている為、退路など在るはずもなし。
やはり正体を明かすべきではなかった…、とティファニアは後悔する。
自分の事を受け入れてくれた人が居たからと言って、全てのハルケギニアの人がそうだと言えるはずもない。
大体、自分を従妹だと言って受け入れてくれたアンリエッタですら、最初は自分を見て驚いていたではないか?
それほどまでにエルフとハルケギニアの人間の間の溝は深い…。少し話をした位で解りあえるような物ではない。
周囲を取り囲む騎士達が、エルフの母の命を奪った騎士達の姿とダブって見える。
怯えるティファニアの下にベアトリスがやって来た。
勝ち誇ったような表情で彼女を見下しながら宣言する。
「今から異端審問を執り行うわ。わたし司教の肩書きを持っているの」
騒ぎを聞きつけて集まった周囲の生徒達がざわめいた。
生徒達の反応に満足したのか、ベアトリスは嬉しそうな表情でティファニアを見る。
「先程も言ったけど、わたしたちと仲良くしたいと言うなら同じ神を信じると言う事を証明してもらわないとね」
「どうしろって言うの?」
「あれに入るのよ」
ベアトリスは顎で示すので、ティファニアは自分の背後を振り返る。
大釜がそこに置かれていた。大釜の中の水は強力な炎の魔法で既にグラグラと沸騰している。
「あの湯の中に一分間浸かるの。大丈夫よ、始祖ブリミルを信じている者なら丁度良い湯加減に感じるから。
でも、あなたの”信仰”が本物で無い……つまり”異教徒”なら、あっと言う間に茹で肉になってしまうでしょうね」
楽しそうな顔でベアトリスは言う。
勿論、彼女の言葉は嘘だ。信じていようといまいと熱湯は熱湯でしかなく、浸かれば命は無い。
要するに、異端審問とは名前を変えた処刑に他ならないのだ。
何も知らないティファニアは呆然と大釜を見つめる。
そんな彼女にベアトリスは言った。
「できない? なら今直ぐ田舎に帰りなさい。そうすれば今までの事は無かった事にしてあげる」
暫しの沈黙が漂う。大釜の中の湯が沸騰する音と、燃える薪が立てるパチパチと言う音のみが辺りに響く。
その場に集まった生徒の中にはギーシュを初めとした水精霊騎士隊の面々にルイズやタバサも居た。
「ああ…やっぱりこういう事になったか…」
ギーシュがため息混じりに呟く。
「でも、あの子がエルフだったなんて驚いたわ?」
モンモランシーは信じられない物でも見るかのような表情でティファニアを見た。
まぁ、エルフはメイジの魔法を軽く凌駕する先住魔法の使い手である恐ろしい砂漠の悪魔…と呼ばれている。
それが目の前の少女だとは思えないのも致し方ない。
「ねぇ…、あなた達は知っていたの、あの子がエルフだって事?」
キュルケがルイズとタバサに尋ねる。
ルイズとタバサは頷いて見せた。
「正確にはハーフエルフなんだけどね」
ルイズのその言葉にキュルケは興味深げな声を上げる。
「へぇ…純粋なエルフじゃないの。でも、こうして見てる限りでも、恐ろしいって感じは全然しないわね…?」
キュルケもまたモンモランシーと似たような感想を抱いていたのだ。
さて、ルイズとタバサはアンリエッタからティファニアの事を任されている。
もっともなるべく問題は彼女自身に向き合ってもらいたいと言うのがルイズの本音だったりする。
ティファニアはハーフエルフであり、更には”虚無”の担い手である。
そもそも普通の貴族としては暮らしていけない身の上なのだ。
そんな彼女が魔法学院に来れば、どんな事態が起きても可笑しくはないのである。
それで一々助けていては此方が大変なばかりか、彼女自身にとってもためにならない。
本当にどうしようもなく、どうしても助けが必要な場合、その時にだけ手を差し伸べようとルイズは心に誓ったのだ。
そしてその旨はアンリエッタもタバサも、後見人となったオスマン氏も承知してくれた。
そんなルイズはそろそろ口を出すべき時だろうかどうか悩んでいた。
どんな事態が起きても可笑しくは無いと思っていたが、これは些か事が大きすぎる。
まさかこの魔法学院で異端審問を執り行う者が出てこようと流石に思わなかったのだ。
だが、非常に怪し過ぎる。あの一年生は司教の肩書きを持つと言ってはいるが、肝心の免状や審問認可状が見当たらないのだ。
何より目が悪戯をしている子供と大差ないのだ。
それらの事から、おそらくは嘘だろう、とルイズは当たりをつけていた。
では直ぐに口を出すべきだと思ったが、ティファニアの目からは怯えが消えていたのだ。
まだ何か言う事があるのだろう、とルイズはもう暫く様子を見る事にした。
「いや。絶対にいや」
その時、ティファニアの声が静かに響いた。全員の視線がティファニアに集中する。
ベアトリスは一瞬呆気に取られた。
「わたし、外の世界を見てみたいって願っていたの。それをジャンガさんやアンリエッタさんが叶えてくれたの。
ここで帰ったら、願いを叶えてくれた人達だけじゃない…、笑顔でわたしを送り出してくれた子供達にも合わせる顔が無い。
だから、絶対に帰らない」
ベアトリスは歯噛みする。これだけ脅してやれば帰るだろう、と思っていたのに相手は「帰らない」と言ってきたのだ。
どうして命を落とすかもしれないこの状況で、あんな言葉が言えるのだろうか? と悩む。
それだけの覚悟がティファニアには有るのだが、理解出来ないベアトリスは苛立つだけだった。
幼少期からちやほやされて育った彼女は未だに精神年齢が未熟なままなのだ。
「わたしが帰れと言ったら帰るの! それに、何よ今の!?
わたしの生まれであるクルデンホルフ大公家と、現トリステイン女王陛下であらせられるアンリエッタさまは縁が深いの!
それを言うに事欠いて”アンリエッタさん”ですって? 無礼にも程があるわ!
やはりあなたは異教徒ね! わたしやアンリエッタさまへの礼儀もなっていないあなたは即刻ここから出て行きなさい!」
ベアトリスはヒステリックに喚き散らす。
しかし、ティファニアは全く動じなかった。寧ろ、ベアトリスを哀れみの目で見つめている。
「な、何よ? 何なのよ、その目は!?」
ティファニアはポツリと呟く。
「可哀想…、子供なのね」
「なっ!?」
ベアトリスは呆然とする。
そんな彼女を見つめながらティファニアは続ける。
「ずっと大勢の子供達の世話をしてきたから解るわ。…あなたは全てが思い通りに行かないと気がすまない子供。
きっと、家に居た時は何でも他の人がやってくれたのね…。どんな我侭でも全て聞いてもらって、欲しい物は何でも貰う。
そんな甘やかされた生活が続けば子供のままで当然よね…。だから、あなたにはああ言う人しか集まってこない…」
ティファニアはそう言って離れた所で見ている三人組の女生徒を見た。
彼女の真っ直ぐな目で見つめられ、三人は動揺する。
そのままティファニアはベアトリスに視線を戻す。
「もっと…叱る時には叱ってくれる、ちゃんとした親の所に生まれていればこうはならなかったと思うわ。
可哀想に…。わたし…あなたがとても気の毒だわ」
直後、乾いた音が響き、ティファニアは地面に倒れた。
苛立ちが頂点を越えたベアトリスの平手打ちが飛んだのだ。
顔を真っ赤にさせながらベアトリスは叫ぶ。
「この者を釜に入れて! 今直ぐに!」
後ろに控えていた空中装甲騎士の二人がティファニアへと手を伸ばす。
ルイズは頃合と見て、止めるべく声を上げようとした…その時だ。
「ガアッッッ!!!?」
突然悲鳴が上がり、悲鳴の方に視線が集中する。
騎士の一人が杖を放し、ビクビクと身体を痙攣させている。
やがて、騎士は両膝を付き、ドサリと前のめりに倒れ込んだ。
その背中には三本の切り裂かれた傷跡が付いている。
悲鳴が上がったが、倒れた騎士の背後に立つ者の姿を見るや、それは直ぐに治まった
「ジャンガ…」
ルイズは呆然と呟く。
タバサは彼の姿を見るや目を細める。
立ち尽くすジャンガの身体からはどす黒い殺気が放たれている。
生徒達はそれを肌で感じ取ったのか、ジャンガから逃げるようにして離れていく。
それは風竜達も同様で、身体を小刻みに震わせながらその場に蹲る。
そんな周囲の事はジャンガは目にも入っていない様子。
その鋭く血走った視線はベアトリスだけを見つめている。
ベアトリスは身体が反射的に震えるのを感じた。
昨日の事が思い起こされたのだ。
ジャンガはゆっくりとベアトリスへと歩み寄る。
その動きに空中装甲騎士団が動く。
「止まれ! それ以上殿下に近寄るな!」
一斉に杖を突きつける。
だが、ジャンガは立ち止まらない。
騎士達は更に声を荒げて叫んだ。
「止まれと――」
瞬間、無数の血の花が咲き、騎士達が宙を舞った。
重い音を響かせながら、次々と騎士達が地面に落ちていく。
全ての騎士が空に打ち上げられ、落下するまでそれほどの時間は掛からなかっただろう。
だが、その場に居た全員には随分と長く感じられた。
それを見ながらベアトリスは呆然と立ち尽くしている。
あの亜人が歩いて来たのを見て空中装甲騎士が自分の前に壁を作った。
だが、その壁は次の瞬間には無かったのだ。そして間を空けずに降り注ぐ騎士達。
一様に真っ赤な血を滴らせて地面を赤く染めている。
何が起こったのか…まるで解らなかった。
呆然と立ち尽くすベアトリスの前にジャンガが立った。
有無を言わせず胸倉を掴み上げるや、そのままベアトリスを連れて大釜の方へと歩いていく。
何をするつもりなのか…その場の全員が理解し、息を呑んだ。
「ね、ねぇ…流石にあれは不味いんじゃないの?」
キュルケが冷や汗を垂らしながらルイズとタバサを見る。
傍らではギーシュやモンモランシーも不安な表情を浮かべている。
「ああ、そうだよな…万が一にもそんな事は無いと思ったけど、そうなるよな…。
あ~あ…トリステインはどうなるのかね?」
「それよりも姫殿下の命が危ういわよ…。ジャンガのあの目…殺す気満々の目よ」
「じゃあモンモランシー…、聞くけど…君はああなった彼を止められるかい?」
ギーシュの問いにモンモランシーは首を振る。
そんな風に慌てる彼らだが、意外とルイズとタバサの二人は落ち着いていた。
「ねぇ…あなた達はどうしてそんなに落ち着いていられるの?」
タバサは騎士達を指し示しながら呟く。
「派手に出血しているけど、命に別状は無い」
キュルケ達は倒れた騎士の方を見た。
なるほど…、確かに騎士達は派手な出血と怪我を負ってはいるが、絶命してはいない。
その証拠に騎士達の何れもが苦しそうな呻き声を発し、手足を僅かながら動かしている。
「どう言う事?」
キュルケの言葉にルイズは大袈裟なほど大きなため息を吐く。
「わざとやってるのよ…」
「そう、わざと」
ルイズは呆れた様子で、タバサは全く動じずにそう言う。
「要するに怖がらせたいだけなのよ。性格の悪いあいつの事だからね」
「だが、それならば……こう言っては何だが、どうして止めを刺さないんだ?
彼ならばそうしても可笑しくないと思うんだが?」
ギーシュの問いにタバサが答える。
「単純に死人が出たら面倒なだけ」
「あっ、そう…」
ギーシュは諦めとも呆れともつかない声で呟く。
「ま、本当に危なくなったらわたしとタバサで止めるわよ」
ジャンガは跳び上がると、大釜の縁に降り立った。
立ち上る水蒸気だけでも熱い。中の熱湯がどれだけの温度なのか容易に想像は付いた。
その熱湯の真上にベアトリスを持って行く。
ベアトリスは恐怖に顔を歪ませる。
真下には例の大釜…、その中には煮え滾る熱湯…。
落ちれば命が無い…。ベアトリスはジャンガの腕を掴んだ。
「あ、あなた…、こ、こんな事をして…、た、ただで済むと思ってるの!?」
精一杯の虚勢を張り、ベアトリスはジャンガに向かって叫ぶ。
ジャンガはベアトリスを引き寄せ、真正面から睨み付けた。
「ただじゃ済まない? キキキ…どうするってんだよ?」
「そ、それは…」
ジャンガは後方で倒れる空中装甲騎士の面々を肩越しに見る。
「あの連中…今の所、ハルケギニア最強の竜騎士とか言われてるんだってな?」
再びベアトリスに視線を戻す。
「そんな連中がああじゃ…俺をどうにかできる奴なんかいないと思わネェか?」
ベアトリスは言葉に詰まった。
確かに空中装甲騎士は現状、クルデンホルフ大公国が有する最強の騎士団であり、
ハルケギニアに現存する最強の竜騎士団である。
それが破られたと言う事は、殆どのメイジが太刀打ち出来ないという事に他ならない。
落ち込むベアトリスに対し、ジャンガはニヤリと嫌みったらしい笑みを浮かべる。
「まァ、湯にでも浸かれば気も落ち着くだろ? ちょうど良い感じにここには”風呂”も在るしよ」
ベアトリスは驚愕する。
目の前の亜人はやはり自分を釜に放り込む気なのだ。
必死でベアトリスは暴れる。
「や、止めて! し、死んじゃうわよ!!?」
ジャンガは首を傾げる。
「何で死ぬんだ…、”ブリミル教徒には良い湯加減”なんだろ?」
その言葉にベアトリスは更に言葉に詰まった。
確かに自分はそう言ったが、そんな物は嘘である。異端審問ではこのような虚言は日常茶飯事。
潔白を証明する為の方法も、相手を異教徒として認めさせる為だけの拷問なのだ。
無論、ジャンガはそんな事は百も承知であり、承知した上で言っていた。
羽目を外しすぎたガキを甚振るには十分すぎる理由だ。
「異教徒とかじゃねェんだったら問題は無ェよな? だったら遠慮無く湯に浸かにな、キキキ」
ベアトリスは必死でジャンガの腕を掴んだ。
「粘るんじゃネェよ…ガキが」
そう言って、反対の腕の爪をベアトリスの首筋にチクリと刺す。
軽い痛みを感じた直後、ベアトリスは身体から力が抜けるのを感じた。
ジャンガの腕を掴んでいた腕が、足がダラリと下がる。
だが、ベアトリスは生きていた。意識もハッキリとしている。
ただ、身体が動かないのだ。
「な、何よこれ?」
「キキキ、ちょいとお前の身体を動かなくしただけだ。なァ~に、暫くすりゃ動けるようになるゼ」
ジャンガは不適な笑みを浮かべながらベアトリスを見つめる。
「…それまでゆっくりと湯に浸かってな」
胸倉を掴んだ爪の一本が外れた。
ガクンと体が傾きベアトリスは、ヒッ、と悲鳴を漏らす。
更に一本が外れ、更に体が傾いた。
ベアトリスは恐怖に身体を震わせる。ガチガチと歯が小刻みに噛み合わさって音を立てる。
そんなベアトリスを満足げに見つめながら、ジャンガは最後の一本を外そうと動かす。
「ご……、ごめんなさーーーーーーいっっっ!!!」
突然のベアトリスの叫びにティファニアや生徒達、飛び出そうとしたルイズとタバサも目を見開く。
ジャンガは怪訝な表情でベアトリスを見る。
「あン? ごめんてなんだよ?」
「わ、わたし、本当は司教の肩書きなんて持ってない! 異端審問なんて行えないの!
ぜ、全部……全部嘘なの!!!」
ベアトリスは必死になって真実を語る。
「わ、わたし…あのハーフエルフが羨ましかったの…。何もしていないのに、色んな人に囲まれているあの子が…。
大公家の娘だからって…最初はわたしが注目されていたのに、あの子が全部人気を持っていっちゃうから…。
それだけじゃない…あの子はわたしに注目していた人だけじゃなく、もっと大勢の人から注目されていた…。
それが羨ましかった…、どうしようもなく悔しかった…。
大公家でも無いのに…特別な家柄でも無いのに…人気者なあの子が羨ましかったの…。
わたしだって…わたしだって…友達が欲しいかったの…。
大公家の娘だから持ち上げる相手だけじゃなく…本当の友達が欲しいかったの!」
取り巻きの三組みが気まずそうな表情を浮かべながら顔を見合わせる。
「…だから……あの子がハーフエルフだと解って、つい…異端審問なんて言っちゃったの…。
…ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。わたしが悪かった……ごめんなさい…」
涙ながらに謝罪を繰り返すベアトリス。そこには最早、先程までの高慢な悪ガキの姿は欠片も無かった。
「ベアトリスさん…」
ティファニアは何とか立ち上がる。
と、ジャンガが高らかに笑った。
「キーーーッ、キキキキッッ!!! なるほどなァ~? そいつはまた可哀想だゼ。いやいや、俺も似たようなもんだしよ」
そう言ってジャンガは腕を振り上げ、ベアトリスを地面に叩き付けた。
「痛ッ!?」
身体が動かない為に受身も取れず、無防備に地面に叩きつけられたベアトリスは痛みに悲鳴を上げる。
ジャンガは地面に降り立ち、大釜に足を付ける。ちょっとでも力を込めれば簡単に大釜は倒れるだろう。
その先には…。
「な、何をする気…?」
怯えるベアトリスにジャンガは冷たい笑みを浮かべて見せる。
「そりゃ勿論、お前に向かってこれを押し倒すのさ」
「なっ!?」
「テメェがこんな事した理由は解った…。だがな、俺としてはこのまま済ませる訳には行かねェんだよ。
この先、他にも出ないとも限らないしな…。何より、俺の面子って物が在る。
だから、罰は受けてもらうゼ。なァ~に、安心しな。この大釜の湯をぶっ掛けるだけだ。
何時間も湯に浸かるよりはいいだろ。ほんの一瞬だけ耐えれば良いんだからよ~?」
簡単そうに言うが、如何考えても楽ではない。ゆっくり浸かろうと、一瞬だけ浴びようと熱湯は熱湯。
あれ程の温度の物をあれだけ大量に浴びせられれば勿論命は無い。
「待ってください、ジャンガさん?」
そう言って止めたのはティファニアだった。
#navi(毒の爪の使い魔)
#navi(毒の爪の使い魔)
暖かな朝の日差しが照らすアルヴィーズの食堂。
生徒達が朝食を取りながら談笑する、何時もと変わらぬ風景がそこに広がっている――かと思えば違った。
食堂には三つの長いテーブルが並んでおり、正面入り口から向かって左の方から順に三年生、二年生、一年生が座る。
その一年生の席の一角に凄まじい人だかりが出来ているのだ。中心には一人の少女。
流れるような美しい金色の髪に白い肌をした彼女はティファニアだった。
アルビオンからトリステインへと彼女が連れて来られてから二ヶ月ちょっと。
魔法学院の春の始業式並びに入学式から一週間程度遅れ、アンリエッタの取り計らいから彼女はここに編入して来た。
入国手続き、トリステイン王家の方々へのお目通りなど、もろもろな事情も編入に時間が掛かった理由だが、
もっとも大きい物は彼女自身の事だ。
特にそれまで親代わりを勤めていた子供達との別れは、彼女にとってもっとも辛い事だった。
子供達は修道院に預けられる事となったのだが、別れの際には互いに泣いてしまった。
だが、子供達も何時までも甘えてばかりいられない事を十分理解していたらしく、
「村に戻ろうか?」と言った彼女に「自分達は大丈夫」と笑顔で答えた。
そんな子供達の心遣いにティファニアも心の中の不安を拭う事ができ、こうして魔法学院の生徒として生活を送っている。
さてさて、そんなこんなで魔法学院の一員となった彼女だが、心労は絶えなかったりする。
その理由は大きく分けて二つ。
一つは環境の違い。
閉鎖された空間とも言うべきウエストウッドの森と違い、魔法学院はあまりにも交流が多い。
村に殆ど閉じ篭る様にして生活していた彼女にとって、大勢の生徒は見るだけでインパクトがあった。
それに加えて授業の内容や森とはまた違った生活も目新しく、彼女は目が回る思いだったのだ。
そして、もう一つは彼女の容姿がもたらした結果。
彼女はエルフの血を隠す為、尖った耳を覆ってしまうほどの大きな帽子を、入学の時から常に被っていた。
無論、本来ならばそのような格好で授業を受けたりするなど、学校生活を送る事は許されない。
だが、彼女の場合『肌が日光に極端に弱い』と言う表向きの理由で許可されている。
アンリエッタの要請で後見人となったオスマン氏が、教師や生徒に入学式の時にそう説明した。
普通ならば誰もが嘘と解る事だが、彼女の場合は事情が違う。
彼女の肌の白さは雪のようで、日焼けをしていない女子生徒の中でも群を抜いており、
見れば誰しも”この子は日光を浴びれば火傷を負う”と考えてしまうだろう。
そんな彼女の儚い印象や今は無きアルビオン王家とエルフの血がブレンドされた麗しい容姿、
アルビオンからの訳有りな転入などの要素により、彼女は一日で学院中の男子生徒の興味を学年を問わず図らずも独占。
毎日毎日蟻に集られる飴玉の如く、彼女に奉仕をしようと集まる大勢の男子生徒に囲まれる事は、
静かな学院生活を送りたかった彼女には想定外の事態だった。
しかし、悪意の無い彼らを無下に突き放す事など彼女に出来るはずも無く、結果として彼らの対応に苦労する羽目になった。
――そして、今日も彼女は目の色を変えた男子生徒に囲まれている。
「いやはや、それにしても彼女の人気は凄い物だな」
男子生徒に囲まれるティファニアを見つめながら、ギーシュは唐突にそんな事を呟いた。
隣に座っていたジャンガは興味無さそうに大欠伸をする。
そんな彼らの周りには数人の男子生徒が集まっていた。
彼等は近衛隊”水精霊騎士隊”<オンディーヌ>のメンバーだ。
千年以上昔に創設された伝説の近衛隊――その名が冠されたこの近衛隊はアンリエッタが新たに創設した物だ。
最初アンリエッタは、隊長には”シュヴァリエ”の称号を送る事にしたジャンガに勤めてもらおうと考えていた。
だが現在の所、隊長はギーシュが勤めている。
理由は至って簡単……ジャンガが”シュヴァリエ”の称号授与と共に断ったからだ。曰く『部下になるなんざまっぴら御免』との事。
無論アンリエッタもこうなる事は重々承知していたらしく、無理に進めるような事はしなかった。
この新たな近衛隊の創立には”急な用件にも柔軟な対応が出来るように”と言う意味もある。
故にジャンガが隊長でなくともさしたる問題は無い。称号授与と共にアンリエッタの彼に対する純粋な感謝の意の示しである。
加えて騎士団の創立は既に決定事項としてふれを出していたので、今更取り消す事は出来ないのだった。
そんな訳で、隊長にはある程度の家柄や戦果の有るギーシュが選ばれたのである。
ジャンガにしてみれば別に有っても無くてもいい物なので、近衛隊が作られてもさして興味は無かった。
「あれは人気者と言うレベルを超えている。まるで崇拝だ」
水精霊騎士隊の実務担当をするつもりの少年レイナールがメガネを直しながら言う。
彼の言う事ももっともだった。ティファニアの周りに集う男子生徒は彼女の一挙一動にすぐさま反応を示すのだ。
紅茶のお代わりを注ぎ、肉を代わりに切り分けるなど、彼女のしようとした行動を率先して行うのだ。
それだけならばお姫様と召使の関係だが、零れた紅茶を自らのハンカチやマントで拭き取ったり、
埃が掛からないように壁となったりするのは少々行き過ぎだろう。
ガタンッ、と音がした。
ジャンガが目を向けると、ティファニアがその場を走り去って行くのが見えた。
男子生徒が手に手に帽子を持っているのを見て、ああそう言う事か、とジャンガは納得する。
おそらくは帽子をプレゼントされ、被らねばならない状況になりそうだから逃げ出したのだろう。
帽子の下には尖った耳…、エルフの特徴が隠れている。
もっとも彼女はハーフエルフなのだが、そんな事は些細な問題だろう。
「案外苦労してるみたいじゃねェか、アイツもよ…」
そう呟き、ジャンガは再度大欠伸をした。
そんな感じで今日も一日が過ぎる――かに思われたのだが……。
夕暮れ時、ジャンガはヴェストリの広場でベンチを占拠し、鼾を掻いていた。
殆ど人が寄り付かず、静かなここもまた本塔の屋根の上同様、昼寝には絶好の場所なのだ。
無論、一日中誰も近づかないなどありえない事だが、生徒達はジャンガが眠っている間は寄り付こうとしない。
以前にジャンガの傍で騒ぎ立て、彼を起こしてしまった生徒が筆舌にし難い仕打ちを受けた事があるからだ。
そんな訳で今日も彼は静かなこの場所で、思う存分惰眠を貪っていた。…そんな彼の耳に届く雑音。
何処かで誰かが騒いでいるのは解った、それが女生徒なのも解った。――解りはするが…正直うるさい。
まさか、今更騒ぎ立てて自分を起こそうとする命知らずがいるなどジャンガは思ってもいなかったのだ。
ジャンガはイライラしながら目を開けると身体を起こし、雑音のする方へと顔を向ける。
見れば帽子を押さえながらおずおずと後退っているティファニアの姿が見えた。
すると、学院の方から褐色、黄土、緑の髪をした三人組みの女生徒が姿を現す。
何れもマントは紫色をしているから一年生だろう。
紫は三年の色だったが、新しく入った学年は卒業した学年の色が使われるらしい。
なるほど…、新しく入った一年生ならば事情を知らなくても不思議では無いだろう。
それにしても目付きが悪い…、如何にも性格が悪そうだ。
すると、三人の後ろからまた一人一年生の女生徒が姿を見せる。
金髪をツインテールにした少女だ。
こちらもまた性格が悪そうな目付きをしてる。…しかも物凄くガキっぽい。
ジャンガは耳を傾けると話の内容が耳に入って来る。
…どうやらティファニアがツインテールの少女に挨拶をしなかった事を怒っているようだ。
”無礼者”だとか”謝罪しろ”などティファニアに向かって非難轟々だ。
金髪の少女も冷たい視線をティファニアに投げかけている。
それらを見ていてジャンガは腸が煮えくり返りそうな感覚に囚われていた。
別にティファニアが苛められているのを気の毒に思ったからではない…、幼少の頃に受けていた苛めを思い出したのだ。
指の代わりに爪が生えた手が気持ち悪いと言われ、化け物と罵られる。
当時は小心者な性格だった彼にはそれは物凄い恐怖だった。
小さい頃に受けたそれはトラウマとなり、大抵の奴は黙らせられるようになった今でもふと思い出される悩みの種。
例え自分に関係の無い事でも、これだけはジャンガも克服しきれない。
自分で苛めるならまだしも(最早ありえないが)自分が苛められたり、他人が苛められているのを見るのは我慢が行かない。
「許して、お願い」
ティファニアの声にジャンガの思考は現実に戻る。
考え込んでいる間に話はエスカレートしたらしく、苛めっ子グループが帽子を掴んで引っ張ってる。
ティファニアも必死に抵抗しているが多勢に無勢…、帽子が取られるのは時間の問題の様だ。
そんな彼女が昔の自分とダブり、ジャンガは音がするほど強く歯を噛み締めた。
不意に帽子を掴んでいた手が離され、ティファニアは後ろによろめいた。
どうしたのか、と思って顔を上げると彼女達は呆然と広場の方に顔を向けている。
ティファニアもそちらに顔を向けると、そこには彼女の知っている亜人が立っていた。
「ジャンガさん?」
亜人――ジャンガは答えず、女生徒達を睨んだ。
冷たい刺す様な視線に女生徒達は震え上がる。
「あ、あなた…誰よ?」
ツインテールの少女が震える声で言った。
「ギャーギャー、ギャーギャー、ウルセェんだよ…ガキが」
吐き捨てる様に呟くジャンガ。
その言葉に褐色の髪の少女が声を荒げる。
「無礼者! 誰の使い魔か知らないけれど、この方を何方と心得ているの!?」
「ガキはガキだろうが。なんなら他の呼び方にするゼ? 小娘、クソガキ、なんちゃって貴族、…リクエストが在るなら聞いてやるゼ?」
褐色の女が噛み付くような勢いで詰め寄ろうとして、ツインテールの少女に止められる。
少女はジャンガを睨み返す。だが、その目には恐怖の色が見て取れた。
「ンだ?」
「…あなた、わたしを誰だとお思い?」
「生意気なクソガキ…、それ以外の何だってんだ?」
少女は怒りに顔を歪ませる。
「ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフよ! トリステインと縁深き独立国クルデンホルフ大公国の姫殿下!」
その説明にジャンガは、ああ、と納得したように頷く。
「なるほど…そう言う事か」
――世間知らずの無礼な亜人かと思えば、クルデンホルフの事は知っていたか。
ベアトリスはしめたとばかりに言葉を続ける。
「そうよ、わたしはアンリエッタ女王陛下とも縁は深いの。解ったなら、今の無礼を謝罪しなさい!」
指を突きつけ、謝罪を迫るベアトリス。
だが、ジャンガはそんな彼女を見下ろすのみ。その目はまるで汚物でも見るかのようだ。
その視線に不愉快になり、ベアトリスは声を荒げる。
「謝罪をしなさいとわたしは言っているのよ!?」
「…ドブネズミ風情に何で謝らなきゃならねェんだよ?」
ジャンガの言葉に女生徒達は絶句した。
ベアトリスは見て解る位に顔を怒りで真っ赤に染める。
「あ、あなた…誰に向かってそんな口を叩いているか解ってるの!?」
「テメェこそ、外から来た分際で偉そうにしてんじゃネェよ…」
ジャンガは静かに呟く。
その言葉に何か危険な物を感じ、ベアトリスは震えた。
細められた両目は獲物を狙う肉食獣のそれと変わり無い。
「…人の縄張りで好き勝手すんじゃネェよ」
ジャンガの腕がゆっくりと振り上げられ――
「わあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?」
――腕が振り下ろされる寸前、ギーシュが叫び声を上げながらワルキューレと共にジャンガに飛び蹴りをした。
完全に不意を突かれた形になったジャンガは、もんどりうって地面を転がる。
ギーシュは荒く呼吸を繰り返しながらそれを見届け、ベアトリスへと向き直る。
「ハァ、ハァ、おお、これはこれは、クルデンホルフ姫殿下ではございませんか!?」
いつもの態度は何処へやら…妙に畏まった態度でギーシュはベアトリスに挨拶をする。
「あ、あら…ミスタ・グラモンじゃない。コホン、お久しぶりですわね」
ベアトリスは目の前の相手が自分の実家がお金を貸している相手だと解るや、先程までの調子を取り戻す。
すると、彼に付いて来たのであろうモンモランシーがベアトリスの身体を見ている。
「お、お怪我とかはございませんか?」
モンモランシーは心配そうな表情で尋ねた。
「別に」
ベアトリスはあくまでも平静を装ってそう言った。
モンモランシーはその答えを聞くや、安堵の息を漏らす。
当然だろう。独立国の姫に怪我を負わせよう物ならば事は国際問題に発展する可能性が高い。
例えジャンガの性格は解っていようとも、それだけは避けなければならない事態なのだ。
ギーシュが広場で倒れるジャンガを指差す。
「あいつはジャンガと言いまして、アンリエッタ女王陛下のシュヴァリエの称号授与も断る位の無礼者なんです。
ですから、姫殿下とあろう方があのような奴と立ち話をするのは高貴さが損なわれてしまうかと…」
「でも、あの亜人が先に…」
尚も食い下がろうとするベアトリスの耳に口を近づけ、ギーシュは小声で言う。
「少しの無礼を許容出来る、出来ないで大人のレディは変わりますよ?
今此処で許容出来れば姫殿下は大人のレディとして大きく成長されるでしょう」
そのギーシュの言葉にベアトリスも満更ではなかったのだろう。
僅かに頬を染めると”この場はこれで終わり”とあっさりと引き上げた。
…去り際、ティファニアに対して「次からは帽子を取れ」と言い残して。
――当然と言えば当然だが、ベアトリスが去った後でギーシュはジャンガに責められる事となった。
胸倉を掴み上げられ、ギーシュは苦しむ。
そんな彼にジャンガはそれだけで人も殺せそうな視線で睨み付ける。
こんな風にされるのは随分と久しぶりな感じがするが、懐かしむ必要も無ければ懐かしむ余裕も無い。
ギーシュはジャンガを落ち着かせるべく言葉を選ぶ。
「ジャ、ジャンガ…落ち着いてくれ」
「ホゥ? 派手にぶっ飛ばしておきながらその言い草か。…舐めんじゃネェぞ、気障ガキ?」
胸倉を掴む爪に力が籠もる。
首が絞まって息が苦しくなり、ギーシュはもがく。
モンモランシーが慌ててジャンガの腕を掴んだ。
「確かに説明も無しにいきなり吹き飛ばしたのは悪かったと思うわよ! でもね、事情が事情なのよ!」
必死に説得するモンモランシー。
ジャンガはそんなモンモランシーとギーシュを暫く見比べる。
やがて忌々しそうに舌打をし、ギーシュを乱暴に地面へと放り出した。
背中から叩き付けられ、ギーシュは苦痛に顔を歪ませる。
「あ、あ痛たたたた…」
「ちょっと、大丈夫?」
「な、何とか…」
心配そうな表情で安否を気遣うモンモランシーに、ギーシュは何とか笑顔を返す。
そんな二人を見下ろすジャンガ。
「…どんな事情が在るってんだ? 下らないのだったら容赦しないゼ?」
「全然下らなくなんか無い! 寧ろ重大だ!」
ギーシュは深呼吸をし、口を開く。
「彼女は小国とは言え独立国の姫だ。そこらの貴族とは格が違うんだよ、格が」
「ンなもんテメェらだって同じ穴のムジナだろうが」
ジャンガの言葉にギーシュは苦笑いを浮かべる。
「その言葉は嬉しくないが、言いたい事は解る。確かにぼくのグラモン家は代々王家に使えてきている。
格の上では大公国と同格と言っても差し支えは無い」
「モンモランシ家もそうね」
「…じゃ何であんなに頭が低いんだよテメェら?」
「現実は歴史に勝る」
「あン?」
「グラモン家は名門だが、領地の経営に疎い。過去にお金を使い過ぎた所為でね…財政難なんだ」
その言葉にジャンガは事の次第を理解し…、同時に呆れ返った。
「…金を借りてるって事か」
ギーシュは乾いた笑いを上げる。
モンモランシーもまた恥ずかしそうに顔を染めた。
「モンモランシ家も似たような物ね。以前に領地の開拓に失敗してるから…」
「まぁ、君も仲良くするに越した事は…」
「すると思うか?」
思わないさ、とギーシュは首を振って答える。
「他所から俺の縄張りに勝手に紛れ込んで、好き勝手するドブネズミとどうして仲良くしなきゃならねェ?
”始末”する方が楽だ」
そう言ったジャンガにギーシュは必死な表情で詰め寄る。
「いや、だからそれはダメだ! 彼女は一国の姫! その彼女に手を上げるのは確実に国家間の問題に発展する!
しかもだ、彼女には自前の親衛隊がついている。彼らとの争いは正直御免だ」
ジャンガは怪訝な表情を浮かべる。
「親衛隊…ってのは何の話だ?」
「知らないのかい?」
尋ねてくるギーシュにジャンガは頷いて見せた。
ギーシュはジャンガとティファニア、モンモランシーを正門の前まで引っ張っていった。
「見たまえ」
そう言ってギーシュは草原を指差す。
ジャンガは僅かに眉間に皺を寄せる。
魔法学院の周辺に広がる広大な草原…、そこに何時の間に作ったのか、幾つもの天幕が設けられていた。
天幕の上には空を目指す黄色の紋章が描かれ、周囲には大きな甲冑を着けた風竜が何匹もたむろしている。
「…ンだ、ありゃ?」
「あれがクルデンホルフ大公国親衛隊、その名も”空中装甲騎士団”<ルフトパンツァーリッター>だ」
ふぅん、と詰まらない物でも見るかのような目でジャンガは騎士団を見渡す。
ギーシュの説明が続く。
「クルデンホルフ大公国は、あの騎士団を「虎の子だ」と言う理由で先だってのアルビオン戦役には参加させなかった。
だから今も健在。アルビオンの竜騎士団が壊滅した今となってはハルケギニア最強の竜騎士…とまで言われているんだよ」
「最強ね……ふ~ん」
ギーシュの説明にもジャンガは生返事を返すだけ。
「その虎の子の騎士団を留学した娘一人の警護につけるとはな…どんな親バカだよ?」
呆れたような声で言う彼にギーシュは顎に手を沿えて答える。
「金持ちと言うのは見栄を張りたがる者だからな…」
「テメェが言えた義理かよ…気障ガキ?」
「ぼくはカッコつけたいだけだ。それに、今では無意味なアプローチは極力控えるようにしている」
「ああそうかよ…」
そう言ってジャンガは踵を返す。
「何処へ行くんだい?」
「…寝直すんだよ」
そう言ってジャンガはその場から消えた。
「いいかい!!? 絶対に彼女には手を出さないでくれよ!!!?」
ギーシュは既に姿を消したジャンガの耳に届くように、精一杯声を張り上げて叫んだ。
それを見ていたティファニアは申し訳無さそうにポツリと呟く。
「すみません、色々とご迷惑を掛けたみたいで…」
「え? ああ、別にあなたは気にしなくていいわよ。あいつはいつもの事だし」
「でも、迷惑をおかけしたのには変わりません…。わたしがシッカリしていればこんな事にはならなかったし…」
そんな彼女の様子を見かねたのか、ギーシュが口を開く。
「まぁ…その、なんだ。君もそんなに落ち込まない方が良い。折角の美貌が台無しだよ?」
「ギーシュ…」
モンモランシーが目を細めて見ている事に気が付き、ギーシュは取り繕う。
「別に卑しい意味で言ったわけじゃないさ。純粋に彼女を元気付けたくて言っただけさ」
「…それは解ってるわよ。ちょっとばかり気になっただけよ」
そう言い、モンモランシーは小さく咳払いをする。
「ま、ギーシュの言う事ももっともね。あなたも元気出しなさい。そりゃ、大公国の姫に目を付けられれば困るでしょうけど…」
モンモランシーの気遣いの言葉にティファニアは首を振る。
「お気遣いありがとうございます。わたしは本当に大丈夫ですから…、では失礼します」
ぺこりと二人にお辞儀をし、ティファニアは帽子を押さえながら学院へと戻って行った。
そんな彼女の後姿を見送りながら、残った二人は顔を見合わせた。
「大丈夫かしら?」
「何とも言えないな…」
「ジャンガもそうだけど…、ベアトリス姫殿下にも困ったわね。幾ら姫殿下でも我侭が過ぎと思うわ」
「それは同感だが、だからと言って僕達に出来る事は無い。…彼女が上手く対応するのを願おう」
「もう一つ願う事は在るんじゃない?」
モンモランシーがそう言い、ああ、とギーシュは頷く。
「ジャンガが問題を起こさない事か…。…願うだけ無駄な気もするがね」
ギーシュはため息を吐く。
同感、とモンモランシーもため息混じりに呟いた。
翌日…ジャンガは昨日と変わらずヴェストリの広場のベンチで昼寝をしていた。
あれだけ脅したのだから、もう二度と問題は起こさないだろうと、考えていたジャンガは再度此処を昼寝の場所に選んだのだ。
今日は最後まで寝れるだろうと考えながら。
しかし、万事思い通りに進まないのが世の常であり…。
大勢の学生の悲鳴が耳に届き、ジャンガは歯を噛み締める。
授業中だというのに何故このように叫ぶのだろうか?
しかし、ジャンガには理由など関係無い。ただ喧しいだけだ。
帽子を深く被り、騒音を掻き消そうとする。
すると、今度は突風が吹き、何かの唸り声が聞こえた。
ガチャーーーンッ!
立て続けに派手に窓ガラスが破られる音が響き、生徒の物ではない男達の声が聞こえてきた。
「ルセェ…」
更に帽子を深く被り、極力騒音を排除しようとする。
だが、騒音は耳に届き続け、ジャンガは次第にイライラを募らせていく。
そして、トドメとばかりに猛烈な突風が吹き、ベンチごとジャンガを吹き飛ばした。
吹き飛ばされたジャンガは背中から塔の壁に叩きつけられた。
遂に我慢が限界を超え、ジャンガは目を開ける。
飛び去る無数の甲冑を着けた風竜の背中が見えた。それは昨日ギーシュに見せられた騎士団の連中のだ。
風竜の背中には竜騎士の姿が勿論在ったが、それ以上にジャンガを苛立たせる姿が目に入った。
一匹の風竜の足に掴まれた尖った耳をした金髪の少女、
そしてその風竜の背に竜騎士と共に乗った金髪をツインテールにした少女だ。
それを見ながらジャンガは亀裂の様な笑みを浮かべた。
魔法学院の正門前、そこの草原に設けられた空中装甲騎士の天幕の前の地面にティファニアは乱暴に転がされた。
痛みを堪えながら身体を起こし周囲を見回す。
甲冑を着けた表情すら伺えない騎士達が自分の周囲を取り囲んでおり、
その輪の外では更に恐ろしい風竜達が唸り声を上げて威嚇している。
現状逃げる術は無いに等しい。
これだけ大勢の人間が居る場所で”忘却”の魔法は使えない。
先程、人間の父を”悪魔に魂を売った者”とベアトリスに言われて反論した時も、すぐさま周囲の騎士達が駆けつけて来た。
そんな騎士達に囲まれている今の状況で魔法を唱える素振りなど見せようものなら、周囲から魔法で蜂の巣にされてしまう。
かと言って二重に囲まれている為、退路など在るはずもなし。
やはり正体を明かすべきではなかった…、とティファニアは後悔する。
自分の事を受け入れてくれた人が居たからと言って、全てのハルケギニアの人がそうだと言えるはずもない。
大体、自分を従妹だと言って受け入れてくれたアンリエッタですら、最初は自分を見て驚いていたではないか?
それほどまでにエルフとハルケギニアの人間の間の溝は深い…。少し話をした位で解りあえるような物ではない。
周囲を取り囲む騎士達が、エルフの母の命を奪った騎士達の姿とダブって見える。
怯えるティファニアの下にベアトリスがやって来た。
勝ち誇ったような表情で彼女を見下しながら宣言する。
「今から異端審問を執り行うわ。わたし司教の肩書きを持っているの」
騒ぎを聞きつけて集まった周囲の生徒達がざわめいた。
生徒達の反応に満足したのか、ベアトリスは嬉しそうな表情でティファニアを見る。
「先程も言ったけど、わたしたちと仲良くしたいと言うなら同じ神を信じると言う事を証明してもらわないとね」
「どうしろって言うの?」
「あれに入るのよ」
ベアトリスは顎で示すので、ティファニアは自分の背後を振り返る。
大釜がそこに置かれていた。大釜の中の水は強力な炎の魔法で既にグラグラと沸騰している。
「あの湯の中に一分間浸かるの。大丈夫よ、始祖ブリミルを信じている者なら丁度良い湯加減に感じるから。
でも、あなたの”信仰”が本物で無い……つまり”異教徒”なら、あっと言う間に茹で肉になってしまうでしょうね」
楽しそうな顔でベアトリスは言う。
勿論、彼女の言葉は嘘だ。信じていようといまいと熱湯は熱湯でしかなく、浸かれば命は無い。
要するに、異端審問とは名前を変えた処刑に他ならないのだ。
何も知らないティファニアは呆然と大釜を見つめる。
そんな彼女にベアトリスは言った。
「できない? なら今直ぐ田舎に帰りなさい。そうすれば今までの事は無かった事にしてあげる」
暫しの沈黙が漂う。大釜の中の湯が沸騰する音と、燃える薪が立てるパチパチと言う音のみが辺りに響く。
その場に集まった生徒の中にはギーシュを初めとした水精霊騎士隊の面々にルイズやタバサも居た。
「ああ…やっぱりこういう事になったか…」
ギーシュがため息混じりに呟く。
「でも、あの子がエルフだったなんて驚いたわ?」
モンモランシーは信じられない物でも見るかのような表情でティファニアを見た。
まぁ、エルフはメイジの魔法を軽く凌駕する先住魔法の使い手である恐ろしい砂漠の悪魔…と呼ばれている。
それが目の前の少女だとは思えないのも致し方ない。
「ねぇ…、あなた達は知っていたの、あの子がエルフだって事?」
キュルケがルイズとタバサに尋ねる。
ルイズとタバサは頷いて見せた。
「正確にはハーフエルフなんだけどね」
ルイズのその言葉にキュルケは興味深げな声を上げる。
「へぇ…純粋なエルフじゃないの。でも、こうして見てる限りでも、恐ろしいって感じは全然しないわね…?」
キュルケもまたモンモランシーと似たような感想を抱いていたのだ。
さて、ルイズとタバサはアンリエッタからティファニアの事を任されている。
もっともなるべく問題は彼女自身に向き合ってもらいたいと言うのがルイズの本音だったりする。
ティファニアはハーフエルフであり、更には”虚無”の担い手である。
そもそも普通の貴族としては暮らしていけない身の上なのだ。
そんな彼女が魔法学院に来れば、どんな事態が起きても可笑しくはないのである。
それで一々助けていては此方が大変なばかりか、彼女自身にとってもためにならない。
本当にどうしようもなく、どうしても助けが必要な場合、その時にだけ手を差し伸べようとルイズは心に誓ったのだ。
そしてその旨はアンリエッタもタバサも、後見人となったオスマン氏も承知してくれた。
そんなルイズはそろそろ口を出すべき時だろうかどうか悩んでいた。
どんな事態が起きても可笑しくは無いと思っていたが、これは些か事が大きすぎる。
まさかこの魔法学院で異端審問を執り行う者が出てこようと流石に思わなかったのだ。
だが、非常に怪し過ぎる。あの一年生は司教の肩書きを持つと言ってはいるが、肝心の免状や審問認可状が見当たらないのだ。
何より目が悪戯をしている子供と大差ないのだ。
それらの事から、おそらくは嘘だろう、とルイズは当たりをつけていた。
では直ぐに口を出すべきだと思ったが、ティファニアの目からは怯えが消えていたのだ。
まだ何か言う事があるのだろう、とルイズはもう暫く様子を見る事にした。
「いや。絶対にいや」
その時、ティファニアの声が静かに響いた。全員の視線がティファニアに集中する。
ベアトリスは一瞬呆気に取られた。
「わたし、外の世界を見てみたいって願っていたの。それをジャンガさんやアンリエッタさんが叶えてくれたの。
ここで帰ったら、願いを叶えてくれた人達だけじゃない…、笑顔でわたしを送り出してくれた子供達にも合わせる顔が無い。
だから、絶対に帰らない」
ベアトリスは歯噛みする。これだけ脅してやれば帰るだろう、と思っていたのに相手は「帰らない」と言ってきたのだ。
どうして命を落とすかもしれないこの状況で、あんな言葉が言えるのだろうか? と悩む。
それだけの覚悟がティファニアには有るのだが、理解出来ないベアトリスは苛立つだけだった。
幼少期からちやほやされて育った彼女は未だに精神年齢が未熟なままなのだ。
「わたしが帰れと言ったら帰るの! それに、何よ今の!?
わたしの生まれであるクルデンホルフ大公家と、現トリステイン女王陛下であらせられるアンリエッタさまは縁が深いの!
それを言うに事欠いて”アンリエッタさん”ですって? 無礼にも程があるわ!
やはりあなたは異教徒ね! わたしやアンリエッタさまへの礼儀もなっていないあなたは即刻ここから出て行きなさい!」
ベアトリスはヒステリックに喚き散らす。
しかし、ティファニアは全く動じなかった。寧ろ、ベアトリスを哀れみの目で見つめている。
「な、何よ? 何なのよ、その目は!?」
ティファニアはポツリと呟く。
「可哀想…、子供なのね」
「なっ!?」
ベアトリスは呆然とする。
そんな彼女を見つめながらティファニアは続ける。
「ずっと大勢の子供達の世話をしてきたから解るわ。…あなたは全てが思い通りに行かないと気がすまない子供。
きっと、家に居た時は何でも他の人がやってくれたのね…。どんな我侭でも全て聞いてもらって、欲しい物は何でも貰う。
そんな甘やかされた生活が続けば子供のままで当然よね…。だから、あなたにはああ言う人しか集まってこない…」
ティファニアはそう言って離れた所で見ている三人組の女生徒を見た。
彼女の真っ直ぐな目で見つめられ、三人は動揺する。
そのままティファニアはベアトリスに視線を戻す。
「もっと…叱る時には叱ってくれる、ちゃんとした親の所に生まれていればこうはならなかったと思うわ。
可哀想に…。わたし…あなたがとても気の毒だわ」
直後、乾いた音が響き、ティファニアは地面に倒れた。
苛立ちが頂点を越えたベアトリスの平手打ちが飛んだのだ。
顔を真っ赤にさせながらベアトリスは叫ぶ。
「この者を釜に入れて! 今直ぐに!」
後ろに控えていた空中装甲騎士の二人がティファニアへと手を伸ばす。
ルイズは頃合と見て、止めるべく声を上げようとした…その時だ。
「ガアッッッ!!!?」
突然悲鳴が上がり、悲鳴の方に視線が集中する。
騎士の一人が杖を放し、ビクビクと身体を痙攣させている。
やがて、騎士は両膝を付き、ドサリと前のめりに倒れ込んだ。
その背中には三本の切り裂かれた傷跡が付いている。
悲鳴が上がったが、倒れた騎士の背後に立つ者の姿を見るや、それは直ぐに治まった
「ジャンガ…」
ルイズは呆然と呟く。
タバサは彼の姿を見るや目を細める。
立ち尽くすジャンガの身体からはどす黒い殺気が放たれている。
生徒達はそれを肌で感じ取ったのか、ジャンガから逃げるようにして離れていく。
それは風竜達も同様で、身体を小刻みに震わせながらその場に蹲る。
そんな周囲の事はジャンガは目にも入っていない様子。
その鋭く血走った視線はベアトリスだけを見つめている。
ベアトリスは身体が反射的に震えるのを感じた。
昨日の事が思い起こされたのだ。
ジャンガはゆっくりとベアトリスへと歩み寄る。
その動きに空中装甲騎士団が動く。
「止まれ! それ以上殿下に近寄るな!」
一斉に杖を突きつける。
だが、ジャンガは立ち止まらない。
騎士達は更に声を荒げて叫んだ。
「止まれと――」
瞬間、無数の血の花が咲き、騎士達が宙を舞った。
重い音を響かせながら、次々と騎士達が地面に落ちていく。
全ての騎士が空に打ち上げられ、落下するまでそれほどの時間は掛からなかっただろう。
だが、その場に居た全員には随分と長く感じられた。
それを見ながらベアトリスは呆然と立ち尽くしている。
あの亜人が歩いて来たのを見て空中装甲騎士が自分の前に壁を作った。
だが、その壁は次の瞬間には無かったのだ。そして間を空けずに降り注ぐ騎士達。
一様に真っ赤な血を滴らせて地面を赤く染めている。
何が起こったのか…まるで解らなかった。
呆然と立ち尽くすベアトリスの前にジャンガが立った。
有無を言わせず胸倉を掴み上げるや、そのままベアトリスを連れて大釜の方へと歩いていく。
何をするつもりなのか…その場の全員が理解し、息を呑んだ。
「ね、ねぇ…流石にあれは不味いんじゃないの?」
キュルケが冷や汗を垂らしながらルイズとタバサを見る。
傍らではギーシュやモンモランシーも不安な表情を浮かべている。
「ああ、そうだよな…万が一にもそんな事は無いと思ったけど、そうなるよな…。
あ~あ…トリステインはどうなるのかね?」
「それよりも姫殿下の命が危ういわよ…。ジャンガのあの目…殺す気満々の目よ」
「じゃあモンモランシー…、聞くけど…君はああなった彼を止められるかい?」
ギーシュの問いにモンモランシーは首を振る。
そんな風に慌てる彼らだが、意外とルイズとタバサの二人は落ち着いていた。
「ねぇ…あなた達はどうしてそんなに落ち着いていられるの?」
タバサは騎士達を指し示しながら呟く。
「派手に出血しているけど、命に別状は無い」
キュルケ達は倒れた騎士の方を見た。
なるほど…、確かに騎士達は派手な出血と怪我を負ってはいるが、絶命してはいない。
その証拠に騎士達の何れもが苦しそうな呻き声を発し、手足を僅かながら動かしている。
「どう言う事?」
キュルケの言葉にルイズは大袈裟なほど大きなため息を吐く。
「わざとやってるのよ…」
「そう、わざと」
ルイズは呆れた様子で、タバサは全く動じずにそう言う。
「要するに怖がらせたいだけなのよ。性格の悪いあいつの事だからね」
「だが、それならば……こう言っては何だが、どうして止めを刺さないんだ?
彼ならばそうしても可笑しくないと思うんだが?」
ギーシュの問いにタバサが答える。
「単純に死人が出たら面倒なだけ」
「あっ、そう…」
ギーシュは諦めとも呆れともつかない声で呟く。
「ま、本当に危なくなったらわたしとタバサで止めるわよ」
ジャンガは跳び上がると、大釜の縁に降り立った。
立ち上る水蒸気だけでも熱い。中の熱湯がどれだけの温度なのか容易に想像は付いた。
その熱湯の真上にベアトリスを持って行く。
ベアトリスは恐怖に顔を歪ませる。
真下には例の大釜…、その中には煮え滾る熱湯…。
落ちれば命が無い…。ベアトリスはジャンガの腕を掴んだ。
「あ、あなた…、こ、こんな事をして…、た、ただで済むと思ってるの!?」
精一杯の虚勢を張り、ベアトリスはジャンガに向かって叫ぶ。
ジャンガはベアトリスを引き寄せ、真正面から睨み付けた。
「ただじゃ済まない? キキキ…どうするってんだよ?」
「そ、それは…」
ジャンガは後方で倒れる空中装甲騎士の面々を肩越しに見る。
「あの連中…今の所、ハルケギニア最強の竜騎士とか言われてるんだってな?」
再びベアトリスに視線を戻す。
「そんな連中がああじゃ…俺をどうにかできる奴なんかいないと思わネェか?」
ベアトリスは言葉に詰まった。
確かに空中装甲騎士は現状、クルデンホルフ大公国が有する最強の騎士団であり、
ハルケギニアに現存する最強の竜騎士団である。
それが破られたと言う事は、殆どのメイジが太刀打ち出来ないという事に他ならない。
落ち込むベアトリスに対し、ジャンガはニヤリと嫌みったらしい笑みを浮かべる。
「まァ、湯にでも浸かれば気も落ち着くだろ? ちょうど良い感じにここには”風呂”も在るしよ」
ベアトリスは驚愕する。
目の前の亜人はやはり自分を釜に放り込む気なのだ。
必死でベアトリスは暴れる。
「や、止めて! し、死んじゃうわよ!!?」
ジャンガは首を傾げる。
「何で死ぬんだ…、”ブリミル教徒には良い湯加減”なんだろ?」
その言葉にベアトリスは更に言葉に詰まった。
確かに自分はそう言ったが、そんな物は嘘である。異端審問ではこのような虚言は日常茶飯事。
潔白を証明する為の方法も、相手を異教徒として認めさせる為だけの拷問なのだ。
無論、ジャンガはそんな事は百も承知であり、承知した上で言っていた。
羽目を外しすぎたガキを甚振るには十分すぎる理由だ。
「異教徒とかじゃねェんだったら問題は無ェよな? だったら遠慮無く湯に浸かりな、キキキ」
ベアトリスは必死でジャンガの腕を掴んだ。
「粘るんじゃネェよ…ガキが」
そう言って、反対の腕の爪をベアトリスの首筋にチクリと刺す。
軽い痛みを感じた直後、ベアトリスは身体から力が抜けるのを感じた。
ジャンガの腕を掴んでいた腕が、足がダラリと下がる。
だが、ベアトリスは生きていた。意識もハッキリとしている。
ただ、身体が動かないのだ。
「な、何よこれ?」
「キキキ、ちょいとお前の身体を動かなくしただけだ。なァ~に、暫くすりゃ動けるようになるゼ」
ジャンガは不適な笑みを浮かべながらベアトリスを見つめる。
「…それまでゆっくりと湯に浸かってな」
胸倉を掴んだ爪の一本が外れた。
ガクンと体が傾きベアトリスは、ヒッ、と悲鳴を漏らす。
更に一本が外れ、更に体が傾いた。
ベアトリスは恐怖に身体を震わせる。ガチガチと歯が小刻みに噛み合わさって音を立てる。
そんなベアトリスを満足げに見つめながら、ジャンガは最後の一本を外そうと動かす。
「ご……、ごめんなさーーーーーーいっっっ!!!」
突然のベアトリスの叫びにティファニアや生徒達、飛び出そうとしたルイズとタバサも目を見開く。
ジャンガは怪訝な表情でベアトリスを見る。
「あン? ごめんてなんだよ?」
「わ、わたし、本当は司教の肩書きなんて持ってない! 異端審問なんて行えないの!
ぜ、全部……全部嘘なの!!!」
ベアトリスは必死になって真実を語る。
「わ、わたし…あのハーフエルフが羨ましかったの…。何もしていないのに、色んな人に囲まれているあの子が…。
大公家の娘だからって…最初はわたしが注目されていたのに、あの子が全部人気を持っていっちゃうから…。
それだけじゃない…あの子はわたしに注目していた人だけじゃなく、もっと大勢の人から注目されていた…。
それが羨ましかった…、どうしようもなく悔しかった…。
大公家でも無いのに…特別な家柄でも無いのに…人気者なあの子が羨ましかったの…。
わたしだって…わたしだって…友達が欲しいかったの…。
大公家の娘だから持ち上げる相手だけじゃなく…本当の友達が欲しいかったの!」
取り巻きの三組みが気まずそうな表情を浮かべながら顔を見合わせる。
「…だから……あの子がハーフエルフだと解って、つい…異端審問なんて言っちゃったの…。
…ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。わたしが悪かった……ごめんなさい…」
涙ながらに謝罪を繰り返すベアトリス。そこには最早、先程までの高慢な悪ガキの姿は欠片も無かった。
「ベアトリスさん…」
ティファニアは何とか立ち上がる。
と、ジャンガが高らかに笑った。
「キーーーッ、キキキキッッ!!! なるほどなァ~? そいつはまた可哀想だゼ。いやいや、俺も似たようなもんだしよ」
そう言ってジャンガは腕を振り上げ、ベアトリスを地面に叩き付けた。
「痛ッ!?」
身体が動かない為に受身も取れず、無防備に地面に叩きつけられたベアトリスは痛みに悲鳴を上げる。
ジャンガは地面に降り立ち、大釜に足を付ける。ちょっとでも力を込めれば簡単に大釜は倒れるだろう。
その先には…。
「な、何をする気…?」
怯えるベアトリスにジャンガは冷たい笑みを浮かべて見せる。
「そりゃ勿論、お前に向かってこれを押し倒すのさ」
「なっ!?」
「テメェがこんな事した理由は解った…。だがな、俺としてはこのまま済ませる訳には行かねェんだよ。
この先、他にも出ないとも限らないしな…。何より、俺の面子って物が在る。
だから、罰は受けてもらうゼ。なァ~に、安心しな。この大釜の湯をぶっ掛けるだけだ。
何時間も湯に浸かるよりはいいだろ。ほんの一瞬だけ耐えれば良いんだからよ~?」
簡単そうに言うが、如何考えても楽ではない。ゆっくり浸かろうと、一瞬だけ浴びようと熱湯は熱湯。
あれ程の温度の物をあれだけ大量に浴びせられれば勿論命は無い。
「待ってください、ジャンガさん?」
そう言って止めたのはティファニアだった。
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