「鋼の使い魔-47」(2009/07/02 (木) 10:33:52) の最新版変更点
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#navi(鋼の使い魔)
「こいつは参ったな……」
駅場に到着して周囲の風景を見渡し、ここにいないルイズの使い魔ギュスターヴの口から出たのはその一言だった。
ギュスターヴ、モンモランシー、ギーシュの三人がたたずんでいるのは、厩と馬車を引き込むひさしが付随した駅場の建物だ。石畳の街道に面しているのだが、
石畳が先5リーグくらいから地面に沈み込んでいるのが見える。街道を挟んでいる耕地も畦が崩れて泥濘に塗れていた。
「ラグドリアン湖が広がって周囲を浸食し始めているという噂は事実だったみたいね」
陥没を免れている石畳の上もじっとりと濡れ、嫌そうに投げ出した鞄に腰掛けたモンモランシーが言った。
「手はずではモンモランシーの血を与えたロビンを湖に放って、水の精霊を呼び寄せるってことだったけど、岸辺が殆ど湿地なんじゃなぁ……」
そういうギーシュは大きな鞄を用意したモンモランシーとは対照的に、袋一つの荷物を身体に縛り付けていた。
「嫌よ私、泥濘を歩いていくなんて」
「も、モンモランシー。わがまま言える立場じゃないんだよ?僕達」
「いや、足を取られるような場所を歩いていくのは危険だろう。そうだな……」
と、思案に耽ろうとしたギュスターヴの視界に、駅場の端で青果を広げている露天商が見えた。
ふむ、とギュスターヴの目に不敵な光が宿る。
「なんか思いついたみてーだね、相棒は」
忘れず持参したデルフがギュスターヴの腰元で嬉しそうな声を上げた。
「ちょっと待っててくれ」
「どうかしたかね?」
「買い物に行ってくる」
「ハァ?道草食ってる暇なんてないのよ」
呆れ返るモンモランシーの声を無視して、ギュスターヴはうなだれる露天商に向かい合った。
「景気はどうだい?」
「さっぱりでさ。村が湖に沈む前は結構儲かってましたがね。近頃はとんと」
話す露天商は疲れた目でギュスターヴを見上げる。ギュスターヴは、なんて事の無い客のように並べられている青果をためつすがめつしながら、懐をまさぐって
一枚の銅貨を取り出して露天商に渡し、林檎を一個受け取った。
「この辺で湖に面した岸辺がありそうなところってあるかな」
「この辺で……ていいますと、トリステイン側でですかい?」
「んん?」
少し要領を得ない返事をしながら、ギュスターヴは林檎にかぶりつく。しなびた皮が切れ、口の中に呆けた味が広がった。
「トリステイン側はごらんのとおりの有様ですがね、ガリア側に行けばまだマシな岸辺や村があるみたいですよ」
「越境はしないのかい?こんなところで商品を広げるよりも旨みがあるだろう」
「ほっといてくだせぇ。関所を通るには身分証明がなきゃあ時間が掛かるんですよ。それこそ貴族の方じゃなきゃすぐには通れませんぜ」
「ふぅん。そうか……」
林檎を平らげてから、ギュスターヴは再び懐をまさぐる。そして一枚の金貨と厚紙の紙片を取り出し、露天商に投げて寄越した。
「ちょ、ちょっと!こんなにもらえませんよ」
「いいからとっておけ。それと、王都に出て仕事をする気があるんなら、そこに書いてある所に行ってみるといい。ここで呆けてるよりは身の立ち様があるだろう」
「あ……ありがとうございます……」
いきなりの事態に身を固めて動転する露天商に手を振ってギュスターヴは離れた。
二人のところへ戻ってみると、モンモランシーに睨まれ、ギーシュからは苦い笑いを返された。
「あんた本当に私らに解除薬作らせる気あるの?やけにのんびりしているような気がするんだけど」
「考えるより動いてた方がマシな口でね。……さて、問題はタバサとキュルケの居所だが……」
「そのことなんだけど、ギーシュ。ヴェルダンテ呼べる?」
突然の問いにギーシュは一瞬、首を傾げたが、次には未舗装の地面に降りて杖先で地面を軽く突いた。
すると瞬く間に地面が盛り上がり、その下から動物の黒い鼻が突き出てきた。
ぐもぐも。
「おお、ちゃんとついて来てくれたねヴェルダンテ」
ぐもぐもも。
ギーシュの声に応えるようにヴェルダンテは穴から這い出る。大型犬ほどに大きな土竜である。
「で、僕のヴェルダンテに何をさせるつもりなんだい?」
「ちょっと待って……あった。この匂いを探させて。ヴェルダンテに手紙を持たせてね」
モンモランシーは小瓶を取り出し、ハンカチにしみこませてギーシュに手渡す。
「『ブルー&ルージュのマジックキングダム』は特徴的なフレーバーだからすぐに分かると思うわ」
「ブルー&……なんだって?」
「キュルケのつけてる香水よ。私も興味が有ったから少し持ってるわ」
よくわからないな、とギュスターヴは頭を掻いていた。そうしている間にもギーシュはヴェルダンテに紐で手紙を括りつけ、ひくつく鼻先に香水を嗅がせていた。
「いいかいヴェルダンテ。この匂いのする人を探すんだ。その人に手紙を渡すんだよ」
ぐもも。
応えたヴェルダンテは出てきた穴を戻って地面の中へ消えていった。
「さて、これで多分彼女らが迎えに来てくれるだろうね」
「多分ね」
提案しながらモンモランシーは不安気に言う。
「あとは水精霊に会う方法だが、水に侵されてない岸辺がいるんだろう?」
「そうよ。水精霊と交渉するには彼らをこっちに呼び寄せなきゃいけないんだけど、その時彼らに触れないようにしなければいけないわ。湿地に踏み込んで
会おうものなら一瞬で精神を取り込まれるわね」
「け、結構危ないんだね水精霊って……」
青い顔でギーシュは遠くに見える湿地帯を見る。
「ま、礼を尽くせば大概怒ったりしないわよ」
「そうか。しかし……どこにいるんだろうな、タバサとキュルケ」
しっとりと温む風の吹く景色を一望してギュスターヴは言った。
「参ったな……」
『巨湖の主、ここに』
「で、あなた達も『水精霊の涙』欲しいから来たってわけね」
シルフィードから降り立ったキュルケはモンモランシーとギーシュを一瞥してそう言った。
「必要なんだからしょうがないでしょう」
「私とタバサが取って来てあげるから高く買ってくれる?」
タバサに荷物運びを頼んでいたギュスターヴはそれを聞き、渋い顔をしてキュルケを見た。
「冗談ですわ。……人手は多い方がいいわね。ラグドリアン湖は今こんな有様だし」
陽が昇り切った頃合で、日照が水気を曇らせ蒸し暑さを感じる。ラグドリアン湖周囲の湿地帯が現状、如何に人の住みづらい場所か、そのようなことをギュスターヴも
考えていた。
「あんた達、水精霊の涙を取ろうとしてここに居るんなら、今まで何やってたのよ」
いかにもキュルケたちの手を借りるのが不満気というモンモランシーだった。
「それはまぁ、ね。タバサに水中歩行【ウォーターウォーキング】をかけてもらって湖の中に入ってみたりしたけど。それらしい影も見当たらなかったわ」
「当然よ。人に見える形で漂ってたりなんかしないわ」
ふふん、とモンモランシーが小鼻で笑うと、キュルケは髪をかきあげて視線をそらした。
どこか剣呑な空気が漂いそうになったところで、ギュスターヴが切り出す。
「トリステイン側には湖に接する適当な陸地がなさそうでな。出来ればガリア側に渡りたいんだが」
そういうと、キュルケはさりげなくタバサの顔を窺った。いつもの無表情が少し落ち着かない様子なのが気に掛かった。
「タバサ、どうするの?」
「……頑張る?」
疑問符がつく返事をしたのは、タバサが使い魔の風竜に聞いたからだった。シルフィードは鱗の煌く首を縦に振って、細く鳴いた。
きゅい、きゅるるる。
「重たいけど頑張るって」
「だそうよ。よかったわねー、モンモランシー」
「どういう意味よ?」
「さぁ?」
険悪な雰囲気を作る二人の間に立っていたギーシュは言葉も出せずに苦しそうに喘いでいる。
「キュルケ……」
「冗談ですわ」
ラグドリアン湖上空を突っ切り、一同が降りたのはトリステイン側の岸辺にあった村の廃墟から、ちょうど向かい側と思われる岸の一角だった。石や岩が多く、
波止場や船着場に適さないために放置されているような場所である。
「ここでいいだろう。あとはモンモランシーが水精霊を呼び寄せるそうだ」
「あら、そんなことが出来たのね。期待してるわ」
シルフィードの背から荷を降ろしていたキュルケの声に、モンモランシーの背中がピクリと震えた。
(……気にしちゃ駄目。いちいち反応してたらきりが無いわ)
息を大きく吐いて深呼吸し、モンモランシーは気持ちを切り替えた。水精霊は人とはまるで違った存在で、気を抜くとなにが起こるかわからない。
「さ、出番よロビン」
モンモランシーの一声で、荷物の中から黄色と黒の斑模様の蛙が飛び出す。べたり、と湿った音を立ててロビン……モンモランシーの使い魔の蛙は主の足元に
擦り寄った。
「ふふ、いい子ね。いい?ロビン。貴方達の支配者、旧ぶるしき一族と、私は対話を希望するわ」
そういって、モンモランシーはいつも提げている道具袋から片手に乗る程度の小さなナイフを取り出した。鞘に収まったそれはとても古そうで、抜き身にすると
刀身の輝きは、長く見ている者におぞましい恐怖に駆られて発狂させるのではないかと思うほど、複雑な反射をしていた。
皆が見守る中で、モンモランシーはロビンの上でナイフの切っ先を手のひらに当て、一息で切り裂いた。
「モンモランシー?!」
「黙っててギーシュ。……っ……ロビン、私の名代。かの旧ぶるしき者達に、交渉者の一族の到着を告げなさい。名の記されぬ昔よりの契約に従い、私達の前に
現れてくれるように伝えなさい」
ロビンに血を降りかけながら、モンモランシーは時折、記すに難しい発音の古い言葉を何度か唱え、最後にロビンの背中にルーンを一文字指で書いた。
ロビンは主人の要望を心得たと見て、湖に飛び込んでいった。それを認めてモンモランシーは血の止まらない手のひらにハンカチを当てた。
「ふぅ。これであとはロビンが水精霊をつれてきてくれるはずよ。それまでは待機ね」
静かな湖畔を眺めながら一同は何もない岸辺に屯する事になった。キュルケは『水精霊の涙』を受け取る為の鍋を抱えており、タバサはシルフィードの横腹に
寄りかかって本を開いていた。モンモランシーは湖が気になるらしくじっと湖を見ていた。ギーシュとギュスターヴは、荷物の中から干し肉と保存食用のワインを取り出して
軽い食事を取っていた。
「んーっ、この旅行用のワインは何度飲んでもきついね。喉が焼けそうだ」
唾液を欲してそう言いながらギーシュは干し肉をがしがしと齧りはじめる。旅人が携帯する場合、ワインには度数の高い蒸留酒の一種が混ぜられるのだ。
一方ギュスターヴは短剣で干し肉を丁寧に削いで、腰掛けた場所から全員の様子を観察していた。モンモランシーから、キュルケに対する漠然とした
警戒感が漂っているように、ギュスターヴは感じた。
「なぁギーシュ」
「ん?なんふぁい?」
干し肉についていたオリーブに手をつけながらギーシュは振り返る。
「モンモランシーはお前にとっての何だ?」
「ぶふっ?!」
いきなり噴出したギーシュに女性陣の視線が一瞬集まる。
「ゆっくり食えよ。……あまり大きな声でしゃべるなよ」
「げぇっほ、げっほ……な、なんだい藪から棒に」
「ことの発端は、モンモランシーがお前に幻覚剤を使ってでも同衾を願ったことだ。そうだな」
「ん……まぁ、そういう、こと、だね」
口重そうにギーシュは応える。
「照れるなよ、いい男が。……で、だ。前々からそういう関係を強固に願われていたわけだな?お前は」
「う、うむ……」
ギーシュとモンモランシーとケティがちょっと昼間には明言できない爛れた関係『らしい』、と学院で噂されていることくらいギュスターヴも知っている。
「そこで、老婆心ながら思うのだが、お前は一体モンモランシーをどう捉えたいのかと俺は気になるのさ」
「む、……そ、そうだね……」
口重く、ワインに口をつけながらギーシュはぶつぶつと呟く。
「も、勿論、僕はモンモランシーを愛している。そこに揺るぎはないけどさぁ、もっとこう、さぁ……」
「だらしのない。男なら受ける愛情くらい受け止めたらどうなんだ?半端に袖にしてるからこういうことになったんだろうが」
「うぅ……」
ぐうの音もでないギーシュは口寂しいのかかっぱかっぱとワインを飲んでいくが、最後の一瓶をギュスターヴはギーシュの手元から掏り取った。
「あ……」
「お前は女性は受身で待っているものだと決めて掛かってないか?女性は強い。男はそれを受け止めるものだ」
ぐっと一気にワインを飲み干し、ギュスターヴは立ち上がってモンモランシーのところへを歩いていった。
「……はぁ」
水精霊に会う前に、なんだかすっかり疲れてしまうギーシュだった。
じっと湖を見ているモンモランシーの隣にギュスターヴが立つと、アルコールの香りがモンモランシーの鼻に臭った。
「臭いわね」
「それは失礼。……ところで聞きたいんだが、そもそも『水精霊の涙』というのはどういうものなんだ?まさか本当に涙なんてことはないだろうしな」
「当たり前でしょ。……水のメイジが使う図録や調合書などでは“水精霊の体の一部”とされているわね。入手には私みたいに交渉を行える資質があるか、或いは
能力の高いメイジが水精霊と交渉して手に入れるか、水精霊から直接切り取ってみるしかないわ。もっとも、水精霊と戦うなんて、無謀と勇気を履き違えているとしか
思えないけど」
「そんなに強いのか、水精霊というのは」
「そうね……水精霊に触れると、人はその精神を冒されて廃人になるとされるわ。それに普段は水に同化しているからどこにいるのかわからないし、火か風の魔法でも
ないと大した攻撃は出来ないはずよ。ま、大丈夫よ。敵対者でなければ攻撃しては来ないし、貴方達は待っていれば良いわ」
そう話している間に、ギュスターヴはふと湖の気配が微妙に変わったことに気付いた。潮騒が引いて自然音がしなくなっているのだ。風が木々を揺らす音も消えていた。
岸辺から10メイルほど先の水面が黒く濁っている。かと思えばぼこぼこと沸き立ち、水面が盛り上がり始めた。液体のはずの湖面がジェリーのような実体感を伴い、
高さにして5メイルほどまで立ち上がった水の塊は、その奥に不気味な光を孕んで岸辺を覗いているようにも見えた。
視線が上を向いていたその時、不愉快な破裂音のような鳴き声が足元より聞こえる。ロビンがモンモランシーの元へ戻ってきていた。
「おかえりロビン。いい子ね。……古ぶるしき一族の者よ。血と契約を覚えていて感謝するわ。願わくば私達に理解できる姿と声でもって言葉を返してもらいたいわ」
モンモランシーの声に応じて盛り上がった水塊……水精霊は、日光を乱反射しながら変形を始めた。それはまるで透明な泥団子を捏ね回しているようであり、その形を
引き伸ばすたびに布を引き裂くような悲鳴の如き音を立てた。耳を貫くようなその音は、脳裏をたやすくかき乱すに足るもので、平然と立つモンモランシーを除いた
全員が強烈な不快感に襲われていた。ギーシュにいたっては酒と干し肉を詰め込んだ胃がひっくり返ったようで顔を真っ青にしてうずくまっていた。
水精霊の変形は音をたてつつも徐々に収まっていき、最終的にその形は、全長5メイルになる漠然とした人型になって納まった。中に湛えた光を頭にして、幼児が
殴り書いたような、辛うじて人の形を模しているのだろうと判断できる姿であった。
「覚えているぞ、外つ者。貴様と最後に会ってから、月の光は五十と二、交わった」
粘着質の泡を吐き出すような音を混じらせながら水精霊は応えた。
「応えてくれて感謝するわ。早速で悪いのだけど、貴方にお願いがあるの。貴方のからだの一部を分けてくれないかしら」
モンモランシーの言葉を受けて、水精霊はまた変化を始める。今度は形を変えず、体の表面を細かく波打たせていた。その振動が空気を伝えるようで、低く呻くような
音が広がっていた。
「ほんの少しでいいの!お願いだから分けてくれないかしら……?」
低い音が聞こえる中でモンモランシーは懸命な呼びかけをした。ここで断られたら立つ瀬がないではないか。キュルケの嘲笑、ギーシュの失望、そして学院に
禁薬作成を知られて家名を汚したとして多くのものから屈辱を浴びねばならなくなる。
「お願い!お願いだから……」
だが、水精霊は感情なき声で応えた。
「ならぬ。外つ者」
「どうして?!」
「我は今、我が領域を広げることに身を砕かねばならない。“契約にて縛られぬ”今、我はそれこそが全てである」
「ちょっと待って!……契約に、縛られないって……?」
「契約は月が三十ばかりまじわる昔、『アンドバリ』を外つ者の一人が外したゆえ、すでに解かれている。我は今、血に応じて貴様に見えたまで。『血』のみで我を御すること
ならず」
ウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥ
聞こえる低重音がその音量をどんどんと上げ始めていた。見下ろす水の人型がまるでモンモランシーを睨みつけるように、中に孕んだ光を強くしていた。
「契約なき未熟な外つ者よ。我を斯くの如きことで呼び出したなるは、報いを受け取りてその身を果てよ」
「はっ?!」
モンモランシーが確とした敵意を認識した時、既に水精霊は行動を済ませていた。巨大な水塊が伸びてモンモランシーの頭上を迫っていたのだ。
そして“一人を除いた”その場の全員が呆然と水精霊とモンモランシーのやり取りを見つめ、モンモランシーが水塊に叩き潰されてしまうのを見届けてしまった……
はずだった。
砂砂利の岸辺をすり抜ける、不均等な人影がギーシュの視線の脇によぎる。
「自分の大事な人くらい、いの一番に守れるようになれよ、少年」
はっとして振り返ったギーシュのすぐ横に、モンモランシーを抱えて空いた手にデルフリンガーを握るギュスターヴが立っていた。
「よっと……」
「あうっ」
モンモランシーを無造作に降ろすと、腰の抜けたらしいモンモランシーから頓狂な声が上がった。
「さて……」
一旦デルフを鞘に戻し、ギュスターヴは湖に振り返る。人型成す水精霊は全身を激しく震わせて空を割るような咆哮さえ上げて明らかな敵意をこちらに向けていた。
「ミスタ。どうなさるつもり?」
「交渉は失敗した。だが俺達は水精霊の涙が欲しい。となれば方法は一つしかないな」
「あ、あんたたち。戦うっていうの?!す、水精霊と」
腰立たないままモンモランシーはキュルケとギュスターヴを交互に仰ぎ見て言った。
「モンモランシー、あんたはそこで見てていいわよ。戦いになったら邪魔だから」
「な?!」
空の鍋をほっぽり出して身体を解し始めるキュルケは杖を抜いてゆるりと構える。それに呼応するようにタバサも杖を握り、シルフィードの横腹を叩く。
シルフィードは主の意図を察したかのようにばさりと空に上がっていった。
「ぎ、ギーシュ、あんたはこんな馬鹿な真似に加わったりしないわよね?!」
そう言われて、とっさに杖を抜こうとしていたギーシュが応える前に状況は更なる変化を起こし始めた。
「来るぞ!」
ギーシュとモンモランシーがギュスターヴの声に反応した時、水精霊の人型が巨大な波となって岸辺へと押し寄せてきていたのだった。
#navi(鋼の使い魔)
#navi(鋼の使い魔)
魔法学院の女子生徒寮が騒がしい。夕食の時間は終わっていたが、一部の人間にとって食事どころの騒ぎでは済まない事態となっていた。
集まったのはまたしてもタバサの部屋である。部屋にはキュルケ、シエスタ、ギュスターヴ、椅子の陰に隠れるルイズに、顔色の悪いギーシュとモンモランシーが集まっている。
「さ、て。ルイズとシエスタが何していたかはとりあえず聞いたとして……“これ”は何かしらねぇ?」
キュルケが持ち出したのは底に銀色に煌く液体が少し入った酒瓶だった。それを見せ付けられたギーシュとモンモランシーはとても気まずそうにしている。
「シエスタの話だと、『白銀色の蜂蜜酒』だって聞いたけど。……よくもまぁ、こんな危なっかしいもの作れたものね。それも先生達に見つからずに」
「当然よ。必要な素材と機器は全部自前で用意したもの。香水やポーションを少しずつ作っては売って貯めたお金でね」
まるで自分の作品を褒められた芸術家のように、モンモランシーは胸を張った。
「タバサ、『白銀色の蜂蜜酒』って何なんだ?」
「蜂蜜酒をベースに造った、一種の幻覚、興奮剤。配合には、流通に制限のかけられている素材が必要になる。禁制のポーションの一つ」
そう言われて、ギュスターヴは眉を顰めた。
幻覚剤と聞いて、流石に面白い顔は出来ない。ギーシュの様子からすれば、モンモランシーに勧められてのことなのかもしれないが、どちらにしろ若者の趣味にしてはいささかよろしくないもののように思えた。
「そもそも、トリステインでは蜂蜜酒の密造自体、厳罰の対象のはず」
「え、そうなの?」
キュルケも知らなかったらしい指摘を受けて、モンモランシーはばつが悪そうに視線をそらした。
「王族の祝い事のためにしか飲まれないから、市政での製造は認められていない」
タバサの一層冷ややかな視線を受けたモンモランシーは、開き直ったような笑みを浮かべて言う。
「でも蜂蜜酒ってポーションの製造には最適の素材なのよ。薬効を溶け込む力に優れているし、熟成されたものはそのままでも凄い力を持っているんだから」
「ま、いいわ。言い訳は先生達に引き渡してからに言ってもらいましょう?」
「待ってくれ! 責任は止めなかった僕にもある。よく言い含めるから先生には言わないでくれないか……頼む」
そっけなくキュルケが言うのを、ギーシュが前に出て制止する。そして杖を地面に落とし、頭を深く下げた。
杖を捨てて謝っているのだから、ギーシュは相当責任を感じているのだろう。キュルケも別に、好きで知り合いを告発するような趣味はない。
「……蜂蜜酒の件は、一旦置いておくとして。問題はルイズよね」
キュルケの視線の脇には一同の輪から一番離れた場所で、椅子を抱えたルイズが見える。
「貴方達、ルイズがなんであんなふうになってるか判る?」
「僕にはさっぱり……」
「判るわよ」
当然、というように言ったモンモランシーに一同の視線が集まる。
「気化した蜂蜜酒を吸って暴れた時に、預かってた薬瓶を頭から被ったのよ」
「何の薬?」
「前にギーシュから預かってた薬」
視線がギーシュへと移ると、ギーシュは居心地が悪そうに答えた。
「ほ、ほら。皆で宝物探しをした事があっただろう?あの時に見つけた……」
「ああ、そんなものもあったわね……。で、どういう薬だったのよ」
「吸引したものに特定の暗示を含ませる薬」
「「「暗示?」」」
あまり聞きなれない言葉にキュルケたちの声が揃った。
「乱心宣誓【ギアス】ほど複雑な事は出来ないけど、それでも効力の強力な薬よ。まったく、あれ禁制の品なんだけど誰が作ったんだか」
どの口で言ってるのよ、キュルケは胸中でつぶやいた。
「成分は見たから暗示の内容もわかってるわよ。『異性と犬に拒絶反応を出す』『穴を掘りたくなる』の二つだったわ。多分、試しに作ってみたけど、使わずにしまいこんでたんでしょうね」
己の分析の自信を隠そうともしないモンモランシーに、ギーシュを除く一同は呆然とするのであった。
『行き先は、ラグドリアン・レイク』
その場が解散してしまう前に、ギュスターヴが皆に聞く。
「ルイズに掛かっている薬の効果が消える為にはどうすればいいんだ?」
「ポーションの薬効は時間経過で自然に消滅するものが殆ど」
タバサの言葉を受けて、モンモランシーが続く。
「その薬なら精々半年くらいはこのまんまよ。結構たっぷりと吸い込んでたし」
「どうにかしなさいよ」
キュルケもルイズがこのまま、というのは流石に具合が悪そうだった。
「……そうねぇ、薬の効果を解除する薬なら、作れないこともないわよ」
モンモランシーの言葉は一同が期待を持てるものだった。
「じゃあ早速作ってくれな「断るわ」……」
ギュスターヴの提案を遮るように、モンモランシーは答える。
それを見たキュルケがこめかみを押さえながら言う。
「あんた自分の立場分かってるの?私達はこのままあんたを突き出してもいいのよ」
「……材料と機材が無いわ。懐には暫く余裕なんてまったくないのよ。只でさえ、ルイズが暴れたから部屋にある薬や道具が駄目になってるのだから」
あくまで悠然と、己にまるで非のない人間のように振舞うモンモランシーを見て、段々とキュルケの眉尻が痙攣するように吊りあがる。
「ふざけてんじゃないわよ。つべこべ言わず薬を作りなさい。お金が居るなら親に催促するなり手の物を売り払うなりしなさいよ」
普段は明るく弾むはずのキュルケの声色が、そのときは低く、何かを押さえつけるようなものに変わっていた。
ギュスターヴはそれに何か引っかかるものを感じたが、モンモランシーはそれを聞いても眉一つ崩さずに答えた。
「生憎と、金満なゲルマニアのツェルプストーみたいにあぶく銭に飽いているわけじゃなくってよ。ねぇ?ギーシュ」
「え?……ん、その、だ、ね?僕もその、個人的に出せるお金もそんなにないし、家もそんなに余裕はないんだ……」
己の不肖を恥じているようにギーシュの声は先細りだった。
それを聞いたキュルケは、ふぅ、と一息吐き出して、優雅に一歩踏み出してから、モンモランシーの胸倉をぐっと引き寄せた。
「っ!」
「巫山戯たこと抜かしてる余裕があるんなら、手前の失敗で手痛い目に遭うくらいの覚悟は出来てるのよね?」
その場にいる全員に緊張が走る。驚いたモンモランシーは目を白黒させながら、ぐいぐいと首を絞められていた。
「き、キュルケ……?」
「もう一度聞くわ。薬、作れるの?作れないの?作れるならいくらほどかかって、どれくらい待つのか。教えてくださる?ミス・モンモランシー」
長身のキュルケに締め上げられ、モンモランシーの体が軽く浮き上がっていた。
「く、苦しい……」
「キュルケ、もうその辺りで……」
制止を促すギュスターヴの声も、キュルケの耳には遠い。締め上げるキュルケの手元から、モンモランシーの首を引き絞る布の音さえ聞こえる。
「き、キュルケ! わかった! わかったから、モンモランシーを離してやってくれないか? 薬のことは僕からも言い聞かせて作ってもらう! 資金も、僕がどうにか工面しよう! だからその手を離してくれ」
狼狽するギーシュが、剣呑な雰囲気を放つキュルケに言うが、キュルケは微熱の二つ名から信じられないほど、冷ややかな眼差しで答えた。
「いいえギーシュ。私はモンモランシーの口から聞きたいの。本当は『出来る』なんて中途半端な言葉は聴きたくないけれどね。……こういう時、ゲルマニアでは『出来た』っていうのよ。『出来る』と思ったときには、既に行動は、終わっているはずだから……」
「キュルケ! やめないか! 」
危険な空気を感じたギュスターヴがモンモランシーとキュルケの間に割って入った。開放されたモンモランシーが床に倒れこみ、苦しそうに息を整えていた。
「キュルケ! これは何でもやり過ぎだ! ……ギーシュ、それと、モンモランシーだったな。私闘をキュルケにさせる気はないが、それでも俺はコルベールなりオスマンなりにお前達のことを報告してもいいんだ。ルイズが薬で狂わされたと俺が申し立てれば、主張は通るだろうからな」
「ギュスターヴ……僕は……」
複雑な色を浮かべてモンモランシーを抱きかかえるギーシュは、未だ粗く呼吸するモンモランシーを見つめた。
「モンモランシー。僕らがいけないのは明らかだよ。ここは彼らに従おう」
「……仕方が無いわね」
燃え上がりそうなほどの視線をキュルケに投げつけつつ、モンモランシーはそうそう言った。
「そこで提案だ。俺が必要な金を揃えるから、二人には最短で薬の製作に取り掛かってもらいたい。それでいいな?キュルケ」
「……ええ、ミスタがそれでいいというのなら、それで」
答えたキュルケの声音は、普段のそれを取り戻していた。
怯え竦むルイズをキュルケが部屋に引っ張り込み、ベッドに寝かせつけてから、キュルケは自分の部屋へを戻ろうとした。
「それじゃあね。薬が出来るまで、ギュスの寝床も提供してさしあげようかしら」
「軽口で装うのはやめたらどうだ?」
なんのことかしら、と、キュルケは開けた部屋のドアにもたれかかって答える。
「俺も腹が立っていたが、さっきのキュルケ、君のそれは……」
「烈しかった、かしらね」
部屋の中で寝ていたらしいフレイムが主人の帰りを感じたのだろう。のそのそと出てきて、キュルケの足に寄り添った。
「ふふ、女には秘密があるものですのよ。でもこれだけは覚えて置いてくださる?私はルイズも、タバサも、それに貴方も。親しい人には健やかで、幸せであってほしいの。そのためなら、微熱といわず身を焼き尽くしてもいいわ」
「……キュルケ」
夜闇に薄く差し込む月明かりの中で、キュルケは笑っていた。艶やかでも、優し過ぎることもない。穏やかな微笑みだった。
「……冗談が過ぎるぞ。俺はそうだな。暫くマルトーのところにでも厄介になる。部屋から閉め出されたといえば、寝床くらいは貸してくれるだろう」
「……そう。……ああ、ギュス」
廊下を過ぎようとしていたギュスターヴが足を止めて振り返った。
「どうやら、休暇申請が通ったみたいですわ。明日にはタバサと一緒に、ラグドリアン湖に行けそうよ」
「……そうか。よかったな」
「えぇ。……帰ってくるまで、ルイズのこと、よろしくお願いしますね」
「当然だ。これでも一応、使い魔だからな」
それだけ応えて、ギュスターヴは夜闇の中に見えなくなった。
その翌日から、一同がそれぞれの目的によって行動を開始した。
キュルケはタバサを連れ、ガリアとの国境沿いにあるラグドリアン湖へと向かった。
モンモランシーとギーシュは、ギュスターヴより渡された小切手の金額を見ながら(その額は一平民の財産というにはなかなかの額であって、モンモランシーは一体どこからこれほどのお金が出てきたのかと不思議に思っていた)ルイズにかかった薬の解除薬の製作を開始した。
ギュスターヴはその間、できるだけいつもと変わらぬ様子を周囲に見せていた。早朝には稽古をし、鍛冶場に出て剣を打つか、図書館に入って本を読んでいた。ルイズに近づこうものなら、ルイズは飛び上がって逃げ出し、広場の一角に穴を掘って埋まってしまうのだ。お陰で薬の用意が出来る間、ふたたびシエスタにルイズの世話を任せることになってしまい、あとでどう礼をしたものかと考えるばかりだった。
そのようにして、ルイズが薬を被った夜から三日が過ぎた頃。ギーシュから呼び出しを受けたギュスターヴは、モンモランシーの部屋へとやってきた。
錯乱したシエスタが壊した窓はギーシュが練金【アルケミー】を使って補習されていて、一見して問題のないように見えた。
「ここへ呼んだということは、解除薬は出来ていると考えていいのかな」
「いや……それがだね……」
ギーシュが口ごもらせていると、硝子機器の傍で瓶をかき混ぜていたモンモランシーが言った。
「解除薬はできてないわ。必要な材料が調達できなかったのよ」
「必要なだけの金子は渡したはずなんだがな……」
意識して、ギュスターヴは凄みを利かせて話した。二人に危機感を忘れさせない為である。二人も分かっているのか、顔色はどうみても良好ではない。おそらく満足に休んではいないのだろう。そう思うとギュスターヴも気が少し重くなったが、ルイズの変調を隠しておくのにも限界がある。ここは心を鬼にしなければならなかった。
「金額の問題じゃあないわ。材料そのものが入荷してなかったのよ。もっとも、普段から流通の少ない品なんだけどね。薬の解除薬っていうのは、それくらい作るのが大変なのよ」
強張りをみせるモンモランシーの声が、本当に材料の入手が出来なかった事を示している。それを見て取ったギュスターヴも一息いれ、物腰を砕いて話した。
「……市井で手に入らないなら、自力で手に入れるしかないだろう。なにが必要なんだ?」
「『水精霊の涙』。ラグドリアンの湖に棲んでいる水の精霊から手に入れるのが一番知られた方法だけど」
「…………なんだって?」
それを聞いて一瞬、ギュスターヴはぼんやりと何かにつままれたような顔をしてしまった。一方、ギーシュは真面目に入手方法について頭を捻らせている。
「しかし水の精霊は湖の奥深くに棲んでいるんだろう?悪いけど僕らじゃ手が出せないと思わないかい?」
「あら、目の前にいる女をなんだと思ってるのかしら。モンモランシ家は代々、水の精霊との交渉を取り仕切ってきたのよ。ちょっと手間だけど、呼び寄せて少し分けてもらうくらいなら私にも出来るわ」
「そうのなのかい?! 凄いじゃないかモンモランシー。それなら明日早速ラグドリアン湖に行こう! 水の精霊から『水精霊の涙』を手に入れよう! 」
「あー……ちょっと待った」
なんだね、と盛り上がっていたギーシュが反応する。
「確か今ラグドリアン湖にはキュルケとタバサがいるはずだ。それで『水精霊の涙』を取ろうとしている」
それを聞くと、モンモランシーがかなり嫌そうな顔をした。
「それってあの二人に手を貸してもらえって事かしら?」
「手間なんだろう? 人手はあったほうがいいんじゃないか。……まぁ、待っていれば二人が『水精霊の涙』を手に入れて、市場に卸すだろうが、それを待っている余裕は正直のところないんだ」
何しろ、今のルイズは男性の影が少しでも見えれば脱兎の如く逃げ出してしまうので、満足に授業すら出られない有様なのだ。
「ふむ。モンモランシー、ここは彼女らに助力を請おう」
「ギーシュ……」
「時間が無いから休暇申請してられないか……無断で休むと家に連絡が行くかもしれないけど、背に腹は変えられないし」
よし、と力強くギーシュは気合を入れてギュスターヴに振り返った。
「ギュスターヴ、明日から早速ラグドリアン湖へ向かおう。ルイズは……」
「連れて行けないだろう。またシエスタに負担が掛かるなぁ……」
それを思うとギュスターヴは気が重くなる。果たして、何であれば埋め合わせができるのやら。
時間を遡って前日。キュルケの目には、のどかとしか言いようのない街道の風景が、ただただ映っていた。
タバサと共に馬車に揺られてガリア方面、ラグドリアン湖へと続く旅の途中であった。
自分から言い出したこととはいえ、のんびりと馬車に揺られているだけの時間というのは、結構暇なものだった。当初、タバサの使い魔シルフィードの背を借りようと考えていたのだが、タバサがやんわりと渋ったため、こうして馬車に乗っていくこととなった。因みにそのシルフィードはというと、馬車の真上、上空2500メイル程で追従し、背中にはフレイムを乗せているのだった。
「そろそろラグドリアン湖ね。……タバサ?」
外を眺めていた視線を戻したキュルケの目に、タバサの眺めていた本のページが見えた。
自分の薦めた本だったが、始めに捲られてからまるで読み進められて居ない事に気付く。
「面白くなかったかしら? その本」
「そんなことはない」
タバサの返事の普段と変わらないが、その顔にはどこか、普段とは違った悲しさのようなものが滲んでいる気がした。
その時、そのまま次の駅場まで止まらないはずの馬車に突然制動が掛かった。
「あら……?」
もう着いたかしら、と外を覗き込んだキュルケだったが、視界の限りは街道のど真ん中だった。明らかに不自然な停止だ。
「もし。どうかなさって?」
御者席を覗ける小窓から呼びかけると、汗を拭って御者が応えた。
「前の方で荷車が泥濘に嵌っていますんで、すれ違う幅がなくなってるんですよ」
「泥濘?街道なのに泥濘があるの?」
大体の国において街道と呼ばれる道は、土メイジの監督の下舗装の施されたものであり、多少雨が降った程度で崩れてぬかるんだりする事は普通ないはずであった。
「ここ何年かで湖が広がってきてますからねぇ。周囲の土地が湿地化してるんですよ。次の駅場まではいけますが、そっから先はもう街道は湖に沈みこんでますよ」
心底参っている風に御者は言った。
街道を抜けてたどり着いた駅場で降り、キュルケは駅場の詰め所に寄った。どこか適当な宿をとるためであった。
しかし、詰め所にいた御者達は一様に苦い顔をして首を振って答えた。
「いけませんぜ貴族のお嬢さん。ここいらに今貴族様を泊められるような宿はおろかまともな家なんざ殆ど残ってませんで」
「どういうことよ?」
「湖の浸食がかなり激しくって、湖に面した村はあらかた湿地化した地面に沈み込んじまったんですよ。酷いところじゃ屋根まで水に浸かっちまって魚の巣になってますわ」
「今も無事なのは、湖からかなり離れた村か、沈み込まない高台に作られた貴族様方のお屋敷くらいなもんですよ」
それを聞いて困った顔でキュルケは外で待っていたタバサの元に戻った。
「宿取れないって。せっかく来たのに……困ったわね」
聞いているのかいないのかよく分からない風情で、タバサは遠くに見える湖を眺めていた。
「どうしようか……タバサ」
そう言って、ようやくタバサが振り返る。液体ヘリウムの如き澄んだ瞳が、キュルケを見上げていた。
「キュルケ」
「何?」
「私の家に来て。案内するから」
え?と、キュルケが返事をするかしないかのうちに、タバサは空で待つシルフィードを呼び寄せていた。
空から見たラグドリアン湖は、御者達が話していたとおり、岸辺に激しい浸食が認められた。
嘗て畑だったらしい区画には不気味に太く育った葦や蒲が繁茂し、湖に面していたらしい集落は水を被って腐り落ちるか、水没して廃墟になっている。
そう見ていると、シルフィードが急激に高度を上げ始めていた。
「タバサ?」
「これから国境を抜ける。見つからないようにする」
「国境って……ガリアに?」
その問にタバサからの返事はないまま、シルフィードが眼下に見える関所を通り過ぎる。
空を飛んでほんの数十分、シルフィードの降りた場所は、大きな屋敷に面した庭のようだった。『ようだった』というのは、屋敷付の庭にしては殆ど手入れのされていない場所だったからだ。録に剪定のされていない植木、丈の長くなった芝の上に、タバサとキュルケは降り立った。
「ここは……」
「来て」
タバサの後追うように、キュルケも屋敷の中へと入る。
屋敷もまた、その規模にしてはあまり手入れのされていない様子を感じさせていた。煤けた壁や天井の装飾が本来の屋敷の姿を偲ばせる。壁には大きな二枚の人物画が架けられ、一枚はタバサと同じ蒼い髪をした青年、もう一枚には青年と妙齢の女性、それに抱かれる蒼い髪の赤子が描かれていた。
屋敷のエントランスで二人が待っていると、奥の部屋から人影が近づいてきた。矍鑠とした老人が小奇麗な服を着ている。彼はタバサの前に立ち止まり、腰を曲げて頭を垂れた。
「お帰りなさいませお嬢様。お出迎えが遅くなり申し訳ございません」
「便りは書いてないから。彼女に部屋を用意して」
「かしこまりました。家令を勤めますペルスランと申します。お客様、どうぞこちらへ……」
キュルケから荷物を預かった老人が階段を登って行くタバサとは別方向へ歩いていく。キュルケは少し迷ったものの、ひとまず老人について屋敷の中を進んだ。
「タバサってガリアの人だったのね。ご両親にご挨拶させてもらえるかしら」
「お嬢様は外では『タバサ』と名乗っておられるのですね……」
部屋まで続く廊下で、どうやら屋敷の家令らしき老人はもの悲しげに応えた。
「……お客様はどちらの方でございましょうか?」
「ゲルマニアのフォン・ツェルプストーよ。……その様子だと『タバサ』って偽名みたい、ね。それに、このお屋敷も……」
言葉が切れて、キュルケは一つの部屋に通された。貴族の屋敷によくある構成の客室だったが、やはりどこか疲れたような空気が感じられた。
「お客様をお嬢様……シャルロット様のご友人と見て、一つお話しましょう。全ては、これ一つから始まったのです……」
ペルスランが取り出したのは、貴族の家ならどこにでもある、紋章のついた房飾りだった。杖の交差されたデザインに古書体で『さらに先へ』と縁書きされている。
しかしキュルケの目に付いたのは、その房飾りに深く刻み込まれた十字の切り込みだった。
不名誉印、である。己あるいは王家によってその資格を剥奪されたことの証だ。そしてその房飾りの紋章こそ、ガリア王家に連なるものに違いなかった。
「あの不遜なる無能王によって、ここは牢獄となっているのです」
屋敷の廊下の一際奥まった場所の一室に、タバサは立っていた。何もない、ベッドとテーブルしかない部屋で、ベッドの上で身じろぎする気配だけが認められる。
「ただいま帰りました。お母さま」
タバサが声をかけた。その声音は優しく、労わりが深くにじみ出ていた。
だが、声をかけられた側――タバサに母と呼ばれた者は、体を震わせ激しい感情のままに叫んだ。
「下がりなさい無礼者! 誰がお前達などにシャルロットを渡すものですか!」
炯炯と光る瞳ばかりが目につく痩身の女性だった。髪は荒れ頬はこけ、寓話に読まれる泣女【バンシー】のようだ。彼女はそう叫ぶと、傍らに寝かせていた人形を抱きしめた。
「可愛いシャルロットや……」
痩せた肌で人形を抱き寄せる様は直視に耐えなく、だが、心無いものが見ればそれは、物乞う狂い女のようにも見えたことだろう。
「恐ろしい事……どうして私の娘が、いずれ王位を狙おうなどと申すでしょうか。私達はただ静かに暮らしたいだけなのです。下がりなさい!」
抱きしめる人形は珍しい布作りのものだったが、長年そうして抱き続けていたのだろう。継ぎ目がほつれて中の綿が漏れていた。くたびれた人形を一心に抱きしめる母を見て、タバサは静かに部屋を出た。閉ざされた母の部屋の前で杖を胸に捧げ、何度となくした誓いを立てる。
(あなたの心を取り戻し、あの男の首を必ず、この手で……)
「今を遡る事五年前、先王が崩御されました折、先王には二人の王子がおられました。長男のジョゼフ殿は学識に優れておいででしたが、魔法の才が塵ほどにもないお方でした。一方次男のシャルル様は魔法の才と人望に溢れておいででした」
「今のガリア王って、ジョゼフ王だったわね」
「シャルル様がシャルロット様のお父上になられます。……先王は病床で、次の王をジョゼフ王子に指定した事で、宮廷では激しい勢力争いが繰り広げられました。国王になったジョゼフ殿を擁する国王派とシャルル様を擁する王弟派……その最中で、シャルル様は国王派の放った毒矢を受けて暗殺されたのです」
ペルスランは身を震わせて話し続ける。
「旗頭を失った王弟派は分解し、ジョゼフ王は王弟・オルレアン大公家の廃嫡を決定し、派閥争いは収束したのです」
それで、とキュルケは得心した。廃嫡され領地や財産を没収されたために、この屋敷はこれほどにさびれているのだ。恐らく、使用人はこの老人一人なのではないか、と思った。
「シャルル様を亡くし、家財や領地も奪われた奥様とシャルロット様に、あまつさえジョゼフ王は毒殺を謀ったのでございます。結果、奥様はシャルロット様を庇って毒を呷られ、心を狂わされてしまいました……」
そう言ってペルスランは悔しさのあまりに涙を流していた。
「その日以降、シャルロット様は別人のようになられました。心を殺して唯々諾々と、ジョゼフ王から下される汚れ仕事を請けておられるのです」
「時々いなくなっていたのはそういう事情だったのね……」
「お陰でこのお屋敷と奥様だけは取り上げられずに降りますが……私は……悔しいのです! 父を殺し、母を狂わした男に頭を下げ、服従を強いらされ、ただ一つシュヴァリエの叙勲のみ受けて危険な任務を受けていらっしゃる……そんなシャルロット様が哀れでなりません……」
滂沱の涙を零す老人の握る房飾りが、冷たく流れ込む湖の風で、静かに揺れている。
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