「鋼の使い魔-44」(2009/06/07 (日) 19:40:58) の最新版変更点
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#navi(鋼の使い魔)
すっかり屯する場となっていたトリステイン魔法学院はコルベール研究塔前の空き地に、今日はギーシュ一人が杖を構えて立っていた。
ギーシュの目線、3メイル先ほどには人の背ほどまで盛られた土の塊が用意されていて、ギーシュはきゅっと眼を絞ってから、腰に挿していた青銅の造花を投げた。
「Nワルキューレ!」
鋭く一声して精製された青銅のゴーレムは、細く、しなやかな剣と縁取りのされた丸盾を構えて静止した。
ギーシュが構えた杖先を手首を使って揺らす。今のギーシュの杖は馬上で使う鞭の形をしている。前に使っていた杖…『青銅の造花』は造形が優美で、女性の気を引くのにも使っていたのだが、いざ実用性に立って杖を選んでみると、今手にしている物が最も体に馴染んでいた。
Nワルキューレがギーシュの操作に従って剣を土塊に向かって突き出す。その動作は単調ながらわずかに変化していき、そのスピードを徐々に速めていく。
土塊がワルキューレの剣先によって削れていき、その形は段々と具体的な何かを表すことが、それを見るものに判るようになってきた。
それは人だ。ワルキューレの精密動作によって、土塊が人の形へと整形されているのである。
操作に集中するギーシュの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
(素早く…精確に…操作するんだ…)
ここ暫くのギーシュの訓練方法であった。魔法を使った創作はメイジに相応の技術を求め、また貴族の道楽の一つにも上げられるものではあるのだが、ギーシュは暇があればこうして土を盛ってはワルキューレによる彫刻作りをするようになっていた。
杖を持つギーシュの手首が細かく返される度に、ワルキューレの剣先は角度を変えて土塊を削り取り、只の土くれが少女の形になっていく。
最後にギーシュが杖を素早く左右に大きく払うと、ワルキューレの剣の軌道がギーシュの動きをなぞる様に流れて止まった。
「出来た…!」
汗を拭いながらギーシュは満足げに自分の作品を眺めた。魔法学院の制服に身を包む少女の像だ。縦に巻かれた豊かな髪と、晒された額のラインが特徴的だ。
「モンモランシー…」
ギーシュは恋人を模った像を見て、複雑な心象を抱いた。信頼と愛情を篤く感じると同時に、畏怖と恐れも感じるのだ。多様な表情を見せる彼女を前に、ギーシュは平静でいられたことが、最近はまったく無い。
「果たして例の瓶の鑑定はしてくれているんだろうか…」
汗を拭ってギーシュは出しっぱなしにされているデッキセットに腰を下ろした。そこに置かれた、来る時に持ってきた林檎を一つ取り出して齧る。口の中に林檎の薫りと味わいが広がった。
「ああ、すっぱい…」
ギーシュ・ド・グラモン17歳の青春は、色々とあって多彩であった。
『ルイズ、術を知る。/ギーシュ、堕ちる。』
アンリエッタに謁見して予想外の外泊をし、無事帰参したギュスターヴとルイズはその日、学生寮に近い広場の木陰に座り込んでいた。一緒にキュルケもいて、木陰の風を気持ちよさげに浴びてうとうととまどろんでいる。普段ならタバサもいたのだろうが、キュルケ曰く、実家の都合で出かけているとのことだった。
「…さて、おさらいだが」
と、ギュスターヴが一枚の紙を広げた。六角形の図形を中心に、頂点ごとにルイズには見慣れない図形と、ガリア文字で小さく文字が書き込まれている。
「アニマを用いる術は六の形を取る…こっちの言い方なら、六系統だな。『炎』『水』『石』『樹』『音』『獣』の性質を、単独或いは複数組み合わせて『術』として構成する」
これとは別に、とギュスターヴは広げた紙の下の方に書いた小さな図式を指差した。
「物の形のイメージ…例えば『剣』なら『切る』、『槍』なら『突く』……そういった物のイメージを増幅させて使うことも『術』とよばれる。どちらもツールもしくはグヴェル乃至周囲の造形物からアニマを引き出す事が基本中の基本だ」
「じゃあサンダイルのメイジって杖を使わないのね」
「使わないわけじゃないが、こっちほど重要ではないな。逆に言えばアニマを引き出せなければ日常生活すら営めない。包丁で肉を切るにもアニマを引き出す必要があるからな」
面倒ねぇ、とぼんやりと聞いていたキュルケがつぶやく。
「『ツール』と『グヴェル』はアニマを引き出す為の道具だ。『グヴェル』はサンダイルの遺跡から発見される、アニマの枯れない秘宝だ。『ツール』はグヴェルを摸倣して作ったもので、同じくアニマを引き出して術を使えるが、何度か使えば朽ちてしまう」
「じゃあこの…ファイアブランド以外のグヴェルは手に入らないのね」
背中に吊っていたFBを持ち出してルイズは答えた。ルビーの填めていない手で握ったそれは生白い石質のままだ。
「ああ…そうだな」
ギュスターヴはふと、タルブに暮すロベルト老人が守るツールやグヴェルのことを思い出したが、あれをここに持ち出すのは気が引けた。あれはあの老人と、シエスタの祖母たちの物だ。
「極論を言えば路傍の石や木の枝先からでも術を引き出すことはできる。さっき言った”周囲の造形物から”というのはそういう意味だ」
そう言ってギュスターヴは木陰に落ちていた小枝を拾うと、ルイズに手渡した。
「ファイアブランドを握ったようにしてみると、多分、理解できると思うが…」
手渡されたルイズが静かに小枝に意識を集中させるのを、ギュスターヴは俄に不安を感じながら見守っていた。
先ほどから偉そうなことを言っているが、ギュスターヴ自身はアニマを感じる事ができないのであるから。
不世出の天才シルマールを師に抱く術不能者ギュスターヴが術の講師をするのも、皮肉な人生ではないかと思う。
『水のルビー』が仄かに光る左手に小枝を握ったルイズは、目を静かに閉じて指先の感覚に意識を払った。
ザラザラとした木の質感が感じられ、風に靡く枝先の葉の揺れが分かった。風は木々枝々の間を抜けて巡り、鼻腔に緑の匂いが薫る。
青草の擦れ音、体に影さす樹が傍にある事を、静かの内に『気配』として、ルイズは理解した。
すると、指先がなんだか小枝に溶け込んでしまったような気がする。脳天の血が心地よく巡る感覚、腰下ろす芝生を伝って、地面を覆う草木の存在がはっきりと感じ取れた。
「ぁ…」
うっすらと眼を明けたルイズはその時、握る小枝がうっすらと、靄のような光を発しているように見えた。
いや、小枝だけではなかった。日陰作る樹木も、腰下ろす芝生一面が水に溶かした蛍火を撒いた様な発光をしていたのだ。
「はぁ……」
恍惚とした声がルイズから漏れた。ゆらゆらと見渡すと、木陰に寄りかかってうとうととしているキュルケが見える。ルイズは何気なく、持った小枝でキュルケを指した。木々と草を伝って意識の先端が触れるようなイメージが浮かぶ。
そしてキュルケの肌をイメージの上で、そっと撫でた。
「ふぇ…?」
なんだか揺すられているような気がしてまどろんでいたキュルケが眼を開くと、耳に強かな風鳴りが飛び込んで驚き上がった。
「え…え…??」
キュルケを中心として木の葉草木を混じらせた風の渦が巻き上がり、キュルケの体を揺さぶっていたのだ。混じっている草木が体にぱちぱちと当たって少し痛いくらいだ。
「こ、これ何?!ちょっとルイズ、あんた何かしたの……!っぺぺ、口に葉っぱが入っちゃうじゃない……痛い痛い、こ、小枝が当たって……いたっ?!」
状況が理解できないままキュルケの体はどんどんと旋風に煽られ、巻き上がる枝や草がばちっ、ばちっと音を立て、キュルケの体に叩きつけられていく。
「ルイズ、そろそろ止め……?!」
暫くそのまま見守っていたものの、ギュスターヴは術を止めないルイズを諌めようとして、ルイズの異変を見て取った。
視線を恍惚とさせ、ルイズは術を向けた姿勢のまま、冷や汗を流しながらぶるぶると震えていたのだ。
(暴走しているのか……!?)
初めて自分の意識でアニマを操作したルイズは、その加減を出来ずにどんどんと術の力を強めてしまっているようであった。
「いっ…痛いっ……い、息が……」
轟々と樹の術が作り出す風の渦の中から、締め付けられたキュルケの悲鳴が聞こえる。
ギュスターヴはとっさに腰にある短剣を抜いた。剣先でルイズの持つ小枝を切り落とし、ルイズの手の甲に冷たい刀身をそっと重ね当てた。
びくん、とルイズは痙攣したかと思うと、脱力して芝生の上にどっと倒れた。それと同時に、キュルケに降りかかっていた樹の術は霧散したのだった。
目を覚ました時、ルイズは自分が自室のベッドに寝かせられている事に気付いた。
「ん……んぅ?……なんで私、部屋にいるの?」
部屋を見渡すと、壁に立てかけられたファイアブランドとデルフを見つける。
「おう嬢ちゃん。目、覚めたみたいだね」
「ちょっと堕剣、何がどうなってるのよ」
「起きたと思ったら不躾だねー、嬢ちゃんは」
動作であればため息の一つでもしただろう間が開いた。
「昼過ぎくれーによ、相棒が嬢ちゃんを担いで部屋に戻ってきたのよ。今、晩飯の時間らしーからでかけてっけど、さっきまで部屋に居たんだぜ」
「……そう」
言ってルイズは起こした体をベッドに投げた。どうやら術の練習の途中で気絶したのだと分かったが、なんだかひどく体がだるい。鉛の服を着ているみたいだ。
小枝を握って樹の術を試し、寝こけてたキュルケを見ていた所くらいまではなんとなく覚えているのだが、そこから先がはっきりしない。
「う~ん……」
これはやはり自分は失敗したのだろうか?いや、まるっきりの失敗ではないと思いたかった。
少なくとも、小枝を通して感じたアニマ……だと思う光が、只の幻ではないと信じたかった。
「もう一回……やってみようかしら」
ベッドから降りたルイズは、何か小枝の代わりになるものはないかと机に向かい引き出しを漁り始めた。筆記具や帳面の他にはちょっとしたアクセサリーばかりで、昼間のような樹の術に合いそうなものが見つからない。
引き出しの奥を探す為に机の上には引き出しの中身がどんどんと広げられる。その一つ一つ確認するように出される冊子や帳面を見ながら、そのうちの一つがルイズの眼に留まった。
「これは確か……」
記憶の片隅を頼りにルイズは冊子を手に取り、ページをめくった。
それは実家にいた頃、二番目の姉カトレアと一緒に外を歩いて集めた草花をドライフラワーにして貼り付けたものだった。
ラ・ヴァリエール公爵家次女カトレアは生来の持病を抱え、あまり領地を離れる事はなかったが、ルイズはこの手弱かだが優しく暖かい姉が大好きだった。
カトレアの体調が良い時には屋敷の中にある林や池を一緒に巡ったり、ほんの数えるほどしかなかったが、屋敷の外を共して出掛けたこともあった。
そんな思い出を一つ一つ集めるようにして作った冊子を広げて、ルイズは差し込んであった一輪のドライフラワーを手に取った。
領地での思い出が脳裏に蘇ってくる。萌える草原、傍らにはカトレアと、彼女が愛情を注いで養っていた黒鹿毛の駿馬が佇んでいる。あの馬を確か、『トロンベ』とカトレアは名付けていた…。
果たして、デルフの認識するルイズは今、草色のオーラを放っていた。
「お?!嬢ちゃん一体何してんだい!?」
動揺するデルフの声にルイズを聞いて、ルイズは夢見心地の視線から振り返った。
「……デルフ……」
「おい、嬢ちゃん。おめー一体……」
「何をしているんだ!」
飛び込んできた声はギュスターヴだ。片手に盆を持っていたギュスターヴは部屋に入るや盆を置いてルイズの手から冊子をもぎ取った。
「あ……」
気の抜けたルイズの声とともに、ルイズが放っていた術のオーラが消える。
「お、光が消えた……」
感心するデルフを横目にルイズは再びぐったりとして倒れてしまった。
「ルイズ!」
倒れるルイズをギュスターヴはしっかりと支えた。今度は意識を失わずに疲労の濃い息をしているだけだった。
「ギュ……ギュスターヴ……私ね……」
「無理をするな。まだやり始めたばかりなんだからな。……アニマのコントロールを失うのは命の危険を伴う」
ルイズをベッドに移し、ギュスターヴは盆の上に置かれた陶器の器を差し出した。
「かなり消耗してるみたいだから、マルトーに無理を言って麦粥を作ってもらった。オックスの乳で煮込んであるから暖かくて身体にいいとさ」
「まるっきり病人扱いね……参っちゃうわ。待って、着替えるから」
それを聞いてギュスターヴは一旦デルフと共に部屋を出たのだった。
麦粥を啜りながら、ルイズはギュスターヴにあの後の事を聞いてから、最後に問うた。
「今日の訓練は、失敗…なのかしらね」
その声色はかなり弱々しく聞こえる。これで適性がなければまさしくのゼロ、無能ではないか。そう自分で言っているように思えたから。
だが、意外にもギュスターヴはむしろ明るく答えた。
「いや、完全な成功とはいえないが、まずまずだと思うぞ。……あとは術のコントロールの問題だろう」
「コントロールねぇ」
ルイズはそれを聞いて内心、安堵の息を漏らしていた。
食はルイズ自身が思っていた以上に細く、用意された麦粥は遅々として減らなかった。どうやらルイズが思っている以上に体は衰弱しているらしく、内臓が受け入れてくれないのだ。
「アニマの術は感情の影響を強く受ける。……激しい感情、邪な考えは術のコントロールを失わせる。怪我をするくらいなら、まだいい方だな」
「最悪なら……死ぬのかしら」
ギュスターヴの深い瞳をルイズは覗き込むようにして聞いた。
「……死ぬ方がましな事もある」
快活なギュスターヴならざる答えであった。
ギュスターヴは覚えている。
目の前で暗殺された甥の死体の生暖かさと、激情に駆られてファイアブランドのアニマを受けて変貌し、冷め行く息子を抱いて飛び去った弟のことを。まさかルイズがあのように、人ならざる姿に堕ちるほど暴走するとは思えないが、万一の事もある。
言って聞かないから持たせてはいるが、できればファイアブランドを使わせるのは、もっと後にしてやりたいと、ギュスターヴは考えていた。
「ごちそうさま」
長い時間をかけて、ルイズは麦粥を食べた。空の食器を持ってギュスターヴは立ち上がった。
「とりあえず今日は休むんだ。体が回復したら、また訓練にしようじゃないか」
「ええ。……ねぇギュスターヴ」
「ん?」
「……キュルケ、何か言ってた?」
「そうだなぁ……」
少し考えるような素振りをするギュスターヴを見て、ルイズは微妙な表情をする。
(あんな奴、別にどうなろうと知らないんだけど……い、一応、あいつの怪我は私のせいなわけだし……)
そう、もやもやとした気分を持て余していた。
「……自分で聞くんだな」
「へ?」
そう言ってギュスターヴがドアを勢いよく開けると、寄りかかって聞き耳を立てていたキュルケが部屋へと転がりこんできたのだ。
「いったーい……。もう、ひどいですわ、ミスタ」
「さて、何のことかな……。俺は食器を返してくるから、話したい事があるなら自分で話せ」
それだけ言って、ギュスターヴはキュルケとルイズを部屋に置いて出て行ってしまった。
(あれで少しは仲がよくなればいいんだがな…)
あまりらしくない気を回したギュスターヴが歩く先、女生徒寮から厨房へ続く通廊を向こう側から歩いてくる人影があった。
「なんだ、ギーシュじゃないか」
声をかけるとギーシュも反応して寄ってくる。その片手にはワインとグラスの入ったバスケットを提げていた。
「やぁ。君も夜食を貰いに行くのかい?」
「夜食の食器を返しに行くのさ。……その様子だと自分の部屋で飲むわけじゃ、なさそうだな……」
年長者特有の意地悪な顔をして、ギュスターヴはギーシュを笑った。
「いっ、いいじゃないか。我が愛しのモンモランシーと、夜空を肴に一献空けたい気分なのさ」
「ちょっと前まで逃げ回ってただろう、そのモンモランシーから」
「たっ、確かに、彼女は水のラインメイジで、秘薬の製作や実験に、芳しい香水を作ったりするのが趣味で、ほんの、ほんの少し、その、……大胆なところがあってだね?僕はほら、薔薇は万人を愛したいのだからして、こう、もっと清いお付き合いをね?!」
「じゃあなんで酒を持って会いに行くんだよ……」
自己弁護のような、なんとも形容のしがたいギーシュの様相に呆れたギュスターヴは、じゃあな、と手を振って厨房へ足を向けようとしたが、一度立ち止まってギーシュを呼び止めた。
「ギーシュ」
「な、なんだね」
「まぁ、……あれだ。責任は取れよ」
「何の責任だね?!ぼ、僕はまだ……僕はまだ……」
一気に声が小さくなったギーシュは、何故だかどんよりとした空気を醸している。どうやら何等かのトラウマに触れたらしい。
そうとは知らないギュスターヴは、さっさと厨房へ向かって歩いていった。
厨房で片付けをしていたマルトーと世間話をして、ギュスターヴは部屋へと戻った。
マルトーは空になった食器を受け取って喜んでいたのが気持ちいい。
ゆっくりとドアを開けて中を覗く。部屋の明かりは落とされ、ルイズは既に眠りについたようだった。
そっとデルフを取り上げ、寝床の脇に置いてギュスターヴも横になった。
「……デルフ、どうだった」
「ん?……まぁ、事故みたいなものだったんだろ?ちゃんと言葉のキャッチボールしてたと思うぜ」
「そうか。……学友は大事にして欲しいものだからな、家門の敵だのなんだの、そういうのは嫌いでね」
「相棒、そりゃ老婆心ってぇやつかい?」
「そりゃあないだろう?」
殺すように笑うデルフに居所を悪くしたギュスターヴは、そのまま寝返りを打って意識を鎮めていった。
「俺も老いた……かな……」
まろやかな自嘲が部屋の暗さに吸い込まれて、デルフだけがただ、覚えるだけだった。
実のところ、ギーシュはただモンモランシーに会いに行くわけではなかった。
昼間、鍛錬から部屋に帰ってくると、ドアの隙間に手紙が差し込んであったのだ。差出人は勿論、モンモランシーからだった。
「預かった薬の分析が終わったから、受け取りに来て」
そう書かれ、来る時はワインを用意してくるようにとも付記されていた。
それを見た時、ギーシュはまた以前のようにふしだらな一夜を過ごす事になるのではないか、という身の危険に慄かざるを得なかった。
……もっとも、学友マリコルヌなど、「よかったじゃないか。相変わらず女の子にモテてさぁ」と、羨望と嫉妬で練りあがった態度と声で評価を下してくれて、ギーシュは憤懣やるかたない。
「はぁ~……」
かくしてモンモランシーの部屋の前に立ったギーシュの心中は、それはもう、乱麻の如き混雑で、すっかり怖気づいていた。
(どうしようか……とりあえずワインは用意したから……まず一杯あけつつ、渡した薬の分析結果を聞こう。……さ、流石に媚薬の類は作ってないさ!禁薬なんだから。……多分)
震えそうな足を踏ん張って、ギーシュはドアをノックした。中からの返事を待つと、近づく足音が中から聞こえ、ドアが開いた。
「いらっしゃい、ギーシュ。待ってたわ。さ、入って」
そばかすが浮きながら、妖しく透けた肌のモンモランシーが出迎えてくれた。
何度か来たモンモランシーの部屋は、変わらず薬品や器具が並び、陽を遮る厚めのカーテンが掛かっていた。
だがそれ以上にギーシュは、部屋に立ち込める蟲惑的な香りに驚いた。
「新しい香水のブレンドに挑戦してたの。香木から取れるエキスとかを使った、人を惹き付けるようなのをね」
愉しげにモンモランシーは話し、窓際のテーブルにギーシュを誘った。
「愛しのモンモランシー。今日はその、ケティはいないのかい……?」
「今日は居ないわ。暇つぶしにローパーの種子を服用させてるから、きっと自室で愉しんでるわね。さ、テーブルにどうぞ」
差し当たりのないようでかなり際どい言葉を聞きつつ、テーブルについたギーシュは、テーブルの上に中型の瓶と、それに押さえられた一枚の紙が用意されているのに気付いた。
「預かっていた秘薬と、その分析結果よ。いつ頃のものかはっきり分からなかったけど、何の薬かは分かったわ」
ギーシュは以前、ギュスターヴやキュルケたちと一緒にちょっとした宝探しに出かけたことがある。
残念ながら宝といっても、煤けた古道具、古い硬貨、そして目の前にあるラベルの消えた謎の薬が手に入っただけだった。古道具と硬貨については然るべきルートをギュスターヴが通して換金したのだが、薬に関してはギーシュを通してモンモランシーに分析を依頼したのだった。
モンモランシーは町の秘薬屋とも交流があり、自身も香水や秘薬を店に卸していて換金の充てとして申し分ないと考えたのだ。
……勿論そこには、これを通してより親密になりたい、というギーシュの思惑もある。
「『霊薬百鑑』の索引の見出しにある名称で言えば『スノーウォーカー』……詳しい事はそっちに書いてあるけど、掻い摘んで言えばちょっとした暗示を服用者に刷り込むのがその薬の効能ね」
頭の先がじんとのぼせるような感覚を俄に覚えつつ、ギーシュは用意された紙面に眼を通していた。
「ちょっとした暗示……って?」
注がれたグラスを受け取って、ギーシュは紙面からモンモランシーへ視線を移した。
(あぁ…モンモランシー)
ケティとの一件以来、彼女は妖しい程に魅力を増しているように思えた。
「作る人間によって暗示の内容は変わるわね。……その薬はかなり変わってるわねぇ、『犬と異性を極度に恐れるようになる』『穴を掘りたくなる』の二つの暗示が刷り込めるようになっていたわ」
夜気を浴びたいのか、モンモランシーのシャツはボタンがいくつか外されていて、月明かりで透ける肌がはっきりと見える。そんなことばかりギーシュは考えていた。
(……だ、だめだだめだ!今日はワインを空けたらすぐに部屋に戻るんだ。そ、そりゃモンモランシーともっと話しをしたいさ!けど、この部屋に炊いてる香りとか、モンモランシーの雰囲気とかを見ていると、な、なんかまた……)
「ねぇ」
「へ?!」
無言の誘惑に耐えていたギーシュの耳元にモンモランシーの吐息が掛かった。
「も、モンモランシー……、椅子に、座ったらどうだい?」
「貴方なら、この薬にどんな暗示をかける?」
ギーシュに答えずにモンモランシーは問うた。巻髪が流れかかってギーシュの頬を撫でる。髪から薫るものが一層にその存在を際立たせているではないか。
生唾を飲んで必死にギーシュは平静を装った。
「……僕は暗示をかけるような卑怯な真似はしないさ」
「そう、いい心がけね」
でもね、とモンモランシーはギーシュから少し離れた。カーテン越しに差し込む月明かりで表情はよく見えない。
「私は暗示をかけてでも、人を自由にしたいと思うことがあるわ。……私は欲張りなのよ」
「そ、そうかい。……さて、僕はこの一杯で部屋に戻るとするよ」
ぞくぞくするような声音に背中をなぞられながら、ギーシュは注がれたワインをぐいっと飲み干した。
「ふぅ……。ごちそうさま」
「えぇ、『おそまつさま』」
一気に呷り、喉の奥がかっと熱くなるのをギーシュは感じた。
「ふぅ……変だな。そんなに、強い、ワインじゃないんだけど……」
呼吸を整えようと深く息を吸った。部屋に立ち込める香りを肺腑一杯に吸い込んでしまったが、もう帰ると言ったからか、深く考えずにギーシュは香りをたっぷりと呑んだ。
甘いようで、年代物のチーズのような強い酸臭の混じる、野趣がある香りだった。
「はぁ、モンモランシー、今焚いている香は一体、何なのかな……なんだか、頭がぼうっとして来るんだ……」
(早く、早く部屋に……帰らないと……)
心は逸るのに、体が重い。腰掛けるギーシュに背後からモンランシーが答えた。
「この香木は乾燥ローパーの根を使ってるのよ。そのまま使うと幻覚剤になるんだけど……適量を守れば心の疲労を癒してくれるわ」
「心の疲労……」
振り返ってモンモランシーの姿を見たい衝動にギーシュは駆られた。帰らなければ、という気持ちがどんどん遠ざかっていく。
「貴方、私とケティから随分逃げたがっているみたいね」
「だって君達が……僕に酷いことをするじゃないか……」
靄の掛かったような頭が、本当は言いたくない、モンモランシーに聞かせたくないことまでしゃべらせているようだと、ギーシュは他人事のようにぼんやりと思った。
「酷いだなんて……貴方こそ、酷いわ。私達は貴方ともっと仲良くしたいだけよ」
「仲良くって……もっと、清い付き合いはできないのかい?」
ぷつ。
何かがはじけるような……まるで、シャツのボダンをこれ見よがしに外すような音が聞こえた気がした。
「……ギーシュ、私やケティと仲良くするのは、そんなにいけないかしら?」
(いけないことだろうか……)
ワインと香りがギーシュの思考を始めとは別の方向へと流していく。
「『仲良く』しましょう?ギーシュ」
背後の闇から、モンモランシーの声が聞こえてくる。
(僕は、僕は……)
幽鬼のようにふらりと立ち上がったギーシュは、窓から覗く月を一瞥した。
その足先は、出入りのドアから遠ざかっていった。
「素敵よ、ギーシュ」
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