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#navi(ゼロと損種実験体)
ルイズが学院に帰って最初にやったことは、寮に戻って自室の布団に潜り込むことである。疲れていたのだ。
アルビオンへの旅は彼女の精神に多大な負荷を与えたし、アプトムに抱えられていただけとはいえ、空を飛んでの帰還はルイズを緊張させ肉体的にも疲労を強いた。
そんなわけで、心身ともに疲れたルイズは布団に入るなり深い眠りに落ちた。
そして、アプトムはというと、特別疲れた様子はなかったが、エネルギーが足りないなと思っていた。
なにせ、ワルドとの戦闘で右腕を切り落とされたり再生したり、休む間もなく獣化して土を掘り、浮遊大陸の底からは空を飛び、真っ直ぐにトリステインまで帰ってきてからは、馬に乗って街に行き王宮へ行って帰った、その間に一度も栄養補給をしていなかったのである。
元の世界であれば、獣化兵の一人も養分にすれば済んだ話だが、ここではそうはいかない。この世界には獣化兵がいないから、というのもあるが、先程まで乗っていた馬ましてや敵でもない一般市民や学院の使用人を獲物にするのは、いくらなんでも問題がある事である…という認識は流石にある。
そんなわけで、食堂に向かう。と言っても、アルヴィーズの食堂は貴族専用なので彼が向かうのは厨房である。
彼は、この学院で働く平民の多くに好かれていなかったが、別に嫌われてもいない。使用人たちの仲間に入れてもらおうとしたのならば嫌な顔をされることだろうが、食事や洗濯などの用事を頼む分には特にどうとも思われない。
というか、学院の生徒の使い魔たちの食料を用意するのも、使用人の仕事である。ルイズの使い魔であるアプトムの食事の用意を嫌がる理由がないのだ。
と言うわけで、厨房に入ったアプトムに数少ないというか唯一の顔見知りのメイドであるシエスタが声をかけてくる。
彼女にとってアプトムとは、愛想は良くないが悪い人ではないという認識である。
基本的には、それ以上でもそれ以下でもないのだが、ルイズという可愛らしい貴族の娘に好意を持っている彼女からすると、その使い魔である彼は、ちょっとした親近感を感じる相手でもある。
そんな彼女であるから、アプトムに対して最初に尋ねたのは、なんの用件かという質問ではなくルイズはどうしたのかというものである。
ルイズがアルビオン行きを決めたのはアンリエッタが訪ねてきた夜半であり、出かけたのは翌朝早くである。シエスタに挨拶していく暇などなかったのだから、このメイドの少女からすれば、ある朝急にルイズがいなくなり、人づてに魔法衛士隊の隊長と出かけたらしいという噂を聞いた。というもので、たかが一使用人にルイズがどうなったのかの説明があるはずもなく、心配で一人悶々としていた。
そんな彼女に対するアプトムの答えは、ルイズなら疲れて寝ているというものである。
実際、紆余曲折あったが、大きな怪我をするでもなく無事に帰ってこれたわけで、身体的には長旅で疲労したという程度である。いや、長い旅でもなかったが。
「疲れてって何をしてたんですか?」
「いわゆる、お使いだな」
お使い? と少女は首を傾げる。そんな事のためにわざわざ貴族の娘が学院を何日も休んで魔法衛士隊の人間と出かけるというのも理解できなければ、それで疲労して昼間から寝てしまうというのも分からない。
とはいえ、あまり突っ込んだ質問ができるほどアプトムと親しいというわけでもないので、話はそこで終わってしまい、後でルイズに会いに行ってやってくれと言われ、シエスタは笑顔でそれに答えるのだった。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、不器用な少女である。二つ以上の事を同時に考えることを得意としていないし、一つの感情に支配されている時は他のことが考えられない。
だから、怒りに支配されていた時には忘れていたもう一つの感情を、後になって思い出したりもする。
その感情の名は悲しみ。ウェールズを助けられなかったことやワルドの裏切りは、彼女の精神を追い詰めるのに充分な破壊力を持っていた。
基本的に内に篭もる性質の精神の持ち主なのである。一度落ち込めば中々元には戻らないし、ルイズに高い信頼を得ているアプトムでも、容易に彼女の心を浮上させることはできない。
いや、むしろアプトムだからできないというべきだろう。
アプトムの存在は、ルイズに安らぎよりも緊張を強いる。彼が得体の知れないバケモノだから、というわけではない。彼女は彼をそんなものだとは思っていない。
アプトムはルイズには大きすぎるのだ。その能力は大きすぎて自分などが使い魔にしていい存在ではないと思い知らされる。
あるいは、アプトムがもうすこしルイズの心を思いやっていれば、そうは思わなかったのかもしれないが、彼の最終的な目的は元の世界に帰ること。つまりは彼女を置いていくことであるので、必要以上には関わりを持とうとはしなかった。
そんな彼女だから、本来ならば眼を覚ますと同時に酷く落ち込んでしまうはずであった。なのに、そうならなかったのは彼女の右手を包む暖かな両手が理由。
夢を見ていたのだと思う。とても辛くて苦しくて悲しい夢。心が潰れそうなそこから救い出してくれたのは、ちいさなぬくもり。
それが何なのか、眠っていた彼女には分からなかったのだけれど。眼を覚まし、そこにいた者を見てルイズは知った。
「ちいねえさま?」
それは、ルイズが大好きな下の姉を呼ぶ時のもので、そこにいた少女とは似ても似つかない容姿の持ち主だったのだけれど、ベッドに眠る自分の隣に椅子を置き、彼女の手を握ってくれている姿に、そんな事をしてくれる人間が他に思い当たらない彼女は、ついそう言ってしまっていた。
その声が聞こえたのだろうか、少女はゆっくりと目を開けてルイズの顔を見ると嬉しそうに微笑み。そして、「お目覚めですか? ミス・ヴァリエール」と答えた後、朝日の射し込む窓に眼を向けて。そして、しばしの時が過ぎた後……、脂汗を流し始めた。
「あの……。えっと……」
と助けを求めるように、キョロキョロと部屋を見回し、壁を背に立つアプトムを発見する。
「あ、アプトムさん。わたし、ひょっとして寝てました?」
「心配するな。厨房には遅れると連絡しておいた」
そうじゃないでしょう! とシエスタは心の中で悲鳴を上げる。
シエスタがこの部屋に来たのは昨日の夜である。アプトムに言われたからというのもあるが、ルイズのことが気になっていた彼女は、その日の仕事を終わらせるとすぐにルイズに会いに来た。そうしてやってきた彼女が見たのは眠りながら辛そうな顔で涙を流すルイズである。
どういうことなのかと、アプトムに眼を向けたが彼は首を振った。彼はルイズの理解者ではない。涙を流す原因らしき事を知っていたが、確信はできなかったのだ。それ以前に気安く人に話していいことでもないが。
ルイズに何があったのかシエスタは知らない。知ることを許されていない。だけど、自分にも、この小さな貴族のために何かできることはないだろうかと思った彼女は、ルイズの手が助けを求めるように動いていることに気づいた。
ルイズは、基本的に寝ぼけているときでもない限り人に助けを求めない。それが許されない事だと思い込んでいるかのように。だけど、心の中ではいつも助けを求めているのだと知る者は少ない。
シエスタは、そんなことを知る者ではない。だが、彼女は反射的にルイズの手を取っていた。
それによって、ルイズの寝顔が穏やかになったのを見て取り、自分の行動は正しかったのだなと満足した彼女は、少しの間このままでいてあげようと黙って立ち尽くし、疲れるだろうとアプトムが用意してくれた椅子に座り、ルイズの手の温もりだけを感じるために瞼を下ろした。
どうでもいいことではあるが、シエスタたち学院の使用人の仕事は立ち仕事である。こういう仕事をしている人間は腰を下ろすと睡魔が襲ってきやすい。
というわけで、ちょっとウトウトしてきたなぁと考えた次の瞬間には寝入ってしまっていたのである。
「どうして起こしてくれなかったんですか!」
心の中ではともかく、口に出して叫ぶわけにもいかず、ボソボソと文句を言うが、返ってくるのは「よく寝ていたからな」などという答え。
だから、そうじゃないんですよ! とシエスタは思う。
貴族の眠る寝室で一夜を明かすなど、彼女の身分で許されるものではないし、仕事に遅れるというのも、褒められた話ではない。
雇用主である貴族から許可があったとしても、事前に同僚と話をしておかなければ周りの迷惑になるのが平民という労働者である。
シエスタは、人に迷惑をかける事をよしとする性質の人間ではないし、貴族に擦り寄って仕事をサボる人間であるなどと学院の他の使用人たちに思われたくもない。
そんなわけで、狼狽するシエスタであるが、アプトムが厨房にした連絡というものが、シエスタはルイズに捕まって離してもらえないでいるので厨房に来るのは遅れる。というものだったので、貴族の娘のせいで苦労しているんだな。などと思われていたりする。
そんなことを知らないシエスタは、ただただ狼狽し、それを見るルイズは、えーと、わたし何か悪い事したのかな? と首を傾げていたりする。
昼から、翌朝までという長時間の睡眠を取ったルイズは、いつもと違い寝ぼけることなく自分の足で食堂に向かった。ちなみに、この日の着替えはシエスタの手を借りてやった。
ルイズとしては、いつも通りにアプトムに着替えさせてもらうつもりだったのだが、これにシエスタが異を唱えた。
彼女とて、貴族が従僕のいるところでは自分で着替えたりしないことは知っている。
しかしである。うら若い娘が異性の前にその肌を晒すなどというけしからん行為を見逃すわけには行かない。というか、いくら使い魔だといっても普通は会って一月やそこらの異性に肌を晒そうなどとは思わないのではなかろうか。
そう思ったシエスタの行動は早かった。アプトムを追い出し、あっという間にルイズを着替えさせて明日からは、自分が着替えを手伝うからアプトムさんの手は借りないでくださいね。などと威圧感たっぷりの笑顔で念押しして出て行った。
なんでメイドなんかに指図されないといけないのよ。そんな風に思ったルイズだが、シエスタのおかげで少しだけ心が軽くなったことには気づいていたので、口に出しての文句は言わなかった。
今朝は寝ぼけていないので、一人で食堂に入ったルイズを迎えたのは、何対もの視線であった。アルビオンへ旅に出る前、キュルケがルイズたちを見つけたように、アプトムたちが出発し、ルイズがキュルケらと後を追った姿を見ていた生徒が何人もいたのである。
ただ出かけただけなら、生徒たちも何も思わなかったかもしれないが、その一行に魔法衛士隊隊長がいたのだ。これに多くの生徒は好奇心を刺激された。ぶっちゃけ、ただ単に暇をもてあましているだけなのだが。
とはいえ、朝食の場でそんな話を聞きにルイズに群がるなどという、はしたないことはできない。ここには教師たちもいるのだから。
そんな生殺しな生徒たちがいる中、そんな逡巡とは無縁の生徒もいた。
「おはよう、ルイズ。あの後どうなったの?」
キュルケの意味深な言葉に、多くの生徒が「知っているのかキュルケ!」という感じで色めき立つが、言った本人は周りの視線など意に介さない。
いや、キュルケもルイズと一緒に出かけていたことを、学生たちは知っていたのだが。
「おはようキュルケ。あとタバサも」
挨拶を返すルイズの顔には、朝から嫌なやつに会っちゃったなぁという感情の色が見えていて、キュルケは、おや? っと思う。
寝ぼけたルイズは、こんな顔をしないのだが、朝に寝ぼけていないルイズを見るのは久しぶりである。ついでに言うと、寝ぼけていないルイズが自分に挨拶を返してくる時は、もっとこう憎々しげというか、そんな感じの感情が篭もっていた気がするが、今日のは、今は会いたくない相手と顔を合わせてしまったなぁという感情しか感じない。
実際、今のルイズは、任務の事を聞かれたくないなぁ。でも嫌だって言っても聞いてくるだろうなぁ。キュルケだし。と思っているだけである。
何気に、お互いの事をよく理解している二人であった。
ちなみに、キュルケの隣ではルイズが入って来たのに気づいて、一瞬だけビクンッと肩を震わせたタバサがいたが誰も気づかなかった。
「それで? あの後どうなったの?」
「禁則事項よ」
なによそれ? と思うキュルケに、「ああいうのは、ちょっとしたお使いでも部外者に話しちゃいけないものなのよ」とルイズが答える。ちょっとした、お使いというには、けっこう危険な任務だったんじゃないかとは思ったが、キュルケも、それ以上は突っ込まない。元々ルイズが話すとも思っていなかったのだ。知りたいという好奇心はあるが、不特定多数の人間が聞いているところで話していい話題ではないと理解はしている。
だから、また後で聞いてみよう。そんなことを決心するキュルケであった。
そんなキュルケの隣では、一度だけ「おはよう」と言葉を発して、それ以外は食事の為にのみ口を開いて黙々と朝食を片付けるタバサがいた。人に知られてはいけない任務というものに多く携わっている彼女は、自分の事を棚に上げて人の任務に好奇心をむき出しにしたりはしないのだ。
朝食が終わり、教室に入ると、クラスメイトたちがルイズを取り囲んで、学院を休んでいた間の事を聞きたがった。
それは昨日の朝には、キュルケとタバサを取り囲んで話を聞きたがっていた連中だとはルイズには分からない。その時に質問責めにあった二人は何も話さなかった。任務について詳しいことを知らなかったというのもあるが、軽々しく話していい事と、悪い事の区別くらいはつくのである。
そんなわけで、二人がダメならとルイズに話を聞こうとした彼らだが、当然こちらも何も話さない。もったいぶっているというのならともかく、まったく話す気がないとなると、暇つぶしの意味が濃い質問なので、いい加減、質問するのも面倒になってしまう。
結局何も聞き出せないままに引き下がる彼らだが、その中に一人だけなかなか引き下がらない少女がいた。
『香水』の二つ名を持つ少女モンモラシーである。彼女も、ルイズたちが休んでいた間に何をしていたのかに興味を惹かれていたのだが、もう一つ気になっていることがあった。
彼女は、前にギーシュと付き合っていた少女の一人である。浮気性な彼に愛想が尽きてしまい別れることにしたのだが、多少なりと気になる相手ではあった。
そんな相手が、ルイズたちと一緒に出かけて一人だけ帰って来ていないのである。何も聞くなというのも無理があるだろう。
だが、そんなことを聞かれても困るのである。ギーシュとはラ・ロシェールでキュルケたち分かれてそれっきりだし、キュルケにでも聞いてくれとしか言いようがないのだが、キュルケの方でもギーシュはルイズたちを追いかけていったとしか言いようがない。
詳しい話をするわけにもいかないルイズは、まあギーシュのことだし女の子でもナンパしてるんじゃないの。とでも誤魔化すしかなく、モンモラシーも、それで一応の納得をしてしまうのであった。
哀れなりギーシュ。
その日、ルイズは放課後に図書室で勉強をすることができなかった。彼女が図書室に現れたのが夜になってからだったためである。
その理由を、ルイズはアプトムに言うことはなかった。アプトムも聞かなかった。言われなくても、顔を見れば想像がつくようになった彼は、また授業で魔法が失敗して後始末をさせられていたのだろうと考え、それは正しかった。
そんなわけで、何冊かの本を借り出したルイズは、自室で机に向かい本を広げていた。
それは、アルビオンに向かう前から続けていた日課。だけど、その旅で得た知識が彼女にある疑問を投げかけ、集中を妨げていた。
伝説の使い魔ガンダールヴ。それがアプトムだとワルドは言っていた。では、自分は何なのだろう?
魔法の成功率ゼロのルイズ。それが周囲の認識。彼女は、それを否定し続けていたのだけれど、口で何を言おうと結果を出さなくては事実は変わらない。
アプトムという存在が、自分がゼロではないという証明になると考えた事もある。だけど、ガンダールヴを召喚したから伝説のメイジだなどというのも違う気がする。
そもそも、彼女に伝説のメイジになりたいなどという考えはなかった。家族のような優秀なメイジでなくていい。普通でいい人並みでいいから、魔法が使えるようになりたい。それが彼女の想いであったから、まともに魔法も使えないのに、一足飛びに伝説などと言われても困惑が先に立つのだ。
そして、その悩みはアプトムには話せない。彼女が伝説に残るような、彼を元いた世界に返せる魔法を開発できるメイジになる事を望んでいるアプトムに、それは話せるはずのない事であったのだ。
その男の、レコン・キスタという組織における立場は、フーケの護衛というか、彼女が戦闘を行う場合の前衛を勤める者というものである。
彼女の立場が、あまり前線に出るようなものでなかったのと、男が現れたのがアルビオンの制圧が終わり、戦闘がなくなってからだったので、彼にメイジの守りができるだけの実力があるのか疑う者もいたが、それを口に出す者はいなかった。
それは、どうでもよかったから。という理由が大きい。フーケは、ワルド子爵という皇帝クロムウェルの直属という意味合いの立場の者の命令にだけ従うものであり、その護衛の実力になど興味がなかったのである。
ただ、男の正体について知りたがる者はいた。というのも、彼は顔全体に包帯を巻いて露出していたのは口と目だけだったからである。
男の言い分は、自分はアルビオン王党派との戦いに参加しており、それによって顔全体に見た者を不快にさせてしまう火傷をしてしまったからというものであり、実際ワルドが問い詰め包帯を外させたところ、男は元の顔が分からないほどの火傷を負っていた。
だが、それだけでは納得しなかったワルドは、男の左手を確認して、ようやく引き下がった。
ワルドの意図がどこにあったのか理解した者は少ない。
ただ、その日の夜、男を連れて酒場に行ったフーケが愉快そうに笑う姿があったという。
#navi(ゼロと損種実験体)
#navi(ゼロと損種実験体)
ルイズが学院に帰って最初にやったことは、寮に戻って自室の布団に潜り込むことである。疲れていたのだ。
アルビオンへの旅は彼女の精神に多大な負荷を与えたし、アプトムに抱えられていただけとはいえ、この世界の概念で言えば間違いなく&s(){サラマンダーよりずっとはやーい}「超高速」で空を飛んでの帰還はルイズを緊張させ肉体的にも疲労を強いた。
そんなわけで、心身ともに疲れたルイズは布団に入るなり深い眠りに落ちた。
そして、アプトムはというと、特別疲れた様子はなかったが、エネルギーが足りないなと思っていた。
なにせ、ワルドとの戦闘で右腕を切り落とされたり再生したり、休む間もなく獣化して土を掘り、浮遊大陸の底からは空を飛び、真っ直ぐにトリステインまで帰ってきてからは、馬に乗って街に行き王宮へ行って帰った、その間に一度も栄養補給をしていなかったのである。
元の世界であれば、獣化兵の一人も養分にすれば済んだ話だが、ここではそうはいかない。この世界には獣化兵がいないから、というのもあるが、先程まで乗っていた馬ましてや敵でもない一般市民や学院の使用人を獲物にするのは、いくらなんでも問題がある事である…という認識は流石にある。
そんなわけで、食堂に向かう。と言っても、アルヴィーズの食堂は貴族専用なので彼が向かうのは厨房である。
彼は、この学院で働く平民の多くに好かれていなかったが、別に嫌われてもいない。使用人たちの仲間に入れてもらおうとしたのならば嫌な顔をされることだろうが、食事や洗濯などの用事を頼む分には特にどうとも思われない。
というか、学院の生徒の使い魔たちの食料を用意するのも、使用人の仕事である。ルイズの使い魔であるアプトムの食事の用意を嫌がる理由がないのだ。
と言うわけで、厨房に入ったアプトムに数少ないというか唯一の顔見知りのメイドであるシエスタが声をかけてくる。
彼女にとってアプトムとは、愛想は良くないが悪い人ではないという認識である。
基本的には、それ以上でもそれ以下でもないのだが、ルイズという可愛らしい貴族の娘に好意を持っている彼女からすると、その使い魔である彼は、ちょっとした親近感を感じる相手でもある。
そんな彼女であるから、アプトムに対して最初に尋ねたのは、なんの用件かという質問ではなくルイズはどうしたのかというものである。
ルイズがアルビオン行きを決めたのはアンリエッタが訪ねてきた夜半であり、出かけたのは翌朝早くである。シエスタに挨拶していく暇などなかったのだから、このメイドの少女からすれば、ある朝急にルイズがいなくなり、人づてに魔法衛士隊の隊長と出かけたらしいという噂を聞いた。というもので、たかが一使用人にルイズがどうなったのかの説明があるはずもなく、心配で一人悶々としていた。
そんな彼女に対するアプトムの答えは、ルイズなら疲れて寝ているというものである。
実際、紆余曲折あったが、大きな怪我をするでもなく無事に帰ってこれたわけで、身体的には長旅で疲労したという程度である。いや、長い旅でもなかったが。
「疲れてって何をしてたんですか?」
「いわゆる、お使いだな」
お使い? と少女は首を傾げる。そんな事のためにわざわざ貴族の娘が学院を何日も休んで魔法衛士隊の人間と出かけるというのも理解できなければ、それで疲労して昼間から寝てしまうというのも分からない。
とはいえ、あまり突っ込んだ質問ができるほどアプトムと親しいというわけでもないので、話はそこで終わってしまい、後でルイズに会いに行ってやってくれと言われ、シエスタは笑顔でそれに答えるのだった。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、不器用な少女である。二つ以上の事を同時に考えることを得意としていないし、一つの感情に支配されている時は他のことが考えられない。
だから、怒りに支配されていた時には忘れていたもう一つの感情を、後になって思い出したりもする。
その感情の名は悲しみ。ウェールズを助けられなかったことやワルドの裏切りは、彼女の精神を追い詰めるのに充分な破壊力を持っていた。
基本的に内に篭もる性質の精神の持ち主なのである。一度落ち込めば中々元には戻らないし、ルイズに高い信頼を得ているアプトムでも、容易に彼女の心を浮上させることはできない。
いや、むしろアプトムだからできないというべきだろう。
アプトムの存在は、ルイズに安らぎよりも緊張を強いる。彼が得体の知れないバケモノだから、というわけではない。彼女は彼をそんなものだとは思っていない。
アプトムはルイズには大きすぎるのだ。その能力は大きすぎて自分などが使い魔にしていい存在ではないと思い知らされる。
あるいは、アプトムがもうすこしルイズの心を思いやっていれば、そうは思わなかったのかもしれないが、彼の最終的な目的は元の世界に帰ること。つまりは彼女を置いていくことであるので、必要以上には関わりを持とうとはしなかった。
そんな彼女だから、本来ならば眼を覚ますと同時に酷く落ち込んでしまうはずであった。なのに、そうならなかったのは彼女の右手を包む暖かな両手が理由。
夢を見ていたのだと思う。とても辛くて苦しくて悲しい夢。心が潰れそうなそこから救い出してくれたのは、ちいさなぬくもり。
それが何なのか、眠っていた彼女には分からなかったのだけれど。眼を覚まし、そこにいた者を見てルイズは知った。
「ちいねえさま?」
それは、ルイズが大好きな下の姉を呼ぶ時のもので、そこにいた少女とは似ても似つかない容姿の持ち主だったのだけれど、ベッドに眠る自分の隣に椅子を置き、彼女の手を握ってくれている姿に、そんな事をしてくれる人間が他に思い当たらない彼女は、ついそう言ってしまっていた。
その声が聞こえたのだろうか、少女はゆっくりと目を開けてルイズの顔を見ると嬉しそうに微笑み。そして、「お目覚めですか? ミス・ヴァリエール」と答えた後、朝日の射し込む窓に眼を向けて。そして、しばしの時が過ぎた後……、脂汗を流し始めた。
「あの……。えっと……」
と助けを求めるように、キョロキョロと部屋を見回し、壁を背に立つアプトムを発見する。
「あ、アプトムさん。わたし、ひょっとして寝てました?」
「心配するな。厨房には遅れると連絡しておいた」
そうじゃないでしょう! とシエスタは心の中で悲鳴を上げる。
シエスタがこの部屋に来たのは昨日の夜である。アプトムに言われたからというのもあるが、ルイズのことが気になっていた彼女は、その日の仕事を終わらせるとすぐにルイズに会いに来た。そうしてやってきた彼女が見たのは眠りながら辛そうな顔で涙を流すルイズである。
どういうことなのかと、アプトムに眼を向けたが彼は首を振った。彼はルイズの理解者ではない。涙を流す原因らしき事を知っていたが、確信はできなかったのだ。それ以前に気安く人に話していいことでもないが。
ルイズに何があったのかシエスタは知らない。知ることを許されていない。だけど、自分にも、この小さな貴族のために何かできることはないだろうかと思った彼女は、ルイズの手が助けを求めるように動いていることに気づいた。
ルイズは、基本的に寝ぼけているときでもない限り人に助けを求めない。それが許されない事だと思い込んでいるかのように。だけど、心の中ではいつも助けを求めているのだと知る者は少ない。
シエスタは、そんなことを知る者ではない。だが、彼女は反射的にルイズの手を取っていた。
それによって、ルイズの寝顔が穏やかになったのを見て取り、自分の行動は正しかったのだなと満足した彼女は、少しの間このままでいてあげようと黙って立ち尽くし、疲れるだろうとアプトムが用意してくれた椅子に座り、ルイズの手の温もりだけを感じるために瞼を下ろした。
どうでもいいことではあるが、シエスタたち学院の使用人の仕事は立ち仕事である。こういう仕事をしている人間は腰を下ろすと睡魔が襲ってきやすい。
というわけで、ちょっとウトウトしてきたなぁと考えた次の瞬間には寝入ってしまっていたのである。
「どうして起こしてくれなかったんですか!」
心の中ではともかく、口に出して叫ぶわけにもいかず、ボソボソと文句を言うが、返ってくるのは「よく寝ていたからな」などという答え。
だから、そうじゃないんですよ! とシエスタは思う。
貴族の眠る寝室で一夜を明かすなど、彼女の身分で許されるものではないし、仕事に遅れるというのも、褒められた話ではない。
雇用主である貴族から許可があったとしても、事前に同僚と話をしておかなければ周りの迷惑になるのが平民という労働者である。
シエスタは、人に迷惑をかける事をよしとする性質の人間ではないし、貴族に擦り寄って仕事をサボる人間であるなどと学院の他の使用人たちに思われたくもない。
そんなわけで、狼狽するシエスタであるが、アプトムが厨房にした連絡というものが、シエスタはルイズに捕まって離してもらえないでいるので厨房に来るのは遅れる。というものだったので、貴族の娘のせいで苦労しているんだな。などと思われていたりする。
そんなことを知らないシエスタは、ただただ狼狽し、それを見るルイズは、えーと、わたし何か悪い事したのかな? と首を傾げていたりする。
昼から、翌朝までという長時間の睡眠を取ったルイズは、いつもと違い寝ぼけることなく自分の足で食堂に向かった。ちなみに、この日の着替えはシエスタの手を借りてやった。
ルイズとしては、いつも通りにアプトムに着替えさせてもらうつもりだったのだが、これにシエスタが異を唱えた。
彼女とて、貴族が従僕のいるところでは自分で着替えたりしないことは知っている。
しかしである。うら若い娘が異性の前にその肌を晒すなどというけしからん行為を見逃すわけには行かない。というか、いくら使い魔だといっても普通は会って一月やそこらの異性に肌を晒そうなどとは思わないのではなかろうか。
そう思ったシエスタの行動は早かった。アプトムを追い出し、あっという間にルイズを着替えさせて明日からは、自分が着替えを手伝うからアプトムさんの手は借りないでくださいね。などと威圧感たっぷりの笑顔で念押しして出て行った。
なんでメイドなんかに指図されないといけないのよ。そんな風に思ったルイズだが、シエスタのおかげで少しだけ心が軽くなったことには気づいていたので、口に出しての文句は言わなかった。
今朝は寝ぼけていないので、一人で食堂に入ったルイズを迎えたのは、何対もの視線であった。アルビオンへ旅に出る前、キュルケがルイズたちを見つけたように、アプトムたちが出発し、ルイズがキュルケらと後を追った姿を見ていた生徒が何人もいたのである。
ただ出かけただけなら、生徒たちも何も思わなかったかもしれないが、その一行に魔法衛士隊隊長がいたのだ。これに多くの生徒は好奇心を刺激された。ぶっちゃけ、ただ単に暇をもてあましているだけなのだが。
とはいえ、朝食の場でそんな話を聞きにルイズに群がるなどという、はしたないことはできない。ここには教師たちもいるのだから。
そんな生殺しな生徒たちがいる中、そんな逡巡とは無縁の生徒もいた。
「おはよう、ルイズ。あの後どうなったの?」
キュルケの意味深な言葉に、多くの生徒が「知っているのかキュルケ!」という感じで色めき立つが、言った本人は周りの視線など意に介さない。
いや、キュルケもルイズと一緒に出かけていたことを、学生たちは知っていたのだが。
「おはようキュルケ。あとタバサも」
挨拶を返すルイズの顔には、朝から嫌なやつに会っちゃったなぁという感情の色が見えていて、キュルケは、おや? っと思う。
寝ぼけたルイズは、こんな顔をしないのだが、朝に寝ぼけていないルイズを見るのは久しぶりである。ついでに言うと、寝ぼけていないルイズが自分に挨拶を返してくる時は、もっとこう憎々しげというか、そんな感じの感情が篭もっていた気がするが、今日のは、今は会いたくない相手と顔を合わせてしまったなぁという感情しか感じない。
実際、今のルイズは、任務の事を聞かれたくないなぁ。でも嫌だって言っても聞いてくるだろうなぁ。キュルケだし。と思っているだけである。
何気に、お互いの事をよく理解している二人であった。
ちなみに、キュルケの隣ではルイズが入って来たのに気づいて、一瞬だけビクンッと肩を震わせたタバサがいたが誰も気づかなかった。
「それで? あの後どうなったの?」
「禁則事項よ」
なによそれ? と思うキュルケに、「ああいうのは、ちょっとしたお使いでも部外者に話しちゃいけないものなのよ」とルイズが答える。ちょっとした、お使いというには、けっこう危険な任務だったんじゃないかとは思ったが、キュルケも、それ以上は突っ込まない。元々ルイズが話すとも思っていなかったのだ。知りたいという好奇心はあるが、不特定多数の人間が聞いているところで話していい話題ではないと理解はしている。
だから、また後で聞いてみよう。そんなことを決心するキュルケであった。
そんなキュルケの隣では、一度だけ「おはよう」と言葉を発して、それ以外は食事の為にのみ口を開いて黙々と朝食を片付けるタバサがいた。人に知られてはいけない任務というものに多く携わっている彼女は、自分の事を棚に上げて人の任務に好奇心をむき出しにしたりはしないのだ。
朝食が終わり、教室に入ると、クラスメイトたちがルイズを取り囲んで、学院を休んでいた間の事を聞きたがった。
それは昨日の朝には、キュルケとタバサを取り囲んで話を聞きたがっていた連中だとはルイズには分からない。その時に質問責めにあった二人は何も話さなかった。任務について詳しいことを知らなかったというのもあるが、軽々しく話していい事と、悪い事の区別くらいはつくのである。
そんなわけで、二人がダメならとルイズに話を聞こうとした彼らだが、当然こちらも何も話さない。もったいぶっているというのならともかく、まったく話す気がないとなると、暇つぶしの意味が濃い質問なので、いい加減、質問するのも面倒になってしまう。
結局何も聞き出せないままに引き下がる彼らだが、その中に一人だけなかなか引き下がらない少女がいた。
『香水』の二つ名を持つ少女モンモラシーである。彼女も、ルイズたちが休んでいた間に何をしていたのかに興味を惹かれていたのだが、もう一つ気になっていることがあった。
彼女は、前にギーシュと付き合っていた少女の一人である。浮気性な彼に愛想が尽きてしまい別れることにしたのだが、多少なりと気になる相手ではあった。
そんな相手が、ルイズたちと一緒に出かけて一人だけ帰って来ていないのである。何も聞くなというのも無理があるだろう。
だが、そんなことを聞かれても困るのである。ギーシュとはラ・ロシェールでキュルケたち分かれてそれっきりだし、キュルケにでも聞いてくれとしか言いようがないのだが、キュルケの方でもギーシュはルイズたちを追いかけていったとしか言いようがない。
詳しい話をするわけにもいかないルイズは、まあギーシュのことだし女の子でもナンパしてるんじゃないの。とでも誤魔化すしかなく、モンモラシーも、それで一応の納得をしてしまうのであった。
哀れなりギーシュ。
その日、ルイズは放課後に図書室で勉強をすることができなかった。彼女が図書室に現れたのが夜になってからだったためである。
その理由を、ルイズはアプトムに言うことはなかった。アプトムも聞かなかった。言われなくても、顔を見れば想像がつくようになった彼は、また授業で魔法が失敗して後始末をさせられていたのだろうと考え、それは正しかった。
そんなわけで、何冊かの本を借り出したルイズは、自室で机に向かい本を広げていた。
それは、アルビオンに向かう前から続けていた日課。だけど、その旅で得た知識が彼女にある疑問を投げかけ、集中を妨げていた。
伝説の使い魔ガンダールヴ。それがアプトムだとワルドは言っていた。では、自分は何なのだろう?
魔法の成功率ゼロのルイズ。それが周囲の認識。彼女は、それを否定し続けていたのだけれど、口で何を言おうと結果を出さなくては事実は変わらない。
アプトムという存在が、自分がゼロではないという証明になると考えた事もある。だけど、ガンダールヴを召喚したから伝説のメイジだなどというのも違う気がする。
そもそも、彼女に伝説のメイジになりたいなどという考えはなかった。家族のような優秀なメイジでなくていい。普通でいい人並みでいいから、魔法が使えるようになりたい。それが彼女の想いであったから、まともに魔法も使えないのに、一足飛びに伝説などと言われても困惑が先に立つのだ。
そして、その悩みはアプトムには話せない。彼女が伝説に残るような、彼を元いた世界に返せる魔法を開発できるメイジになる事を望んでいるアプトムに、それは話せるはずのない事であったのだ。
その男の、レコン・キスタという組織における立場は、フーケの護衛というか、彼女が戦闘を行う場合の前衛を勤める者というものである。
彼女の立場が、あまり前線に出るようなものでなかったのと、男が現れたのがアルビオンの制圧が終わり、戦闘がなくなってからだったので、彼にメイジの守りができるだけの実力があるのか疑う者もいたが、それを口に出す者はいなかった。
それは、どうでもよかったから。という理由が大きい。フーケは、ワルド子爵という皇帝クロムウェルの直属という意味合いの立場の者の命令にだけ従うものであり、その護衛の実力になど興味がなかったのである。
ただ、男の正体について知りたがる者はいた。というのも、彼は顔全体に包帯を巻いて露出していたのは口と目だけだったからである。
男の言い分は、自分はアルビオン王党派との戦いに参加しており、それによって顔全体に見た者を不快にさせてしまう火傷をしてしまったからというものであり、実際ワルドが問い詰め包帯を外させたところ、男は元の顔が分からないほどの火傷を負っていた。
だが、それだけでは納得しなかったワルドは、男の左手を確認して、ようやく引き下がった。
ワルドの意図がどこにあったのか理解した者は少ない。
ただ、その日の夜、男を連れて酒場に行ったフーケが愉快そうに笑う姿があったという。
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