「ゼロと竜騎士-4」(2007/08/06 (月) 21:29:21) の最新版変更点
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学院長の秘書であるミス・ロングビルがルイズの下を訪れたのは、医務室でもらった鎮痛剤を飲んでようやくウトウトし始めた頃のことだった。
コンコンという控えめなノックの後に入室してきた彼女の、「学院長がお呼びです。至急学院長室までいらして下さい」という言葉に、ルイズは来るべきものが遂に来た、とある種の覚悟を決めたものである。
ルイズが決めた覚悟とは、留年勧告に対してのものであった。
使い魔召喚の儀式の成否が進級できるか否かに関わっている以上、彼女がそういう覚悟を持ってしまうのも当然と言えば当然である。
しかし、覚悟を決めたと言っても所詮腹が据わったとかその程度のものでしかない。
腹が据わったところで、それだけのことで前向きになれるわけでもないのだ。
そんなわけで学院長室のドアをノックし、「入りたまえ」という言葉に従ってドアを開けたルイズの表情はと言えば、鬱々とした、という表現がぴったりくるような酷いものであった。
「やぁ、よく来たね、ミス・ヴァリエール。病み上がりのところを態々呼びつけてすまなかったのう」
「いえ……」
「怪我の予後はどうかね? 治癒の術と言っても怪我の具合が酷ければ痛みまでは消せはしない。まだ痛むじゃろう」
「朝方に医務室で鎮痛剤を処方してもらいましたから、今はなんとか」
「そうかそうか。しかし無理はいかんぞ? 誇り高き貴族といっても痛みは誰しも平等じゃからの。ああ、そこに掛けたまえ」
促されて応接用の大きなソファに腰掛ける。
オスマンも執務用の机を立ってこちらに向かってくるが、ルイズの視線はオスマンでなく、その横に立つ青年に向けられていた。
少しくすんだ色合いの金髪に、薄汚れたマント、腰には二本の剣を差している。
年はルイズより幾分か上だろう。
その顔には見覚えがあった。
そして、その青年が額につけている鉢金を見ていると、薬を飲んでマシになったはずの頭痛がぶり返してくるような気がした。
間違いない、あの男は――。
「ふむ、どうやら気になっているようじゃし、先に紹介を済ませてしまうかね? 聞いた話では昨日は互いに挨拶をする時間もなかったようじゃからのう」
ひょひょひょ、と長い髭をしごきながらオールド・オスマン。
「では紹介しよう、ミス・ヴァリエール。彼はビュウ殿という。家名はないらしい。ああ、かといって平民と侮ってはいかんぞ? 彼の国では家名というのはあってもなくても構わんようなもんらしいそうじゃ」
その言葉にルイズは怪訝な顔をする。
「平民ではない……? では彼は、彼も貴族なんですか?」
「まぁ土地が違えば律令も変わるもんじゃ。貴族とも違うそうなんじゃが、彼は君に呼び出されるまではカーナ王国というところの騎士団で、戦竜隊という部隊の隊長をしていたらしい。ハルケギニア風に言うと竜騎士じゃな。竜騎士隊の隊長殿というわけじゃ」
「竜騎士――!」
ルイズは今度こそ驚いたような顔で青年、ビュウを見た。
竜騎士といえばハルケギニアでは一部の選ばれた貴族しか成ることの許されない、云わばエリートである。
対するビュウは困ったような笑顔をルイズに向け、その表情をすぐに取り繕うと真面目な顔をしてルイズの前に進み出た。
一瞬ギクリとするルイズだが、
「初めまして、カーナ王国騎士団で戦竜隊の隊長を務めております、ビュウと言います。――その、昨日は本当に申し訳ないことを」
ビュウは、そう言ってぺこりと素直に頭を下げたのである。
困ったのはルイズだ。
留年を告げられる覚悟で来てみれば、昨日召喚失敗で呼び出した使い魔(?)がいて、しかもそれが竜騎士だと言う。
こんな事態は想定していなかったし、いや、そういうことではなく、ともあれそんな一定の地位のある人間にこんな風に頭を下げられて、まあルイズも本来は傅かれる立場の人間ではあるのだが――とにかく慣れていない。
「あ、いえ、その、昨日は私も不注意でしたから……」
「そうは言っても、あれほどの大怪我をさせてしまったわけですし」
「もう怪我自体はよくなってますので、そんなに畏まられるとこっちが恐縮しちゃいます」
お互いに頭を下げ合うという奇妙な構図が誕生する。
オスマンはそれを「何やら見合いみたいで初々しいのう」などと思いつつ眺めていた。
が、いつまでもそうしていては話が進まないとばかりに口を挟む。
「まあまあ、ビュウ殿もヴァリエール嬢もその辺で――こほん、それではこちらも紹介しようかの。
ビュウ殿、こちらが先日貴殿を召喚した我が校の生徒、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢じゃ。
トリスティン王家が諸子、ヴァリエール公爵家の第三公女でもある」
オスマンの紹介にルイズもひとまず立ち上がり、貴族らしい優雅な礼を送る。
先ほどはビュウに機先を制され取り乱してしまったが、ちゃんと挨拶をやろうと思えばそれなり以上のものがキチンと出来るのだ。
学院では単に魔法を教えるだけでなく、貴族として相応しい立ち振る舞いも教育しているのだから。
「ふむ、それでは互いの紹介も終わったところで、ミス・ヴァリエール? 今日は一体どういう用向きで呼び出されたか、分かるかね?」
ルイズの身体に再び緊張が戻る。
そうなのだ、使い魔召喚の儀式から昨日の今日で、今のルイズが学院長直々の呼び出しを受ける理由なんて、そんなものは一つしかない。
使い魔召喚の儀式で人間を呼び出すだなんて前代未聞の大失敗をしてしまったこと、更にはその人間と契約すら出来ていないということ。
それらはすなわち、ルイズの留年という処分を意味している。
留年――その宣告を受け入れる覚悟をしてこの場に臨んだはずだったのに、改めてその事実を突き付けられれば、その衝撃は小さなルイズには受け止めきれるものではない。
もう枯れ果てたと思っていた涙がまた眦に溜まる。
俯いたら零れてしまうと分かっていたから、ルイズは顔を上げ、オールド・オスマンの顔を正面から見つめ返した。
「はい、分かっています。――留年、ですよね」
答えたその声が震えなかったことなど、誇るにも値しない。
だが、対するオスマンから返ってきた言葉はルイズには予想外のものだった。
彼はほっほっほ、と鷹揚に笑い、
「いや、まあ、そういう勘違いをしとるじゃろうとは、お主が部屋に入ってきたときから分かっておったがのう」
勘違い、というオスマンの言葉にきょとんとする。
「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢?」
「は、はいっ!」
「お主は自分が留年の処分を下されるだろうことについて、最早決定された事項であるかのように思っとるのかもしれんが……ふむ、今のところ、それはまだ保留じゃ」
「ほ、保留、ですか……?」
「うむ、お主は使い魔召喚の儀式で人間を呼び出してしまった。それはいい。あ、いや、いいとは言い切れんかもしれんが、ともあれじゃ、それはこの際わきに置いておく。
重要なのは、お主とビュウ殿の間で結ばれるはずであった契約の儀式、コトラクトサーヴァントの術が未了のままとなっていることなのじゃよ」
どういう意味なのか理解できない、といった風情のルイズのために、オスマンは言葉を砕く。
「ミスタ・コルベールもそうじゃが、わしとしては、この度のお主の成した使い魔召喚の儀式、それ自体は失敗ではないと思っておる」
「え!?」
「使い魔召喚の儀式とは、本来マスターとなる術者の得意分野を反映したような性質の者を召喚するというだけでなく、或いはマスターの苦手分野を補強するような性質の者を召喚する、という儀式でもあるのじゃ。
ミス・ヴァリエール、お主にとってのビュウ殿がその何れであるかは現時点では分からん。しかし、お主がビュウ殿を召喚したことには必ず何かの意味があるはずなのじゃ。
召喚の儀式とは、それすなわち始祖ブリミルのお導きであるとも言えるのじゃからな」
「……」
「召喚は成功した、成功したのじゃよミス・ヴァリエール。契約の儀式にしたって、儀式が完成する前にちょっとしたアクシデントがあって完了していないだけなのじゃ。
完了していないのならば完了させればいい。それだけの話じゃ。コントラクトサーヴァントが完了し、それが成功すれば問題は何も無くなる。留年になどなりゃせんのじゃよ」
オスマンは言って、にっこりと柔和な笑みを浮かべた。
優しげで深みのあるその笑みに、ルイズの緊張はこれまでのそれが嘘であるかのように解きほぐされていく。
これで留年せずに済む、家族に余計な心配や恥を掻かせなくて済む――そう考えただけで、先ほどとは全く意味合いの異なる、つまり安堵の涙がこみ上げてこようとしていた。
しかしルイズはすぐにハッとして涙を引っ込めた。
自分はそれでいい、それで助かる。
だが、その肝心の契約相手の方はどうなのだろうか?
なにしろ使い魔の契約は相手の一生を縛り付けるものなのだ。
ビュウは何処かの国に仕える騎士であり、隊長としての立場がある。
契約の解除は使い魔の死によってしか成し得ないというのに、そんな立場のある人間が、自分なんかと使い魔の契約を交わしてくれるのだろうか……?
そのルイズの視線の意味を察したのだろう、ビュウは少し困った顔をして口を挟んだ。
「僕は構いませんよ、ミス・ヴァリエール。こちらにも少し事情がありますので」
「事情、ですか?」
「まあ、話せば長くなるんですけどね?」
そう断りを入れて、ビュウは簡単に自分の故郷のことや、これから行動するに当たっての指針が全くないということを説明する。
ルイズは特にビュウの故郷であるオレルスのことについて色々と疑問を持ったが、それらを全て飲み込んで一つの質問を口にした。
「でも、コントラクトサーヴァントの儀式を行ったら、契約の解除は使い魔の死をもってしか成し得ないって」
「ああ、そこは僕も引っ掛かってはいたんですが、オールド・オスマン?」
「うむ」
話を振られたオスマンが髭をしごきながら答える、ルイズには他言無用じゃぞ?、と釘を刺して。
「実を言えば裏道、というか抜け穴のようなものがあるんじゃよ。だから、それを使えば使い魔の契約は破棄できる。
ただまあ、これを公にしてしまうと気に入らない使い魔を引き当てた生徒なんかが大挙して押し寄せそうじゃからのう。
散々言われたと思うが、使い魔召喚の儀式は神聖な儀式、そうそうやり直しなど認めるわけにはいかんのじゃ」
じゃから、この話は内密にな? と人差し指を口にあてながら笑ってみせるオスマンだ。
そこからまたビュウが話を引き継ぎ、
「そういうわけでね、オレルスに帰るための目処がつくまでは、君の使い魔というのをやってもいいと思っています。
帰る方法についても学院の側で支援してくれると言うし、その間の衣食住の提供もしてもらえると言うからね。その、君には半端な覚悟の使い魔と思われるかもしれませんが……」
「とまあそういうわけなんじゃよ、ヴァリエール嬢」
オスマンはニッと笑い、それから不意に真面目な顔に戻る。
正面からルイズの瞳を見据えて言った。
「後はもうお主が決断を下すだけなんじゃ、ミス・ヴァリエール。彼を使い魔とせんと契約の儀式に望むか。
或いは彼を使い魔とすることを不服として留年、来年の儀式に望みを託すか、二つに一つじゃ。
さぁ、ミス・ヴァリエール。お主はどうする、どちらの道を選ぶのじゃ?」
強い瞳で決断を迫る学院長の眼差しは、ルイズに適当な解答を許さない威圧感がある。
しかしそんな威圧感など今のルイズには全く意味の無いものだった。
何故ならルイズには、ここで契約をしないという選択を選ぶ理由が一つも無い。
人間を使い魔とすることに抵抗がないかと聞かれれば、それは確かにノーだ、抵抗がないわけではない。
だが、オールド・オスマンの話を聞いた今では、確かに自分が彼を、ビュウを呼び出してしまったことには何か大切な意味があるはずだと、そんな風に思える。
簡単にそんな風に心変わりしてしまえる自分の単純さをルイズは自嘲するが、そんな自嘲こそ今は無意味だ。
ルイズはビュウを見る。
その青い瞳を見つめ、何かは分からないが、その瞳に何かがあるとそう思った。
もしかしたら、すぐにオレルスへ帰れる方法が見つかって、使い魔とその主でいられる期間なんてほんの僅かなのかもしれない。
いかに使い魔と主という関係にあっても結局は人間同士、うまく付き合うことなんて出来ないかもしれない。
もし、そうでも、そうなったとしても、オスマンの言葉を聞き、ビュウの瞳を見つめ、例えそんな風になってしまったとしても、彼と契約を結ぶことは全くの無意味ということにはならないと、ルイズはそんな風に思った。
そう、確信した。
「私――やります! 彼と、契約します!」
ルイズは力強くそう宣言し、オールド・オスマンは満足げにその宣言を聞き届けた。
トリスティン王立魔法学院の学院長室の中央に淡い光を放つ魔方陣が浮かび上がる。
その中心に立つのは一人の少女と一人の青年、ルイズとビュウだ。
陣の外側には学院長のオールド・オスマンと、教師のコルベールがついて見届け人となっている。
契約の儀式、コントラクトサーヴァントの術はここまでは順調に来ていた。
陣の形成も安定しているし、魔力の循環も問題なく行われている。
教師としての視点で言えば、いま少しルイズの方に力が入りすぎている気がしないでもないが、それでも許容範囲内だろう。
やがてルイズの呪文の詠唱が終わり、契約の儀式のための陣が完成する。
ルイズはそっと一息をついて、これから彼女の使い魔となる青年、異国の竜騎士を見つめた。
「準備、完了しました」
「えっと、なんと言ったらいいか……お疲れ様です」
その少しとぼけたような物言いにルイズは小さく吹きこぼす。
ビュウも我ながら間抜けなことを言ったと思ったのか、少しバツの悪そうな顔をした。
「あの、契約をする前に一つだけいいですか?」
「なんでしょう?」
「その、もし失礼でなければ、これからはお互いに敬語はなしで、敬称とかもなしでってことでいきません?」
「あ、僕やっぱり堅苦しかったですか?」
「まぁ使い魔と主っていう関係を考えれば、本当は対当じゃあないのかもしれませんけど、むしろ私たちの場合はそっちの方が正しいのかなって気がして」
「僕もそっちの方が気が楽ではあります」
「それじゃあ……」
「はい……、じゃなくて、ああ――」
ビュウがルイズの肩に手を置いた。
ルイズもビュウの胸にそっと手を当て、ちょんと背伸びをする。
「ルイズ」
「ビュウ」
名前を呼び合い、そして――
「「今、契約を――」」
唇が、重なる。
部屋は光に包まれ、今ここに、ルイズとビュウの契約が成立したのであった。
学院長の秘書であるミス・ロングビルがルイズの下を訪れたのは、医務室でもらった鎮痛剤を飲んでようやくウトウトし始めた頃のことだった。
コンコンという控えめなノックの後に入室してきた彼女の、「学院長がお呼びです。至急学院長室までいらして下さい」という言葉に、ルイズは来るべきものが遂に来た、とある種の覚悟を決めたものである。
ルイズが決めた覚悟とは、留年勧告に対してのものであった。
使い魔召喚の儀式の成否が進級できるか否かに関わっている以上、彼女がそういう覚悟を持ってしまうのも当然と言えば当然である。
しかし、覚悟を決めたと言っても所詮腹が据わったとかその程度のものでしかない。
腹が据わったところで、それだけのことで前向きになれるわけでもないのだ。
そんなわけで学院長室のドアをノックし、「入りたまえ」という言葉に従ってドアを開けたルイズの表情はと言えば、鬱々とした、という表現がぴったりくるような酷いものであった。
「やぁ、よく来たね、ミス・ヴァリエール。病み上がりのところを態々呼びつけてすまなかったのう」
「いえ……」
「怪我の予後はどうかね? 治癒の術と言っても怪我の具合が酷ければ痛みまでは消せはしない。まだ痛むじゃろう」
「朝方に医務室で鎮痛剤を処方してもらいましたから、今はなんとか」
「そうかそうか。しかし無理はいかんぞ? 誇り高き貴族といっても痛みは誰しも平等じゃからの。ああ、そこに掛けたまえ」
促されて応接用の大きなソファに腰掛ける。
オスマンも執務用の机を立ってこちらに向かってくるが、ルイズの視線はオスマンでなく、その横に立つ青年に向けられていた。
少しくすんだ色合いの金髪に、薄汚れたマント、腰には二本の剣を差している。
年はルイズより幾分か上だろう。
その顔には見覚えがあった。
そして、その青年が額につけている鉢金を見ていると、薬を飲んでマシになったはずの頭痛がぶり返してくるような気がした。
間違いない、あの男は――。
「ふむ、どうやら気になっているようじゃし、先に紹介を済ませてしまうかね? 聞いた話では昨日は互いに挨拶をする時間もなかったようじゃからのう」
ひょひょひょ、と長い髭をしごきながらオールド・オスマン。
「では紹介しよう、ミス・ヴァリエール。彼はビュウ殿という。家名はないらしい。ああ、かといって平民と侮ってはいかんぞ? 彼の国では家名というのはあってもなくても構わんようなもんらしいそうじゃ」
その言葉にルイズは怪訝な顔をする。
「平民ではない……? では彼は、彼も貴族なんですか?」
「まぁ土地が違えば律令も変わるもんじゃ。貴族とも違うそうなんじゃが、彼は君に呼び出されるまではカーナ王国というところの騎士団で、戦竜隊という部隊の隊長をしていたらしい。ハルケギニア風に言うと竜騎士じゃな。竜騎士隊の隊長殿というわけじゃ」
「竜騎士――!」
ルイズは今度こそ驚いたような顔で青年、ビュウを見た。
竜騎士といえばハルケギニアでは一部の選ばれた貴族しか成ることの許されない、云わばエリートである。
対するビュウは困ったような笑顔をルイズに向け、その表情をすぐに取り繕うと真面目な顔をしてルイズの前に進み出た。
一瞬ギクリとするルイズだが、
「初めまして、カーナ王国騎士団で戦竜隊の隊長を務めております、ビュウと言います。――その、昨日は本当に申し訳ないことを」
ビュウは、そう言ってぺこりと素直に頭を下げたのである。
困ったのはルイズだ。
留年を告げられる覚悟で来てみれば、昨日召喚失敗で呼び出した使い魔(?)がいて、しかもそれが竜騎士だと言う。
こんな事態は想定していなかったし、いや、そういうことではなく、ともあれそんな一定の地位のある人間にこんな風に頭を下げられて、まあルイズも本来は傅かれる立場の人間ではあるのだが――とにかく慣れていない。
「あ、いえ、その、昨日は私も不注意でしたから……」
「そうは言っても、あれほどの大怪我をさせてしまったわけですし」
「もう怪我自体はよくなってますので、そんなに畏まられるとこっちが恐縮しちゃいます」
お互いに頭を下げ合うという奇妙な構図が誕生する。
オスマンはそれを「何やら見合いみたいで初々しいのう」などと思いつつ眺めていた。
が、いつまでもそうしていては話が進まないとばかりに口を挟む。
「まあまあ、ビュウ殿もヴァリエール嬢もその辺で――こほん、それではこちらも紹介しようかの。
ビュウ殿、こちらが先日貴殿を召喚した我が校の生徒、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢じゃ。
トリステイン王家が諸子、ヴァリエール公爵家の第三公女でもある」
オスマンの紹介にルイズもひとまず立ち上がり、貴族らしい優雅な礼を送る。
先ほどはビュウに機先を制され取り乱してしまったが、ちゃんと挨拶をやろうと思えばそれなり以上のものがキチンと出来るのだ。
学院では単に魔法を教えるだけでなく、貴族として相応しい立ち振る舞いも教育しているのだから。
「ふむ、それでは互いの紹介も終わったところで、ミス・ヴァリエール? 今日は一体どういう用向きで呼び出されたか、分かるかね?」
ルイズの身体に再び緊張が戻る。
そうなのだ、使い魔召喚の儀式から昨日の今日で、今のルイズが学院長直々の呼び出しを受ける理由なんて、そんなものは一つしかない。
使い魔召喚の儀式で人間を呼び出すだなんて前代未聞の大失敗をしてしまったこと、更にはその人間と契約すら出来ていないということ。
それらはすなわち、ルイズの留年という処分を意味している。
留年――その宣告を受け入れる覚悟をしてこの場に臨んだはずだったのに、改めてその事実を突き付けられれば、その衝撃は小さなルイズには受け止めきれるものではない。
もう枯れ果てたと思っていた涙がまた眦に溜まる。
俯いたら零れてしまうと分かっていたから、ルイズは顔を上げ、オールド・オスマンの顔を正面から見つめ返した。
「はい、分かっています。――留年、ですよね」
答えたその声が震えなかったことなど、誇るにも値しない。
だが、対するオスマンから返ってきた言葉はルイズには予想外のものだった。
彼はほっほっほ、と鷹揚に笑い、
「いや、まあ、そういう勘違いをしとるじゃろうとは、お主が部屋に入ってきたときから分かっておったがのう」
勘違い、というオスマンの言葉にきょとんとする。
「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢?」
「は、はいっ!」
「お主は自分が留年の処分を下されるだろうことについて、最早決定された事項であるかのように思っとるのかもしれんが……ふむ、今のところ、それはまだ保留じゃ」
「ほ、保留、ですか……?」
「うむ、お主は使い魔召喚の儀式で人間を呼び出してしまった。それはいい。あ、いや、いいとは言い切れんかもしれんが、ともあれじゃ、それはこの際わきに置いておく。
重要なのは、お主とビュウ殿の間で結ばれるはずであった契約の儀式、コトラクトサーヴァントの術が未了のままとなっていることなのじゃよ」
どういう意味なのか理解できない、といった風情のルイズのために、オスマンは言葉を砕く。
「ミスタ・コルベールもそうじゃが、わしとしては、この度のお主の成した使い魔召喚の儀式、それ自体は失敗ではないと思っておる」
「え!?」
「使い魔召喚の儀式とは、本来マスターとなる術者の得意分野を反映したような性質の者を召喚するというだけでなく、或いはマスターの苦手分野を補強するような性質の者を召喚する、という儀式でもあるのじゃ。
ミス・ヴァリエール、お主にとってのビュウ殿がその何れであるかは現時点では分からん。しかし、お主がビュウ殿を召喚したことには必ず何かの意味があるはずなのじゃ。
召喚の儀式とは、それすなわち始祖ブリミルのお導きであるとも言えるのじゃからな」
「……」
「召喚は成功した、成功したのじゃよミス・ヴァリエール。契約の儀式にしたって、儀式が完成する前にちょっとしたアクシデントがあって完了していないだけなのじゃ。
完了していないのならば完了させればいい。それだけの話じゃ。コントラクトサーヴァントが完了し、それが成功すれば問題は何も無くなる。留年になどなりゃせんのじゃよ」
オスマンは言って、にっこりと柔和な笑みを浮かべた。
優しげで深みのあるその笑みに、ルイズの緊張はこれまでのそれが嘘であるかのように解きほぐされていく。
これで留年せずに済む、家族に余計な心配や恥を掻かせなくて済む――そう考えただけで、先ほどとは全く意味合いの異なる、つまり安堵の涙がこみ上げてこようとしていた。
しかしルイズはすぐにハッとして涙を引っ込めた。
自分はそれでいい、それで助かる。
だが、その肝心の契約相手の方はどうなのだろうか?
なにしろ使い魔の契約は相手の一生を縛り付けるものなのだ。
ビュウは何処かの国に仕える騎士であり、隊長としての立場がある。
契約の解除は使い魔の死によってしか成し得ないというのに、そんな立場のある人間が、自分なんかと使い魔の契約を交わしてくれるのだろうか……?
そのルイズの視線の意味を察したのだろう、ビュウは少し困った顔をして口を挟んだ。
「僕は構いませんよ、ミス・ヴァリエール。こちらにも少し事情がありますので」
「事情、ですか?」
「まあ、話せば長くなるんですけどね?」
そう断りを入れて、ビュウは簡単に自分の故郷のことや、これから行動するに当たっての指針が全くないということを説明する。
ルイズは特にビュウの故郷であるオレルスのことについて色々と疑問を持ったが、それらを全て飲み込んで一つの質問を口にした。
「でも、コントラクトサーヴァントの儀式を行ったら、契約の解除は使い魔の死をもってしか成し得ないって」
「ああ、そこは僕も引っ掛かってはいたんですが、オールド・オスマン?」
「うむ」
話を振られたオスマンが髭をしごきながら答える、ルイズには他言無用じゃぞ?、と釘を刺して。
「実を言えば裏道、というか抜け穴のようなものがあるんじゃよ。だから、それを使えば使い魔の契約は破棄できる。
ただまあ、これを公にしてしまうと気に入らない使い魔を引き当てた生徒なんかが大挙して押し寄せそうじゃからのう。
散々言われたと思うが、使い魔召喚の儀式は神聖な儀式、そうそうやり直しなど認めるわけにはいかんのじゃ」
じゃから、この話は内密にな? と人差し指を口にあてながら笑ってみせるオスマンだ。
そこからまたビュウが話を引き継ぎ、
「そういうわけでね、オレルスに帰るための目処がつくまでは、君の使い魔というのをやってもいいと思っています。
帰る方法についても学院の側で支援してくれると言うし、その間の衣食住の提供もしてもらえると言うからね。その、君には半端な覚悟の使い魔と思われるかもしれませんが……」
「とまあそういうわけなんじゃよ、ヴァリエール嬢」
オスマンはニッと笑い、それから不意に真面目な顔に戻る。
正面からルイズの瞳を見据えて言った。
「後はもうお主が決断を下すだけなんじゃ、ミス・ヴァリエール。彼を使い魔とせんと契約の儀式に望むか。
或いは彼を使い魔とすることを不服として留年、来年の儀式に望みを託すか、二つに一つじゃ。
さぁ、ミス・ヴァリエール。お主はどうする、どちらの道を選ぶのじゃ?」
強い瞳で決断を迫る学院長の眼差しは、ルイズに適当な解答を許さない威圧感がある。
しかしそんな威圧感など今のルイズには全く意味の無いものだった。
何故ならルイズには、ここで契約をしないという選択を選ぶ理由が一つも無い。
人間を使い魔とすることに抵抗がないかと聞かれれば、それは確かにノーだ、抵抗がないわけではない。
だが、オールド・オスマンの話を聞いた今では、確かに自分が彼を、ビュウを呼び出してしまったことには何か大切な意味があるはずだと、そんな風に思える。
簡単にそんな風に心変わりしてしまえる自分の単純さをルイズは自嘲するが、そんな自嘲こそ今は無意味だ。
ルイズはビュウを見る。
その青い瞳を見つめ、何かは分からないが、その瞳に何かがあるとそう思った。
もしかしたら、すぐにオレルスへ帰れる方法が見つかって、使い魔とその主でいられる期間なんてほんの僅かなのかもしれない。
いかに使い魔と主という関係にあっても結局は人間同士、うまく付き合うことなんて出来ないかもしれない。
もし、そうでも、そうなったとしても、オスマンの言葉を聞き、ビュウの瞳を見つめ、例えそんな風になってしまったとしても、彼と契約を結ぶことは全くの無意味ということにはならないと、ルイズはそんな風に思った。
そう、確信した。
「私――やります! 彼と、契約します!」
ルイズは力強くそう宣言し、オールド・オスマンは満足げにその宣言を聞き届けた。
トリステイン王立魔法学院の学院長室の中央に淡い光を放つ魔方陣が浮かび上がる。
その中心に立つのは一人の少女と一人の青年、ルイズとビュウだ。
陣の外側には学院長のオールド・オスマンと、教師のコルベールがついて見届け人となっている。
契約の儀式、コントラクトサーヴァントの術はここまでは順調に来ていた。
陣の形成も安定しているし、魔力の循環も問題なく行われている。
教師としての視点で言えば、いま少しルイズの方に力が入りすぎている気がしないでもないが、それでも許容範囲内だろう。
やがてルイズの呪文の詠唱が終わり、契約の儀式のための陣が完成する。
ルイズはそっと一息をついて、これから彼女の使い魔となる青年、異国の竜騎士を見つめた。
「準備、完了しました」
「えっと、なんと言ったらいいか……お疲れ様です」
その少しとぼけたような物言いにルイズは小さく吹きこぼす。
ビュウも我ながら間抜けなことを言ったと思ったのか、少しバツの悪そうな顔をした。
「あの、契約をする前に一つだけいいですか?」
「なんでしょう?」
「その、もし失礼でなければ、これからはお互いに敬語はなしで、敬称とかもなしでってことでいきません?」
「あ、僕やっぱり堅苦しかったですか?」
「まぁ使い魔と主っていう関係を考えれば、本当は対当じゃあないのかもしれませんけど、むしろ私たちの場合はそっちの方が正しいのかなって気がして」
「僕もそっちの方が気が楽ではあります」
「それじゃあ……」
「はい……、じゃなくて、ああ――」
ビュウがルイズの肩に手を置いた。
ルイズもビュウの胸にそっと手を当て、ちょんと背伸びをする。
「ルイズ」
「ビュウ」
名前を呼び合い、そして――
「「今、契約を――」」
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