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「大政奉還、そして新政府への参加、か……」
ウェールズはぬるくなった紅茶を一口飲むと、
「考える時間はくれないのか?」
そう言った。
クロムウェルは、そんな皇太子に微笑んだ。
「勿論ここで即答せよとは申しませんよ殿下。それほど簡単な話をしているつもりは、私にもありません。状況が許す限り、あなたには深く考えて頂きたい。ただし――」
「ただし?」
「殿下には、私のこの言葉に対して、確たる回答を返す義務がある。……それは承知して頂きたい」
真摯な瞳でそう言い切ったクロムウェルを前に、ウェールズは溜め息をついた。
「……たいしたものだな大司教。噂で聞く君とは、まるで別人のようだよ」
その愚痴にも似た呟きに、黒衣の大司教は、苦笑して何も答えなかった。
(それはまったく同感だよ、皇太子殿下)
ワルドは顎ヒゲをなでながら、胸中にそう呟かざるを得なかった。
『レコン・キスタ』首領オリヴァー・クロムウェル。
ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドの知る、彼という人間は、わずかばかりの小才を鼻にかけて傲慢に振舞う、恥知らずな策謀家というに過ぎなかった。
そしてその見解は、おそらくクロムウェルを知るすべての者が等しく抱いていたはずだ。
恥知らずであるがゆえに常識に囚われない。かつて聖職者であったからこそ神の禁忌を信じない。貴族の出自でないからこそ体面にも誇りにもにこだわらない。
そんな彼ならばこそ、目的のためにはどんな卑劣な手段も平然と使う、タブーの向こう側にいる人間であることも周知の事実だ。逆に言えば、メイジでさえないクロムウェルが、まがりなりにも貴族たちを束ねる事が出来たのは、彼がそういう人間であったればこそだ。
トリステイン貴族であるワルドは、アルビオンの諸侯たちが、クロムウェルを自派のトップに担ぎ上げた理由と課程を知らない。――だが、ただそれだけの男では、革命勢力の首魁に成り上がることなど出来はしないことも確かなはずだった。
ワルドは知っていた。
本当か嘘かは分からないが、貴族派の有力諸侯たちが彼を担ぎ上げたのは、その厚顔無恥な行動力もさることながら、クロムウェルが死者すら蘇生させる伝説の系統“虚無”の担い手であるからこそだ、という噂があることを。
無論、メイジでさえない男が伝説の系統の使い手であるなど、どう考えても在り得ない話である。だがそれでも、その噂が組織上層部における彼の指導力を水増ししていることも確かであった。
(――違う!!)
だが、今この瞬間ワルドは、クロムウェルという人間に対して自分が抱いていた見解が、完全に誤っていたことを認めざるを得なかった。
この首領は、自分の能力の限界を知っている。
一国を転覆する勢力の頂点に座していながら、その現状に甘んじる事無く、組織の運営・発展に必要な要因を模索する事こそが、トップである自分の最重要課題であるということを知っている。
そして、そのためならば、自らの地位への執着さえ、組織の将来を危ぶむ結果になる事を知っている。
そして、もしウェールズが『レコン・キスタ』の指揮を執るようになれば、組織に参加する全ての者たちが各個の思惑を捨て、一つにまとまることができるだろう。
それは、ウェールズの指導力の問題だけではない。
彼は、『レコン・キスタ』が打倒した、テューダー王家の嫡子なのだ。
どのような大義があったとしても、六千年の忠義を裏切り、王国を滅ぼした罪の意識は容易に消えるものではない。ハルケギニアの全貴族が自分たちを、叛徒・逆賊・簒奪者の汚名を以って呼んでいるという屈辱と不名誉は、それこそ拭えるものではない。
だが、当の王家の人間が自ら王政に幕を引き、政権を禅譲するというのであれば、そこに流血革命の無残さはない。いわんやその本人が、自分たちの勢力に参加し、指導者の立場に立つというなら、なおの事だ。
それはつまり、王家自らが、王権を打倒した“革命”の大義と理念を認めた、と解釈できる事態なのだから。
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――だが、そこまでは分かっていても、実際にその選択をウェールズに持ちかける器量がクロムウェルにあるとは、ワルドも思ってもいなかった。
組織の発展のためにトップの座を退く。しかも地位を譲る相手は、部下でも同志でもない。ほんの数時間前まで実際に戦火を交えた敵の領袖なのだ。
ワルドはむしろ信じたくなかった。
だが、ここにいる男は、まぎれもなく本物だ。
俊才で名高いウェールズを向こうに回して一歩も引かぬ、その堂々とした態度。己の名を捨て、組織の実と国家の発展を選ぶ、その発想。そして行動力。もはや彼の眼光に、日頃の蛇のような冷たい輝きは、一分たりとも宿ってはいない。
(ならば、この男の日頃の行動は何だったのだ? あの卑しい目付きや、人を不快にする物腰や、目的のためには手段を問わぬやり口は?)
――擬態、だったとでもいうのか……!!
そう考えれば、色々と辻褄の合う点が、多々ある。
貴族という存在は、みな一様にプライドが高い。
たとえ大司教の地位まで上った神官といえど、そして自らの首領として担ぎ上げた者といえど、――メイジでさえない男が、その有能さを十二分に主張して貴族を顎でこき使えば、そこに軋轢がうまれないわけがない。
むしろ、油断ならぬ男と警戒されつつも、その人格を白眼視されているくらいの方が、組織の運営には好都合であろう。ならば、クロムウェルが今ウェールズに見せている政治家としての識見も、おそらく彼が隠し持った“顔”の一つに過ぎないのだろう。
人の姿は一面ではない。その在り様は状況によって変化して然るべきだ。そして人材としての人間の価値は、その素顔にはない。あるとすればそれは、その場その場の状況に応じて、何枚の“顔”を使い分けられるかという点に尽きる。ワルドなればこそ、それが分かる。
なぜなら彼もまた、トリステイン魔法衛士隊長と『レコン・キスタ』幹部という、複数の“顔”を使い分けて生きる人間だからだ。
だが、その“顔”一枚一枚に、これほどまでの中身を持たせることが出来るなら、自分が考えているよりもクロムウェルという男の『底』が深いのは間違いない。ならば――
(認めてやるよクロムウェル。お前は確かに単なる神輿などではなかった。お前は、率いるべくして貴族どもを率い、六千年の王朝を打倒した男なのだということを、な)
ワルドは杖を握る手に力を込めた。
そして、ウェールズに聞こえぬように、呪文の詠唱を開始する。クロムウェルの指令どおり、眼前の王子の返答如何によっては、その背を貫くために。
先程まで胸中に渦巻いていた葛藤は、もはやない。
この皇太子が『レコン・キスタ』を、あくまで拒むなら、ここで消えてもらうまでだ。
クロムウェルという男の器が、いま自分が再確認した通りであるならば、ここでワルドがウェールズの存在にこだわる理由は全くない。ウェールズがおらずとも、クロムウェルは彼なりの方法論で『レコン・キスタ』と共和政運動を盛り上げてゆく事だろう。
(さあウェールズ、今度はお前の番だ。お前の器量を、俺に見せてみろ!)
ワルドがそう思った、まさにそのときだった。
「――ああ、話は変わるが子爵。君の婚約者は承知しているのかな?」
ウェールズがこちらを振り返りもせず、いきなり発した言葉に、ワルドは瞬間、きょとんとなった。
すでに詠唱は完了している。
いつでも不意打ちを仕掛ける準備が出来ているからこそ、その“標的”から突然かけられた言葉は、ワルドの心胆を混乱させたのだ。が、懸命に心を落ち着かせ、彼は顔が引きつりそうになるのを懸命にこらえる。
「……何が、でございますか殿下?」
だが、そんなワルドの心中を知ってか知らずか、ウェールズはこともなげに笑う。
「決まっているだろう、子爵」
「君が祖国を裏切って『レコン・キスタ』に参加している事実を、だよ」
ワルドの心臓は凍りついた。
「きゅいきゅいっ、すごいのねっ!! 竜の背に乗るのが、こんなに気持ちがいいなんてシルフィ知らなかったのねっ!!」
その背に巨乳を押しつけながら、感極まった声を上げるシルフィード。
だが、いまの才人にとっては、そんな胸の感触すら集中をかき乱す存在に過ぎない。
宙空の双月や、いまだ燃え尽きぬ地上の業火のおかげで、アルビオン上空は闇夜とは言いがたい状態ではあったが、実際、目を皿のようにしてルイズを捜す彼からすれば、背中の美女は結構うっとうしかった。
「自分で飛ぶのと乗るのとじゃ、こんなに違うなんて、お姉さまは教えてくれなかったのねっ! こんなのずるい、ずる過ぎるのねっ!!」
「ああもう、うるせえなっ! なにがズルイってんだよ!?」
「だってお姉さまは、シルフィに乗るたびに、こんなに心地いい風を感じていたなんて、そんなの不公平なのねっ。気持ちいい風はシルフィだって感じたいのねっ!!」
そう言いながら背中でハシャギ回るシルフィード。
「おいっ、やめろ、暴れるなよっ!? 危ないってばっ!!」
叫びながらも、鞍から振り落とされないように、才人はあぶみに置いた両足に懸命に力を込め、竜の首を挟み込む。
「だっ、だいたい、お前はタバサを乗せるのが仕事だろう? そのお前が乗る側に回っちまったら、竜がもう一匹必要になってくるじゃねえか? それとも、アレだ――お前の親戚から、ヒマな竜でも連れて来るかっ!?」
そう言った瞬間、シルフィードの声は消えた。背中で騒ぐ気配も消えた。
だが――。
「いだだだっだぁぁぁッッッッ!!」
がぶり、と音がせんばかりの勢いでシルフィードが、背後から才人の耳朶に噛みついたのだ。だが、この状態で彼女に抵抗するすべは今の才人にはない。ここは上空ウン百メートルの雲の上なのだ。下手に落ちれば海面に叩きつけられて、確実にペシャンコだ。
さすがに、このシルフィードの反応は、才人の予想の斜め上を行き過ぎていた。
「きゅいきゅいっ!! サイトったら意地悪なのねっ!! お父様やお母様がどこにいるかなんて、今のシルフィには分からないのねっ!! ふえええぇぇぇんんっっっっ!!」
そうなのだ。
使い魔として召喚されたのは自分だけではない。
このシルフィードもまた、別れを告げる暇もなく、自分の家族から突然引き離され、いまの境遇に身を置くしかない者たちの一人なのだ。
才人は唇を噛みしめる。
かつてタバサが言っていた。このシルフィードは、齢百歳を経た韻竜ではあるが、その寿命に換算すれば、肉体・精神ともに、まだまだ幼生と呼ぶしかない存在なのだと。
つまり彼女は、同じく召喚された身であっても、自分のように、親の存在を邪魔臭がって暮らしていた高校生とは根本的に違う。里心がつけば泣いて暴れるの子供なのだ。
(里心、か……)
才人の脳裡に、一瞬、口うるさいが優しかった母親の姿や、寡黙ではあったが頼りになった父親の姿が、懐かしさと共に浮かび上がる。
その映像は、耳に走る激痛とは別に、才人の胸に疼くような痛みを走らせ、口から一つの問いを紡がせていた。
「シルフィ、帰りたいか……?」
はっとしたように、シルフィードは歯に込めた力を抜き、やがて彼の耳から唇を離した。
才人は感じた。
彼女が自分の背中に額を押し付け、静かに首を横に振ったのを。
「寂しくないのか」
「……シルフィには、お姉さまがいるのね……だから、寂しくないのね……」
「帰りたくないのか」
「……帰りたいけど……でも、お姉さまを、一人にはしておけないのね。シルフィが帰っちゃったら、お姉さまが一人ぼっちになっちゃうのね。それに多分……シルフィもお姉さまがいない方が寂しいのね……」
「……そうか」
そうだ。
その通りだ。
分かっていたはずだ。
アイツを一人にはしておけない。
才人の脳裡に浮かぶ映像は、いつの間にか両親から、別のものに差し代わっていた。
『ゼロ』と呼ばれ、罵られ、嘲笑われ、小さな肩を震わせながらも、頑なな目付きで、何かに抵抗するように虚空を睨みつけている、アイツ。
――帰りたくないと言えば、それはさすがに嘘だ。
でも、今はせめて、アイツの傍にいてやりたい。おれに何が出来るかは分からないが。
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「やっぱりサイトも、おうちに帰りたいの?」
「そりゃあそうさ……でも」
「でも?」
「帰るのは、何も今でなくてもいい」
才人は肩越しに背後に手を伸ばし、シルフィードの青い髪を、そっと撫でた。
「だから今はせめて、あの寂しがり屋の御主人様とやらのために全力を尽くすか。お互いにな?」
さらさらの青髪から手を離し、才人は振り返る。
シルフィードの顔は……朱に染まっていた。
「きゅい~~~~~~~~~っっっ!!」
「おわっ!?」
いきなり人外の腕力で背後から抱き締められ、才人の肋骨が悲鳴をあげる。
「きゅいきゅいっっ!! やっぱり、やっぱりサイトはカッコイイのねっ!!」
「わがっだ! わがっだがら! ルイズを捜すの手伝えって!! な!?」
「はいなのねっ!!」
さっき泣いた韻竜が、もう元気に笑っていた。
lllllllllllllllllll
「殿下……いったい何を仰られているのか、私には分かりかねますが」
そう答えた声が震えなかった事を、ワルドは少し始祖に感謝した。こんな台詞一つで動揺して、尻尾を出すような己なら、クロムウェルやウェールズを向こうに回して、到底この先、世界を手中に収める事など出来はしないだろう。
そう言い聞かせながら、震える心胆を懸命に落ち着かせる。
だが、ウェールズの表情は変わらない。
「そうか。なら――」
彼は、クロムウェルを振り向くと、
「大司教、私に指導者の地位を譲るとまで言った君が、いまさら、組織に関わる情報に嘘を交えるなどという事はあるまいな?」
だが、その言葉を聞いて、黒衣の大司教の口元に浮かんだのは、久々の蛇の笑いだった。
「そのお言葉は、殿下が私の考えに賛同して下さったと解釈して、宜しいのですかな?」
クロムウェルに呼応して、ウェールズも亀裂のような笑みを浮かべる……などというような事はなかった。それどころか、クロムウェルのその台詞に驚きの色を浮かべたのは、むしろ話を振ったウェールズの方であった。
「……おいおい、らしくないな大司教。今のは、その迂闊な言葉が意味することを、本当に理解した上での発言なのかね?」
ウェールズが戸惑うのも無理はない。その台詞は、やはりワルド子爵が『レコン・キスタ』の一員であると教えているようなものなのだから。
彼自身、ワルドの正体にどれほどの確信があったかは知らないが、敵の首領自らが、それをアッサリ認めてしまうなどと誰が思うだろう? ウェールズはむしろワルドに同情するような視線さえ向ける。
「でっ、殿下っ!? ですから私は違うと――」
思わず声を荒げるワルド。だが、クロムウェルの態度は変わらない。
「いかにも、このワルド子爵は『レコン・キスタ』の息がかかりし者にございます」
ワルドは、もはや口を開けたまま、声を上げることさえ出来なかった。
何故!? 何故ここへ来て、暴露ッッッ!?
どういうつもりなのだ!? 俺に、ウェールズを殺させたいのではなかったのか!?
――だが、眼前の首領は、平然と言葉を続ける。
「ワルド子爵だけではございませんよ。殿下も御承知の通り、我が『レコン・キスタ』は国境を越えて貴族の連帯を呼びかける組織でございますからな。ゲルマニアにも、ロマリアにも、ガリアにも、多くの同志が存在いたします」
ワルドは唖然とした。この期に及んでクロムウェルは、ウェールズの言葉を逆手に取って、『レコン・キスタ』の潜在戦力をアピールする気なのか!?
「無論、トリステインに根付きし同志も、子爵一人にとどまりません。我々がその気になれば、アルビオンと同じことを、いつどこの国でも始める事が出来るのですよ」
「なるほど。『レコン・キスタ』の基盤は、もはや磐石であるということか」
「ええ。――なれど、これ以上の機密は、さすがにお教えできません。無論、殿下が『レコン・キスタ』に参加して頂けると言うなら話は別でございますが」
ウェールズは、その言葉には苦笑する。
「道理だな。――だが大司教、機密も何も、もし私が君の要求を蹴った場合、この部屋から、はたして生きて退出させてもらえるのかな?」
そう言ったウェールズの視線は、あきらかにワルドを向いていた。
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(気付いているのか……俺の殺気を……!!)
ワルドは、かつてフーケに、嘘が下手だと指摘されたことを思い出していた。
ウェールズがいつから自分に目をつけていたのかは分からない。だがおそらく、停戦交渉を始める前から、自分を怪しんでいたとは考えにくい。もしニューカッスルにいた頃から眼を付けられていたとするなら、一軍の将として、いくら何でも無防備すぎる。
それとも――、
(泳がされていた、というのか……!? どうせ、大した事はできまいと、タカを括られ、見逃されていたということか……!?)
だが、ワルドがそう思った瞬間、ウェールズは静かに口を開いていた。
「そうではないよ」
一瞬、ワルドは、ウェールズが発したその言葉の意味が分からなかった。
誰に対しての、何に対しての否定の言葉なのか。
しかしウェールズは、そんなワルドの瞬時の疑問に答えるかのように、さらに言葉を付け足した。
「ニューカッスルで、君が私を見ていたように、私も君のことを見ていた。だから、君という貴族がどういう人間なのか、私なりに了解しているつもりだ」
「……」
「だからこそ、私の背を任せたのだ。『レコン・キスタ』のワルド子爵に、ではない。トリステイン魔法衛士隊長のワルド子爵に、でもない。胸中に抱く理想はともかく、あるがままの君という人間は、信ずるに価する。――そう思ったからだ」
その言葉が本気であったかどうかは分からない。
だが、そう言ったウェールズの瞳には、一分の曇りも後ろめたさも見えない、誠実な光が宿っていた。少なくともワルドには、そう見えた。
だが、その真っ直ぐすぎる視線は、むしろワルドの心を波立たせた。
信じたからだと言えば聞こえはいい。だがそれでも、間諜と疑ってなお自分を警戒すらしない野放図さは、ウェールズの器量というよりはやはり、ただ無視された――歯牙にもかけられなかった――としか解釈の仕様がないではないか。
だとすれば、この舐められ方は尋常ではない。
努力と才能によって、王宮のエリートたる魔法衛士の隊長職にまで上り詰めたワルドにとって、ここまで徹底的に甘く見られ、虚仮のように扱われた経験は、生まれてこのかた一度たりとも無いことであった。
――見くびりおって、この、若造がッッッ……!!
屈辱が理性を凌駕した瞬間、ワルドの手は杖にかかっていた。
もう詠唱は済ませてある。
杖に精神力を込めるだけで、このサーベル状の杖は、容易く眼前の貴公子の胸板を貫くはずだ。
トリステイン王宮魔法衛士隊長として磨き抜かれた動きは、文字通り目にも止まらぬ速度で――。
「無駄だよ、子爵」
ワルドの杖は止まっていた。
ウェールズの左胸。心臓の位置。
その青白く光る杖は、――しかし、眼前の皇太子の胸元から、それこそ紙一重の位置で止まっていた。スクウェアクラスの魔力を込められ、岩をも貫くはずのその“光の魔剣”は、ウェールズの服にケシ粒ほどの僅瑕さえ残さなかった。
ウェールズはワルドの目を見たまま微動だにしていない。
「……ワっ、ワルド、子爵……!?」
さすがのクロムウェルも、事の成り行きが読めずに、呆然としている。
ワルドが杖を止めたのだ。自らの意思で。――いや、そこにワルド自身の意思が働いていたかどうかも、かなり怪しい。何故なら杖を寸前で停止させた事実に、ワルド本人こそが一番驚いていたからだ。
(なっ……なんで……ッッッ!?)
理由はない。反射だ。
殺気を剥き出してなお、まったく一分の動揺すら見せぬウェールズの眼光。そして、その冷静な声音に、ワルドの肉体が自身の意思に反し、勝手に杖を停止させてしまったのだ。――そうとしか表現しようがない。
「無駄、とは……?」
かすれた声で、かろうじてワルドが尋ねる。
ウェールズは引きつった顔で杖を突きつけるスクウェアメイジに、こともなげに言う。
「お前が俺を殺すはずがないからだよ、ワルド」
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ウェールズは自分の事を『私』でも『僕』でもなく『俺』と言い、そしてワルドを、これまでのように爵位ではなく、その名で呼んだ。これがどういう事を意味するのか。
少なくともアルビオンで、『俺』という一人称を使うウェールズを見た者は、誰もいまい。
ワルドの心中がいかに混乱していても、さすがにその意味に気付かぬほど彼はバカではない。
だが、それでもワルドは抵抗するように叫ぶ。
「何を言っているっ!? 俺はいま、貴様を殺そうとしたんだぞッッ!!」
「だが、結局お前は、そうしなかっただろう?」
その言葉に、ワルドは絶句した。
殺すべき標的の言葉に動揺し、その心臓を貫くはずだった杖を止め、そしていま、標的の真摯な視線に晒されて口を開く事さえ出来ない自分……。
分かっている。
本当は、ワルドにも分かっているのだ。ニューカッスルにいた頃から。
この男は、自分を甘く見てなどいない。
それどころか、自分は、この貴公子の人物に惹かれつつある。
クロムウェルの器量を再確認する事で、一時はそういう自分を忘れ、ウェールズの価値を否定する事はできた。だが、忘れていたといっても忘却の彼方へ沈んだわけではない。その思いは、何かきっかけがあればすぐに浮上する。
王女アンリエッタにも、宰相マザリーニにも、大后マリアンヌにも、いや先代のトリステイン王にさえも、ワルドは自らの身命を捧げる価値があるとは、実は一度も思った事などない。
彼らは、ただ国権の象徴というだけの存在。ワルドにとって祖国の王家など、それ以上でものでは在り得ない。何故なら彼らはワルドから見れば、『レコン・キスタ』が提唱するところの“無能なる王家”以外の何者でもなかったのだから。
だが、このウェールズは違う。
ワルドは、生涯初めて『この男の子分になってもいい』と思える対象を発見したのだ。
クロムウェルが、彼を担ごうとするのも納得のいく話だ。この男の才能はともかく、そのカリスマはまさしく天性のものであろう。だが――、
(認めろと、いうのか……!!)
男が男を認めるとき、そこには並々ならぬ苦痛と自身への無力感を覚える場合がある。ウェールズの魅力に、半ば心を奪われかけている自分を認めるには、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドの気位は高すぎた。
「……ワルド……くん……?」
クロムウェルが恐る恐る口を開く。
いまの二人のやりとりを目にして、すっかり毒気を抜かれてしまったのだろう。そして、ウェールズは椅子から立ち上がると、硬い視線をクロムウェルに向けた。
「大司教、『イーグル』号の全乗員と地上の兵、そして我が父ジェームズの命を保障せよ」
「そっ、それでは……ッッッ!?」
クロムウェルが弾かれたようにウェールズを見上げる。
貴族派の首領が出した要求に、王党派の指導者が条件を突きつけた。即ち、この事態の意味するところは一つ。
「『レコン・キスタ』に参加しよう。――ただし首座には就かぬ。あくまで君の補佐役に回らせてもらう。それで異存はないな?」
「ウッ、ウェールズ殿下……!」
クロムウェルはもはや、完全にウェールズに呑まれていた。その表情に、先程までこの場を支配していた政治家の“顔”は、痕跡すら見出せない。
「ワルド」
振り返ったウェールズを、しかしワルドは茫然と見返す。
「本気なのかウェールズ……本気でお前は……!?」
だが、ウェールズの言葉は、ワルドとは対照的に迷いはなかった。
「やる以上は全力を出させてもらう。王制ではやれなかった政治も、やれなかった戦も、ここでならやれそうだしな。それに何より――」
ウェールズは、そこで言葉を切ってにやりと笑った。
「親父の尻拭いは、もう飽きたのだよ」
「ウェールズ……」
「ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド! 今日より俺の背中は貴様に任せよう。反論は一切認めぬ!!」
「一命を賭して!!」
もはや、ためらいは無かった。
ワルドは跪いていた。捧げるように杖を置き、帽子を脱ぎ、目を伏せていた。
あたかも父祖の王にそうするように。
その戦列艦が怪しいと思った根拠は、正直に言うと皆無に等しい。
だが、編隊から次々に離脱していく艦の中でも、何故か才人は、その一隻にフネから目が離せなかった。
そして、そのフネが突如発砲するに及んで、彼の疑念は確信に変わった。
フネの位置からしても、その砲撃が『イーグル』号を狙ったものでない事は歴然だ。ならば、ヤツラは何を撃っている?
「きゅいきゅいっ!! サイトっ、あれ見てっ!!」
シルフィードが空中を指し示す。例の艦の延長射線上――そこに一隻の小型艇が浮かんでいた。
「――ルイズ……!!」
才人には見えた。
その小船に、特徴的なピンクブロンドの少女が乗りこんでいるのを。
(冗談じゃねえ……!!)
やっとの事で発見した、その少女。
だが彼女は今、戦艦の放つ艦砲射撃に晒され、いつ直撃弾を喰らって、木っ端微塵になるか知れない状態だ。
(冗談じゃねえ……ッッッッッ!!)
才人は手綱を打った。
「急げっ!! ここまで来て、死なせてたまるかっ!!」
彼らの騎乗する巨大な風竜は、ぎゅい、と一声鳴くと、翼をはためかせ、一直線に才人の意識する方角へ飛行し始める。
「相棒いけねえ! 進路を変えろ!!」
才人の背から耳元に声が響く。
巨大なバストを押し付け、しがみ付いているシルフィードではない。
その金属的な声の所有者は、彼の佩剣。知恵持つ刃デルフリンガー。
だが、今の才人にその叫びを理解する余裕は無い。
「バカ野郎、悠長な事言ってる場合かっ! とっととアイツを助けなきゃ、死んじまうじゃねえか!!」
「だめだっ!! あの貴族の嬢ちゃんなら大丈夫だ!! このまま進めば、むしろ俺たちの方が危ねえんだよっ!!」
「わけの分からん事を言ってるんじゃねえっ!!」
自らの背に怒鳴り返す才人。そう言っている間にも彼が御する風竜は、矢のような速度で宙を突っ切り、例の艦の上空へと差し掛かっていた。
「だから……とにかくヤバイんだよっ!! このまま行けば、俺たちまで“虚無”の巻き添えになっちまう――って、だから、聞けってんだよヒラガサイトッッ!!」
だが、少年の意識には、その声はもはや届かない。
彼の脳中にあったのは、もはや確実にそれと分かる少女の顔――。
「ルイズゥゥゥゥゥッッッ!!!」
そのときだった。
彼の騎乗する風竜。その直下にあった戦列艦が、大爆発を起こしたのは。
才人は知らなかった。
少年と剣と韻竜を乗せたドラゴン。それは先程まで『イーグル』号に攻撃を仕掛けていた貴族派に属する竜騎士のものであったことを。
その禍々しい獣の陰影が、小型艇で脱出を図っていた彼らの目にどう映っていたのかを。
才人は不幸にも知らなかった。
「きゅいッッッ……!?」
突如巻き起こった大爆発の衝撃波は、直上にいた巨大な風竜の腹部をやすやすと切り裂き、その背の鞍にいた彼らは、あっさり空中に放り出される。
だが、才人が恐怖を覚える暇は無かった。彼の意識は、爆光の白い闇に包み込まれ、すでにして、肉体から弾き飛ばされていたのだから。
偉大なる始祖ブリミルが行使したという伝説の系統“虚無”はこの日、復活した。
だが、その担い手と使い魔は、浮遊大陸に於いて、互いに求め合いながらも、ついに出会うことは無かった。
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