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I/
陰気だとか根暗だとか、時折その痩せこけた頬に浮かぶ暗い笑みなどの欠点に目を瞑れ
ば、濤羅の働きぶりはルイズの予想よりもはるかに良かった。
着替えを手伝えと言った時はさすがに断られたが、大概の命令には黙って従うし、文句
を言ったことはただの一度もない。上下関係を教えるためと、あえて貧相な食事を与えも
したが、これならば普通の食事を与えても差し支えないだろう。そう思える程度には、ル
イズは濤羅のことを評価していた。
「ねえ、タオロー」
ベッドに横になりながら、足を組んで瞑目している従者に問いかける。返事は待たずと
もいい。眠っていないことは、この何度かですでに分かっている。
「あなたのいた世界の話を聞かせて」
濤羅の片眼が開かれる。何も映し出されていないようなその瞳を、わずかに気味悪く思
いながらも、ルイズは濤羅の話を心待ちにした。
濤羅が語る話は、いつもルイズの想像を超えたものばかりだった。別に、そのすべてを
ルイズは信じているわけではない。ただ、それでも十分面白かった。濤羅の語りはいつだ
って木訥で、もどかしくもあるが、それすらも話を彩るスパイスだと思えるほど。
「そうだな」
言って、濤羅は開いていた片目を再び閉じた。
待ち遠しい。
気づけば、ルイズは横になっていた体を起こして、枕を抱きしめていた。次に濤羅が目
を開いたときには、恥ずかしくなって平静を取り繕った。
そんなルイズを尻目に、濤羅はいつも通り抑揚に乏しい声で語り始めた。
「蘭陵王の話をしよう。昔、斉の国に蘭陵王という男がいた。彼は五百の騎兵でその何倍
もの大軍を退けたことがあるほど勇猛な将だった。それだけではない。与えられた果物、
当時は甘味は貴重だったというのに、それを惜しみなく部下に分け与えたり、恩賞として
十人もの美女を賜ったが、一人を選んで残りは辞退するという好漢ですらあった。
誠実で、謙虚で、武勲も優れている。だが、そんなものより何よりも優れているものが、
彼にはあった。何だかわかるか?」
「わからないわ。いったい何なの?」
「美貌だ。彼はその全てが霞んでしまうほどの美丈夫だった。声もまた、その美しさに違
わぬ程の美声であったという。音容兼美と称されるほどだ。だが、その美しさが過ぎた。
部下が彼に見惚れてしまい、士気が十分に高まらない。これでは戦いにならぬと困った
のが蘭陵王だ。いくら彼とて、一人で軍団を相手にすることはできない」
「それで、どうなったの。彼はどうしたの?」
ルイズが話をせがむと、濤羅の口の端がわずかに歪んだ。どうやらここが話の肝らしい。
乗せられたことに気づいて、ルイズの顔が赤く染まる。文句を言おうと口を開くが、そ
れよりも早く、濤羅が続きをつないだ。
「獰猛な仮面を被り、その顔を隠したのさ。月が雲に隠れるように」
怒りも忘れて、ルイズはぽかんと口をあける。まさかそんな手段があるとは。驚いてい
ると、やおら濤羅の顔が険しく変化した。ルイズは視線を一度も外していないというのに、
いつの間にか立ち上がってもいた。
「な、なに、どうしたの?」
目を白黒させるルイズに、濤羅の手が突き出された。
「刀を。どこかが、襲撃されている」
II/
濤羅が眠っていた時間は、彼の予想よりもはるかに短いものだった。豪軍に付けられた
傷の深さを鑑みるに、これだけ癒えるには一週や二週では到底足りない。だというのに、
濤羅が召喚されてから、まだ二日しかたっていないという。見立てを遙かに上回るほどの
治癒の具合に、濤羅は感嘆の念を禁じえなかった。
「魔法というのは、すごいものだな」
食堂へと向かう途中、与えられた着替えの上から傷をなでつけると、濤羅はしみじみと
言葉を漏らした。それを耳聡く聞きつけたルイズは、誇らしげにその薄い胸を張った。
「そうでしょう。アンタみたいな平民には一生かかっても縁がないような治療の薬を使っ
てもらったもの。すごくて当然よ」
言うからには、よほど高価だったのだろう。具体的には告げられていないが、このいか
にも自尊心の高そうな主がこれだけ口にするのだ。生半な額ではあるまい。
返すべき恩の大きさを、改めて実感する濤羅。やはりあの時、自分は兄弟子に殺さ
れておくべきだったのかもしれない。そんな思いが、濤羅の胸をかすめる。
「こら、何ちんたら歩いているのよ。アンタのせいで昼食に遅れそうなんだから、少し
は急ぎなさい」
歩みが鈍った濤羅に、ルイズのきつい叱責が飛ぶ。事実、状況を把握するためと濤羅が
いくつもの質問をしたためにかかった時間はさほど短くない。
主の言葉にうなずくと、濤羅はその足を速めた。先導するルイズの三歩後ろを、言われ
たとおりに付き従う。
そこに、紫電掌と恐れ、敬われた男の面影はない。幽鬼のようなヒトガタが一つ、少女
の背に付いているだけである。
ルイズが多弁なのもそのためだった。何かを話していないと、死に引き込まれてしまい
そうだ。そう、ルイズの背後に立つ男は、すでに骸である。
食堂までの道のりを、これほどまでに長く感じたのは初めてだった。首筋に流れる嫌な
汗を、ルイズは濤羅に見せぬように拭う。恐れなど見せられるはずもなかった。自らの使
い魔を恐れる貴族など、メイジですらない。
その矜持だけがルイズを支えていた――
III/
その頭頂部周辺が見事に磨きあがった禿頭の男の姿を認めたルイズの歩みが、ぴたりと
止まった。男の方も、こちらに気付いたのか相好を崩して、濤羅たちへと歩みよってくる。
濤羅の知らぬ――この世界に知り合いなどいないのだから当然だ――男だった。とはい
え、想像はつく。四十を超えたか超えてないかといった風貌は、学校という場では教師以
外ありえないだろう。
そしてその予想は、ルイズが一礼をしたことで証明された。
「ごきげんよう、ミスタ・コルベール」
「ごきげんよう、ミス・ヴァリエール。急がなければ、昼食が始まってしまうよ。
それはそうと、君の使い魔は目を覚ましたようだね。どうだい、調子は?」
最後の言葉は、濤羅に向けられたものだった。首を振って問題ないことを伝える。
「そうか、それはよかった。随分とひどい怪我だったものでね。ミス・ヴァリエールと同
じく、私も心配していたんだ」
「ミスタ・コルベール!!」
顔を赤らめて抗議するルイズを見て、コルベールは相好を崩した。いかにも好々爺とい
った感じの、人好きのする笑みだった。
「自らの使い魔を心配するのは悪い事じゃあるまい。まして相手は人間だ。優しさは美徳
だよ、ミス・ヴァリエール。
ところで、使い魔君の昼食をどうするのか考えているのかね? どうやら、食堂に連れ
て行くみたいだが、彼の分は用意されていまい」
「ええ、今から言って、コックに用意してもらおうかと」
それを聞いて、コルベールはふむ、と漏らすと顎をなでた。思案気な表情をしばらく浮
かべているとよし、と言ってルイズへと向きなおる。
「ミス・ヴァリエール。それなら、少しだけこの使い魔君と会話をさせてもらってもよろ
しいかな? なんせ彼は病人だ。消化の良いものを準備するのに、いささか時間がかかる
だろう」
コルベールの頼みを聞いたルイズの顔が、わずかに歪む。使い魔のために、わざわざル
イズが直接コックに頼みに行かなければならないのだ。それは少なからずルイズの自尊心
を傷つける。
とはいえ、教師のコルベールの願いをはねつけるほどではなかった。不承不承といった
感じで、ルイズの首が縦に動く。
「そうか、よかった。ありがとう、ミス・ヴァリエール。ああ、呼び止めてすまなかった。
急いだ方がいい。もうすぐ、本当に礼拝が始まってしまう」
その声に押されて、ルイズは再び歩き出した。一度だけ、濤羅とコルベールの方をちら
りと振り返ったが、あとは早足で食堂の門をくぐっていった。
IV/
「それで、俺に話とは」
言葉とは裏腹に、会話を拒絶するような響きがそこにはあった。そして事実、濤羅には
目の前の男と話をするつもりなどなかった。煩わしくすらある。
そんな濤羅の内心を知ってか知らずが、コルベールは穏やかな笑みを浮かべてすらいた。
「ああ、すまないね。無理に引きとめて。何分、人の使い魔など始めてみるものだから、
興味深くて。そういえば、君の名前は何と言うんだい。使い魔君、ではしまらないだろう」
わずかな逡巡の後、濤羅はその口を開いた。あえて隠す程のものでもない。隠すほどの、
気力もない。
かつては誇りとともに名乗ったその名を、濤羅はゴミでも捨てるように口にした。
「孔、孔濤羅(こん・たおろー)」
「なるほど、コン君か。変わってはいるが、良い響きだと思うよ」
「世辞はいい。要件はなんだ」
「つれないね。まあいい。話は、君の体についてだ。傷の治療にあたった水の術師から聞
いたことなんだが」
「内臓がボロボロだと言うんだろう?」
意図的に唇を吊り上げていった濤羅の言葉に、コルベールは初めて動揺を見せた。焦る
まま、疑問を口にする。
「ミス・ヴァリエールに聞いていたのかい。いや、彼女はまだそのことを知らぬはずだが」
「自分の体だ。自分が一番よく知っている。それに気付かぬはずがないだろう。ここまで
傷んで、自覚の一つもない阿呆はいまい」
自ら余命幾許もないと告げながらも、濤羅の口調はむしろ涼やかですらあった。これは、
自らの命に見切りをつけている亡者の声だ。聞く者の心を震え上がらせる。
だが、コルベールの心に湧きあがったのは、恐れではなく憐みだった。悲しみといって
もいい。戦火を離れたこの学び舎で、再びこのような眼をした若者に出会うとは。
何より、コルベールの目の前に立つ男は、過去の彼自身でもあった。過ちを犯した自分
に掛けられる言葉など、そう多くはない。
コルベールにできるのは、ただ願うことのみ。
それを、濤羅に伝えるにはどうすればいいのか。
「『サモン・サーヴァント』は――」
口ごもって、コルベールは自問する。自分は何が言いたいのだろう――と、脳裏をヴァ
リエール嬢の姿がよぎる。ようやく何を言うべきかを思い付いた。
「『サモン・サーヴァント』で呼び出される使い魔は、そのメイジにとって最も相応しい
ものが呼び出されるのが通例だ。得意とする系統、性格、嗜好――本人が気づいていない
何かすらも含めて、召喚される使い魔は選ばれる」
「それで? この半死人が、ルイズにとって最も相応しい。それだけ彼女ができそこない
だと、そう言いたいのか?」
「違う。僕が言いたいのは、主にとって相応しい使い魔が呼び出されるなら、その逆もあ
りえるってことだ。使い魔にとっても相応しい主が、『サモン・サーヴァント』の先には
待ち受けてもいる。そう言いたいんだよ。
君は自分を半死人だと言ったけれど、それはきっと意味があることなんだ。君が呼び出
されたことは、きっと意味があるはずなんだ。ミス・ヴァリエールにとってだけじゃない。
無論、君にとってもだ」
聞くに堪えない戯言だった。コルベールの言を信じるならば、ルイズにはせいぜい屍鬼
使いの才能があるというだけだ。それに濤羅は引き寄せられたにすぎない。
自分に何か意味があるなど、今更信じられるはずもなかった。
だというのに、心臓だけは猛るように波打っていて、濤羅はコルベールを見ていること
ができなくなった。
と、ちょうどそこに、食堂に続く大きな門から、メイド服を着た少女がこちらに歩いて
くるのを視界の隅にとらえた。こちらの姿を認めると、こちらに向かってくるあたり、濤
羅の食事が用意できたようだ。
「ここまでのようだな」
言って、コルベールに背を向ける。その背に、立ち尽くすコルベールの声が掛けられた。
「僕の言ったことを、忘れないでくれ、コン君。君は、今望まれてここにいるんだ」
その言葉に、どれほどの思いが込められていただろう。それがわかっていたというのに、
濤羅の心は、毛ほども動かされることはなかった。言葉は意味を持たず、ただ音となって
虚しく空気を震わせるのみ。
それがどこか少しだけ、濤羅には悲しかった。
V/
そうして数日が経った。濤羅の心境に変化はいまだ訪れない。
床に置かれた皿から食事をとるように言われた時も、教室を襲うルイズの失敗を目の当
たりにした時も、貴族の少年に給仕の少女が絡まれている時ですら、濤羅はただ黙ってそ
れを受け入れた。せいぜいが、落ちぶれた自分を蔑むかのように、冷笑を浮かべるだけだ。
もはやそこに、義侠に生きた、あるいは、復讐に身を焦がした濤羅はいなかった。
一度だけ、ルイズの服、特に下着を洗うように言われた時だけは、めずらしく狼狽した
様子を見せたが、それをするならば自分は使い魔をやめるとすら告げた濤羅の決意が本物
だと悟ったルイズは、二度と洗濯をさせようとはしなかった。
ただ、そんな濤羅だが、時折優しさのようなものを見せることがあった。ルイズが我儘
を漏らしたときや、話をせがんだときには、目尻を和らがせるのだ。その後は、決まって
苦々しげに表情を歪めるのだが、その理由を、濤羅が主に告げたことはない。
亡くした妹の面影を主に重ねて見ているなどと、どの口で言える。
だが、美しかった過去は毒のように、胸の奥を犯す。あるいは、砂漠で迷った旅人が、
一筋の滴で渇きを癒す様に似ているのかもしれない。
惨めだと、それを知りながらも、濤羅は麻薬のようなそれを手放すことができなかった。
今宵もそうだった。ルイズにせがまれるままに、自分が知る中で興味を引くだろう、面
白がるだろうと思う話を考えていた。幼き日の妹に語ったように、いつの間にか蘭陵王の
話をしてしまっていた。
ルイズの続きを待ちわびる瞳がまぶしかった。死人が、それに耐えられるはずもない。
駄目だ、駄目だと思いつつも、ついには濤羅は最後まで蘭陵王の話を終えてしまった。
大きく口を褪せて呆けているルイズが恨めしくも、愛らしい。そうして、濤羅の顔にい
つもの苦々しげな表情が浮かぼうとした時だった。かすかな揺れを、濤羅は感じた。
内家の達人たる濤羅の五感は、唯人よりもはるかに優れている。いや、優れているので
はない。人が気付きながらも知らぬそれを、濤羅の五感は知覚しているのだ。
流れる風すら、濤羅にとっては色があり、音があり、触りがあり、匂いがある。
その濤羅の五感が告げていた。先ほどの揺れは、ただ事ではないと。微細ながらも続く
それが、濤羅の推測を裏付けていた。
放っておけばいい。どこか頭の片隅で、濤羅に告げる声がある。だが、そうできるほど、
今の濤羅の心は平静でいられなかった。
今と過去と、少女に心をかき乱された濤羅は、自らも気づかぬうちに立ち上がり、主に
その手を差し出していた。
「刀を。どこかが、襲撃されている」
VI
「ちぃっ!」
自らが作り出したゴーレムに腰掛けながら、『土くれ』のフーケは忌々しげに舌打ちを
した。まさか、自分が宝物庫の壁に錬金をしている様を見ていた生徒がいるなんて。
襲いかかる風の刃をゴーレムの腕で受け止める。悔しいが反撃はできない。相手は空に
浮かんでいるのだ。
フーケとてトライアングルクラス。飛ばすような魔法を知らぬでもないが、精神力が惜
しい。風竜を相手に中てる自信を、フーケは持ち合わせていなかった。
幸い、顔は見られていない。ここは逃げだ、ロングビルとして次のチャンスを待つべき
だと、フーケの盗賊としての勘がそう告げていた。
だが、それすらも空中の敵相手では容易なことではなかった。時にはドット、時にはラ
イン、時にはトライアングル。状況に即して、様々な魔法が上空から襲いかかる。それは、
倒すことを目的にしてはいない。フーケを逃がさぬこと、ただそれだけのために攻撃は行
われていた。
狡猾な相手だ。時が経てば経つほどフーケが不利になることを知っている。精神力を気
にせず魔法を行使しているのは、誰かが駆けつけてくることを見越しているに違いない。
「ええい、まさかトライアングルクラスの生徒がいるなんて!」
ゴーレムの足元を襲う氷柱を回避。これでまた、逃げるルートを一つ潰された。だが、
焦った様子とは裏腹に、フーケの内心はさほど乱れてはいない。この何倍も危ない橋を渡
って生き延びたことすらあるのだ。
そして、空の相手は気付いているだろうか。フーケが避け、受けている呪文を選んでい
ることに。逃げを選びながらも、フーケは極力音を立てぬようにしていた。だからこそ、
数分を超える戦闘をしてなお、誰の助けも来ない。
それだけではない。一時でも早く精神力が尽きるよう、計算して立ちまわってすらいた。
『土くれ』のフーケ。盗賊としてだけではなく、トライアングルとしても非凡な才能の
持ち主だった。そして、幸運も――
「待ちなさい!」
声を聞いて、フーケはついに来たか、と舌打ちをした。だが、声の主を知って、フード
の下でにんまりと笑みを浮かべた。
助けに来たのはなんと、『ゼロ』のルイズだった。応援としては、最低最悪の部類だ。
心なしか、空の敵もほぞをかんでいるような気すらする。
人質に、とれるのだ――
ようやく、ミスを帳消しにできるだけの降ってわいた幸運をつかもうと、ゴーレムをル
イズへと向ける。邪魔をする空からの魔法を自身の魔法で打ち消して、フーケはゴーレム
に命令を下した。
「あの子を捕まえなさい!」
VI/
えてして本当の不運とは、本人が気づかぬうちに既に訪れている。
運不運を語るなら、まず間違いなく今日のフーケは不運だった。それも本当の類の――
「あの子を捕まえなさい!」
あの子とは、ルイズのことだろう。そう理解すると、濤羅は命令も待たずに飛び出した。
ここに来るまでに既に調息を終えていた濤羅の体は、氣に満ち満ちている。その彼の疾
走はどれほどのものだったろうか。ただ地面を蹴り出したのではない。足を動かすための
腱と筋、それに体内に流れる血液のリズムを把握し、同調させた濤羅の踏み込みは、果た
して人の限界すらも飛び越える。
三歩で、濤羅はゴーレムの内まで潜り込んだ。30メイルはあったろう。フーケの視線は、
未だルイズの辺りにとどまっている。続く一歩で、濤羅はゴーレムの太ももまで跳躍した。
軽巧の達人ともなれば、腿力を込める足掛かりすらあれば重力にすら縛られない。残る
距離を、ゴーレムを蹴りつけて零にすると、濤羅の眼前にはフーケの呆けた顔があった。
「愚か者」
憐憫すら催さず、濤羅の手がゆらりとフーケの額へと伸ばされる。
愚か者はそっちだ――フーケはせせら笑った。メイジとはいえ、フーケは盗賊だ。身の
こなしには自信がある。目の前にいきなり現れたのは驚いたが、ただそれだけだ。
このフーケを相手に、いかにも鈍間なこの手が何だというのか。
笑みのままに濤羅の手をを撥ね退けようとして――その瞬間に、フーケの意識は闇へと
落ちた。その一瞬、彼女の頭の中は、なぜという疑問でいっぱいだった。
なぜ、男は目の前にいきなり現れたのか。なぜ、確かに払ったはずなのに自分の腕は、
空を切ったのか。なぜ、男の掌に触れられただけで自分は意識を失うのか。
その答えを知る濤羅は、すでに身を翻し、崩れ落ちるゴーレムから飛び降りていた。
VII/
「ふむ、まさかミス・ロングビルが土くれのフーケじゃったとはの」
オールド・オスマンは目の前の生徒たちの報告を聞いて、感慨深そうに呟いた。
「ええ、まさか私も、彼女がフーケだとは思いもしませんでした……」
何となくばつの悪さを感じたルイズは、恐縮そうにそういった。残る二人は無言で立っ
ている。オールド・オスマンを前にしても態度を崩さない。ルイズにはそれが恨めしくて
仕方なかった。
「まあ、よい。被害もなく捕まえられたのじゃ。安全対策を見直さねばならんが、不幸中
の幸いじゃて。生徒だけだというのに、ようやってくれた」
「いえ、そんな……」
本来なら、貴族として当然のことをしたまでだと言いたいところだったが、それだけは
口にしなかった。何しろ、ルイズは何もしていないのだ。フーケを足止めしていたのはタ
バサで、フーケを倒したのは――いまだ何をしたのかよくわからないが――濤羅なのだ。
使い魔の功は主の功。だとしても、何も分からず、命すら下さず見ていただけの自分が
偉そうにできるはずもなかった。二人とも誇りもしないのが拍車をかける。
そんなルイズの心境を知らぬオスマンは、好々爺といった笑みを浮かべて何度も礼を告
げてくる。二人は黙っているのでルイズが答える。後ろめたい。悪循環だ。
「王国の方には、このことを伝えておいた。二人には、追って恩賞が下されるじゃろう」
さらに追い打ちをかけるように、オスマンはとんでもないことを口にした。どきりとし
たのはルイズだ。この中で除外されるとすれば、彼女が一番何もしていない。
「二人? 私と、タバサと、使い魔の濤羅。これで三人ですが」
オールド・オスマンは、申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ないんじゃが、平民の、それも使い魔であるタオロー君には、何も褒賞を与える
ことはできないんじゃ」
「何を、そんな!」
相手が学院長だということも忘れて、ルイズは叫んだ。隣に立つタバサの目も、わずか
に見開かれている。濤羅だけが変わらず、平静のままに立っていた。
「ああ、わかっておる。わしも頑張ってくれたタオローくんには、何がしか報いたい。
じゃからの、ちょいとばかし、水の秘薬を彼に与えようと思う。それでその体が治るわ
けではなかろうが、いくらか楽にはなるじゃろう」
その言葉に、確かに部屋の空気が一度固まった。自らの発言が失言だったとオスマンが
気づく前に、ルイズは我も忘れてタオローへと詰め寄っていた。貴族の外聞もなしに襟首
を掴んで問いただす。
「ちょ、ちょっと、体が治るってどういうことよ! アンタの怪我、治ったんじゃなかっ
たの!!」
そこでようやく、オスマンは濤羅がルイズに何も告げていないことを悟った。隠そうか、
隠すまいか。逡巡は一瞬だった。いずれは知らねばならぬことだ。
「落ち着いて聞くんじゃ、ミス・ヴァリエール。君が読んだサーヴァントはな――」
乾いた音が、室内に響く。
腕を振りぬいたルイズは、何も言わぬまま学院長室を後にした。床に数滴、何か零れた
跡が残っている。
「痛い、な」
張られた頬を撫でつけながら、濤羅は一言だけぽつりと漏らした。傍らに立つタバサが
冷たく濤羅を見上げるが、それに気付かぬふりをして、もう一度だけ濤羅はつぶやいた。
「本当に、痛い……」
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I/
陰気だとか根暗だとか、時折その痩せこけた頬に浮かぶ暗い笑みなどの欠点に目を瞑れ
ば、濤羅の働きぶりはルイズの予想よりもはるかに良かった。
着替えを手伝えと言った時はさすがに断られたが、大概の命令には黙って従うし、文句
を言ったことはただの一度もない。上下関係を教えるためと、あえて貧相な食事を与えも
したが、これならば普通の食事を与えても差し支えないだろう。そう思える程度には、ル
イズは濤羅のことを評価していた。
「ねえ、タオロー」
ベッドに横になりながら、足を組んで瞑目している従者に問いかける。返事は待たずと
もいい。眠っていないことは、この何度かですでに分かっている。
「あなたのいた世界の話を聞かせて」
濤羅の片眼が開かれる。何も映し出されていないようなその瞳を、わずかに気味悪く思
いながらも、ルイズは濤羅の話を心待ちにした。
濤羅が語る話は、いつもルイズの想像を超えたものばかりだった。別に、そのすべてを
ルイズは信じているわけではない。ただ、それでも十分面白かった。濤羅の語りはいつだ
って木訥で、もどかしくもあるが、それすらも話を彩るスパイスだと思えるほど。
「そうだな」
言って、濤羅は開いていた片目を再び閉じた。
待ち遠しい。
気づけば、ルイズは横になっていた体を起こして、枕を抱きしめていた。次に濤羅が目
を開いたときには、恥ずかしくなって平静を取り繕った。
そんなルイズを尻目に、濤羅はいつも通り抑揚に乏しい声で語り始めた。
「蘭陵王の話をしよう。昔、斉の国に蘭陵王という男がいた。彼は五百の騎兵でその何倍
もの大軍を退けたことがあるほど勇猛な将だった。それだけではない。与えられた果物、
当時は甘味は貴重だったというのに、それを惜しみなく部下に分け与えたり、恩賞として
十人もの美女を賜ったが、一人を選んで残りは辞退するという好漢ですらあった。
誠実で、謙虚で、武勲も優れている。だが、そんなものより何よりも優れているものが、
彼にはあった。何だかわかるか?」
「わからないわ。いったい何なの?」
「美貌だ。彼はその全てが霞んでしまうほどの美丈夫だった。声もまた、その美しさに違
わぬ程の美声であったという。音容兼美と称されるほどだ。だが、その美しさが過ぎた。
部下が彼に見惚れてしまい、士気が十分に高まらない。これでは戦いにならぬと困った
のが蘭陵王だ。いくら彼とて、一人で軍団を相手にすることはできない」
「それで、どうなったの。彼はどうしたの?」
ルイズが話をせがむと、濤羅の口の端がわずかに歪んだ。どうやらここが話の肝らしい。
乗せられたことに気づいて、ルイズの顔が赤く染まる。文句を言おうと口を開くが、そ
れよりも早く、濤羅が続きをつないだ。
「獰猛な仮面を被り、その顔を隠したのさ。月が雲に隠れるように」
怒りも忘れて、ルイズはぽかんと口をあける。まさかそんな手段があるとは。驚いてい
ると、やおら濤羅の顔が険しく変化した。ルイズは視線を一度も外していないというのに、
いつの間にか立ち上がってもいた。
「な、なに、どうしたの?」
目を白黒させるルイズに、濤羅の手が突き出された。
「刀を。どこかが、襲撃されている」
II/
濤羅が眠っていた時間は、彼の予想よりもはるかに短いものだった。豪軍に付けられた
傷の深さを鑑みるに、これだけ癒えるには一週や二週では到底足りない。だというのに、
濤羅が召喚されてから、まだ二日しかたっていないという。見立てを遙かに上回るほどの
治癒の具合に、濤羅は感嘆の念を禁じえなかった。
「魔法というのは、すごいものだな」
食堂へと向かう途中、与えられた着替えの上から傷をなでつけると、濤羅はしみじみと
言葉を漏らした。それを耳聡く聞きつけたルイズは、誇らしげにその薄い胸を張った。
「そうでしょう。アンタみたいな平民には一生かかっても縁がないような治療の薬を使っ
てもらったもの。すごくて当然よ」
言うからには、よほど高価だったのだろう。具体的には告げられていないが、このいか
にも自尊心の高そうな主がこれだけ口にするのだ。生半な額ではあるまい。
返すべき恩の大きさを、改めて実感する濤羅。やはりあの時、自分は兄弟子に殺さ
れておくべきだったのかもしれない。そんな思いが、濤羅の胸をかすめる。
「こら、何ちんたら歩いているのよ。アンタのせいで昼食に遅れそうなんだから、少し
は急ぎなさい」
歩みが鈍った濤羅に、ルイズのきつい叱責が飛ぶ。事実、状況を把握するためと濤羅が
いくつもの質問をしたためにかかった時間はさほど短くない。
主の言葉にうなずくと、濤羅はその足を速めた。先導するルイズの三歩後ろを、言われ
たとおりに付き従う。
そこに、紫電掌と恐れ、敬われた男の面影はない。幽鬼のようなヒトガタが一つ、少女
の背に付いているだけである。
ルイズが多弁なのもそのためだった。何かを話していないと、死に引き込まれてしまい
そうだ。そう、ルイズの背後に立つ男は、すでに骸である。
食堂までの道のりを、これほどまでに長く感じたのは初めてだった。首筋に流れる嫌な
汗を、ルイズは濤羅に見せぬように拭う。恐れなど見せられるはずもなかった。自らの使
い魔を恐れる貴族など、メイジですらない。
その矜持だけがルイズを支えていた――
III/
その頭頂部周辺が見事に磨きあがった禿頭の男の姿を認めたルイズの歩みが、ぴたりと
止まった。男の方も、こちらに気付いたのか相好を崩して、濤羅たちへと歩みよってくる。
濤羅の知らぬ――この世界に知り合いなどいないのだから当然だ――男だった。とはい
え、想像はつく。四十を超えたか超えてないかといった風貌は、学校という場では教師以
外ありえないだろう。
そしてその予想は、ルイズが一礼をしたことで証明された。
「ごきげんよう、ミスタ・コルベール」
「ごきげんよう、ミス・ヴァリエール。急がなければ、昼食が始まってしまうよ。
それはそうと、君の使い魔は目を覚ましたようだね。どうだい、調子は?」
最後の言葉は、濤羅に向けられたものだった。首を振って問題ないことを伝える。
「そうか、それはよかった。随分とひどい怪我だったものでね。ミス・ヴァリエールと同
じく、私も心配していたんだ」
「ミスタ・コルベール!!」
顔を赤らめて抗議するルイズを見て、コルベールは相好を崩した。いかにも好々爺とい
った感じの、人好きのする笑みだった。
「自らの使い魔を心配するのは悪い事じゃあるまい。まして相手は人間だ。優しさは美徳
だよ、ミス・ヴァリエール。
ところで、使い魔君の昼食をどうするのか考えているのかね? どうやら、食堂に連れ
て行くみたいだが、彼の分は用意されていまい」
「ええ、今から言って、コックに用意してもらおうかと」
それを聞いて、コルベールはふむ、と漏らすと顎をなでた。思案気な表情をしばらく浮
かべているとよし、と言ってルイズへと向きなおる。
「ミス・ヴァリエール。それなら、少しだけこの使い魔君と会話をさせてもらってもよろ
しいかな? なんせ彼は病人だ。消化の良いものを準備するのに、いささか時間がかかる
だろう」
コルベールの頼みを聞いたルイズの顔が、わずかに歪む。使い魔のために、わざわざル
イズが直接コックに頼みに行かなければならないのだ。それは少なからずルイズの自尊心
を傷つける。
とはいえ、教師のコルベールの願いをはねつけるほどではなかった。不承不承といった
感じで、ルイズの首が縦に動く。
「そうか、よかった。ありがとう、ミス・ヴァリエール。ああ、呼び止めてすまなかった。
急いだ方がいい。もうすぐ、本当に礼拝が始まってしまう」
その声に押されて、ルイズは再び歩き出した。一度だけ、濤羅とコルベールの方をちら
りと振り返ったが、あとは早足で食堂の門をくぐっていった。
IV/
「それで、俺に話とは」
言葉とは裏腹に、会話を拒絶するような響きがそこにはあった。そして事実、濤羅には
目の前の男と話をするつもりなどなかった。煩わしくすらある。
そんな濤羅の内心を知ってか知らずが、コルベールは穏やかな笑みを浮かべてすらいた。
「ああ、すまないね。無理に引きとめて。何分、人の使い魔など始めてみるものだから、
興味深くて。そういえば、君の名前は何と言うんだい。使い魔君、ではしまらないだろう」
わずかな逡巡の後、濤羅はその口を開いた。あえて隠す程のものでもない。隠すほどの、
気力もない。
かつては誇りとともに名乗ったその名を、濤羅はゴミでも捨てるように口にした。
「孔、孔濤羅(こん・たおろー)」
「なるほど、コン君か。変わってはいるが、良い響きだと思うよ」
「世辞はいい。要件はなんだ」
「つれないね。まあいい。話は、君の体についてだ。傷の治療にあたった水の術師から聞
いたことなんだが」
「内臓がボロボロだと言うんだろう?」
意図的に唇を吊り上げていった濤羅の言葉に、コルベールは初めて動揺を見せた。焦る
まま、疑問を口にする。
「ミス・ヴァリエールに聞いていたのかい。いや、彼女はまだそのことを知らぬはずだが」
「自分の体だ。自分が一番よく知っている。それに気付かぬはずがないだろう。ここまで
傷んで、自覚の一つもない阿呆はいまい」
自ら余命幾許もないと告げながらも、濤羅の口調はむしろ涼やかですらあった。これは、
自らの命に見切りをつけている亡者の声だ。聞く者の心を震え上がらせる。
だが、コルベールの心に湧きあがったのは、恐れではなく憐みだった。悲しみといって
もいい。戦火を離れたこの学び舎で、再びこのような眼をした若者に出会うとは。
何より、コルベールの目の前に立つ男は、過去の彼自身でもあった。過ちを犯した自分
に掛けられる言葉など、そう多くはない。
コルベールにできるのは、ただ願うことのみ。
それを、濤羅に伝えるにはどうすればいいのか。
「『サモン・サーヴァント』は――」
口ごもって、コルベールは自問する。自分は何が言いたいのだろう――と、脳裏をヴァ
リエール嬢の姿がよぎる。ようやく何を言うべきかを思い付いた。
「『サモン・サーヴァント』で呼び出される使い魔は、そのメイジにとって最も相応しい
ものが呼び出されるのが通例だ。得意とする系統、性格、嗜好――本人が気づいていない
何かすらも含めて、召喚される使い魔は選ばれる」
「それで? この半死人が、ルイズにとって最も相応しい。それだけ彼女ができそこない
だと、そう言いたいのか?」
「違う。僕が言いたいのは、主にとって相応しい使い魔が呼び出されるなら、その逆もあ
りえるってことだ。使い魔にとっても相応しい主が、『サモン・サーヴァント』の先には
待ち受けてもいる。そう言いたいんだよ。
君は自分を半死人だと言ったけれど、それはきっと意味があることなんだ。君が呼び出
されたことは、きっと意味があるはずなんだ。ミス・ヴァリエールにとってだけじゃない。
無論、君にとってもだ」
聞くに堪えない戯言だった。コルベールの言を信じるならば、ルイズにはせいぜい屍鬼
使いの才能があるというだけだ。それに濤羅は引き寄せられたにすぎない。
自分に何か意味があるなど、今更信じられるはずもなかった。
だというのに、心臓だけは猛るように波打っていて、濤羅はコルベールを見ていること
ができなくなった。
と、ちょうどそこに、食堂に続く大きな門から、メイド服を着た少女がこちらに歩いて
くるのを視界の隅にとらえた。こちらの姿を認めると、こちらに向かってくるあたり、濤
羅の食事が用意できたようだ。
「ここまでのようだな」
言って、コルベールに背を向ける。その背に、立ち尽くすコルベールの声が掛けられた。
「僕の言ったことを、忘れないでくれ、コン君。君は、今望まれてここにいるんだ」
その言葉に、どれほどの思いが込められていただろう。それがわかっていたというのに、
濤羅の心は、毛ほども動かされることはなかった。言葉は意味を持たず、ただ音となって
虚しく空気を震わせるのみ。
それがどこか少しだけ、濤羅には悲しかった。
V/
そうして数日が経った。濤羅の心境に変化はいまだ訪れない。
床に置かれた皿から食事をとるように言われた時も、教室を襲うルイズの失敗を目の当
たりにした時も、貴族の少年に給仕の少女が絡まれている時ですら、濤羅はただ黙ってそ
れを受け入れた。せいぜいが、落ちぶれた自分を蔑むかのように、冷笑を浮かべるだけだ。
もはやそこに、義侠に生きた、あるいは、復讐に身を焦がした濤羅はいなかった。
一度だけ、ルイズの服、特に下着を洗うように言われた時だけは、めずらしく狼狽した
様子を見せたが、それをするならば自分は使い魔をやめるとすら告げた濤羅の決意が本物
だと悟ったルイズは、二度と洗濯をさせようとはしなかった。
ただ、そんな濤羅だが、時折優しさのようなものを見せることがあった。ルイズが我儘
を漏らしたときや、話をせがんだときには、目尻を和らがせるのだ。その後は、決まって
苦々しげに表情を歪めるのだが、その理由を、濤羅が主に告げたことはない。
亡くした妹の面影を主に重ねて見ているなどと、どの口で言える。
だが、美しかった過去は毒のように、胸の奥を犯す。あるいは、砂漠で迷った旅人が、
一筋の滴で渇きを癒す様に似ているのかもしれない。
惨めだと、それを知りながらも、濤羅は麻薬のようなそれを手放すことができなかった。
今宵もそうだった。ルイズにせがまれるままに、自分が知る中で興味を引くだろう、面
白がるだろうと思う話を考えていた。幼き日の妹に語ったように、いつの間にか蘭陵王の
話をしてしまっていた。
ルイズの続きを待ちわびる瞳がまぶしかった。死人が、それに耐えられるはずもない。
駄目だ、駄目だと思いつつも、ついには濤羅は最後まで蘭陵王の話を終えてしまった。
大きく口を褪せて呆けているルイズが恨めしくも、愛らしい。そうして、濤羅の顔にい
つもの苦々しげな表情が浮かぼうとした時だった。かすかな揺れを、濤羅は感じた。
内家の達人たる濤羅の五感は、唯人よりもはるかに優れている。いや、優れているので
はない。人が気付きながらも知らぬそれを、濤羅の五感は知覚しているのだ。
流れる風すら、濤羅にとっては色があり、音があり、触りがあり、匂いがある。
その濤羅の五感が告げていた。先ほどの揺れは、ただ事ではないと。微細ながらも続く
それが、濤羅の推測を裏付けていた。
放っておけばいい。どこか頭の片隅で、濤羅に告げる声がある。だが、そうできるほど、
今の濤羅の心は平静でいられなかった。
今と過去と、少女に心をかき乱された濤羅は、自らも気づかぬうちに立ち上がり、主に
その手を差し出していた。
「刀を。どこかが、襲撃されている」
VI
「ちぃっ!」
自らが作り出したゴーレムに腰掛けながら、『土くれ』のフーケは忌々しげに舌打ちを
した。まさか、自分が宝物庫の壁に錬金をしている様を見ていた生徒がいるなんて。
襲いかかる風の刃をゴーレムの腕で受け止める。悔しいが反撃はできない。相手は空に
浮かんでいるのだ。
フーケとてトライアングルクラス。飛ばすような魔法を知らぬでもないが、精神力が惜
しい。風竜を相手に中てる自信を、フーケは持ち合わせていなかった。
幸い、顔は見られていない。ここは逃げだ、ロングビルとして次のチャンスを待つべき
だと、フーケの盗賊としての勘がそう告げていた。
だが、それすらも空中の敵相手では容易なことではなかった。時にはドット、時にはラ
イン、時にはトライアングル。状況に即して、様々な魔法が上空から襲いかかる。それは、
倒すことを目的にしてはいない。フーケを逃がさぬこと、ただそれだけのために攻撃は行
われていた。
狡猾な相手だ。時が経てば経つほどフーケが不利になることを知っている。精神力を気
にせず魔法を行使しているのは、誰かが駆けつけてくることを見越しているに違いない。
「ええい、まさかトライアングルクラスの生徒がいるなんて!」
ゴーレムの足元を襲う氷柱を回避。これでまた、逃げるルートを一つ潰された。だが、
焦った様子とは裏腹に、フーケの内心はさほど乱れてはいない。この何倍も危ない橋を渡
って生き延びたことすらあるのだ。
そして、空の相手は気付いているだろうか。フーケが避け、受けている呪文を選んでい
ることに。逃げを選びながらも、フーケは極力音を立てぬようにしていた。だからこそ、
数分を超える戦闘をしてなお、誰の助けも来ない。
それだけではない。一時でも早く精神力が尽きるよう、計算して立ちまわってすらいた。
『土くれ』のフーケ。盗賊としてだけではなく、トライアングルとしても非凡な才能の
持ち主だった。そして、幸運も――
「待ちなさい!」
声を聞いて、フーケはついに来たか、と舌打ちをした。だが、声の主を知って、フード
の下でにんまりと笑みを浮かべた。
助けに来たのはなんと、『ゼロ』のルイズだった。応援としては、最低最悪の部類だ。
心なしか、空の敵もほぞをかんでいるような気すらする。
人質に、とれるのだ――
ようやく、ミスを帳消しにできるだけの降ってわいた幸運をつかもうと、ゴーレムをル
イズへと向ける。邪魔をする空からの魔法を自身の魔法で打ち消して、フーケはゴーレム
に命令を下した。
「あの子を捕まえなさい!」
VI/
えてして本当の不運とは、本人が気づかぬうちに既に訪れている。
運不運を語るなら、まず間違いなく今日のフーケは不運だった。それも本当の類の――
「あの子を捕まえなさい!」
あの子とは、ルイズのことだろう。そう理解すると、濤羅は命令も待たずに飛び出した。
ここに来るまでに既に調息を終えていた濤羅の体は、氣に満ち満ちている。その彼の疾
走はどれほどのものだったろうか。ただ地面を蹴り出したのではない。足を動かすための
腱と筋、それに体内に流れる血液のリズムを把握し、同調させた濤羅の踏み込みは、果た
して人の限界すらも飛び越える。
三歩で、濤羅はゴーレムの内まで潜り込んだ。30メイルはあったろう。フーケの視線は、
未だルイズの辺りにとどまっている。続く一歩で、濤羅はゴーレムの太ももまで跳躍した。
軽巧の達人ともなれば、腿力を込める足掛かりすらあれば重力にすら縛られない。残る
距離を、ゴーレムを蹴りつけて零にすると、濤羅の眼前にはフーケの呆けた顔があった。
「愚か者」
憐憫すら催さず、濤羅の手がゆらりとフーケの額へと伸ばされる。
愚か者はそっちだ――フーケはせせら笑った。メイジとはいえ、フーケは盗賊だ。身の
こなしには自信がある。目の前にいきなり現れたのは驚いたが、ただそれだけだ。
このフーケを相手に、いかにも鈍間なこの手が何だというのか。
笑みのままに濤羅の手をを撥ね退けようとして――その瞬間に、フーケの意識は闇へと
落ちた。その一瞬、彼女の頭の中は、なぜという疑問でいっぱいだった。
なぜ、男は目の前にいきなり現れたのか。なぜ、確かに払ったはずなのに自分の腕は、
空を切ったのか。なぜ、男の掌に触れられただけで自分は意識を失うのか。
その答えを知る濤羅は、すでに身を翻し、崩れ落ちるゴーレムから飛び降りていた。
VII/
「ふむ、まさかミス・ロングビルが土くれのフーケじゃったとはの」
オールド・オスマンは目の前の生徒たちの報告を聞いて、感慨深そうに呟いた。
「ええ、まさか私も、彼女がフーケだとは思いもしませんでした……」
何となくばつの悪さを感じたルイズは、恐縮そうにそういった。残る二人は無言で立っ
ている。オールド・オスマンを前にしても態度を崩さない。ルイズにはそれが恨めしくて
仕方なかった。
「まあ、よい。被害もなく捕まえられたのじゃ。安全対策を見直さねばならんが、不幸中
の幸いじゃて。生徒だけだというのに、ようやってくれた」
「いえ、そんな……」
本来なら、貴族として当然のことをしたまでだと言いたいところだったが、それだけは
口にしなかった。何しろ、ルイズは何もしていないのだ。フーケを足止めしていたのはタ
バサで、フーケを倒したのは――いまだ何をしたのかよくわからないが――濤羅なのだ。
使い魔の功は主の功。だとしても、何も分からず、命すら下さず見ていただけの自分が
偉そうにできるはずもなかった。二人とも誇りもしないのが拍車をかける。
そんなルイズの心境を知らぬオスマンは、好々爺といった笑みを浮かべて何度も礼を告
げてくる。二人は黙っているのでルイズが答える。後ろめたい。悪循環だ。
「王国の方には、このことを伝えておいた。二人には、追って恩賞が下されるじゃろう」
さらに追い打ちをかけるように、オスマンはとんでもないことを口にした。どきりとし
たのはルイズだ。この中で除外されるとすれば、彼女が一番何もしていない。
「二人? 私と、タバサと、使い魔の濤羅。これで三人ですが」
オールド・オスマンは、申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ないんじゃが、平民の、それも使い魔であるタオロー君には、何も褒賞を与える
ことはできないんじゃ」
「何を、そんな!」
相手が学院長だということも忘れて、ルイズは叫んだ。隣に立つタバサの目も、わずか
に見開かれている。濤羅だけが変わらず、平静のままに立っていた。
「ああ、わかっておる。わしも頑張ってくれたタオローくんには、何がしか報いたい。
じゃからの、ちょいとばかし、水の秘薬を彼に与えようと思う。それでその体が治るわ
けではなかろうが、いくらか楽にはなるじゃろう」
その言葉に、確かに部屋の空気が一度固まった。自らの発言が失言だったとオスマンが
気づく前に、ルイズは我も忘れてタオローへと詰め寄っていた。貴族の外聞もなしに襟首
を掴んで問いただす。
「ちょ、ちょっと、体が治るってどういうことよ! アンタの怪我、治ったんじゃなかっ
たの!!」
そこでようやく、オスマンは濤羅がルイズに何も告げていないことを悟った。隠そうか、
隠すまいか。逡巡は一瞬だった。いずれは知らねばならぬことだ。
「落ち着いて聞くんじゃ、ミス・ヴァリエール。君が読んだサーヴァントはな――」
乾いた音が、室内に響く。
腕を振りぬいたルイズは、何も言わぬまま学院長室を後にした。床に数滴、何か零れた
跡が残っている。
「痛い、な」
張られた頬を撫でつけながら、濤羅は一言だけぽつりと漏らした。傍らに立つタバサが
冷たく濤羅を見上げるが、それに気付かぬふりをして、もう一度だけ濤羅はつぶやいた。
「本当に、痛い……」
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