「虚無の唄-6」(2007/08/23 (木) 01:21:46) の最新版変更点
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開戦から既に一週間が経過した。
当初は数で勝るアルビオンの侵略軍に、トリステインの王軍は大変な苦戦を強いられた。
しかし、タルブの村を焼かれ、民を虐殺された怒りに震える王軍の勢いは凄まじく、戦いは拮抗し始めた。
結局、侵略軍三千に対する王軍二千が、寡兵を持って押し返すという結果になった。
こうしてタルブでの戦は一応の終結を見る。
この戦果を持って、アンリエッタ王女は女王として戴冠する事となった。
戦勝に沸く国内だったが、新たな女王を含め、軍部は事を全く楽観していなかった。
一旦は引いたアルビオンも、次はさらなる数を揃え、再び攻め込んでくる事は明白だったからだ。
戦争はまだまだ続くのだった。
戴冠式を簡略で済ませ、『女王アンリエッタ』は次の戦へ向けての準備を進める事を決定した。
前回の戦いでは、王軍は多数の兵を失った。
まずはそれを補う為に、国庫から資金をかき集めて傭兵を雇い、各地の大貴族や全国民に向けて御触れが発令される。
貴族は領民を徴兵し、国中に王軍の募兵官が派遣された。
当然、魔法学院も例に漏れず募兵官が訪れ、学院の男子生徒のほぼ全員と、一部の教師が申し込みを行った。
彼らは即席の教育機関へと足を運び、士官教育を二ヶ月程受ける事となる。
おかげで、現在の魔法学院は閑古鳥が鳴いている状態であった。
残っているのは使用人の平民達と女子生徒、数人の教師、学院長オールド・オスマンのみだった。
そのオスマン氏は、学院長室の机に肘を突き、難しそうな顔で手元の手紙を読んでいた。
先程、夕刻に差し掛かった頃に、王宮からの使者が届けにきた手紙だった。
『学院に残る女子生徒を予備士官として確保する。
ついてはトリステイン銃士隊を派遣し、軍事教練を施す。
学院長ならびに教師は、これに最大限協力する事』
彼には全くもって気に食わない内容ではあったが、御上の命に背くわけにもいかない。
銃士隊が訪れたらどんな皮肉を飛ばしてやろうか、などと考えていた彼だが、ふとある事を思い出した。
ルイズの事である。彼女は今もこの本塔の一室に閉じ込めたままになっている。
あれから一週間、監視は続けていたが放心状態の彼女には何の色も見られない。
そろそろ、別の仕事にも取り掛からなければならない彼は、己の使い魔を呼び戻した。
戻るように伝えてから間をおかず、すぐに小さなハツカネズミが彼の元に現れる。
「おうおう、モートソグニル。久しぶりじゃのう。
今ちょっと困った事になっとるんでな、また手伝ってもらうぞ?」
ネズミの頭を撫でながら彼は一息吐いて、椅子に腰を深く沈める。
戦争、学院の管理、諸事の報告書作成、そして例の手紙と彼の心が休まる時は無かった。
「やれやれ、銃士隊の到着は早ければ明日の朝か。面倒な事に──ん?」
彼は急に何かの気配を感じた。
しかし周りを見渡しても何もおらず、「気のせいか」と呟いて、まずは書類を片付けようと憂鬱そうに机へ向かった。
──
一方その頃、本塔のとある部屋。
そこではルイズが窓の傍でじっと動きを止め、瞑目していた。
彼女の周りには、支給された食物の残骸が山となって異臭を放っている。
本来ならそれはルイズの口に入るはずだったのだが、彼女は調理された物はほとんど食べようとしなかった。
少量の生野菜と水を口にするだけでこの一週間を過ごしていた為、頬はげっそりとやせ細り、顔も青い。
当然体調は悪くなる一方だったが、彼女は全く気にした様子も見せなかった。
この部屋に来てからずっとそんな様子だった彼女だが、突然その顔がぴくり、と動いた。
『今の、聞こえた?』
『聞こえたわ。そろそろ頃合いね。……ネズミはもう消えた?』
『うん、さっき。すぐに出るよね? 荷物を準備してくる』
『お願いね、沙耶』
彼女は心の中で、殺されたはずの『沙耶』と会話していたのだ。
沙耶が存在している──それが意味する事は一つ。
ルイズがこの部屋に閉じ込められる前、オスマン氏によって肉塊にされたのは彼女ではなかったという事だ。
実は以前、自分に対する監視の目があった事に気づいた沙耶は、その事をルイズに話した。
それを二人の逃走の妨げになると判断したルイズは、どうするべきか悩んだ。
そこで沙耶が提案したのだ。身代わりを立ててはどうか、と。
沙耶の『特技』について説明を受けたルイズは、すぐにその聡明な頭脳で計画を立てる。
こうして、一人の哀れな少女は犠牲となり、沙耶の変わりに殺されてしまったのだ。
沙耶が死んだと思われている今、ルイズに対する警戒は全くといっていい程少ない。
戦争状態にあるトリステインは、王軍を拡大させるため学院の人間の大半を徴兵している。
そして今、沙耶との同調によって聞こえたオスマン氏の独り言を加味すると……
今がまさに、ルイズと沙耶が待っていた『機会』に他ならなかった。
最も警戒の薄い現在。銃士隊が到着する前に、この学院を逃げ出さなくてはならない。
ルイズはその長い髪の毛に手を差し入れると、一本の棒状の物を取り出した。
これこそ、彼女が準備に最も時間をかけた新しい『杖』だった。
通常、作成にかかる手間を忌避し、生徒は杖を一人一本しか持っていない。
だが平和な学院から飛び出そうとしていたルイズは、不慮の事態に備えスペアを用意していたのだった。
本来ならば自分の思い入れのある物品や樹齢の高い霊木を使って契約するのだが、
生憎と材料の持ち合わせが無かったルイズは、たまたま部屋に転がっていた『ロングビルの骨』で代用した。
魔法使いの骨だけあって魔力の通りは良かったが、定着が悪く契約に時間がかかってしまった。
しかし、備えあれば憂い無し。何でもやっておくものである。
骨を加工したその杖は、指揮棒大だった元の杖よりさらに小さく、ルイズの髪の中でも楽に隠す事が出来たのだ。
血の跡で禍々しい色に染まった新しい杖を、扉に向けて振る。
ゼロと油断し『固定化』もかけられていなかった錠前は簡単に砕け散った。
馬鹿め、とルイズは自分を閉じ込めた教師に向けて嘲笑する。
─さぁ、私と沙耶の門出までもうすぐだ。
──
学院本塔、アルヴィーズの食堂。
現在は夕食の時間で、普段なら多くのメイジ達が歓談しながら、騒がしく食事をしている。
しかし今は男子生徒のほとんどがいなくなり、また戦争中という事もあり、残った女子達もどこと無く落ち着かない様子だ。
その結果、食堂内は今までに無い沈黙を見せていた。
二年生用のテーブルの一角では、キュルケとタバサが葬式のような雰囲気で食事を摂っていた。
タバサは普段から喋らないが、キュルケまで黙っているのは非常に珍しい事だ。
それもそのはず。彼女は先週から、ルイズの様子に自らも気を落としたままなのだった。
使い魔を殺されてから、全く言葉を発する事も無く呆けてしまった悪友に、
キュルケは自分がどうすることもできない事を悔やんでいた。
彼女はあの時から何度もルイズを訪ねに行ったが、話しかけても全く返答は無い。
のれんに腕押し、ぬかに釘だった。
「ルイズは相変わらず暗いし、戦争で男の子はどこかに行っちゃうし。
はぁ……ままならないわね」
タバサは辛気臭く溜息を吐くキュルケを横目に食事を続けていた。
暗いのはお前もだろと目線で語り、黙々と手元のサラダの処理に専念する。
相方の素っ気無い様子に再び溜息を吐いたキュルケは、何かを決心したように表情を改める。
そして残ったスープを一気飲みすると、椅子を引いて勢い良く立ち上がった。
「……下品」
「ちょっとルイズをからかってくるわ。あの娘もお腹減ってるでしょうし」
彼女はそう言い残し、厨房に向かう。
貴族に給仕させる事に難色を示す厨房係を色気で黙らせると、
ルイズの夕食を載せたトレイを片手に意気揚々と歩き出したのだった。
…
……
様子がおかしい。
ルイズが監禁されている部屋の前に着いたキュルケは、眉をひそめる。
ここはあまり人が来ない場所にあるため、前に来た時もその静けさに不気味さを感じたものだ。
しかし、今はそういった類いのものではない別の違和感を覚えていた。
臭うのだ。生理的嫌悪感を引き起こす、あの使い魔に似た嫌な臭いが。
オスマン氏が直々に手を下し、既にいないはずの『沙耶』の臭いが。
─まさか、まさかね……
キュルケはトレイを床に下ろし、段々と後ずさりながら懐に手を入れ、杖を取り出す。
その時、彼女の首筋にぴちゃり、と冷たい感触が走った。水?
反射的に首に手をやると、その甲にもまた同じ感触がぴちゃり、と。
咄嗟に杖を構え、上を向いた時には既に手遅れだった。
天井から降ってきた何者かは、キュルケの口と鼻を覆い、臍から下腹を引き裂いた。
悲鳴を上げる事も出来ずにくずおれた彼女の耳に、小さな破砕音と扉を開く音が聞こえた。
続いて誰かが声を発したが、既に彼女には何も聞こえていなかった。
「あら、丁度良かったわ。お腹が空いていたのよね」
──
キュルケがルイズに会いに行った後、タバサは食事を終え、寮への廊下を歩いていた。
煮え切らない態度の困った友人に呆れながら、自身も心の中にしこりがある事を自覚していた。
どうしても、あの使い魔があっさり死んだ事が腑に落ちなかったのだ。
─何か、何かを見落としているような気がする。
肝心な言葉が喉もとの辺りまで来ているのだが、どうしても出てこなかったタバサ。
結局その場は諦め、気晴らしにルイズの部屋に行く事にした。本塔ではなく寮の方へ。
しばらく歩くと、進入禁止の立て看板が見えてくる。
そういえば、この看板の向こう側に部屋のあるキュルケが
「これのせいでお客が激減したわ」と愚痴っていたのを思い出す。
進入禁止なのはルイズの部屋で、廊下ではないのだが皆勘違いしているらしい。
その事に口元を笑いの形に歪めたタバサは、少しだけ気持ちが軽くなった。
看板を除けて、部屋の中を覗く。
タバサは例の出来事以来ここへは来ていなかったが、中が綺麗になっていた事に少し驚いた。
確かキュルケは、学院が掃除夫を雇って徹底的に汚れを落としたのだと言っていた。
しかし、洗っても落ちない『汚れ』もあったようだ。
タバサの視線の先には例の生物が息絶えた場所があった。
カーペットに残るどす黒いまだら模様に、以前の事を思い出したのか顔色が若干青くなった。
暫く部屋の中を見回していたタバサだったが、何も得られるものが無いと分かり、自室へ戻る事を決めた。
相変わらず本だらけの部屋に戻ったタバサは、ベッドに身を投げ出した。
そういえばまだ図書館へ本を返していなかった。早く返さないと司書が五月蝿い。
そんな事を考えながら枕に突っ伏すと、何か感触がおかしい。
下に本が入っていたようだ。抜き取って表紙を見る。
例の童話モドキだった。する事も無いので、暇つぶしに読み直す事にした。
仰向けに寝転がりながら、暫くパラパラと頁を捲るタバサ。
だが、ある頁に辿り着いた瞬間、無表情だった彼女の顔が凍りついた。
侵略してきた生物が、人々を蹂躙する場面である。
『生物は人を食うだけでなく、人を自分と同じ醜悪な姿に変え仲間を増やし、やがてその国を滅ぼしてしまう』
─オスマン氏は何と言っていた?
『平民の娘は死体が見つからなかった』
─キュルケは今、どこにいる?
『ちょっとルイズをからかってくるわ』
─どうして今まで気が付かなかったのか!
「不覚っ!」
タバサは素早く起き上がり、脇に置いてあった杖を引っ掴むと、窓を開いて口笛を吹いた。
甲高い口笛の音が夜空に響き渡り、すぐに彼女の使い魔であるシルフィードが現れる。
窓枠をよじ登り、タバサは五階の高さから外へ飛び降りた。
そしてシルフィードの背中に無事着地する。
「きゅいきゅい! お姉さま、こんな時間に何──」
「本塔へ! 急いで!」
いつに無く焦った様子の主人に、風竜は文句も言わず空を飛んだ。
この一週間、ルイズの周辺では何も起きていない。きっと今回も心配する事は無い。
必死になって自分に言い聞かせるタバサだが、最悪の予想がどうしても頭から離れなかった。
──
息を切らせながら本塔内を疾走する。
目を丸くした女子生徒にすれ違った。無視する。
誰かの使い魔を蹴り飛ばした。屋内にモグラ?
講義の資料を運んでいたコルベール師にぶつかった。後で謝っておこう。
やっとの思いで目的の部屋の前に辿り着いた時、タバサは絶望の表情で膝をついた。
目の前には、見慣れたローブと、見慣れた服と、見慣れた赤い髪が散乱していた。
そして廊下を埋め尽くさんばかりの赤い液体、それと恐らく、彼女の部品。
吐いた。
暫くしてどうにか落ち着きを取り戻したタバサは、極力『彼女』を見ないように部屋の方を向いた。
鍵は壊されている。中を覗くと、全く手をつけられず、腐って異臭を発している食べ物の山以外は何も無かった。
タバサは部屋を出ると、深呼吸して、彼女に向き直った。
脳裏に浮かぶ彼女の思い出に、タバサは少し悲しくなった。
そういえば、まだ本当の名前も教えていなかった。
その事実に気付いたタバサの中に、深い後悔の念が浮かぶ。
きっ、と表情を改め、急いでその場を離れる。
彼女を葬ってやりたかったが、そんな暇は無い。
すぐにルイズと沙耶を見つけて、報いを受けさせなければならない。
そこでタバサはふと立ち止まった。
まずはオールド・オスマンに指示を仰ぐべきか?
しかしそれでは犯人を逃がしてしまうかもしれない。
迷ったのは一瞬。彼女は即座に判断を下した。
『オスマン氏に連絡を入れる』
→『単独でルイズと沙耶を追う』
やはり、本塔の最上階まで上っている暇は無い。
この手でルイズを下す。
決心したタバサは本塔から出ると、シルフィードを呼び出して搭乗する。
使い魔は上昇気流を捕まえてあっという間に夜の空に飛び上がり、地上100メイルの高さで滞空した。
キュルケが殺されてからそう時間は経っていないようだったが、いつまでも学院にいるはずは無い。
そして徒歩で逃げるとも思えない。やはり馬か馬車に乗って既に門を出た後かもしれない。
この暗さでは人の目では役に立たないため、風竜の視力に任せる事にする。
「馬を探して。見つけ次第降下」
絶対に──逃がさない。
──
『食事』を終え、沙耶とも無事合流を果たしたルイズは、人目を忍びながら馬屋に来ていた。
番人は既に始末してあるため、騒がれる事は無い。
収穫は馬二頭と、馬車が一台。馬車があったのは幸運だった。
屋根無しの荷車のようなものだったが、馬だけだと沙耶を怖がって乗る事が出来ないだろうから。
沙耶には荷物を背負って後ろの荷台に載り、馬を怖がらせないためシーツを被ってもらう。
ルイズ自身は御者だ。彼女には乗馬の経験はあるが御者台に座った事など無かった。
しかし贅沢を言っていられない。追っ手がかかる前に急いで学院を出なければならないのだから。
馬車馬に鞭をいれ、早速出発する。
門の警備兵は訝しげな顔をしたが、貴族の権威を振りかざし強引に押し通る。
門を、出た。
その瞬間、ルイズの表情が満面の笑みと変わる。
ついに逃げ出してやった。
まもなく脱走は発覚するだろうが、自分達はその頃には遠く離れた場所にいるはず。
このまま一気に国境に向かうのも良いが、
やはり追っ手を煙にまくために森にでも入ったほうがいいか。
そんな事を考えながら手綱を握っていたルイズだが、ふと後ろを向いた。
そういえば沙耶が先程から静かだ。
「どうしたの、沙耶? 調子悪いの?」
「……大丈夫。馬車に酔っただけだと思う」
確かに乗り慣れていないと、この振動は辛いかもしれない。
納得したルイズは、特に疑問を持たずに「そう?」といって前を向いた。
しかし、既に月明かりくらいしか頼りになる光源が無かったため、ルイズは全く気付けなかった。
沙耶の顔色は青を通り越して白くなり、苦しげに小さく震えていた事に。
学院から5リーグは離れただろうか、既にあの大きな建物は豆粒くらいにしか見えなくなっていた。
夜もふけてきたため。ルイズの気は段々と抜け始め、うつらうつらとしている。
その時、後ろの荷台にいた沙耶が警告の声を発した。
「ルイズ!」
反応する暇も無く、ルイズは沙耶に抱きかかえられ、馬車の外にその身を投げ出した。
その瞬間に馬車は突然砕け散り、馬も風によって切り刻まれた。
沙耶はナイフを構えて上空に向けて警戒の視線を向けている。
彼女の左手にはルーンが輝いている。これこそ、沙耶の切り札だった。
武器を持つと現れるこの現象は、非力な沙耶を強靭な肉体の戦士へと変える事が出来る。
油断無く空を見上げる沙耶に倣って、ルイズも夜空に目を凝らす。
白い竜にのった者がこちらを睨みつけていた。
「味な真似をしてくれるじゃない」
静かな声に怒りを滲ませながら、ルイズは杖を取り出して詠唱を始めた。
──
「見つけた……!」
タバサは馬車を発見すると同時に、容赦なく風のスペルを叩き込んだ。
しかし敵もさるもの、直前で気付いたのか凄まじい速さで
魔法の範囲から離脱し、破壊されたのは馬車だけだった。
敵がこちらに気付いたようだ。不定形の化物──沙耶と、その主ルイズが。
視線が絡まった。ルイズは恐ろしい形相で睨んできたが、負けじと睨み返す。
一瞬の後、ルイズは杖を取り出し魔法を使おうと詠唱を始めた。
やらせるものか。タバサは杖を振ると、
自身が最も得意とするウィンディ・アイシクルを大量に出現させ、雨のように降らせた。
この数は避けられまいと考えていたが、何と沙耶はルイズを抱えたまま全ての矢を避けきった。
目を丸くしたタバサが、次の呪文の詠唱に入ろうとした時、ルイズの呪文が完成する。
「ファイアー・ボール」
そんな距離から火球など当たるものか。
シルフィードを急旋回させ、相手の魔法を避けようとした瞬間、風竜の頭が爆発した。
突然の出来事に混乱したタバサだが、すぐに原因を把握する。
そういえば、彼女が何でも爆発させる『ゼロ』だったのを忘れていた。
苦々しい表情でルイズから視線を離し、己の使い魔の様子を見る。
どうやら急な爆発によって目を回しているだけのようだ。
しかし、この状況は頂けない。
高度はどんどんと下がり、あわや地面と激突という所でレビテーションを唱える。
速度は一瞬で殺され、ふわりと着地に成功した。
気絶したシルフィードをその場に残し、
お互いに15メイル程離れた距離でタバサはルイズと睨みあった。
最初に口を開いたのはタバサだった。
静かにルイズへ問いかける。
「どうして……どうしてキュルケを殺したの」
「……? あぁ、あれキュルケだったのね」
「っ! 彼女はあなたを心配していた。あなたの敵になるはずが無かった。一体何故殺したの……!」
「私達の邪魔になるからよ。
それに、何で相手が好意を向けてきたからって、こっちも好意で返さなきゃならないの?」
「……」
「納得できないみたいね? あなたも想像してみなさい。
地面を這いずる害虫が、自分に向かって飛んできたら、誰だって叩き落とすでしょう?」
「キュルケは害虫じゃない!」
「えぇ、そうね。いい味してたし、害虫なんていうのは失礼かもね」
タバサにとって信じられない言葉を吐いたルイズは、
本当に何も感じていないかのように、どうでも良いように見つめてきた。
─この女は……食ったのか? キュルケを食ったのか!
既にタバサは普段の無表情を装う事が出来なくなった。
憎悪に顔を歪め、怒りに燃えるその姿に『雪風』の二つ名は全く不似合いだった。
最早問答無用とばかりに杖を構えるタバサ。
対するルイズも静かに杖を向ける。
一触即発の雰囲気の中、タバサはある事に気がついた。
沙耶がいない。話を始める前はルイズの傍にいたはず。
視線をちらちらと周りに配り始めたタバサの足に触手のようなものが絡まる。
一瞬気付くのが遅れたタバサは、そのまま持ち上げられ、地面に叩きつけられた。
肺から空気が押し出され、声にならない悲鳴を上げるタバサ。
それでも杖を手放さなかったのは流石といえる。
ニ、三度同じ事を繰り返した触手──沙耶は、頭から血を垂れ流すタバサを思い切り放り投げた。
彼女は途轍もない速度で地面を転がり、その勢いが途切れると、大の字で倒れ伏した。
動かなくなったタバサに、ルイズは笑顔で近づいてきた。
「馬ぁ鹿。ゼロの私が、正面からやりあうとでも思ったの?」
愉快そうに笑うルイズに答えられる余裕の無いタバサ。
しかしその戦意はまだ失われていなかった。
仰向けのまま燃える瞳で睨みつけるタバサに、呆れた表情で杖を向けるルイズ。
そのまま止めを刺そうと呪文を唱えるルイズに向かって、タバサはウィンディ・アイシクルを解き放つ。
驚愕の顔でこちらを見つめるルイズに、タバサはにやりと口を歪めて見せた。
ルイズが近づく前に、口の中で呪文を唱えておいたのだ。
所詮ルイズは戦いに不慣れな素人だった。
相手に止めを刺さずに近寄ろうなんて、タバサは考えない。
獲物を前に舌なめずりなど、三流のすることだ。
氷の矢はルイズの体中に突き刺さり、彼女もタバサのように仰向けに倒れた。
『コノォ!』
横から見守っていた沙耶は、ナイフを構えてタバサに襲い掛かった。
速い。この速度では避けきれない。
それでも何とか杖を構え、心臓を狙っていたナイフの軌道を逸らす。
ナイフはタバサの左上腕に突き刺さった。
かなりの速度で刺されたため、傷はかなり深い。
タバサの腕は皮一枚でつながっている状態だった。
続けて襲いかかろうとする沙耶に、もう駄目かとタバサが諦めかけたその時。
突如、けたたましい叫び声が響き渡る。
シルフィードが目を覚ましたのだ。
タバサの使い魔は、雄叫びを上げながら地上を滑空して、その巨体を沙耶にぶちかました。
吹っ飛ぶ沙耶を目にし、ざまあみろと思っていたタバサの襟首が掴まれた。
何事かと後ろを振り向くと、シルフィードがその大きな口でマントのフード部分を咥えている。
目を見るとまだ混乱しているようだ。ただ主人を守ろうという意志のみで動いているのか。
どの道これ以上はもう戦えない。
沙耶を逃がすのは惜しかったが、キュルケの仇はとった。
それだけでタバサは満足していた。
ぶらぶらと鬱陶しい左腕に氷の魔法をかけて接合し、出血も止める。
タバサはシルフィードに咥えられたまま「学院へ」と呟くと、力無く意識を失った。
──
痛みに震える体に鞭打ち、血を流して倒れたルイズに近寄る。
ルイズは「ひゅーひゅー」と息を吐きながら、自分に近づく沙耶を見つめていた。
やがて二人の距離がゼロになる。
沙耶はその手でルイズをしっかりと抱きしめ、呟く。
「ごめんなさい、私がちゃんとしてなかったから」
「……っい……気に、しないで」
「痛いよね。ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大……丈、夫よ」
吐血しながらも気丈に笑顔を浮かべる様子に、涙が止まらなくなった沙耶。
動揺しながらも傷だらけのルイズの体を診る。
あの青い髪の魔法使いが放った氷の矢によって
両腕に一つずつ、左大腿に一つ、胸部に一つ、腹部に二つの大穴が開いている。
このままではルイズは死ぬ。
そう確信した沙耶は、背に持っていた荷物入れから斧を取り出し、自分の足に振り下ろした。
「な、何をやっているの!」
突然の凶行に慌てたルイズに、沙耶は答えず、切り落とした自分の足を改造する。
人から自分達のような姿に出来るなら、その逆も出来るはず。
沙耶は自分の体を使ってルイズの傷を塞ごうと考えていたのだった。
しかし、急にそんな事をしても上手くいくはずはない。
使用人の少女を改造するのも丸一日かかったのだ。
必死にルイズの傷口へ溶かした自分の体組織を埋め込むものの
出血は止まらず、ルイズをさらに苦しめるだけとなった。
さらに、急に沙耶の目の前が暗くなり、全身に引きつるような痛みが走る。
─こんな時に!
「もう、いいの……その気持ちだけで……十分だから」
沙耶が苦しむ様子にも気づいていないのか、ルイズは相変わらず笑顔で答える。
その間にも沙耶の『変化』は続き、彼女の身を蝕む。
体は熱く燃え滾り、全身が痙攣する。
沙耶の体は今、その存在意義である『繁殖』を行おうとしていた。
─せめて、ルイズが元気な頃に起こってくれれば良かったのに。
自身でコントロール出来ない事象に、八つ当たり気味に心の中で愚痴る沙耶。
もう、こうなっては仕方が無い。
最期に世界を上げられなかったのは残念だが、共に逝けるのならそれもまた良しだ。
心を決めた沙耶は、決して自分の苦しみをルイズに悟らせないように、笑う。
「ねぇ……ルイズ。いいものを見せてあげる」
「な、何……かし、ら?」
最早虫の息となったルイズが不思議そうに沙耶を見つめると、それは起こった。
沙耶の背中から、まるで蝶のような美しい翼が開かれたのだ。
まるで『咲いた』としか形容できないその現象に、ルイズは痛みも忘れて見入った。
その翼は眩く輝いていて、何かと思えばそれは、花弁をびっしりと覆う光の粒子のような鱗粉だった。
「……きれい」
「これが……あなたに送る、最初で最後のプレゼント。気に入って、くれた、かな?」
微笑を浮かべたままの沙耶は、珠の汗を流して途切れ途切れにルイズへと問いかけた。
翼がはためき、光の粒が夜空に舞い上がる。
いつの間にか厚い雲に覆われていた暗い天井は、その光によって美しく彩られた。
その圧倒的なまでの美に、ルイズは涙を流しながら答える。
「……ありがとう、大好き。沙耶」
「私も、大好き。もう名前も思い出せないあの人と、同じくらい、大好き」
「……なぁんだ。一番じゃ、ないのね」
「うん、ごめんね。ルイズ」
ルイズは少しだけ拗ねる様な仕草で沙耶の顔を見つめる。
最期に二人は笑いあい、お互いをぎゅっと抱きしめ、優しく口付けを交わした。
──
epilogue
突如不気味な胞子が世界を覆ってから早一年、あらゆる人間は襲い来る恐怖にパニックに陥っていた。
その胞子に触れた生物は誰区別無く平等に、奇怪で醜悪な化物に『進化』を遂げるのだ。
平民も、貴族も、動物も、遥か東に住むエルフ達も。全て。
このハルケギニアの生態系は書き換えられ、その化物に支配が乗り移ろうとしていた。
タバサ──シャルロットは、あの日、沙耶に止めを刺せなかった事を酷く後悔していた。
数ヶ月前、ガリアの忠実な老執事ペルスランから手紙が届いたのだ。
最期の力を振り絞って書かれただろうその手紙は、誰かの使い魔のフクロウによってもたらされた。
そのフクロウも、この学院に着いた途端に『進化』を始めたため、シャルロットが楽にしてやった。
手紙には、彼女の母が胞子によって亡くなった事、それを止められなかった後悔と、ひたすらシャルロットに対して謝罪する文章で占められていた。
後半から段々と乱れ、滲んでいく文字を見て彼女は老執事と母の冥福を祈った。
何度も読み直し、皺が寄ってしまった手紙を丁寧にたたみ、机の中にしまう。
通す腕の無い左側の袖をはためかせ、シャルロットは寮の部屋を出た。
現在この学院には人がほとんどいない。
生徒達はそれぞれの実家に戻り、胞子に触れぬよう、怯えた毎日を過ごしているのだろう。
教師達は己の研究室にこもり、魔法を使って事態の解決を図るため研究の毎日だ。
戦争は無期限に中止された。王宮では胞子に対する会議が連日開かれているらしい。
シャルロットはその足を図書館へ向けた。
中は閑散としている。
在りし日の賑わいを思い出し、憂鬱な表情を浮かべると、奥へ進み『フェニアのライブラリー』に入った。
そこでは老人が一人、本を読んでいる。
学院長オールド・オスマンだ。
もっとも、学院は既にその機能を成していないため、学院長と呼んでもあまり意味は無いが。
入ってきた人物に気が付いたのか、オスマン氏は顔を上げた。
「おお、君か」
彼はこの一年でめっきり老け込んだ。
ぴんと伸びていた背筋は弱々しく折れ曲がり、艶のあるストレートだった白髪や髭もよれよれだ。
最早、かつての偉大な魔法使いの面影は見られない。
彼なりにこの出来事に責任を感じているのだろうと思う。
胞子が世界を覆った直後、変わり行く生徒達を見て号泣した彼の姿を、シャルロットは忘れていない。
「例の書の解読は八割がた済んだよ。もうすぐ辿り着きそうじゃ」
「本当ですか?」
彼の言葉にシャルロットは顔を輝かせた。
一年前より、二人は教師達の研究とは別のアプローチで解決法を探っていた。
『沙耶』に似た生物の記述があった書──ヴォイニッチ手稿を始めとする
『魔道書』群の解読を行っていたのだ。
始めは手探りだったが、いくつかのパターンを発見してからの解読ははかどった。
しかし段々と読み進めるに連れ、二人は問題の大きさに頭を抱えた。
例の胞子を駆逐するためには、想像もつかないほどの強大な力が要るらしい。
それこそ、例の童話にあったように、始祖ブリミルが使ったという虚無くらいの。
魔道書の解読はさらに進んだ。
そして先月、漸く胞子への対抗手段になり得る記述を見つけた時は、二人で狂喜乱舞したものだ。
「意味不明な文句が続いておるが、この辺に召喚の呪文らしきものを発見したんじゃ。
正しき怒りがどうのこうのと書いてある。恐らくあと一月もあれば、全て解読できると踏んでおる」
「正しき、怒り……?」
確かに意味不明で、何やら荒唐無稽さを感じさせる言葉だ。
一体何が召喚されるのだろうかと期待に溢れるシャルロットだった。
さらにオスマン氏は驚くべき言葉を発した。
何と彼独自の情報網によって、虚無の使い手が見つかったらしい。
「サウスゴータ地方のウェストウッド村という所におるらしい。
誰が訪れても追い返されるらしいが、君にはその虚無の使い手の説得を頼みたい」
解読作業はもうほとんどオスマン氏一人でも出来る。
だがこの記述だけでは不安なため、胞子への対抗手段を一つでも増やしたいそうだ。
ここ最近は手持ち無沙汰になっていたシャルロットは、その提案に承諾した。
オスマン氏に一時の別れを告げ、外へ出る。
相変わらず、外は赤黒い肉だらけで気味が悪い。
口笛を吹くと、彼女の使い魔シルフィードが飛んできた。
「お姉さま~! こんな所で一人にしないでほしいのね!」
「ごめんなさい。シルフィード」
珍しく素直に謝る主人に風竜は目を丸くした。
「きゅい? ご機嫌なのね?」
「まぁね」
笑顔を浮かべたシャルロットは、風竜に搭乗すると行き先を告げた。
あっという間に空高く舞い上がる。
やはり見えてくるのは地上を覆いつくす肉、肉、肉だ。
─今に見ているがいい。お前達は、私が必ず駆逐してやるから。
確かな決意をその表情に秘め、青い髪の少女と白い竜の主従は、風となって空を翔け抜けた。
~幸せな夢~
そこは暖かい場所だった。
花は百花繚乱に咲き乱れ、空気は澄んで、川の水は清らか。
まさに天国のような場所だった。
川の近くには一つのテーブルがおかれ、三人の男女が卓を囲んでいた。
「ここここここの平民! 沙耶は私の使い魔だっていってるでしょ!
べべべ、べたべたするんじゃない!」
「ルイズのけちんぼ。良いじゃないの好きなんだから」
「ああああなたがそんな事を言うの!? 私の事好きって言ってたじゃない!」
「うん。でもそれはそれ、これはこれだよ?」
ぎゃーぎゃーと姦しく騒ぐ二人を、男性は優しく見守っていた。
病院で死んだはずの彼は、気付くとここに立っていた。
傍らには自分が愛した女性と見知らぬ少女が眠っている。
起こして事情を聞いてみれば、彼が愛した女性は何と少女の使い魔になっているという。
話の半分以上は理解できなかった彼だが、女の子が自分と同じ境遇だという事は分かった。
ここが何処だかは知らないが、ここには恐ろしい怪物も、気持ちの悪い肉のカーテンも存在しない。
そしてある意味同胞といえる少女と、愛すべき女性がいる。
彼にはそれだけで満足といえた。
「こら平民! 何をニヤニヤしてるの!」
いつの間にか彼も会話に巻き込まれていた。
やれやれ、と呆れながらも、彼女の言うところの使い魔にして
彼の愛する女性──沙耶の所有権について議論する。
そんな二人を見つめ、沙耶は幸せそうな笑顔で息を大きく吸い込み、叫んだ。
「二人とも、だーい好き!」
虚無の唄~song of zero~ 完
開戦から既に一週間が経過した。
当初は数で勝るアルビオンの侵略軍に、トリステインの王軍は大変な苦戦を強いられた。
しかし、タルブの村を焼かれ、民を虐殺された怒りに震える王軍の勢いは凄まじく、戦いは拮抗し始めた。
結局、侵略軍三千に対する王軍二千が、寡兵を持って押し返すという結果になった。
こうしてタルブでの戦は一応の終結を見る。
この戦果を持って、アンリエッタ王女は女王として戴冠する事となった。
戦勝に沸く国内だったが、新たな女王を含め、軍部は事を全く楽観していなかった。
一旦は引いたアルビオンも、次はさらなる数を揃え、再び攻め込んでくる事は明白だったからだ。
戦争はまだまだ続くのだった。
戴冠式を簡略で済ませ、『女王アンリエッタ』は次の戦へ向けての準備を進める事を決定した。
前回の戦いでは、王軍は多数の兵を失った。
まずはそれを補う為に、国庫から資金をかき集めて傭兵を雇い、各地の大貴族や全国民に向けて御触れが発令される。
貴族は領民を徴兵し、国中に王軍の募兵官が派遣された。
当然、魔法学院も例に漏れず募兵官が訪れ、学院の男子生徒のほぼ全員と、一部の教師が申し込みを行った。
彼らは即席の教育機関へと足を運び、士官教育を二ヶ月程受ける事となる。
おかげで、現在の魔法学院は閑古鳥が鳴いている状態であった。
残っているのは使用人の平民達と女子生徒、数人の教師、学院長オールド・オスマンのみだった。
そのオスマン氏は、学院長室の机に肘を突き、難しそうな顔で手元の手紙を読んでいた。
先程、夕刻に差し掛かった頃に、王宮からの使者が届けにきた手紙だった。
『学院に残る女子生徒を予備士官として確保する。
ついてはトリステイン銃士隊を派遣し、軍事教練を施す。
学院長ならびに教師は、これに最大限協力する事』
彼には全くもって気に食わない内容ではあったが、御上の命に背くわけにもいかない。
銃士隊が訪れたらどんな皮肉を飛ばしてやろうか、などと考えていた彼だが、ふとある事を思い出した。
ルイズの事である。彼女は今もこの本塔の一室に閉じ込めたままになっている。
あれから一週間、監視は続けていたが放心状態の彼女には何の色も見られない。
そろそろ、別の仕事にも取り掛からなければならない彼は、己の使い魔を呼び戻した。
戻るように伝えてから間をおかず、すぐに小さなハツカネズミが彼の元に現れる。
「おうおう、モートソグニル。久しぶりじゃのう。
今ちょっと困った事になっとるんでな、また手伝ってもらうぞ?」
ネズミの頭を撫でながら彼は一息吐いて、椅子に腰を深く沈める。
戦争、学院の管理、諸事の報告書作成、そして例の手紙と彼の心が休まる時は無かった。
「やれやれ、銃士隊の到着は早ければ明日の朝か。面倒な事に──ん?」
彼は急に何かの気配を感じた。
しかし周りを見渡しても何もおらず、「気のせいか」と呟いて、まずは書類を片付けようと憂鬱そうに机へ向かった。
──
一方その頃、本塔のとある部屋。
そこではルイズが窓の傍でじっと動きを止め、瞑目していた。
彼女の周りには、支給された食物の残骸が山となって異臭を放っている。
本来ならそれはルイズの口に入るはずだったのだが、彼女は調理された物はほとんど食べようとしなかった。
少量の生野菜と水を口にするだけでこの一週間を過ごしていた為、頬はげっそりとやせ細り、顔も青い。
当然体調は悪くなる一方だったが、彼女は全く気にした様子も見せなかった。
この部屋に来てからずっとそんな様子だった彼女だが、突然その顔がぴくり、と動いた。
『今の、聞こえた?』
『聞こえたわ。そろそろ頃合いね。……ネズミはもう消えた?』
『うん、さっき。すぐに出るよね? 荷物を準備してくる』
『お願いね、沙耶』
彼女は心の中で、殺されたはずの『沙耶』と会話していたのだ。
沙耶が存在している──それが意味する事は一つ。
ルイズがこの部屋に閉じ込められる前、オスマン氏によって肉塊にされたのは彼女ではなかったという事だ。
実は以前、自分に対する監視の目があった事に気づいた沙耶は、その事をルイズに話した。
それを二人の逃走の妨げになると判断したルイズは、どうするべきか悩んだ。
そこで沙耶が提案したのだ。身代わりを立ててはどうか、と。
沙耶の『特技』について説明を受けたルイズは、すぐにその聡明な頭脳で計画を立てる。
こうして、一人の哀れな少女は犠牲となり、沙耶の代わりに殺されてしまったのだ。
沙耶が死んだと思われている今、ルイズに対する警戒は全くといっていい程少ない。
戦争状態にあるトリステインは、王軍を拡大させるため学院の人間の大半を徴兵している。
そして今、沙耶との同調によって聞こえたオスマン氏の独り言を加味すると……
今がまさに、ルイズと沙耶が待っていた『機会』に他ならなかった。
最も警戒の薄い現在。銃士隊が到着する前に、この学院を逃げ出さなくてはならない。
ルイズはその長い髪の毛に手を差し入れると、一本の棒状の物を取り出した。
これこそ、彼女が準備に最も時間をかけた新しい『杖』だった。
通常、作成にかかる手間を忌避し、生徒は杖を一人一本しか持っていない。
だが平和な学院から飛び出そうとしていたルイズは、不慮の事態に備えスペアを用意していたのだった。
本来ならば自分の思い入れのある物品や樹齢の高い霊木を使って契約するのだが、
生憎と材料の持ち合わせが無かったルイズは、たまたま部屋に転がっていた『ロングビルの骨』で代用した。
魔法使いの骨だけあって魔力の通りは良かったが、定着が悪く契約に時間がかかってしまった。
しかし、備えあれば憂い無し。何でもやっておくものである。
骨を加工したその杖は、指揮棒大だった元の杖よりさらに小さく、ルイズの髪の中でも楽に隠す事が出来たのだ。
血の跡で禍々しい色に染まった新しい杖を、扉に向けて振る。
ゼロと油断し『固定化』もかけられていなかった錠前は簡単に砕け散った。
馬鹿め、とルイズは自分を閉じ込めた教師に向けて嘲笑する。
─さぁ、私と沙耶の門出までもうすぐだ。
──
学院本塔、アルヴィーズの食堂。
現在は夕食の時間で、普段なら多くのメイジ達が歓談しながら、騒がしく食事をしている。
しかし今は男子生徒のほとんどがいなくなり、また戦争中という事もあり、残った女子達もどこと無く落ち着かない様子だ。
その結果、食堂内は今までに無い沈黙を見せていた。
二年生用のテーブルの一角では、キュルケとタバサが葬式のような雰囲気で食事を摂っていた。
タバサは普段から喋らないが、キュルケまで黙っているのは非常に珍しい事だ。
それもそのはず。彼女は先週から、ルイズの様子に自らも気を落としたままなのだった。
使い魔を殺されてから、全く言葉を発する事も無く呆けてしまった悪友に、
キュルケは自分がどうすることもできない事を悔やんでいた。
彼女はあの時から何度もルイズを訪ねに行ったが、話しかけても全く返答は無い。
のれんに腕押し、ぬかに釘だった。
「ルイズは相変わらず暗いし、戦争で男の子はどこかに行っちゃうし。
はぁ……ままならないわね」
タバサは辛気臭く溜息を吐くキュルケを横目に食事を続けていた。
暗いのはお前もだろと目線で語り、黙々と手元のサラダの処理に専念する。
相方の素っ気無い様子に再び溜息を吐いたキュルケは、何かを決心したように表情を改める。
そして残ったスープを一気飲みすると、椅子を引いて勢い良く立ち上がった。
「……下品」
「ちょっとルイズをからかってくるわ。あの娘もお腹減ってるでしょうし」
彼女はそう言い残し、厨房に向かう。
貴族に給仕させる事に難色を示す厨房係を色気で黙らせると、
ルイズの夕食を載せたトレイを片手に意気揚々と歩き出したのだった。
…
……
様子がおかしい。
ルイズが監禁されている部屋の前に着いたキュルケは、眉をひそめる。
ここはあまり人が来ない場所にあるため、前に来た時もその静けさに不気味さを感じたものだ。
しかし、今はそういった類いのものではない別の違和感を覚えていた。
臭うのだ。生理的嫌悪感を引き起こす、あの使い魔に似た嫌な臭いが。
オスマン氏が直々に手を下し、既にいないはずの『沙耶』の臭いが。
─まさか、まさかね……
キュルケはトレイを床に下ろし、段々と後ずさりながら懐に手を入れ、杖を取り出す。
その時、彼女の首筋にぴちゃり、と冷たい感触が走った。水?
反射的に首に手をやると、その甲にもまた同じ感触がぴちゃり、と。
咄嗟に杖を構え、上を向いた時には既に手遅れだった。
天井から降ってきた何者かは、キュルケの口と鼻を覆い、臍から下腹を引き裂いた。
悲鳴を上げる事も出来ずにくずおれた彼女の耳に、小さな破砕音と扉を開く音が聞こえた。
続いて誰かが声を発したが、既に彼女には何も聞こえていなかった。
「あら、丁度良かったわ。お腹が空いていたのよね」
──
キュルケがルイズに会いに行った後、タバサは食事を終え、寮への廊下を歩いていた。
煮え切らない態度の困った友人に呆れながら、自身も心の中にしこりがある事を自覚していた。
どうしても、あの使い魔があっさり死んだ事が腑に落ちなかったのだ。
─何か、何かを見落としているような気がする。
肝心な言葉が喉もとの辺りまで来ているのだが、どうしても出てこなかったタバサ。
結局その場は諦め、気晴らしにルイズの部屋に行く事にした。本塔ではなく寮の方へ。
しばらく歩くと、進入禁止の立て看板が見えてくる。
そういえば、この看板の向こう側に部屋のあるキュルケが
「これのせいでお客が激減したわ」と愚痴っていたのを思い出す。
進入禁止なのはルイズの部屋で、廊下ではないのだが皆勘違いしているらしい。
その事に口元を笑いの形に歪めたタバサは、少しだけ気持ちが軽くなった。
看板を除けて、部屋の中を覗く。
タバサは例の出来事以来ここへは来ていなかったが、中が綺麗になっていた事に少し驚いた。
確かキュルケは、学院が掃除夫を雇って徹底的に汚れを落としたのだと言っていた。
しかし、洗っても落ちない『汚れ』もあったようだ。
タバサの視線の先には例の生物が息絶えた場所があった。
カーペットに残るどす黒いまだら模様に、以前の事を思い出したのか顔色が若干青くなった。
暫く部屋の中を見回していたタバサだったが、何も得られるものが無いと分かり、自室へ戻る事を決めた。
相変わらず本だらけの部屋に戻ったタバサは、ベッドに身を投げ出した。
そういえばまだ図書館へ本を返していなかった。早く返さないと司書が五月蝿い。
そんな事を考えながら枕に突っ伏すと、何か感触がおかしい。
下に本が入っていたようだ。抜き取って表紙を見る。
例の童話モドキだった。する事も無いので、暇つぶしに読み直す事にした。
仰向けに寝転がりながら、暫くパラパラと頁を捲るタバサ。
だが、ある頁に辿り着いた瞬間、無表情だった彼女の顔が凍りついた。
侵略してきた生物が、人々を蹂躙する場面である。
『生物は人を食うだけでなく、人を自分と同じ醜悪な姿に変え仲間を増やし、やがてその国を滅ぼしてしまう』
─オスマン氏は何と言っていた?
『平民の娘は死体が見つからなかった』
─キュルケは今、どこにいる?
『ちょっとルイズをからかってくるわ』
─どうして今まで気が付かなかったのか!
「不覚っ!」
タバサは素早く起き上がり、脇に置いてあった杖を引っ掴むと、窓を開いて口笛を吹いた。
甲高い口笛の音が夜空に響き渡り、すぐに彼女の使い魔であるシルフィードが現れる。
窓枠をよじ登り、タバサは五階の高さから外へ飛び降りた。
そしてシルフィードの背中に無事着地する。
「きゅいきゅい! お姉さま、こんな時間に何──」
「本塔へ! 急いで!」
いつに無く焦った様子の主人に、風竜は文句も言わず空を飛んだ。
この一週間、ルイズの周辺では何も起きていない。きっと今回も心配する事は無い。
必死になって自分に言い聞かせるタバサだが、最悪の予想がどうしても頭から離れなかった。
──
息を切らせながら本塔内を疾走する。
目を丸くした女子生徒にすれ違った。無視する。
誰かの使い魔を蹴り飛ばした。屋内にモグラ?
講義の資料を運んでいたコルベール師にぶつかった。後で謝っておこう。
やっとの思いで目的の部屋の前に辿り着いた時、タバサは絶望の表情で膝をついた。
目の前には、見慣れたローブと、見慣れた服と、見慣れた赤い髪が散乱していた。
そして廊下を埋め尽くさんばかりの赤い液体、それと恐らく、彼女の部品。
吐いた。
暫くしてどうにか落ち着きを取り戻したタバサは、極力『彼女』を見ないように部屋の方を向いた。
鍵は壊されている。中を覗くと、全く手をつけられず、腐って異臭を発している食べ物の山以外は何も無かった。
タバサは部屋を出ると、深呼吸して、彼女に向き直った。
脳裏に浮かぶ彼女の思い出に、タバサは少し悲しくなった。
そういえば、まだ本当の名前も教えていなかった。
その事実に気付いたタバサの中に、深い後悔の念が浮かぶ。
きっ、と表情を改め、急いでその場を離れる。
彼女を葬ってやりたかったが、そんな暇は無い。
すぐにルイズと沙耶を見つけて、報いを受けさせなければならない。
そこでタバサはふと立ち止まった。
まずはオールド・オスマンに指示を仰ぐべきか?
しかしそれでは犯人を逃がしてしまうかもしれない。
迷ったのは一瞬。彼女は即座に判断を下した。
『オスマン氏に連絡を入れる』
→『単独でルイズと沙耶を追う』
やはり、本塔の最上階まで上っている暇は無い。
この手でルイズを下す。
決心したタバサは本塔から出ると、シルフィードを呼び出して搭乗する。
使い魔は上昇気流を捕まえてあっという間に夜の空に飛び上がり、地上100メイルの高さで滞空した。
キュルケが殺されてからそう時間は経っていないようだったが、いつまでも学院にいるはずは無い。
そして徒歩で逃げるとも思えない。やはり馬か馬車に乗って既に門を出た後かもしれない。
この暗さでは人の目では役に立たないため、風竜の視力に任せる事にする。
「馬を探して。見つけ次第降下」
絶対に──逃がさない。
──
『食事』を終え、沙耶とも無事合流を果たしたルイズは、人目を忍びながら馬屋に来ていた。
番人は既に始末してあるため、騒がれる事は無い。
収穫は馬二頭と、馬車が一台。馬車があったのは幸運だった。
屋根無しの荷車のようなものだったが、馬だけだと沙耶を怖がって乗る事が出来ないだろうから。
沙耶には荷物を背負って後ろの荷台に載り、馬を怖がらせないためシーツを被ってもらう。
ルイズ自身は御者だ。彼女には乗馬の経験はあるが御者台に座った事など無かった。
しかし贅沢を言っていられない。追っ手がかかる前に急いで学院を出なければならないのだから。
馬車馬に鞭をいれ、早速出発する。
門の警備兵は訝しげな顔をしたが、貴族の権威を振りかざし強引に押し通る。
門を、出た。
その瞬間、ルイズの表情が満面の笑みと変わる。
ついに逃げ出してやった。
まもなく脱走は発覚するだろうが、自分達はその頃には遠く離れた場所にいるはず。
このまま一気に国境に向かうのも良いが、
やはり追っ手を煙にまくために森にでも入ったほうがいいか。
そんな事を考えながら手綱を握っていたルイズだが、ふと後ろを向いた。
そういえば沙耶が先程から静かだ。
「どうしたの、沙耶? 調子悪いの?」
「……大丈夫。馬車に酔っただけだと思う」
確かに乗り慣れていないと、この振動は辛いかもしれない。
納得したルイズは、特に疑問を持たずに「そう?」といって前を向いた。
しかし、既に月明かりくらいしか頼りになる光源が無かったため、ルイズは全く気付けなかった。
沙耶の顔色は青を通り越して白くなり、苦しげに小さく震えていた事に。
学院から5リーグは離れただろうか、既にあの大きな建物は豆粒くらいにしか見えなくなっていた。
夜もふけてきたため。ルイズの気は段々と抜け始め、うつらうつらとしている。
その時、後ろの荷台にいた沙耶が警告の声を発した。
「ルイズ!」
反応する暇も無く、ルイズは沙耶に抱きかかえられ、馬車の外にその身を投げ出した。
その瞬間に馬車は突然砕け散り、馬も風によって切り刻まれた。
沙耶はナイフを構えて上空に向けて警戒の視線を向けている。
彼女の左手にはルーンが輝いている。これこそ、沙耶の切り札だった。
武器を持つと現れるこの現象は、非力な沙耶を強靭な肉体の戦士へと変える事が出来る。
油断無く空を見上げる沙耶に倣って、ルイズも夜空に目を凝らす。
白い竜にのった者がこちらを睨みつけていた。
「味な真似をしてくれるじゃない」
静かな声に怒りを滲ませながら、ルイズは杖を取り出して詠唱を始めた。
──
「見つけた……!」
タバサは馬車を発見すると同時に、容赦なく風のスペルを叩き込んだ。
しかし敵もさるもの、直前で気付いたのか凄まじい速さで
魔法の範囲から離脱し、破壊されたのは馬車だけだった。
敵がこちらに気付いたようだ。不定形の化物──沙耶と、その主ルイズが。
視線が絡まった。ルイズは恐ろしい形相で睨んできたが、負けじと睨み返す。
一瞬の後、ルイズは杖を取り出し魔法を使おうと詠唱を始めた。
やらせるものか。タバサは杖を振ると、
自身が最も得意とするウィンディ・アイシクルを大量に出現させ、雨のように降らせた。
この数は避けられまいと考えていたが、何と沙耶はルイズを抱えたまま全ての矢を避けきった。
目を丸くしたタバサが、次の呪文の詠唱に入ろうとした時、ルイズの呪文が完成する。
「ファイアー・ボール」
そんな距離から火球など当たるものか。
シルフィードを急旋回させ、相手の魔法を避けようとした瞬間、風竜の頭が爆発した。
突然の出来事に混乱したタバサだが、すぐに原因を把握する。
そういえば、彼女が何でも爆発させる『ゼロ』だったのを忘れていた。
苦々しい表情でルイズから視線を離し、己の使い魔の様子を見る。
どうやら急な爆発によって目を回しているだけのようだ。
しかし、この状況は頂けない。
高度はどんどんと下がり、あわや地面と激突という所でレビテーションを唱える。
速度は一瞬で殺され、ふわりと着地に成功した。
気絶したシルフィードをその場に残し、
お互いに15メイル程離れた距離でタバサはルイズと睨みあった。
最初に口を開いたのはタバサだった。
静かにルイズへ問いかける。
「どうして……どうしてキュルケを殺したの」
「……? あぁ、あれキュルケだったのね」
「っ! 彼女はあなたを心配していた。あなたの敵になるはずが無かった。一体何故殺したの……!」
「私達の邪魔になるからよ。
それに、何で相手が好意を向けてきたからって、こっちも好意で返さなきゃならないの?」
「……」
「納得できないみたいね? あなたも想像してみなさい。
地面を這いずる害虫が、自分に向かって飛んできたら、誰だって叩き落とすでしょう?」
「キュルケは害虫じゃない!」
「えぇ、そうね。いい味してたし、害虫なんていうのは失礼かもね」
タバサにとって信じられない言葉を吐いたルイズは、
本当に何も感じていないかのように、どうでも良いように見つめてきた。
─この女は……食ったのか? キュルケを食ったのか!
既にタバサは普段の無表情を装う事が出来なくなった。
憎悪に顔を歪め、怒りに燃えるその姿に『雪風』の二つ名は全く不似合いだった。
最早問答無用とばかりに杖を構えるタバサ。
対するルイズも静かに杖を向ける。
一触即発の雰囲気の中、タバサはある事に気がついた。
沙耶がいない。話を始める前はルイズの傍にいたはず。
視線をちらちらと周りに配り始めたタバサの足に触手のようなものが絡まる。
一瞬気付くのが遅れたタバサは、そのまま持ち上げられ、地面に叩きつけられた。
肺から空気が押し出され、声にならない悲鳴を上げるタバサ。
それでも杖を手放さなかったのは流石といえる。
ニ、三度同じ事を繰り返した触手──沙耶は、頭から血を垂れ流すタバサを思い切り放り投げた。
彼女は途轍もない速度で地面を転がり、その勢いが途切れると、大の字で倒れ伏した。
動かなくなったタバサに、ルイズは笑顔で近づいてきた。
「馬ぁ鹿。ゼロの私が、正面からやりあうとでも思ったの?」
愉快そうに笑うルイズに答えられる余裕の無いタバサ。
しかしその戦意はまだ失われていなかった。
仰向けのまま燃える瞳で睨みつけるタバサに、呆れた表情で杖を向けるルイズ。
そのまま止めを刺そうと呪文を唱えるルイズに向かって、タバサはウィンディ・アイシクルを解き放つ。
驚愕の顔でこちらを見つめるルイズに、タバサはにやりと口を歪めて見せた。
ルイズが近づく前に、口の中で呪文を唱えておいたのだ。
所詮ルイズは戦いに不慣れな素人だった。
相手に止めを刺さずに近寄ろうなんて、タバサは考えない。
獲物を前に舌なめずりなど、三流のすることだ。
氷の矢はルイズの体中に突き刺さり、彼女もタバサのように仰向けに倒れた。
『コノォ!』
横から見守っていた沙耶は、ナイフを構えてタバサに襲い掛かった。
速い。この速度では避けきれない。
それでも何とか杖を構え、心臓を狙っていたナイフの軌道を逸らす。
ナイフはタバサの左上腕に突き刺さった。
かなりの速度で刺されたため、傷はかなり深い。
タバサの腕は皮一枚でつながっている状態だった。
続けて襲いかかろうとする沙耶に、もう駄目かとタバサが諦めかけたその時。
突如、けたたましい叫び声が響き渡る。
シルフィードが目を覚ましたのだ。
タバサの使い魔は、雄叫びを上げながら地上を滑空して、その巨体を沙耶にぶちかました。
吹っ飛ぶ沙耶を目にし、ざまあみろと思っていたタバサの襟首が掴まれた。
何事かと後ろを振り向くと、シルフィードがその大きな口でマントのフード部分を咥えている。
目を見るとまだ混乱しているようだ。ただ主人を守ろうという意志のみで動いているのか。
どの道これ以上はもう戦えない。
沙耶を逃がすのは惜しかったが、キュルケの仇はとった。
それだけでタバサは満足していた。
ぶらぶらと鬱陶しい左腕に氷の魔法をかけて接合し、出血も止める。
タバサはシルフィードに咥えられたまま「学院へ」と呟くと、力無く意識を失った。
──
痛みに震える体に鞭打ち、血を流して倒れたルイズに近寄る。
ルイズは「ひゅーひゅー」と息を吐きながら、自分に近づく沙耶を見つめていた。
やがて二人の距離がゼロになる。
沙耶はその手でルイズをしっかりと抱きしめ、呟く。
「ごめんなさい、私がちゃんとしてなかったから」
「……っい……気に、しないで」
「痛いよね。ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大……丈、夫よ」
吐血しながらも気丈に笑顔を浮かべる様子に、涙が止まらなくなった沙耶。
動揺しながらも傷だらけのルイズの体を診る。
あの青い髪の魔法使いが放った氷の矢によって
両腕に一つずつ、左大腿に一つ、胸部に一つ、腹部に二つの大穴が開いている。
このままではルイズは死ぬ。
そう確信した沙耶は、背に持っていた荷物入れから斧を取り出し、自分の足に振り下ろした。
「な、何をやっているの!」
突然の凶行に慌てたルイズに、沙耶は答えず、切り落とした自分の足を改造する。
人から自分達のような姿に出来るなら、その逆も出来るはず。
沙耶は自分の体を使ってルイズの傷を塞ごうと考えていたのだった。
しかし、急にそんな事をしても上手くいくはずはない。
使用人の少女を改造するのも丸一日かかったのだ。
必死にルイズの傷口へ溶かした自分の体組織を埋め込むものの
出血は止まらず、ルイズをさらに苦しめるだけとなった。
さらに、急に沙耶の目の前が暗くなり、全身に引きつるような痛みが走る。
─こんな時に!
「もう、いいの……その気持ちだけで……十分だから」
沙耶が苦しむ様子にも気づいていないのか、ルイズは相変わらず笑顔で答える。
その間にも沙耶の『変化』は続き、彼女の身を蝕む。
体は熱く燃え滾り、全身が痙攣する。
沙耶の体は今、その存在意義である『繁殖』を行おうとしていた。
─せめて、ルイズが元気な頃に起こってくれれば良かったのに。
自身でコントロール出来ない事象に、八つ当たり気味に心の中で愚痴る沙耶。
もう、こうなっては仕方が無い。
最期に世界を上げられなかったのは残念だが、共に逝けるのならそれもまた良しだ。
心を決めた沙耶は、決して自分の苦しみをルイズに悟らせないように、笑う。
「ねぇ……ルイズ。いいものを見せてあげる」
「な、何……かし、ら?」
最早虫の息となったルイズが不思議そうに沙耶を見つめると、それは起こった。
沙耶の背中から、まるで蝶のような美しい翼が開かれたのだ。
まるで『咲いた』としか形容できないその現象に、ルイズは痛みも忘れて見入った。
その翼は眩く輝いていて、何かと思えばそれは、花弁をびっしりと覆う光の粒子のような鱗粉だった。
「……きれい」
「これが……あなたに送る、最初で最後のプレゼント。気に入って、くれた、かな?」
微笑を浮かべたままの沙耶は、珠の汗を流して途切れ途切れにルイズへと問いかけた。
翼がはためき、光の粒が夜空に舞い上がる。
いつの間にか厚い雲に覆われていた暗い天井は、その光によって美しく彩られた。
その圧倒的なまでの美に、ルイズは涙を流しながら答える。
「……ありがとう、大好き。沙耶」
「私も、大好き。もう名前も思い出せないあの人と、同じくらい、大好き」
「……なぁんだ。一番じゃ、ないのね」
「うん、ごめんね。ルイズ」
ルイズは少しだけ拗ねる様な仕草で沙耶の顔を見つめる。
最期に二人は笑いあい、お互いをぎゅっと抱きしめ、優しく口付けを交わした。
──
epilogue
突如不気味な胞子が世界を覆ってから早一年、あらゆる人間は襲い来る恐怖にパニックに陥っていた。
その胞子に触れた生物は誰区別無く平等に、奇怪で醜悪な化物に『進化』を遂げるのだ。
平民も、貴族も、動物も、遥か東に住むエルフ達も。全て。
このハルケギニアの生態系は書き換えられ、その化物に支配が乗り移ろうとしていた。
タバサ──シャルロットは、あの日、沙耶に止めを刺せなかった事を酷く後悔していた。
数ヶ月前、ガリアの忠実な老執事ペルスランから手紙が届いたのだ。
最期の力を振り絞って書かれただろうその手紙は、誰かの使い魔のフクロウによってもたらされた。
そのフクロウも、この学院に着いた途端に『進化』を始めたため、シャルロットが楽にしてやった。
手紙には、彼女の母が胞子によって亡くなった事、それを止められなかった後悔と、ひたすらシャルロットに対して謝罪する文章で占められていた。
後半から段々と乱れ、滲んでいく文字を見て彼女は老執事と母の冥福を祈った。
何度も読み直し、皺が寄ってしまった手紙を丁寧にたたみ、机の中にしまう。
通す腕の無い左側の袖をはためかせ、シャルロットは寮の部屋を出た。
現在この学院には人がほとんどいない。
生徒達はそれぞれの実家に戻り、胞子に触れぬよう、怯えた毎日を過ごしているのだろう。
教師達は己の研究室にこもり、魔法を使って事態の解決を図るため研究の毎日だ。
戦争は無期限に中止された。王宮では胞子に対する会議が連日開かれているらしい。
シャルロットはその足を図書館へ向けた。
中は閑散としている。
在りし日の賑わいを思い出し、憂鬱な表情を浮かべると、奥へ進み『フェニアのライブラリー』に入った。
そこでは老人が一人、本を読んでいる。
学院長オールド・オスマンだ。
もっとも、学院は既にその機能を成していないため、学院長と呼んでもあまり意味は無いが。
入ってきた人物に気が付いたのか、オスマン氏は顔を上げた。
「おお、君か」
彼はこの一年でめっきり老け込んだ。
ぴんと伸びていた背筋は弱々しく折れ曲がり、艶のあるストレートだった白髪や髭もよれよれだ。
最早、かつての偉大な魔法使いの面影は見られない。
彼なりにこの出来事に責任を感じているのだろうと思う。
胞子が世界を覆った直後、変わり行く生徒達を見て号泣した彼の姿を、シャルロットは忘れていない。
「例の書の解読は八割がた済んだよ。もうすぐ辿り着きそうじゃ」
「本当ですか?」
彼の言葉にシャルロットは顔を輝かせた。
一年前より、二人は教師達の研究とは別のアプローチで解決法を探っていた。
『沙耶』に似た生物の記述があった書──ヴォイニッチ手稿を始めとする
『魔道書』群の解読を行っていたのだ。
始めは手探りだったが、いくつかのパターンを発見してからの解読ははかどった。
しかし段々と読み進めるに連れ、二人は問題の大きさに頭を抱えた。
例の胞子を駆逐するためには、想像もつかないほどの強大な力が要るらしい。
それこそ、例の童話にあったように、始祖ブリミルが使ったという虚無くらいの。
魔道書の解読はさらに進んだ。
そして先月、漸く胞子への対抗手段になり得る記述を見つけた時は、二人で狂喜乱舞したものだ。
「意味不明な文句が続いておるが、この辺に召喚の呪文らしきものを発見したんじゃ。
正しき怒りがどうのこうのと書いてある。恐らくあと一月もあれば、全て解読できると踏んでおる」
「正しき、怒り……?」
確かに意味不明で、何やら荒唐無稽さを感じさせる言葉だ。
一体何が召喚されるのだろうかと期待に溢れるシャルロットだった。
さらにオスマン氏は驚くべき言葉を発した。
何と彼独自の情報網によって、虚無の使い手が見つかったらしい。
「サウスゴータ地方のウェストウッド村という所におるらしい。
誰が訪れても追い返されるらしいが、君にはその虚無の使い手の説得を頼みたい」
解読作業はもうほとんどオスマン氏一人でも出来る。
だがこの記述だけでは不安なため、胞子への対抗手段を一つでも増やしたいそうだ。
ここ最近は手持ち無沙汰になっていたシャルロットは、その提案に承諾した。
オスマン氏に一時の別れを告げ、外へ出る。
相変わらず、外は赤黒い肉だらけで気味が悪い。
口笛を吹くと、彼女の使い魔シルフィードが飛んできた。
「お姉さま~! こんな所で一人にしないでほしいのね!」
「ごめんなさい。シルフィード」
珍しく素直に謝る主人に風竜は目を丸くした。
「きゅい? ご機嫌なのね?」
「まぁね」
笑顔を浮かべたシャルロットは、風竜に搭乗すると行き先を告げた。
あっという間に空高く舞い上がる。
やはり見えてくるのは地上を覆いつくす肉、肉、肉だ。
─今に見ているがいい。お前達は、私が必ず駆逐してやるから。
確かな決意をその表情に秘め、青い髪の少女と白い竜の主従は、風となって空を翔け抜けた。
~幸せな夢~
そこは暖かい場所だった。
花は百花繚乱に咲き乱れ、空気は澄んで、川の水は清らか。
まさに天国のような場所だった。
川の近くには一つのテーブルがおかれ、三人の男女が卓を囲んでいた。
「ここここここの平民! 沙耶は私の使い魔だっていってるでしょ!
べべべ、べたべたするんじゃない!」
「ルイズのけちんぼ。良いじゃないの好きなんだから」
「ああああなたがそんな事を言うの!? 私の事好きって言ってたじゃない!」
「うん。でもそれはそれ、これはこれだよ?」
ぎゃーぎゃーと姦しく騒ぐ二人を、男性は優しく見守っていた。
病院で死んだはずの彼は、気付くとここに立っていた。
傍らには自分が愛した女性と見知らぬ少女が眠っている。
起こして事情を聞いてみれば、彼が愛した女性は何と少女の使い魔になっているという。
話の半分以上は理解できなかった彼だが、女の子が自分と同じ境遇だという事は分かった。
ここが何処だかは知らないが、ここには恐ろしい怪物も、気持ちの悪い肉のカーテンも存在しない。
そしてある意味同胞といえる少女と、愛すべき女性がいる。
彼にはそれだけで満足といえた。
「こら平民! 何をニヤニヤしてるの!」
いつの間にか彼も会話に巻き込まれていた。
やれやれ、と呆れながらも、彼女の言うところの使い魔にして
彼の愛する女性──沙耶の所有権について議論する。
そんな二人を見つめ、沙耶は幸せそうな笑顔で息を大きく吸い込み、叫んだ。
「二人とも、だーい好き!」
虚無の唄~song of zero~ 完
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