「虚無の唄-5」(2007/08/23 (木) 01:08:37) の最新版変更点
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訪ねてきたキュルケを適当にあしらい、ルイズは扉を背にベッドの上の沙耶へと向き直った。
正直あんな化物に臭いの事で文句を言われるのは、ルイズにとって甚だ心外であったが、無理も無い。
ここを出るに辺り、二週間も篭りっきりで『準備』をしていたのだ。
向こうにしてみれば、それは酷い悪臭だったのかもしれない。
寧ろルイズにとっては快適な空間になっていたのだが。
保存食料、路銀、旅用の衣服、地図、それに携帯出来る武器。
本来貴族は武器など振るわないが、魔法が頼りないルイズである。
沙耶の足を引っ張らないためには、最低限自分の身を守れるものが欲しかった。
そういう訳で、食堂の裏から小ぶりな斧と、肉厚のナイフを拝借したのだった。
そして最も準備に時間がかかったのが──。
準備した物は、学院の誰にも見つからないような所に隠してある。
沙耶でしか入れないような場所なので、見つかる事は無い。
じきにアルビオンも戦後処理が終わって、トリステインに向けて開戦の準備を進めるだろう。
二人で逃げる用意は先程漸く整った。後は機を計るのみだ。
「沙耶、もうすぐよ。誰にも邪魔されずに、二人だけで暮らせる時が来る。
さし当たっては何処に行こうかしら?ガリア、ロマリア、ゲルマニア……は何となく嫌ね」
「ルイズが一緒ならどこでもいいよ。でも……いいの、本当に?あなたさえその気なら」
「いいの。私は既に道を違えてしまった。
これじゃあ父さまや母さま、姉さま達に顔向けなんて出来ないもの」
つい先日、段々と狂気に染まっていく彼女を間近で見ていた沙耶は、
心配の余りにとうとう、自分が脳を手術行えば元の感覚を戻せる事を告白した。
しかし、決死の覚悟の沙耶に対するルイズの反応はあっさりしたものだった。
だから何?と答えたルイズに、沙耶は唖然とした。
故意に人を殺し、『喰った』という事実は、彼女の精神を取り返しのつかない所まで追いやってしまった。
また、彼女は既に身を取り巻く環境に慣れきっていた。
蠢く奇怪な生物にも、臓物の色に変わった空にも、ミミズの這う大地にも。
肉の壁に囲まれた道でも迷わず目的地に到着できるし、
どれが『人間』で、どれがそうでないのかも判別がつくようになった。
環境には適応し、人として許しがたい罪を犯している彼女にとって、
どうしても人の世に戻らねばならない理由は、無かった。
「あの日からずっと一緒にいた沙耶さえいれば、私にはそれで十分なの。
だから、そんな悲しい事を言わないでちょうだい」
「……うん、わかった。沙耶、ずっと一緒にいるね」
最近気付いた事だが、沙耶のルーンには『切り札』がある。
自分もいざとなれば、命中率は悪いが強力な魔法を使うことだって出来る。
たとえそれが失敗とは言え。
きっと上手くいく筈だ、きっと。そう自分に言い聞かせるルイズ。
彼女は疲れが溜まっていたのか、沙耶の胸に倒れこんだ。
それを優しく受け止めて頬に口付けする沙耶。
顔を赤くしながらも、嬉しそうに微笑むルイズ。
二人は今、幸せだった。
─早く戦争、始まらないかしら。
──
魔法学院本塔の最上階、学院長室。
重厚な造りのセコイアのテーブルに肘をつき、入室してからずっと沈黙を保ち続けるオスマン氏。
そんな彼を前にして、キュルケとタバサはどこかばつの悪そうな表情で立っていた。
部屋には、彼が鼻毛を「ぶちぶち」と抜く音だけが響き、重苦しい雰囲気に包まれている。
やがてその行動に飽きたのか、彼はふぅ、と鼻毛を飛ばし二人に向き直る。
「さて、弁明はあるかの。分かっとるとは思うが、重大な校則違反じゃからな」
「あ、あの……今回の件は私が──」
「君はいい。わしは主犯に聞いておるのだよ。なぁ、ミス・タバサ?」
「……」
親友を庇おうとするキュルケを一瞥して黙らせ、静かに問いかける。
そんな彼の言葉に答えようとしないタバサに、キュルケは慌てる。
(ちょっと、どうするつもりなの!)
(大丈夫。……多分)
こそこそと言い合う二人を見て、溜息を吐くオスマン氏。
おもむろに引き出しを引き、中からある『本』を取り出す。
『ヴォイニッチ手稿』
それが場に現れた瞬間、タバサは首を「ぐるん」と動かし、彼の手元の『本』を凝視した。
相方のそんな様子にちょっと引いたキュルケだった。
静かに自分を睨みつける少女に、微笑を浮かべながら彼は口を開く。
「そんなに怖い顔せんでもええぞ。今はとりあえず安全じゃ……今はな」
「……それは、一体何なのですか」
「さてのう、何じゃろうなぁ。君こそ、これを読んで何が知りたかったのかな?」
不穏な空気を醸し出す二人に、腰が引けつつもキュルケは果敢に声をかけようとしたが
いつになく鋭いオスマン氏の視線に断念する。
暫く黙っていた彼だが、再び溜息を吐くと、ゆっくりと語り始めた。
「こいつを始めとするあの書棚の本たちは、異世界からの召喚物じゃ。
ミス・ツェルプストーの家にもそういった類いの物があると聞いたが」
「え?まぁ、ありますけど……」
キュルケの家に代々伝わっていたのは単なるグラビア本なのだが、彼は気にせず話を続ける。
フェニアのライブラリーの一角には、この世界に本来は存在しない危険な書物が安置してあること。
その多くは、読者を狂気に堕とし、『怪異』を引き起こす迷惑極まりないものであること。
仮に読もうとするなら、予め絶対に呑まれまいという覚悟と、精神力をもって挑まなくてはいけないこと。
それも一部の教員のように、トライアングル・クラス以上の実力があってこそだ。
「全く、危険な事をしたもんじゃ。何の心構えも無く書を手に取るなど、自殺行為に等しいぞ」
「……」
「ミスタ・コルベールの頭を見たまえ。彼は無防備のまま書を読んだせいでああなったんじゃ」
神妙な態度でオスマン氏の言葉を聞いていたが、後半の聞き捨てならない内容に目を見張る二人。
素早く頭に手をやるタバサと、それを沈痛な面持ちで見つめるキュルケ。
自分の未来図を想像したのか、無表情のままのタバサの目には若干涙が浮かんでいた。
悲壮感に包まれる娘達に、オスマン氏はにやりと笑って告げる。
「いや、嘘なんじゃがな」
途端に表情を一変させて、燃え滾る炎も一瞬で凍らせそうな目つきで見る二人に、そ知らぬ顔のオスマン氏。
咳払いで気を取り直し、彼はさらに言葉を続ける。
「まぁ、それは置いといて。本題に入るかの。
二人が調べておったのは、ミス・ヴァリエールの使い魔じゃろ」
再び、学院長室の空気が重くなる。
彼は『本』を手に取ると、驚くべき説明を始めた。
──
トリステイン王国、首都トリスタニアの王宮。
その会議室では将軍や大臣が集められ、喧々囂々と議論を交わしていた。
会議の焦点は、先日届いた「最後通牒」と題された密書。
送り主は、つい最近、内戦を終えたばかりのアルビオンであった。
先頃、『閃光』のワルドと名乗る男が皇太子を殺害し、わが国の至宝である『風のルビー』を奪った。
独自の調査の結果、ワルドはトリステインの間諜であると断定した。
指定された期日までに『風のルビー』の返還と、下手人の引渡しが行われなければ、宣戦布告とみなす。
アルビオンの言い分はこうだった。
トリステインにしてみれば正に寝耳に水の出来事だ。
確かにワルドはトリステインの軍人だが、王宮にしては何も与り知らぬ事だ。
風のルビーはこの国には存在せず、肝心のワルドも行方不明となっていたため、
当初は知らぬ存ぜぬで通そうとした。しかし抗議文を送ってもつき返され、
周辺各国へ取り成しを要請しても『二国間の問題に口は出せない』と素気無く断られる。
結局問題を解決できぬまま、期限が明日へと迫っていた。
アンリエッタは現状報告を聞き、美しい顔に影を落とした。
ワルドを送り出したのは自分自身。
まさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった王女だった。
─きっと彼は殺されて、戦争の材料にされてしまったのだわ。
おお始祖ブリミルよ、罪深い私をお許しください……
実際にはワルドが裏切った結果なのだが、
それを知るものは誰もおらず、結果王女は見当違いな自分の考えに戦慄いていた。
枢機卿マザリーニは俯いた彼女を白けた目で見て、この問題をどう解決しようか悩んでいた。
明らかにアルビオンの言い分はおかしいが、ワルドが見つからない限り開戦は必至。
外交に持ち込もうにも向こうは此方の言い分を聞かない。
戦争になった場合も、トリステインの軍備では勝ち目は少ない。踏んだり蹴ったりであった。
その時、会議室の扉が乱暴に開かれ、急使が焦った様子で飛び込んできた。
何とアルビオンの軍勢がタルブの草原に陣を敷き、此方の軍を威嚇しているというではないか。
アンリエッタは死んだウェールズに思いを馳せ、
何かを決意した表情で立ち上がると、騒ぎ出した貴族達へ一喝した。
王女の突然の声に静まり返る会議室。
マザリーニは珍しいものでも見るかのように、ほぅ、と王女へ向き直った。
彼女はそのまま近くにいた兵に命令を下した。
「軍部に通達。今すぐ各連隊を率いてラ・ロシェールに展開、『敵』を迎え撃ちます!」
「し、しかし姫殿下。未だに向こうからの宣戦布告は──」
「お黙りなさい!状況を把握せよ。かの国は既に我が国土を侵しているのです。
悠長な事を言っていると、すぐに彼らは都まで攻め込んできますよ?」
王女の言葉に顔を青くした貴族達は、口角泡を飛ばしながら再び騒ぎ出した。
アンリエッタは溜息を吐いて座り込み、腕を組んだ。
マザリーニは、そんな王女に向けて問いかける。
「よろしかったので?」
「遅かれ早かれ、こうなる運命でした。今は民を守らねばなりません。
彼らの血が流れる事になってはいけない。私達はその為に君臨しているのだから」
頼りない王女がいつの間にか成長していた事に、感動しているマザリーニ。
しかし戦争を引き起こした原因の半分が、アンリエッタにある事を彼は知らない。
そして彼女は自らが指揮を執ることを高らかに宣言し、近衛を伴って会議室を出た。
その様子に、我も続けとばかりに動く貴族達。
城下に散らばった各連隊に連絡が飛び、魔法衛士隊は己の幻獣に騎乗して城を出発する。
今ここに、トリステインとアルビオンの戦争が始まった。
──
キュルケはタバサの隣で学院の廊下を歩いていた。目の前にはオスマン氏の背中がある。
彼女らは今、学生寮を目指している。目的地はルイズの部屋だ。
先程、彼に説明された内容はキュルケにとって信じがたいことばかりだった。
彼は以前より、図書館の危険な書物について調査をしていた。
そんな時にタバサからロングビルが殺されたという話を聞いてふと何かが引っかかった。
そして危険な書物の一冊──丁度タバサが読もうとしていたヴォイニッチ手稿の記述に、
ルイズの使い魔である沙耶に類似した存在があった事を思い出した。
それによれば、沙耶は異世界からの凶悪な侵略者である可能性が高い。
ロングビルを殺したという沙耶を、彼は即刻滅殺すべきか迷った。
『書』によれば沙耶は極めて危険な存在であるらしい。簡単に刺激を与えるリスクを彼は犯せなかった。
また彼は、ロングビルがフーケという盗賊だという事には気付いていた。
いずれ彼女がぼろを出した際に、自ら『処刑』する予定だったのだ。
死んだのはたかが盗賊、ならば処分を下す前に暫く様子を見るべきでは?
そう思い、タバサには口外無用と厳命し、調査自体も一週間で打ち切った。
結局、彼の使い魔であるハツカネズミのモートソグニルを、常に監視につけることで茶を濁した。
流石に部屋の中までは監視が行き届かなかったが、
沙耶が学院敷地内で行っていた小動物に対する『狩り』は逐一オスマン氏に報告されている。
その間に彼はさらに詳しい記述が無いか、書物を読み漁ったが、そもそも言語自体読めるものが少ない。
一般書庫で調べていたタバサと同じく、最初以外は大した成果は得られなかった。
だが監視の結果、沙耶はメイジに比べると、直接的な戦闘力が乏しいということだけは発覚していた。
それに加え数日前、表沙汰にはなっていないが二人目の犠牲者が出た。
ある使用人の平民が沙耶にさらわれる瞬間を、モートソグニルが見ていたのだ。
今度は死体の一部すら見つからなかった。それらの事実に、とうとうオスマン氏は決断した。
「二人目は平民の娘じゃったが、これ以上放置すれば貴族にも被害が出るやも知れぬ。
そうなる前に、諸悪の根源を絶たねばならない」
つまり、沙耶を殺すということだ。
キュルケは漸くルイズを狂わせた存在が消える事に安堵していた。
だが同時に不安も覚える。
彼女が明らかに豹変したのは沙耶を召喚してからだが、それ以前から既に様子がおかしくなかったか?
果たして沙耶を殺す事でルイズは元に戻るのか?
そんな思いがキュルケの中を渦巻いていた。
考えている内に、ルイズの部屋の前に到着した。そしてすぐに『開錠』で扉を開く。
空気が変わる。部屋の前から鼻を苛んでいた悪臭が、さらに生々しく有機的な汚臭へと。
オスマン氏は鼻を押さえたキュルケとタバサを下がらせ、その臭いに平然とした様子で奥を見つめる。
薄暗い部屋の中では、まるで待ち受けていたように、腕組みするルイズが無表情に立っていた。
「……レディの部屋にノックも無しなんて、礼儀がなってないわね」
「ミス・ヴァリエール。君の使い魔を出したまえ」
オスマン氏の言葉に、ルイズの顔は悪魔のような恐ろしい形相に変わる。
次の瞬間、貴族の子女とは思えない汚らわしい言葉で罵倒し始めた。
ルイズのそんな様子を歯牙にもかけず、部屋を見渡すオスマン氏。
視線の先に何かを認めた彼は、そのまま中に入ろうとする。
当然押し留めようとするルイズだが、体格の違いで押し切られ侵入を許してしまう。
耳を澄ますオスマン氏。微かに音が聞こえる。
ずりっ……ずりっ……
何かが這うような、泥のぬかるみで足を滑らしたような湿った音が。
「そこか」
「……っ!逃げて!」
ルイズの声など聞こえないように、オスマン氏は杖を振り、口の中で呪文を唱える。
恐ろしく高密度に圧縮された氷の槍が十数本、突如空中に現れる。
それはタバサが得意とするウィンディ・アイシクルよりも、鋭く、強靭で、禍々しかった。
凶悪なフォルムのその槍は、凄まじい勢いで隠れていた生物に突き立ち、破裂する。
『ヒギャアアアアアァァァァァァァァァァァッ!!!』
響き渡ったのは断じて人間ではありえない異音の『絶叫』と、びちゃびちゃと湿った何かに物がぶつかる音。
その悪夢のようなおぞましさに、キュルケとタバサは耳を塞がずにいられなかった。
生物はまだ息があるようで、オスマン氏はさらに攻撃の手を加える。
次々と現れる槍が、目標に向かって降り注いだ。
『イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!』
「やめてっ!もうやめて!」
ルイズの制止も空しく、やがて絶叫は啜り泣きに変わり、その内、何も音は聞こえなくなった。
恐る恐る、キュルケは静まり返った部屋の中を覗き込む。
そこいたのは厳しい顔で立ち尽くすオスマン氏と、呆然と座り込むルイズ。
二人の視線の先には、得体の知れぬ赤黒い液体が飛び散り、細切れの肉片となった『何か』があった。
今度こそキュルケは吐き気を抑えきれず、嘔吐した。
タバサもその惨状に顔を青くし、視線を逸らしている。
その時、部屋の外からオスマン氏を呼ぶ声がかかった。コルベールだった。
「大変であります、オールド・オスマン!」
コルベールは慌てた様子で走りより、息を切らしながらオスマン氏に告げる。
先程、猛烈な勢いで王宮より使者が訪れた。
使者によると、このトリステインはアルビオンの蛮行により、戦争状態に陥ったらしい。
それに伴って学院では生徒及び教職員の禁足令が出された。
突然もたらされた凶報に、オスマン氏は顔を顰める。
顎に手をやり、暫く考えていた彼だったが、生物の残骸を見て一つ肯くと部屋の外へ出た。
彼はルイズを一瞥し、コルベールに向けて学院長室に戻る旨を伝え、彼女を本塔の一室へ押し込めておくことを命令する。
『ゼロ』に何が出来るとも分からないが、杖を取り上げておくことも付け加えた。
これで、彼女は完全に無力な少女になるはずだ。
床に手を着いて嗚咽を漏らすルイズを見て、一体何をしたんだこの爺と思ったコルベールだが、命令通り彼女の杖を取り上げ、その手を引いて本塔へ向かった。
ルイズの表情は、俯いていたせいで誰にも見えなかった。
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―――
訪ねてきたキュルケを適当にあしらい、ルイズは扉を背にベッドの上の沙耶へと向き直った。
正直あんな化物に臭いの事で文句を言われるのは、ルイズにとって甚だ心外であったが、無理も無い。
ここを出るに辺り、二週間も篭りっきりで『準備』をしていたのだ。
向こうにしてみれば、それは酷い悪臭だったのかもしれない。
寧ろルイズにとっては快適な空間になっていたのだが。
保存食料、路銀、旅用の衣服、地図、それに携帯出来る武器。
本来貴族は武器など振るわないが、魔法が頼りないルイズである。
沙耶の足を引っ張らないためには、最低限自分の身を守れるものが欲しかった。
そういう訳で、食堂の裏から小ぶりな斧と、肉厚のナイフを拝借したのだった。
そして最も準備に時間がかかったのが──。
準備した物は、学院の誰にも見つからないような所に隠してある。
沙耶でしか入れないような場所なので、見つかる事は無い。
じきにアルビオンも戦後処理が終わって、トリステインに向けて開戦の準備を進めるだろう。
二人で逃げる用意は先程漸く整った。後は機を計るのみだ。
「沙耶、もうすぐよ。誰にも邪魔されずに、二人だけで暮らせる時が来る。
さし当たっては何処に行こうかしら? ガリア、ロマリア、ゲルマニア……は何となく嫌ね」
「ルイズが一緒ならどこでもいいよ。でも……いいの、本当に? あなたさえその気なら」
「いいの。私は既に道を違えてしまった。
これじゃあ父さまや母さま、姉さま達に顔向けなんて出来ないもの」
つい先日、段々と狂気に染まっていく彼女を間近で見ていた沙耶は、
心配の余りにとうとう、自分が脳の手術を行えば元の感覚を戻せる事を告白した。
しかし、決死の覚悟の沙耶に対するルイズの反応はあっさりしたものだった。
だから何? と答えたルイズに、沙耶は唖然とした。
故意に人を殺し、『喰った』という事実は、彼女の精神を取り返しのつかない所まで追いやってしまった。
また、彼女は既に身を取り巻く環境に慣れきっていた。
蠢く奇怪な生物にも、臓物の色に変わった空にも、ミミズの這う大地にも。
肉の壁に囲まれた道でも迷わず目的地に到着できるし、
どれが『人間』で、どれがそうでないのかも判別がつくようになった。
環境には適応し、人として許しがたい罪を犯している彼女にとって、
どうしても人の世に戻らねばならない理由は、無かった。
「あの日からずっと一緒にいた沙耶さえいれば、私にはそれで十分なの。
だから、そんな悲しい事を言わないでちょうだい」
「……うん、わかった。沙耶、ずっと一緒にいるね」
最近気付いた事だが、沙耶のルーンには『切り札』がある。
自分もいざとなれば、命中率は悪いが強力な魔法を使うことだって出来る。
たとえそれが失敗とは言え。
きっと上手くいく筈だ、きっと。そう自分に言い聞かせるルイズ。
彼女は疲れが溜まっていたのか、沙耶の胸に倒れこんだ。
それを優しく受け止めて頬に口付けする沙耶。
顔を赤くしながらも、嬉しそうに微笑むルイズ。
二人は今、幸せだった。
─早く戦争、始まらないかしら。
──
魔法学院本塔の最上階、学院長室。
重厚な造りのセコイアのテーブルに肘をつき、入室してからずっと沈黙を保ち続けるオスマン氏。
そんな彼を前にして、キュルケとタバサはどこかばつの悪そうな表情で立っていた。
部屋には、彼が鼻毛を「ぶちぶち」と抜く音だけが響き、重苦しい雰囲気に包まれている。
やがてその行動に飽きたのか、彼はふぅ、と鼻毛を飛ばし二人に向き直る。
「さて、弁明はあるかの。分かっとるとは思うが、重大な校則違反じゃからな」
「あ、あの……今回の件は私が──」
「君はいい。わしは主犯に聞いておるのだよ。なぁ、ミス・タバサ?」
「……」
親友を庇おうとするキュルケを一瞥して黙らせ、静かに問いかける。
そんな彼の言葉に答えようとしないタバサに、キュルケは慌てる。
(ちょっと、どうするつもりなの!)
(大丈夫。……多分)
こそこそと言い合う二人を見て、溜息を吐くオスマン氏。
おもむろに引き出しを引き、中からある『本』を取り出す。
『ヴォイニッチ手稿』
それが場に現れた瞬間、タバサは首を「ぐるん」と動かし、彼の手元の『本』を凝視した。
相方のそんな様子にちょっと引いたキュルケだった。
静かに自分を睨みつける少女に、微笑を浮かべながら彼は口を開く。
「そんなに怖い顔せんでもええぞ。今はとりあえず安全じゃ……今はな」
「……それは、一体何なのですか」
「さてのう、何じゃろうなぁ。君こそ、これを読んで何が知りたかったのかな?」
不穏な空気を醸し出す二人に、腰が引けつつもキュルケは果敢に声をかけようとしたが
いつになく鋭いオスマン氏の視線に断念する。
暫く黙っていた彼だが、再び溜息を吐くと、ゆっくりと語り始めた。
「こいつを始めとするあの書棚の本たちは、異世界からの召喚物じゃ。
ミス・ツェルプストーの家にもそういった類いの物があると聞いたが」
「え? まぁ、ありますけど……」
キュルケの家に代々伝わっていたのは単なるグラビア本なのだが、彼は気にせず話を続ける。
フェニアのライブラリーの一角には、この世界に本来は存在しない危険な書物が安置してあること。
その多くは、読者を狂気に堕とし、『怪異』を引き起こす迷惑極まりないものであること。
仮に読もうとするなら、予め絶対に呑まれまいという覚悟と、精神力をもって挑まなくてはいけないこと。
それも一部の教員のように、トライアングル・クラス以上の実力があってこそだ。
「全く、危険な事をしたもんじゃ。何の心構えも無く書を手に取るなど、自殺行為に等しいぞ」
「……」
「ミスタ・コルベールの頭を見たまえ。彼は無防備のまま書を読んだせいでああなったんじゃ」
神妙な態度でオスマン氏の言葉を聞いていたが、後半の聞き捨てならない内容に目を見張る二人。
素早く頭に手をやるタバサと、それを沈痛な面持ちで見つめるキュルケ。
自分の未来図を想像したのか、無表情のままのタバサの目には若干涙が浮かんでいた。
悲壮感に包まれる娘達に、オスマン氏はにやりと笑って告げる。
「いや、嘘なんじゃがな」
途端に表情を一変させて、燃え滾る炎も一瞬で凍らせそうな目つきで見る二人に、そ知らぬ顔のオスマン氏。
咳払いで気を取り直し、彼はさらに言葉を続ける。
「まぁ、それは置いといて。本題に入るかの。
二人が調べておったのは、ミス・ヴァリエールの使い魔じゃろ」
再び、学院長室の空気が重くなる。
彼は『本』を手に取ると、驚くべき説明を始めた。
──
トリステイン王国、首都トリスタニアの王宮。
その会議室では将軍や大臣が集められ、喧々囂々と議論を交わしていた。
会議の焦点は、先日届いた「最後通牒」と題された密書。
送り主は、つい最近、内戦を終えたばかりのアルビオンであった。
先頃、『閃光』のワルドと名乗る男が皇太子を殺害し、わが国の至宝である『風のルビー』を奪った。
独自の調査の結果、ワルドはトリステインの間諜であると断定した。
指定された期日までに『風のルビー』の返還と、下手人の引渡しが行われなければ、宣戦布告とみなす。
アルビオンの言い分はこうだった。
トリステインにしてみれば正に寝耳に水の出来事だ。
確かにワルドはトリステインの軍人だが、王宮にしては何も与り知らぬ事だ。
風のルビーはこの国には存在せず、肝心のワルドも行方不明となっていたため、
当初は知らぬ存ぜぬで通そうとした。しかし抗議文を送ってもつき返され、
周辺各国へ取り成しを要請しても『二国間の問題に口は出せない』と素気無く断られる。
結局問題を解決できぬまま、期限が明日へと迫っていた。
アンリエッタは現状報告を聞き、美しい顔に影を落とした。
ワルドを送り出したのは自分自身。
まさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった王女だった。
─きっと彼は殺されて、戦争の材料にされてしまったのだわ。
おお始祖ブリミルよ、罪深い私をお許しください……
実際にはワルドが裏切った結果なのだが、
それを知るものは誰もおらず、結果王女は見当違いな自分の考えに戦慄いていた。
枢機卿マザリーニは俯いた彼女を白けた目で見て、この問題をどう解決しようか悩んでいた。
明らかにアルビオンの言い分はおかしいが、ワルドが見つからない限り開戦は必至。
外交に持ち込もうにも向こうは此方の言い分を聞かない。
戦争になった場合も、トリステインの軍備では勝ち目は少ない。踏んだり蹴ったりであった。
その時、会議室の扉が乱暴に開かれ、急使が焦った様子で飛び込んできた。
何とアルビオンの軍勢がタルブの草原に陣を敷き、此方の軍を威嚇しているというではないか。
アンリエッタは死んだウェールズに思いを馳せ、
何かを決意した表情で立ち上がると、騒ぎ出した貴族達へ一喝した。
王女の突然の声に静まり返る会議室。
マザリーニは珍しいものでも見るかのように、ほぅ、と王女へ向き直った。
彼女はそのまま近くにいた兵に命令を下した。
「軍部に通達。今すぐ各連隊を率いてラ・ロシェールに展開、『敵』を迎え撃ちます!」
「し、しかし姫殿下。未だに向こうからの宣戦布告は──」
「お黙りなさい! 状況を把握せよ。かの国は既に我が国土を侵しているのです。
悠長な事を言っていると、すぐに彼らは都まで攻め込んできますよ?」
王女の言葉に顔を青くした貴族達は、口角泡を飛ばしながら再び騒ぎ出した。
アンリエッタは溜息を吐いて座り込み、腕を組んだ。
マザリーニは、そんな王女に向けて問いかける。
「よろしかったので?」
「遅かれ早かれ、こうなる運命でした。今は民を守らねばなりません。
彼らの血が流れる事になってはいけない。私達はその為に君臨しているのだから」
頼りない王女がいつの間にか成長していた事に、感動しているマザリーニ。
しかし戦争を引き起こした原因の半分が、アンリエッタにある事を彼は知らない。
そして彼女は自らが指揮を執ることを高らかに宣言し、近衛を伴って会議室を出た。
その様子に、我も続けとばかりに動く貴族達。
城下に散らばった各連隊に連絡が飛び、魔法衛士隊は己の幻獣に騎乗して城を出発する。
今ここに、トリステインとアルビオンの戦争が始まった。
──
キュルケはタバサの隣で学院の廊下を歩いていた。目の前にはオスマン氏の背中がある。
彼女らは今、学生寮を目指している。目的地はルイズの部屋だ。
先程、彼に説明された内容はキュルケにとって信じがたいことばかりだった。
彼は以前より、図書館の危険な書物について調査をしていた。
そんな時にタバサからロングビルが殺されたという話を聞いてふと何かが引っかかった。
そして危険な書物の一冊──丁度タバサが読もうとしていたヴォイニッチ手稿の記述に、
ルイズの使い魔である沙耶に類似した存在があった事を思い出した。
それによれば、沙耶は異世界からの凶悪な侵略者である可能性が高い。
ロングビルを殺したという沙耶を、彼は即刻滅殺すべきか迷った。
『書』によれば沙耶は極めて危険な存在であるらしい。簡単に刺激を与えるリスクを彼は犯せなかった。
また彼は、ロングビルがフーケという盗賊だという事には気付いていた。
いずれ彼女がぼろを出した際に、自ら『処刑』する予定だったのだ。
死んだのはたかが盗賊、ならば処分を下す前に暫く様子を見るべきでは?
そう思い、タバサには口外無用と厳命し、調査自体も一週間で打ち切った。
結局、彼の使い魔であるハツカネズミのモートソグニルを、常に監視につけることで茶を濁した。
流石に部屋の中までは監視が行き届かなかったが、
沙耶が学院敷地内で行っていた小動物に対する『狩り』は逐一オスマン氏に報告されている。
その間に彼はさらに詳しい記述が無いか、書物を読み漁ったが、そもそも言語自体読めるものが少ない。
一般書庫で調べていたタバサと同じく、最初以外は大した成果は得られなかった。
だが監視の結果、沙耶はメイジに比べると、直接的な戦闘力が乏しいということだけは発覚していた。
それに加え数日前、表沙汰にはなっていないが二人目の犠牲者が出た。
ある使用人の平民が沙耶にさらわれる瞬間を、モートソグニルが見ていたのだ。
今度は死体の一部すら見つからなかった。それらの事実に、とうとうオスマン氏は決断した。
「二人目は平民の娘じゃったが、これ以上放置すれば貴族にも被害が出るやも知れぬ。
そうなる前に、諸悪の根源を絶たねばならない」
つまり、沙耶を殺すということだ。
キュルケは漸くルイズを狂わせた存在が消える事に安堵していた。
だが同時に不安も覚える。
彼女が明らかに豹変したのは沙耶を召喚してからだが、それ以前から既に様子がおかしくなかったか?
果たして沙耶を殺す事でルイズは元に戻るのか?
そんな思いがキュルケの中を渦巻いていた。
考えている内に、ルイズの部屋の前に到着した。そしてすぐに『開錠』で扉を開く。
空気が変わる。部屋の前から鼻を苛んでいた悪臭が、さらに生々しく有機的な汚臭へと。
オスマン氏は鼻を押さえたキュルケとタバサを下がらせ、その臭いに平然とした様子で奥を見つめる。
薄暗い部屋の中では、まるで待ち受けていたように、腕組みするルイズが無表情に立っていた。
「……レディの部屋にノックも無しなんて、礼儀がなってないわね」
「ミス・ヴァリエール。君の使い魔を出したまえ」
オスマン氏の言葉に、ルイズの顔は悪魔のような恐ろしい形相に変わる。
次の瞬間、貴族の子女とは思えない汚らわしい言葉で罵倒し始めた。
ルイズのそんな様子を歯牙にもかけず、部屋を見渡すオスマン氏。
視線の先に何かを認めた彼は、そのまま中に入ろうとする。
当然押し留めようとするルイズだが、体格の違いで押し切られ侵入を許してしまう。
耳を澄ますオスマン氏。微かに音が聞こえる。
ずりっ……ずりっ……
何かが這うような、泥のぬかるみで足を滑らしたような湿った音が。
「そこか」
「……っ! 逃げて!」
ルイズの声など聞こえないように、オスマン氏は杖を振り、口の中で呪文を唱える。
恐ろしく高密度に圧縮された氷の槍が十数本、突如空中に現れる。
それはタバサが得意とするウィンディ・アイシクルよりも、鋭く、強靭で、禍々しかった。
凶悪なフォルムのその槍は、凄まじい勢いで隠れていた生物に突き立ち、破裂する。
『ヒギャアアアアアァァァァァァァァァァァッ!!!』
響き渡ったのは断じて人間ではありえない異音の『絶叫』と、びちゃびちゃと湿った何かに物がぶつかる音。
その悪夢のようなおぞましさに、キュルケとタバサは耳を塞がずにいられなかった。
生物はまだ息があるようで、オスマン氏はさらに攻撃の手を加える。
次々と現れる槍が、目標に向かって降り注いだ。
『イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!』
「やめてっ! もうやめて!」
ルイズの制止も空しく、やがて絶叫は啜り泣きに変わり、その内、何も音は聞こえなくなった。
恐る恐る、キュルケは静まり返った部屋の中を覗き込む。
そこいたのは厳しい顔で立ち尽くすオスマン氏と、呆然と座り込むルイズ。
二人の視線の先には、得体の知れぬ赤黒い液体が飛び散り、細切れの肉片となった『何か』があった。
今度こそキュルケは吐き気を抑えきれず、嘔吐した。
タバサもその惨状に顔を青くし、視線を逸らしている。
その時、部屋の外からオスマン氏を呼ぶ声がかかった。コルベールだった。
「大変であります、オールド・オスマン!」
コルベールは慌てた様子で走りより、息を切らしながらオスマン氏に告げる。
先程、猛烈な勢いで王宮より使者が訪れた。
使者によると、このトリステインはアルビオンの蛮行により、戦争状態に陥ったらしい。
それに伴って学院では生徒及び教職員の禁足令が出された。
突然もたらされた凶報に、オスマン氏は顔を顰める。
顎に手をやり、暫く考えていた彼だったが、生物の残骸を見て一つ肯くと部屋の外へ出た。
彼はルイズを一瞥し、コルベールに向けて学院長室に戻る旨を伝え、彼女を本塔の一室へ押し込めておくことを命令する。
『ゼロ』に何が出来るとも分からないが、杖を取り上げておくことも付け加えた。
これで、彼女は完全に無力な少女になるはずだ。
床に手を着いて嗚咽を漏らすルイズを見て、一体何をしたんだこの爺と思ったコルベールだが、命令通り彼女の杖を取り上げ、その手を引いて本塔へ向かった。
ルイズの表情は、俯いていたせいで誰にも見えなかった。
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