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I/
「貴様のその剣をへし折って仕上げ、というわけか。いいだろう。次の一撃で完膚なく叩
きのめしてやる」
豪軍(ホージュン)の言葉に答えはない。答えられるはずもない。彼の目の前にいるの
はただの剣鬼。いや、剣そのものだ。人の心など持ち合わせているはずもない。
だが、それがなにか。たかが一刀。世界を瑞麗に捧げると誓った豪軍には、目の前の存
在はあまりに小さく見えた。嘲笑が口元に浮かぶ。
そうして、豪軍は刀をへし折らんと全力で濤羅に向かって踏み込んだ。その速度は音速
をはるかに超える。ただ越えただけではない。内家の功に支えられたそれは、意を捉える
ことすら許さぬ轢殺の剣だ。
だが、それを前にして「雲霞渺々(うんかびょうびょう)」の構えをとった濤羅の心に
は、一片の恐れもなかった。ただ虚しく刀が閃くだけ。その速度もまた――豪軍と同じく
音速を超えていた。
その身を修羅と変えた濤羅が辿り着いた戴天流絶技、「六塵散魂無縫剣(ろくじんさん
こんむほうけん)」
暗い、枯れ果てた桃園に光が煌く。豪軍が持つレイピアと、濤羅が持つ倭刀が音速を超
えて切り結ぶ。音が耳に届くよりも早く火花が散り、視界を白く染めていく。
そうして、九度。濤羅の倭刀が豪軍の細いレイピアを半ばからへし折り、返す刀が彼の
胸へと吸い込まれていく。
最後の十度目。その瞬間に意識までも白く染められた濤羅は、自分の刀が豪軍に突き刺
さったかどうかもわからぬまま、その意識を手放した。
II/
「――なんなのよ、これ」
「サモン・サーヴァント」の呪文を唱え終わったルイズは、目の前を覆っていた煙が晴
れるとともに、茫然と――貴族にはらしからぬことだが――呻いた。
不安はあったのだ。彼女の呪文が失敗するときは、まず間違いなく爆発が引き起こされ
る。これだけの煙が立ったのだ。もしや使い魔の召喚に失敗したのではと内心恐れてすら
いた。
だが、これでは失敗していたほうがまだマシだ。何しろ、ただの失敗なら、再挑戦がで
きるかもしれない。だが、残念ながら目の前には何かしらが召喚されてしまった。
いったいこの男は何なのか。よくわからない素材でできた変に光沢のある黒いコートを
まとったその姿は、どう見てもただの人、それも平民にしか見えない。さらに悪いことに、
全身傷だらけで、その手には一風変わった意匠ではあるが剣が握られていた。
いや、最後のは幸運なのかもしれない。でなければ、背後の人間達は動揺しなかったの
かもしれないのだから。
だからだろう。召喚の主たるルイズは、ここにいる他の誰よりも冷静でいられた。
「ミスタ・コルベール、儀式の再挑戦を希望します!」
これは賭けだった。半死人の平民などを使い魔にするなど嫌だった。
だが、教師たるコルベールは、その一言で平静を取り戻したのか、実に残念そうな表情
を浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。
「一度呼び戻したら変更はできない。それだけ神聖な儀式なんだよ、春の使い魔召喚は」
人を使い魔にするなんて聞いたことありません――そう言おうとして、ルイズは口ごも
った。ちらりと、後ろを振り返る。破れたコートの隙間から流れ出た血が、床を赤く染め
ていた。このままでは、そう遠くないうちに命を落とすかもしれない。
それはぞっとしない想像だった。いくら自分がつけた傷ではないとはいえ、目の前で死
なれたのでは目覚めが悪い。それも自分が召喚した相手がだ。
ルイズの頭の中をいくつもの考えがクルクルと回る。再召喚に挑戦した場合のリスク、
その際にコルベールを説得するためにかかる時間、命の恩人という立場、わずかながら見
込める戦闘の腕。
そして何より、今目の前で失われようとしている命――
「ふう」
苦味が混じった唾液を呑み込んで、ルイズはため息をついた。そうして、倒れ伏してい
る男へと一歩近づく。一緒に傍に来たコルベールが、男の肩を掴んで仰向けにした。この
程度なら、手助けをしても構わないと思ったのか、それとも男の命を救うためにあえて手
を貸したのか。
たぶん、後者だろう。真剣なコルベールの瞳に見据えられて一瞬ドキっとしたルイズは
、なんとはなしにそう思った。で、ある以上、血が嫌だとか、よく知らない男にキスをす
るのは嫌だなど言ってられないだろう。第一、一度決めたのにのろのろとするのは、ルイ
ズの信条にも適さない。
わずかなりの抵抗で血に濡れた頬と唇をマントの袖で拭うと、ルイズは意を決して契約
の呪文を唱えた。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司
るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
初めてのキスは、どこか血の匂いと味に濡れていた。
III/
濤羅が目を覚ましてまず真っ先に知覚したのは、内傷によって傷みに傷んだ内臓の痛み
だった。体の内がをかき回されたような痛みに耐え、息を整える。
ひとつ、ふたつ、みっつ。静かな部屋に、濤羅の息が響き渡る。額に汗が滲む頃になっ
てようやく、内臓の疼くような痛みは治まった。ここにきてようやく、濤羅は今自分がど
こにいるかを気にするだけの余裕を手に入れた。
「ここは、どこだ?」
呟くように発した疑問に答える声はない。見れば、自分が来ていた全天候対応型のコー
トは脱がされており、代わりに病人が着るような服が着せられていた。真実病人服なのだ
ろう。濤羅の体には、ところどころに包帯が巻かれていた。
「……ここは、どこだ?」
同じ疑問をもう一度口にする。
あたりを見回すと、白いカーテンが掛けられたつい立がある。ここがもう病院か、それ
に類するものであるのはもはや疑いない。
だが、この自分を治療しようという物好きがどこにいる。そも、豪軍との戦いの結末は
どうなった。そして愛する妹は――
「瑞麗!!」
叫んで――体が硬直したのがよくわかった。
探して、どうする。
豪軍の言葉を確かめるか、それとも知らぬ存ぜぬを貫き通し、変わらず妹として接する
のか。
もし豪軍の言葉が空言ならば良い。だが、もし真実ならば。
濤羅のこけた頬が、この上ない苦渋に歪んだ。
剣に全てをかけたあの時は違い、縁(よすが)にするようなものは何もない。濤羅の脳
裏にかつての義兄の狂ったような笑顔で告げられた言葉が蘇る。
――お前が瑞麗を、お前が俺を狂わせたんだ!!
「違う!」
調息を乱してまで、濤羅は絶叫した。途端に内臓がうずき始めるが、構いはしない。臓
腑の底から、息の許す限り何度も何度も否定した。
「……俺は、お前たちに幸せになってほしかっただけなのに」
泣くように吐き出した言葉は真っ赤な血に濡れて、それがどうしようもなく悲しい。
濤羅は声もあげず、涙も流さず、喉の奥だけをふるわせた。
IV/
悲嘆に暮れていても、濤羅は手練の内家であり、また優れた凶手でもあった。それゆえ
に、ドア越しであろうと、その向こうに誰かが立っていることには気づいていた。ベッド
から降りると、いつでも動けるようにわずかに腰を落とす。
たとえ刀を持たずとも、戴天流には内家の深淵の技がある。生半なサイバネ相手ならば、
素手であろうと葬ることができる。
扉の開く音。はたして、警戒する濤羅の前に、気配の持ち主が現れた。その姿に、愚か
にも濤羅は一瞬我を忘れてしまった。
「あ、あんた、目が覚めたのね! っていうか、立ってるじゃない!!」
何しろ、目の前に現れたのは何のサイバネ強化もされていない、少なくとも傍目には
そう見えるか細い少女だったのだ。
そしてその判断はおそらく間違っていないだろう。少女は、濤羅に無造作に、武を修め
たとは思えない足取りで真っすぐ寄ってきたからだ。足元から伝わる振動も、少女の体重
が見た目どおりであることを証明していた。
このサイバネ全盛期に、五体を全く弄らない人間が一般人にいるなんて。
「ちょっとあんた、聞いてるの?」
「あ、いや、すまない」
釣り目がちなその目をさらに険しくした少女。彼女の声で、濤羅はようやく忘我の淵か
ら呼び戻された。だが、未だその内心は乱れている。このかよわい少女に、どう警戒すれ
ばいいというのか。
頭を振って、濤羅は迷いを振り捨てた。理由や現状はわからぬが、少なくとも、この場
はすぐに離れなければなるまい。
「……刀はどこだ?」
「はぁ? あんた、今まで黙っておいて、いきなりそれ?
命を救ってもらって礼の一つも言えないの?」
助けてもらうような命じゃない――そう心の中で呟いた濤羅の顔に、苦笑と呼ぶには
いささか苦すぎる笑みが浮かんだ。
「青雲幇(ちんわんぱん)の抗争に、巻き込まれたくはあるまい」
苦笑を凄絶な笑みに代えて、濤羅は呟いた。これは忠告だった。それこそ恩の一つも返
せぬ濤羅ができる、唯一の礼。
だが、それを受けた少女は、上海なら誰もが聞いておびえる「青雲幇」の名を聞いても、
きょとんとした表情を浮かべるだけで、恐れる様子はどこにもない。それどころか、眉を
逆立てて烈火のごとく怒り出した。
「チンワンパンだかアンパンだから知らないけど、あなたは私に召喚されて、使い魔にな
ったのよ? ご主人さまに聞く口調じゃないわね。
大方、あなたは流れの傭兵か何かなんでしょう。そのちん……なんとかだって所詮は平
民じゃない。
そんなもので貴族の私が恐れると思うなんて、本当、平民って生意気」
今度は、濤羅が唖然とする番だった。少女の無知から来る無謀さに頭痛すら湧いてくる。
貴族、と聞いて真っ先に思い浮かんだのはEUだった。ロシアが中国のサイバネ市場を漁
り始めたのを見たか聞いたかして、急いで駆け付けてきたのかもしれない。
少女はどう見ても裏の世界の住人には見えないから、親にひっついてきたのか、それと
も連れられてきたのか。どちらにせよ、深窓の令嬢なのだろう。
そこまで考えて、濤羅は違和感を覚えた。聞き間違いじゃなければ、目の前の少女は
「使い魔」などと言わなかっただろうか。
「使い魔とは、何だ?」
答えは、侮蔑の視線とともに帰ってきた。
「まったく、そんなことも知らないなんてどんな田舎からやってきたのよ。サーヴァン
トよ、サーヴァント。魔法使い専用の召し使い。
山野から魔法に使えそうな材料を取ってきたり、近くを共有してどこかを探ってもらっ
たり。あとはご主人様を守ることね。
……ところでアンタ、魔法についてどれぐらい知ってる?」
「魔法? 正気で言ってるのか? そんなものこの世に存在するはずが」
侮蔑の視線が、さらに険しくなった。とはいえ、少女の眼光ごときで怯える濤羅ではな
い。ただ、わずか、本当にわずかなのだが、そのきつい目つきが、いつだかの自分を睨む
妹のそれと重なって、濤羅の胸がわずかに軋んだ。
わけもなく心臓を握りつぶしたい衝動に駆られ、濤羅は病院服ごと胸をかきむしる。
「ちょ、痛むの? 馬鹿っ、勝手に立つから! ちょっと待ってなさい、先生を呼んでく
るから!!」
急激な濤羅の変化に、少女は狼狽し、助けを呼ぼうと踵を返した。そうして走り出そう
として――その一歩が踏み出せなかった。その細い肩を、濤羅の手が掴んだからだ。
きしり、と音を立てそうなほどに、少女の体が固まった。
無理もない。いくら無知で無謀とはいえ、知らぬ男につかまれて平気でいられる少女
など、そうはいない。
自らの下策を苦々しく悟ると、濤羅はその手をゆっくりと離した。少女を落ち着かせる
ように、できるだけ優しい口調で話しかける。
「痛みは、ない。驚かせて、その、すま、なかった」
自らの口から出る言葉の固さに、濤羅自身が驚いた。だが、すぐに納得する。もはや人
に優しさをかける資格など、自分にはありはしないのだ。
自嘲とすらよべぬほどの乾いた笑みが濤羅の顔に浮かぶ。だが、振り向いた少女の顔は、
濤羅の予想と違い、恐怖の色は浮かべてはいなかった。代わりにあるのは怒りだ。
「ちょっと、ご主人様の肩に気安く触れるなんてどういうことよ!」
「あ、いや、その」
沸騰した薬缶のように起こる少女に、静まり返った水面のように何もなかった濤羅の心
が、わずかに波打った。憎しみでもなく、嘲りでもなく、こうまでまっすぐ感情をぶつけ
られたのは、久しく覚えがなかったからだ。
距離をとろうにも、濤羅が下がる分だけ少女は同じだけ前に詰めてくる。
「いい、あんたは私の使い魔なんだから、三歩下がって影を踏まないように歩きなさ
い。命令もなしに触れるなんてもってのほかよ」
「……その使い魔とやらになった覚えはないんだが」
かろうじて、それだけを絞り出した。だが、少女は勝気のままに鼻を一つ鳴らすと、
腕を組んで流し目で濤羅を見やってきた。瞳は、愉快そうな色を湛えて細められている。
「左手を見てみなさい。ルーンが刻まれているでしょう。それが、あんたが私の使い魔だ
って証拠よ」
言われて、濤羅は左手を目の前にかざした。今までなぜ気付かなかったのか不思議なく
らい、左手の甲に大きな文様が刻まれている。アルファベットやキリル文字になんとなく
近い感じはするが、濤羅はこのような文字を知らない。そしてこれがいつ刻まれたのかも。
「……勝手に、刻んだのか?」
低く怒りを押し隠した濤羅の声が部屋に響く。だが、少女は濤羅の怒りに気づかぬまま
やれやれといった風に肩をすくめた。
「そうよ。抗議は受け付けないわよ。放っといたら、アンタ死んでたんだからね。命の代
わりに貴族の使い魔になれるのよ。文句どころか、感謝してほしいぐらいだわ」
突きつけられた指を、濤羅は胡乱な瞳で見つめ返す。
もはや自らの生死に拘りなどない。命を救ってもらったことに恩義を感じぬではないが、
それでも感謝をしようという気持ちにはなれなかった。
もはや、自分は死んでいるのだ。体がいくら生きていようと、豪軍に告げられた真実が
致命的なほどに濤羅の心を深く抉っていた。
「命など、とうの昔に捨てている」
あの愛する妹を失ったときから――そう心の中で呟いて、濤羅は自嘲した。はたして、
自分が本当に妹を失ったのは、いったいいつのことなのだろうか。
あまりにも下らぬ問いに、口元に乾いた笑みが張り付いた。
「……捨ててるんならちょうどいいわ。その命、私が拾いましょう。大体、アンタを助け
るのに一体いくらかかったと思ってるの。少なくとも、その分だけは絶対働いてもらいま
すからね」
首を横に振ろうとして、濤羅は思いとどまった。この場を離れて、いったいどうするの
か。
妹には会えない。
あれほど焦がれていたというのに、今会おうと思うと、それだけでとてつもない怖れが
心のうちを這いずりまわる。
その勇気が、濤羅にはない。
刀がなければ、濤羅の心は弱い唯人のものでしかないのだ。
だが、いや、だからこそ、この少女の言葉を、自ら受け入れることもできなかった。今
の濤羅にできるのは、ただ流されるのみ。
「いいのか。俺は青雲幇に命を狙われている」
「言ったでしょう。私は貴族よ。そんなもの、恐れはしない」
「俺は、凶手――殺し屋だ」
「っ、いいんじゃない? 強いほうが、私も身の安全を守れるわ」
「俺は――」
「ああ、もううるさいっ! ごちゃごちゃ言おうが、アンタは私の下僕で、私はご主人
様。それはもう決定してるの。アンタの命プラスかかった治療代。その分だけの恩は、
絶対返してもらうんだから、覚悟しときなさいよ」
煮え切らぬ濤羅を押し切るように、少女は大声で宣言した。濤羅の意志など関係ないと
言わんばかりだ。
だが、それがいい。
糸の切れた凧は風に流されるだけ。ならば、その風は強ければ強いほどにいい。その点、
少女は望むべくもないほど強い風をその内に宿している。濤羅には、それが心地よい。
風に押されて、濤羅の首が縦に動いた。
「わかった。仮初ではあるが、我が一刀、貴様に捧げよう」
その言葉に、少女は満足そうに頷いた。
「仮初っていうのが気に食わないけど、まあいいわ。よく聞きなさい、平民。
我が名は、ヴァリエール家が第三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・
ヴァリエール。
アンタのご主人さまの名前よ」
「平民と呼ぶのはよせ。俺には、孔濤羅という名がある。
それで、ここは一体どこだ。病院にしては、部屋に誰もいないし、ずいぶんと人の気配
が少ないが」
「そう、そういえば言ってなかったわね。
ここはトリステイン魔法学院。本当だったら、あんたみたいな田舎者の平民が入ること
すら許されない、高貴なる者の学校よ」
また、知らぬ名だ。それにまた「魔法」などという言葉が出てくるとは。
世界中のすべての地名を知っているわけではないが、こうも知らぬことばかりが続くと、
流石に濤羅とて憶えの悪さを感じる。
とはいえ、黙っているわけにもいかない。
「トリステイン? EUのどこかなのか?」
「いーゆー? どこよそれ。ハルゲニア大陸にそんな名前のところあったかしら?」
「ハルゲニア大陸? 地球にそんな大陸はあったか?」
不思議そうに首をかしげていた少女。濤羅とてわけがわからない。そも、彼の記憶は、
豪軍との衝突までで途切れているのだ。気づけばここにいた。まさか、SFとやらじゃある
まいし、まさか宇宙人に呼び出されたなんてことはあるまい。
だが、そんな予想は、ある意味違っていなかったことを、すぐに濤羅は悟ることになる。
「チキュウ? どこよ、それ」
言い知れぬめまいを感じて、濤羅は額に手をあてた。
「上海は、ロシアは、中国、アメリカ、マカオ。どれでもいい。どこか聞き覚えのある地
名はないか」
すがるような濤羅の問いに、少女は黙って首を振った。
乾いた笑いの衝動が、濤羅の胸の内に込み上げる。
目の前の少女が狂人でなければ、そして自分が狂っているのでなければ、どうやらここ
は地球ですらないらしい。なら、妹に会う会わないなど問題ですらないではないか。
いっそ自分が狂っているといい。
「は、は、ハハハハハ」
ついにあふれ出た笑いが、部屋の中にむなしく響き渡る。
怯えたような視線を少女がむけていることに気付きながらも、濤羅はその笑いを、しば
らくは止めることができなかった。
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I/
「貴様のその剣をへし折って仕上げ、というわけか。いいだろう。次の一撃で完膚なく叩
きのめしてやる」
豪軍(ホージュン)の言葉に答えはない。答えられるはずもない。彼の目の前にいるの
はただの剣鬼。いや、剣そのものだ。人の心など持ち合わせているはずもない。
だが、それがなにか。たかが一刀。世界を瑞麗に捧げると誓った豪軍には、目の前の存
在はあまりに小さく見えた。嘲笑が口元に浮かぶ。
そうして、豪軍は刀をへし折らんと全力で濤羅に向かって踏み込んだ。その速度は音速
をはるかに超える。ただ越えただけではない。内家の功に支えられたそれは、意を捉える
ことすら許さぬ轢殺の剣だ。
だが、それを前にして「雲霞渺々(うんかびょうびょう)」の構えをとった濤羅の心に
は、一片の恐れもなかった。ただ虚しく刀が閃くだけ。その速度もまた――豪軍と同じく
音速を超えていた。
その身を修羅と変えた濤羅が辿り着いた戴天流絶技、「六塵散魂無縫剣(ろくじんさん
こんむほうけん)」
暗い、枯れ果てた桃園に光が煌く。豪軍が持つレイピアと、濤羅が持つ倭刀が音速を超
えて切り結ぶ。音が耳に届くよりも早く火花が散り、視界を白く染めていく。
そうして、九度。濤羅の倭刀が豪軍の細いレイピアを半ばからへし折り、返す刀が彼の
胸へと吸い込まれていく。
最後の十度目。その瞬間に意識までも白く染められた濤羅は、自分の刀が豪軍に突き刺
さったかどうかもわからぬまま、その意識を手放した。
II/
「――なんなのよ、これ」
「サモン・サーヴァント」の呪文を唱え終わったルイズは、目の前を覆っていた煙が晴
れるとともに、茫然と――貴族にはらしからぬことだが――呻いた。
不安はあったのだ。彼女の呪文が失敗するときは、まず間違いなく爆発が引き起こされ
る。これだけの煙が立ったのだ。もしや使い魔の召喚に失敗したのではと内心恐れてすら
いた。
だが、これでは失敗していたほうがまだマシだ。何しろ、ただの失敗なら、再挑戦がで
きるかもしれない。だが、残念ながら目の前には何かしらが召喚されてしまった。
いったいこの男は何なのか。よくわからない素材でできた変に光沢のある黒いコートを
まとったその姿は、どう見てもただの人、それも平民にしか見えない。さらに悪いことに、
全身傷だらけで、その手には一風変わった意匠ではあるが剣が握られていた。
いや、最後のは幸運なのかもしれない。でなければ、背後の人間達は動揺しなかったの
かもしれないのだから。
だからだろう。召喚の主たるルイズは、ここにいる他の誰よりも冷静でいられた。
「ミスタ・コルベール、儀式の再挑戦を希望します!」
これは賭けだった。半死人の平民などを使い魔にするなど嫌だった。
だが、教師たるコルベールは、その一言で平静を取り戻したのか、実に残念そうな表情
を浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。
「一度呼び戻したら変更はできない。それだけ神聖な儀式なんだよ、春の使い魔召喚は」
人を使い魔にするなんて聞いたことありません――そう言おうとして、ルイズは口ごも
った。ちらりと、後ろを振り返る。破れたコートの隙間から流れ出た血が、床を赤く染め
ていた。このままでは、そう遠くないうちに命を落とすかもしれない。
それはぞっとしない想像だった。いくら自分がつけた傷ではないとはいえ、目の前で死
なれたのでは目覚めが悪い。それも自分が召喚した相手がだ。
ルイズの頭の中をいくつもの考えがクルクルと回る。再召喚に挑戦した場合のリスク、
その際にコルベールを説得するためにかかる時間、命の恩人という立場、わずかながら見
込める戦闘の腕。
そして何より、今目の前で失われようとしている命――
「ふう」
苦味が混じった唾液を呑み込んで、ルイズはため息をついた。そうして、倒れ伏してい
る男へと一歩近づく。一緒に傍に来たコルベールが、男の肩を掴んで仰向けにした。この
程度なら、手助けをしても構わないと思ったのか、それとも男の命を救うためにあえて手
を貸したのか。
たぶん、後者だろう。真剣なコルベールの瞳に見据えられて一瞬ドキっとしたルイズは
、なんとはなしにそう思った。で、ある以上、血が嫌だとか、よく知らない男にキスをす
るのは嫌だなど言ってられないだろう。第一、一度決めたのにのろのろとするのは、ルイ
ズの信条にも適さない。
わずかなりの抵抗で血に濡れた頬と唇をマントの袖で拭うと、ルイズは意を決して契約
の呪文を唱えた。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司
るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
初めてのキスは、どこか血の匂いと味に濡れていた。
III/
濤羅が目を覚ましてまず真っ先に知覚したのは、内傷によって傷みに傷んだ内臓の痛み
だった。体の内がをかき回されたような痛みに耐え、息を整える。
ひとつ、ふたつ、みっつ。静かな部屋に、濤羅の息が響き渡る。額に汗が滲む頃になっ
てようやく、内臓の疼くような痛みは治まった。ここにきてようやく、濤羅は今自分がど
こにいるかを気にするだけの余裕を手に入れた。
「ここは、どこだ?」
呟くように発した疑問に答える声はない。見れば、自分が来ていた全天候対応型のコー
トは脱がされており、代わりに病人が着るような服が着せられていた。真実病人服なのだ
ろう。濤羅の体には、ところどころに包帯が巻かれていた。
「……ここは、どこだ?」
同じ疑問をもう一度口にする。
あたりを見回すと、白いカーテンが掛けられたつい立がある。ここがもう病院か、それ
に類するものであるのはもはや疑いない。
だが、この自分を治療しようという物好きがどこにいる。そも、豪軍との戦いの結末は
どうなった。そして愛する妹は――
「瑞麗!!」
叫んで――体が硬直したのがよくわかった。
探して、どうする。
豪軍の言葉を確かめるか、それとも知らぬ存ぜぬを貫き通し、変わらず妹として接する
のか。
もし豪軍の言葉が空言ならば良い。だが、もし真実ならば。
濤羅のこけた頬が、この上ない苦渋に歪んだ。
剣に全てをかけたあの時は違い、縁(よすが)にするようなものは何もない。濤羅の脳
裏にかつての義兄の狂ったような笑顔で告げられた言葉が蘇る。
――お前が瑞麗を、お前が俺を狂わせたんだ!!
「違う!」
調息を乱してまで、濤羅は絶叫した。途端に内臓がうずき始めるが、構いはしない。臓
腑の底から、息の許す限り何度も何度も否定した。
「……俺は、お前たちに幸せになってほしかっただけなのに」
泣くように吐き出した言葉は真っ赤な血に濡れて、それがどうしようもなく悲しい。
濤羅は声もあげず、涙も流さず、喉の奥だけをふるわせた。
IV/
悲嘆に暮れていても、濤羅は手練の内家であり、また優れた凶手でもあった。それゆえ
に、ドア越しであろうと、その向こうに誰かが立っていることには気づいていた。ベッド
から降りると、いつでも動けるようにわずかに腰を落とす。
たとえ刀を持たずとも、戴天流には内家の深淵の技がある。生半なサイバネ相手ならば、
素手であろうと葬ることができる。
扉の開く音。はたして、警戒する濤羅の前に、気配の持ち主が現れた。その姿に、愚か
にも濤羅は一瞬我を忘れてしまった。
「あ、あんた、目が覚めたのね! っていうか、立ってるじゃない!!」
何しろ、目の前に現れたのは何のサイバネ強化もされていない、少なくとも傍目には
そう見えるか細い少女だったのだ。
そしてその判断はおそらく間違っていないだろう。少女は、濤羅に無造作に、武を修め
たとは思えない足取りで真っすぐ寄ってきたからだ。足元から伝わる振動も、少女の体重
が見た目どおりであることを証明していた。
このサイバネ全盛期に、五体を全く弄らない人間が一般人にいるなんて。
「ちょっとあんた、聞いてるの?」
「あ、いや、すまない」
釣り目がちなその目をさらに険しくした少女。彼女の声で、濤羅はようやく忘我の淵か
ら呼び戻された。だが、未だその内心は乱れている。このかよわい少女に、どう警戒すれ
ばいいというのか。
頭を振って、濤羅は迷いを振り捨てた。理由や現状はわからぬが、少なくとも、この場
はすぐに離れなければなるまい。
「……刀はどこだ?」
「はぁ? あんた、今まで黙っておいて、いきなりそれ?
命を救ってもらって礼の一つも言えないの?」
助けてもらうような命じゃない――そう心の中で呟いた濤羅の顔に、苦笑と呼ぶには
いささか苦すぎる笑みが浮かんだ。
「青雲幇(ちんわんぱん)の抗争に、巻き込まれたくはあるまい」
苦笑を凄絶な笑みに代えて、濤羅は呟いた。これは忠告だった。それこそ恩の一つも返
せぬ濤羅ができる、唯一の礼。
だが、それを受けた少女は、上海なら誰もが聞いておびえる「青雲幇」の名を聞いても、
きょとんとした表情を浮かべるだけで、恐れる様子はどこにもない。それどころか、眉を
逆立てて烈火のごとく怒り出した。
「チンワンパンだかアンパンだから知らないけど、あなたは私に召喚されて、使い魔にな
ったのよ? ご主人さまに聞く口調じゃないわね。
大方、あなたは流れの傭兵か何かなんでしょう。そのちん……なんとかだって所詮は平
民じゃない。
そんなもので貴族の私が恐れると思うなんて、本当、平民って生意気」
今度は、濤羅が唖然とする番だった。少女の無知から来る無謀さに頭痛すら湧いてくる。
貴族、と聞いて真っ先に思い浮かんだのはEUだった。ロシアが中国のサイバネ市場を漁
り始めたのを見たか聞いたかして、急いで駆け付けてきたのかもしれない。
少女はどう見ても裏の世界の住人には見えないから、親にひっついてきたのか、それと
も連れられてきたのか。どちらにせよ、深窓の令嬢なのだろう。
そこまで考えて、濤羅は違和感を覚えた。聞き間違いじゃなければ、目の前の少女は
「使い魔」などと言わなかっただろうか。
「使い魔とは、何だ?」
答えは、侮蔑の視線とともに帰ってきた。
「まったく、そんなことも知らないなんてどんな田舎からやってきたのよ。サーヴァン
トよ、サーヴァント。魔法使い専用の召し使い。
山野から魔法に使えそうな材料を取ってきたり、近くを共有してどこかを探ってもらっ
たり。あとはご主人様を守ることね。
……ところでアンタ、魔法についてどれぐらい知ってる?」
「魔法? 正気で言ってるのか? そんなものこの世に存在するはずが」
侮蔑の視線が、さらに険しくなった。とはいえ、少女の眼光ごときで怯える濤羅ではな
い。ただ、わずか、本当にわずかなのだが、そのきつい目つきが、いつだかの自分を睨む
妹のそれと重なって、濤羅の胸がわずかに軋んだ。
わけもなく心臓を握りつぶしたい衝動に駆られ、濤羅は病院服ごと胸をかきむしる。
「ちょ、痛むの? 馬鹿っ、勝手に立つから! ちょっと待ってなさい、先生を呼んでく
るから!!」
急激な濤羅の変化に、少女は狼狽し、助けを呼ぼうと踵を返した。そうして走り出そう
として――その一歩が踏み出せなかった。その細い肩を、濤羅の手が掴んだからだ。
きしり、と音を立てそうなほどに、少女の体が固まった。
無理もない。いくら無知で無謀とはいえ、知らぬ男につかまれて平気でいられる少女
など、そうはいない。
自らの下策を苦々しく悟ると、濤羅はその手をゆっくりと離した。少女を落ち着かせる
ように、できるだけ優しい口調で話しかける。
「痛みは、ない。驚かせて、その、すま、なかった」
自らの口から出る言葉の固さに、濤羅自身が驚いた。だが、すぐに納得する。もはや人
に優しさをかける資格など、自分にはありはしないのだ。
自嘲とすらよべぬほどの乾いた笑みが濤羅の顔に浮かぶ。だが、振り向いた少女の顔は、
濤羅の予想と違い、恐怖の色は浮かべてはいなかった。代わりにあるのは怒りだ。
「ちょっと、ご主人様の肩に気安く触れるなんてどういうことよ!」
「あ、いや、その」
沸騰した薬缶のように起こる少女に、静まり返った水面のように何もなかった濤羅の心
が、わずかに波打った。憎しみでもなく、嘲りでもなく、こうまでまっすぐ感情をぶつけ
られたのは、久しく覚えがなかったからだ。
距離をとろうにも、濤羅が下がる分だけ少女は同じだけ前に詰めてくる。
「いい、あんたは私の使い魔なんだから、三歩下がって影を踏まないように歩きなさ
い。命令もなしに触れるなんてもってのほかよ」
「……その使い魔とやらになった覚えはないんだが」
かろうじて、それだけを絞り出した。だが、少女は勝気のままに鼻を一つ鳴らすと、
腕を組んで流し目で濤羅を見やってきた。瞳は、愉快そうな色を湛えて細められている。
「左手を見てみなさい。ルーンが刻まれているでしょう。それが、あんたが私の使い魔だ
って証拠よ」
言われて、濤羅は左手を目の前にかざした。今までなぜ気付かなかったのか不思議なく
らい、左手の甲に大きな文様が刻まれている。アルファベットやキリル文字になんとなく
近い感じはするが、濤羅はこのような文字を知らない。そしてこれがいつ刻まれたのかも。
「……勝手に、刻んだのか?」
低く怒りを押し隠した濤羅の声が部屋に響く。だが、少女は濤羅の怒りに気づかぬまま
やれやれといった風に肩をすくめた。
「そうよ。抗議は受け付けないわよ。放っといたら、アンタ死んでたんだからね。命の代
わりに貴族の使い魔になれるのよ。文句どころか、感謝してほしいぐらいだわ」
突きつけられた指を、濤羅は胡乱な瞳で見つめ返す。
もはや自らの生死に拘りなどない。命を救ってもらったことに恩義を感じぬではないが、
それでも感謝をしようという気持ちにはなれなかった。
もはや、自分は死んでいるのだ。体がいくら生きていようと、豪軍に告げられた真実が
致命的なほどに濤羅の心を深く抉っていた。
「命など、とうの昔に捨てている」
あの愛する妹を失ったときから――そう心の中で呟いて、濤羅は自嘲した。はたして、
自分が本当に妹を失ったのは、いったいいつのことなのだろうか。
あまりにも下らぬ問いに、口元に乾いた笑みが張り付いた。
「……捨ててるんならちょうどいいわ。その命、私が拾いましょう。大体、アンタを助け
るのに一体いくらかかったと思ってるの。少なくとも、その分だけは絶対働いてもらいま
すからね」
首を横に振ろうとして、濤羅は思いとどまった。この場を離れて、いったいどうするの
か。
妹には会えない。
あれほど焦がれていたというのに、今会おうと思うと、それだけでとてつもない怖れが
心のうちを這いずりまわる。
その勇気が、濤羅にはない。
刀がなければ、濤羅の心は弱い唯人のものでしかないのだ。
だが、いや、だからこそ、この少女の言葉を、自ら受け入れることもできなかった。今
の濤羅にできるのは、ただ流されるのみ。
「いいのか。俺は青雲幇に命を狙われている」
「言ったでしょう。私は貴族よ。そんなもの、恐れはしない」
「俺は、凶手――殺し屋だ」
「っ、いいんじゃない? 強いほうが、私も身の安全を守れるわ」
「俺は――」
「ああ、もううるさいっ! ごちゃごちゃ言おうが、アンタは私の下僕で、私はご主人
様。それはもう決定してるの。アンタの命プラスかかった治療代。その分だけの恩は、
絶対返してもらうんだから、覚悟しときなさいよ」
煮え切らぬ濤羅を押し切るように、少女は大声で宣言した。濤羅の意志など関係ないと
言わんばかりだ。
だが、それがいい。
糸の切れた凧は風に流されるだけ。ならば、その風は強ければ強いほどにいい。その点、
少女は望むべくもないほど強い風をその内に宿している。濤羅には、それが心地よい。
風に押されて、濤羅の首が縦に動いた。
「わかった。仮初ではあるが、我が一刀、貴様に捧げよう」
その言葉に、少女は満足そうに頷いた。
「仮初っていうのが気に食わないけど、まあいいわ。よく聞きなさい、平民。
我が名は、ヴァリエール家が第三女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・
ヴァリエール。
アンタのご主人さまの名前よ」
「平民と呼ぶのはよせ。俺には、孔濤羅という名がある。
それで、ここは一体どこだ。病院にしては、部屋に誰もいないし、ずいぶんと人の気配
が少ないが」
「そう、そういえば言ってなかったわね。
ここはトリステイン魔法学院。本当だったら、あんたみたいな田舎者の平民が入ること
すら許されない、高貴なる者の学校よ」
また、知らぬ名だ。それにまた「魔法」などという言葉が出てくるとは。
世界中のすべての地名を知っているわけではないが、こうも知らぬことばかりが続くと、
流石に濤羅とて憶えの悪さを感じる。
とはいえ、黙っているわけにもいかない。
「トリステイン? EUのどこかなのか?」
「いーゆー? どこよそれ。ハルゲニア大陸にそんな名前のところあったかしら?」
「ハルゲニア大陸? 地球にそんな大陸はあったか?」
不思議そうに首をかしげていた少女。濤羅とてわけがわからない。そも、彼の記憶は、
豪軍との衝突までで途切れているのだ。気づけばここにいた。まさか、SFとやらじゃある
まいし、まさか宇宙人に呼び出されたなんてことはあるまい。
だが、そんな予想は、ある意味違っていなかったことを、すぐに濤羅は悟ることになる。
「チキュウ? どこよ、それ」
言い知れぬめまいを感じて、濤羅は額に手をあてた。
「上海は、ロシアは、中国、アメリカ、マカオ。どれでもいい。どこか聞き覚えのある地
名はないか」
すがるような濤羅の問いに、少女は黙って首を振った。
乾いた笑いの衝動が、濤羅の胸の内に込み上げる。
目の前の少女が狂人でなければ、そして自分が狂っているのでなければ、どうやらここ
は地球ですらないらしい。なら、妹に会う会わないなど問題ですらないではないか。
いっそ自分が狂っているといい。
「は、は、ハハハハハ」
ついにあふれ出た笑いが、部屋の中にむなしく響き渡る。
怯えたような視線を少女がむけていることに気付きながらも、濤羅はその笑いを、しば
らくは止めることができなかった。
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