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「鬼哭街/Zero-4」(2007/10/01 (月) 04:20:17) の最新版変更点
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I/
休日の、それもそれなりに大きな街のメインストリートに面した食堂ともあれば、多少
時間がずれたとて十分な賑わいを見せる。その片隅のひっそりとしたテーブルに座って店
員に注文をすると、濤羅はようやく人心地つくことができた。とはいえ、完全には気を抜
けない。街に入る折、キュルケにスリ、それも魔法を使うような手合いには警戒するよう
言われたのだ。
軽く店内を見回した限り、濤羅が想像する様な魔法使い然とした格好をしたものはいな
い。が、濤羅にはそもそもそうであるかないかの区別などつかない。故に挙動不審な者が
いないか、常に意識を張っていなければならず、店員が注文の品を持ってきても、濤羅が
気を緩めることはなかった。
「ふう、おいし」
グラスを傾け、実に美味しそうに喉を鳴らすキュルケ。その中身はエールだ。まだ昼、
まだ学生だというのに、その様はなかなか堂に入っている。そのことにわずかに頭痛を覚
えながら、濤羅もまた飲み物を口にした。無論、酒ではない。
「あら、ミスタは飲まないの。もしかして下戸?」
キュルケがからかい混じりに問いかけた。そうではない。ただ、一度酒を口にすれば、
潰れるまで痛飲してしまうだろう自覚があっただけだ。
濤羅とてかつては幇会の男。心許せる仲間と酒を飲み比べ、競い合うことなど幾度もあ
った。今この店にいる男たちのように、全てを忘れるかのように騒いだことすらあったの
だ。だが、それも今は遠い昔。彼らやキュルケのように酒を楽しむことなどできはしまい。
もはや帰る場所すらないのだから。
濤羅と彼らとを分かつ一番の溝はそれだ。濤羅は星を眺めるかのように、遠くから見つ
めることしかできない。いや、空を見上げることすら許されまい。
だが、そのような煩悶を露とも見せず、濤羅は首を横に振った。それだけを告げると、
何も言わず体や消化によさそうな料理を選んで箸をつける。
「あら……もしかしてミスタ、はしばみ草は平気なの?」
先ほどの笑みを含んだ問いとは違い、今度は心から驚いているようだった。見ればその
隣に座るタバサも、その眼鏡の奥の瞳をわずかに見開かせている。
それほどものもがあっただろうか。心の中で首をかしげ、その名前と彼女が声を上げた
ときから推量をつけて、テーブルの中央辺りにあるサラダを口に運ぶ。
確かに苦い。なんとも言えぬ風味が口の中に広がる。だが、漢方・生薬が身近にあった
濤羅が耐えられぬほどでもない。もう一度はしばみ草とやらを口にして、濤羅は呟いた。
「別段、どうということもない」
「あらまあ、仲間ができてよかったわね、タバサ」
声をかけられたタバサは、黙って一つの皿を差し出した。こんもりと盛られたはしばみ
草がたっぷり入ったサラダだ。だが、その意図がわからない。キュルケの発言からすれば、
これは彼女の好物、あるいはそれに近いものではないか。
濤羅の視線を受けて、タバサは感情を見せぬ表情のままポツリと漏らした。
「助けてもらったお礼」
後はもう何も言うことはないといわんばかりに、すさまじい速さで箸を動かし料理を口
に運んでいく。言葉を返す暇もない。断る機を失った濤羅は、しばらく困ったように目の
前の皿を見つめていた。その様子をキュルケが眺めていたことにも、笑みを浮かべていた
ことにも気がつかないで。
II/
食事が終わった後も一行は、しばらくのんびりしていた。気疲れした濤羅はもとより、
あれだけ元気に動き回っていたキュルケも疲れていたのだろう。今はソフトドリンクをち
びりちびりと飲んでいる。表情を変えぬタバサは読みにくいが、休むことに異論はないよ
うで、その手にはハードカバーの本が広げられていた。
言葉のないテーブルに頁がめくられる音だけが静かに響く。だが、その静けさは長くは
続かない。いくら濤羅らが黙っていても、休日の食堂の騒がしさは変わらない。まして酒
がある店だ。隣のテーブルからは、男たちの怒号とテーブルを叩く拳の音が聞こえてくる。
「ふう」
タバサが本を閉じた。それを契機に店を出ようとキュルケが腰を浮かす。濤羅もまた立
ち上がろうとして——押しとどまった。厳しい目つきで男達を睨んだまま立ち上がろうと
しない。
「ミスタ?」
「来る」
怪訝そうに濤羅を覗き込むキュルケと、タバサの警告は同時だった。それを彼女が理解
するよりも早く、濤羅の腕が伸び、キュルケを一気に引き寄せる。
「きゃあっ」
可愛らしい悲鳴を上げて、目を丸くするキュルケ。抗議の声を上げようと口を開き、そ
してすぐにまた驚きの声を上げた。
遅れて、その場に男が倒れこんできたのだ。派手な音を立てて頑丈そうなテーブルがひ
っくり返る。宙に放り出されたグラスが、くるくるとまだいくらか残していた中身を零し
ながら板張りの床へと落ちていく。黒く滲んだ床に散らばったグラスの破片が、窓からの
光に照らされてきらきらと輝いていた。
店内は俄かに騒然となる。悲鳴だけでなく、囃し立てるような声もどこかから聞こえて
くる。応えるように、隣のテーブルの男たちは無意味に椅子を蹴倒しながら、店中に響く
ような大声を張り上げた。
「ははは、おいどうした、立てねーのかよ」
野卑た笑い声をあげる。酒にでも酔っているのか、全員顔は赤らんでおり、目の焦点も
どことなくあっていない。視線を倒れた男に向ける。くぐもった呻き声を漏らしたきり立
ち上がる気配はまるでない。
仲間内の諍いか——似通った男達の服装と、足元の男から微かに漂う酒精の香りから、
適当に推量をつける濤羅。だが、どうにも腑に落ちない。
濤羅ほどの達人であれば、たとえ我が身に迫らずとも、周囲に危機があれば自然と察知
できる。今しがたキュルケを救ったように。だが、この男が突き飛ばされた時はどうか。
薄皮一枚隔てたような違和感があっただけだ。それも少し前からずっと。
訝しみながら、濤羅は膝を折る。違和感を確かめるついでに介抱しようと手を伸ばし、
唐突に世界が歪んだ。
それは目の前の男から発されていた。細く波打ちながら蛇のようにキュルケへと忍び寄
ると鎌首をもたげ喰らいついた。
「!!」
一瞬目を見張る濤羅。だが、気配はそこで唐突に消え失せた。あとには傷一つない。
キュルケは変わらず男達を冷たい視線で睨んでおり、その背後に控えるタバサも異変に
は気付かなかったようで、杖を握り締めているだけだ。
「うう」
と、そこで伏していた男が庇うように胸に手を当てながら、ようやく起き上がろうとし
ていた。よろよろと力なく体は揺れ、頭の位置すら定まらない。しかし一瞬、ほんの一瞬
だが、確かに男達と視線を合わせた。口の端に、嫌らしい笑みがかすかに浮かぶ。
濤羅の脳裏に、キュルケの警告が甦る。曰く、魔法を使うスリに気をつけろ。
濤羅は魔法を知らない。何ができて、何ができないのか。どのような理で働き、どのよ
うに発動するのか。濤羅にはそれがわからない。
だが、どれだけ魔法が早かろうと、どれだけ魔法が見えなかろうと、心より先ずること
は不可能だ。ならば今濤羅が感じ取った異変とは——
キュルケと男たちはもはや睨み合いではなく、喧嘩のような言い争いを始めていた。
男達の浮かべる怒りの表情の裏には、隠しようのない侮蔑の色が見て取れる。あるいは、
彼女らもそれを悟っているのかもしれないが、不幸にも侮られることに慣れてしまってい
るのだろう。聡いからこそ、逆に男達の企みに気がつかない。
男が立ち上がる。手は胸に置いたまま立ち上がる。
彼女たちは気付かない。男達にばかり注意を向けて気付かない。
男達は笑っている。生意気な小娘から小金を巻き上げようと笑っている。
濤羅にはもはや守るべき仁も義もない。五徳を捨て、修羅に走った濤羅に人の道を説く
資格などあるはずもない。それでも、わずかなりの責任は感じていた。違和感を無視して
早く席を立っていれば、男の介抱を彼女らに任せていれば、あるいは、この事態は防げた
のかもしれない。そして何より、お金がなくてはルイズへの贈り物を買えないではないか。
だから仕方なく。本当に仕方なくだが、誰に言われるまでもなく、濤羅は自らの意思で
男へと声をかけた。
「そこまでにしておけ」
III/
濤羅の言葉に、店中の注目が集まった。その視線にさらされながら、男は冷や汗を浮か
べている。せわしなく目を動かし、胸に当てた手には力が込められている。
「な、なんのことで、旦那?」
殴られたとは思えぬほどの卑屈な声で、男は濤羅に語りかけた。その前に、一瞬男達に
目配せをして。
そうして、再び感じる世界の歪み。今度は、男達のほうから発されている。下策といえ
ば下策だった。同じ手を二度、それも一度ばれているくせに繰り返すのだ。さらに言えば、
先程と違って今は喧嘩を装って注意を引き付けるような状態ではない。
「なるほど、そういうことだったのね」
気付いたキュルケが、その顔に不敵な笑みを浮かべた。タバサがその眼鏡を押し上げる。
視線の先には、男達の壁に隠れた魔法使いがもう一人。視線に射すくめられて、短く悲鳴
を上げた。
「あら、どうしたの、こんな小娘に見られただけぐらいでそんなに怯えて」
その言葉に答えたのは、先頭に立つ一番大きな男だった。わざと大きく見せるよう肩を
怒らせ、キュルケたちへと一歩距離を詰める。
「おいおい、あんたらみたいな貴族様の嬢ちゃんに睨まれたら、俺ら平民はどうすれば良
いってんだよ。びびったってしかないだろ。大体なんだ、魔法が使えない俺らがどうして
あんたらの財布を取れるんだ」
「私たちは、魔法なんて一言も言ってない」
「財布ともね」
怒りか焦りからか、にわかに男の顔が紅潮した。肩だけでなく全身までも震わせている。
そうして、その大きな拳を振り上げて一歩踏み出し——
黒い風が、駆け抜けた。
キュルケが身を翻すよりも、タバサがルーンを唱えるよりも、男が拳を振り下ろすより
も、何よりも早く、その影はキュルケの前に現れた。濤羅だった。音も立てず踏み出し、
その突き出された右手は、男の腹に添えられていた。それこそ軽く、触れられているだけ。
だというのに、男の目がぐるりと裏返った。
「……ほ、う」
吐息のような悲鳴を漏らすと、男は口から黄色い胃液を吐いて膝から崩れ落ちた。前の
めりに倒れたその頭が床にぶつかり、鈍い音を響かせる。立ち上がれぬ崩れ方だった。
わけがわからぬと、あたりがシンと静かになる。
戴天流が掌法、黒手烈震破——ではない。本来なら、五臓六腑をことごとく破裂させる
一撃だ。いくら加減したとて、体格ばかりに頼った男が受けてこの程度で済むはずがない。
これは、あの風竜の上で濤羅が語った技そのものだ。違う点があるとすれば、今度は、
濤羅の踏み込みの力が含まれている一点のみ。ただそれだけの力で、濤羅は頭ひとつほど
大きな男を一撃で伸していた。
振り向いて、濤羅は呟く。
「これが暗勁だ」
呆けるキュルケとタバサを後ろにやると、濤羅は再び男たちに向き直った。感情を見せ
ぬ暗い瞳に見据えられ、男たちに恐怖が走る。わけもわからぬまま、男たちの中で最強の
ものが倒されたのだ。
真っ当に戦って勝てる相手ではない。背後には魔法使いの生徒たちも控えている。
あるいは、一斉にかかれば倒せるのでは——そんな思考が体に出たのか、男たちは誰と
もなしに腰を落とし始める。
その機先を制したのは、やはり濤羅だった。
「やめておけ。懐の財布さえ返してもらえば、それでいい。
だが、逆らうというなら——」
血を吸った刀のように、ぬらりと異様な光をたたえた瞳がすうと細められた。そこには
覇気も殺気もない。だというのに、人を心の底から脅かす何かがそこにはあった。あるい
は、何もないからこそ人は恐れるのか。
その瞳で、濤羅は財布を持つ男を見据えた。一秒、それだけの間、濤羅と魔法使いの視
線が絡み合う。
「ひいっぃいいいっ!」
隠れた男が、悲鳴を上げながら財布を濤羅の足元に向かって投げ捨てた。中の金貨が甲
高く鳴る。どれだけの金額になるというのか。それを惜しむ気配すら見せず、男はもはや
何も見たくないといわんばかりに身を翻して店の出口から走り去っていく。倒れた椅子を
蹴飛ばし、足をもつれさせ、みっともなくも這う這うの体で逃げていく。その表情を見た
客たちの顔までもが驚きに引きつった。いったい彼は何を見たというのか。
恐怖は、伝染する。
また別の男が、濤羅の瞳と目があった。そうして知る。そこにあるのは光などではない。
そう錯覚するほどの底なしの闇があるだけだと。今度は、一秒と持たなかった。引きつっ
た息を漏らして仲間を突き飛ばすと、その男も出口に向かってがむしゃらに向かっていく。
——男たちが我先にと出口に殺到するまでには、そう長い時間は必要としなかった。
IV/
「あー、おかしかった。見た、あの男たちの逃げる様?」
店を出て、ようやくルイズへの土産を選びに行く最中、上機嫌でキュルケは濤羅に笑い
かけた。相も変わらず濤羅の鉄面皮は動かないが、そんなことはお構いなしにターンをひ
とつ。よほど彼らが、そして財布を掏られたことに気がつかなかった自分が気に食わなか
ったらしい。反動で、今のキュルケはこの上ない上機嫌だった。そのまま、軽い足取りで
目の前の角をひとつ曲がる。
そこはメインストリートから一本入った、大きくも小さくもない、露天商が居並ぶ道だ
った。数多くの露天商が道に商品を並べ、一つでも自分の商品を買ってもらおうと道行く
人に声をかけている。
キュルケが濤羅に薦めたのは、彼女の好物のクックベリーパイだった。近頃学院の女の
子たちの間で密かに評判になっている甘味屋がこの道の先にある。その店は、量の割りに
値段もお手ごろで味も悪くない。
そしてルイズはこの店の商品を食べたことがないだろう。そう、キュルケは確信を持っ
ていた。平民が開く市井の店に大手を振って顔を出せる貴族はそうはいない。露天商が居
並ぶこの道を通らねばならないのだからなおさらだ。それゆえ、その店の名を学院で聞く
ことはその知名度に反して滅多にない。友人の少ないルイズが、知ってるはずもなかった。
知っていたとしてもプライドが邪魔をしていただろう。
彼女の喜ぶ顔、あるいは驚く顔を想像したキュルケの頬に笑みが浮かぶ。幸いにして、
それを咎めるような無粋な輩はいなかった。
と、そこでキュルケは違和感に気づいた。露天商ならば、上機嫌の貴族でも見かければ、
商品を売り込もうと声の一つでもかけるはずだった。貴族を恐れもするが、それ以上に商
魂たくましいのが彼らだ。自粛するものもいるだろうが、誰一人声をかけないというのは
さすがに不自然だった。
「おかしいわね、普段なら何人かは声をかけてくるっていうのに」
キュルケは周りに聞こえるように呟いた。視線をめぐらせるが、みな一様に目が合うの
を恐れて俯くか、空々しいまでに大声で客と会話をするばかりだ。
属性が炎だからだろうか、彼女は注目を浴びるのが好きだった。男たちに持て囃される
のも、同性から嫉妬や羨望の視線で見つめられるのも、同じメイジに自らが扱う炎を賞賛
されるのも、何もかも、例えそれが正であろうと負だろうと、注目されることは全て好き
だった。自信があったのだ。自信になったのだ。
それだけに、今の状況は気に食わない。恐れるならいい。敬うならいい。へりくだるの
だってありだ。だが、見ない振りをすることだけは許せない。
ふん、と彼女は鼻を一つ鳴らすと、一番手近なところにいた露天商へと歩いていった。
V/
「おかしいわね、普段なら何人かは声をかけてくるっていうのに」
そう言った彼女も、やはり性根は芯から貴族だった。
幇にいた濤羅にはわかる。彼らが声をかけてこない理由が。
商人とは利益を求めるものだ。そして、利益にはリスクが付いて回る。それが見合うか
どうかの判断ができぬようでは、商人とは呼べない。まして店も構えられぬ露天商の彼ら
には、大した後ろ盾すらないのだ。採算の見通しも立てずにリスクだけを負う。それでは
山師、博打打ちと変わらない。
今で言えば、そのリスクは濤羅だった。彼を一目見て勘が働かないようでは、露天商な
ど務まるはずもない。自然と、避けるような流れになっていた。
濤羅にはそのほうがよほど心地よい。
だが、目の間の少女が違うようだった。先程までの上機嫌は嘘のように消えてなくなり、
背中越しですらわかるほど不機嫌な空気を発していた。息を一つ漏らすと、迷わずある露
天商の元へと歩いていく。
「あら、結構いいもの扱ってるじゃない」
「ひっ」
言葉とは裏腹に挑むような口調でかけられた声に、商人が短く悲鳴を上げた。独り立ち
したばかりだろうか、見ればまだ年若い。キュルケ達よりまだ二つか三つ上なだけだろう。
怯えてしまっては、対等な取引は望めない。その弱みに付け込まれ、商品は安く買い叩
かれてしまう。
キュルケの細い指が、宝石を扱ったブローチを拾い上げた。太陽にかざして、様々な角
度から色彩の変化を確かめている。
それを、商人は恐怖を押し隠した卑屈な笑みを浮かべて眺めていた。
「これは……錬金でつくった石じゃないわね」
「は、はい。その石も、あしらった細工もすべて職人によるものです。お値段は——」
「いいわ。別に興味ないもの」
「は?」
一言で切り捨てられた商人の目が丸くなる。それを尻目に、キュルケは次の商品に取り
掛かっていた。今度は、グラデーションが色鮮やかな二枚貝のペンダントだった。親指の
先程の小さな貝は、写真でも入れられるのか、ぱちん、ぱちんと開けたり閉めたりできる
ようになっている。
「これなんてかわいいわね」
「は、はい。それは世にも珍しい、アルビオンの山中にいる——」
「でもいらない」
商人が泣きそうな表情を浮かべた。それでも笑みだけは絶やさない。泣き笑いだった。
それでもキュルケはとまらない。また新たな商品に目を留めると、その細い指でまた拾
い上げていく。また冷やかしでも始めるのだろう。気でも咎めたのか、タバサがキュルケ
を止めようと一歩踏み出して——
「店主」
その先を濤羅が制した。そこの見えぬ瞳に見据えられてとうとう商人の顔から笑みが消
えた。それに取り合わず、濤羅はもう一度彼に問いかけた。
「店主、今彼女が持っているのは?」
それは商人からすれば好機だった。からかっている貴族の少女とは違い、目の前の男は
真実商人に興味を見せていた。あるいは、口八丁手八丁で商品の価値を何倍にも上げられ
るだろう。だが目の前の圧力に耐えられず、つい商人は正直なところを口にしてしまった。
「そ、そそそれはただの安物でさあ。旦那。錬金してもらった銀を、駆け出しの若造に
誂えさせただけの、どこにでもあるような代物です」
「そうか」
言って、深く濤羅はその銀細工を見つめた。何の皮肉か、それは鈴の付いた腕輪だった。
濤羅の脳裏に、妹の幻影がよみがえる。蕭、蕭と、泣いて喜ぶ妹の腕を飾った、濤羅が
彼女の誕生日を祝うためだけに贈った銀の腕輪。
凛と、キュルケの手の中で鈴がなった。記憶の中にある音と比べれば、いくらか鈍い。
意匠も、その道の匠に作らせたそれよりもずいぶんと見劣る。それでもどこか懐かしいと、
濤羅は思ったのだ。
濤羅の目が、不思議な優しさを帯びる。今までしていた警戒も忘れ、不思議とその銀細
工に見入っていた。
「お兄さん、これで足りる?」
その横を、浅黒い腕が伸びていた。はっと濤羅が居直れば、そこには店主に数枚の金貨
を渡しているキュルケの笑顔。店主は呆然と手の中と彼女の顔を見比べていた。濤羅とて
わけがわからない。
「はい、あげる」
その彼に、キュルケは手に持つ腕輪を差し出した。凛、とこぼれた鈴が鳴る。胸に押し
付けられたそれを、つい濤羅は受け取ってしまった。今度は、濤羅が手の中と彼女を見比
べる番だった。
「いや、しかし……」
「ああ、お金の心配ならしなくていいわよ。言ったでしょう、あげるて。これはお礼、プ
レゼントよ。受け取ってもらわないと困るわ。私の名誉に係わる問題なんだから」
わけがわからぬと視線で問い返した濤羅に、キュルケは首をかしげ、指を一つ立てると
演説でもするように語りだした。
「さっき、ミスタは私を守ってくれたわ。ああ、危険からじゃないわよ、あの程度の男た
ちなんて、私とタバサでどうとでもなったもの。
ミスタが守ってくれたのは……私の名誉。
もしあの時、財布を掏られたことに気が付かなかったら、私は無銭飲食を働いたという
謗りを受けたでしょう。貴族崩れのメイジの魔法にすら気付かなかったと、貶められるこ
とでしょう。貴族として、メイジとして、何よりもキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・
フォン・アンハルツ・ツェルプストー個人として、そのようなことは許せないわ。
そこから、ミスタは私を守ってくれたの。ゲルマニアの貴族は恩知らずでも恥知らずで
もないわ」
だから、お礼——と言うキュルケを断る術を濤羅は持っていなかった。深く瞑目して、
唯一つの言葉だけを搾り出す。
「すまん、ありがとう」
「どういたいまして」
と、その隣で小さく高い、それこそ金貨の鳴るような音が響いた。そちらを見れば、ま
さに商人に金貨を渡すタバサの姿が。
「私も、お礼」
驚く二人とは対照に、ただ畏まっている商人だけが、その一角でやけに騒がしかった。
VI/
上げられた右腕は、木造の扉を前にしてしばし宙をさ迷った。ノックをしようとして、
結局することなく下げられる。ここ数分ほどで何度も繰り返された光景だった。
溜息をついて、濤羅は左手に持つ包みに目をやった。風の魔法とやらで温度そのままに
持ってきたクックベリーパイは、彼女らと離れて以降、急速にその温かみを失いつつある。
今すぐにでも扉を開き、ルイズにこの土産を渡すべきだった。せっかくの焼きたては、
せっかくの心遣いは、逡巡などで失っていいものではない。
それがわかっていてなお濤羅はノックを躊躇っていた。果たして、どのような顔をして
ルイズに会えばいいというのか。
濤羅の心境を表した右手が、のろのろと再び扉の前に挙げられる。先ほどの溜息を肺の
中に取り込むように深く息を吸い込んで——
やはり仕切りなおそう、濤羅がそう思った矢先だった。目の前の扉が、前触れもなく開
いたのは。その先には驚いた表情を浮かべるルイズの姿。
濤羅らしからぬ失態だった。部屋の中の気配を正しく探っていれば、当然のように対処
できたはずだった。それを物思いに耽ることで忘れていたのだ。
焦る内心を他所に、濤羅は上げていた右手をすっと降ろした。そのままでは、ルイズの
頭頂を叩きかねない。
間が空き視界が晴れて、濤羅の顔がはっきりと見えるようになったからだろう。呆けて
いたルイズの頬に、さっと怒りの朱が差し込んだ。次の瞬間には罵声が飛び出すだろう。
その程度には、朴念仁の濤羅とて予想がつく。
だから、何も言わずに左手の包みを差し出した。
「なに、これ」
その丸い瞳を大きく見開かせたルイズ。その鼻が小さく数度蠢いた。険しかった表情が、
にわかに和らいでいく。
「ちょっと、これもしかして——」
隠しきれぬ期待に目を輝かせ、ルイズが濤羅に一歩近寄った。その勢いに気圧されなが
らも、濤羅は彼女の言葉の先を言った。それを、彼女も望んでいる。
「あ、ああ。それは王都で評判らしい甘味屋の、クックベリーパイとかいうものだ。
それと、その……すまなかった。体のことを黙っていて」
ルイズの表情が華やいだ。土産だけでなく謝罪の言葉も利いたのだろう。ここまで全て
キュルケの助言通りの反応だった。あまりにもすんなりいったので、先ほどまでの緊張は
なんだったのかと濤羅は肩を下ろした。とかく、女心はわかりにくい。
「いいわよ、そんなこと。聞かなかった私も悪いんだしね。
ほら、いつまでそんなところに突っ立ってるつもり。早く中に入りなさい」
そんな彼の内心も知らず、ルイズはこれまでの怒りを忘れたかのように素直に濤羅を部
屋に招きいれた。彼女の興味は今、好物のクックベリーパイにばかり注がれている。包み
を空けていないのが不思議なぐらいだ。
「そんなに——」
美味しいものなのか、と言いさしたところで濤羅は沈黙した。甘味といえば、せいぜい
点心の他に数えるほどの洋菓子程度しか知らぬ濤羅には、何をどう説明されようとわかる
はずもない。そうなれば、戻ったばかりの彼女の機嫌を損ねるだけだ。吐息だけを残して、
後に続いて部屋へと入っていく。
胸の中で音も立てずに鈴が鳴る。何も知らず、そして何も聞かず笑ってくれる彼女に、
妹の幻想を重ねることは、どうにもできそうになかった。
「まだ、渡せないな」
いつか、渡せる時が来るのだろうか。
それは楽しみなのか、恐ろしいのか。判断をつける前に濤羅は思考を打ち切った。今の
濤羅に答えを出せるだけの強さはどこにもない。
ただこちらの世界に来て以来ことあるごとに浮かべていた皮肉気な笑みだけが、どこか
遠くへ消え去っていた。陰りのない微笑だけが濤羅の顔を包む。
それはかつて、彼が妹に向けていたものと同種の笑みであると気付くものは、この場に
誰もいなかった。
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I/
休日の、それもそれなりに大きな街のメインストリートに面した食堂ともあれば、多少
時間がずれたとて十分な賑わいを見せる。その片隅のひっそりとしたテーブルに座って店
員に注文をすると、濤羅はようやく人心地つくことができた。とはいえ、完全には気を抜
けない。街に入る折、キュルケにスリ、それも魔法を使うような手合いには警戒するよう
言われたのだ。
軽く店内を見回した限り、濤羅が想像する様な魔法使い然とした格好をしたものはいな
い。が、濤羅にはそもそもそうであるかないかの区別などつかない。故に挙動不審な者が
いないか、常に意識を張っていなければならず、店員が注文の品を持ってきても、濤羅が
気を緩めることはなかった。
「ふう、おいし」
グラスを傾け、実に美味しそうに喉を鳴らすキュルケ。その中身はエールだ。まだ昼、
まだ学生だというのに、その様はなかなか堂に入っている。そのことにわずかに頭痛を覚
えながら、濤羅もまた飲み物を口にした。無論、酒ではない。
「あら、ミスタは飲まないの。もしかして下戸?」
キュルケがからかい混じりに問いかけた。そうではない。ただ、一度酒を口にすれば、
潰れるまで痛飲してしまうだろう自覚があっただけだ。
濤羅とてかつては幇会の男。心許せる仲間と酒を飲み比べ、競い合うことなど幾度もあ
った。今この店にいる男たちのように、全てを忘れるかのように騒いだことすらあったの
だ。だが、それも今は遠い昔。彼らやキュルケのように酒を楽しむことなどできはしまい。
もはや帰る場所すらないのだから。
濤羅と彼らとを分かつ一番の溝はそれだ。濤羅は星を眺めるかのように、遠くから見つ
めることしかできない。いや、空を見上げることすら許されまい。
だが、そのような煩悶を露とも見せず、濤羅は首を横に振った。それだけを告げると、
何も言わず体や消化によさそうな料理を選んで箸をつける。
「あら……もしかしてミスタ、はしばみ草は平気なの?」
先ほどの笑みを含んだ問いとは違い、今度は心から驚いているようだった。見ればその
隣に座るタバサも、その眼鏡の奥の瞳をわずかに見開かせている。
それほどものもがあっただろうか。心の中で首をかしげ、その名前と彼女が声を上げた
ときから推量をつけて、テーブルの中央辺りにあるサラダを口に運ぶ。
確かに苦い。なんとも言えぬ風味が口の中に広がる。だが、漢方・生薬が身近にあった
濤羅が耐えられぬほどでもない。もう一度はしばみ草とやらを口にして、濤羅は呟いた。
「別段、どうということもない」
「あらまあ、仲間ができてよかったわね、タバサ」
声をかけられたタバサは、黙って一つの皿を差し出した。こんもりと盛られたはしばみ
草がたっぷり入ったサラダだ。だが、その意図がわからない。キュルケの発言からすれば、
これは彼女の好物、あるいはそれに近いものではないか。
濤羅の視線を受けて、タバサは感情を見せぬ表情のままポツリと漏らした。
「助けてもらったお礼」
後はもう何も言うことはないといわんばかりに、すさまじい速さで箸を動かし料理を口
に運んでいく。言葉を返す暇もない。断る機を失った濤羅は、しばらく困ったように目の
前の皿を見つめていた。その様子をキュルケが眺めていたことにも、笑みを浮かべていた
ことにも気がつかないで。
II/
食事が終わった後も一行は、しばらくのんびりしていた。気疲れした濤羅はもとより、
あれだけ元気に動き回っていたキュルケも疲れていたのだろう。今はソフトドリンクをち
びりちびりと飲んでいる。表情を変えぬタバサは読みにくいが、休むことに異論はないよ
うで、その手にはハードカバーの本が広げられていた。
言葉のないテーブルに頁がめくられる音だけが静かに響く。だが、その静けさは長くは
続かない。いくら濤羅らが黙っていても、休日の食堂の騒がしさは変わらない。まして酒
がある店だ。隣のテーブルからは、男たちの怒号とテーブルを叩く拳の音が聞こえてくる。
「ふう」
タバサが本を閉じた。それを契機に店を出ようとキュルケが腰を浮かす。濤羅もまた立
ち上がろうとして——押しとどまった。厳しい目つきで男達を睨んだまま立ち上がろうと
しない。
「ミスタ?」
「来る」
怪訝そうに濤羅を覗き込むキュルケと、タバサの警告は同時だった。それを彼女が理解
するよりも早く、濤羅の腕が伸び、キュルケを一気に引き寄せる。
「きゃあっ」
可愛らしい悲鳴を上げて、目を丸くするキュルケ。抗議の声を上げようと口を開き、そ
してすぐにまた驚きの声を上げた。
遅れて、その場に男が倒れこんできたのだ。派手な音を立てて頑丈そうなテーブルがひ
っくり返る。宙に放り出されたグラスが、くるくるとまだいくらか残していた中身を零し
ながら板張りの床へと落ちていく。黒く滲んだ床に散らばったグラスの破片が、窓からの
光に照らされてきらきらと輝いていた。
店内は俄かに騒然となる。悲鳴だけでなく、囃し立てるような声もどこかから聞こえて
くる。応えるように、隣のテーブルの男たちは無意味に椅子を蹴倒しながら、店中に響く
ような大声を張り上げた。
「ははは、おいどうした、立てねーのかよ」
野卑た笑い声をあげる。酒にでも酔っているのか、全員顔は赤らんでおり、目の焦点も
どことなくあっていない。視線を倒れた男に向ける。くぐもった呻き声を漏らしたきり立
ち上がる気配はまるでない。
仲間内の諍いか——似通った男達の服装と、足元の男から微かに漂う酒精の香りから、
適当に推量をつける濤羅。だが、どうにも腑に落ちない。
濤羅ほどの達人であれば、たとえ我が身に迫らずとも、周囲に危機があれば自然と察知
できる。今しがたキュルケを救ったように。だが、この男が突き飛ばされた時はどうか。
薄皮一枚隔てたような違和感があっただけだ。それも少し前からずっと。
訝しみながら、濤羅は膝を折る。違和感を確かめるついでに介抱しようと手を伸ばし、
唐突に世界が歪んだ。
それは目の前の男から発されていた。細く波打ちながら蛇のようにキュルケへと忍び寄
ると鎌首をもたげ喰らいついた。
「!!」
一瞬目を見張る濤羅。だが、気配はそこで唐突に消え失せた。あとには傷一つない。
キュルケは変わらず男達を冷たい視線で睨んでおり、その背後に控えるタバサも異変に
は気付かなかったようで、杖を握り締めているだけだ。
「うう」
と、そこで伏していた男が庇うように胸に手を当てながら、ようやく起き上がろうとし
ていた。よろよろと力なく体は揺れ、頭の位置すら定まらない。しかし一瞬、ほんの一瞬
だが、確かに男達と視線を合わせた。口の端に、嫌らしい笑みがかすかに浮かぶ。
濤羅の脳裏に、キュルケの警告が甦る。曰く、魔法を使うスリに気をつけろ。
濤羅は魔法を知らない。何ができて、何ができないのか。どのような理で働き、どのよ
うに発動するのか。濤羅にはそれがわからない。
だが、どれだけ魔法が早かろうと、どれだけ魔法が見えなかろうと、心より先ずること
は不可能だ。ならば今濤羅が感じ取った異変とは——
キュルケと男たちはもはや睨み合いではなく、喧嘩のような言い争いを始めていた。
男達の浮かべる怒りの表情の裏には、隠しようのない侮蔑の色が見て取れる。あるいは、
彼女らもそれを悟っているのかもしれないが、不幸にも侮られることに慣れてしまってい
るのだろう。聡いからこそ、逆に男達の企みに気がつかない。
男が立ち上がる。手は胸に置いたまま立ち上がる。
彼女たちは気付かない。男達にばかり注意を向けて気付かない。
男達は笑っている。生意気な小娘から小金を巻き上げようと笑っている。
濤羅にはもはや守るべき仁も義もない。五徳を捨て、修羅に走った濤羅に人の道を説く
資格などあるはずもない。それでも、わずかなりの責任は感じていた。違和感を無視して
早く席を立っていれば、男の介抱を彼女らに任せていれば、あるいは、この事態は防げた
のかもしれない。そして何より、お金がなくてはルイズへの贈り物を買えないではないか。
だから仕方なく。本当に仕方なくだが、誰に言われるまでもなく、濤羅は自らの意思で
男へと声をかけた。
「そこまでにしておけ」
III/
濤羅の言葉に、店中の注目が集まった。その視線にさらされながら、男は冷や汗を浮か
べている。せわしなく目を動かし、胸に当てた手には力が込められている。
「な、なんのことで、旦那?」
殴られたとは思えぬほどの卑屈な声で、男は濤羅に語りかけた。その前に、一瞬男達に
目配せをして。
そうして、再び感じる世界の歪み。今度は、男達のほうから発されている。下策といえ
ば下策だった。同じ手を二度、それも一度ばれているくせに繰り返すのだ。さらに言えば、
先程と違って今は喧嘩を装って注意を引き付けるような状態ではない。
「なるほど、そういうことだったのね」
気付いたキュルケが、その顔に不敵な笑みを浮かべた。タバサがその眼鏡を押し上げる。
視線の先には、男達の壁に隠れた魔法使いがもう一人。視線に射すくめられて、短く悲鳴
を上げた。
「あら、どうしたの、こんな小娘に見られただけぐらいでそんなに怯えて」
その言葉に答えたのは、先頭に立つ一番大きな男だった。わざと大きく見せるよう肩を
怒らせ、キュルケたちへと一歩距離を詰める。
「おいおい、あんたらみたいな貴族様の嬢ちゃんに睨まれたら、俺ら平民はどうすれば良
いってんだよ。びびったってしかないだろ。大体なんだ、魔法が使えない俺らがどうして
あんたらの財布を取れるんだ」
「私たちは、魔法なんて一言も言ってない」
「財布ともね」
怒りか焦りからか、にわかに男の顔が紅潮した。肩だけでなく全身までも震わせている。
そうして、その大きな拳を振り上げて一歩踏み出し——
黒い風が、駆け抜けた。
キュルケが身を翻すよりも、タバサがルーンを唱えるよりも、男が拳を振り下ろすより
も、何よりも早く、その影はキュルケの前に現れた。濤羅だった。音も立てず踏み出し、
その突き出された右手は、男の腹に添えられていた。それこそ軽く、触れられているだけ。
だというのに、男の目がぐるりと裏返った。
「……ほ、う」
吐息のような悲鳴を漏らすと、男は口から黄色い胃液を吐いて膝から崩れ落ちた。前の
めりに倒れたその頭が床にぶつかり、鈍い音を響かせる。立ち上がれぬ崩れ方だった。
わけがわからぬと、あたりがシンと静かになる。
戴天流が掌法、黒手烈震破——ではない。本来なら、五臓六腑をことごとく破裂させる
一撃だ。いくら加減したとて、体格ばかりに頼った男が受けてこの程度で済むはずがない。
これは、あの風竜の上で濤羅が語った技そのものだ。違う点があるとすれば、今度は、
濤羅の踏み込みの力が含まれている一点のみ。ただそれだけの力で、濤羅は頭ひとつほど
大きな男を一撃で伸していた。
振り向いて、濤羅は呟く。
「これが暗勁だ」
呆けるキュルケとタバサを後ろにやると、濤羅は再び男たちに向き直った。感情を見せ
ぬ暗い瞳に見据えられ、男たちに恐怖が走る。わけもわからぬまま、男たちの中で最強の
ものが倒されたのだ。
真っ当に戦って勝てる相手ではない。背後には魔法使いの生徒たちも控えている。
あるいは、一斉にかかれば倒せるのでは——そんな思考が体に出たのか、男たちは誰と
もなしに腰を落とし始める。
その機先を制したのは、やはり濤羅だった。
「やめておけ。懐の財布さえ返してもらえば、それでいい。
だが、逆らうというなら——」
血を吸った刀のように、ぬらりと異様な光をたたえた瞳がすうと細められた。そこには
覇気も殺気もない。だというのに、人を心の底から脅かす何かがそこにはあった。あるい
は、何もないからこそ人は恐れるのか。
その瞳で、濤羅は財布を持つ男を見据えた。一秒、それだけの間、濤羅と魔法使いの視
線が絡み合う。
「ひいっぃいいいっ!」
隠れた男が、悲鳴を上げながら財布を濤羅の足元に向かって投げ捨てた。中の金貨が甲
高く鳴る。どれだけの金額になるというのか。それを惜しむ気配すら見せず、男はもはや
何も見たくないといわんばかりに身を翻して店の出口から走り去っていく。倒れた椅子を
蹴飛ばし、足をもつれさせ、みっともなくも這う這うの体で逃げていく。その表情を見た
客たちの顔までもが驚きに引きつった。いったい彼は何を見たというのか。
恐怖は、伝染する。
また別の男が、濤羅の瞳と目があった。そうして知る。そこにあるのは光などではない。
そう錯覚するほどの底なしの闇があるだけだと。今度は、一秒と持たなかった。引きつっ
た息を漏らして仲間を突き飛ばすと、その男も出口に向かってがむしゃらに向かっていく。
——男たちが我先にと出口に殺到するまでには、そう長い時間は必要としなかった。
IV/
「あー、おかしかった。見た、あの男たちの逃げる様?」
店を出て、ようやくルイズへの土産を選びに行く最中、上機嫌でキュルケは濤羅に笑い
かけた。相も変わらず濤羅の鉄面皮は動かないが、そんなことはお構いなしにターンをひ
とつ。よほど彼らが、そして財布を掏られたことに気がつかなかった自分が気に食わなか
ったらしい。反動で、今のキュルケはこの上ない上機嫌だった。そのまま、軽い足取りで
目の前の角をひとつ曲がる。
そこはメインストリートから一本入った、大きくも小さくもない、露天商が居並ぶ道だ
った。数多くの露天商が道に商品を並べ、一つでも自分の商品を買ってもらおうと道行く
人に声をかけている。
キュルケが濤羅に薦めたのは、彼女の好物のクックベリーパイだった。近頃学院の女の
子たちの間で密かに評判になっている甘味屋がこの道の先にある。その店は、量の割りに
値段もお手ごろで味も悪くない。
そしてルイズはこの店の商品を食べたことがないだろう。そう、キュルケは確信を持っ
ていた。平民が開く市井の店に大手を振って顔を出せる貴族はそうはいない。露天商が居
並ぶこの道を通らねばならないのだからなおさらだ。それゆえ、その店の名を学院で聞く
ことはその知名度に反して滅多にない。友人の少ないルイズが、知ってるはずもなかった。
知っていたとしてもプライドが邪魔をしていただろう。
彼女の喜ぶ顔、あるいは驚く顔を想像したキュルケの頬に笑みが浮かぶ。幸いにして、
それを咎めるような無粋な輩はいなかった。
と、そこでキュルケは違和感に気づいた。露天商ならば、上機嫌の貴族でも見かければ、
商品を売り込もうと声の一つでもかけるはずだった。貴族を恐れもするが、それ以上に商
魂たくましいのが彼らだ。自粛するものもいるだろうが、誰一人声をかけないというのは
さすがに不自然だった。
「おかしいわね、普段なら何人かは声をかけてくるっていうのに」
キュルケは周りに聞こえるように呟いた。視線をめぐらせるが、みな一様に目が合うの
を恐れて俯くか、空々しいまでに大声で客と会話をするばかりだ。
属性が炎だからだろうか、彼女は注目を浴びるのが好きだった。男たちに持て囃される
のも、同性から嫉妬や羨望の視線で見つめられるのも、同じメイジに自らが扱う炎を賞賛
されるのも、何もかも、例えそれが正であろうと負だろうと、注目されることは全て好き
だった。自信があったのだ。自信になったのだ。
それだけに、今の状況は気に食わない。恐れるならいい。敬うならいい。へりくだるの
だってありだ。だが、見ない振りをすることだけは許せない。
ふん、と彼女は鼻を一つ鳴らすと、一番手近なところにいた露天商へと歩いていった。
V/
「おかしいわね、普段なら何人かは声をかけてくるっていうのに」
そう言った彼女も、やはり性根は芯から貴族だった。
幇にいた濤羅にはわかる。彼らが声をかけてこない理由が。
商人とは利益を求めるものだ。そして、利益にはリスクが付いて回る。それが見合うか
どうかの判断ができぬようでは、商人とは呼べない。まして店も構えられぬ露天商の彼ら
には、大した後ろ盾すらないのだ。採算の見通しも立てずにリスクだけを負う。それでは
山師、博打打ちと変わらない。
今で言えば、そのリスクは濤羅だった。彼を一目見て勘が働かないようでは、露天商な
ど務まるはずもない。自然と、避けるような流れになっていた。
濤羅にはそのほうがよほど心地よい。
だが、目の間の少女が違うようだった。先程までの上機嫌は嘘のように消えてなくなり、
背中越しですらわかるほど不機嫌な空気を発していた。息を一つ漏らすと、迷わずある露
天商の元へと歩いていく。
「あら、結構いいもの扱ってるじゃない」
「ひっ」
言葉とは裏腹に挑むような口調でかけられた声に、商人が短く悲鳴を上げた。独り立ち
したばかりだろうか、見ればまだ年若い。キュルケ達よりまだ二つか三つ上なだけだろう。
怯えてしまっては、対等な取引は望めない。その弱みに付け込まれ、商品は安く買い叩
かれてしまう。
キュルケの細い指が、宝石を扱ったブローチを拾い上げた。太陽にかざして、様々な角
度から色彩の変化を確かめている。
それを、商人は恐怖を押し隠した卑屈な笑みを浮かべて眺めていた。
「これは……錬金でつくった石じゃないわね」
「は、はい。その石も、あしらった細工もすべて職人によるものです。お値段は——」
「いいわ。別に興味ないもの」
「は?」
一言で切り捨てられた商人の目が丸くなる。それを尻目に、キュルケは次の商品に取り
掛かっていた。今度は、グラデーションが色鮮やかな二枚貝のペンダントだった。親指の
先程の小さな貝は、写真でも入れられるのか、ぱちん、ぱちんと開けたり閉めたりできる
ようになっている。
「これなんてかわいいわね」
「は、はい。それは世にも珍しい、アルビオンの山中にいる——」
「でもいらない」
商人が泣きそうな表情を浮かべた。それでも笑みだけは絶やさない。泣き笑いだった。
それでもキュルケはとまらない。また新たな商品に目を留めると、その細い指でまた拾
い上げていく。また冷やかしでも始めるのだろう。気でも咎めたのか、タバサがキュルケ
を止めようと一歩踏み出して——
「店主」
その先を濤羅が制した。そこの見えぬ瞳に見据えられてとうとう商人の顔から笑みが消
えた。それに取り合わず、濤羅はもう一度彼に問いかけた。
「店主、今彼女が持っているのは?」
それは商人からすれば好機だった。からかっている貴族の少女とは違い、目の前の男は
真実商人に興味を見せていた。あるいは、口八丁手八丁で商品の価値を何倍にも上げられ
るだろう。だが目の前の圧力に耐えられず、つい商人は正直なところを口にしてしまった。
「そ、そそそれはただの安物でさあ。旦那。錬金してもらった銀を、駆け出しの若造に
誂えさせただけの、どこにでもあるような代物です」
「そうか」
言って、深く濤羅はその銀細工を見つめた。何の皮肉か、それは鈴の付いた腕輪だった。
濤羅の脳裏に、妹の幻影がよみがえる。蕭、蕭と、泣いて喜ぶ妹の腕を飾った、濤羅が
彼女の誕生日を祝うためだけに贈った銀の腕輪。
凛と、キュルケの手の中で鈴がなった。記憶の中にある音と比べれば、いくらか鈍い。
意匠も、その道の匠に作らせたそれよりもずいぶんと見劣る。それでもどこか懐かしいと、
濤羅は思ったのだ。
濤羅の目が、不思議な優しさを帯びる。今までしていた警戒も忘れ、不思議とその銀細
工に見入っていた。
「お兄さん、これで足りる?」
その横を、浅黒い腕が伸びていた。はっと濤羅が居直れば、そこには店主に数枚の金貨
を渡しているキュルケの笑顔。店主は呆然と手の中と彼女の顔を見比べていた。濤羅とて
わけがわからない。
「はい、あげる」
その彼に、キュルケは手に持つ腕輪を差し出した。凛、とこぼれた鈴が鳴る。胸に押し
付けられたそれを、つい濤羅は受け取ってしまった。今度は、濤羅が手の中と彼女を見比
べる番だった。
「いや、しかし……」
「ああ、お金の心配ならしなくていいわよ。言ったでしょう、あげるて。これはお礼、プ
レゼントよ。受け取ってもらわないと困るわ。私の名誉に係わる問題なんだから」
わけがわからぬと視線で問い返した濤羅に、キュルケは首をかしげ、指を一つ立てると
演説でもするように語りだした。
「さっき、ミスタは私を守ってくれたわ。ああ、危険からじゃないわよ、あの程度の男た
ちなんて、私とタバサでどうとでもなったもの。
ミスタが守ってくれたのは……私の名誉。
もしあの時、財布を掏られたことに気が付かなかったら、私は無銭飲食を働いたという
謗りを受けたでしょう。貴族崩れのメイジの魔法にすら気付かなかったと、貶められるこ
とでしょう。貴族として、メイジとして、何よりもキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・
フォン・アンハルツ・ツェルプストー個人として、そのようなことは許せないわ。
そこから、ミスタは私を守ってくれたの。ゲルマニアの貴族は恩知らずでも恥知らずで
もないわ」
だから、お礼——と言うキュルケを断る術を濤羅は持っていなかった。深く瞑目して、
唯一つの言葉だけを搾り出す。
「すまん、ありがとう」
「どういたいまして」
と、その隣で小さく高い、それこそ金貨の鳴るような音が響いた。そちらを見れば、ま
さに商人に金貨を渡すタバサの姿が。
「私も、お礼」
驚く二人とは対照に、ただ畏まっている商人だけが、その一角でやけに騒がしかった。
VI/
上げられた右腕は、木造の扉を前にしてしばし宙をさ迷った。ノックをしようとして、
結局することなく下げられる。ここ数分ほどで何度も繰り返された光景だった。
溜息をついて、濤羅は左手に持つ包みに目をやった。風の魔法とやらで温度そのままに
持ってきたクックベリーパイは、彼女らと離れて以降、急速にその温かみを失いつつある。
今すぐにでも扉を開き、ルイズにこの土産を渡すべきだった。せっかくの焼きたては、
せっかくの心遣いは、逡巡などで失っていいものではない。
それがわかっていてなお濤羅はノックを躊躇っていた。果たして、どのような顔をして
ルイズに会えばいいというのか。
濤羅の心境を表した右手が、のろのろと再び扉の前に挙げられる。先ほどの溜息を肺の
中に取り込むように深く息を吸い込んで——
やはり仕切りなおそう、濤羅がそう思った矢先だった。目の前の扉が、前触れもなく開
いたのは。その先には驚いた表情を浮かべるルイズの姿。
濤羅らしからぬ失態だった。部屋の中の気配を正しく探っていれば、当然のように対処
できたはずだった。それを物思いに耽ることで忘れていたのだ。
焦る内心を他所に、濤羅は上げていた右手をすっと降ろした。そのままでは、ルイズの
頭頂を叩きかねない。
間が空き視界が晴れて、濤羅の顔がはっきりと見えるようになったからだろう。呆けて
いたルイズの頬に、さっと怒りの朱が差し込んだ。次の瞬間には罵声が飛び出すだろう。
その程度には、朴念仁の濤羅とて予想がつく。
だから、何も言わずに左手の包みを差し出した。
「なに、これ」
その丸い瞳を大きく見開かせたルイズ。その鼻が小さく数度蠢いた。険しかった表情が、
にわかに和らいでいく。
「ちょっと、これもしかして——」
隠しきれぬ期待に目を輝かせ、ルイズが濤羅に一歩近寄った。その勢いに気圧されなが
らも、濤羅は彼女の言葉の先を言った。それを、彼女も望んでいる。
「あ、ああ。それは王都で評判らしい甘味屋の、クックベリーパイとかいうものだ。
それと、その……すまなかった。体のことを黙っていて」
ルイズの表情が華やいだ。土産だけでなく謝罪の言葉も利いたのだろう。ここまで全て
キュルケの助言通りの反応だった。あまりにもすんなりいったので、先ほどまでの緊張は
なんだったのかと濤羅は肩を下ろした。とかく、女心はわかりにくい。
「いいわよ、そんなこと。聞かなかった私も悪いんだしね。
ほら、いつまでそんなところに突っ立ってるつもり。早く中に入りなさい」
そんな彼の内心も知らず、ルイズはこれまでの怒りを忘れたかのように素直に濤羅を部
屋に招きいれた。彼女の興味は今、好物のクックベリーパイにばかり注がれている。包み
を空けていないのが不思議なぐらいだ。
「そんなに——」
美味しいものなのか、と言いさしたところで濤羅は沈黙した。甘味といえば、せいぜい
点心の他に数えるほどの洋菓子程度しか知らぬ濤羅には、何をどう説明されようとわかる
はずもない。そうなれば、戻ったばかりの彼女の機嫌を損ねるだけだ。吐息だけを残して、
後に続いて部屋へと入っていく。
胸の中で音も立てずに鈴が鳴る。何も知らず、そして何も聞かず笑ってくれる彼女に、
妹の幻想を重ねることは、どうにもできそうになかった。
「まだ、渡せないな」
いつか、渡せる時が来るのだろうか。
それは楽しみなのか、恐ろしいのか。判断をつける前に濤羅は思考を打ち切った。今の
濤羅に答えを出せるだけの強さはどこにもない。
ただこちらの世界に来て以来ことあるごとに浮かべていた皮肉気な笑みだけが、どこか
遠くへ消え去っていた。陰りのない微笑だけが濤羅の顔を包む。
それはかつて、彼が妹に向けていたものと同種の笑みであると気付くものは、この場に
誰もいなかった。
NGシーン
ルイズに連れられてきた武器屋で、濤羅は少なからず落胆を感じた。人が扱うのだから、
そうたいした違いはあるまいと辺りはつけていた。だが、魔法が存在する世界なのだと、
わずかながらも期待をしていたのだ。
しかし、その期待はあっさりと裏切られた。見るだけでそれとわかるほど、純度の低い
鉄を薄ら火にかけたような粗刀。重心のずれたせいで取り回しづらい槍。斧にいたっては、
日用品と見間違うようなものしかない。
これがこの世界での一般品なのか、それとも路地裏だからこそこの程度の品しか置いて
ないのか。ルイズに聞こうにも、彼女にはそもそも武器のよしあしすらわからない。
こらえ切れない溜息が濤羅の口をついて出た。
「だ、だんな、どうしたんで?」
美栗を身を震わせる店主を、濤羅は灰色の瞳ですがめ見る。店一番の自慢のゲルマニア
刀匠の大刀を一瞥するだけで「いらん」と言われた衝撃はいまだ覚めやらぬらしい。額に
は汗がにじんでいた。
決して脅したつもりなど濤羅にはないのだが、その細い瞳で見据えられた店主がさらに
ひい、と声を上げた。
「ちょっと、あんまり脅さないでよ。私まで変なメイジだと思われるじゃない」
背後からかけられた声に、濤羅は振り向いた。この店にあるもの全てに否と告げる使い
魔にいささか機嫌を害しているのか、その瞳は半眼だ。自らがわからぬものを、使い魔が
一方的に判断しているのも気に食わないのかもしれない。
理由はいくらでも推測できた。濤羅は女性の機嫌を損ねるのには天賦の才があったし、
ルイズは濤羅が知る中でも特に気性が激しい性格だ。知らぬ間にどのような心境の変化が
あろうとおかしくない。
だから濤羅は素直に彼女の言葉に従った。わけがわからずとも、言葉に従っておけば、
とりあえずは間違いない。
一方、濤羅が距離をとったことで、店主はふうと息をついた。視線がはずされたことも
大きい。濤羅には目に見えぬ圧力がある。貴族の嬢ちゃんから小金を巻き上げようという
考えを、店主はとうに捨てていた。早く良い品物を選んでもらって、すぐに帰ってもらう
こと以外、もはや頭にない。
追い詰められた頭で店主は思考する。一番の品物だと思った剣は手に取ってもらうこと
すらできなかった。辺りにある一山いくらの刀剣類では満足されない。八方手詰まりだが、
貴族の少女は、どうにかしてこの店で買い物を終わらせたいらしく、ぶつくさいいながら
男にあれやこれやと勧めている。
いや、まてよ――店主の脳裏に、少し前に仕入れた風変わりな刀の姿がよぎる。酒場で
へべれけに酔ったまま買い入れたものなので今の今まで忘れていたのだ。
「だ、だんな! 少々お待ちください。今もうひとつの取って置きを持ってきますので」
あせりと期待をない交ぜにしたような声で濤羅に告げると、店主は足早に倉庫へと走っ
ていった。
「……これは?」
濤羅はこの店に来て初めて驚きの表情を見せた。
それは、確かに取って置きだった。
「何これ、変な形ね」
峰を下に刃を上に。適度に曲線を描いた刀身。綾紐で装飾された柄。ナックルガードに
しては特殊な形をした楕円形のものが、柄と刀身の間にあって鞘に押し付けられている。
それは濤羅の世界で言う「刀」だった。刀身の長さは目算で一尺。小刀と呼ばれる類の
ものだ。
「ど、どうでしょう?」
店主の言葉を無視して、濤羅はその刀を手に取った。それだけ興味があったのだ。さして得手とするわけではないし、実戦で使おうと思わない。だが、そこは濤羅とて武芸者だ。
よい刀があれば興味はわく。まして、異世界の刀ともあればなおさらだった。
「随分と、軽いな」
「へ、へえ。なんでも特殊な金属を使ってるらしく、ちょっとした刀身の歪み程度なら、
その場ですぐ直せるぐらいでさぁ」
「抜いても?」
「ええ、もちろんですとも」
追従してくる店主から目を離すと、一息で濤羅は刀を抜き払った。軽いだけあって、そ
の速度は悪魔じみている。一瞬の光が煌いた、いや、そもそもその光すら、二人には視認
できなかっただろう。その技に、ルイズと店主は感嘆の息を漏らした。
だから、濤羅の顔が曇ったことに気づかなかった。
「……店主、特殊な金属といったな。その名を、覚えているか?」
「え、名前ですか。うーん、どうにもその剣を買ったときは酔っ払っていたせいで、どう
にも記憶が怪しくて。確かアルだかアラだか……」
「それは、アルミニウムとか言われなかったか?」
濤羅の言葉に、店主の目が瞬いた。知らぬはずの金属の名を、今まさに言い当てられた
のだ。驚きのまま、恐怖も忘れて店主は問いかけた。
「へ、へえ、そのとおりです。しかし、なんで旦那が知ってるので?」
答えず、濤羅はのどの奥を低く震わせた。唇を皮肉にゆがませ、色のない瞳で店主を見
つめる。体をびくりとこわばらせる店主に刀身の光を反射させながら、濤羅はなんでもな
いと言った口調で語り始める。
「この金属を、偶々俺が知ってただけだ。そこに特に意味はない」
それだけを告げると、濤羅は刀を鞘に収めた。
「ところで、これを売った(打った)人間はこの刀、いや、剣の事をなんと呼んでいた」
「ええ、と、確か……そう、確かマイケルギョギョッペンとかいう魔剣だと。
……と、ところでそちらの剣のほうは」
「買わない」
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