翼が、風を捉える。
羽ばたきを止め、空の流れに乗るその瞬間さえも分かるほど、
繰り返し飽くことなく眺めてきた光景。
冬の始まりを告げる青灰の天の中、彼のいとしい友は思うがまま大気と戯れる。
ライラ…”夜の天使”の名を持つ大鷲。
その名とは裏腹に、夜明けの薄明かりの元で空を舞うことを好む。
何ものにも遮られることなく風と踊るその姿を見上げつつ、彼は浅い眠りの残渣を振り払う。

懐かしい、夢を見た。遠く、遥か遠く、置き去りにしたおぼろげな記憶。
その手を取ろうと前へと伸ばす、瞬間、引き戻された蒼い朝。

――――夢、か…
手繰るほどに消えゆく淡い光景。それは夜明けに薄れゆく星明りに似て、儚い。
…不確かな怖れを封じるように、目を伏せて、彼は夢の名残を追うのをやめた。
…胸を満たす冷たい空気。リンベと呼ばれる横笛を手に、翼を持たぬその身の代わりに、
さえずりに似て高く華やかな音を空へ放つ。
哀調を秘めた旋律が、天使の描く翼の軌跡が、地平の果て、目覚めかけた陽光に交わる。



ひとしきり空を楽しんだ後。ゆるやかに風を裂いて、ライラが彼の肩に戻る。
髪を揺らす羽ばたきの余韻。…肩にかかる確かな重み。
「…おかえり」
微かな鳴き声が応える。呼びかければ必ず応じる、その様をただ嬉しく思う。
ささやかなやりとりが、こんなにもいとおしい。

おかえりなさい。
お帰り、セルシオ。
…その言葉を聞くたびに安堵する。出迎えて、暖かに歓待してくれる人たち。
受け入れてくれる、覚えていてくれる、それだけがただ無性に嬉しい。
彷徨う時間が長ければ長いほど、再会は深く胸を温める。



―――― 疲れたら羽根を休めに戻ってくればいいさ。ここがお前の故郷なのだから ――――



…今も憶えている。深い想いをあえて何気ない口ぶりに乗せて、
旅立ちを見送ってくれたひとたちを。
心の奥深く、誰にも気づかれぬよう閉じ込めていた憧れを、
ごくあたりまえのように受け入れてくれた。
彼らは、まだ迎えてくれるだろうか?
…確信と不安が入り乱れて惑う。顔を合わせれば時も戻るだろう、
またあのつつましくも穏やかな日々に何事もなく還れるだろう。
けれどその静けさに埋もれるには、あまりにも思い出を重ねすぎた。
ひとところに落ち着いたところで、心はまた、旅路を求めよう。



すれ違う数多の人々。
深く、浅く、交わった絆の数を数えても遠い。
仕えるべき主を探すでもなく、追い求める仇があるわけでもなく。
何を求め、どこへ向かおうとしているのか。
あるいはそんなもの、初めからなかったのか。
――――何故、旅を続けるのだろう?
おぼろげな慄きが、形を取るその前に。



「…次は、何処へ行こうか。ライラ」
囁きは風に散る。応えるかのように頬に寄せられた柔らかな羽根のぬくもり。
人の目には猛々しく映るその大鷲も、彼の肩でだけは少女のように従順。
――――感じていたい。大地を、そして風を。
往くあてなどなくてもいい。ただこの心の赴くまま、歩むことを、止めずにいたい。
…あるいはそれが生きるということか。その答えなど、どこへも問わないまま。



歩き出す。その背を、まっすぐに伸ばして。

早春の夜の瞳に、還りゆく月を映して。




… and life goes on …






随分前にセルシオの奥さんのPLさんから頂いたSS。
感情や情景の描写力パネェ…!