『the new WIND―――』





ひしゃげた棚、飛び散ったガラスの破片、「なにか」に使われていた檻―――
この場所にはまるで生きた匂いがしない、と彼女は眉を顰めた。

ほんの数ヶ月前、此処にはいくつもの「生命」があった。
部屋の中心に「培養液」の入ったカプセルがあり、その中には実験体としてひとりの少女がいた。
それを眺めるように、檻の中には数人、孤児院などで「拾われ」、そして検体番号を振られた少女たちがいた。

此処では常に、生命は軽んじられ、人権など無視されていた。
いのちは平等などではなく、タイミングや境遇などで如何様にも変化する不安定なものだった。
非人道的と指差されるのは当たり前だ。
だが、再三言うが、いのちは平等ではない。


東京のど真ん中で通り魔殺人が起きれば日本は驚愕する。
アメリカのど真ん中でテロが起きれば世界は驚愕する。
だが、アフリカで飢餓が起きようとも、だれも驚愕しない。

そう。いのちは、不平等なんだ。
呪うのなら、運命を呪え。世界を呪え。期待するな。此処には、希望なんてないんだ。


そんなことを考えていると、じゃりっとなにかの破片を踏む音がした。
空気の色が変わる。
ああ、さすがだよ、と彼女は笑った。

「待ってたよ」

ゆっくりと顔を擡げる。
そこには、思った通りの人物がいた。


「返事は決まったのかな?シゲさん」

そう、シゲさんと呼ばれた彼女―――道重さゆみは前髪の奥に隠れた目を細めた。

彼女にはなぜか、シゲさんと呼ばれることが多い。その呼び名は、やっぱり嫌いだとさゆみは思う。
「シゲさんって言わないで下さい」と苦言を呈すと、氷の魔女は大袈裟に肩を竦めた。


「調子はどう?脚とか、治った?」

そう訊ねられ、さゆみは眉を顰めた。
以前もそうだったが、彼女はこちら側の情報に詳しすぎる。
黒衣を纏った氷の魔女と対峙しながら、ゆっくりとその距離を詰める。
あの日と同じように、闘う気はないと両手を挙げて丸腰であることをアピールした彼女は目を細めて笑った。

この人の言葉に、嘘はない。と直感する。
敵ではあるけれど、嘘をついてまで勝負を挑むようなタイプではない。
ダークネス側にも、いろんな人種がいることを改めて知る。
どんな卑劣な手段を使っても勝とうとする人もいれば、この人のように飄々と生きている人もいる。
前にこの人が言ったように、「集団」なのだけれどその中身は徹底した個人主義なのだと分かる。
それが少しだけ、羨ましくなったこともあるのは事実だ。


「3ヶ月前くらいにれいなと殺り合ったって聞いたけど。お腹に穴、開けられたって」

魔女に指さされ、さゆみは素直に右脇腹に手を翳した。
確かにあの日、あの血の気の多いヤンキーに風穴を開けられかけた。腸を抉り取られはしなかったものの、臓器はぐちゃぐちゃになった。
だが、さゆみはこうして、生きている。
その理由をホイホイ教えるほど、私は素直な人間じゃない。
沈黙がつづき、返答がないことに飽きたのか「まあ良いけどさ」と魔女は話を変えた。

「シゲさん、答えは決まったの?」

もういちど、最初の話に戻った。
4ヶ月ほど前、氷の魔女と此処で対峙した時、彼女はさゆみを勧誘した。

「ええ、もちろん」

ダークネスに入り、この能力を世界統一のために使わないかと。決心がついたらまた此処に来てと。
そしていま、さゆみが来たということは、その答えはおのずと、決まっているはずだ。


「断るに決まってます」

さゆみの凛とした言葉が、生の香りが失くなった監獄に響いた。
魔女は顔色ひとつ変えずにさゆみをじっと見つめる。
確信もあった。彼女ならこちらに来ると。だが今、その確信が揺らいだ。いや、むしろその確信こそが「確信」なのだ。
彼女は、こちらに来るという確信を揺るがし、最後までそこに残るだろうという確信―――

「私は、リゾナンターの一員です」
「あの泥船に、乗りつづけるってこと?」
「あなたから見ればその程度かもしれません。だけど、私にとってあの場所は……此処が、私の生きる場所なんです」

さゆみの目は恐れを知らぬ子どものように真っ直ぐに、氷の魔女を射抜いた。
あの日のように闇に迷い、それと手を取りかけた幼い少女はもういない。
此処にはただ、不器用ながらもなにかを決意し、がむしゃらに生きていくことを誓ったひとりの女性がいた。

「自分の意志で、さゆみは、私は、闘います。あなたたちと」
「その体でなにができる?脚も腹も完治してなくて、療養中って言われてんじゃん」

ああ、ホントになんでも知っている人だと口角を上げざるを得ない。
まさか情報が洩れているのか、内通者でもいるんじゃないかと疑ってしまうほどだが、所詮は杞憂で妄想だと肩を竦めた。
内通者がいるのなら、とっくに私は死んでいる。


「それでも私は、負けません」
「本気なの?シゲさん」
「本気ですよ、私は、いつでも」

その言葉に、氷の魔女はひとつ息を吐いた。
答えを知っていたような、それでもなお諦めきれないような、複雑な瞳の色を有していた。
その理由はさゆみには分からないし、分かりたくもないけれど。なんだかやっぱり、この人は変わっていると思った。
彼女は「勿体なさすぎるって…」と言葉を漏らしたあと、「ああ、そうそう」とすぐに言葉を紡ぐ。

「ついでに聞きたいんだけどさ」

直後、彼女はすっと右手を挙げた。
なにか来ると直感し、さゆみは慌てて構えた。
案の定、大気がゆっくりと動き出すのを感じる。彼女の右手の中に気が集まりだし、それが確かな形となって表象していく。
それは「あのとき」に見た「物体具象化能力」とは別物だ。これはただの、「氷塊能力」だ。

「キミらはなにを企んでんの?」

言葉の意図をはかりかね、さゆみはじりっと後退する。
なにがですか?と声に出して訊ねはしなかったものの、目がそれを訴えていたのか、彼女は口角を上げて応えた。
手の中に集まった氷塊は、いまにも走り出さんばかりに肥大化していた。

「こっちの“上”の連中がね、妙に気にしてたんだよ。そっちの解体があまりにも演出じみてるってさ」
「……なんのことですか?」
「用意された舞台みたいなもんじゃない?すべてを無に還すように見せて、実際は―――」


瞬間、だった。
バカン!となにかが派手な音を立てた。
魔女は虚を突かれたものの即座に振り返る。
そこには中空に派手に浮かぶマンホールの蓋と、それを握り締めて飛ぶ彼女の姿があった。

「いっけぇえええ!!」

彼女は体を大きく反らすと、まるで円盤投げのようにその蓋を勢い良く魔女へと投げつけた。
咄嗟に手中の氷塊を崩し、全面に広げる。氷の膜を張り、衝撃を受け止める。
マンホールの蓋が派手に氷に激突する。
氷にヒビが入り、ぴしぃっと音を立てる。

崩壊。
派手な音とともに、氷の壁が粉々に散る。
思わずミティは目を腕で覆い、破片から身を護る。
隙間から微かに、彼女が飛び込んでくるのが見えた。
まずいと思い、咄嗟に左手を繰り出すが間に合わない。
彼女の右拳が自らの左肩を抉った。重い、一発だった。思った以上の衝撃に奥歯を噛む。

「……ったいなぁ!」

ミティは強引に彼女の腕を掴み、ぐいっと捻った。
軽い彼女の体は簡単に中空で舞ったが、両脚を回転させて重心を動かし、そのまま魔女の両肩に乗っかった。


交差する手首をそのままに、強引に魔女の腕を持ち上げ、もぎ取ろうとする。
ごきんと肩の骨が鳴った時点で魔女は慌ててその手を離し、氷塊を放出した。
鼻先を掠められた彼女はぐるんと後方に回転し、さゆみの横に着地した。それはさながら、猫のようだった。

一瞬の判断は正解だった。
ぶらりと垂れ下がった肩は、骨が少し外れたらしい。脱臼状態だが、なんとか入れるしかない。
不意を突かれたとはいえ無様だなと魔女はその方向を睨み付けた。

「れいなへったくそー」
「はぁ?」
「なーにが、れなに考えがあるっちゃん!よ。左肩の骨外せただけで全然斃せてないじゃん」
「しょうがないやろ?マンホール結構重くて投げるの必死やったとよ?」
「じゃあ最初からふたりでいけば良かったじゃん。さゆみ超緊張したんですけど」
「さゆがそもそももう少し時間稼いでくれたら、れなやってあいつの顔面グーで殴れたとよ?」
「え、さゆみのせいですか?」
「そうよ」
「そうよってなんよ」

左肩の関節が外れた魔女は、目の前で繰り広げられる光景に目を細めて口角を上げた。
博多弁と山口弁が入り混じる言い合いは、まるで猫のじゃれ合いだ。ああ、やっぱりそういうことかと合点がいき、いまさら驚くことはない。
だからせめて、教えてほしい。教えてほしいんだよ、このお姉さんにさ。


「いつから演技してたんだよ、田中れいな」

声をかけられた彼女―――田中れいなは、口角泡を飛ばすことをやめ、魔女を睨み付けた。
その瞳は真っ直ぐで、だけど左の方が微かに濁っていて、彼女に抉り取られたのは事実のようだと理解する。
れいなはひとつ息を吐くと

「教えてやらん」

そう、応えた。

「さゆとれなの秘密やけん、あんたには教えてやらん」

ばっさりと斬り捨てるその言葉に、思わず喉を鳴らしてしまった。
ホント、何処までも面白い奴らだと、氷の魔女は心底、楽しんでいた。

うん、足掻く奴は、嫌いじゃないよ。





投稿日:2014/07/28(月) 23:23:48.11 0























最終更新:2014年07月29日 16:20